石川さんの文字とはいかなるものか
―新証拠【5・23上申書】から見えてくること
2012年2月25日 吉田健介
(『明日を拓く』94の原稿より)
はじめに
2006年に始まった狭山事件第三次再審請求では、2009年より裁判所と弁護団、検察による三者協議が始まり、弁護側の強い要求によって裁判所も一定の証拠開示勧告を行うことで、一昨年の2010年5月13日、狭山事件では47年ぶりに検察は一部証拠の開示を行った。
これは長年の証拠開示を求める運動の成果であると共に、2009年に始まった裁判員制度に伴って導入された、裁判所と検察、弁護団三者による争点整理のための公判前整理手続きと一定の要件の下での証拠開示の制度化が再審請求審に及ぼした影響でもある。事実他の再審事件でも三者協議や証拠開示が行われ、そのことが「布川事件」の再審無罪や「福井女子中学生殺人事件」の再審開始決定、そして「東電OL殺人事件」や「袴田事件」では裁判所の下でDNA鑑定が行われるなど、再審開始の瀬戸際に検察・裁判所を追い込むことにつながっている。また、この間、「郵便不正事件」など検察の証拠隠しや証拠ねつ造が次々と明らかとなり、捜査側が持つ証拠の全面開示は公正な裁判のためには欠かせないとの認識は常識となって来ている。
狭山事件でも、検察が「積み重ねれば2〜3メートルある」という証拠の全面開示を弁護団も支援者も強く求めてきているところであるが、検察の姿勢は頑なで、2011年3月、さらに12月に渋々一部の証拠開示を行ったが、裁判所の姿勢を眺めながらの小出しの証拠開示に終始している。一刻も早い全面開示に追い込まなければならない。
ところで、2010年5月13日に開示された証拠の中で最も注目されるのが、石川さんが逮捕された1963年5月23日当日に警察署で書いた上申書(【5・23上申書】)である。
狭山事件で直接犯人につながる最も重要な遺留物は被害者の自宅に届けられた【脅迫状】であり、それを石川さんが書いた、つまり同一人の筆跡とする検察側の筆跡鑑定が石川さんを有罪とする重要な証拠とされてきた。これに対し、弁護側は多くの鑑定書や意見書を提出して検察側の鑑定に反論し、脅迫状の筆跡問題は狭山裁判の最大の争点の一つとなってきたことは周知の通りである。ところで、狭山事件の筆跡問題の大きな特徴は、当時文字を書く習慣のなかった石川さんには【脅迫状】と対照されるべき筆跡がほとんどなく、そこで、ほぼ唯一の筆跡とされて鑑定にまわされたのが、逮捕直前の5月21日に自宅で警察の求めによって書かされた上申書(【5・21上申書】)であった。そして、この【5・21上申書】及び以前勤務していた東鳩東京製菓(現東ハト製菓)に残されていた早退届と【脅迫状】についての埼玉県警鑑識課と警視庁科学警察研究所の鑑定によって警察は石川さんの逮捕に踏み切り、また、この鑑定が裁判における石川有罪の証拠とされたのである。

しかし、【脅迫状】と【5・21上申書】を見比べてみれば、誰の目にも違いは明白である。なるほど【脅迫状】にも多くの漢字の間違い(当て字)はあるが、【5・21上申書】は一見してはるかにたどたどしく拙劣である。漢字はほとんど使われておらず、使われても誤字、かなの表記も怪しく、また、句読点はほとんど使われず、運筆はぎこちない。そのため、文字の形状や使用法などを比較対照しての筆跡鑑定の当否だけでなく、そもそも当時の石川さんは【脅迫状】を書くことができたのかという筆記能力、国語能力についても裁判での重要な争点になってきた。弁護側は、差別と貧困の中で十分な教育を受けられず国語力を身につけることができなかった石川さんには【脅迫状】の作成は無理であることを主張してきた。これに対し、検察は雑誌『りぼん』を手本に漢字を抜き出して書いたと主張し、裁判所もそれを追認してきた。さらに、再審請求審では裁判所は、起訴後に拘置所で書かれた同年の9月6日付けの関巡査宛の手紙をも持ち出して、石川さんはもともと【脅迫状】程度は書けたのだ、【5・21上申書】が稚拙なのは「その書く環境、書き手の立場、心理状態等に多分に影響」された結果だとして、弁護側の主張を退けてきた。しかし、そもそも看守の手助けを得て書いた9月6日付けの関巡査宛の手紙が【脅迫状】程度の筆記能力を持ち得ていることを表しているかも疑問であるが、それとともに、石川さんが逮捕後取調の中で多量の図面とそれに付随する文字(【図面文字】)を書かされ、また、【脅迫状】の写しや被害者宅への詫び状等の文章を書かされる中で、つまり、それまで経験したことのない大量の、しかも取調官に指導された筆記体験の中で一定の筆記力を身につけた後の筆跡であり、この過程を無視して事件当時の石川さんの筆記能力を云々することは不当な判断と言わざるをえない。つまり、事件当時あるいは逮捕当時の石川さんの文字表記と筆記力を示すほとんど唯一の筆跡は、それも警察官の教示に依って書かされたものとは言え、【5・21上申書】のみであった。そこに現れたのが、47年間隠されていた【5・23上申書】である。この上申書によって改めて事件当時の石川さんの文字と筆記力を確認し、果たして【脅迫状】は石川さんが書いたものなのか、書くことができたのかを問うことができる。弁護団も早速、【脅迫状】と【5・23上申書】は異筆であるとする鑑定書を新証拠として東京高裁に提出している。
本稿は、改めてこの【5・23上申書】を見直し、当時の石川さんの筆記の特徴を考えたものである。ただし、筆者は言語学や日本語学、音韻論にはまったくの素人で、明確な概念規定もせずに使用する用語はおそらく極めて不適切であろう。本稿での音韻の表記も便宜的にカタカナやローマ字を使用するが、あくまでも自己流であることを容赦していただきたい。
1、【5・23上申書】とはどのような文書か
1964年5月23日の早朝石川一雄さんは自宅で別件を事由に逮捕され、その後連行された狭山警察署で取調が始まり、その日の内に経歴や家族についての形式的な供述調書が一通作成されている。ところが、それとともに取調で本件を否認するその供述を調書に採るではなく、わざわざ「上申書」という形で自筆の文書を書かせていた。それが明らかになった。何のために書かせたかは明白だろう。
警察は【5・21上申書】と【脅迫状】とが同筆との警察鑑識課の筆跡鑑定(中間報告)を受けて逮捕に踏み切った。しかし、どう見てもこの両者が同一の筆跡とは、取調官といえどもとても確信はもてなかったのだろう。そこで、改めて筆跡を採って裏付けを得ようとした。それが【5・23上申書】である。ところが警察にとってもショックであっただろう。見ていただきたい。【5・21上申書】以上にたどたどしく、そして書けない。【5・23上申書】は鑑定にまわされることなく、秘匿された。

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上申書 狭山市入間川二九08
土工 石川一夫 24才
いまわたくしにをたずねの五月1日のばんの
ほりがねのなかだいさくさんのところにいてかみを
もでいてをどかしむすめのいのちがほしければ
かねを20まいんお女のひとにもたして五月二日
のごご12時2さのや門のまいまでとどけろといて
きんに10まんいをとりそこねたことわわたくし
のやたことでわありません
五月203にち
石川一夫
狭山けエさツしちよんどの
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この上申書は確かに犯行を否認しているが、それは否認する石川さんが自分の思いを自ら書いたものではない。文章と文体を見ていただきたい。「いまわたくしにをたずねの…」と始まる全体が一つの文章、「をたずねの」に示される相手(取調官)に対する敬意表現、「いのちがほしければ…」などの文語的表現(話し言葉ならば【脅迫状】のように「…がほ知か(っ)たら…」となるであろう)等々。これは上申書の定型化された文体であり、しかもある程度格式ばった表現である。取調官にいくら促されても、書く習慣のなかった石川さんは自ら書こうとしなっただろうし、また、こうした文章は書けなかっただろう。結局、この文章は犯行を否認する石川さんの供述を基にした取調官の口述であり、それを石川さんがそのまま書き写した(させられた)ものと考えざるをえない。
2、音をそのまま表記した石川さんの文字
【5・23上申書】は【5・21上申書】と同様に、なるほど当時の石川さんが文字を十分に書けないことを示している。上申書の本文では、漢字は【脅迫状】に使われている「命」や「万円」を含めてほとんど使われていない。句読点は皆無である。文字は折釘形の一字一字に力の入ったぎこちない形をしている。そして、文章のほとんどは「かな(カナ)」を使って記されているが、「お」と助詞の「を」、助詞の「は」と「わ」、助詞の「へ」の使用法や促音、拗音などの書字のしきたり(規則)は身につけていない。
ところで、その中でも気になる(読んで引っかかる)特異な表記がある。
「ごご12時2さのや門」
「きんに10まんい」
石川さんは「…に」と書くことができるのに「…2」と書き、「20」と言う文字を知っているのに「に10」と書いた。
私たちは通常ことばを話し聞き、あるいは書き読む時に、意識は〈ことば〉にはなく、伝えようとする〈意味〉に向かう。意味の前でことばの音や文字はいわば透明になっている。正しくは〈ことば〉と意味は一体で本来は引き離すことはできない。ところが意味と分離してその音や文字が意識の前面に現れるのは、例えば外国語や聞き慣れない方言を聞き取ろうと耳をそばだて、外国の文字や流暢な手書き文字を読み取ろうと目をこらし、あるいはうまく表現できずにことばに詰まった時である。つまり意味伝達ということばとしての本来の機能に欠陥を持った時である。
もちろん石川さんは常日頃、家族や仲間とおしゃべりをし、コミュニケーションをとって日常生活を送ってきた。話しことばは地域の人々と共有し、ラジオ、テレビの日本語を理解してきた。ところが、文字と書かれたことばに対面すると、文字と意味の乖離が始まる。読めない難しい漢字が多用された文章では(誰にとってもそうだが)、もはや〈ことば〉の意味は存在せずにある形象、模様でしかない。しかし、それでも石川さんは小学校低学年の学習や住み込みで働いた遠縁の靴屋での文字の勉強、あるいは仕事や生活の必要から、かな(カナ)と簡単な漢字の読み書きはできた。では、そこでの読み書きできるかな(カナ)とはどのような文字であったのだろうか。推測するに、それはまさに表音文字としてのかな(カナ)、石川さんが話し聞くところの話されたことば(口頭語)の音を表すことができる、だから書ける、そうした文字ではなかったのか。
逮捕当日、石川さんの否認をもとに取調官が語ることばを文字に書くよう求められた石川さんは、神経を集中してそのことばの音を書き写そうとした。そこではことばの意味は音から離れがちになる。石川さんは「かねを20まいん(万円)」と書き、意味も十分理解できた。ところが「きんに10まんい」では、「金○万円」という慣れない表現にも依ると考えられるが、少なくとも石川さんの意識にはあのお札のかたまりはなく、音の[ニ]を「に」と表し、あわてて数字の「10」を書き足しているように思われる。つまり、当時の石川さんのかな(カナ)を中心とする筆記は、多かれ少なかれ口頭語(話されたことば)の音を文字に移し替える作業であったのではないか。
確かに当時の石川さんは正しく、つまり日本語の使用法に則っては、十分に書くことはできなかった。しかし、その書字はでたらめではない。話しことばの音をかな(カナ)文字に移す作業と考えると、彼の独特の書字も理解できるのではないかと思われる。以下、【5・23上申書】を中心に事件当時の筆記である【5・21上申書】や取調初期の【図面文字】から、その書字の特徴と意味を考えてみたいと思う。
3、石川さんの表記の特徴の分析
(1) 助詞「は」、「を」、「へ」の使用
助詞の「は」、「を」、「へ」の書字法を当時の石川さんは確かに身につけていない。「…は」と書くべきところを【5・21上申書】でも【5・23上申書】でも、すべて「…わ」と記している。「を」に関しては、逆に「お」と書くべきところでも一貫して「を」と書字している。「…へ」については【5・21上申書】に「のんちエ」(のうちへ)「どこエも」との表記が、【5・23上申書】では「ところいてかみを」(ところへてがみを)と書かれ、助詞の「へ」を「エ」あるいは「い」と記している。しかし、これら助詞の表記は日本語の書字法の決まり事であって、現在の実際の発声の場ではそれぞれ助詞の「…は」は「わ」と同じく[wa]、「お」と「を」は[o],助詞の「…へ」は[e]と発音し弁別されない(次にのべるように[e]と[i]音は混同する)。音をかな(カナ)文字に写す石川さんにとって、これらの音を「わ」「を」「エ」(「い」)と書き記すことは決して不自然なことではない。(逆に、助詞「…は」と「わ」のややこしい使用法をやや知っているが故に、【5・21上申書】中の「はたくしわ」の逆転した表現が生まれたか。また、【5・23上申書】中「かねを20まいんお女のひとに」の「お」は助詞の「を」か、あるいは「お女」で「おんな」と記したかは不明である。)
(2)
[e]音と[i]音の混同
【5・23上申書】では「ところい(へ)」「さのや門のまい(え)」「20まいん(まんえん)」「に10まんい(まんえん)」と、「え(へ)」と書くべきところ、「い」と表記しているが、これは[e]ではなく[i]と発音し、表記していると捉えるべきではないだろう。東北から関東では子音と結合せずに母音単独で発音される場合には[e]と[i]は区別されず発音される傾向が強い。当時の石川さんは「え」の表記の習慣がなくカタカナの「エ」と記していたが、5月24日付図面文字には「かわごい(え)」、5月25日の家への言付けには「あんちゃんのととりかい(え)てください」とあるように、石川さんは弁別しにくいこの音を「エ」または「い」と表記している。
勿論、[e]音と[i]音が常に混同しているわけではない。【5・23上申書】の「いまわたくしに」や5月24日付図面文字には「エきどんり(えきどおり)」のように冒頭の音として協調されるときにはしっかりと区別されている。また、実際の発音では[e]が長母音となる「狭山けエさつしちよんどの」の[ケーサツ]でも「エ」と表記している。(【5・21上申書】では「けいさツしよちようどの」と記されているが、後に述べる拗音の書字ができていることから見ても、この上申書の方が警察官の指導、指示、お手本による教示が強い。)
ところで、私たちは一般に「警察」は当然「けいさつ」とかなを振る。しかし、実際には「ケイサツ」ではなく「ケーサツ」と発音しているのではないだろうか。それなのになぜ「けいさつ」と書くかと言えば、教育の中で漢字を学び、「警」は「けい」とかなをふるものと刻み込まれているからである。漢字を学ばず、ことばの音をかな文字で表そうとした石川さんにとって「けエさつ」は当然の表現であった。
(3) 促音の表記
【5・23上申書】では、「てかみをもでいて(てがみをもっていって)」、「とどけろといて(とどけろといって)」、「わたくしのやたこと(わたくしのやった)」のように促音の表記は全く見られない。確かに【5・21上申書】には「にさの六造といツしょに」の表記があり、【脅迫状】のカタカナ表記の「ツ」と同一として検察側筆跡鑑定で特異な特徴とされたものであるが、むしろ重要なのは【脅迫状】は促音表記が多用されているのに対し、当時の石川さんには安定した促音表記はほとんど見られないと言うことである。なるほど【5・21上申書】の他にも5・24付図面文字に「もツてきた」、5・27付図面文字に「をとツさん」と見られるが、5・24付の図面文字には「ぶんなぐた(ぶんなぐった)ところ」、5・25には「コるふばくねと(ゴルフバックネット)」、5・31付けの図面文字にも「ざいもくのあた(ざいもくのあった)ところ」とあり、【5・23上申書】に全くないことから見ると、促音表記はむしろ例外的であったと考えるべきであろう。事実、図面文字など取調官の指導下で多くの文字を書き、撥音や拗音の筆記がかなり安定した、自白に追い込まれた6月末の図面文字にも「やまがこを(やまがっこう)」「があこう(がっこう)」とあり、促音「っ」の表記が安定するのは10月26日付の関源三宛手紙の頃からとなる。


ところで、促音「っ」の表記を私たち(の多く)は当然のように使っているが、振り返って考えると、私たちは果たして「ッ」と発音しているだろうか。英語goodは今や日本語ではカタカナで「グッド」と記し、backを「バック」、netを「ネット」と書いているが、英語の発音記号ではそれぞれ[gud][bæk][net]であって、「ッ」はない。つまり、促音は当然のことながら日本語表記の決まり事であって、音をそのまま表したものではない。促音の発音の中に[t]音も[ts]音も存在しない。したがって、[学校]の音を「がこを」「があこう」と記しても、音を表すことにおいては決して不自然ではなくむしろ妥当な表記と言えるのではないか。
また、促音では次の音にも強調があることから濁音と混同されやすい。【5・23上申書】にある「てかみをもでいて」の表記は、これは「もって」の促音が濁音にかわって「もで」の表現になったと考えられる。【5・21上申書】にも「どこエもエでません」の表記が見られる。これは「どこへも出ません」のことならば2番目の「エ」が誤記されたとも考えられるが、しかし、「どこへもいってません」と記そうとしたならば、「エ」は[e]と[i]音の混同であり、濁音[で]は促音が濁音に混同されたと考えられる。
(4) 拗音の表記
促音と同様に日本語の表記の決まり事に拗音がある。なるほど当時の石川さんはこの拗音表記が身についておらず、そのため欠落する。【5・23上申書】では「(警察)しょちょう」の「ょ」が欠落し、「けエさつしちよん」となる。こうした例は図面文字等では多数見られる。「をかちん」(おかあちゃん)(5・25家への言付け)、「あんちん」(あんちゃん)、「じどんし」(じどうしゃ)、「ばしん」(ばしょ)。ところが、自白後の6月後半の図面文字になると、「じでんしや」、「じどをしや」「ちゃのき」「しゅりこをじを」(しゅうりこうじょう)「じゃべる」などの表記が見られ、拗音の表記が進む。取調官の教えの下の筆記経験の成果と言えるだろう。(ただし、【5・21上申書】では「いツしよに」「きんじよ」の表記がある。警官の教示によるものか。)
(5) 撥音の表記
撥音表記(「ん」)については、「う」[u]としばしば混同され、[u]音は「ん」と記される。【5・23上申書】では「しょちょう」は「しちよん」となり、【5・21上申書】では「(水村しげさん)のうちえ(へ)」は「のんちエ」となる。5・24図面文字でも「たかはしのうち」は「たかはしのんち」、「じどうしゃ」は「じどんし」、5・31図面文字には「まちだのんち」との表記が見られる。5・24日の図面文字に見られる「エきどんり」も「えきどおり」のことだが実際には[エキドーリ]または[エキドウリ(douri)]と発音される。この場合も[u]音が「ん」と表記されている。なぜ、このような混同が起こるのかと言えば、撥音(n)が子音であって直前の母音に付いて音節を形成するという日本語では特異な音であって、そのためこの音の表記「ん」は[ウン・un]と呼ぶ慣わしになっていることによると思われる。つまり、当時の石川さんは「ん」を[ウン]と呼ぶが故に、「う」と書くべきところしばしば「ん」と書いたのではないか。
また、母音の後について音節をつくる[n]音は表記から脱落しやすい。【5・23上申書】では「20まいん」(20まんえん)、「に10まんい」と欠落し、【5・21上申書】でも「にさの」(にいさんの)、5・24図面文字では「よりしや」(よんりんしゃ)となる。
(6) 母音が連続する場合の欠落
【5・23上申書】では「なかだいさくさん」(えいさくさん)のように[ei]が[i]に、【5・21上申書】では「にさの」(にいさんの)([nii]→[ni])、「なしに」(なおしに)(naosi→nasi)のように、母音が連続する場合に一方の表記が落ちる。「栄作」や「兄さん」「直しに」のように漢字に引っ張られず、音をそのまま表記する場合にはしばしば起こることである。
図面文字でも「かんこばす」([kankoubasu]→[kankobasu])(5・24)、「せぶエん」([seibuen] →[sebuen])(5・25)が見られる
4、まとめ(脅迫状との比較)
確かに事件当時の石川さんは書けなかった。漢字はほんの僅かしか知らなかったし、何とか読み書きのできたかな(カナ)文字もぎこちなく、時に間違うこともあった。そして、何よりも日本語の書字法、決まり事が身についていなかった。漢字を知らなくても話すことができて、かな(カナ)が読み書きできるならば、日本語が書けるだろうと言うのは、書ける人の偏見、思い上がりである。文章構成力などは言うに及ばず、日本語の書字法に限っても、幼い時からの学校教育を中心とした学習、訓練で身につけてきたものである。先に述べてきたように、助詞の「は」「を」「へ」の表記法、促音や撥音、拗音などの書字法は話されたことばの音を自然に表したものでは決してなく、日本語独自の作られた決まり事、慣わしであって、学習で身につける以外にない。
基礎教育も十分に受けられなかった当時の石川さんはこのような書字法を習得できておらず、そのため正しく書くことはできなかった。しかし、知っている表音文字としてのかな(カナ)を使って話されたことばを書き表すことはできた。そこでは、日本語の書字法を外れた、なるほど正しくない表記ではあるが、見方を変えれば、ことばの音を文字に移し替えた自然な表記と見ることもできる。47年目に現れた【5・23上申書】はこのような石川さんの、劣った筆記能力と言うより、むしろ筆記の特徴をよく表した文章と言える。
ところで、書ける人は殊更意識せずに言わば自然と書字法に則った文章を書く。それが日本語を身につけたと言うことなのだ。身につけ、自然となったものを脱ぐのは難しい。よほど意図的にやっても、身についたものの残滓は残る。言葉を換えれば、書ける人は当時の石川さんの様には書けない。どうしても身についた書字法がぼろとなって出てしまう。
警察・検察側の鑑定で石川さんと同一の筆跡とされた【脅迫状】を見てみよう。たしかに、助詞の「へ」と書くべきところを「江」、「は」と書くべきところを「わ」と表記している。
「子供わ西武園の池の中」
「そこ江いツてみろ」
「子供わ一時間後に」
「こどもわころしてヤる」
ところが、一ヵ所「子供は死」と石川さんの上申書には見られない正しい表記が顔を出す。
促音の表記は確かにしばしば欠けている。しかし、「ツツんでこい」を除いて、7カ所の「ツ」はすべて促音「っ」を表している。
「女の人がもツて」
「車出いツた友だち」
「か江て気名かツたら」
「そこ江いツてみろ」
「車出いツた友だち」
「かえツて気たら」
「金をとりにいツて」
促音の表記がまったく見られない【5・23上申書】当時の石川さんとは異なり、この【脅迫状】の筆者は促音表記を身につけている。また、拗音についても「気んじょの人にもはなすな」と正しく記されている。
一方、石川さんに見られることばの音をそのままかな(カナ)文字に表した時の特徴についてはどうであろうか。
[e]音と[i]音の混同による表記の混乱は見られない。(ただし、「命がないとおもい。―」は「…ないとおもえ。」と読むこともできる。) 促音と濁音の混合(【上申書】にある「もでいて(もっていって)」、「エでません(いってません)」)もない。石川さんの[u]音に「ん」字をあてる特徴や撥音「ん」のしばしばの欠落も見られない。また、母音の連続する場合の一方の欠落もない。
【脅迫状】の筆者は日本語の書字法を基本的には習得している。漢字の当て字、カナ文字混じり、「お」と「を」の誤用等、正しく書けないことを装っても身についた書き方は出てしまうし、石川さんのようには書くことができない。あらためて、【脅迫状】の筆者は石川さんではあり得ず、そのことを【5・23上申書】は明らかに示していると言えるであろう。
※本稿は2011年9月11日の神奈川県平塚市での東日本部落解放研究所研究者集会・狭山部会での報告に加筆修正したものである。
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