「時間つぶし」の生贄





■「時間つぶし」の人生

 筆者以前、「時間つぶし」に関する一文を記したことがある(平成18(2006)年 2月26日)。そこから既に 2年以上の時が経った。そのぶん人生の涯に近づいたわけだが、齢を重ねてくると、人間は時間つぶしのために生きているのではないか、と虚無的で屈折した思いを抱いてしまうこともある。もっとも、人生には意味も意義もあると、すぐ思い直すのも常なのだが。

たま駅長


 ところで筆者は仕事柄、マスコミの方々と接する機会がたまにある。その数少ない経験から敷衍するのは危険だとしても、彼らは一様に「ネタ」に飢えていることは感じられた。特に切実なのは、地方紙の記者と、TVの地方局である。平和で変化の少ない地方の日常から、ニュースたりうる素材を見出す努力は、第三者的立場から見る限り、なかなか辛いものがあると思われる。

 余談ながら筆者は、最前線にいる記者の苦しみを知って以来、コンテンツの質に関してマスコミに期待するのは無理だ、と諦めている。如何に紙面を埋めるか、あるいは番組の時間をもたせるか、という基礎の基礎部分で苦しみがあるならば、良質なコンテンツなど望むべくもないだろう。なにもかもが「ワイドショー化」していくのも必然で、ただ時間をつぶすことじたいが目的となってしまい、くだらない内容に収斂していかざるをえない。

たま駅長


 それゆえ最前線の記者は、誰もが振り返るであろう「ネタ」にすぐ飛びつく。いわゆる過熱取材にまで発展するのは必然の帰結で、数少ない資源を多くの記者が争奪するならば、競争はどうしても苛烈になる。例えばある大事故で、被害者入院先の枕頭にまでカメラが入り、全国放送されたこともあった。上司からの指導がなくとも、後から行き過ぎと批判されようとも、「ネタ」に飢える環境がある限り、最前線の記者は似たような条件反射を繰り返すカルマを背負っているといえる。





■まさに「ネタ」──たま駅長

 以上まで記してきた観点からすれば、マスコミが和歌山電鐵のたま駅長に鋭く反応したのは、当然すぎるほど当然の展開といえよう。三毛猫が駅長を務めるという意外性(辞令まで出ている!)に加え、もともと動物は読者・視聴者の好感を呼びやすい対象である。数々の取材が集中し、新聞の紙面を埋めて、TVで全国放送もされたというのは、よほど筋の良い「ネタ」とみなされた証であろう。

ミーコ助役


 野良になりかけた三毛猫に駅長を依命した和歌山電鐵の慧眼たるやおそるべし、である。否、和歌山電鐵の当事者にしても、たま駅長がこれほど大当たりするとは予想外だったと思われる。たま駅長はもはや、日本で最も高名な猫の一匹であろう。マスコミを通じ全国に知れ渡ったのみならず、全国から「たま講」信者が参拝にやってきて、観光資源らしきものがなにもない駅が混みあう様子は、微笑ましいと見るべきか、異様と評すべきなのか。

 和歌山電鐵は、ともあれ「成功」した。地味なローカル鉄道での出来事を全国ネットに乗せ知名度を上げ、普通(定期外)利用者数を急伸させた。南海電鉄貴志川線を継承した経営再建はまだ途上と呼ぶべき段階だが、経営再建に向けた足場は確かに構築した。

和歌山たま講


 和歌山電鐵が打った手はたま駅長だけではない。いちご電車・おもちゃ電車など、話題性を追求する素材は他にもある。ただし、電車の改造だけでは一過性の話題で終わったに違いない。三毛猫を前面に出すことにより、継続的な「ネタ」を提供したことは、後知恵の結果論ながら卓越した戦術であった。

 そして、読者・視聴者及び「たま講」参拝者にとっては、「時間つぶし」をするに好適な「ネタ」が手に入ったというわけだ。退屈な日常の無聊を慰め、平坦な毎日に快い変化を与えるためには、動物はまさに恰好の「ネタ」となる。たま駅長に飛びついたのは確かにマスコミであったが、マスコミは人々の「時間つぶし」希求に順ったにすぎない。かくして「時間つぶし」は無限に連鎖する。

たま駅長


 一将功成って万骨枯る、との古諺どおり、たま駅長は明らかに疲弊している。だからといって、彼女が気の毒だ、と指弾する意志はない。駅長を拝命したのは、なるほど彼女にとって迷惑な不幸であったかもしれない。しかしながら、彼女の不幸を犠牲にすることで、和歌山電鐵の経営は確実に好転した。彼女が「時間つぶし」の素材となることにより、世の多くの人々がささやかな幸福を感じた。

 たま駅長は人間社会の生贄に等しい。筆者には、それを悪業だ、と批判することはできない。三毛猫の膏血を搾り取り人間社会を円滑に動かすとは、美しくない姿ではあるものの、人間は所詮、他の生命を糧として生きる動物なのである。批判をしたところで、天に唾というものではなかろうか。

 ……もっとも、このような書き方で締め括っては、それこそたま駅長は浮かばれない。和歌山電鐵に関する分析は、いずれ機会を改めて。再見。





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