モーダルシフトはなぜ進まないのか?
まずはこの写真を御覧頂きたい。肥薩線の大畑ループで D51重連が混合列車を牽引する様子で、撮影時期はおそらく昭和40年代の前半と思われる。蒸気機関車が活躍する時代を記録するのみならず、当時の列車編成を知るうえでも貴重な写真である。

肥薩線大畑ループにて混合列車を牽引する D51重連
こどもの頃に父の知人(御尊名は失念)から頂戴したもの
面白いのは、客車が1両しか連結されていない点である。足の遅い混合列車であることからローカル普通列車と想定されるが、当時から既に客車1両で間に合う程度の需要しかなかったわけで、もともとの需要の細さが読みとれる。
さて、本題。客車に続く貨車の組成は、写真から推測する限りでは、以下のように読みとれる。
本務機 − 客車×1 − 有蓋車×3 − 無蓋車×2 − 石炭車×1
− 有蓋車×4 − 無蓋車(推測)×1 − 有蓋車×1 − 緩急車×1 − 後補機
短い列車編成である割には、なんともバリエーションに富んだ構成でおり、模型の世界のように見えなくもない。しかし、当時はこのような列車が当たり前であったのだろう。
貨車の内容は空車回送の可能性も実はかなり高いが、ここではいちおう全て実車と仮定すると、貨車13両の荷主は少なくとも 6名(社)あると考えられる。同じ荷主が有蓋車と無蓋車に分け荷を発送する状況は想定しにくいし、操車場で複雑に組成されるとはいえ、同じ荷主から発送された貨車がバラバラに組みこまれる事態も想定しにくいからである。
さらにいえば、石炭車と後部の無蓋車では、一荷主が貨車一両を使っているはずである。列車全体で平均しても、一荷主の使う貨車は二両程度かそれ以下ということになる。これはあくまでも肥薩線の状況にすぎないかもしれないが、おそらく全国的に見ても、一荷主の発送する貨物は貨車数両程度の小口需要が中心と考えられよう。
次にこのグラフを御覧頂こう。交通機関毎の貨物輸送実績(トンキロベース)を、終戦直後の昭和21(1946)年度から、国鉄分割民営化直前の昭和60(1985)年度までまとめたものである。

交通機関毎の貨物輸送実績(トンキロ)……「鉄道貨物輸送と停車場」(上楽隆)に記載されたデータより作成
年を追うにつれて、内航海運そして自動車(トラック)輸送が急伸している状況が読みとれる。この両者に比べ、鉄道(国鉄)の輸送実績は伸びが鈍く、シェアは連年低下していったことはよく知られている。しかし実は、鉄道のトンキロベースでの輸送実績は昭和45(1970)年度まで伸び続けていたという事実は、あまり知られていない。
鉄道貨物はトラック輸送に食われ衰退したという見方は、決して正しくない。トラック輸送は自らの特性に基づき新しい需要を開拓し、その結果として鉄道のシェアは下がっていったというのが実相であろう。
なぜ、昭和46(1976)年度以降、鉄道貨物の輸送実績はつるべ落としに落ちていったのだろうか。この点については、いま少し詳細な分析が必要である。
国鉄が単年度赤字になったのは昭和39(1964)年度、この年に東海道新幹線が開業していることから、歴史の皮肉といわれることもある。国鉄に大きな赤字が生じた原因は今日に至っても必ずしも明確にされてはいないものの、主な要因の一つに貨物輸送の非効率を挙げることができる。
当時の貨物輸送は、おおよそ以下のような体制であった。
a)各駅を窓口として荷物を受ける
b)フィーダー列車により各駅から操車場まで貨車を運ぶ
c)操車場で貨車を入れ換えて列車編成を仕立てる
d)列車は次の操車場まで貨車を運ぶ
e)操車場で貨車を入れ換えて列車編成を仕立てる
:
x)操車場で貨車を入れ換えてフィーダー列車編成を仕立てる
y)フィーダー列車により操車場から各駅まで貨車を運ぶ
z)各駅を窓口として荷物を渡す
荷物を運ぶ距離にもよるが、途中で繰り返し操車場での入換作業があることがネックで、供給側にとっては入換作業の多さが非効率(高コスト要因)であることは明らかだった。荷主にとっても、目的地に到着する期日が読めず、荷痛みしやすいという問題があった。
以上のような問題を踏まえ、昭和30年代後半から40年代にかけて、貨物輸送の近代化と合理化が精力的に行われた。その主眼点は、
1)拠点駅間直行列車の設定
2)操車場設備の増強と近代化(特に入換作業)
3)大都市圏における貨客分離
4)新型機関車・貨車の投入
5)荷姿の統一=コンテナ輸送化
6)貨物取扱駅の集約
などである。いずれも当時としては必要な施策であったと理解できる。しかしながら、後知恵の結果論であるが、これらの施策そのものが鉄道貨物の需要の裾野を大幅に狭めることになった観は否めない。特に6)は、1)2)とあわせて、貨物輸送合理化のためには必要不可欠とされる施策だが、実態としては「顧客逸走」の危険を孕むものではなかったか。
鉄道貨物においては、(一部の大口荷主を除き)ドア・ツー・ドアの輸送体系になっていない。荷主が荷物を駅に持ちこむ手間をかけて、初めて「輸送」がスタートする。そのような輸送体系であるにもかかわらず、貨物取扱駅を集約し、即ち荷物の受け渡しを拠点駅(主に貨物ターミナル)に統合してしまっては、多くの小口荷主にとっては持ちこみの手間、そしてコストがかさむ結果にならざるをえない。
貨車一両単位で荷を出す荷主にとって、この手間とコストは無視できない。例えば鴻巣あたりから出荷する荷主が、新座ないしは越谷まで自力で荷を持ちこむことを求められたならば、もう鉄道貨物には頼れないと嫌気するようになったのではないか。
データの裏づけがないため推測になるが、貨物取扱駅の集約によって、荷主の数はまさに櫛の歯が引くように少なくなっていったはずである。それでも昭和45年度まで輸送実績が伸び続けたというのは、高度経済成長の地力と呼ぶべきであり、荷主の数が減る率よりも、残った荷主の出す荷の伸び率が上回った結果と推測される。
しかしながら、着々と進む貨物取扱駅の集約は、決定的な「鉄道貨物離れ」を惹起した。昭和46(1971)年度以降の急速な落ちこみは、多数の荷主が逸走したことでしか説明できないところだ(※)。今日では鉄道貨物輸送量はさらに落ちこんでおり、輸送距離がおよそ 700kmを超える区間以外では、自動車輸送に対する競争力を持たないともいわれている。
※:このほかにも、産業構造の変化によって、石炭・木材など材料系の大口荷主がまるごと消えた影響も大きい。
環境負荷抑制という問題意識は全世界的に共有されているものであり、日本においてもさまざまな取り組みがなされている。貨物輸送においてはモーダルシフト、即ち環境負荷が大きい自動車輸送から、環境負荷がより少ない鉄道輸送へのシフトが必要とされている。しかし、具体的な成果が上がっているとはいいがたい。
なぜか。
線路容量に余裕がなくニーズにかなうダイヤを設定しにくいなど、テクニカルな問題も確かにいくつか存在する。しかし、根本的な問題は、「荷主」の立場になればより明瞭に見えてくる。
最大多数の「荷主」とは、貨車一両単位の荷を出す小口荷主であろう。これら小口荷主にとっては、拠点駅まで荷を持ちこまなければならない鉄道貨物よりも、自社の敷地まで乗りこんでくるトラック業者に依頼する方が、はるかに楽で手軽である。しかもトラックにはダイヤがなく、求めに応じて何時でも出発できる。鉄道貨物は大量輸送に適合するがゆえに、小口荷主のニーズに必ずしも対応しきれない側面があるともいえる。
より最大多数の「荷主」とは、段ボール一箱ぶん程度の荷物を送りたいという「超小口荷主」であろう。これら「超小口荷主」にとっては、例えば近所のコンビニまで荷を持ちこみ、宅配便に託すだけで、基本的に輸送は完結する。相手の玄関まで段ボール箱が届くならば、輸送手段は鉄道でも自動車でも航空でも、極端な話「飛脚」や「伝書鳩」の類であっても、荷主にとってはまったく関係ない。
今日の鉄道貨物における「大口荷主」には、通運・宅配便業者が多いといわれている。通運・宅配便業者が小口・超小口荷主の需要を集約して、地域間を結ぶ輸送手段の一部に鉄道を充てているという。これらの業者は、災害発生時のリダンダンシー確保などの観点から、地域間輸送は船舶やトラックなどにも分散させ、ポートフォリオ理論を実践する形になっているとされている。鉄道利用にメリットがあっても、鉄道に全面依存することはないのだから、鉄道にとっては厳しいところだ。
このことを裏返していえば、通運・宅配便業者との密接かつ強固な連携なくして、鉄道貨物の発展はありえないのではないか。連携はコンテナ化と、その多機能化により静かに進んでいるが、今日ではもはやインパクトに欠ける。佐川急便と連携したスーパーレールカーゴは、最新の大きな成功例といえるが、第二弾以降が続く気配がない。ピギーバック輸送のように、特殊サイズのトラックでなければ載せられなかったため、車両更新できずあっけなく消滅した輸送形態もあるので、今後の動向にはなお注目する必要があるだろう。
モーダルシフトの理念が如何に正しくとも、鉄道貨物が小口荷主のニーズに応じられる輸送体系を構築できない限り、モーダルシフトは決して進まない。交通システムにおいて「小が大を兼ねる」ことはあっても、「大が小を兼ねる」ことは難しい。この本質をどう克服するか。鉄道貨物が超えるべきハードルは極めて高いといわざるをえない。

東北貨物線でコンテナ列車を牽引する「金太郎」ことEH500
たとえ最新の技術を導入しようとも、小口荷主の需要が集約されない限り、鉄道貨物へのモーダルシフトは成り立たない。