「動く電車の博物館」と形容するべからず





 先日住吉大社にお参りに行った際、思わず言葉を失いかけてしまった。阪堺電軌の線路上を、日本の鉄軌道車両のなかでも現役最古級のモ 161型どうしが行き違っていたからだ。そのような光景を見てうれしさを覚えるには、筆者は経験を重ねすぎてしまった。なぜに、かくも旧い車両を使い倒しているのか。モ 161型といえば筆者の父と近い世代、満州事変(昭和 6(1931)年)の頃には大阪市内を走り回っていた超古参車両ではないか。古稀をとっくに過ぎ、もはや喜寿という旧さである。

阪堺165
阪堺電気軌道モ165。 日本の鉄軌道で現役最古級の車両である。
住吉公園にて、平成19(2007)年撮影。

 その一方、会社側の立場に立てば、松がとれたばかりとはいえ、まだまだ参拝客が多い時期ではあり、ボギー車最大級の輸送力を備えるモ 161型を活用したいという発想があることは、いちおう理解できる。冷房がない車両ゆえ夏場は使えないから、冬場に働かせて、その間新しい車両を休ませたい、という発想があることも、いちおう理解はできる。

 とはいえ、それはあくまでも会社の都合にすぎない。利用者の身になってみれば、新年早々こんなオンボロ車両に乗せられて、うれしいはずがなかろう。オンボロ車両に乗ったことで、新年の前途に不吉な影を感じたとしても、決して不思議ではないほどだ。

琴電23  琴電120
高松琴平電気鉄道23(左)と 120(右)。一応現役からは退き、動態保存車ではあるが……。
リンク先 KAZ様が仏生山にて、平成20(2008)年撮影。

 その数日前、エル・アルコン様と KAZ様に同道して、高松に行く機会があった。その時の第一印象は、記事としてまとまらないのでここでは敢えて記さない。しかし、仏生山の車庫まで足を伸ばした際の感想は、冒頭の思いと共通するので、記しておきたい。

 率直にいって、ここまで旧い車両がつい最近まで現役だった、という事実に驚愕を禁じえなかった。大正末期から昭和初期に製造された車両という来歴だけではない。外観から判断できる限りにおいて、簡素な鋼製台枠の上に木造車体を乗せ、さらに鋼板を巻き補強更新した車両全体の老朽劣化は、あまりにも顕著ではないか。このような超老朽車を営業運転に充てていたというセンスには、怒りに近い感情さえ覚えたほどだ。

琴電750
高松琴平電気鉄道760。 蔵王高速電鉄(注文流れ)→玉野市→高松琴平電鉄→玉野市で保存、という数奇な道を歩んだ車両。
リンク先 KAZ様が、平成17(2005)年撮影。

 阪堺にしても琴電にしても、会社側には相応の理由と事情があるのかもしれない。これを正当に評価するには、正負両方の材料を吟味のうえで、判断しなければなるまい。とはいえ、超老朽車がつい最近まで(あるいは今もなお)営業運転に就いていたという事実は、利用者からすれば許容しがたい。そして、この一点のみにかけては、現時点でもすぐ即断可能なのである。

 問題はむしろ、我々第三者の側にある。老朽車両や雑多な車両群が運行されている状態を「動く電車の博物館」と形容することがままあるが、かくも曖昧で文学的修辞をもって、現状を晦ませてはいけない。一般的な感覚を持つ利用者からすれば「動く電車の博物館」とは、新しい車両がないという意味を含む蔑称にすぎないのだ。ところが、趣味的感覚では礼賛や尊崇のトーンが含まれる傾向がある。上に掲げた琴電 750でいえば、「数奇」な履歴を有する車両を「崇貴」なものとして扱いかねない危うさが、趣味的感覚にはある。

名鉄モ510
名古屋鉄道モ510。 古稀を過ぎてもなお現役で走っていた。
新岐阜駅前−金宝町間にて、平成 8(1996)年撮影。

 念のためにいえば、筆者にも好みの車両はある。例えば、上に掲げた名鉄モ510 などが典型だ。こういう丸っこいデザインの車両は、理屈抜きに好きだったりする。

 とはいえ、かような趣味的感覚と、公共交通機関たる鉄道に対する視点とは、おのずと 異ならなければならず、現に筆者においては峻別している。鉄道車両に対する評価も同様であり、ただ単に旧いから価値が認められるわけではない。たとえ宋の白磁であろうとも、駄作は千年を経ても駄作のままなのだ。鉄道車両は、製造当時の優れた技術が用いられ、一線級の車両として使われ続けてこそ価値がある。

 旧い、珍しい、稀などという要素は、鉄道車両の価値を形成するごく一部にすぎない。旧さ、珍しさ、稀さはただの上辺であり、その奥にひそむ車両の本質を的確に評価すべきである。「動く電車の博物館」という軽薄な表現は、車両の本質からは最も遠い、趣味的修辞にすぎないことを知るべきである。まして、趣味的修辞をもって礼賛し、その車両や鉄道の本質を晦ますことなど、厳に慎み控えるべきだ。超老朽車が今なお現役という事実は、利用者の視点に立ち、もっと厳しく批判されなければならない。

 趣味的感覚とは、個々人の裡にある、いわばヴァーチャルなモノサシにすぎない。社会の公器、公共交通機関である鉄道を評価するモノサシは、現実世界の良識と常識に基づくものでなければなるまい。





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