Dancing Once More



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 STEP1   Broken Hearts  
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 うつろだった。

 視界いっぱいに広がる青い空も、背中から伝わってくる春らしいぬくもりも、さえずる鳥の声も、彼に何の感慨ももたらしはしない。
 そして、今頃教室で行われているであろう二年生最後のホームルームも、彼にとってはあまりにも取るに足らない存在だった。

 誰もいない屋上に大の字になって寝そべり、彼はひたすらに空を見つめる。
 一陣の風が吹き、雲が形を変えていく。
 その雲が黒髪を両サイドで縛っているあの少女の姿に似てきたような気がして、彼は舌打ちとともに上半身を起こした。
「くだらねえ」
 片膝を抱きながら吐き捨てる。
 何度追い払おうとしただろうか。どれほど振り払っても消えないあの少女の面影を。
 何度自分に言い聞かせただろうか。終わったのだと。
 だが、何年も前から心の一番大切な場所に住まわせた愛しい人の影が、そう簡単に消えるわけもなく。
 昔のように夜の街をあてもなく歩き、怒りの衝動に任せて拳を振るってもみた。
 ヘルメットもかぶらずにバイクにまたがり、キチガイじみた速度で飛ばして風に溶け込もうともした。
 そして、その全てが無意味だと悟り、今彼はここにいる。

 不意に耳障りな金属音を聞き、彼は己の肩越しに通用口を振り返った。
 そこにいたのは常に静かな表情をたたえ、遠くを見つめているような少年。
 そして、彼にとっては、黒髪の少女と対になって忘れることの出来ない存在。
 どう声をかけるべきか逡巡しているうちに、彼の方から声をかけてきた。
「播磨君。帰ったんじゃなかったんだね」
「……まあな」
 短く答え、彼----播磨拳児は訪問者である烏丸大路に向き直った。
「なんでおめー、こんなとこに……」
 尋ねながらその答に自らたどり着き、播磨は唇だけで笑った。
「そういうことか。んじゃ、俺は行くわ」
 重い体を引きずるようにして播磨は立ち上がる。
「そういや、三学期終わったらアメリカ行くとか言ってたか?」
 播磨の問いに、烏丸は静かにうなずいた。
「明日の午前中に日本を発つことになってる」
「そっか、おまえのすかした面ぁ見るのもこれで最後か。まあ、元気でやれや」
「うん、播磨君も」
 軽く片手を挙げながら彼の傍らを通り抜けようとして、播磨は思い出したように立ち止まった。
「塚本を……」
「え?」
 珍しく気色ばんだように自分を見返してきた彼に軽い驚きを覚えつつもくだらねえと自分に言い聞かせ、播磨は言葉を切った。
「なんでもねえよ。んじゃな」
 サングラスの位置を直し、踵を返す。烏丸の視線を背中に感じながらもドアを開き、通用口をくぐる。
 扉の閉じる音を背中で聞きながら階段を降り始めた播磨は、下から近づいてくる足音を耳にして顔をしかめた。
 隠れるところはどこにもない。そしてなによりも時間がなさすぎる。
 そして、不安は現実となって播磨の眼前に現れた。
「播磨君……」
 言ったきり、所在なげに彼女は瞳をそらした。彼女がいづらそうにするわけは播磨自身よくわかってもいるから、傷つきもしない。
「悪かったな。こんなときに俺なんかが顔見せちまって。気分悪くしたろ」
「そんなわけ……」
 言いながらも彼女、塚本天満は播磨と視線を合わせようとはしない。当然のことだ。
 軽く肩をすくめて歩き出した播磨が、無言で彼女の横を通り抜けようとしたときだった。意を決したように彼女が声をかけてきたのは。
「播磨君。この間はごめんね。気持ちに応えてあげられなくて」
 その言葉にかすかに下唇を噛み、播磨は努めて軽い口調で答える。
「気にすんな。それより、あいつ、もう上にいるぜ。いい返事、聞けるといいな」
 どんな気持ちでこの言葉を押し出したのか彼女は気付いただろうか。はにかみながら頷いた表情があまりに愛らしくて、播磨はまた悔しくなる。
 だが、そんな気持ちを沈黙の奥に押し込んで、彼は天満の肩を叩いた。
 それに勇気付けられたかのように天満は駆け出す。そして、通用口を前にして、一度だけこちらに振り向いた。
「播磨君、ありがとう。それから、八雲のこととか誤解しててごめん。播磨君ならきっと……」
 その先の言葉を聞くのがイヤで播磨が手を振ると、察したように言葉を切り、天満はぺこりと頭を下げた。

 天満がいなくなった空間を播磨はうつろに見つめる。どれほどそうしていただろうか。不意に響いた声に彼は現実に帰る。
「柄にもないセリフ。ずいぶんかっこつけるのね」
 いつの間にか彼女はそこにいた。踊り場の壁に背中を預け、両腕を胸の前で組んでいる金髪の少女。
 柔らかさと気高さを均等に備えた美貌と非の打ち所のないプロポーションを持つその少女に、しかし播磨は吐き捨てるように言う。
「おめーかよ、お嬢」
 彼の露骨な嫌悪の表情にも全くひるむ様子を見せず、彼女、沢近愛理は続ける。
「あきらめるの?」
「しかたねえだろうが」
 言って足早に立ち去ろうとする播磨の袖を不意に愛理が掴んできた。
「んだよ?」
 不機嫌の塊のような彼の視線からわずかに瞳をそらし、愛理が聞いてくる。
「告白、成功すると思う?」
「知ったこっちゃねえ」
 即座に言い捨てると愛理がこちらに視線を戻しながらためらいがちに言ってくる。
「ねえ、ヒゲ。もし、あの二人が……」
 どことなく歯切れの悪い彼女の物言いが苛立たしくて播磨は袖を振りほどいた。
「お嬢。おめーはいいよな」
「……どういう意味よ」
 たちまちの内に怒気を孕んだ視線をサングラス越しに受け止め、播磨は言葉の棘を投げる。
「俺や塚本の必死ぶり、見てて笑えるだろ? おめーには一生わかんねえだろうよ。もてもてのお嬢様にはよ」
 その言葉になにも答えず軽くうつむいた愛理が、切なげに頬を震わせたように見えたのは気のせいだろう。
 播磨の知っている愛理は、そんなことで傷つくようなか弱い女ではなかったから。
「んじゃよ」
 言って播磨は床を蹴る。愛理の前を通り過ぎ、数段降りたところで、彼女が声をかけてきた。
「播磨君」
「あ?」
 振り返らずに播磨が応じると、愛理はおずおずと言ってくる。
「来年私たち同じクラスに……」
 意外なセリフに思わず播磨が振り返ると、愛理は視線を外し、かすかな笑みを浮かべて言ってきた。
「ならないといいわね」
 その言葉を聞くと播磨は小さく鼻を鳴らし、簡略に答えた。
「同感だな」
 言って再び歩き出した彼は、もう振り返らなかった。
 だから、彼は気付かなかった。彼の知っている勝気な少女が、らしくもなく寂しげな表情でうつむいていることに。そして、彼女の肩が小刻みに震えていることに。
 彼は気付こうともしなかった。


 何をどう言ったのか、もう天満は覚えていない。彼の顔を見てからとにかく必死で。
 想いは確かに伝えた。何度も好きという言葉を送った。送ったはずだ。なのにどうして? どうして彼の表情は変わらない?
「烏丸……君、私の話、聞いてるよね」
「うん」
 天満が言うと、烏丸は困ったように目線をそらした。
「塚本さんの気持ちは十分に伝わってきたよ。とても光栄だと思う」
 烏丸の言葉を聞くと、ようやく天満は喜び……というよりはむしろ安堵の表情を浮かべた。
「あ、ありがとう……。そ、それで?」
 天満が先を促すと、烏丸は静かに空を仰いだ。刹那、彼の顔に悲しみにも似た逡巡が浮かんだように見えたのは気のせいだろうか。
 天満がもう一度先を促そうとする寸前に烏丸が小さな吐息を挟んで告げてきた。
「僕には答えられない。僕は、塚本さんのことをそういう目で見たことがなかったから。見ないようにしていたから」
 その言葉を聞いて天満は凍りついた。
「どうして……」
 やっと搾り出した天満の問いかけに、烏丸は冷静な声で答えてくる。
「むしろ、僕が聞いてもいいかな? 僕が今、塚本さんのことを好きだと答えたとして、この先、僕たちはどうすればいいんだろう?」
「え?」
 意表を突かれたように天満は言葉に詰まる。
「どうって……。今はネットもあるし……その、手紙だって悪くないし……」
「僕はこの先、アメリカを離れることはできないと思う。国籍も多分移すことになるけど」
「そ、それなら私も……」
「妹さんをひとりにして?」
「あ……」
 その言葉を聞いて、天満は思わず口元を押さえた。
「八雲は……」
 それっきり天満は言葉を継ぐことが出来なかった。八雲をひとりにしたくはない。なにより、自分自身が八雲と離れたくない。
 ただ、烏丸に気持ちを伝えたいと言う想いだけが先走り、なにも現実が見えていなかったという事実が、激しく天満を打ちのめす。
 肩を落として天満は言う。
「ごめんなさい。私、何も考えてなかった。ただ、ただ気持ちだけ伝えたくて。私もこれからのこときちんと考えるから、烏丸君も私のこと……。私、烏丸君のことしか見えないから……」
「僕にはわからない。自分がどうしたいのか。こんなあいまいな気持ちで、君を縛るわけにはいかない」
「烏丸君!」
「僕は残酷なことを言っているのかも知れない。君のことなど好きになれない。そう言えば君もすっきりするかも知れないのに。君を受け止める勇気がないのに、君に嫌われたくないとも思っている。やっぱり僕には君に想われる資格なんてない」
「烏丸君……」
 それから何度、同じような押し問答をしたのか天満は覚えていない。
 気が付いたときには天満はひとりで膝を抱えて泣いていた。
 どれほどの時をそうやって浪費しただろう。肩を叩かれる感触に気付いて顔を上げた天満が見たのは、大好きな少年の姿ではなかった。
 いつの間にか隣に座っていたのは、気が強く、だけどほんとうはとても優しい心を持った親友。
「愛理ちゃん……私……」
 愛理は何も言わなかった。ただ、いつまでも。いつまでも。天満が泣き止むまでずっとその肩を抱いていてくれた。


 高校二年生としての天満の時間は、こうして終わりを告げた。烏丸を見送りに行く勇気ももはやなく、沈んだ心のまま春休みは過ぎた。

 そして、天満たちは高校三年生に進級した。


 その日も3−Cの教室は賑やかな喧騒に包まれていた。
 高野晶は、ゆっくりとしたペースで手作りの弁当を食べつつ、三人の親友の様子をそっと見守る。
 表面上は特に二年のときと変わったところはない。
 塚本天満はわけもなくはしゃぎ、ときにとんでもないボケをかまして三人の笑いを誘う。
 沢近愛理は気取りながらもそつなく話題を振り、いつも四人の中心にいた。
 周防美琴はときとして豪快に笑いながら、主として聞き役を演じる。

 表面上はなにも変わってはいない。そして、親友のうち二人が、時折何かを探すように視線を泳がすことも。
 違うのは彼女たち二人の視線がどこにも固定されることなく、結局戻ってくると言うこと。
 3−Cの教室に、播磨拳児はいない。もちろん烏丸大路も。
 晶たち四人は幸いにも同じクラスになれたが、播磨拳児は隣の3−Dに編入された。
 それが彼にとって幸運なのか不運なのかは微妙なところだが。
 結局のところ、三年生に上がってから自分たち四人が心から笑ったことは数えるくらいしかないような気がする。
 天満と烏丸の間には数千キロもの距離が横たわり、愛理と播磨の間にはただ一枚の壁が隔てるだけだが、晶にしてみれば、双方ともに絶望的な距離を抱えていることには変わらないように思える。

 とりわけ、愛理だ。愛理が想いを寄せている彼の心には違う少女が住んでいる。そのこと自体は去年と変わらない。
 違うのは、その少女が誰なのかを愛理が知ってしまったという事実。
 もっとも、播磨はすでにその少女には振られているわけで、ある意味ではチャンスとも言えるのだが、愛理のほうはなかなかそうは割り切れないらしい。
 そこが愛理の弱いところで、また晶もそんな彼女が好きなわけでもあるのだが。

 と、そのとき、ひとりの女子生徒が小走りで彼女たちのほうへと寄ってきた。
 軽く癖のついた黒髪を背中まで伸ばした、いかにも元気そうな少女。去年から四人とは同じクラスだった嵯峨野恵だ。
 やけに楽しげな笑みを浮かべながら恵は天満の前で立ち止まった。
「なに?」
 天満が問いかけると、恵はさらに大きな笑みを意味ありげに浮かべ、天満の耳元に何かを囁いた。
「え?」
 息を呑んだように動きを止めた天満の頬がかすかに上気したのが晶にはわかった。
 残りの弁当を大急ぎで口に詰め込み、天満はそれをお茶で胃の中に流し込んだ。
「私、ちょっと行ってくるね」
「ちょ、どうし……」
 美琴が呼び止めようとするのにも耳を貸さず、天満は早足で教室をあとにした。
 扉が閉ざされるのをあっけに取られるように見ていた愛理が、怪訝げな表情で恵を睨み付けた。
「どうなってるの?」
 その言葉を聞くと、恵は意味ありげに口元を押さえて周囲をうかがう。
「実はねえ……」
「嵯峨野! 悪趣味だよ」
 恵の言葉をさえぎったのは彼女の親友で、同じ旧2−C組の結城つむぎ。
 恵は不満げに唇を尖らせ、わかったわよと親友に言葉を投げた後で、晶たちに言ってくる。
「まあ、首尾のほうは塚本さん本人から聞いてね。てゆーか、私にも教えて」
 それだけ言うと、恵は教室の隅へと移動していく。つむぎや他の友人たちと楽しげに談笑する彼女を見つめたのち、愛理が晶と美琴を均等に見て言ってくる。
「どう思う?」
「やっぱ、そういう話なんじゃね?」
 美琴が言ってこちらを見てくる。晶はそれに小さく頷き、低い声で言う。
「もしそうだとして、私はいいことだと思うわ」
 晶の言葉に、二人は深々と頷いた。
「だよな。もう烏丸とは縁がないんだから、塚本も気持ち切り替えなきゃ」
 言う美琴を見て、愛理が意地悪げに笑う。
「賛成。まあとりあえず、許婚がいる美琴には縁のない話だけどね」
「誰と誰が許婚だ!? ったく根拠のない話を既成事実みたいに言うな!」
 ひとしきり叫んだあと、美琴は深く息を付いて真顔になる。
「私のことはいいとしてさ、あんた、どうすんだ?」
 その言葉を耳にすると、愛理の顔に小さな影が差した。
 宝石のような瞳をすっと伏せ、彼女は物憂げに言う。
「どうすればいいのかしらね」
「……わりい」
 美琴は片手で拝むようにして言う。
「うまくいかないものね。ほんとうに」
 言った晶を見つめてきたあと、愛理が思い出したように話題を変えた。
「そう言えば、美琴。今鳥君とクラス分かれてよかったわね。最近、彼、美琴に言い寄ってきたりとかないんでしょ?」
 その言葉を聞くと、美琴が安心したように笑って返事を返す。
「ああ、そのことだけどな。どうも一条と怪しいらしいんだよな。まあ、正直、あいつには一条はもったいないと思うんだけど」
「本人同士が幸せなら、それが一番だと思うわ」
 晶が口を挟むと、二人とも真顔で頷いた。なおも数分。取り留めのない噂話に花を咲かせているうちに、天満が帰ってきた。
 顔を赤く染め、胸を押さえながら軽く息を弾ませる彼女を見て、愛理が意地悪げに言う。
「おかえり、天満。誰からの告白だったの?」
「な、なんでわかるの!?」
 本気でのけぞった彼女を苦笑で見て今度は美琴が言う。
「いや、確信を得たのは今だけどな」
「かまかけって言葉、天満、知ってる?」
 晶が追い討ちをかけると、天満はへなへなとその場にへたり込む。
「ひどいよ、みんな。ただでさえ私、消耗してるのに」
 そんな彼女を優しさと意地悪さを等分に含んだような笑顔で見つめ、愛理が言う。
「で、物好きさんの名前は? 天満、どう返事したの?」
「それなんだけど……」
 天満は周囲をうかがったのちに、腹を決めたように言う。
「ちょっとここでは……。放課後、メルカド行かない?」
 天満の提案に反対するものはもちろんいなかった。

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 STEP2  Sadly Decision
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「ハリケーンパフェ四つ!!」
 寄ってきたウェイトレスを見ると、天満が片手をシュパっと上げて間髪なく告げた。
 少し前までの天然元気な天満が帰ってきた気がして、晶は嬉しくなる。
「とりあえず、天満の追及はパフェが届いてからと言うことにして、みんなのゴールデンウイークの予定でも聞いておきましょうか」
 目前まで迫った大型連休の話を晶が振ると、愛理が真っ先に乗ってきた。
「私はイギリスに行くわ。春休みには帰れなかったし。久しぶりにお父様とゆっくりとしたいわ」
 愛理の言葉を聞いて、美琴が呆れたように言う。
「つうか、堂々と親父にのろけれることとか普通に外国の名前出てくることとか、やっぱ沢近ってお嬢だよな。私なんて、父の日のプレゼント買うのも柄じゃないって毎年思うのに」
「仕方ないわよ。愛理のお父さん、ほんとにかっこいいから」
「見たことあんのかよ!?」
 美琴が焦り気味に問いかけてくるのは置いて、晶は天満に視線を向けた。
「天満はどうするの? 新しい彼とデートかしら?」
 晶の言葉を聞くと、天満は不満げに頬を膨らます。
「もう、おもちゃにして。私、こう見えても悩んでるんだよ」
「とてもそうは見えないけどな」
 意地悪げに突っ込んだ美琴の瞳の優しさに気付いたのは自分だけではあるまいと思いつつ晶は金髪の親友に視線を向けた。
(あとはこの子のことだけなんとかできればいいのだけれど)
 想いを馳せているうちにパフェが届き、嬌声とともに、四人は恐ろしい勢いでパフェを平らげ始めた。
 そして、口火を切ったのは愛理だった。
「さて、そろそろ聞かせてもらおうかしらね。昼休みなにがあったの?」
「うん……」
 周囲を見渡した末に、天満は言った。
「告白って言うのも変なのかな? 私、播磨君に改めて付き合ってくれって言われちゃった」
 その言葉で場の空気が一変した。愛理の瞳が瞬時に凍りつき、美琴に至っては怒気を隠そうともしない。
 きっと自分自身も険しい表情をしているのだろうと思っている矢先に美琴が言った。
「塚本。おまえ、播磨のことは、きっちり振ったんじゃなかったのかよ? まさか、付き合おうとか思ってないよな?」
 激しい口調の美琴に戸惑いの色を浮かべ、天満は言う。
「え? なんで……。美琴ちゃん、前から気持ち切り替えろって言ってたし、そんな風に言われるなんて」
 その言葉を聞くと、美琴はテーブルを激しく叩いて苛烈な声を放つ。
「相手がわりいんだよ。おめー、ほんとにわかってねえのか?」
「美琴」
 彼女の激昂を静かに諭したのは他ならぬ愛理だった。
「それ以上言ったら、許さないからね」
「沢近! なんで……」
 爆発寸前に見える美琴を目で制して、愛理は柔らかい笑みで天満を見つめた。
「私はいいと思うわよ。あのヒゲ、見かけほど悪くないと思うし」
「沢近……」
 唇をゆがめて愛理をにらみつけると、美琴は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「ごめん。私、これ以上ここにいたら何言うかわからないから。沢近。今夜電話するからな」
 美琴は財布から千円札を引っ張り出すと叩きつけるようにそれをテーブルの上に置いた。
 そして、燃えるような瞳で数秒天満を見やってから、大股で歩み去っていった。
「美コちゃん、どうしたんだろ?」
 不安げに言う天満にあくまで優しく愛理は言う。
「わからなくもないわ。美琴は操を立てるタイプだから。天満が烏丸君からヒゲに乗り換えるみたいな感じがして気に障ったんだと思うわ」
「そっか。そうやって言われると私はいい加減だよね。もちろん友達としてとは言われたんだけど」
「天満」
 ついに我慢の限界が訪れ、晶は二人の会話をさえぎった。
「今日、見たいテレビあるんじゃなかった? 時代劇の再放送」
「え?」
 晶の言葉にあいまいな笑みを浮かべ、天満は言う。
「万石なら、ビデオ録ってあるから大丈夫だよ」
「塚本さん」
 放ったその声が氷点以下の冷たさをはらんでいることに晶は気付いていたが、彼女もまた、タガが外れかかっていた。
「はっきりと言わなければわからないのかしら? 私は、愛理と二人で話がしたいと言っているの」
「晶!」
 見かねたように口を挟んできたのはもちろん愛理。
「そんな言い方しなくったって」
「ごめんね」
 愛理の語尾に重ねるように天満が言う。
「よくわからないけど、私が悪いんだよね? ごめんなさい」
「天満……」
 何かを言いたげな愛理に目で謝意を示し、天満は美琴を見習うように千円札を取り出し、力なくテーブルに置いた。

 天満が席を離れると同時に落ちた沈黙は何分も続いた。そして、それを先に破ったのは愛理だった。
「晶。なんであんな言い方……」
「私のほうこそ聞きたいわ。どうして何も言わないの? クラス替わってから、彼とあまり話してないわよね。八雲とは相変わらず会ってるみたいだけど。このままでいいの?」
「……」
 沈黙を守る親友に晶は続けざまに言う。
「今の愛理は、傷つくことを怖がってるだけにしか見えないけど」
「晶」
 力ない声で、彼女は晶の口上をさえぎってきた。
「私が傷ついてないとか、思ってるんだ」
「え?」
「これでも、私十分傷ついてるつもりなんだけど。私だって、このままじゃいけないと思ってた。私なりに積極的に話しかけてみたつもりだし、遠回しにモーションかけてみたことだってあるのよ。あいつは話を聞いてくれないどころか、視線すらまともに合わせてくれないけど」
「愛理……」
「あいつにとって、しょせん金髪を両側で縛った女なんて眼中にないのよ。私が告白したところであいつは言うだけ。おまえじゃないって」
「……」
 晶は語るべき言葉を持たなかった。一見気丈そうに見えるこの親友が、実は繊細な心を抱えていることぐらい、知っているつもりだった。だが、彼女の心が、ここまで深く傷ついていることには気付いていなかった。
 考えてみればわかることだ。播磨と出会うまで男性に邪険にされたことが稀有な……いや、恐らくは皆無な彼女が、播磨の一言一言に、どれだけ傷つき、苦しんだのか。誰よりもわかってあげなければいけなかったのに。
 ひとりで全てを知っている気になっていた自分が忌々しかった。
「ごめん。さっきの言葉は撤回するわ。でも、天満には告げるべきだと思う。でないと、これからもあなた……」
「ん……。そうね。晶に……美琴にも、これ以上心配かけるのもイヤだし。けじめは付けるわ」
 愛理はまっすぐにこちらに視線を向けてその言葉を口にした。
「明日、ヒゲに告白する」
 愛理の瞳に悲しげな決意を感じ、晶の胸は激しく痛んだ。


 翌日の放課後。
 
 3−Dの教室で帰り支度にいそしんでいた播磨拳児は、教室が小さくざわめいたことに気付き、わずかに眉間にしわを寄せた。
 その理由はすぐにわかった。ただいるだけでその場の空気を一変させてしまう存在が自分のすぐ後ろにいた。
「播磨君、少しいい?」
 言ってきた彼女、沢近愛理に、播磨はぶっきらぼうに答える。
「んだ、おめー。つか、勝手によその教室入ってくんなよ」
 自分の言葉に、周囲が息を呑むのがわかった。あからさまに悪態をつく声なども聞こえてくるが、播磨は、そしてもちろん愛理もそれを気に留める素振りもない。
 愛理が不意にたおやかな手をこちらの肩に乗せて、顔を近づけてくる。なんとも表現しがたい甘い香りが鼻腔をくすぐるが、しかめ面でそれを押し隠す。
 そして、彼女が小さな声で言ってきた。
「天満が昨日の返事したいって。ついてきて」
「マ、マジか? ちょ、待てお嬢。慌てんな」
 早足で歩き出した愛理を、播磨はあわてて追う。時折こちらを振り返りながらも、愛理は速度を緩めることはない。
 下駄箱で彼女に追いついた播磨は、軽く息を弾ませながら尋ねる。
「て、塚本、どこで待ってんだよ」
「ついてくればわかるわ」
 言った彼女の笑顔が、やけになまめかしく思えて、播磨は背中を震わせた。
 外に出ると、愛理は校庭の隅へと歩いていく。なんとなく悪寒にすら似た妙な予感にとらわれた播磨の耳にはクラブ活動に励む健全な生徒たちの声も届かない。
「おい、どこ行く気だよ」
 播磨が言うと、愛理は静かに振り返り、ただニッコリと笑ってきた。
「お、おい……」
 戸惑いながら播磨が言うが、そのあとはこちらを振り返ることもなく、愛理は校庭の隅にある体育倉庫の前で立ち止まった。
「ここよ」
「マ、マジかよ……」
 必要以上にひと気のないところに連れて来られて、播磨の鼓動がさらにその速度を上げる。
「どうぞ」
 薄い笑みとともに愛理が扉を引くと、本来なら鍵がかかっているはずのそれは微妙な軋みとともに開かれた。
「ここに、て……塚本が?」
 言いながら播磨は魅せられたかのように倉庫に足を踏み入れた。なんとも表現しづらい体育倉庫独特の匂いが鼻をついてくる。
 目に映るのは籠に入れられたサッカーボールやバレーボール。雑然と置かれたハードルやマット。
 どこにも天満の姿は見えない。
「おい」
 振り返った播磨の目に映ったのは、じっとこちらを見つめてくる愛理の姿。その金髪の少女は、妙に大人びた笑みを浮かべたまま、後ろ手で扉を閉めた。
 その扉が閉じきる鈍い音が、播磨の緊張を誘う。そしてそれを裏付けるように彼女は言ってきた。
「天満はここにはいないわ。あんたに用事があるのは私だから」
「お嬢、いったい……」
 言った播磨をじっと見つめたまま、彼女がにじり寄ってきた。無意識にあとずさる播磨だが、所詮は狭い空間だ。
 何かにつまずいて、彼は仰向けに倒れこむ。柔らかい感触。幸いなことに、彼が倒れこんだ先はマットだった。
「お嬢、おめー、なにを……」
 その言葉には答えず、愛理は播磨の目の前に両膝をつく形でしゃがみ込んだ。そして前に乗り出すと、覗き込むようにこちらに詰め寄ってくる。徐々に。徐々に。
 お互いの顔の距離はもはやわずか数センチ。
「おい……」
 絶句した播磨に、愛理が微かに震える声で言ってくる。
「私ね、ほんとのこと言うと、あんたのこと、いいなってずっと思ってたのよ」
「ちょ……」
「天満に約束したんだって? 天満が烏丸君のこと忘れるまで指一本触れないって。好きな子前にして、そんなのつらいでしょ」
「そ、そんなこた覚悟の上だ」
 必死に答えた播磨にさらに愛理はにじり寄ってきた。すでにお互いの足は半ば絡み合い、愛理の吐く熱い息すら鼻先に感じる。
 先ほども感じた甘い、そして危険な香りに頭がクラクラする。
「私なら、そんな苦しい想いさせないのに。私、あんたになら何されてもいいって思ってるのよ」
「待て」
 言って手のひらで播磨は愛理を押しとどめようとする。だが、その手を自らのそれで捕らえて愛理は言う。
「待・た・な・い」
 愛理の手は、播磨のそれを自分のある場所へといざなっていく。その先こそは絶妙なふくらみを誇る胸元。
「やめ……」
 言いながらも播磨は、なぜか腕力では自分より遥かに劣る少女の力に抵抗できない。それどころか、徐々に膨らんでくる欲望を制御しきれない。
「播磨君……」
 せつなげに呟いてきた愛理の声が少女らしい恥じらいを含んでいることに、初めて播磨は気付いた。そしてなぜだろうか?
 金髪を両側で結んだ少女の顔が、黒髪をそうした少女に重なったのは。
 そのおかげだろうか。欲望をねじ伏せて播磨はようやく言うことが出来た。
「お嬢、どうかしてんぞ」
 言うと、愛理を押しのけ、彼は立ち上がる。まだバクバク鳴る心臓が悔しくて、播磨は必要以上の荒い口調で言う。
「おめーが俺のこと好きとか、ありえるわけねえだろうが。人のことおちょくるのもたいがいにしとけ!」
 播磨がにらみつけると、愛理はどこか寂しげな苦笑を浮かべ、軽く肩をすくめた。
「はいはい。あんたの勝ち。天満。出てきなさい」
「う、うん」
 バスケットボールの籠の陰から立ち上がってきたのは、他ならぬ塚本天満だった。
「おまえら……」
 播磨の声に本物の怒気を感じたからだろう。天満が泡を食ったような声で言ってくる。
「播磨君、お願い。怒らないで。私が愛理ちゃんに無理に頼んだの」
「天満」
 呆れ果てたような声とともに愛理は天満に視線を向けた。
「もう少し説得力のある嘘つきなさい。あんたがこんなこと提案できるわけないって、いくら低脳なヒゲでも分かるわよ」
「低脳っつうのは誰のことだ、コラ?」
 播磨はすごむが、しかし愛理は平然と答えてくる。
「あんたのことよ、エロヒゲ。天満のこと好きとか言っといて、その気になってバカみたい」
「おい!」
「やめて!」
 天満が身を挺して二人の間に割って入ってきた。背中で愛理を庇い、天満は必死の表情で懇願してくる。
「愛理ちゃんのはやりすぎだったと思うけど、私のこと思ってしてくれたの。怒るなら私に怒って。愛理ちゃんもひどいよ。これ以上播磨君のこと、ひどく言わないで」
 天満の言葉に、愛理の顔から流れるように険が消えていく。
「ごめん。ちょっと妬けて意地悪言っただけ。天満。こいつ真剣みたいよ。ほんとにあんたのことだけ思ってるみたいだから。前向きに考えてあげていいと思うわ。ヒゲ。ちょっとやりすぎたわ。なんか演技に入り込んじゃって」
 愛理の言葉に、ようやく胸を撫で下ろして播磨は言う。
「マジでびびったぞ、おい。お嬢、おめー、マジで女優になれんぞ。言いたかねえが見てくれはいいしよ。今のは本気でやばかったぜ」
 完全にだまされたことで、播磨は饒舌になっていた。
「俺らのこと思ってやってくれたのわかるし、て……塚本の手前もあるからこれ以上は言わねえけどよ。もうこんなマネすんなよ。俺じゃなけりゃ、おめーマジで襲われてんぞ」
「少しはドキドキした?」
 舌を出して聞いてきた愛理に播磨は即答する。
「あったりめえだろうが。俺だって男だぞ」
 言った播磨をじっと見つめてきてから、愛理は吐息とともに言う。
「さてと。私が消えてもいいけど、どの道こんなところで話ってのもあれよね。ヒゲ、天満連れてどっか行きなさいよ。これからのこと、話し合いなさい。念のために言うけど、私は賛成だから。まあ、あんたごときに天満はもったいないとは思うけど、こればっかりはお互いの問題だしね」
「愛理ちゃん……」
 切なげに言った彼女の頭を優しく撫でて、愛理は言う。
「行きなさい」
「お嬢」
 播磨は静かな口調で会話に割り込んだ。 
「手玉に取られたみてえで癪だけどよ。一応礼は言っとく。あんがとな」
「愛理ちゃん」
 天満も上目遣いで愛理を見ながら言う。
「心配かけてごめんね。烏丸君のこと忘れるのは無理だけど。播磨君とこれからのこと話し合ってみる。ほんとに今日はありがと」
 天満の言葉を聞くと愛理は瞳を閉じ、二人に背中を向け、もう一度言った。
「行きなさい」

 行こうと言い出したのはどちらからだったろうか。愛理は覚えてはいない。ずっと。催眠から解けた播磨が自分を拒絶してからずっと、愛理は心を閉ざしていたから。
「愛理」
 静かな声はここにいるはずのない親友のもの。目を開くと、いつの間にか高野晶はそこにいた。
 晶は、いつもと同じ冷静な瞳に、いくつもの感情を交えて言ってくる。
「いいのね?」
「もちろんよ」
 愛理はうつむき、必死に自分に言い聞かせる。
「見てくれがいいって、綺麗ってことよね? あいつ初めて私のこと、そう言ってくれた。それにドキドキしたって。それだけで十分だから」
 そんな愛理に晶がすっと指を伸ばしてきた。そして、人差し指の先で目じりを拭い、晶は静かな、しかし限りなく優しい声で愛理に囁いてくる。
「愛理。あなたはやっぱり女優にはなれないわ。言葉と顔が一致してない」
 晶の仕草で、ようやく愛理は自分が涙を浮かべていたことに気付いた。
「私は平気。平気だけど……少しだけ、胸を借りてもいい?」
 言った愛理を、まるで待ちかねていたかのように晶は抱き寄せてきた。
 大切な宝物を扱うかのように、優しく。優しく。
 晶は何も言わない。その気遣いが嬉しくて、そしてつらくて。
 愛理は晶の胸に顔を埋めたまま、少しだけ泣いた。

〜To be continued〜

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 STEP3  My Girl
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 曜日やカレンダーに関係なく働かなくてはいけない人々はいくらもいる。そのことを承知の上で言うが、日本の幸せ指数が一年で一番上がるのは、もしかしたらこの日ではないだろうか?
 ゴールデンウイークの初日。街は幸せなざわめきに揺れている。
 しかしと、播磨は思う。自分よりも幸せな人間はどこにもいないだろうと。
 腕時計を見る。約束の十時まではあと十五分。携帯電話を取り出して確認もしてみるが、もちろん時間は変わらないし、メール等の着信した痕跡もない。
 ショーウインドウを利用して、播磨は自分のいでたちをチェックしてみた。
 下半身を包むジーンズはリーバイスの517。今流行のスリムなブーツカット。
 1万近いプライスは自称苦学生の播磨には痛かったが、年中履く物だしと言い聞かせ、デートの日取りが決まった日に、無理をして手に入れた。
 上半身には黒い無地のTシャツと白いサファリジャケット。胸元に下げたメダル型のペンダントは今鳥恭介から半ば脅迫して借りた。
 黒いデッキシューズは新しいものではないが、手持ちの靴の中では一番今日のいでたちに合うだろう。
 そんなことを考えているうちに、時間は流れていく。
 駅前のロータリーは待ち合わせの定番にもなっているため、そこかしこにカップルの姿も見える。
 だが、そんな彼らの姿を見て、播磨は勝ち誇ったように言う。
「やっぱ、天満ちゃんが一番かわいいな」
「私がどうしたって」
「うわー!」
 肩を叩かれて弾かれたように播磨は振り向いた。
「い、今来たと……っ!」
 絶対言おうと決めていたセリフを忘れてしまった理由は唯一、そして絶対のもの。
 そう、天満があまりにも可愛かったからだ。
 チャームポイントのピコピコ髪はもちろん変わらない。愛らしい顔を彩るのはわずかに薄いチークとリップのみ。
 だが、そのわずかが天満の可愛らしさを数割増ししているように播磨には思えた。
 ピンク色のサマーセーターの上に羽織った白いブラウスはボタンを留めず、下で結んでいる。
 胸元を飾るのはハート型のペンダント。下半身はパステルグリーンのパンツと素足に薄茶のサンダル。
 呆然としている播磨を不審に思ったのだろう。天満は不安げにうつむいて言う。
「変……かな? ちょっとがんばりすぎちゃったかな?」
 その言葉に、播磨はぶんぶんと首を振った。
「んなわけねえ!! 世界中の誰が認めなくても、すっげーいいぜ。いや、認めねえやつなんているわけねえし、いたら俺がぶっ飛ばすけどよ」
 思わずまくし立てた播磨は天満がきょとんとしているのを見て、ようやく咳払いを入れた。
「つ、つまり、似合ってるぜ、塚本」
 その言葉に、天満はようやくにっこりと笑った。
「ありがとう。播磨君もかっこいいよ」
 その一言で、頬が熱くなるのがわかった。
「ば、ばっかやろー、おめー、なにほんとのこと言って……じゃなくてよ。ちっ、行くぞ」
 反射的に播磨は天満の腕を引く。
「あ……」
 小さな声とともに天満が身を堅くするのを見て、播磨はノロノロとした動作で腕を引っ込めた。
「わりい。調子に乗っちまって。約束したのにな」
「……ごめんなさい」
 うつむいた彼女の悲しげな顔を見てしまっては認めざるを得ない。まだ、忘れていないのだと。
「いや、俺のほうこそほんと悪かったよ。行こうぜ」
「うん」
 そんなつまづきはあったが、デートはごく順調に進んでいった。ウインドウショッピングを楽しみ、一緒にクレープを立ち食いし、他愛もない話に花を咲かせる。そして昼が近づいてきた頃、天満は道路を挟んだ向こうを指差して言った。
「ねえ、あそこ入ろうよ」
 そこは、つい最近開店したばかりの有名量販衣料品店。最近、矢神町に店舗を出したということで、ちょっとした話題にもなっていた。
 安物の代名詞みたいに言われるそのチェーンだが、実はそれなりに品質は良く、長持ちもしてくれるので金のない播磨にとってはありがたい存在である。
 今日はさすがに着てきてはいないが、部屋にはそのブランドのシャツやブルゾンが何着もある。
「おう。いいな」
 二人は肩を並べ、人ごみを避けるようにして店内に入っていった。

 連休初日と言うこともあって、店内は混んでいる。跳ねるようにして店内を見渡し、不意に天満が言ってきた。
「ねえ、初デートの記念ってことで、お互いがお互いの服、一着だけプレゼントするってのどうかな?」
「おお、いいな、それ」
 播磨が乗ると天満は意味深な笑顔とともに言う。
「気軽に受けちゃっていいのかな? 播磨君、女の子の服なんてわかんないでしょ?」
「そ、そりゃそうだけどよ。なんとかなるさ。俺だってたまには女向けの雑誌とか見るしよ」
「ええ? なんでまた」
「そりゃ資料……い、なんでもねえ」
 慌てて播磨は口を押さえる。漫画を描いていることは、今はまだ内緒だった。
「と、とにかくよ。俺に任せとけ。おまえのかわいさを一番際立たせる服、選んでやっからよ」
 必死に言ったときには、天満はもう目の前にはいなかった。
 ワゴンにあるポロシャツを手に取りながら、彼女は振り返ってきた。
「巨人の川相がどうしたって?」
「ち、ちがう〜」
 のけぞる播磨を見て、天満がはたと気付いたように言ってくる。
「そっか、もう中日に行ったんだっけね?」
 そんなことよく知ってるなと胸中で突っ込みながらも播磨は取り繕う。
「いや、まああれだ。俺が川相のバントのように手堅くおまえの服選んでやるぜ」
 自分でも無理ありまくりのセリフだと思うが、天満はにっこりと微笑んできた。
「ありがと。ねえ、これなんかどう?」
 天満が差し出したのは、ピンクというか、薄い紫っぽいカラーの無地のポロシャツだった。
「播磨君って言うと、モノトーンってイメージがあるけど、意外とこういうパステル系、似合う気がするのよね」
 播磨の上半身に天満が目いっぱい背伸びしながらポロシャツをあてがってくる。
 その仕草が嬉しくて、あまりに可愛くて、抱きしめたい衝動を必死に抑えていると、近くを通りがかった女店員が声をかけてきた。
「お似合いだと思いますよ。渋い人にパステル系って、はまると凄く素敵なんですよね」
 その女店員は、じっとこちらを見つめてから、天満に話を振った。
「かっこいい彼氏ですね」
 その言葉に、自然とあのときの想い出が蘇ってきた。あのときは笑顔で否定されたが、今はどうだろうか。素知らぬ顔で聞き耳を立てていると、天満は頬を染めながらその言葉を口にした。
「あ、ありがとうございます」
 それを聞いたときの感動を、どう表現したらいいだろうか? 空回りしまくった苦悩も、絶望に暮れた日々の想い出も、全てが美しい形に昇華されていく気がした。
 店員がごゆっくりと告げて立ち去っていくと、天満がおずおずと言ってきた。
「ご、ごめんね。あんな約束させておいて、こんなこと言う権利ないのに。つい見栄張っちゃって」
 その言葉に無論播磨は答える。
「いいってことさ。むしろ嬉しかったぜ。ありがとうな」
 播磨が言うと、天満は真っ赤になってうつむいた。
「こ、これにしようか。せっかくああ言ってくれたんだし」
「ああ、いいぜ。ありがとな」
 言いながら、播磨は思い切って天満の頭を軽く撫でてみた。くすぐったそうに目を細めた彼女に、嫌悪の色は微塵もない。
 そのことに胸中でガッツポーズを作り、播磨は気合を入れた。
「っしゃ。今度は俺が、おまえの服、選んでやっからな」


 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
 一般的にはそうだ。だが、今日の播磨にとってはそれは必ずしも真実ではなかった。
 なんとか彼女を楽しませよう、退屈はさせまい。
 自分の乏しい知識と経験をフル動員した結果、夕方を前にして彼は消耗しきっていた。
 だから、天満がそろそろ帰らないとと言ったとき、正直少しほっとした。
 もちろん、失望の方がずっと大きかったことは勿論だが。

 家まで彼女を送る途上、播磨は彼女の小さな歩幅に必死に合わせながら話しかけた。
「そういや、明日から旅行だったよな。準備できてんのか?」
「うん、美コちゃんと晶ちゃんと三人で熱海に二泊三日」
「そいつは楽しみだな」
 播磨が言うと、なぜか天満はかすかに瞳を曇らせた。
「そう……なんだけど、ちょっとね」
「お?」
 数秒の沈黙をはさんだのち、意を決したように天満は言ってきた。
「最近、私、あの二人と少し気まずいの。なんか、私と播磨君が付き合うの反対みたいで。愛理ちゃんは賛成してくれてるんだけど」
「マジかよ……。で、なんでお嬢は行かねえんだ?」
「イギリスに行くんだって。お父さんと会えるってすごく喜んでた」
「そっか。ったくあいつめ。肝心なときに役に立たねえな」
 播磨が吐き捨てると、不意に天満が袖を引いてきた。
「ん?」
 見下ろすと、彼女は真顔でこちらを見つめ、足を止めて言ってくる。
「前から言おうと思ってたんだけど、播磨君、愛理ちゃんのこと悪く言いすぎ。愛理ちゃんに対する態度とかもいつもそっけないし。どうして?」
「どうしてって……」
 思いがけない質問に播磨は詰まった。愛理とは顔を合わせればお互い憎まれ口を叩く。それが挨拶みたいに思っていただけで特に他意はない。それだけにどう答えればいいのかわからない。
 播磨が言葉を探しているうちに、天満がさらに畳み掛けてくる。
「愛理ちゃん、いい子だよ。私が烏丸君に振られたときだって、ずっと側にいてくれた。最近でも私と播磨君のこと、すごく気にかけてくれてる。播磨君、あんまり愛理ちゃんのこと悪く言うんだったら、私……」
「わ、わかった」
 天満がその一言を言う前に、播磨は必死で制した。
「次から気をつける。それでいいだろ? いや、俺なんかに優しくされたところで、あいつには迷惑なんだろうがよ」
「そんなことないよ。女の子なら誰だって男の子に優しくされれば嬉しいよ。愛理ちゃんだってそうに決まってる」
「そんなもんか?」
「そういうものよ。あ、でも好きになっちゃダメだからね」
「わーってるよ。まあ、万一、いや億が一か。俺がその気になっても、あいつは鼻も引っ掛けやしねえだろうけどな」
 その言葉にお互い笑い、自然に話題は移り変わり、足も進む。気が付いたときには、もう二人は塚本家の前にいた。
「送ってくれてありがとう。それからごめんね。デートなのに夕食も一緒しなくて。八雲が夕飯までには帰ってきなさいってうるさくて」
「いいってことよ」
 言いつつも胸中では八雲がそんなこと言うまいにと播磨は思う。早く帰ろうと言う心理は、まだ自分を信じきってはくれていないということなのだろう。贅沢は言えないと分かっていてもやはり寂しい。
 そんな彼の胸中を察したのか、天満が声をかけてきた。
「播磨君、少し寄ってく? 八雲も喜ぶよ。八雲もね、私が播磨君と付き合うことにしたって言ったら凄く喜んでくれたんだよ」
「ん〜、ありがてえけど、そこまでは甘えられねえ。それはまた今度ってことにしとくわ」
「……わかった。今日はありがとうね。旅行から帰ってきたら、また連絡するから」
「ああ。おやすみ……て言うには時間が早すぎっか。またな」
「うん」
 天満が家の中に入るまで待とうと思った播磨だが、彼女がなかなかそうしない意味を悟って、ようやく歩き出す。
 三十メートルほど歩いて振り返っても、まだ彼女は見送ってくれていて、あまつさえこちらに気が付いて手まで振ってくれた。
 次の路地で曲らなくてはいけないのを残念に思いつつ、播磨は手を振り返した。

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 STEP4  My Boy
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「さて、どうすっかな」
 ぶらぶらと歩きながら播磨は呟く。腕時計が示す時間は午後6時。帰るには早い。ましてや今日はめかし込んでいることもあり、それがもったいなくさえ感じた。
「あそこ、も一回行くか」
 播磨が向かった先は、例の有名量販衣料品店。実は先ほど、個人的にいいなと思った服があったのだ。
 だが、なんとなく流れでお互いに選んだ服以外が買いづらく、荷物が増えるのも避けたのだが、今なら躊躇する理由もない。
 何よりもそこは、今いる路地から歩いてほんの数分の場所にあるのだから。

 ほどなくして目的地に到着した播磨は、店内に入ろうとして駐車場の隅あたりに目をやり、軽く目を細めた。
 そこにいたのはひとりの女と二人の男。どうやらナンパでもしているらしい。
 ふだんなら放置していくところだが、どうもそうもいかないようだ。
 理由は二つ。ひとつめは、明らかに女が嫌がっていること。
 そしてもうひとつの理由は、その女が顔見知りだったことだ。
「めんどくせえなあ」
 ごちながら歩を進めていくと、その女の声が聞こえてきた。
「イヤだって言ってんでしょ? いい加減にしないと大声出すわよ」
「つれないこと言うなよ。ちょっとお茶飲むだけだからさ」
 壁を背にし、二人の男に行く手をさえぎられた形になっているその少女は、怒りの表情も露に男たちをにらみつけているが、見るからに柄の悪そうな男たちは、彼女が声を荒げるたびにおかしそうに肩をゆすっている。
 これはもう、ナンパされてるというよりは絡まれてると表現した方がいいかもしれない。
 播磨がなおも近づいていくと、彼女はようやくこちらに気付いたらしく、声をかけてきた。
「播磨君!」
「お?」
「あん?」
 二人の男もこちらを振り向いてくる。それは無視して、播磨はその金髪の少女、沢近愛理に尋ねた。
「なに遊んでんだ、おめえ?」
「これが遊んでるように見えるの? とっとと助けなさいよね」
「へ」
 意味ありげに笑って播磨は彼らに背中を向けた。そして自分ではかっこいいと信じつつ腕を組んで見せる。
「助けてください、だろ? 素直に言えたら考えないこともねえぞ」
「たすけてください」
 やけに平坦な声で愛理が言ってきた。怪訝に思って振り返ると、そこにもう二人の男の姿はなかった。
「なんだ?」
 播磨の疑問に愛理が答えてきた。
「とっくに逃げてったわよ、あいつら。あんたの顔か名前にびびったんじゃないの? ああいう輩にはやたら有名なのね」
「るっせえな。てか、おまえなんでこんな店の前にいるんだ?」
「なんでって、いちゃ悪いの?」
「いや、悪かねえけどよ。こういう店、よく来んのか?」
「まあ、こういう店のこととかも知っておかないと、美琴たちと話が合わないしね。正直興味もあったのよ」
 そこで言葉を切って、愛理が不思議そうに聞いてくる。
「それはともかく、ずいぶん気合入ってない?」
 その言葉が服装のことだと気付き、播磨は頬を掻きながら答えた。
「ああ、デートだったからな」
「なるほど。天満とか。ずいぶん早いお開きね」
「それを言うなよ」
 仏頂面の播磨をじっと見つめてきたあと、何を思ったのか彼女はいきなり彼の腕を引いてきた。
「なにす……」
 言いかけた彼を愛理は強引に店内へと引きずっていく。
「後半戦は私が相手したげるわ。感謝しなさい」
 愛理に引きずられながら播磨は店内に入る。ちょうど先ほど自分たちに声をかけてきた店員が目に入り、思わず播磨は顔を隠す。
 別にその必要もないし、そもそも向こうがこちらの顔を覚えている可能性などほとんどないのだが。
「ふーん、店内は結構綺麗なんだ。見た感じ、よさそうな服もあるし」
 いかに安売り店とは言え、やはり女の子にとってこういうショップと言うのは居心地がいいものなのだろうか。瞳を輝かせている愛理を見て、チャンスとばかりに播磨は声をかけた。
「んじゃ、適当に見てろよ。俺、買うもんあっからよ」
 言いながら腕を振りほどく。できるだけ乱暴にならないように心がけたのは、もちろんさっきの天満のお小言のおかげだ。
「ちょ、ちょっと……」
 後ろから何やら声をかけてくる愛理を無視して、播磨はメンズコーナーへと走る。
「お、あったあった」
 播磨が手に取ったのは一昔前に人気のあったロックバンドのロゴが印刷されたエンジ色のTシャツだった。
 いかにも悪っぽいイメージが自分に合うんだよなと自己満足に浸っていると、横合いから細い腕が伸びてきて、そのTシャツをひったくってきた。
「なにすんだ?」
 抗議の相手は、もちろんしつこくこちらを追いかけてきた愛理。
「こういうのが好きなの?」
「わりいかよ」
「1200円ねえ……」
 愛理は不意に思案顔になり、そののち、Tシャツを播磨に押し付けて言ってくる。
「ちょっと待ってなさい」
「なんだ?」
 首をかしげているうちに彼女は隣の売り場に移り、なにやらいくつか服をあさっている。
「なにやってやがんだ?」
 そうぼやいている内に、彼女は一枚のTシャツを持って戻ってきた。
「これどう?」
 彼女が差し出してきたのは白地に細い紺の横縞が走ったシンプルなデザインのTシャツだった。
「あんたさ、前に紺色のサマージャケット着てたでしょ。あれ、安物だとは思うけど、結構良かったと思うのよね。あれにこのTシャツ、よく合うと思うわ」
「ん? そうか?」
 言われるままに自らの胸にそれをあてがってみる。単独だと地味っぽいが、確かにあのジャケットと合わせるといい感じかも知れない。値段もあっちと同じ1200円。
 いつもなら馬鹿言ってんじゃねえなどと言いつつ却下するところだが、先ほど天満に釘を刺されたこともある。
 それに美琴たちが反対してるとなると、愛理を敵に回すのは得策とは言えない。
 そんなことを考える播磨に愛理が指を突きつけて言ってくる。
「そうそう。そのTシャツ着るなら、ペンダントとかはやめときなさいよ。合わないから」
「なるほどな。よし」
 播磨は自分で選んだエンジ色のTシャツを元の場所に返す。
「やめるの? それも悪くないと思うわよ」
 愛理の言葉を聞くと、播磨は軽く肩をすくめて言う。
「俺も苦学生だからよ。じゃあ、俺これ買って帰るわ。おめーはもう少し見てくか?」
「ん〜」
 顎に指を当てる愛理の横顔を見て、なんとなく播磨は周囲に視線をめぐらす。と、なぜか次々と男性客たちと目が合い、彼らは気まずそうに顔を伏せる。
 そのわけに思い当たり、もう一度播磨は愛理に視線を戻す。奴らの気持ちも分かると正直思う。
 髪を傷めて染めた汚い偽物とはまるで違うつややかな金髪。年相応の愛らしさと不相応な艶やかさを備えた顔立ちは申し分なく美しい。
 そして、理想を具現化したようなプロポーションを、水色のタンクトップと白いカーディガン、そしてデニムのミニスカートで包んでいる。
 そこから先は見とれるような脚線と素足にピンク色のサンダル。
 普通の男だったら、こんな女を彼女にしたいって思うんだろうなと、播磨は他人事のように考える。
「うん、私も出るわ」
 愛理の言葉に我に返り、播磨は愛理に適当に返事を返すとレジへと歩いていく。するとなぜか愛理までついてきた。しかもその手にいつの間にか先ほど播磨が買おうとしていたエンジ色のTシャツがあるのを見て、彼は目を丸くした。
「おめー、それ……」
 愛理は少し気恥ずかしげに視線をさまよわせて言う。
「ああ、これは私がプレゼントしてあげる。天満と付き合えるようになったお祝いと……さっきのお礼も兼ねて」
「だけどよ」
「女に恥かかせる気?」
 睨み付けてきた愛理を見て、播磨は肩をすくめた。
「まあ、いいか。サンキュ」
 播磨が言うと、愛理は柔らかい笑みとともに、小さく頷いた。

「はい」
 店外に出ると、笑顔とともに愛理が紙袋を差し出してきた。
「おう。わりいな」
 播磨はそれを天満に買ってもらったポロシャツと自分で買った横縞のシャツの入った紙袋に押し込んだ。
 そうしながら、播磨は思う。確かに天満の言うとおり、愛理は本来心根の優しい少女なのかも知れないと。
 もっと彼女と親しくなるのも悪くない。いや、むしろなりたいとも。もちろんそれは友達として、あるいは恋人の親友と言う形としてだが。
 そんなことを考えているうちに、播磨は袖を引かれる感触に気付いて、視線を愛理に向けた。
「ちょっと、聞いてるの?」
「聞いてなかった」
 播磨がきっぱり答えると、愛理が怒ったように頬を膨らませた。
「お腹すいたって言ってんの」
「ああ、んじゃ、そろそろかえっぐはっ!」
 言おうとして飛び上がったのは突然むこうずねに痛みを感じたから。その理由は言うまでもない。
 過激な行動に走る下半身とは別に、首から上は、すねたように言ってくる。
「お腹すいたって言ってるんだけど?」
「おめえなあ……」
 怒鳴りつけたい気持ちを必死に播磨は押さえつける。天満にも釘を刺されているし、シャツを買ってもらった恩もある。 
 深呼吸で感情を抑え、播磨はようやく口を開いた。
「わかった。おごってやるよ。ただし、大したもん期待すんじゃねえぞ」
「まあ、そこまで言うなら付き合ってあげるわ」
 傲慢なセリフに憎まれ口の一つでも叩いてやろうと思った播磨だが、そんな意識もあっさりと吹き込んだ。
 言葉とは裏腹に、愛理がほんとうに嬉しそうな顔をしていたから。
「行くぜ」
 播磨が言うと、愛理はにっこりと頷いた。

 二人が入ったのはごく普通の和風の定食屋だ。値段が安い割りにボリュームがあるということで、播磨はここを重宝している。
 播磨はとんかつ定食を、愛理は天丼を頼み、今は二人揃ってそれを食べている。
 めかし込んだ男とめかし込む必要もなく目立つ女がこんなところで飯を食っている状況もどうなのかと播磨は思う。
 意外なのは、愛理が全く文句の一つも言わず、むしろ嬉しそうに天丼を食べていることだ。
「よくわかんねーよな、この女も」
「ん、なに?」
 小声で呟いた声に突っ込まれ、少し慌て気味に播磨は答える。
「な、なんでもねーよ」
「よくわかんないわね、あんたも」
「こっちのセリフだ!」
 などと和やかな会話を重ねつつ二人の食事は順調に進む。定食を平らげた播磨がお茶をすすっているうちに、愛理も天丼を一粒残らず片付け、丼から顔を上げてきた。
「ああ、おいしかった。こういうとこもいいものね」
 満面の笑顔で言ってくる愛理。
「そっか。まあ、何よりだ」
 言って播磨は伝票を手に取った。
「んじゃ、帰るか」
「……そうね」
 答えてきた愛理の瞳が少し寂しげに見えた。と、不意に天満の言葉を思い出し、播磨はその質問を素直に口に出す。
「そう言や、おめーイギリス行くんじゃなかったのかよ。こんなとこにいていいのか?」
「あ……」
 たちまちのうちにその表情が曇り、愛理はうつむいた。
「あんたにはほんとのこと言っちゃおうかしらね」
「なんだよ?」
 愛理は物憂げにため息をついて頬杖をついた。
「昨日電話あってね。お父様、仕事入ったって。それで今日もすごく落ち込んでて、ぼうっとしてたのね、きっと。気が付いたらあんな連中に絡まれてて。だから、ほんとのこと言うと、その……」
 言葉を切って視線を泳がせると、観念したように彼女は言ってきた。
「あの時、あんたが来てくれてほんとに嬉しかった」
「……たまたまだ」
「それでも、嬉しかった」
「まあ、いいけどよ」
 いつになく素直な愛理が気恥ずかしくて、播磨は視線を逸らす。
「それなら旅行行けばいいじゃねえか。塚本、おめーが行かないからってがっかりしてたぜ」
「今さら。旅館の予約だって無理だし、それに、なんか恥ずかしいわ」
「まあ、無理強いはしねえけどよ。出るか?」
「うん」
 伝票を持って出口に向かう。レジに立っているのは播磨も見知っているおしゃべりな中年女店員だった。
「ごっそさん」
「ありがとうございます〜」
 満面の笑顔とともに女店員は頭を下げる。代金とお釣りのやりとりをしながら、彼女が言ってくる。
「あんた、幸せもんだねえ、こんな可愛い彼女がいて」
 言われて思わず横の愛理を見ると、彼女は少し頬を染めながら表情をこわばらせていた。
 なぜそんな気になったのかは、播磨自身にもわからない。ちょっとしたいたずら心だったのだろうか? それとも見栄だろうか? いずれにしても播磨は答えていた。
「やっぱそうだよな。あんがと」
 言って横を見たが、愛理の表情は見えなかった。なぜなら、彼女は播磨に背中を向けていたから。まずったかなと思いつつも支払いを終え、播磨は愛理に声をかけた。
「行こうぜ、お嬢」
「う、うん」
 答えてきた愛理の声は、かすかに震えていた。


 夜も更け、すでに矢神町の商店街はシャッターを下ろしている店も多い。それでも三日月が街灯の明かりをアシストし、暗さは感じない。
 だまりこくったまま二人は歩く。先に口を開いたのは播磨だった。
「悪かったな。なんか調子に乗っちまって」
「謝らないで。別に怒ってないから」
 そっぽを向いたままで愛理は答える。やや大きな交差点に出ると、愛理が声をかけてきた。
「ここでいいわ。車、呼んだから」
「そっか」
 答えはしたものの、なんとなく彼女をひとりきりにする気になれず、播磨はその場に立ち尽くす。
 そんな彼を見かねたのだろう。ガードレールに腰掛けながら、愛理が尋ねてきた。
「あ、あんたさ。この連休、予定とかあるの?」
「いや、特にねえが?」
「わ、私もね、さっき言った事情で暇なのよね。明日から天満旅行だし、あんたも暇を持て余すんじゃない?」
「そうだったな」
 再び沈黙。そして、播磨は考えをまとめてそれを口にした。
「ならよ」
「う、うん」
 覗きこむように愛理が聞いてきた。
「なら、おめえ、やっぱ旅行行け」
「え?」
 意表を突かれたようにきょとんとする愛理。しばしののち、気を取り直したのか彼女は言ってきた。
「さっきも言ったでしょ。今更旅館とか無理だし」
「なんとかなるんじゃね? ほらなんつったっけ? あいつ……」
「晶?」
「おう、そいつ。あいつならなんとかしてくれそうじゃねえ?」
「でも……」
「それによ」
 しばらくの間を置いて播磨は言った。
「それに、おめーら、そんなことで恥ずかしいとか言う間柄でもねえだろ」
 播磨が言うと、愛理は横顔で苦笑めいた微笑を浮かべる。
「そうね。あとで晶に電話してみるわ」
 そんな彼女をしばし見つめたあと、播磨は告げた。
「んじゃ、俺行くわ」
「あの……」
「お?」
 物問いたげな彼女の様子を見て、播磨は彼女に目を向けなおした。胸の前で組み合わせた手をせわしなく動かしながら、彼女は言ってくる。
「ヒゲ……。ううん、播磨君。その、やっぱりもう少し話したいわ。こっち、来ない?」
「お? なんだ?」
 請われるままに愛理に歩み寄ると、播磨はなんとなく彼女に並んでガードレールに腰掛けた。
 愛理は、かすかに肩をこちらに寄せ、震える声を押し出してくる。
「あ、あんたが悪いんだからね。あんなこと言うから、私……もう……」
「あん?」
 意味が分からず播磨が問い返すと、愛理は顔を深くうつむけた。長い髪が邪魔して、表情は見えない。
「私……私……」
 意を決したように愛理がこちらに顔を向けてきた。夜目にも鮮やかなその白い顔は、今は朱に染まっている。そして彼女は大きく息を付いたあと、強い声を出す。
「私っ」
 そのときだった。不意に周囲が明るくなり、静かなエンジン音とともにリムジンがガードレールをはさんだ向こうに姿を現したのは。
 それが二人の背後に止まり、運転席から一人の男が降りてくるのを見ると、愛理は安堵と失望が複雑に混じったようなため息を吐いた。
「あのバカ。いいところで……。てゆーか、助けられたのかしらね」
「何のことだ?」
 問いかけた彼を睨みつけてきて、愛理が言った。
「鈍感男」
「はあ?」
 挨拶もなしに愛理の姿がリムジンに消えた。それが走り去っていくと、播磨は夜空を仰ぎ、月に向かって言った。
「女ってわからん」

〜To be continued〜

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 STEP5  When She Knows The Truth
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 窓の外は今にも泣き出しそうな空。天気予報では降水確率10%となっていたが、実際はどうなのだろうか?
 
 放課後。日直の仕事を大方終えて教室に戻る最中、外を見つめて天満は思う。今は六月。すでに二日前に梅雨入りもしている。そう考えると天気予報もあてにはならない。そんなことを考えていると、横にいた男子生徒が声をかけてくる。
「どうしたの? ぼーっと外見つめて」
 声の主はクラスメートの冬木武一。メガネの似合う、端正な顔立ちと言っていいだろう。面倒見も良く、あの趣味さえなければもてるだろうにと常々天満は思っている。
「うん、雨大丈夫かなって思って」
 天満が言うと、冬木も頷いて窓の外を見やる。
「急いだ方がいいかもしれないね」
 少しだけ歩みを速めたのち、冬木が尋ねてきた。
「播磨とはうまく行ってるの?」
「うん、そこそこかな」
 答えてから、天満は軽くうつむいて言う。
「冬木君も私のこと、いい加減だって思ってるよね。烏丸君のことであれだけ世話になったし」
「そんなことないよ。むしろ、安心してる部分もあるし。沢近さんとかにそうやって言われるの?」
「愛理ちゃんはそうでもないけど。美コちゃんは時々……」
「そっか。仕方ないよな。周防さんは特に沢近さんと仲がいいし」
「え? どういう意味?」
 天満が聞き直すと冬木はわずかに視線をさまよわせ、
「いや、俺の思い違いかもしれないけど、沢近さんさ」
「う、うん」
 思わず身を乗り出した天満をしばし見やり、冬木は吐息とともに首を横に振った。
「ごめん。俺が言うことじゃないな」
「ええ? 気になるよ」
 しつこく問い詰めようとした天満だが、もう教室は目の前だった。
「タイムリミットだね」
 ウインクしながら冬木が言ってくる。
「もう。今度詳しく聞くからね」
 言いながら教室の扉を開いた天満は、無人と思っていたそこに人影を見つけて軽く目を見張った。
「おつかれ、天満。結構時間かかったのね」
「愛理ちゃん!」
 自分の席にひとり腰掛けていた彼女に、思わず天満は駆け寄る。
「待っててくれたの? よかったのに」
「ん、今日はヒゲと一緒じゃないでしょ? 久しぶりに一緒に帰ろうと思って」
「なんでわかったの?」
「ヒゲが八雲といたから。あの二人、いつも何やってんの?」
 聞かれて天満はため息をつく。
「言わないのよ、二人とも。妹と彼氏が何か秘密持ってるって気分悪いんだけど」
「そうなんだ。怪しくはないの?」
 愛理の言う怪しいの意味を察し、天満は手をヒラヒラと振った。
「それはないよ。あのことは私たちの勘違いだったみたいだし。私と播磨君のこと、一番喜んでくれたのも八雲だしね」
「そっか。ならいいんだけど。気をつけなさいよ。妹に取られないように」
「やっだ、愛理ちゃんってば」
 ひとしきり笑ったのち、天満は冬木がじっと愛理を見つめているのに気付いてにやりと笑う。
「なに愛理ちゃんに見とれてるの?」
 その言葉に冬木が吹き出した。
「ぶっ、何言ってんの? そんなわけないだろ」
「なんか失礼なセリフ聞こえたけど?」
「そ、そういう意味じゃ……」
 そんな会話をかわす二人を見つめて、天満は不意に深く頷いた。
「あ、冬木君、もしかして? さっきも愛理ちゃんのこと気にしてたもんね。私、ちょっと用事思い出した。すぐ帰ってくるから」
「お、おい……」

 冬木が呼び止める間もなく、教室を飛び出していった天満を見て、愛理は呆れたようにため息をついた。そして、冬木に視線を向けて問いかける。
「で?」
「そ、そんなんじゃないよ。そこまで身の程知らずじゃないし」
 大きく首を振りながら冬木が言うのを聞いて、愛理は小さく笑う。
「なんだ、つまんない」
 言った愛理だが、冬木がなおも自分を見つめているのに気付き、軽く舌打ちをした。
「なんなの?」
 冬木は少し視線をさまよわせ、言ってきた。
「気のせいだといいけど……。あんまり無理しない方がいいよみたいな……」
 その言葉を聞いて、愛理はすっと目を細めた。
「なんのこと?」
「いや、なんでもない。帰るね」
 冬木は自分の机に走ると、鞄を掴み、小走りで教室をあとにする。一人残された愛理は、ため息をつきながら顎杖をつき、小さな声で言った。
「分かる人には分かっちゃうのね」
 まあ、当然かと愛理は思う。体育祭のときにあれだけ派手にやらかしているし、二年の後半あたりでの自分の態度は、見る人によっては露骨だったと思う。
「もう少しの辛抱だわ」
 愛理は自らに言い聞かせる。もう少し。もう少し天満と播磨の距離が近づいて、お互いに離れられなくなったならそのときには愛理は打ち明けようと決めていた。昔、播磨のことが好きだったのだと。そうすれば、きっとこのつらさからも解放される。それまでは誰に何を言われようと無理を通すしかない。
 ため息とともに顔を上げると愛理は、なんとなく周囲を見渡す。ふと、窓際に放置されたジャージを見つけ、眉をひそめた。
 そういえば、今日の六時限目は体育だったと思い起こす。体育のときは男子が3−Cで着替えるから、D組の生徒の忘れ物なのだろう。
「だらしないわねえ」
 愛理は窓際に歩み寄るとそれを手に取った。忘れん坊の名前を確認しようとして、名札を目にし、そして凍りついた。
 そう、そこに書かれていた名前は播磨拳児。その名札こそは、愛理が自分の手で書き、自分の手で一度は縫いつけたものだ。
「やだ、なんでこんなものがこんなときに……」
 愛理の心に、まるで逆流するかのように想い出が蘇ってくる。

 沈んでいた愛理の背中にジャージをかけてくれた播磨の姿が。
 おまえのために勝つと約束してくれた言葉が。
 愛理のために柄にもなく全力で走り、帽子が脱げるのもいとわずに勝利をもぎ取ってくれたあの姿が。
 それこそ柄にもなく、そんな播磨を誘って全校生徒の前で踊ったあの想い出が。
 そして、播磨のために懸命に名札を縫いつけたあのときの想いが。指先の痛みが。

 もう止まらなかった。体育祭の時だけではなく、いくつもの想い出が激流のように愛理を押し流そうとする。
 仏頂面で傘を差し出してくれた雨の日。突然の告白に胸が高鳴った夏。おにぎりを最後まで食べてくれた文化祭。
 全ての想い出が、今は宝物のように思えた。

 逆流してきた想い出は、愛理のキャパシティを遥かに超えていた。目を逸らそうとしても名札から目が逸らせない。ジャージを捨てようとしても指先が凍りついたように動かない。限界だった。
「なんで……。なんで……」
 ジャージを顔に押し当てて愛理は泣いた。声を上げて泣いた。そして、今まで自分がどれだけ無理をしていたのか、初めて知った。

「……ちゃん! 愛理ちゃん!」
 どこからか声が聞こえてきた。よく知っている声。でも誰の声なのかわからない。
「違う。違う。私はあいつのことなんか……」
 激しく首を振る。
「愛理ちゃん!」
 今度ははっきりと聞こえた。それと同時に肩を揺さぶられる感触。ようやく自分を取り戻し、顔をあげた愛理が見たのは、半泣きになった親友の顔だった。
「愛理ちゃん! どうしたの? 冬木君に何かされたの!? あいつって誰?」
「天満……」
 ぼんやりとした頭が次第にはっきりしてくる。状況を把握し、愛理は愕然とした。見られた。泣いていたところを。一番見られてはいけない相手に。
「答えて。何があったの?」
「な、なんでもない……」
 言いながら、ジャージをあわてて後ろに隠す愛理。それがまずかった。すかさず天満が言ってくる。
「なにそれ? ジャージ……だよね? それがどうかしたの?」
「な、なんでもない! なんでもない! なんでもない!」
 必死に叫ぶ。だが、天満も譲らなかった。
「なんでもないはずないよ! なんで隠すの? 見せて!」
 天満はこちらに掴みかかってくると力ずくでジャージを奪いに来る。
「やめて!」
 叫びながら抗う。だが、短い争いに勝ったのは天満。いつもなら負けるはずのない争いに負けた理由はわからない。
 ジャージを傷つけることを恐れたのだろうか? それとも、ほんとうは天満に知って欲しかったのかも知れない。自分の本心を、自分がどれだけ傷ついてきたのかを。
 そんなことを思い自己嫌悪に沈む愛理をよそに、勝利者たる天満は愛理に背中を向けるようにしてジャージを広げ、その名札を見て息を呑んだ。
「播磨君のジャージ……。もしかして……そうなの?」
 達してはならない真実に、天満が達しようとしている。
「ち、ちが……」
 反論も言葉という形にはならず、空中で霧散する。
 天満は泣いていた。ジャージを握り締めた手をぶるぶると震わせて泣いていた。
「そうだったんだ。さっきの冬木君の言葉、そういう意味だったんだ。晶ちゃんや美琴ちゃんが怒ったのもそういうことだったんだ」
「ちがう! 天満、それはちがうから……」
 必死の叫びも天満に届いた様子はない。まるで罪を懺悔するように天満は続ける。
「私、最低だ。愛理ちゃん、あのとき私のことあんなに励ましてくれたのに、私は愛理ちゃんから播磨君を取り上げた。自慢みたいにして告白の様子を教えた。播磨君より烏丸君のほうが好きとかひどいこと言った。私、最低だ。晶ちゃんや美琴ちゃんに嫌われたのも当たり前だったんだ。私だけ、私だけ、何も知らなくて、一人でいい気になって。いっぱい愛理ちゃんのこと傷つけた。最低だ……」
「天満、ちがうから、絶対ちがうから」
 必死に天満の肩を揺さぶる。最悪の事態だ。パニックになった愛理には、もう何をどうすればいいのかも分からなかった。
 しかも、愛理は知らなかった。ほんとうの最悪の事態はこれから起きるのだと言うことを。
「なにしてんだ、おめーら」
 第三者の声は唐突に響いた。弾かれたように視線を向けた先に彼はいた。しかも、その横には八雲まで。
 こんな時間まで二人で何をしていたのかはわからない。むしろそんなことはどうでもよかった。大切なのは、この場を切り抜けること。しかし、もう愛理には自分が何をすべきなのか、何を守るべきなのか。全くわからなくなっていた。
「どうしたよ? 喧嘩でもしたのか?」
 歩み寄ってくる播磨に、逆に天満が駆け寄っていく。そんな彼女に播磨がおろおろと声をかける。
「ど、どうなってんだ? それ俺のジャージだよな? つうか、それ取りに来たんだが。いったいなにが?」
 そんな言葉に耳を貸す様子もなく、天満はその言葉を口にした。
「播磨君。私、もう播磨君とは付き合えない」
「な……」
 いきなりの言葉に絶句する播磨。そして天満は涙声でさらに言う。
「愛理ちゃんはね。愛理ちゃんはね……」
「天満、黙って!」
 必死の制止も無駄だった。すでに判断力もなにも失っている彼女は、愛理の声に負けじとばかりの大声で叫んだのだ。
「愛理ちゃんは、播磨君のことが好きなんだよ!!」
 その言葉を最後に沈黙が落ちた。聞こえるのはただ天満のすすり上げるような泣き声のみ。
 愛理も、播磨も、八雲も。なすすべもなく天満を見つめる。最初に沈黙を破ったのは播磨だった。天満が話せる状態ではないと悟ったからだろう。こちらに視線を向けて言ってくる。
「お嬢、どうなってんだ? 今のは何の冗談だ?」
「播磨君!」
 怒声は天満のものだった。
「まだ、愛理ちゃんの気持ちが分からないの? 最低だよ」
「な、いったい? ちょ、待て!!」
 播磨が叫んだのは、泣き顔で播磨をにらみ付けたあと、天満が床を蹴って教室を飛び出したから。
 播磨が呆然としながら愛理にもう一度聞いてくる。
「どうなって……」
「追いかけなさいよ!!」
 播磨の語尾をかき消すように愛理は叫んでいた。
「あんた、なに考えてんの!? 自分の好きな女の子が泣きながら走ってったのよ! なんで追いかけないの?」
「だ、だけどよ、お嬢、おめーも泣いて……」
「私のどこが泣いてるって言うのよ!」
 涙を手の甲で拭いながら愛理は叫ぶ。
「追いかけなさい!」
「くっ……」
 歯を食いしばると、播磨は愛理に指を突きつけてくる。
「わかった。お嬢、あとできっちり説明しろよな」
 言い捨てて播磨もまた教室を飛び出していった。

 それを見送ると、愛理は手近にあった机を力任せに平手で殴りつけた。手のひらから伝わってくる痛みも、心の痛みを中和してはくれない。
「なんで、こうなるのよ……」
 忌々しかった。播磨のジャージを見ただけで我を失った自分が。ジャージを忘れていった播磨が。そして……。
「沢近先輩。いったいなにが……」
 ずっと黙っていた八雲が、心配げにこちらに手を差し出してきたのを見た瞬間、理不尽な怒りが愛理の心を喰らい尽くした。
 そして誰もいない教室には思いのほか大きく響いた。八雲の頬が鳴らした音は。
 突然打たれた左頬を押さえ、呆然とこちらを見つめてくる八雲を愛理はなじった。
「元はと言えば、あんたがあの名札を付け直したりしなければ……」
「え……」
 目をしばたかせる彼女を見て、ようやく愛理は自分が何をしたのかを悟った。自分の言葉に、脈絡も何もないことも。八雲にはひとかけらも罪などないことも。
「ご、ごめんなさい……。私なにをやって……」
「いいんです」
 赤く腫れた頬。恐らくは誰にもぶたれたことなどなかったであろう頬から手を下ろして、八雲は言ってくる。
「あの名札、やっぱり先輩が……。私……」
「ちがうから」
 きっぱりと言った言葉に説得力がまるで含まれていないことに気付いてはいたが、愛理はもう一度言わずにはいられなかった。
「ちがうからね、それ。あと、いきなりぶってほんとうにごめん。……私、どうかして……」
 言葉が途切れたのはまた涙がこみ上げてきたから。一番涙を見られたくない相手の前なのに。
「ごめんなさい、先輩」
 自分の肩に手をかけてきたその少女を涙越しに見つめ、愛理は必死に言葉を押し出す。
「いいのよ。それから、今夜、天満のことを頼むわ。あの子、とんでもなく落ち込んでるはずだから。私のことは、案外平気な顔しててあきれたとでも言っておいて」
「わかり……ました」
 答えた八雲の言葉が嘘だということぐらい愛理にもわかる。だが、愛理は心から言わずにはいられなかった。
「ありがとう……。それから、ほんとうにごめんね」


 播磨拳児がダッシュで校庭に飛び出したときには、天満の姿はどこにもなかった。先ほど天満が告げてきた愛理の気持ちも気にはなるが、今考えるべきことはそれではない。
 まず訪れたのは茶道部室。もちろんと言うべきか、天満はいない。高野が怪訝げに問いかけてくるのを適当にごまかし、外に飛び出す。
 そこで思い出して一応電話をかけてみるが、予想通り、聞こえてきたのは留守番電話の応答のみ。
 次にメルカドに向かう。そこにも天満はいない。絶望に暮れながら時計を見るともう午後6時だ。
 もはや行くべきところは一つしかなかった。
 播磨は重い足取りで塚本家を目指す。あの初デート以来、何度となく通った道。天満を送って。または天満を迎えに行くために。
 いつも明るい気持ちで歩いたこの道を、今は暗澹たる気分で歩いている。
 そうしながら播磨は先ほどの出来事を思い返す。ジャージを取りに教室に向かったら、争うような二人の声が聞こえてきて、入ったらいきなりもう付き合えないと言われ、そして天満は確かに言った。愛理が播磨のことを好きなのだと。
 こればかりは考えられなかった。あの愛理が、自分などを。だが、あの時の二人の様子は……。
 冷静に考えれば、全くそれらしい素振りがなかったわけでもない。あの体育祭のときは気まぐれかと思っていたが、その後向こうから話しかけてくることが多くなった気もする。
「アホか、俺は」
 首を振って播磨は頭を切り替える。今考えるべきは天満のこと。愛理のことではない。そう、他でもない当の愛理にも言われたばかりだ。
 考えているうちに播磨は塚本家の前まで来ていた。灯りはついていない。唾を一つ飲み込んで呼び鈴のボタンを押す。
 チャイムは軽やかな音色を奏でるが、中から誰も出てくる様子はない。何度となくそれを繰り返すが結果は同じ。
 どうしたものかと思い悩んでいたところで、背後から声をかけられた。
「播磨さん……」
 振り向いた先に、いたのは塚本八雲だった。
「妹さん、塚本は?」
 その問いかけに瞳を伏せ、八雲は答えてくる。
「姉さんなら、もう帰っているはずです。さっき、携帯繋がりましたから」
「そうか……」
 播磨は胸を撫で下ろす。
「妹さん、俺はもうなにがどうなっているのか……」
「……」
 八雲は何も答えない。恐らく播磨よりは事情に通じているのだろうが。
 播磨は力なく言う。
「妹さん。お姉さんに伝えてくれるか? 裏の公園で待っていると。来るまで待っていると」
「……わかりました」
 八雲の姿が家の中に消え、明りが灯る。播磨はもう一度塚本家を見上げ、意を決して歩き出した。


 公園のベンチに腰掛け、播磨はサングラスの奥の瞳を閉ざした。二人の少女の顔が互い違いに脳裏に現れ、ぐるぐると回る。
 頬をゆがませたのちに播磨は再確認する。
 状況からすると、愛理が自分のことを好き、少なくとも天満はそう思い込み、身を引いたと言うことになるのだろうか。だとしたら、自分の気持ちはどうすればいいのかと播磨は思う。
 友達と恋人。どちらを選ぶのかという俗な話はよく耳にする。播磨にはわからない。友達のために身を引くと言う感情が。
 なぜなら、彼にはいなかったから。好きな女と天秤にかけられるような同性の友人が。
 あれが事実だとしたならば。もし本当に愛理が自分のことを好きなのだとしたら。彼女もまた、天満のために感情を押さえていたと言うことなのだろうか。
「なんでそんなことができるんだよ」
 播磨にはわからなかった。彼女たちの理論を当てはめたら、恐らく自分のなすべきことは愛理を受け入れることなのだろう。
 だが、どうしてそんなことができる? 自分の心はまだあの少女のものなのに。
 同情で愛理を好きになれと? できない。即答するしかない。もちろん嫌いだと言うわけではない。
 むしろ客観的にいい女だとは思うし、性格的にも決して悪くないことも天満を通してわかっても来てる。
 そして、もしほんとうに愛理に想われているとして、あれほどの女に想われるのは光栄と考えるべきなのだろうとも思う。
 しかし、それとこれとは別の問題ではないのか?
 播磨の頭の中ではいくつもの「だが」と「しかし」が駆け巡る。
 そして播磨の考えがまとまらないうちに、彼女はやってきた。そして、その彼女は塚本天満ではなかった。
 播磨の目の前で立ち止まると、塚本八雲は申し訳なさそうに言った。
「すみません。姉さんは来ません。今はどうしても会う気になれないって」
「そっか」
 こうなるのではないかと、正直播磨も頭の奥で考えていたので、失望する気にもなれない。
「塚本、どうしてる?」
「だいぶ落ち着きました。いろいろごめんなさいって姉さん言ってました。播磨さんにその言葉と……それから、愛理ちゃん……沢近先輩のこと受け止めてあげて欲しいって」
 その言葉を聞いて播磨の胸は軋む。天満は必死に愛理のことを想っているのだろう。それなら、好きな女に別の女を選べと言われた自分の気持ちはどうなるのかと。
 だが、そんな想いはとりあえず押さえ、播磨は別の質問を選んだ。
「お嬢はどうした? あいつもかなり……」
 そのあとの言葉が思いつかず声を途切れさせると、察したように八雲が答えてきた。
「沢近先輩もだいぶ落ち着きました。車に乗り込むところまで見届けましたから、大丈夫だと思います」
「そっか」
 そこまで話して、播磨はずっと八雲が立っていることに気付き、小さく苦笑した。
「とりあえず、座んなよ」
 播磨が自分の体を左に寄せてスペースを作ると、ありがとうございますと答え、八雲は腰掛けてきた。
「あの、播磨さん、これを」
 八雲が差し出してきたのは折りたたまれたジャージだった。なぜここにこれがあるのか一瞬疑問だったが、あのときあのまま天満が持ち帰ったのだとようやく思い出す。
「おお、あんがと」
 播磨がそれを受け取ると、八雲が不意に不可解なことを言ってくる。
「播磨さん、それの名札、見てもらえますか?」
「は?」
 言われるままにそうするが、そこには何の変哲もない、名札が縫い付けられているだけ。
「ああ、これな。妹さんが付けてくれたんだよな?」
「違うんです」
「え?」
 八雲は唇を震わせてうつむいた。
「その名札、最初に縫い付けたのは沢近先輩なんです」
「ウソだろ……」
 よりにもよってあの愛理がこの名札を縫いつけたなどとは想像も付かない。だいたい、彼女は裁縫が苦手なはずでは。
 その疑問に答えるように八雲が言う。
「ほんとうです。姉さんも、沢近先輩の字に間違いないって言ってましたから」
「マジか。知らなかったぜ。じゃあ、あのときなのか。でも、あいつこんな裁縫うまいのか?」
 それを問いかけた瞬間、八雲の肩が大きく震えるのがわかった。驚いてそちらを見ると、その美しい瞳は夜目にも分かるほどに潤んでいた。
「妹さん!」
 あわててその両肩に手をかけ、播磨は呼びかける。
「どうしたんだよ? なんで泣くことあんだ?」
 その言葉に、途切れ途切れに八雲は答えてきた。
「私、沢近先輩に……ひどいことしました。縫い方が荒いからって……先輩がきっと一生懸命、心を込めて縫い付けた名札を剥がして……」
 あとはすすり上げるような声。
「妹さん……」
 播磨はかけるべき言葉も持たなかった。自分が日常的に着ていたジャージにそんな逸話があったとは夢にも思わなかった。
 海から帰ったあと、天満の手から渡され、八雲が名札付けたんだよと聞かされててそう思ってただけで。
「妹さんのせいじゃねえだろ。お嬢が付けたなんて知らなかったんだろ?」
「いいえ」
 八雲は小さくかぶりを振った。
「もしかしたら、私は薄々知ってたのかもしれません。先輩がジャージを羽織って播磨さんと踊ってたの見てたから」
「……そこまで自分を責めることねえだろ」
 無力感とともに播磨は言う。
「誰も悪くねえ。いや、違うか。悪いのは俺だ。あのとき、俺は何もかもがイヤになって逃げちまったから。塚本からもお嬢からも妹さんからも」
「播磨さん……。それなら、今回は逃げないって約束してくれますか?」
「それは……」
 八雲は、膝の上で小さな拳を震わせながらかすれた声で言う。
「私、本当は姉さんと播磨さんがダメになったら、言いたいことがあったんです。でも、私にはその資格が……少なくとも今はないとしか思えなくて。私、思うんです。もし、私が名札を付け直さなかったら。播磨さんが沢近先輩のしてくれたことに気付いていたら、全然違う今があったんじゃないかって」
「妹さん……」
「私にはわかるから。播磨さんが好きなのに姉さんとのこと応援してた沢近先輩の気持ちが痛いほどわかるから。好きになってあげてくださいとは言いません。まずは向かい合ってあげてください。それが姉さんの望みでもあるんです」
「……っ」
 かすかに唾を飲み込みつつ播磨は思う。その言葉が、どれほど残酷なのか八雲にはわかるだろうかと。好きな女に他の女と話し合えと言われる男の気持ちがわかるだろうかと。だが同時に彼女たちの気持ちも自分にはわからない。これも男女の距離と言うのだろうか。
「ひとつだけ聞かせてくれるか。俺と塚本はもうダメなのか? 自分で言うのもなんだけど、いい感じになってたと思ってた。俺が悪いわけじゃねえ。塚本が悪いわけじゃねえ。お嬢が俺のことを好きだって理由でダメになるのか? そういうもんなのか?」
 その質問に八雲は悲しげに瞳を伏せ、微妙に論点をずらしてきた。
「沢近先輩を責めないであげてください」
「俺だってそのくらいの道理はわきまえてるけどよ」
 播磨はため息混じりに夜空を仰ぐ。そんな彼に追い討ちをかけるように八雲が言ってくる。
「姉さん、自分が中途半端だったせいで播磨さんや沢近先輩を傷つけたって悔やんでいました。それから……」
「それから?」
 播磨が促すと、ためらいながらも八雲は口を開いた。
「それから、姉さん、夏休みにアメリカに行ってみるって。もう一度、烏丸さんと話し合ってみるって言ってました。いろいろ考えたら楽な方に逃げようとしてたことがわかった。本当に好きな人のことを、もう一度考え直してみるって」
「そうか……」
 その絶望的な言葉は、さほど予想外でもなかった。それが天満自身のためなのか愛理のためなのかは微妙なところだが。
 播磨は頭をひとつ振ると、八雲が望んでいるであろう言葉を送り出した。
「わかったよ。とりあえずお嬢と話してみる。それが塚本の……それから妹さんの望みでもあると思っていいんだな?」
 播磨の言葉に、なぜか一瞬八雲は表情をこわばらせ、しかし笑顔とともに言ってきた。「はい」と。
 諦めたようにため息を付くと、播磨は短く言った。
「行くか。送ってくぜ」
 播磨の言葉に八雲は手のひらを振る。
「いえ、目の前ですから。それから……あの」
「おん?」
 八雲はやけに言いづらそうに言ってくる。
「あの、これから先も、漫画の手伝いさせてもらってもいいですか?」
「はあ?」
 分かりきった質問に播磨は分かりきった答を返す。
「あったりまえだろ。いや、違うか。これからも頼むぜ、妹さん」
 言って播磨は右手を差し出す。八雲は少し緊張したようにうつむき、それから自らの右手を差し出してきた。
 思っていた以上に華奢で柔らかい手を優しく握り締めて播磨は言う。
「塚本のこと、頼むな。俺は平気な顔してたって伝えといてくれ」
 その言葉を口にすると、なぜか八雲は小さく微笑んだ。その意味が分からず播磨は聞く。
「どうした?」
「いえ、沢近先輩と同じこと言うんだなって思って。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 どちらからもともなく手を離す。八雲の姿が見えなくなるまで見送り、それから播磨は拳で手のひらを殴り、そして歩き出した。

 〜To be continued〜

 
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 STEP6  Dancing Once More
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 深いため息が知らず口から漏れる。
 やりきれない。納得がいかない。自分が贅沢なことを言ってることぐらい百も承知だ。沢近愛理が全校生徒レベルのアイドル的存在で、もしほんとうに彼女が自分に想いを寄せているのだとすれば、それを他の男が知ったのだとしたら、百人中九十九人、いやもしかしたら百人が羨ましいと言ってくるだろう。
 そのこと自体はいい。優越感がないと言ったら嘘になる。だが、そのために自分が天満に振られるというのはどういう展開だ。
 ベッドに寝そべったまま、播磨は一枚の写真をじっと見つめる。二年の夏休みに海で取った集合写真。自分自身や天満、そしてそのとき一緒にいた仲間たちと並んで取った写真。
 幾度となくこの写真を見つめた。あの少女のまぶしい笑顔が好きだったから。だが今、播磨は違う少女の顔を見るためにその写真を手に取っていた。
 美しい。心からそう思う。ほんとうにこの少女が自分などを好きなのか? そして腹立たしくなる。なぜ自分なのかと。
 この少女がその気になれば、男などよりどりみどりではないか。自分などよりハンサムでお金があって話の上手な男をいくらでも捕まえられるではないか。なぜ自分なのか。
 考えてみて笑った。同じだったから。公平に判断すれば愛理は天満より美しくお金もあり会話もうまい。だけど、自分がほんとうに欲しいのは愛理ではなく天満なのだ。恋愛と言うのはこういうものなのだろう。
 そして思う。今頃愛理も、こんな風に自分を思って悶々としているのだろうかと。想像しがたい構図だが、今の状況を考えればありえない話ではない。初めて播磨は、愛理にシンパシーのようなものを感じ始めていた。
 そのときだった。まるで播磨の思いにシンクロするかのように枕元の携帯電話が鳴った。液晶には非表示の文字。
「もしもし」
 返答はない。ほとんど確信を持って播磨は問いかけた。
「お嬢か?」
 数秒の沈黙を挟んで彼女はおずおずと言ってきた。
「えっと……。天満に電話したわ。やっぱりダメだったんだって? ……その、元気出しなさいよ」
 謝罪の言葉はなかった。いや、彼女を責める気は毛頭ないがてっきり最初に来るのは謝罪の言葉だと思っていたから、意外と言えば意外だ。だが、腹立たしい気にはならない。なぜか彼女は謝罪したいと言う気持ちを必死にこらえているように播磨には思えたから。
「まあ、とりあえず。前みたいに失踪したりとかはしねえから安心しろ。学校にもちゃんと行くさ」
「……よかった」
 心から安心したように愛理は言ってきた。
「あのよ、お嬢」
 そう呼びかけただけで、電話の向こうの彼女が息を呑むような気配が伝わってきた。
「あれ、ほんとうなのか? 今でも信じられねえんだけどよ」
「言いたくない」
 即座に返事が返ってきた。
「電話でなんて、言いたくない」
「……わりい」
 もっともな言葉に、播磨は謝罪した。そしてまた沈黙。どれだけそれが続いただろうか。そしてそれは愛理のその言葉で破られた。
「会いたい……」
 胸が一瞬どきりとするほどにその声は切なかった。時計を見る。午後九時。遅くはあるが遅すぎるわけでもない。もちろん、会って愛理をどうこうしようなどという下心はない。だが、あんな声で女に会いたいと言われ、断れる男がいるだろうかと播磨は自分を正当化する。
「どこに行けばいい?」
「……あそこで」
「あ?」
「あそこで待ってる。三十分だけ待ってる。信じてる……とは言わないわ。でも……」
「おい」
 思わず強く携帯を握り締め、播磨は怒鳴る。
「あそこってどこだよ? 全然わかんねえぞ!」
「そうかも知れないわね。でも、もしあんたが私を好きになってくれる可能性が少しでもあるとするならば、あんたは必ず来てくれるはずだから。待ってる」
 その言葉を最後に電話は切れた。無駄だとわかりつつも播磨は叫ばざるを得ない。
「おい、お嬢! あそこってどこだ、こら! ちっくしょぉ!!」
 怒鳴りながら携帯をベッドに叩きつける。非通知だからかけ直すこともできない。天満にでも聞けば番号は分かるだろうが、どの道電源を入れてはいないだろう。
「ったく、ふざけたマネしやがって」
 いらいらと室内を歩き回る。自分がなにをすべきなのか考える。愛理を受け入れることはまだできない。だが、このまま放置しておくこともできない。いずれにしても、会って話をすべきだろう。だがどこに行けと? あそこ? 見当も付かない。

 やはり天満に相談してみようか? ちらりと頭に浮かぶ。あるいは天満を通して、あいつ、そう高野に連絡すれば、一発で解答が出るような気もする。
 しかしと播磨は思い直す。それをしたら男としてダメなのではないかと。
「くそ」
 元々愛理の示した条件がめちゃくちゃだ。そんなに付き合いが深いわけでもないのに、あそことか言われてわかるわけがない。
 しかし、こうしている間にも愛理が自分のことを待っているのかと想像すると胸は痛む。今頃あいつは膝を抱いて俺を想っているのかと。
「膝を抱いて?」
 そのビジュアルが頭に浮かんだ瞬間、閃いた。あそこというのがどこなのか。むしろなぜ今までわからなかったのか。
「あのバカ女、こんな時間にあんなとこに一人でいんのかよ!」
 吼えながら部屋を飛び出そうとするが、部屋着で外に出るわけにもいくまいと思い直し、適当な服に着替える。
 そして、彼は弾丸のような勢いで部屋を飛び出した。もちろん、それを掴み取ることも忘れなかった。



 播磨が想像した通り、愛理は膝を抱いていた。瞳を閉じ、自らの心を闇に閉ざしていた。
 バカなことをしたと自分でも思う。今頃彼は、自分になど愛想をつかして不貞寝しているかもしれない。
「来てなんかくれるわけないのに」
 彼を初めて見たのはいつだったろうか。一年のとき、バカな不良がいると聞いた。実際にそれを見てほんとうにバカだと思った。
 二年になって同じクラスになった。そこそこ話すようになった。今にして思うと、彼は天満と話したくて近づいてきたのだろう。
 彼を初めて意識したのはあの雨の日。父親に振られ、沈み込んでいたときに傘を差し出してくれた。なぜかあのとき、彼が自分の理想の男性、すなわち父親に少し似ているのかもしれないとちらりと思った。
 もちろん、それは間違いだ。父親は播磨などとは比較にならないようなハンサムだし、髪の色も、まだきちんと見たことはないが目の色だって違うだろう。だがなぜか、少しだけ似ているかもしれないと思った。

 そして突然の告白。差し出した手を掴まれて、心まで引きずり込まれるかと思った。

 海。体を見てしまった。羽交い絞めにされてパニックになった。彼に対して心惹かれるところはあったとは言え、さすがに嫌悪感が先に立った。晶に説明されてもしばらくは彼が許せなくて、せっかく運よく泳ぎを教えてもらえる形になったのに、貴重なチャンスをフイにしてしまった。

 山。まさか彼が追いかけてくるとは思わなかった。もちろん自分を追いかけてきたなどとは全く思わなかったが、少しは嬉しかったかも知れない。
 今思えば、肝試しのとき、ほんとうは彼と組みたかったのだろうか。くじが仕組まれていてその可能性はなかったらしいが。
 廃校の壁の向こうで天満に問い詰められ、好きな女の名前を言おうとしていた彼。あのとき彼の頭の中には天満自身のことしかなかったのだろうが、愛理は少しだけ、もし自分の名前が出てきたらどうしようかとドキドキしていた。

 合宿が終わってから、夏休みがやけに長く感じられたのは、もしかしたら彼に会えなかったからなのだろうか。間違えてヒゲを切ってしまったことも思い出す。ほんとうに悪かったと思ったのに、なかなか謝れなくて。それで必死に謝ったのに天満たちにヒゲがないほうがいいと言われたとたんにヒゲを剃り、完全に頭にきて頭を剃ってしまった。
 あれはほんとうにひどかったと思うし反省している。だけど、きっと。あれもあの頃から彼に心惹かれるものがあったからなのだろう。

 そして体育祭。足を痛めたのにバカな意地を張ってそのまま走って、クラスのみんなに迷惑をかけて。自己嫌悪に沈んでいた。こんな風に膝を抱いて。
 そんな自分に彼はジャージをかけてくれた。あんなひどいことをした自分にジャージをかけてくれた。そうこんな風にジャージをかけてくれた。
「え?」
 思わず愛理は声を出した。ほんとうに背中にジャージがかけられた気がしたから。恐る恐る目を開き、顔を上げた。
 信じられなかった。彼はほんとうにそこにいた。そして、肩にはあのジャージがあった。
「このバカ女!」
 いきなり頭をはたかれた。
「ったいわねえ……」
 愛理は頬を膨らませるが、自分がバカなことをしている自覚はあるから反論はできない。
「女がこんな時間にこんなとこで、なに考えてやがる」
 彼の背中越しに、見慣れた風景が写る。鉄筋製の校舎。通路を覆う日差し。そう、矢神高校の校舎裏に愛理はいた。あの日、あの体育祭の日、背中を預けて落ち込んでいた、あの中央の木の下に彼女はいたのだ。
「なんで……来たのよ」
 うめくように愛理は言う。その言葉に、播磨が心外そうに返してくる。
「どんな言い草だ、そりゃ。来いっつったのおめーの方だろうが」
「そうだけど……」
 視線をそらしぶつぶつと愛理はつぶやく。
「あんたバカだわ」
「どっちがバカだ? ほれ」
 不愉快そうに舌打ちすると、彼は手を差し伸べてきた。少しだけ躊躇しながらそれを掴み、引っ張られるままに立ち上がった。そのまま勢い余った振りをして、愛理はその胸に顔を埋めた。
「お、おい」
 焦る彼の声を聞きながら愛理は言う。
「バカだわあんた。来なければまだチャンスはあったかも知れないのに。あんたが来なかったら天満に話すつもりだったのよ。私はもうあんたのことなんてなんとも思ってないから考え直しなさいって。なのに……」
 言葉とともに昂ぶっていく感情は、徐々に愛理の制御可能範囲を逸脱していく。
「お嬢……」
「なのに、なんで来たのよ? もうダメ……こんなに、こんなにあんたのこと好き。好き……。好き……」
 播磨は何も言わない。だが、彼の鼓動が早くなっているのだけはわかる。そして愛理は顔を上げ、じっと彼の顔を見つめてその言葉を口にした。
「踊って……くれる?」
「ああ」
 しばしの逡巡を挟んで、彼は答えてくれた。静かにステップを踏み始める。キャンプファイヤーの炎はない。BGMのオクラホマミキサーもない。二人を羨望の視線で見つめていた生徒たちもいない。
 だが、愛理は幸せだった。なぜなら彼がいるから。そして背中にはあのジャージがあるから。
 蘇ってくる。あのときの想いが。迷いも何もなかった。ただ彼と、他の誰とでもなく、彼と踊りたくてそうした。
 なにも気にならなかった。周囲の視線もむしろ誇らしかった。なにも怖くないと思った。
 今の自分はどうだろうか。告白したことはもう後悔していない。どっちにしてももうばれているから。
 天満のことももう気にすまい。八雲にもすまないことをしたとは思うが、悔やんでも仕方ない。
 怖いのはただひとつ。必死に自分のステップに合わせてくれている彼を失うことだけ。ジャージの想い出が、悲しい想い出に戻ることだけ。

 どのくらい踊っただろうか。愛理は覚えていない。そして気付いたときには立ち止まり、愛理は再び播磨の胸に顔を埋めていた。大きな背中に手を回し、愛理は言う。
「私、謝らないからね。だって、思うから。あんたが私のこと好きになりさえすれば、きっと天満のこと忘れられる。天満と付き合っていたときよりも幸せになれるから。お願い……」
「お嬢、俺は……」
 苦々しい声。どれほど願っても、播磨の両手は抱きしめてきてはくれない。それがつらくて怖くて。必死に愛理は播磨の体を抱きしめる。
「すまねえ」
 短い拒絶の声。それを聞いた瞬間、一気に愛理の想いは暗転した。期待が、喜びが大きかっただけに反動も大きい。突き飛ばすようにして播磨から離れる。
 何かを言いたげな彼に背中を向けて、愛理はまくし立てるように言う。
「そう。そんなに天満がいいの? 私のことが嫌いなの? 私が金髪を両側で結んでいるから嫌いなの? 私なんかがあんたのことを好きになったばかりに天満に振られたから憎いの? だったらなんで私なんかと踊ってくれたの? なんで優しくしてくれたの? なんで来たの? いつもいつも、気まぐれに優しくて。こんなに好きにさせて。思わせぶりに私のこと弄んで。楽しいの? はっきり言えばいいじゃないの、おまえじゃないって!!」
「お嬢! なに言って……。俺は」
 何かを言ってくる彼に耳も貸さず愛理は続ける。
「ごめんなさいね。私なんかが身の程知らずにあんたのことなんか好きになっちゃって。私さえいなければ、あんたは天満と仲良くやってけたのに。私はあんたのこと好きになっちゃいけなかった。あんたと会うべきじゃなかった。ううん、私なんて私なんて!」
「お嬢、それ以上言うな!」
 その言葉に負けじと声を張り上げる。
「私なんて産まれ……!」
 それ以上は喋ることはできなかった。なぜなら、突然背後から抱きすくめられたから。
 信じられないぐらい太くたくましい腕に包み込まれたから。
「お嬢、その言葉は、言っちゃいけねえ」
 播磨は憑かれたように言う。
「俺、昔、親と喧嘩してその言葉言ったことがある。心から言ったわけじゃねえ。ほんの弾みだ。だけど、今でもあのときの痛みは忘れねえ。その言葉だけは言うな」
「播磨……君」
 抱きしめてくれたその腕に手を添えて愛理は言う。
「ありがとう。ごめん」
 愛理には分かる。播磨が抱きしめてきた理由が。それしか思いつかなかったのだろう。自分を黙らせる手段をそれしか思いつかなかったのだろう。
 しかし、不思議だった。目的を達したにも関わらず、播磨が腕を緩めない理由が。むしろなぜか、腕の力が少しずつ強くなってくる理由が。
 心は嬉しい。でも、肉体は苦しい。耐えて。ギリギリまで耐えて。そしてとうとう愛理は言った。
「苦しい……」
 言うと播磨が息を呑む気配がした。そして、
「わ、わりい」
 弾かれたように播磨が離れる。楽になると同時に悲しくなる。少しだけ、腕を緩めてくれるだけでよかったのにと。
 振り返ると、播磨は気恥ずかしげに視線をさまよわせている。なんとなく意地悪がしたくなって愛理は言う。
「天満とどっちが抱き心地よかった?」
「バ、バ、バ、バカ言うな!」
 慌てふためいて播磨が言ってくる。
「塚本とこんなことなんて……」
 言葉を切って、寂しげに言う。
「したことなんて……ねえよ」
「ごめん。意地悪言ったわ」
 微苦笑とともに謝罪を送ると、播磨はやけに熱のこもった視線でこちらを見つめてきた。そして彼は、信じられない言葉を放ってきた。
「あのよ、お嬢。俺、わかんなくて……。そのよ、馬鹿なこと言うけど、もう一度いいか?」
 ほんとうに信じがたいセリフだった。なにが彼の中で起こったのだろうか? 自分を抱きしめてよほど感じるところでもあったのだろうか?
 いずれにしても愛理に否があるはずがなかった。返事の代わりに播磨に歩み寄り、胸に顔を埋める。
 今度は優しく、壊れ物でも扱うかのように優しく抱きしめてきてくれた。さっきの情熱的な抱擁もいい。でも、この何かを恐れるかのような抱擁も嬉しい。
「わりい」
 だが、愛理が予想した、あるいは望んだよりも遥かに短い時間で彼は離れてきた。物足りなさに唇を尖らせると、播磨は情けなさそうに言う。
「やっぱ、やべえ。俺、俺。おめーに……。こんなのダメなのによ。つい数時間前まで俺は塚本の彼氏だったんぞ。なのに……どうしてくれんだ?」
「なに言ってるの?」
 愛理が疑問を口にすると、頭を振りながら彼は言ってくる。
「お嬢。確かめてえことあるんだ。朝まで付き合ってくれるか?」
「なっ!」
 いきなりの大胆な言葉に頭の中が真っ白になった。足がガクガクと震え、全身が灼熱を帯びる。体の奥底から、おびえるような、しかし、期待するような、得体の知れない感情が湧き上がってくる。
「な、いきなりなにを……。この間なにされてもって言ったのは芝居なのよ。そんなのダメに決まってる。で、でも、あんたがどうしてもって言うなら。そ、それで私のこと好きになってくれるなら……その、捧げてもいいかな。とかバカなこと思ったり……でも、ちょっとそれはやっぱり怖いし。優しくてして欲しい……」
「ちょっと待て!」
 必死の形相で播磨が制止して来た。
「おめー、思っきし勘違いしてんぞ。それもやべー方向に。俺が言ってるのはそんなんじゃねえ。つか、おめー俺をどういう目で見てんだ?」
「え?」
 安堵と失望と気恥ずかしさと。さまざまな感情を胸を撫でて押さえ、愛理は尋ねる。
「じゃ、何なの?」
 愛理が問いかけると、播磨は真っ赤な顔をゆがませて言ってくる。
「おめーに見せてえもんがある。つうか、一緒に見てえもんがある。それ、朝にしか見れねえから。それまで付き合え」
 その言葉を聞くと、愛理は真顔で播磨を見つめ、静かに尋ねる。
「まだ、目があると信じていいの?」
「興味ねえ女にこんなこと言うかよ」
 意外なことに即答が返ってきた。そのあと、言い訳がましく彼は言う。
「塚本にも妹さんにも言われた。おめーと向かい合えって。今はまだわからねえけど。なんかちょっとずつ変わってきてる気がする。塚本のこと、好きで居続けたいならここで別れるべきなんだろうがよ。逃げちゃいけねえ気がする。それをおめーと見て、どう気持ちが変わるのか。それで返事すっから」
「播磨君……」
「むちゃ言ってることはわかってる。断ってくれても全然構わねえけどよ」
「まったく……」
 播磨の言葉にため息をつき、愛理は言う。
「言いたくないけど、こういうときに使うのが正しいのかしら。惚れた弱みって」
「お嬢……」
「家に電話するわ」
 もう迷いはなかった。少しでも可能性があるのなら賭けるしかない。それよりなにより、彼と一緒にいたかった。
 携帯を取り出して、電源を切ったままだったことを思い出した。電源を入れ、キーを操作する。
 それを耳に当てると、呼び出し音が聞こえ、しばらくそれが繰り返されたあとでひとりの男が電話に出る。
 彼が何かを言う前に、こちらから早口で言う。
「私。今日は帰らないから。心配しないで。それから、探し出そうとかしたら許さないからね。あんた、ほんとに探し出しかねないから」
 それだけ言うと、携帯を電源ごと切る。
「よかったのかよ」
 半ば呆れたかのように播磨が言ってくる。
「いいのよ。いつまでもいい子のままじゃいられないわ」
 言って愛理は播磨に歩み寄っていく。そして、初めてそれに気が付いた。
「その服、着て来てくれたんだ」
「お?」
 愛理の言葉で、播磨は胸元に視線を落とす。そこにあるのはエンジ色のTシャツ。そう、あの日、愛理が播磨のために買ったもの。
 播磨は苦笑混じりに言ってくる。
「たまたまだ」
 そして、やや慌て気味に言う。
「行こうぜ。つか、ここやばいだろ。いつ宿直に見つかるかわかんねえ……だあっ!」
 突然の奇声に愛理は眉間にしわを寄せる。
「なによ突然」
「今日の宿直、イトコじゃねえか……」
「イトコ? 刑部先生のこと?」
 その言葉に答えず、播磨はがっくりと肩を落とす。
「み、見られてた。間違いなく……。最悪だ」
「どうしたのよ」
「なんでもねえ。もうどうでもいいや。行こうぜ」
「う、うん」
 寄り添いあうようにして二人は歩き出した。

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 STEP7  Show The Flag
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 夜10時過ぎ。
 播磨に連れてこられたのはマンションの一室だった。それを前にして彼はポケットを探るが、目的のものは出てこないらしい。
 そして彼は思い直したようにドアノブに手をかけた。カチャリと言う音とともにそれは開かれた。
「不用心ねえ」
 愛理が言うと、播磨が怒り顔でこちらを睨み付けてきた。
「おめーが突然あんな電話してくるからだろうが」
 その言葉を聞いて、自分のためにそんなに慌ててくれたのかと思うと嬉しくなる。
「おい」
 不意に彼が手をこちらに差し伸べてくる。その意味を察して、肩にかかったジャージを愛理は握り締める。
「入れてくれないの?」
「やべーんだよ、察しろ」
 吐き捨てるように言ってくる。
「……喜ぶところなのかしらね」
 言ってジャージを肩から外し、差し出そうとする。
「ちょっと待って」
 思い直して愛理は播磨に背中を向けた。
「おい」
 彼の声を背中で聞きながら愛理はジャージを胸に抱いた。汗臭い、だけどいろんな想い出が詰まったジャージ。これのおかげで自分の気持ちが天満にも、播磨にもばれてしまった。だけど、今ここに播磨と二人でいられるのもこれのおかげ。
「ありがとう」
 小さな声で言う。そしてそれを持ち主に差し出す。
「これ、勝手に捨てたりとかしたら許さないからね」
「わぁったよ。ちょっとだけ待てな」
 扉が閉ざされ、播磨の姿が向こう側に消える。あとを追おうとノブに手をかけた瞬間、カチャリというロック音が聞こえ、愛理は舌打ちする。
「ばれてるし」
 待つほどもなかった。やがて彼は二つのヘルメットを持って出てくる。
「待たせたな。ほれ」
 ひとつのヘルメットを投げてよこす。
「ありがと。でも、少し匂うわね」
「うるせえな」
 言ったあと彼が優しい笑顔を浮かべた気がして、愛理は尋ねる。
「なに?」
「いやよ、調子出てきたなって思ってよ。やっぱ、おめーそっちのがらしいぜ」
「ふん」
 照れくさくてそっぽを向く。でも、笑みが浮かんでくるのを押さえきれない。
 ふと思い起こす。昨日の今頃はどうしてただろうか。少なくとも、今日こうなることなど想像もしていなかったことは間違いない。
 他愛のない、しかし少なくとも愛理にとっては実りのある会話を交わしつつ、二人は駐輪場へと移動する。播磨がまだ真新しい大型バイクの前で立ち止まるのを見て、愛理もそれに続く。
 播磨がそれを引きずり出し、エンジンをかける。低く腹に響くような咆哮はバイクに命が吹き込まれた合図。
 まずは播磨が運転席にまたがる。続いてやや苦労しながら愛理がタンデムに座る。
「しっかり捕まってろよ」
 言われるまでもなく腕を強く回す。必要以上にぴったりと体を密着させ、胸を背中にこすり付けると、播磨の体がこわばるのがわかる。
 きっと、バイクに天満を乗せたことぐらいはあるのだろう。だが、天満からはこんな感触は得られなかったはずだと愛理は変に勝ち誇る。
「行くぜ」
 播磨がスロットルをふかす。二人を乗せた鉄の馬は、夜の街へと飛び出していった。

 などと大げさに言うが、そのバイクは十分も立たないうちに大きな駐車場を備えたひとつの店の前で止まった。
 郊外型のネットカフェ。もちろん二十四時間営業だ。播磨はバイクを駐輪場に入れ、キーを抜く。
 そして二人は入り口へと歩いていった。
「いらっしゃいませ。二名様でよろしかったですか?」
 フロントの男の問いかけに、播磨は無言で頷き、会員証を渡す。大学生ぐらいであろうその男は、幾分うらやましそうに二人を見て、言ってくる。
「ペアシートでよろしかったですか?」
「ああ」
「83番ルームをお取りいたしました。ごゆっくりどうぞ」
「おう」
 レシートを受け取り歩き出す播磨に愛理は続く。
「おめーはこういうとこは初めてか?」
「うん。あんたはよく来るの」
「ちょくちょくな。まあ、ペアシートは初めてなんだが」
 番号を確かめながら、播磨がスイングドアをあける。そこには愛理が思っていたより小奇麗な空間が現れた。
 清潔感のある木目調の壁で仕切られたスペースの広さは四畳半ぐらいだろうか。正面にはふたつのディスプレイが並ぶ。パソコンのそれとワイドテレビだ。テレビの横には、ゲーム機だろうか? 薄っぺらくてスマートなデザインの箱がある。テレビの上の棚にはCSチューナー。
 そして、それらから適当に間を挟んだところに二人がけの本革製ソファ。それは、愛理に言わせれば、決して高級品ではなかったが。

 ここで二人で朝まで過ごすのか。緊張する。スイングドアの下は素通しになっており、正確には密室ではないし、向こうは通路になっているので、変な気分になることはないとは思うが。
「座れよ」
「うん」
 言われるままにそうする。柔らかなソファの感覚が疲れを癒してくれる気がした。できることならシャワーを浴びたい気分だが贅沢は言えない。それをしたければここではなくそれなりのところに……。
「なに、顔赤くしてんだ、おめー」
「な、なんでもないわよ」
 大慌てで答える愛理を見て、播磨は軽く肩をすくめる。
「まあ、いいけどよ。何飲む」
「ブラッディ・マリー」
「あるか、そんなもん!」
 すかさず突っ込んでくる彼に微笑み、愛理は答える。
「ウーロン茶、頼める?」
「お安い御用だぜ」
 待つほどもなく彼は帰ってきた。ストローのささったグラスを愛理に差し出してくる。
「ありがとう」
「おう」
 ストローの刺さっていないコーラのグラスを自分の前に置き、彼は腰掛ける。ソファは特に小さなものではないが、播磨が大柄なだけにお互いの肩が今にも触れ合いそうだ。それは愛理にとっては幸いですらあるのだが。
 一気にコーラを半分ほど飲み干し、彼は言ってくる。
「とりあえずどうするよ。DVDでも見っか?」
「ううん、普通のテレビでいいわ。それから……話がしたい」
「そっか。そうだな」
 二人は喋った。いろんなことを。家族のこと。好きな食べ物や音楽、動物について。休日、どうやって過ごしているのか。お互いのクラスのこと。将来のこと。
 他の仲間数人を交えてなら喋る機会はそれなりにあったが、こういう風にお互いのことに踏み込んだことはなかった気がする。
 そして、彼のことをひとつ、またひとつと知るうちにますます彼に惹かれていく気がした。
 明日の朝、どこに連れて行ってくれる気なのかはわからない。だが、それは聞くまいと決めた。今はそれよりここで、この空間で。二人きりの時を過ごせている。それが嬉しい。
 狭い空間だ。時々はやはり体が触れる。そのたびに彼がドギマギするのが嬉しくて。そして可愛くて。愛理はついやってしまう。軽く膝を彼の太ももに触れさせてみたり、笑った拍子を装い、彼の肩に頭を乗せてみたり。セクハラ攻撃にも嫌がる様子はない。いけるのかもしれない。もしかしたら、もう高望みではないのかもしれない。希望が、そして胸が高まってくるのが止められない。
 肩ぐらい抱いてくれればいいのにと思うが、少なくとも今は恋人同士ではないし、それは贅沢と言うものだろう。

 二時間があっという間に過ぎた。播磨の提案で今は格闘ゲームで遊んでいる。向こうは経験者らしく、最初は歯が立たなかったが、だんだん要領も分かってきて。初めて勝ったときには子供のように笑った。罰ゲームと称して、嫌がりまくる彼を説得して、一杯のジュースを二本のストローで一緒に飲んだりもした。
 一時を回った頃、ゲームをやめ、子守唄がわりにDVDを見始めた。洋物のラブロマンス。字幕と内容のちょっとした違いを説明しては彼の感嘆を誘う。
 眠くなってきた。こんな時間に、半ば密室みたいな空間に、男と二人っきりでいるのにどうしてこんなに心安らかなのだろうと思う。
 何もされることはないと信じているのだろうか? それとも何をされてもいいと思っているのだろうか? そんな想いも眠気の中に引きずり込まれていく。
「眠い……」
 愛理が訴えると、彼は優しく言ってくる。
「寝とけよ。朝早いし」
「ん、変なことしないでね」
「バカ言ってんじゃねえ」
「おやすみ」
 そのあとどさくさに紛れて「拳児」と付け加えた気もするが、もうどうでもよかった。愛理は静かに安らかに、眠りの世界へと落ちていった。

 自分の肩に顔を乗せたまま幸せそうに眠るその少女の寝顔を播磨はじっと見つめる。金色の髪と寝息が二の腕辺りをくすぐってくる。
 自分の今の感情をどう表現したらいいだろうか。もったいないという言葉が適当だろうか。
 一生懸命に話しかけてくる彼女が可愛いと思った。見え見えの仕草でこちらに触れてくる姿が健気だと思った。
 好きという気持ちが苦しいほどに伝わってきて、それにはっきりと答えてやれない自分がもどかしかった。
「なんで俺なんかを」
 愛理の寝顔に播磨は問いかけずにはいられない。
「ふう」
 小さく息を付く。そしてゆっくり、ゆっくり体をずらし、愛理の体をソファーに横たえていく。その想像以上の軽さに驚く。女性としては長身の部類に入るから、もう少し重いかとも思ったのに。体重はどのくらいなんだろうか? 頭の中に浮かんだ二桁の数字を、無礼な想像を、播磨は苦笑と共にかき消す。小さな頭をクッションに乗せようとしたとき、不意に瞼が薄く開かれ、自分を見つめてきた。
「起こしちまったか?」
 小声で話しかける。彼女は甘えるように笑い、そして言った。
「好き」
 半分以上は寝言だろう。
「おやすみな」
「ん」
 再び聞こえてくる寝息。顔にかかった金髪を丁寧にどかしてやる。そのたびにどうしても彼女の頬に触れてしまい、気恥ずかしくなるが。
 軽く開かれた可憐な唇が播磨の視線を吸い付ける。そこに思わず指を這わせたくなって、播磨はそれを思いとどまった。
 もう多分止まらないだろうと播磨は確信していた。自分はこの少女に夢中だ。
 あのとき、愛理を抱きしめたのは、単にあの言葉を言わせてはいけないと思ったから。だが、その直後に訪れたあの感情はなんだろう。
 まずは驚いた。愛理のあまりの細さに。この細い体で、懸命に二つの想いの狭間で耐えてきたのかと思った。自分の気持ちを押さえ、天満のことを応援してきたと言うのかと。そして、次に思った。放したくないと。あれは絶対にちがう。同情や憐憫の類では絶対にない。もっとエゴイスティックな感情。そう、独占欲だ。
 播磨は思う。自分もまた、愛理が自分のことを好きだと聞いてからずっとこの感情を押さえてきたのかと。いや、あるいはそれ以前から。黒髪の少女に夢中だった頃から、少しずつ彼女に惹かれていたのだろうか?
 そして、ここでいろんなことを話した。知り合ってから一年以上経つが、きっとその歳月で交わした言葉に数倍するそれを交わしたはずだ。
 いろいろなことを知った。彼女の芯の強さ。内包した脆さ。抱えているジレンマ。親友たちへの想い。
 それらを聞くたびに知るたびに、播磨は彼女に惹かれていく自分に気付かずにはいられなかった。

 しかし播磨は思い返す。八雲の口を通して聞いた天満の言葉を。彼女は言っていた。『いろいろ考えたら楽な方に逃げようとしてたことがわかった。本当に好きな人のことを、もう一度考え直してみる』と。だとしたらどうなのだろう。今の自分は。自分がほんとうに好きな天満から、自分のことを想ってくれる愛理の方に、楽な方に逃げようとしていることにならないのかと。

 悩んで、考えて、そして播磨は結論した。もし、愛理を自分の物にするのなら、全ての想いを断ち切ってからにしようと。天満の次に好きだからとか、天満と同じぐらい好きだからとか、そんな理由では付き合えない。

「おまえのことが一番好きだ」

 そう心から言えるまでは付き合えないと。 

 もう一押し。もう一押し、決定的なものがあれば、ほんとうにこの少女が大好きになれる。
 言える。言えるはずだ。播磨は確信した。ずっと心に抱いてきた少女と、昨日までの自分に謝りながら播磨は確信した。
 明日、水平線を昇る朝日の中で、彼女に今の自分のほんとうの気持ちを言おう。
 きっと、朝日に照らされてこの金髪はとてつもなく美しく輝くだろう。そんな彼女を見たら迷いも消えるだろう。そして言わずにはいられないはずだ。
 播磨は自分にそう言い聞かせた。
「んじゃな」
 数時間後には恋人になっているであろうその少女の寝顔に軽く囁いて播磨は床に身を沈める。壁に背をもたれさせて、彼もまた眠りの世界へと身を投じていった。


「お嬢、俺についてきてくれるか?」
 朝日の中で彼が言ってきた。
「私でいいのね?」
 愛理が問いかけると、播磨は怒ったように言い返してくる。
「おめーじゃねえとダメなんだよ」
「……嬉しい」
 愛理は瞳を閉じた。大きな手が肩に置かれる感触。そして、彼はその言葉を言ってきた。
「起きろ!」
 肩を揺さぶられて、無理やりに眠りから引きずり出された少女は、寝ぼけ眼に、かすむ少年の顔を見て愚痴を言う。
「なによ、いったい」
 目をこすりながら時計を見る。まだ四時だ。
「ちょっと、まだこんな時間じゃないの。もう少し寝かせて」
 再びソファに横たわる。だが、播磨の手が無理やりに抱き起こしてくる。
「起きろっつうの。ほらほら」
 左手で愛理の背中を抱き起こし、彼は右手で軽くこちらの頬を叩いてくる。
「朝日、見に行くんだよ。水平線から昇る朝日がすっげえ綺麗なところ、知ってんだよ。それおめーに見せてえんだ。おめーと一緒に見てえんだ」
「播磨君……」
 いつになく熱っぽい彼のセリフに、眠気が飛んでいく。なんとなく予感した。告白、してくれる気なんだ。朝日の中で、きっと言ってくれるんだ。
 胸が高鳴る。
 大きな音を立てて自らの顔面をはたき眠気を駆逐した。
「すぐ用意するから待ってて。お手洗い行ってくるから」
「おう」
 弾かれるように立ち上がると、愛理はスイングドアを開き通路に出た。トイレは確かフロントの横。小走りでそこに向かう。正面に窓が見えた。そして……。愛理は立ち尽くした。

 数分後、力ない足取りで愛理は播磨の元に戻った。もう彼は荷物もまとめ、準備万端だ。
「おう、遅かったな。とっとと出るぞ」
「あのね、播磨君。すごく言いづらいんだけど」
「お?」
 愛理の言葉に、播磨は眉を寄せる。言われのない罪悪感に駆られながら、愛理はその言葉を口にした。
「外、大雨なんだけど」
 その言葉を聞いた瞬間、播磨の表情は凍りつき、そして彼は床に崩れ落ちた。

「もう、元気出しなさいよ。私なら怒ってないから」
 隣に腰掛けた播磨に愛理は何度も言ったが、播磨はずっと顔を上げず、自分をなじっていた。
「バカだ、俺。天気予報も見ずに、朝日は毎日昇るって決めてかかってて。おめーを一晩中引き留めて、気持ちよさそうに寝てたのに叩き起こして。どうしようもねえ」
「だから、もういいんだってば。夕べ、すごく楽しかったし。いっぱい喋れて、あんたのこといろいろ知ることができて嬉しかった。もう十分だから」
「だけどよ」
 なおも思い切れないように播磨は言って来る。
「言うつもりだったんだぜ、朝日の中でおめーに。なのに気がすっかり挫けちまって……」
「え?」
 その言葉の意味を噛み砕いて愛理はおずおずと問う。
「あの、それって、もしかしてそういうことなの? ほんとに私に告白してくれるつもりだったの?」
 すると生気を失っていた彼の横顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「い、いやよ。言えるって思ってただけで決めてたわけじゃねえし、その、なんつうかよ」
 必死に意味不明なことを言ってくる播磨の左手に、愛理はおずおずと右手を重ねた。硬直した彼の左耳に、愛理は恐らくは熱を含んでいるであろう声を囁く。
「あのね。もしほんとに告白してくれるつもりだったんなら、私は今ここでも全然構わないのよ。そりゃ、朝日の中で告白してもらえれば嬉しかったと思うけど、贅沢言ってる立場じゃないし。正直焦ってもいるから」
「い、いや、ちょっと待ってくれ」
 播磨は愛理の手をそっと押し離し、考えをまとめるように言ってきた。
「あのよ。とりあえず認める。俺はおめーのことすっげー気になってる。てゆーより、なんてゆーか……」
「ラブラブ?」
 愛理が尋ねると播磨は大きく頷いた。
「おお、それそれ! て、おめーなに言わせんだ、こら!」
 怒鳴ったあと肩を落として、
「まあ、そういうことなんだけどよ、冷静に考えて、今の状態だと塚本と同じぐらい好きってレベルにとどまっちまうんだこれが。ごめんな」
「えっと……」
 愛理は顎に人差し指を当てて考える。天満に追いついたのは嬉しいが、ここはがっかりするべきシチュエーションなのかと悩む。そして結論が出る前に播磨は言って来る。
「おめーレベルの女に想われるってすげえ光栄だって思うしよ。だから、中途半端な気持ちで返事したくねえんだよ。朝日の中でおめーのこと見れたら、きっと決断できたと思うんだけどよ」
「ヒゲ……」
 そっと肩を寄せ愛理は言う。
「とりあえず、あんたの気持ち、喜んでおくわ。朝日なら今度見に連れて行ってくれればいいから、元気出しなさいよ」
「いやな」
 播磨は力なく言う。
「すっげえ気合入れてただけにバカみてえでよ。なんか結局おめーとも縁がないんじゃないかって思えちまって」
「バカ……」
 愛理は思った。いっそのことこの場で押し倒してキスの雨でも降らしてやろうかと。
 だが、今の彼に力技は効かないだろう。とりあえず今は、奇跡的なほどのナイスアプローチに成功したと思っておこう。あとはカップに沈めるだけなのだと。
「仕方ないわね。今後のことはこれから考えましょう。とりあえずお腹すいたわ。向かいのファミレスに移動しましょ」
 愛理が言うと、播磨が力なく頷いた。
「そうするか。とりあえず、大雨だってんならバイクは置いてくしかないな」
「そうね。じゃあ、行きましょ」
 愛理が先に立ち上がって手を差し出すと、少しためらいながらも、彼は手を握り返してきてくれた。

 フロントに行くと、播磨はレシートを差し出して精算を依頼し、それと同時にちゃっかりレジ横にぶらさげてある数本の新品のビニール傘に目を留めた。
「あと、これ二本」
「いいえ、一本でいいです」
 後ろから愛理がかぶせる。
「おい」
 眉をしかめながら播磨が振り向いてくるが、それにあくまで笑顔を向け、フロントの女店員に言う。
「一本でいいですから」
「承知いたしました」
 にっこりと笑ってその女店員は頭を下げた。

 自動ドアをくぐって表に出ると、激しい雨音が聞こえてきた。土砂降りと言うほどではないが、完全な本降りだ。
「ったく、何考えてんだ、おめーは」
 播磨が仏頂面で言ってくる。
「まあまあ。ファミレス着いたら車呼ぶから」
 そして二人はひとつの傘に入って外に出る。左に播磨。右に愛理。播磨はほとんど目一杯愛理の方へと傘を傾けてくる。
 それを見上げると愛理は笑って、傘を持った彼の右腕に捕まり、しっかりと寄り添った。
「おい」
「こうしてると思い出すわね。あの雨の日。きっと私、あの頃からあんたのこと気になってたんだと思う」
「お?」
 首をかしげる播磨を見て、愛理はすっと眉根を寄せた。
「あんた、まさか、覚えてないんじゃ?」
「い、いや、覚えてるぞ。しっかり覚えてるぞ」
 慌てて言い返してくるのを聞いて、愛理はため息をつく。これは深く追及しない方が賢いと思いつつ。
「なあ、お嬢」
 静かな、しかしどこか決意したような声を彼がかけてきた。
「なに?」
 数秒ののち、彼は言った。
「やっぱ俺、おめーのこと、すっげー好きだ」
 不意打ちのような言葉に、愛理の頬がさっと染まる。無意識に彼に絡めた腕に力を込め、うつむく。そんな彼女を優しく見下ろしてきて彼は言う。
「でも、情けねえよな、俺。おめーと付き合うってことは完全にあいつのこと諦めるんだって考えるとまだつらくてよ。ふんぎりつかねえ」
「無理もないわよ。何年も好きだったんだもの」
「だけどよ、近々気持ちに決着付けるわ。もう少しだけ、時間くれるか」
 その言葉に愛理はこっくりと頷いた。
「でも、そんなに長くはダメよ。夏休みまでには返事ちょうだい。でないと、私、あんたの次に気になってる人にアプローチするからね」
「なに!? そんな奴、いんのかよ!!」
 血相を変えた彼を見上げて、愛理はくすりと笑った。
「ウソよ。でも、ほんとに夏休みまでには返事しなさいよ。天満の結果待ちとか許さないからね」
「わかってる」
「信じてるからね」
「ああ」
 深く頷いた彼の横顔を見ていると、不安が全て消える気がした。彼の肩に顔を乗せ、愛理は胸の中でもう一度その言葉を呟く。
「大好きだからね」

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 FINAL STEP  They’ll be one
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 教室の時計と腕時計と携帯の時計をせわしなく見ながら、愛理はいらいらと指先で机を鳴らす。
 それを見て、天満が呆れたように言ってきた。
「愛理ちゃん、少しは落ち着きなよ」
「落ち着いてるわよ」
 思わず声が高くなるのをこらえきれない。
「ったく、もう答え見え透いてんだから、そんなにそわそわしなくてもいいと思うんだけどな」
 美琴が笑うと、晶が冷静に突っ込みを入れる。
「まあ、そこはそれ。愛理も女の子ってことよ」
「なに言ってんだか」
 苦笑と共に頬杖をつき、愛理は天満を見る。
「天満、いろいろありがとうね。あいつの背中、いっぱい押してくれたって聞いたわ。いろいろあったのに」
「ううん」
 天満は首をきっぱりと横に振った。
「私のほうこそ、愛理ちゃんのこといっぱい傷つけちゃったし。でも、ちょっと悔しいと言えば悔しいかも」
「まあさ」
 美琴が口を挟んできた。
「私もちょっといろいろ言い過ぎたよ。ごめんな、塚本」
「もう、なにみんなして今日は」
 そんな彼女たちを見て晶が言う。
「その代わり、烏丸君のことは私たちがなんとかするから。私の知力と愛理の財力と美琴さんの腕力があれば大丈夫」
「腕力って関係あるのかよ!」
 と、そのとき、ドアが開いて彼が姿を現した。
「遅い!」
 言いながら愛理は駆け寄る。
「わりい、いろいろ考えててよ」
 サングラスの奥の視線を伏せる彼を見て、愛理はいらいらと言う。
「どうせかっこいいセリフとか考えてたんでしょ。柄にもないんだから」
「んだよ、それ。俺はおめーのためを思ってだな……」
 と、そこに天満が割り込んできた。
「ねえ、播磨君。私、やっぱり播磨君のこと、いいなって思って。愛理ちゃんのこと考え直さない?」
「こら」
 半眼で愛理がにらみつけると、播磨も笑って天満の頭を撫でる。
「気持ちは嬉しいけど俺にはお嬢がいっからよ。なんてな。見え見えなんだよ、おめーは」
「えへへ。ごめん。やっぱ愛理ちゃんみたいにはできないね。行ってらっしゃい愛理ちゃん。播磨君、愛理ちゃんのこと、よろしくね」
「ああ」
「ありがとう、天満」

 踵を返して歩き出した播磨と並ぶようにして愛理は歩く。さすがにお互い、口数が少なくなった。
 彼が階段を上り始めたのを見て、愛理が声をかけた。
「屋上行くの? 私、できればあの木の下がいいんだけど」
「あ、あそこはよ。その、人目があるからよ」
 どことなく歯切れの悪い言葉。それ以上の追及を避けるように播磨は歩き出す。
「まあいいけど」
 二人揃って通用口を開き、屋上に出る。あの日から一ヶ月が過ぎ、今は七月。真夏だ。当然のように灼熱の太陽が二人に降り注いでくる。
「たまんねーな、こりゃ」
 播磨が悲鳴をあげる。まあこれだけ暑ければここに来る物好きもいないだろうから好都合とも思いつつ、愛理は播磨の腕を引く。
「あっち行きましょ」
「おう」
 愛理が腕を引く形で二人は給水塔の影に移動した。少しは暑さが和らぐ。播磨に肩を寄せながら愛理は言う。
「正直、もう少し早く言ってきてくれると思ったんだけど」
「まあ、そう言うな。いろいろ気持ち整理してたんだ。塚本以外のおまえの友達とも話、したりよ」
「へえ」
 意外な言葉に愛理は目を丸くした。気恥ずかしげに視線を外して播磨は言葉を続ける。
「周防は二つ返事で祝福してくれたよ。何発か手ひどく殴られたけどな」
 それを聞いて愛理は声を上げて笑った。
「あはは、美琴らしいわね」
「んで、まあ高野も一応許可くれたよ」
 その言葉に愛理は軽い驚きを含んだ声で応える。
「へえ、名前覚えたんだ」
「忘れるか。あいつ、恐ろしい女だな」
 青ざめた播磨を見て、愛理は興味深げに聞く。
「なに言われたの?」
「あなた、ほんとに愛理と付き合う資格があると思っているの? あなたどれだけ愛理を傷つけたかわかっているの? とかなんとかネチネチよ。やれ銭湯でひどいこと言っただの、やれ演劇でのセリフは絶対に許せないだの、やれバスケ部の打ち上げでは態度が悪かっただの、そんなのいちいち覚えてるわけねえよな?」
 同意を求められて、愛理ははっきりと答えた。
「私はそれ、全部覚えてるけど」
「い……」
 愛理が氷のような視線を投げると、播磨の表情が目に見えて強張った。そして、ギギギと音が聞こえてきそうなぎこちない動きで頭を下げる。
「すみませんでした」
 そんな彼を見つめて愛理はくすくすと笑う。
「もういいのよ。こうなったからにはいい想い出ってことにしとく。それより……ね?」
「ああ、そうだな。んじゃ。そろそろな」
 言ったきり沈黙する播磨。数十秒耐えてから、少し苛立ちつつ、愛理は横目で播磨を見る。その彼が顔を真っ赤に染めているのを見て、愛理は優しく苦笑し天を仰いだ。
「お嬢」
 やっと声をかけられて愛理がそちらを向くと、播磨は意を決したようにサングラスを外す。切れ長な、意志の強そうな瞳が露になり、思わず愛理は魂が引き寄せられそうな錯覚を覚えた。
「やっぱ、あんたそっちのがいいわ。でも、私の前以外ではサングラス外さないって約束、守ってるんでしょうね?」
「守ってるさ。そのよ」
「やっぱサングラスなしで見たおめーの方が数倍綺麗だぜ」
「人のセリフ取るな、こら!」
「どうせ言えないだろうと思って言ってあげたのよ」
「ったく、もう雰囲気じゃねえな」
 力任せに流れを変えようとしたのだろう。播磨はいきなり乱暴に愛理の肩を抱き寄せてきた。
 そして、まっすぐにこちらを覗き込んで、ようやく言ってきた。
「あのよ。好きだぜ……お嬢」
「誰よりも?」
「ああ」
「天満よりも?」
「くでえぞ」
「ごめん」
 さすがに赤くなった頬が気恥ずかしくて少し視線をさまよわせ、やっと愛理は答えた。
「私もあんたのこと、好きよ」
「お嬢……」
 播磨は愛理をさらに強く抱き寄せ、瞳を覗き込んでくる。その意図を察して、愛理はしかめっ面を作る。
「あんた……そういう下心があってこっち選んだのね」
 それを言うと播磨は顔を真っ赤に染めて言い返してくる。
「だ……そうだけどよ、いいじゃねえか、そろそろ」
 すねたような彼の顔を見て愛理は思う。まあ、彼の気持ちもわかると言えばわかると。
 結局あれから毎日のようにメールや電話をやり取りし、毎週のようにデートも重ねてきている。正式な告白は今受けたとは言え、そろそろ次のステップに進みたいと思ったとしても、当然の心理だろう。
「ダメか、お嬢?」
 すねたように播磨は言ってくる。愛理は小さく微笑んで答えた。
「その、お嬢ってのやめてくれたら許してもいいわ」
「ちょ……」
「いいのよ、普段は。お嬢って呼ばれるのも別に嫌いじゃない。友達とかの前ではそれでいいわ。でも、二人っきりのとき、特にこういうときはね」
「わかった、えっとなんだ。その……愛理」
「なに、拳児?」
「その……いいよな?」
 愛理は返事の代わりに瞳を閉じた。自分を抱いてくる腕に力がこもるのが分かる。震えているのは彼だろうか? それとも自分だろうか?
 やがて柔らかいものが覆いかぶさってくる感触。
 唇を通しても彼の想いと緊張が分かる。きっと彼も同じだろう。名残惜しげに唇が離れた。
「わりい、やっぱ泣かせちまった」
 播磨が指先で愛理の目じりをぬぐってくる。その優しい手つきにうっとりとしながら愛理は言う。
「この涙は違うからいいのよ」
 言って播磨の胸に顔を埋めると、待ちかねたように彼も抱きしめてきた。
 彼の腕と、そして愛情に包まれながら愛理は思う。自分の家庭環境が特殊なこともあり、これから先の道も決して平坦ではないだろうと。
 しかし同時にこうも思う。二人一緒なら怖いものなんてない。障害があっても、二人で支えあえばいい。あの夜のダンスのように。
「好き」
 消え入りそうな声で囁く。播磨の腕にさらに力がこもった気がした。
 
 七月の陽光の下で、二人の心は完全にひとつになった。

〜Fin〜


思い入れの強い作品です。王道からの逆転と完全旗エンドをテーマに書いたこれですが、某所で話題になりまくったというか、ぶっちゃけ叩かれたというか……。晶と美琴の態度がその大半なわけですが、これもそのうち改訂するかも知れません。だけど、もうひとつ指摘された、美琴が沢近の気持ちに気付いてた件については俺のほうが正しかったじゃないか、と言ってみたり。

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