For Your Eyes Only



 二人の間に沈黙が落ちた。だが、それは決して気まずいものではない。
 深くうつむき、彼はサングラスを外す。
 その奥から現れた鋭く、しかしどこか優しげな双眸を見て、少女は息を呑む。
 そして、少年はその双眸でじっと少女を見つめ、万感の想いを込めるようにその言葉を送り出した。
「ずっと、好きだった」
 それを聞いた瞬間、少女はすっと瞳を伏せる。そして、彼女が両手で顔を押さえ、肩を震わせるのを見て少年は慌てて声をかけた。
「ど、どうしたんだよ? 泣くことねえだろ?」
「いえ、違うんです。嬉しくて。私もずっと前から……ずっと前から、あなたのことが好きでした」
 その言葉を聞くと、少年はほっとしたように息をつき、それから静かに少女を抱き寄せた。
 朝日を背負いながら彼は言う。
「もう二度と泣かせねえからな」
「はい」
 胸の中の少女が答えた。そして……。エンディングテーマが館内に響き、スタッフロールがスクリーンに流れた。
 
 帰り道。
 街灯と月明かりに照らされながら、塚本八雲は後方から見つめていた。オールバックの少年と彼に盛んに話しかける金髪の少女の背中を。
 金髪の少女、沢近愛理は、まくしたてるように言う。
「なんかありきたりだったわよね。主人公が不良からヒロインを助けたり、バイクで事故ったり、記憶喪失になったり」
「まあ、そうか? 俺はこういう映画、ほとんど見ねえからよくわかんねえけどよ」
 答えた播磨拳児の声を聞いて八雲はくすりと笑った。彼女は気づいていたから。時々、こちらの目を盗むようにサングラスの奥の目をこすっていた彼に。
 もっとも、右を愛理、左を八雲に固められていては、監視から逃れるのも困難だったことだろう。先ほどから映画をけなしている愛理が、そのことに気付いているかどうかは八雲には知る由もないが。
 沈黙を保つ八雲にちらりと視線を向けて、愛理は言う。
「だいたい、気に入らないのよね。私は幼馴染の方の子と結ばれるべきだと思ったわ。彼女の方が気持ちはっきりしてたのに。なんで男って、ああいう思わせぶりな子に惹かれるのかしら? ねえ?」
 唐突に話を振られて、八雲はやや慌て気味に答える。
「は、はい。私もあっちの女の子の方に肩入れしてた気がします」
 愛理がどういう意図で気の強い女の子の方に感情移入していたかはなんとなくわかるだけに、反対したいのは山々だったが、正直八雲もこれに関しては愛理と同意見だったのでこう答えるしかなかった。
 すると愛理は満足げに笑い、少し播磨との距離を空けて、こちらに目配せを送ってくる。その意味を理解して、八雲は小さく会釈しながら二人の間に割って入った。
「播磨さんは、どちらの子が好きでしたか?」
 八雲が問いかけると、播磨は首をひねる。
「ううん、どうだろな。俺はただ、みんなが幸せになればいいとか思ってたぜ」
 播磨の言葉を聞くと、愛理が口を挟んできた。
「あんた、ほんと優柔不断なんだから」
 自分を挟んで口論を始める二人を見て、八雲はため息をついた。
 いつもこうなる。三人でいるとき、なかなか話に参加できない自分に愛理はよくああやって気を使ってくれる。
 でも、結局播磨と自分の間に話が弾むことは少なく、愛理と播磨ばかりが会話することになる。
 播磨と二人きりのときには、共通の話題があることもあってそうでもないのだが、愛理の前であの話ができないのがつらい。
 そんな思いにふけっていると、不意に播磨が話題を変えた。
「そう言や、今日はどっちの番だったよ?」
「そんなことも覚えてないの?」
 愛理があきれたように言う。
「今日は私の番。だから、先に八雲の家ね」
 その言葉を聞くと播磨は深くため息をついて夜空を見上げる。
「ほいほい。つかよ、おめーは電話一本で車呼べんだから、なんで俺が毎度毎度送んなきゃいけねえんだよ?」
「なによ? 私だけ仲間外れにする気?」
 愛理が気色ばむのを見て、播磨は慌てて首を振る。
「い、いや、仲間外れとかそんなんじゃよ……」
「だいたい、あんたが留年免れたのは私たちのおかげなんだからね。と、まだそう決まったわけでもないけど」
 言いながら、愛理は白い息を自らの両手に吐きかける。十二月に入ってからすでに一週間が過ぎ、寒さも増してきている。
 播磨はTシャツの上に羽織ったB3タイプのフライトジャケットと首にかけたマフラーのおかげで少しも寒そうではないが。
 それにしてもと八雲は思う。何もファー付きのフライトジャケットを着ながら首にマフラーをかけることもないのにと。
 そのマフラーが誕生日に自分がプレゼントしたものだとは言え。
 そして八雲は気付く。愛理の目が播磨の足元に向けられていることに。彼女が満足げな笑みを浮かべていることに。
 播磨が履いている黒いスニーカーは愛理がプレゼントしたものだ。
 ずるいと八雲は思う。マフラーは冬にしか巻いてもらえないのに、スニーカーは年中履いてもらえる。お互いダブらないようにと話し合って決めたプレゼントだが、なんとなくだまされたような気にもなる。
「しかし、妙なことになっちまったもんだよな。何回目だ、こうやって三人で出かけるの?」
 播磨がぼやくのを聞いて、愛理が突っ込む。
「あら? こんな身に余る待遇に不満があるわけ? それとも、そろそろ腹くくった?」
「いや、不満とかじゃねえけどよ」
 結局今夜もあまり会話に参加できないうちに、家の灯りが見えてきた。
「お帰り、八雲」
 玄関の扉が開き、いかにも上機嫌と言った風の姉が姿を現す。
「姉さん、帰ってたんだ」
「こんばんわ、天満。そっちもデートだったの?」
 愛理の言葉に天満はニッコリ笑う。
「わかっちゃう? 烏丸君ってば、今日はねえ……」
「姉さん」
 八雲が裾を引くと、天満は我に返ったように播磨に視線を向け、慌てて口を閉じる。
「ごめんなさい。まあ、私の口から言うのもなんだけど、こんな幸せな境遇の播磨君に気を使わなきゃいけないってのも変な話だと思うわよね」
「ほっとけよ」
 すねたように播磨がそっぽを向くと、そんな彼に笑顔を向け、天満は言う。
「この際、どちらを選んでも恨みっこなしだけど、できるだけ二人とも悲しまないようにしてあげてね」
「姉さん!」
「天満!」
 思わず声を合わせるように叫んでしまい、八雲と愛理は顔を見合わせた。
 愛理は、夜目にも鮮やかなほどに赤くなった顔でため息をつき、八雲の背中を押してくる。
「はいはい。とっとと家に入った。ここからは大人の時間だから」
「大人ってひとつしか歳違わないのに……」
 ごちる八雲に小さな笑みを向けてきてから播磨は言う。
「まあ、とりあえずおやすみな、妹さん」
「またね、八雲」
 声をかけてくる二人に八雲は答える。これからその二人が二人っきりで歩くのだと言う事実に胸を少し痛めながら。
「はい……。おやすみなさい」 
「二人ともおやすみ。愛理ちゃん、抜け駆けはなしの方向でね」
「るっさいわね」
 夜道を二人が遠ざかっていく。並んだ背中がやけにさまになって見えて、それがつらくて、八雲は玄関に入った。
 携帯電話を開き、カレンダーを確認する。十二月八日。そろそろ始めないといけない。
 その事実が嬉しくもありつらくもあり、そして何よりも後ろめたくて。八雲は重い表情で携帯を閉じた。

 自室にこもり、ベッドに横たわり、八雲は悶々とする。今頃二人は一緒に歩いているのだろう。腕を組んだりとかはしていないと信じたいが。
 愛理のことが羨ましいと思う。なぜなら彼女は播磨が自分のことを好きでいてくれるかもしれないという希望を抱けるはずだから。
 自分にはそれができない。期待することすらできない。それがつらい。
 愛理のことは以前の件を通して好きになってきている。大げさなことを言えば、姉が一人増えたという感じすらある。
 だが、彼女がほんとうに播磨と結ばれたとしたならば。そのときに平常心を抱いていられるかと言えば恐らくは否だ。
 そして思う。にも関わらず、きっと自分はそんな想いを表には出せず、おめでとうございますと言うのだろうと。

 ふと壁時計を見上げた。八時半。そろそろだろうか。身を起こすと八雲は携帯電話を手に取る。アドレス帳を開く手間は省いて、着信履歴を辿った。
 意を決して、八雲はボタンを押した。
 数回の呼び出し音。そののちに、彼は電話に出た。
「もしもし」
「播磨さん、私です」
「おう」
「一人……ですか?」
「ああ、お嬢はさっき家に届けてきたからよ」
「そうですか。それで例の読み切りの原稿なんですけど、年内が締め切りになってますよね?」
「ああ、そうだな」
「そろそろ本格的に作業に入らないとまずいと思うんですけど」
 その言葉に、播磨が黙り込む。そして、数秒の間を挟んで彼は言ってきた。
「確かにな。んじゃ、そのこと、明日打ち合わせするか」
「はい。それであの……。沢近先輩に……」
「ああ、そっか……」
 播磨の重々しいため息が電話越しに聞こえてきた。
「話、しなきゃいけねえな。しばらくこういう風に出かけられなくなるって」
「……はい」
「んじゃ、明日その辺も含めて」
「はい」
「じゃあな」
「はい、おやすみなさい」
 携帯電話を静かに折りたたみ、八雲はため息をつきながら再びベッドに横たわる。
 漫画のことは、愛理には内緒にしてある。二人で何かやっていることはすでに打ち明けてあるが、それが漫画であることだけは内緒だった。
 播磨自身が、時期が来るまで教えたくないと主張したためだと自分に言い聞かせてはいるが、実際には、これだけは二人きりでやらせて欲しいと言う自分のエゴのせいではないかとも思っている。
 実際、漫画のことを知った愛理がどういう反応をするかとか漫画のヒロインが未だに天満を模したものであることとかを考えれば誤った選択でもないとは思うのだが。
 当の愛理は仲間はずれにされた形になり、当然面白くはないのだろうが渋々と言う形で納得してもらっている。
 ともあれ、明日から漫画の作業に入れる。播磨と二人きりの時間が過ごせる。そのことを思うと心が浮き立つ反面、明日の愛理の反応が怖くもある。
 思い出すのは演劇のとき。あのときは愛理のほうから身を引く形になったわけだが、あのときの怒ったような寂しげな顔は今でも忘れられない。
 日常的に喋るようになったとは言え、彼女の内面はまだ計り知れない。それはもちろん向こうも同じなのだろうが。

 瞳を閉じると、八雲は複雑な現状から逃れるかのようにまどろみに身を任せた。


その日八雲は、茶道部の部室で一人ダージリンティーを嗜んでいた。ファーストフラッシュ特有の繊細な香りを噛み締めるように味わいながら、一口、また一口と飲み干していく。
 とそのとき、入り口の扉が開いた。その向こうから姿を現したのは意外な人物だった。
 流れるような金髪。雪白い肌。そして、今飲んでいる紅茶を思わせるような美しい瞳。まるで出来のいい西洋人形に命が宿ったのではと思わせるようなその少女を、八雲はよく見知っていた。
 沢近愛理。八雲よりひとつ先輩の二年生にして姉である天満の親友。そして……。
「あら、晶は?」
 扉をくぐると同時に、彼女は挨拶も抜きに言ってきた。八雲はティーカップをテーブルに置きながら答える。
「高野先輩なら、先生に呼ばれて職員室に。すぐ戻ってくると思いますけど」
「そう」
 特徴のある金髪をさらりと払いながら彼女は言う。
「それなら、待たせてもらってもいいかしら?」
「は、はい。どうぞ」
 八雲が答え終わったときには、すでに愛理は八雲の向かい側に着席していた。慌てて立ち上がると、八雲はそそくさと食器棚からティーカップを取り出し、愛理の前に置く。
「あら、悪いわね」
 言葉とは裏腹に、さも当然とばかりに愛理はうなずく。
「いえ」
 言いながら八雲はポットの紅茶をカップに注いで行く。ちょうどポットが空になった。
「どうぞ」
「ありがとう」
 愛理が紅茶を飲む仕草は、別段気取っているわけでもなさそうなのにやけに絵になる。美しい瞳をすっと閉ざして、愛理は言ってくる。
「いい香り。ダージリンのファーストフラッシュね。どこの農場?」
「い、いえ。そこまでは」
 ドギマギしながら答え、愛理が意地悪げな笑みを浮かべていることに気付き、八雲は少し悔しくなる。
 そして、あれはまだつい二日前だったかと思い起こす。と、不意にそんな八雲の心を読んだかのように愛理がその話題を振ってきた。
「そう言えば、あれは宣戦布告と受け取っていいのかしら?」
「え?」
 突然飛び出してきた不穏な言葉にドキリとしたが、すぐに愛理の言わんとしたところには気づいた。
 あのとき、天満と播磨が席を外して、束の間二人きりになったときの会話。
「これでお互い最大の敵排除完了ってとこかしら?」と問いかけてきた彼女に八雲は「そうですね」と答えたのだ。
 自分でもよくあんな風に言えたものだと今にして思う。だが、あれで踏ん切りがついた。
 今までは、播磨の想いを優先させる意味で想いを押さえてきたが、その必要もないのだと。
「どうなの?」
 指先でテーブルを鳴らしながら愛理が重ねて問いかけてくる。八雲は、じっと彼女を見返し、意図的に静かな笑みを浮かべて言った。
「それでいいと思います」と。
 愛理の瞳が揺らいだのが少し痛快だった。同時に、自分の頬が熱を帯びているのにも気づいてはいたけれど。
 ひとつの咳払いを挟み、愛理は言ってきた。
「なるほどね。それなら、今度三人で遊びに行かない?」
「はあ?」
 突然の提案に八雲はあっけに取られたように調子はずれな声を出した。何がそれならなのかも三人のメンツも見当も付かない。
 すると、愛理が勝ち誇ったように言ってくる。
「もちろん、私とあなたとヒゲの三人よ」
「どうしてまた……」
 反射的に問い返すと、愛理はわずかに視線を泳がせた。
「まあね。私と二人ってことになるとお互い意識しちゃうし、だいたいあいつがOKしてくれるとは思えないし。その点あんたも一緒なら大義名分も立つし、あんただってそういうことなら、ヒゲと一緒にいろいろ遊びに行ったりとかしたいでしょ?」
「それは……」
 なにが大義名分なのかはよくわからなかったが、後半部分は正直図星だった。そして三人で遊びに行くのも存外楽しいのかもしれないと思った。
 八雲は上目遣いで愛理を見て、彼女の頬もまた軽く紅潮しているのを確認して微笑むと、大きく頷いた。
「私も、それいいと思います。よろしくお願いします」
 八雲が言うと、愛理はほっとしたように息をつき、ニッコリと微笑んだ。
「了解。なんか変なことになっちゃったけど、改めてよろしくね」
 愛理が手を差し伸べてくる。八雲は無意識に自らの右手をスカートで拭い、愛理の手をそっと握った。


 そこで目が覚めた。八雲は小さく苦笑しながら上半身を起こすと、携帯電話を手に取る。アドレス帳を探るとすぐにその名前は見つかった。
『沢近先輩』
 そこにはそう記してある。彼女のTEL番とアドレスがここにあるのが改めて考えると不思議だ。あの握手の直後にお互いのそれを交換したわけだが。
「八雲〜。お風呂あいたよ〜」
 姉の声で八雲は思考を中断した。携帯をぱちりと閉ざし、彼女は立ち上がった。


 翌日の昼休み。校舎裏で三人は対峙していた。

 校舎に背中を預け、片手を顎にあてがい険しい表情を浮かべるその少女を、八雲は不安とともに見つめている。
 先ほど、播磨が一通りの説明を終えたところだ。愛理は、忌々しげな表情でひとつ吐息をつき、八雲と播磨を交互に見やり、最後にその視線を播磨に固定して言う。
「話はわかったわ。要約するとあんたが年内は忙しくて三人で会ったりとかできないってことね。で、聞きたいんだけど」
 愛理は双眸に険しい光をたたえてその言葉を紡ぐ。
「その用事ってのはあんたたちがいつもやってる、作業ってのだと思っていいの?」
「ああ」
 幾分の躊躇を挟んでから播磨が答えた。それを聞いて、愛理は自嘲するように言う。
「なるほどね。私と遊んでる暇はないけど、八雲とは毎日作業に励むってことね」
「お嬢。その言い方はよ……」
「わかってる」
 愛理は自らを落ち着かせるかのように髪をかき上げ、優しさと寂しさが微妙に配合されたような笑みを浮かべた。
「その作業に関しては干渉しないって約束だったものね。ここは譲っとくわ」
「わりいな」
「ありがとうございます」
 播磨の言葉に八雲も続けた。
「その代わり」
 愛理は腕を組んで言ってくる。
「年が明けたら、私に一日頂戴。つまり、その……私と二人っきりで一日……。いいわね」
 愛理の口調が悔しげなのは、自分の頬に朱が差しているのに自分で気がついているからだろう。
「えっと……」
 播磨がこちらに視線を向けてきた。当然播磨と二人っきりでデートしたことなどない八雲としては、不本意な部分もないではなかったが、文句を言える立場でないことぐらい十分に承知している。
「私は特には」
「そう。話は決まったわね」
「待て。俺の意志は?」
「そんなものはないわ」
 ひとしきり笑ったあと、愛理は真顔になって播磨に詰め寄った。
「いくつか言わせてもらうわよ。八雲を部屋に泊めたりとかは極力避けなさい。前みたいに変な噂とか立つから」
「ああ、わかった」
「それから」
 愛理は八雲のほうに歩み寄ってくる。
「夜遅くなったときには、きちんとヒゲに送らせなさいよ。私に変な気とか使うことないから」
「沢近先輩……」
「言いたくないけど、あんたは私と同じくらいもてるんだから、ストーカーのひとりぐらいいたって不思議じゃないわ。くれぐれも気をつけなさい」
「わかり……ました」
 八雲が答えると、愛理はかすかに笑って空を仰ぎ、気だるそうに言う。
「話はこれで終わりかしらね。じゃあ、教室に戻りましょうか」
「あ……」
 八雲は、少し慌てたように愛理に声をかける。
「あの、先輩。少し話、いいですか?」
「え?」
 愛理はやや意外そうに片眉をあげ、腕時計を見る。
「別にいいけど。じゃあ、あんた消えなさい」
「消えろって、おめーなあ……」
 ぶつぶつ言いながらも、播磨は肩をゆすりながら歩み去っていった。それを確認してから八雲は言う。
「ひとつ聞いてもいいですか? その……どうして……」
「そんなに物分りがいいかってこと?」
「は、はい」
 言いにくい言葉を言ってもらえて、幾分ほっとしながら八雲。愛理は唇に複雑な笑みを刻みながら言ってくる。
「そうねえ。いろいろあるけど。とりあえず、あんた、つらかったでしょ」
「え?」
 思いがけない言葉に胸を押さえながら八雲は問い返す。
「天満のこと応援して、ヒゲのこと応援して、そして自分の想いも抱えて。複雑だったんじゃない? 私は何も知らなかったから、あいつのことだけ考えていればよかったけど。それ考えると、あんまりあんたにつらく当たりたくないのよね」
「先輩……」
 軽く頭を振って愛理はさらに言う。
「なんてきれいごと言ってみたりもするけど、本音はあんたとやり合うとどうしても私が悪役になっちゃうからってのがあるんだけどね」
「そんなこと……」
 八雲は逆ではないかと思った。あの演劇のとき、どう見ても王子の彼女が正義で魔女の自分は自我を振り回していただけの気がしたから。と、愛理が肩をすくめて言ってくる。
「まあ、いろいろ言ったけど、結局はそうしたかったってだけ。これじゃダメ?」
「いえ、そんなことは……」
 うつむいた八雲に、愛理は意味深な言葉を投げてくる。
「ねえ、八雲。私たちってどういう関係なのかしらね?」
「え?」
 思いがけない問いかけにいくつもの言葉が頭をめぐる。先輩で姉の親友でそして……恋敵? しかし愛理が望んでいる言葉はそのどれでもない気がした。
「その……」
「難しかったかしらね。じゃあ、私行くから。作業の方、がんばりなさいね」
「は、はい。ありがとうございます」
 深々と頭を下げた八雲に軽く手を振って、愛理は去っていった。
 愛理の本音は八雲にはわからない。彼女自身にもはっきりとはわかっていないのだろう。だが、きっとそうしたかったからそうしたと言うのが一番本音に近いんじゃないかとは思う。
 自問自答する。だとしたら、自分は何がしたいんだろうか? その問いかけに答えてくれるものはもちろん誰もいなかった。

「おかえり、八雲」
 教室に入ると同時に声をかけてきた少女は、八雲の親友、サラ・アディエマス。同じ金髪で美少女の部類に入ると言うことでは愛理と共通だが、性格と言い、イメージと言い、二人は正反対とすら言えるかもしれない。
「上からちらっと見たけど、なんか深刻そうじゃなかった?」
 心配げにサラが聞いてくる。
「うん……」
 八雲は心持ち視線を下げて答える。
「今日から播磨さんと例の作業に入るから、そのことで話してたの。そういうことだから、私しばらく、茶道部の方にも……」
「そうなんだ」
 少し目を丸くしたのち、サラはこちらの肩を叩いてきた。
「でも、それならチャンス到来だね。一気にここで播磨先輩を……」
「サラ」
 八雲は珍しくサラの言葉をさえぎり、首を小さく左右に振る。
「そういうのは……やらないって約束でもないんだけど」
 我ながら歯切れの悪い言葉に、サラがため息をつく。
「きまじめと言うか。まあ、八雲らしいんだけど」
 どちらからともなく二人は歩き出し、窓際へと移動する。大きめの瞳に柔らかい光をたたえ、サラは言う。
「沢近先輩か。やっかいな相手よね。他の相手なら八雲なら楽勝とか言えるんだけど。まあ、そこは向こうもそう思ってるんだろうけどね」
 八雲が沈黙で先を促すと、サラはやや表情を引き締めて続ける。
「これは傍から見た無責任な印象と思ってもらっていいんだけど……」
「うん」
 サラは言いにくそうに視線を逸らしてから意を決したように口を開いた。
「私の見たところ、八雲、リードされてるよ」
「あ……」
「遠慮とかしてる場合じゃないと思うけど」
 自分でもわかってはいたことだが、第三者から言われるとショックも大きい。うつむいた八雲を気遣ったのだろう。サラが肩を叩いてきた。
「ごめん。余計だったかな?」
「そんなことない」
 八雲は力なく首を振る。
「席、戻ろっか」
 サラの言葉に頷き、言われるままにしながら八雲は思う。ほんとうに自分は何がしたいんだろうかと。


 数日が過ぎた。作業は比較的順調に進んでいる。八雲は指定されたスクリーントーンを貼りながら壁時計を見上げた。
 午後9時。播磨は帽子越しに髪をかきむしり、アイデアに苦しんでいるようだ。
 八雲は、突発的に襲ってきた眠気と格闘しながら原稿に目を落とし、そこに描かれているヒロインを凝視する。
 黒髪を特徴のある形で両サイドで結んでいるその少女のモデルが誰なのか、もちろん八雲にははっきりと分かる。
 そして眠気でぼうっとした頭で考える。この少女が、いつか金髪の少女に変わることもありうるのだろうかと。
 眠気と疲れで散漫になっていたせいだろうか? そんな疑問が、さらにストレートな形になって口から漏れたのは。
「播磨さん、今、好きな人とかいるんですか?」
「あ?」
 驚いたというよりは呆れたという顔つきで播磨がこちらを見てくる。それを見て初めて眠気が吹き飛ぶ。自分の言葉に自分で驚き口を押さえるが、言った言葉を回収することはもうできない。
「あ……あの……」
 口ごもる八雲のほうをしばし見やったのち、播磨は吐息とともにその言葉を押し出してきた。
「ああ、いるぜ」
「え……」
 瞬間、八雲の胸はずきりと痛んだ。播磨の言う相手が自分でないことぐらい八雲にはわかる。否、知っている。だとすれば……。
 播磨はサングラスの奥の瞳を天井に向けて、重い声で言う。
「俺の好きな人は……」
 播磨が言葉を切ったせいで自分が唾を飲み込む音が、やけに大きく響き、八雲はさらに気恥ずかしくなる。
「俺の好きな人は、あんたのお姉さんだ。わかりきってんだろ」
「あ……」
 安堵と罪悪感が同時に心を覆う。視線を落としてさらに播磨は続けた。
「まあ、自分に目がないことはとっくにわかってんだけどよ。気持ちってのはそう簡単にはな」
「すみません」
 ドキドキする左胸を押さえながら、八雲は思う。確認するなら今しかないと。天満の話が出た今なら、はっきりと否定してくれるかも知れないという期待感も心の隅に置いて。
「それなら、沢近先輩のことはどうなんでしょう? 先輩の気持ち、播磨さん、薄々気づいてますよね?」
「ああ」
 播磨が浮かべた表情をなんと言えばいいのだろうか? 照れ笑いと苦笑をかき混ぜたかのような笑顔。だが、その笑顔がやけにまぶしく見えて、八雲の胸は痛む。
「まあ、あそこまでされたら俺だってそうなのかなとかは思うけど、実感わかねえんだよな。あいつが俺ごときをって思うし、あいつとはいろいろありすぎて今更みたいな……よ」
「播磨さん……」
「でもまあ、あいつがつうかあいつと妹さんがケツ叩いてくれなかったら、今頃ほんと俺やばかったろうって思うしよ。きっちり振られて気持ちも整理できたし。まあ、感謝はしてんだ」
 間違いない。先ほどの笑顔と、今の言葉で確信した。播磨は愛理の気持ちに気づいている。そして彼は愛理に惹かれかかっている。
 だとしたら、自分のことはどうなのだろう? 気持ちに少しは気づいてくれているのだろうか?
「なあ、妹さんはどう思ってんだ?」
「え?」
 先手を打つかのような播磨の質問に八雲は硬直する。
「私は……」
 テーブルの上に置いた拳が知らず硬くなる。そんな彼女を知らず播磨は次の言葉を放った。
「お嬢とは最近、仲いいみたいな感じするし。妹さんから見てどうなんだ、あいつ?」
「……っ」
 胸が苦しくなった。自分の勘違いに対する恥ずかしさと近くにいる自分のことではなく愛理のことばかり話してくる播磨へのもどかしさで。
 話を振ったのが自分であるにも関わらず。
「私は……」
 リベンジをしなければいけないと思った。
 八雲はじっと播磨に視線を固定した。播磨がたじろぐほど長時間彼をじっと見つめ、そしてかすかに震える声にその言葉を乗せた。
「……好きです。播磨さん」
「お……」
 播磨の顔がやや赤らむのを確認したのち、ようやくちょっとした満足感を覚えて八雲は微笑んだ。
「播磨さん、私、沢近先輩のこと好きです。美人だし、上品で。それに私のこともいろいろ気にかけてくれてるし。少し憧れているかもしれません」
「そ、そっか。と、とりあえず無駄話はこのくらいにしとくか。妹さん、それ終わったらこいつのベタ頼む」
「はい」
 まだ高鳴る胸を押さえながら八雲は思う。今ので少しはアピールできただろうかと。播磨の心からはまだ何も聞こえてはこない。だが、少しは前に進めた気がする。八雲は目を閉じ、胸の中で先ほどの言葉を反芻した。
(好きです。播磨さん)
 カリカリというペンの音が響く。愛理のようにわかりやすく播磨にアピールすることは性格的に無理なのかもしれない。だけど、少しずつでも前に進んで行こうと。その決意を八雲は胸に刻み込んだ。


 カレンダーの日付はもちろん戻るわけもなく、着々と進んでいく。そして、八雲が恐れている日が近づいてきた。
 十二月二十四日。すなわちクリスマスイブ。
 日本中の少女にとって、この日が特別なことは改めて言うまでもないだろう。
 八雲は今年、この日を意中の相手と二人きりで過ごせることになるなど夢にも思っていなかったのに、それは思わぬ形で現実となった。
 すでにその日の夜も作業のために彼の部屋に行くことになっているから。
 さらに幸か不幸か。その夜は部屋主の刑部絃子も留守にしているらしい。まあ彼女ほどの女性がクリスマスの夜に部屋にいるほうが不思議ではあるのだが。
 そのこと自体、全く嬉しくないわけでもないのだが、もしも愛理がこのことを知ったらどう思うだろうかと気がかりでもある。特別な夜であるだけに。

 そしてクリスマスを三日後に控えた昼休み。
「塚本さん」
 自分の席でサラと話し込んでいた八雲は、背後から肩を叩かれて振り返った。そこにいたのは級友の稲葉だった。
 ゴシップ好きの彼女は含み笑いとともに教室の入り口の方を指してくる。
「沢近先輩、塚本さんに用事だって。なんか大変そうだね」
 稲葉から視線を愛理のほうに移すと、彼女は笑顔で手招きしてくる。なんとなく悪い予感を覚えつつ、八雲は腰を浮かせた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「うん、がんばってね」
 なにをがんばれと言うのかとサラに尋ねたいところだったが、その余裕もなく、八雲は愛理に歩み寄って行った。
「しばらくね」
「こんにちわ」
 愛理に促されるようにして教室を出ると、壁を背負う形の愛理と向かい合う。噂の的になっている二人が一緒にいることで周囲から好奇の視線が向けられる。
 そして、八雲にはそれが思念という形になってはっきりと見えた。
(うわ、沢近先輩だ。ほんときれいだな。塚本と並んでるとすっげえ絵になる)
(あの先輩のことで話してんのかな? ほんとどういう関係なんだ、この二人?)
(どっちも甲乙付けがたい……。いいなあ……)
 そういう思念を無視することにもとうに八雲は慣れている。そして愛理のほうもそういう視線を意に介した様子もなく、言ってくる。
「手っ取り早く本題話すわね。あんたさ、クリスマスの夜は予定とかあるの?」
 来たと思った。ある程度予期していた問いかけに、しかしどう答えるか整理しているうちに、愛理が言葉を重ねてくる。
「例の仕事でヒゲと一緒なの? それなら別にいいんだけど」
 肯定しようと思った。そしてできなかった。クリスマスの夜に理由はどうあれ、自分の好きな男が違う女と一緒に過ごすと聞いて、愛理が平静でいられるとは思えなかったから。
 そう思ったから八雲は嘘をついた。
「クリスマスの日は、サラと一緒に過ごそうかと」
「へえ」
 軽く目を見張って、愛理は笑顔になる。
「そうなんだ。それならちょうどいいわ。二人でうちに来ない?」
「え?」
 意外な言葉に八雲は思わず身を乗り出す。
「天満は烏丸君とデートだって言ってるから来ないけど、あんたも……サラだっけ? あの子も晶とは馴染みなんだし、美琴はそういうこと気にする子じゃないし」
「あ……」
 自分の思い違いに気づいて、八雲は臍をかんだ。単に愛理は自分をパーティーに誘ってくれただけなのに。
 なのに自分は変に勘ぐって嘘をついてしまった。しかし、今更ほんとうのことを話すわけにも行かず、知らず歯切れが悪くなる。
「その……それは、でも……」
「いいじゃない気にしなくても。なんなら彼女にも今聞いてみる?」
 教室を覗き込むそぶりを見せる愛理を、八雲は慌てて押しとどめる。
「い、いえ。その……やっぱり今回は遠慮させてください」
 八雲の意図を誤解したのだろう。愛理が苦笑とともに言ってくる。
「ああ、花井君なら呼んでないから大丈夫よ」
「い、いえ……そういうことじゃないんですけど。や、やっぱり今回は……」
 八雲が言うと、愛理は明らかにがっかりしたように肩を落とし、力なく言う。
「そう? まあ、上級生主催のパーティーってのも居心地悪いかもね。でも、彼女には話してみて。気が変わったらいつでも言ってきなさいね。当日でもOKだから」
「は、はい。ありがとうございます」
「じゃあ、そういうことで。私は行くわね」
「はい。あの……すみませんでした」
 嘘を謝ったのだと愛理が気づくわけもないが、八雲はそう言わずにはいられなかった。そして愛理は軽く苦笑しながら八雲の肩を叩いてくる。
「いいのよ。それじゃね」
 手を振りながら遠ざかっていく愛理の背中を見送ってから八雲は教室に戻る。
「どうだった?」
 声をかけてきたサラに八雲はうなだれる。
「先輩に悪いことした……」
 八雲はかいつまんでサラに事情を説明する。頷きながら話を聞き終えたサラは、ため息とともに言ってきた。
「そっか。まあ、悪気はなかったんだから仕方ないよ」
「それでね」
「わかってる」
 笑顔とともにサラは胸を叩く。
「もしも先輩に聞かれたら口裏合わせとくね」
「ごめんね、サラ」
「いいのよ」


 そしてクリスマスの夜。
 八雲はいつものように播磨の部屋で作業に励んでいる。もちろん播磨も同じだ。
 今のところ、クリスマスに関する発言はどちらの口からも出ては来ない。八雲は意図的にその話題を避けてきたし、播磨のほうもそれどころではないのだろう。
 結果的に愛理に嘘をついてこの夜を二人で過ごしている以上、クリスマスらしいことをいっさいやらないのが贖罪だと八雲は考えていた。そのために、わざわざ服も極力飾り気のないものを選んできた。
 今頃みんなはどうしているだろうかと八雲は思いを馳せる。
 天満は烏丸と二人きりで甘い時を過ごしていることだろう。二人がどこまで進んでいるのかは知らないが、今夜の帰りは遅くなるだろう。
 サラはクラスの友達数人と遊びに行くと言っていた。自分にとってクラスで友達と言えるのはサラぐらいだが、その逆は真ではない。
 今頃はサラにアプローチをかけている男子生徒のひとりもいるかもしれない。
 そして愛理。自分のことはおろか、播磨のことも忘れて楽しい時間を過ごしてくれていると信じたい。本来なら、パーティーの招待客に播磨も間違いなく含まれていただろうに、なぜ今自分がこうして播磨と無言で向かい合っているのか。そのことをどう自分で消化すればいいのか。八雲にはわからなかった。
「妹さん」
 不意に播磨が声を発した。
「は、はい」
 その声に苦々しい響きが混じっていることに気づいたから、八雲はびくりと返事を返す。播磨はため息とともに一枚の原稿用紙をこちらに差し出してきた。
「ここ、スクリーントーン間違ってる。少し疲れてるか?」
「い、いえ。すみません」
 播磨が気遣ってくる理由はわかっている。同じようなミスを今日だけで何回もやっているから。
 播磨は小さな吐息とともに頭を掻き、すっかりぬるくなっているであろうコーヒーを飲み干す。
「今日はダメだな」
 播磨の言葉が八雲のことだけを指しているのではないとは思うが、それでも八雲の心は重くなる。どこでボタンを掛け違えたのだろうか。
 こんなことになるのなら、いっそのことパーティーに行けばよかった。一日ぐらい大丈夫だからと播磨にも言い聞かせて、パーティーに引っ張り出せばよかった。
 そうすれば今夜は楽しく過ごせて、明日からまたがんばれたのにと。
「これぐらいにしとくか」
 播磨の声に釣られるように時計を見上げる。11時を少し回ったところ。確かにいい時間だった。なにより今日は、今だけは、この部屋にいることがつらくて仕方がなかったから、八雲は即答した。
「そうですね。そろそろ失礼します」
 そそくさと荷物をまとめ、ブルゾンを羽織る。
「お疲れさん。送ってくぜ」
「いえ」
 八雲は播磨を押しとどめる。
「播磨さんは、もう少し作業の方がんばるんですよね? 今日は街も賑やかだと思うし。ひとりで大丈夫です」
「そういうわけにもいかねえだろ。お嬢とも約束してるしよ」
 愛理の名前を聞いて、また胸が苦しくなる。やはり今日は播磨といるのがつらい。
「ほんとに大丈夫ですから」
「おい」
 播磨の声を背中で聞きながら、八雲は玄関へと駆け出す。靴に両足を突っ込み、ロックを解いてチェーンを外し、扉を開いた。
 そして、その向こうに彼女はいた。長い金髪を今は下ろし、黄色いパーティードレスの上に白いコートを羽織った少女が。
「沢近先輩……」
 愕然と八雲は呟く。
「八雲……。なんでここに?」
 愛理もまた、呆然とした声で言う。だが、やがてその表情が怒りに、悲しみに、そして自嘲するような笑みへと変わっていく。
「なんでも何もないわね。そういうことなんだ……」
「ち、違います!」
 必死に叫ぶ八雲。だが、この事態をどうやって説明すればいいというのか。困惑する八雲をよそに、愛理はにっこりと微笑んだ。
「まだ帰らなくてもいいじゃない。ゆっくりしていきなさい。メリークリスマス!」
 叫び終えると同時に、愛理は手に持っていた小箱を足元に叩きつけていた。箱の中から無残につぶれたケーキが飛び出してくる。
「先輩!」
 だが、八雲が差し伸べた手をすり抜けるようにして、愛理は踵を返し、駆け出していた。
「待ってください」
 飛び出そうとしたとき、背後から声がした。
「俺が行く」
 そして疾風のような勢いで播磨が飛び出していく。
「沢近先輩……」
 八雲は呆然とその場にへたり込んだ。そして、力ない視線でケーキの箱を見やる。
「どうしてこんな……」
 呟いたとき、ケーキの箱の下に紙袋のようなものが見えて、八雲は無意識の動作でそれを手に取る。
 きれいにラッピングされたその袋は半ば口が開き、中から毛糸でできているらしい何かが顔を覗かせていた。
 思わずそれを取り出そうとする自分を制御しようとした時には遅かった。
 八雲の手の中にあったのは手編みの手袋。正直編み方は荒く、指の長さもちぐはぐで、それ以前に左右の大きさのバランスも悪い。
 だが、それだけに必死になって編んだのだと言う気持ちが伝わってくる。
「先輩……」
 思わず涙がこみ上げてきた。そのとき、外から足音が近づいて来るのに気づき、八雲は手袋を紙袋に押し込み、無理やりにブルゾンの中に隠した。
 そして扉が開く。その向こうにいたのは憔悴しきったかのように肩を落としている播磨だった。
「沢近先輩は?」
 八雲の問いに播磨は首を振る。
「車、待たせてあったみてえだ。行ったときにはもう走り出したあとでよ……」
「そうですか……」
「どうなってんだ?」
 播磨の問いかけに八雲は震える声で答えることしかできなかった。
「私が悪いんです」と。


 初めて見るわけではない。というよりも、三人で遊んだあと、二回に一回はここまで三人で来てそのあと播磨に家まで送ってもらっているので、むしろ見慣れているはずだとも思う。
 だが、それでも思わずにはいられない。ほんとうに凄い家だと。アーチ状の門の向こうには車が楽にすれ違える幅の私道が延び、念入りに手を入れられているとわかる木々が茂る。
 そしてその奥には、ちょっとした洋風の城を思わせるような大きな家。
 八雲はため息をつきながら携帯電話で時間を確認する。午前八時。
 そろそろ出てくる頃だろうか。思ったとき、門の向こうから目当ての人が歩いてくるのが見えた。背後には執事も付き従っている。
 自然と視線が絡む。遠めに見た限り、彼女、沢近愛理の表情に変化はない。
「おはようございます」
 愛理が出てくるのを待って頭を下げる。愛理は冷ややかな目でこちらを見てきて、明らかにそれとわかる作り笑顔で言ってくる。
「男の人に待ち伏せされたことなら何度かあるけど、女の子にこんな風にされたのは初めてだわ」
「す、すみません」
 気恥ずかしくなる思いを抑え、八雲は必死に言う。
「どうしても夕べのこと、説明しておきたかったものですから。先輩が播磨さんに会う前に」
「播磨さんなんて言わずに、拳児さんとでも言えばいいのに」
「先輩……」
 ほんのわずか芽生えた怒りは面に出たのだろうか? 愛理が小さく鼻を鳴らし、視線を逸らしてきた。そして彼女は背後に従っている執事に言う。
「ナカムラ。気が変わったわ。車出してくれる?」
「承知いたしました」
 黒服の執事は、恭しく頭を下げて歩み去っていく。
「どうしてわざわざ……」
「いやな時間は短い方がいいでしょ、お互い」
「そんな……」
 頑なな愛理の態度に、もう気持ちが挫けようとしている。自分で決めてここに来たのに。
 バカなことをしているともう一人の自分があざけってくる。これを利用すれば最大のライバルを排除することだってできるかもしれないのに、なぜ苦しみながらもこんなことをしなければならないのかと。
 そんな自分に八雲は言い聞かせた。自分がそうしたいからそうしているのだと。
 などと思慮をめぐらしているうちに、静かなエンジン音とともに巨大なリムジンが滑り出てきた。
 ナカムラが降りてくるのを待たず、愛理が自らの手で後部座席のドアをあけた。
「どうぞ」
「すみません」
 頭を下げたのちにリアシートに身を滑り込ませる。車の中とは思えないほどの広大なスペースに向かい合う形でシートが配置されている。
 八雲は運転席よりのシートを選び、そこに身を沈めた。
 続いて愛理が優雅な仕草で乗り込んできて向かい側のシートに腰掛ける。愛理の手によって扉が閉ざされ、リムジンは滑るように発進した。
「それで?」
 脚を組んで愛理が話を促してきた。
「あの……」
 八雲が肩越しに運転席の方を伺うと、愛理は小さく微笑む。
「ああ、ごめんなさい」
 言って彼女がドアのボタンを操作すると、音もなく透明な間仕切りがせり上がってきて、運転席とリアシートを完全に遮断した。
「これで私たちの会話は前には聞こえないわ」
 愛理が先を促すかのように顎をしゃくってくる。
「えっと……」
 八雲は上目遣いで愛理を見ながらいくつかの言葉を胸で反芻し、結局シンプルなその言葉を選択した。
「ごめんなさい」
「え?」
 呆然としたのは八雲だった。なぜなら八雲が選んだその言葉を、愛理が先に言ってきたから。
「えっと……あの?」
 戸惑いを隠せない八雲に対して、愛理はバツが悪そうに鼻の頭をかきながら言ってくる。
「そのね。まあ、冷静に考えてみればわかるわよ。ようはクリスマスにまであいつと一緒に作業してるってのが後ろめたくて、私に嘘ついたってことでしょ?」
「は、はい」
「あんたが部屋にいるの見た瞬間、かっとなっちゃって大人げなかったと思うわ。ごめん。むしろ抜け駆けしようとしたのは私なのにね」
「そんな……謝らなくちゃいけないのはこっちの方で……」
 手を振りながら八雲は考えていた。先ほどまでのつっけんどんな態度は照れ隠しだったのかと。
 そして不遜にも思った。この金髪の令嬢のことを、かわいいと。
 八雲は穏やかな微苦笑とともに、ひとつの紙袋を差し出した。それを見て、愛理の頬がさっと染まる。
「すみません。その気はなかったんですけど、中、見ちゃいました。やっぱり先輩が自分の手で渡した方がいいと思って」
「あ、ありがと」
 それを受け取って胸に抱くと、愛理は気恥ずかしそうに言ってくる。
「私だってね。こんなもの使ってもらいたいとか思ってるわけじゃないのよ。ただ、練習兼ねてやってみたら面白くてついムキになって。で、せっかく完成したんだからあいつに持っていて欲しいって思っただけなんだから」
「はい」
 頷いた八雲を見てふっと安心したように息をつき、愛理はさりげない口調で言ってきた。
「あんたたちも漫画、しっかりがんばりなさいよ」
「え?」
 驚愕した八雲に愛理が一冊のコミック雑誌を差し出してきた。少年ジンマガのバックナンバーだ。愛理は八雲の肩越しに運転席へと視線を送りながら苦々しく言う。
「昨日、私が落ち込んでたの見て、どっかのバカ執事が気を回したんでしょうね。部屋にこれが置いてあったわ。ハリマ・ハリオ。それがあいつのペンネームね」
「……はい」
 もう隠しても意味がないと悟り、八雲は頷いた。愛理は背もたれに体を預け、脚を組み直した。
「年内が締め切りなの?」
「はい。うまく行けば年明け間もなく、読み切りを載せて貰えることに。それが好評なら……」
「連載もありうるってわけ?」
「うまく行けばですけど」
「そっか」
 愛理の表情にすっと影が差す。
「漫画じゃあねえ。私にできることなんてないし」
「すみません」
「あんたが謝ることじゃないでしょ」
 そんな会話を交わしているうちに、リムジンが静かに停車した。視線を外に向けるともうそこは学校の前だった。
 ナカムラが無駄のない動作で車を降り、後部ドアを開く。愛理が先に降りて手を差し伸べてきた。
「すみません」
 少しだけ緊張しながら愛理の手を掴む。肩を並べて歩き出すと愛理が聞いてきた。
「前にも聞いたわよね。私たちってどういう関係なのかしら?」
 八雲はその言葉の意味をしっかりと噛み砕いて答えた。
「友達……と思ってもいいんでしょうか?」
 八雲がおずおずとそう言うと、愛理は嬉しそうに微笑んだ。

 後日この話を天満にしたとき、彼女は言った。「愛理ちゃんらしいわ」と。「愛理ちゃん、ほんとうはすっごく寂しがり屋だから。播磨君のこととかあって複雑だと思うけど仲良くしてあげて」と。
 もちろん八雲はその言葉に答えた。「喜んで」と。



 十二月三十日。

 談講社の仕事納めの日。すなわち読み切りの原稿の締め切りの日。
 待ち合わせの駅前に行くと、もうすでに彼はいた。グレーのジャケパンスタイルにいつものサングラス。やや緊張の面立ちで茶封筒を大事そうに抱えている。
 原稿は、昨日無事完成した。八雲の目から見た限り、出来もかなりいいと思う。夜には八雲が手料理を彼に振る舞い、お酒も少しだけ飲んで、ささやかな時を過ごした。
「おう」
 彼はすぐにこちらに気がついてくれて、手を振ってくる。八雲は小走りで彼に駆け寄った。
「おはようございます。いよいよですね」
「ああ」
 緊張の面持ちで頷くと、播磨はかすかに唇を噛み、重い声で言う。
「んじゃ、行くか」
「あ、すみません。ちょっと……」
「なんだ?」
 怪訝げに問いかけてくる彼の背中ごしに八雲は彼女の姿を見つけた。
「お疲れ」
 言いながら愛理が播磨の背中を肘でつついた。
「お嬢! なんでおめーが?」
 振り向きざまに播磨が言うと、愛理が眉をひそめて言い返す。
「なによ、その言い方。そんなに迷惑がらなくてもいいでしょ」
「いや、別に迷惑とかじゃよ」
 愛理の視線が茶封筒に向くのが八雲にはわかった。
「それが原稿?」
「お? ああ。そういやもうばれてんだったな」
 播磨は後頭部を掻きながら苦笑する。
「見るか?」
 播磨が差し出した茶封筒を愛理は受け取り、じっとそれに見入る。
「これって順調に行けば本に載るのよね?」
「ああ、うまく行けばな」
「ふーん」
 愛理は一瞬だけその茶封筒を胸に抱き、そしてそれを播磨に差し出した。
「いいわ。本に載ったときに読ませてもらうから。今、私がこれ見るのは、なにか違う気がする」
「お嬢……」
「幸運を祈ってる」
「あんがとな」
 二人の視線がしっかりと絡み合うのを確認して、八雲は思わずため息をつく。すると、愛理がこちらに歩み寄ってきた。
「八雲もお疲れ。今日は特別に許してあげるから、ヒゲとゆっくりしなさい」
 その言葉を聞いて、八雲はふっと目線を上げる。
「沢……いえ、愛理さん、一緒に来ないんですか?」
 八雲が問いかけると、愛理は苦笑交じりに言う。
「場違いでしょ。だいたい、美少女を二人もはべらせて行ったら、向こうもいい顔しないんじゃない?」
「美少女って……」
 絶句した八雲につっと背を向けて愛理は播磨に言う。
「年明けたら、三人で初詣行くからね。私の晴れ着姿、期待しておきなさい」
「おう。楽しみにしてんぜ」
「じゃあね」
 愛理は播磨の肩を叩いたのち、振り返りざま八雲に手を振る。
「またな」
「また今度」
 遠ざかっていく愛理の背中を見送りながら、播磨は鼻の下を人差し指でこする。
「いい女だよな」
 無意識のように呟き、慌てて口を押さえる播磨。そして彼は照れ隠しのように乱暴に言う。
「行こうぜ」
「はい」
 彼の背中を見ながら八雲は思う。ほんとうに愛理は素敵だと。そして同時にこうも思う。もしも、あの愛理に勝って播磨を振り向かせることができたら、どんな気持ちになるのだろうかと。
 そして思う。勝ちたいと。あの愛理に言わせたい。少しだけ悔しそうな笑みを浮かべた彼女に言われたい。「おめでとう。あいつのこと、よろしくね」と。そして答えたい。少しの後ろめたさとたくさんの感謝を込めて答えたい。「ありがとうございます」と。

 そんな日が実際に来るかどうかなど八雲にはわからない。今のところは立場が逆になる可能性のほうが高いとさえ思う。だが、そのために一歩踏み出そうと思った。彼の背中を見つめる癖だけは直そうと思った。
 八雲は少しだけ歩調を速めて、播磨と肩を並べた。そして、その横顔に言う。
「私、負けませんから」
「お?」
 不思議そうに聞き返してくる彼に、八雲は返事代わりに精一杯の微笑みを送った。

 〜Fin〜


『You Only Live Twice』の続編です。なんか全編八雲視点で書いてみたいという衝動に駆られ、おにぎりはいやだしそれなら、と思いついたのが続編という方法でした。しかし、八雲の視点で沢近をマンセーしてるわけですがw

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