いとしのエリー

第1話


 靴を通し、俺は感じていた。確かなアスファルトの感触を。
 町の喧騒。緑の木々。そして、小鳥たちの声。

 播磨拳児。それが俺の名だ。少し前には札付きのワルとしてこの界隈では名が通っていた俺だが、それも遠い昔のことのように思える。
 帰ってきたのだと俺は改めて思う。振り返ると傾きかけた西日がサングラス越しに突き刺さってくる。
 夕方。そう言えば、もう学校も終わる時間だ。
 鬼哭丸を降りたのが昨日。気持ちの整理も兼ねて、今日一日だけサボり、明日から学校に行こうと俺は決めていた。
 胸に浮かぶのは最愛の女性、塚本天満の面影。
「天満ちゃん、どうしてっかな?」
 思わず声に出して呟く。きっかけは体育祭だったと俺は思い起こす。
 落ち込んでいるときに差し出された手を思わず握り、そして彼女、よりにもよってあのお嬢こと沢近愛理とすっかり噂になってしまうとは……。
 さらにどういう流れか今度は天満の妹、八雲とまで。わけのわからない状況に耐えかねて逃げ出してしまったが、今頃学校の方はどうなっているのだろうかとさすがに気になる。
 橋の手すりにつかまり、俺は夕空を睨みつける。と、そのときだった。
「デュワ!!」
 背後から唐突に奇声が聞こえてきた。
「のわぁぁっ!!」
 慌てて振り返ろうとして、俺はバランスを崩す。
 川に落ちる? そう思った瞬間だった。小さな手が自分の手首を握り、支えてくれたのは。
「塚本……」
 俺は呆然と呟いた。そう、俺を間一髪救ってくれたのは他でもない、マイエンジェルの天満ちゃんだった。
 彼女は何も言わず、俺の手を掴んだままで顔を寄せてくる。
「お、おい」
 いきなりそんな展開かよと期待に胸を膨らませた瞬間、天満ちゃんはにんまりと笑って後ろを振り返った。
「イェイ! 私の勝ち! やっぱり播磨君だったでしょ。ハリケーンパフェ、いただき!」
 彼女が振り返った先に三人の少女がいた。みな、見知った顔だ。周防美琴。沢近愛理。そして……。
「元気そうね、播磨君」
 ただひとり名前を思い出せないその女が言ってくる。
「なにやってんたんだよ、ほんと」
 周防があとを引き継いだ。そして、もうひとり。普通なら真っ先にこちらに茶々を入れてきそうなあいつは、しかし、横を向いたまま、軽くうつむいていた。
「沢近」
 周防が苦笑混じりにお嬢の背中を押したのがわかる。お嬢は不快げに鼻を鳴らしてゆっくりとした足取りでこちらに歩み寄ってきた。
 そして、軽く深呼吸をすると、両手に腰を当てて怒鳴りつけてきた。
「どこほっつき歩いてたのよ、あんたは!?」
「っせえなあ」
 相変わらずうるせえ女だ。両耳を押さえながら俺は言い返す。
「関係ねえだろうが!」
「あるわよ!」
「あ?」
 俺が言い返すと、お嬢はかすかに頬を染め、上目遣いでこちらを見て言ってきた。
「心配……したんだから」
 どことなく恥ずかしげな彼女の様子を見て、俺はようやく思い出した。彼女と微妙な雰囲気だったことを。やべえよこれ。完璧誤解されるシチュエーションじゃねえか!
 冷や汗を垂らしながら俺は塚本を見やる。彼女はにこやかにこちらを見つめている。
 とは言うものの、ここでお嬢に冷淡な態度をとっても塚本の中での自分の評価が落ちることも間違いない。どうすりゃいいんだよ?
 心中で悲鳴をあげたとき、不意に俺は気がついた。いつも身だしなみに気を使っているお嬢らしくもなく、彼女の制服の襟の角がリボンの内側に入っていることに。
 皆に聞こえるような声で教えたら最後、どうせこの女は逆恨みしてくるに決まってるしな。俺は半歩お嬢へと歩み寄る。
 わずかに緊張の色を浮かべた彼女に顔を近づけ、俺はお嬢にしか聞こえない声で言った。
「おい、襟」
「っ!」
 唐突にお嬢が息を呑み、まん丸と見開いた目でこちらを見返してきた。
「な、ちょ、その……」
 唇からもれてくる声は言葉にはならない。なにこいつ、驚いてるんだ?
「あ、あんたねえ。いきなり何言うのよ?」
「あ?」
 意味がわからず俺が問い返すと、言いつくろうようにお嬢は言葉を足してきた。
「べ、別にイヤってわけじゃないけど、それならそれで、手順踏んでくれないと戸惑うじゃないの」
「おめーなに言って?」
 マジで全く状況が理解できずに俺が言うと、お嬢は舌打ちしながら俺の腕を引いた。
「とにかく、こっち来なさい」
 すっかり赤くなった顔を塚本たちの方に向けて、いかにも平静を装ったような声でお嬢は言う。
「ごめんね。私、ちょっと彼と話あるから。少し待ってて」
 そして俺はお嬢の手で強引に路地裏へと引きずり込まれた。周りに人影は無い。
 こいつ、どういう気だ? また暴力でも?
 思わず身構えるが、そんな様子も無く、お嬢はいつになくもじもじしながら言ってくる。
「た、確かにね。体育祭の最後にはああいう雰囲気になって。あんたがその気になっても仕方ないかもしれないけど。わ、私の方から返事したわけじゃないし。いきなり名前で不意打ちなんて……」
「えーと……?」
 俺はない頭をひねって話の流れを整理した。俺は単にお嬢の制服の襟が乱れているのに気がついて注意しただけなのになんでこんな流れに? そして俺は気がついた。お嬢の下の名前もエリだということに。
「やべ」
 ようやく状況を理解し、俺は青ざめた。こいつはいつかの誤爆告白と同じ流れじゃねえか!
「あのな、お嬢。俺はよ」
 俺は右手を彼女の制服の襟に伸ばす。が、それが届く寸前で、お嬢の左手が俺の手を掴んできた。そして、それに誘導されるように俺の右手はお嬢の右肩に乗り、その上からお嬢の左手が重なってくる。
 待てこれ。構図だけ見たらラブシーンみてえじゃ?
 お嬢は上気した顔で俺を見つめてきて、震える声で言う。
「今更、お嬢はひどいじゃないの。愛理って呼んでくれて嬉しかったのに」
「あの……」
 なにやらとんでもない事態に追い込まれているように思えるが気のせいだろうか? 気のせいだよな?
 つうか、お嬢の手、すっげえ柔らかくてしっとり湿ってて、震えてて……。
「ちょっとま……」
 言いかけたとき、不意にお嬢が動いた。俺の手を振りほどき逆ギレしたように声を荒げる。
「わかったわよ、もう! 私の負け! 認めるわ。私もあんたが好き。これで満足?」
「んが!?」
 発した声は言葉にもならなかった。お嬢が、あのお嬢が俺のことを好き? 今、好きって言ったよな? 嫌いじゃなかったよな? あと、『も』とか言わなかったか? 俺、いつからお嬢のこと好きって……?
 俺の疑問に答えるようにお嬢はまくし立ててくる。
「なによ、その顔。その……返事が遅れたのは謝るわ。だって、あんた告白した直後に違う女の人といちゃつくし。そのあともつっけんどんで。本気だと思えなかったし。それに、私も気持ちの整理とか付かなかったし」
「あのよ、お嬢。とりあえず話を……」
「お嬢?」
 両手を腰に当ててお嬢が俺を睨みつけてきた。つうかおめー、その目つきめちゃくちゃ怖ええぞ!
「えっとその……愛理?」
 俺が言うと、お嬢はまるでなにかのスイッチでもひねったかのようにニコリと笑い、言ってくる。
「なに、拳児?」
 説明しようとして俺は凍りついた。なぜかって? 認めたかねえけど、お嬢がすんげえ可愛い顔してやがるから。この顔に向かって、全てはおめーのバカな勘違いでしたとか言えるかよ? いや、言ったら、多分殺される。比喩じゃなくてマジで。
「お手柔らかに」
 俺が言うと、お嬢はこっくりとうなずいて言ってきた。
「こっちこそ、よろしくね」
 また変な誤解されてる……。
 満面の笑みでこっちを見てきてお嬢は続ける。
「それはともかく、いい加減戻らないと。美琴たち待たせてるんだから」
「あ、ああ。そうだな」
 俺が答えると、お嬢が俺の腕を引きながら言ってくる。
「そのね。不本意ながらこうなっちゃった以上、私としては隠し立てしたくないのよ。今からあの子たちに全部話す。それでいいわね?」
 頷きかけて俺は凍りついた。あの子たちの中には天満ちゃんも含まれてんだろ!? いいわけねえだろうが!
「待て。早まるな、おじょ、もとい愛理。まだそれはよ」
「なによ、いいじゃない。いずればれるんだから」
「いやいやいや。やっぱよ、照れくさいじゃねえかよ。とりあえず今は勘弁してくれ」
 俺が必死に粘ると、お嬢は意外とあっさりと折れてくれた。
「ふーん、まあ仕方ないわね。じゃあ、とりあえず戻るわよ」
 言って当たり前のようにお嬢は俺と腕を組んでくる。
「ちょ、なにすんだ?」
「はぁ? 恋人なら当たり前でしょ?」
「いや、そうだけどよ……」
「ならいいじゃない。行くわよ」
 なんとなく釈然としないものを感じつつ、俺はお嬢と腕を組んだままで表通りに戻った。

 真っ先に声をかけてきたのは周防だった。
「お、来た来た。おめーらなにやって……おわっ!!」
 不意に周防が奇声を発した。
「マジか。いきなりそうなっちまったのか?」
「あら、わかっちゃった?」
 しれっとした声でお嬢が言う。
「一応、秘密にしとこうってことで拳児とは話してたんだけど」
 言ってお嬢はにんまりとこちらを見てくる。やられた! つうか、腕組んだまま姿見せたらこうなっちまうに決まってるじゃねえか。なんでこんな手に引っかかるんだ、俺?
「運悪くばれちゃった以上、もう隠し立てはできないわね、拳児?」
「おじょ……」
 言いかけた瞬間、お嬢が俺の腕を強く引いて抗議の姿勢を示してくる。
 やむを得ず俺は言いなおす。
「愛理。ひでえじゃねえか」
 言うと、お嬢は微かに頬を膨らませ、うつむきながら言う。
「だって、どうしてもあんたのこと、自慢したかったから」
「おめえ……」
 絶句した俺をよそに、歩み寄ってきた周防が言ってくる。
「とりあえず、どっちが先に彼氏作るか勝負はあたしの負けだな。あんたが播磨と怪しいのには気づいてたけど、ほんとに播磨で妥協するとは思わなかったから」
「妥協ってなによ?」
 険しい顔つきになってお嬢が周防に詰め寄る。
「そりゃあね、顔とか大したことないし、バカだけど。いいとこいっぱいあるんだから。あんたたちにはわかんないだけなのよ」
 つうかこれ、喜んでいいのか俺? お嬢が俺のこと気に入ってくれてるのはわかったけど、あんまりな言い方じゃねえか? すると周防が小さく肩をすくめた。
「ごめん。ちょっと妬けただけ。おめでとうな、沢近」
「……ありがとう、美琴」
「なあ、播磨」
「お、おう」
 ようやく返事をすると、周防はお嬢に比べるとふた周りほどもごつい拳を俺の胸元に突きつけて言う。
「こいつ、きついとこあるし、わがままかも知んねえけどさ。根はいい奴なんだよ。あたしが保証するからさ」
「美琴……」
「だからよ、沢近のこと、よろしく頼むな」
 傍から見れば感動の光景なんだろうけど、ますます逃げ道塞がれてるよな、これ。だけどよ、ここで言うべき言葉なんてひとつしかねえじゃねえか。
「任せとけ」
「拳児……」
 内心で泣きながら言うと、うっとりとした顔つきでお嬢がまた俺に腕を絡めてくる。自業自得とは言え、ますます泥沼かよ!
 そして、今度は唯一名前のわからない影の薄い女が寄ってきた。
 そうだ、こいつがいた。あの羽交い絞め事件のときもこいつの冷静な分析のおかげで命拾いしたんだ。こいつならきっと……。
 そして、その女は口を開いた。
「夏休み前に愛理に告白したけど返事がもらえず不安になって海にもついてきたけど事故で変なことになってそれでもメゲずに山まで追いかけてきて学校でも照れ隠しにつっけんどんな態度取ってたけどほんとは愛理のことがずっと好きだった播磨君、想いが叶っておめでとう」
 こ、この女……。今、ニヤリと笑った。ぜってー気づいてる、この状況。それがわかってて俺を深みにはめるってのかよ? こいつの血はいってえ何色だ!?
 しかしお嬢は信頼しきった目でこいつを見つめてなにか話してやがるし。神も仏もねえのかよ!?
 そして最後の一人。マイエンジェル天満ちゃんが近付いてきた。
 だがしかし、この局面で彼女に何が期待できる?
 そして彼女は言ってきた。
「私としては少し複雑なのよね。八雲のことはどうなってるの?」
「それはよ……」
「それはね」
 ひったくるようにお嬢が口を挟んできた。
「ごめん。みんな私が悪いの。八雲が拳児と仲がよさそうだったからヤキモチ焼いて変なこと言っただけで。最初から八雲とはなんでもなかったのよ」
「そうなんだ」
 あっさり納得して塚本は言ってくる。
「そういうことなら、私から言うことは何もないね。よろしく、播磨君」
 言って塚本は手を差し出してくる。その意味がわからず俺は尋ねた。
「えっと、どういう?」
「親友の愛理ちゃんの彼氏なら親友同然でしょ。今までも仲良くしてきたけど、これからはますますってことで」
「塚本……」
 微妙に嬉しく、微妙に悲しいことをマイエンジェルは言ってくれる。
 差し伸べられた手を握ると、先ほど重ねたお嬢のそれよりさらにそれは小さく、まるで子供のようで。
 そして、その子供のような手を持った少女は、無慈悲な言葉を俺に投げつけてきた。
「ただし、愛理ちゃんのこと振るようなことがあったら絶交だからね」
 ……あんまりだろ、そりゃ。お嬢と付き合ってる限りは当然天満ちゃんとは付き合えない。そして振ったら最後絶交? それじゃ、どっちに転んでも俺は天満ちゃんとは……。
 思わず俺は、目の幅涙をドバーっと流す。するとそれを見かねてお嬢が寄ってきた。
「ちょっと何泣いてるのよ。恥ずかしいわね」
 言ってハンカチで俺の目を拭ってくる。なんつう情けねえ構図。
 そして周防がわかっていないことをわかっているふうに言ってくる。
「無理もないだろ。こういうこと言うとまたおまえ、怒るかもしれないけど。播磨から見ればおめーはどう見ても高めの女なんだからさ。それも告白からこれだけ放置されて。完全に諦めかけてたのを大逆転だろ。これだけ想われて沢近も幸せもんだな」
 ……もう、突っ込む気力もねえよ。そしてお嬢が言ってくる。
「ねえ、拳児。これから私たちメルカド行くんだけど、一緒に来る?」
 冗談だろ? これ以上を俺を弄ぶ気か?
「い、いや、俺このあと用事あっからよ」
「そっか、残念だね」
 言ったのは塚本。そして今度はお嬢がまた口を開く。
「それなら私も拳児と……」
「ダメ!」
 塚本がお嬢の腕を取った。
「愛理ちゃんには、播磨君との馴れ初めを説明してもらわないとね」
 とりあえずお嬢が塚本たちになにを言うとかは考えない方がいいみてえだ。ともあれずらかるしかない。
「んじゃ、そういうことでよ」
 歩き出すと、背後から声がした。
「待って」
 声の主、お嬢は俺の正面に回りこむと、自分の姿が塚本たちから死角になっているのをいいことに俺の両手をしっかりと握ってきた。
「そのね……。今日は嬉しかった。一緒に行けなくてごめん」
「愛理……」
 俺はようやくその名前を自然に呼ぶことが出来た。
「明日から、学校来るのよね?」
 お嬢の言葉に俺は静かに頷いた。ため息混じりに言う。
「ああ。約束する」
「よかった……。てゆーか、私がいるんだから当たり前よね」
 後半は照れくさげに言ってお嬢は手の甲で目じりを拭う。
「明日、学校で」
「……おう」
 お嬢を邪険にする勇気も無く。やんわりと手をほどいて俺は歩き出す。
 数十メートルも歩いて振り返るとお嬢はまだ俺を見送ってくれていて。あまつさえ俺の視線に気づいて手まで振ってきやがって……。
 胸が苦しくなる。あれが塚本だったら。それともいっそ、俺が惚れたのがお嬢だったら。何もかもうまく行くのに。なんでこうなっちまうんだ? そして俺は、重い足取りを自宅へと向けた。


 ただ座っているだけなのに、自然と顔がほころんでくる。ほんとにあいつと両想いになったんだ……。
 突然名前で呼ばれたときのことを思い出すと、今でも顔が熱くなる。
 私はソファの上でクッションを抱き、ひとり呟く。
「拳児……」
 あいつとはほんとうにいろいろあった。だけど、ずっとあいつが私のこと好きだったと考えれば全部納得がいく。
 傘を差し出してくれたあの雨の日。きっと、物陰からずっと私のこと見てたのね。それで、私が落ち込んでるの見て、勇気を出して出てきてくれたんだと思う。
 告白のときも私が占ってもらいに訪れて。あいつ、内心びっくりしたんでしょうね。
 いったんは私と別れたけど、思いつめて追いかけてきて、それで告白してくれたんだ。
 そのあと現れたあの人-----姉ヶ崎先生のことは、その内問い詰めてやる。
 海のときはさすがにびっくりしたけど。裸でいるところに好きな女の子が入ってくれば慌ててパニックにもなるものね。私のこと羽交い絞めにして、内心ではドキドキしてたんだと思う。
 それを考えるとあのあとの態度はよくなかったわ。せっかくあいつが泳ぎを教えてくれようとしたのに。きっと仲直りしたくて必死だったんだと思う。
 くじ引きも仕組まれてたのかもね。来年の夏は、また一緒に海に行こう。それで泳ぎを教えてもらうんだ。
 それから山。あのときはまさかと思ったけど、ほんとに私のこと追いかけてきてくれたのね。廃校で拳児が天満に問い詰められてるのを立ち聞きしちゃって。あのままでいればあいつ、私の名前出してたのかしら。
 それにしても驚いたでしょうね。好きな子の話をしてたら、壁の向こうからいきなり当の本人が出てきたんだから。

 私はひとりでくすくす笑う。不意にあいつの声が聞きたくなった。今までにもそう思うことはあったけど、電話をかける口実も無くて悶々としていた。でも、今の私にはそれがある。ためらう理由は無かった。


 ただ座っているだけなのに、自然と鬱になってくる。ほんとにあいつと両想いになっちまったんだ……。
 つうか、いったいなにがどこでどう間違ったんだ? お嬢が俺ごときに興味持つってのがそもそも納得いかねえし。
 グチっていても始まらねえ。お嬢を振ることが出来ないなら、俺が振られるように仕向けるしかない。
 俺は、床にあぐらをかいてポテチとビールを規則的に口に送り込んでいる同居人に声をかけた。
「なあ、絃子」
「さんを付けんか」
 こちらに顔を向けることすらせず言い捨ててくる。絃子のいつもの言い草は無視して俺は尋ねた。
「女にとことん嫌われる男ってどういうんだろうな?」
 俺が尋ねると絃子は無言で手鏡を差し出してきた。
「なんだ?」
 意味がわからず俺が手鏡を覗き込むと、抑揚の無い声で絃子が言う。
「そこにいる男が典型的な例だな」
「んだ、そりゃ!」
 怒鳴っておいて俺は思った。少し驚かしてやろうかと。自慢したい気持ちもあったかも知れない。
「んじゃ、聞くけどよ。知ってるよな。うちのクラスのお嬢。沢近のこと」
「知らないものはいまい。君と違って授業態度もマジメだし成績もいいしな」
「一言多いんだよ。ああいう女が好きになる男ってのはどういうタイプだと思うよ?」
 絃子は初めてこちらに視線を向け、至極冷静な声で言う。
「ああいう典型的なお嬢さんに限って、ろくでもない男にひっかかるパターンが多いな。君みたいな」
 こ、この女は……。言葉に詰まった俺に代わって絃子は続ける。
「で、なにか? 彼女に告白されて成り行きで付き合うようになってしまって悩んでいると?」
「近けえな。まあ、最初に告白したのは俺だけどよ」
「ほう」
 絃子の瞳が氷の輝きを帯びた。いつのまにか彼女の手には巨大なモデルガンが。
「君という男は。塚本天満君という本命がありながら、彼女の妹にちょっかいを出し、なおかつ他の女にもか。どうやら再教育の必要があるようだ」
「ま、待て」
 俺は引きつりながら言う。
「こ、これには深いわけがよ」
「言い訳はあの世で聞こう」
 絃子が人差し指に力を入れた瞬間だった。俺の携帯電話が着メロを奏でたのは。
 地獄に仏とはこのことだ。
「わりい、電話だ」
 言って俺は携帯を抱き上げると自室に逃げ込んだ。扉を閉じながらすばやく着信ボタンを押す。
「もしもし」
「拳児? 私」
 聞こえてきた声に、俺は一瞬息を呑んだ。
「おじょ……いや、愛理。どうした?」
 言うと、携帯越しにうなるような声が聞こえてきた。
「言っとくけど、今のあんたの対応、最低だからね。彼氏に電話かけるのに理由がいるわけ?」
「わ、わりい。まだぴんと来なくてよ」
 俺の言葉に小さな吐息。
「まあ、あんたの声が聞きたくなっただけなんだけどね」
 などと殊勝なことを言ってくる。昨日同じセリフを聞いたなら爆笑したかもしんねえけど、今はとても笑えねえ。
「何してたの?」
 まさか振られる方法を考えていたとも言えず、俺は当たり障りのない返答を返す。
「いや、別に。普通にテレビ見てた。おめーは?」
「私は、あんたのこと考えてた」
「ぶっ」
 思わず吹き出すと、不機嫌そのものの声が電話越しに聞こえてきた。
「なによ、その反応。この私がこんなセリフ言ってあげたってのに」
 すねたような響き。かわいいとこあるよ、こいつ。ちょっとした罪悪感にも駆られ、俺は言うことにした。
「わりい。ほんとは俺もおめーのこと考えてたんだぜ」
 嘘はついてない。しばしの沈黙ののち、お嬢は小さな咳払いのあとに言ってくる。
「当然よね」と。
 それから先は当たり障りの無い会話。
 とりあえずこれは認めよう。お嬢と話してるのは楽しい。
 基本的に、話し上手ってやつなんだな。話題は豊富だし、それを代えるタイミングもいい。さらには、泣けることまで言ってくる。
「明日、うち寄ってきなさいよ」
「い、いや、昨日の今日でそれはよ……」
「この私が誘ってあげてるのに遠慮するわけ?」
「で、でもよ……」
「取っておきのお茶とケーキ、ご馳走してあげる」
 強引で、だけど本当に俺のこと想ってくれるのがわかって。罪悪感に駆られる。
 あのお嬢だぞ? 男なんて選び放題じゃねえか。なんでわざわざ俺なんだよ? 他の男なら天にも昇る気分になってんだろうに。
 30分ほども喋っただろうか。携帯がピピッっという鋭い警告音を鳴らすのに気づいて、俺は時間の経過を知った。
「俺の携帯、まじいみてえだ」
「そうみたいね」
 残念そうにお嬢が言ってくる。たまらず俺は返す。
「明日、いくらでも話せんじゃねえかよ」
「そうね」
「んじゃ、そういうこってよ」
「うん、おやすみ拳児」
 その言葉の後にチュッという擬音。なにすんだ、おめーは……。
 突っ込もうとしたときには、もう電話は切れていた。誰か教えてくれ。顔を合わせる度に俺に突っかかってきてたお嬢と、あのお嬢は同一人物なのか?
 数度首を振って、俺は静かに歩み寄った。ドアの方へと。それを開くと、コップを片手にこちらを盗み聞きしていたらしき絃子の姿が目に入る。
「いい趣味だな」
 俺が言うと、絃子は空気をごまかすつもりか軽く咳払いを入れ、俺の前に仁王立ちする。
「困っているようなら相談に乗ろうとも思ったが、その必要もないみたいだな」
「どういう意味だよ?」
 言うと絃子は冷笑を浮かべ、俺の鼻先を指差してくる。
「いつもの5割増しってところか。これだから男と言う奴は」
 呆れたように肩をすくめ、部屋を出て行く絃子。残された俺は暗闇ガラスを鏡代わりにして自分の顔を見てみる。もちろん、鼻の下など伸びてはいなかったが。

 しかし、もしかしたら、あいつに惹かれ始めているのだろうか?
 いや、ない。確かにあいつにいだいていた悪いイメージは消し飛び、ナチュラルに話せるようになった気はするが。それでも俺が好きな女の子は天満ちゃんだけなんだから。

 なんとしてでも、お嬢に振られてみせるぜ!

 俺は両拳を握り締め、決意を新たにした。



 〜終わってたまるか(by播磨拳児)〜

第2話へ トップに戻る