Missing Love



 つつがなく……とは決して言えないが文化祭も終わり、平穏な日常が帰ってきた。

 天気は快晴。風は微風。それはさわやかな朝だった。

 寝坊して車で送ってもらった挙句、渋滞にはまって始業5分前に校門をくぐった沢近愛理は、下駄箱の前で立ち尽くしている見慣れた男の姿を見て、美しい眉根をかすかにしかめた。
「なにやってんの、あいつ?」
 なんとなく感じるものがあったのだろう。愛理は足音を忍ばせて、彼、播磨拳児の背後に歩み寄って行った。
 常日頃は野生の勘のようなものを持ち合わせているはずの彼だが、よほど何かに気を取られているのか、全くこちらに気付く様子もない。
 それをいいことに息がかかりそうなポジションまで忍び寄ると、愛理は目いっぱいに背伸びして、大きな背中越しに彼の手元を盗み見る。
 そして、彼女はそこにありうべからず物を目にしたのだ。
 パステルカラーのかわいらしい便箋に書き込まれた、一目で女性によって書かれたと分かる丸みを帯びた文字。
「うそっ!」
 思わず声を上げた愛理がしまったと思う間もなかった。バネ仕掛けの人形のような勢いで振り返った播磨は、こちらを見て悲鳴を上げる。
「のわぁ!! お嬢、なんでおめーがここに?」
 叫びながら必死の形相で手紙を背後に隠す播磨。
「なに隠したのよ?」
「な、な、なんでもねえ」
 ゆでだこのように赤くなった顔を滝のように流れる汗で覆いながら、彼は説得力皆無のセリフを放つ。
 それを見た愛理は、肩をすくめながら吐息をひとつはさみ、あくまで表面上は興味なさそうに言う。
「まあ、別になんでもいいわよ。それより、遅刻するわよ」
 言葉とは裏腹に悠々とした動作で靴を履き替えながら愛理は横目で播磨を伺う。
 安堵したように胸をなでおろし、大事そうに手紙をポケットにしまう彼を視界の隅に捉え、愛理はなにげない口調で言った。
「で、誰からのラブレターだったの?」
「いや、名前は書いてねえ」
 答えた播磨に、今度はしっかりと視線を据えて愛理は言葉の矢を放つ。
「ふ〜ん、やっぱラブレターなんだ」
「な、なんでそれを!?」
「いや、なんでって言われても……」
 呆れ果てたように自嘲めいた笑みを浮かべ、愛理は次の言葉を選択する。
「どっちにしても私には関係ないわね。せっかくのチャンス、不意にするんじゃないわよ」
「べ、別に俺はどうだって……。ちっ、先行くぜ」
 言いながら不自然に速い動作で靴を履き替え、播磨は大股で歩み去る。
 その背中を見送りながら、愛理は小声で先ほどのセリフを繰り返した。
「私には関係ないわよ」
 だが、無意識に押さえた左胸が奏でる鼓動の速度が自分の言葉を裏切っていることに、愛理は気付いていた。



 昼休み。

 弁当をぱくつきながら親友たちとの会話を適当に流しつつ、愛理は横目で播磨の様子を伺う。
 彼はいつも通りの無表情で焼きそばパンをフルーツジュースで流し込んでいる。
 今のところ、彼が手紙の相手と接触した様子はない。
 普通に考えて、接触するなら昼休みか放課後しかない。
「塚本、その卵焼き、うまそうだな」
 対面に座っている親友、周防美琴の言葉を耳にして、愛理は視線を播磨から外した。
 話を振られた彼女、塚本天満は童顔の前で人差し指を振りながら誇らしげに言う。
「うまそうじゃなくて、ほんとにおいしいよ。八雲いわく、秘訣があるらしいんだけど、何度挑戦しても私にはこの味出せないのよね」
 天満の口から自然にこぼれ出た固有名詞を耳にして、愛理はわずかに口元をゆがめた。

 塚本八雲。

 ことあるごとに愛理の前に立ちはだかる天敵。否、宿敵。
 容姿に関しては絶対的な自信を持つ愛理ですら、時に嫉妬を覚えるほどに可憐ではかなげな顔立ちを持つ美少女。
 今朝、ラブレターを見た瞬間から感じた不安がある。
 手紙の主は、もしや八雲ではないかと。
 普通に考えて、播磨と頻繁に会っている八雲がわざわざラブレターを出すとは考えにくい。
 だが、それだけに、もし手紙の主が八雲だとしたなら、播磨に与えるインパクトは果てしなく強烈だろう。
「愛理ちゃんも卵焼き、味見してみる?」
「私はいいわ」
 生返事を返しつつ、愛理はもう一度播磨に視線を向けてみる。ふと、サングラスの奥の彼の瞳がこちらを向いているように感じたのは気のせいか?
「がー、くそ。こんなんじゃ足りやしねえ。水でも飲んで腹ぁごまかすか」
 やけに大きな声で言うと、なぜか播磨はこちらに目を向けて、腰を上げた。
 さりげなくそちらを伺いつつ、愛理は弁当を平らげるペースをわずかに上げる。
 教室を出た播磨が扉を閉める音に重ねるように弁当箱の蓋を閉じると、愛理は自分ではなにげないと信じている口調で言った。
「そう言えばシャープの芯、切らしてたのよね。ちょっと売店行ってくるわ」
 愛理が立ち上がると、天満がおかずを目いっぱい詰め込んだ口を押さえながら慌てたように声をかけてきた。
「え、愛理ちゃん、売店行くなら付き合うからもうちょっと待ってよ〜」
 言った天満の頭をいとおしげに撫でて愛理は柔らかな笑みとともに告げた。
「いいのよ、すぐ戻ってくるから。八雲の作ってくれた弁当、ゆっくり味わって食べなさいよ」
 それだけ言って早足で教室を出た彼女は知らなかった。晶がもう一度こう呟いたのを。
「ほんと、青春って素晴らしいわね」


 播磨拳児は緊張していた。
 今朝、ラブレターを見た瞬間から期待していたことがある。
 手紙の主は、もしや天満ではないかと。
 普通に考えて、自分と頻繁に会っている天満がわざわざラブレターを出してくるとは考えにくい。
 だが、しかし、彼は未だにかすかな期待を抱いていた。
 今朝からこっち、天満の様子にいつもと変わるところがなかったにも関わらず。
 教室を出る前にわざとらしく大きな声を出しても、天満がなんの反応も示さなかったにも関わらず。

 昼休みの屋上は秋の陽光を浴びて心地よい暖かさをまとっていた。
 屋上の手摺を両手で掴みながら播磨は太陽を見上げた。
 サングラス越しに見る太陽はやはりまぶしくて、播磨の心を浮き立たせる。
「俺は信じてるぜ」
 言い聞かせるように彼が呟いた瞬間、カチャリと言う音が響いた。
 通用口が開かれた音だろう。振り返りたい衝動をあえて抑え、播磨は太陽を見つめ続けた。
「播磨先輩……」
 聞こえてきたのは、覚えのない声だった。
 振り返る前に失望の表情を強い意志でかき消したのは、彼が秘めた優しさゆえだろうか。
 通用口を背に伏目がちにこちらを見つめている女生徒に、播磨は見覚えがなかった。
 大きめな瞳とセミロングの黒髪。
 とりわけ美人と言うわけでもないが、年相応の愛らしさは十分に備えたその女生徒に向き直り播磨はできる限りの優しい声で言った。
「あんたが俺を?」
「……はい」
 答えた少女の声が震えていたのは過度の緊張ゆえだろう。
 潤んでさえいる彼女の瞳がまっすぐに自分を見つめているのに戸惑いながら、播磨は眉間を人差し指で掻いた。
「念のために聞くが、人違いじゃねえんだよな? 隣のクラスに、紛らわしい名前の外人がいるんだが?」
「違います」
 少しの間も置かず、きっぱりとした声で彼女は答えてきた。
「私がお話ししたかったのは、間違いなく先輩本人ですから」
「なら、いいんだけどよ……」
 播磨は女生徒に向き直ると、手摺に背中を預けて腕を組む。
 遠慮がちにこちらに視線を送ってくるその女生徒の顔にはやはり見覚えがない。
 わかるのは、先輩と言ってくるからには一年生なのだろうと言うことだけ。
 もっとも、正直播磨にとって、彼女の名前など大した問題でもない。
 顔を見た瞬間、否、声を聴いた瞬間、手紙の主の正体が己の想い人でないと知った瞬間に、返事は決まっているのだから。
 そうである以上、早めに断るのが優しさと言うものなのだろう。
 だが、断ることに対する後ろめたさとどうしても捨て置けない興味に突き動かされて、播磨は別の言葉を選んだ。
「なあ、聞いてもいいか? なんで俺なんかを?」
 振ることが決まっている相手に振る前にこんな質問を投げかけるのはひどく残酷な行為だが、産まれて初めて女性に告白を受けているこの少年にそこまで求めるのは酷というものだろう。
 女生徒は、上目遣いに、しかしまっすぐに播磨を見つめて微かに震える声で答えてくる。
「は……初めて見たときは、怖そうな人だなって思って。それから、ちょっとかっこいいなって思って。通学路重なってるから、気になっていつも見てたんですよ」
「マジかよ」
 気恥ずかしげに播磨は頭をかく。そんな彼に視線を投げかけたまま、女生徒は話を再開した。
「それから、わかってきたんです。凄く優しい人だなって」
「俺が?」
「はい。道すがら、猫や小鳥を見つめる目が凄く優しくて」
「目?」
 言って播磨が自らのサングラスを指すと、女生徒は顔を朱に染めて慌てて言う。
「た、たとえですから……」
「そっか……」
 それだけ答えて播磨は天を仰ぐ。自分のことをそんな風に見てくれている人がいるなど、彼には全く望外のことだった。
 荒れていた中学時代には、女友達どころか同性の友人すらいなかった。
 もし、自分が変われたのだとしたならば、それは間違いなく彼女のおかげだろう。
 必死の想いで告白してくれたであろう少女を前にして、違う女性のことを考えるのは失礼なのだろうと頭の隅で考えつつも、播磨の胸のうちを占めるのは、黒髪を両サイドで縛ったあの少女の顔だった。
「播磨……先輩?」
 ためらいがちにかけられた声に静かに背中を押され、播磨は慎重に言葉を選びつつ、口を開いた。
「ありがとうな、そんな風に言ってくれて。嬉しいけど……俺はやっぱりあんたとは付き合えない」
「……はい」
 最初からその答えを知っていたかのように、女生徒は笑顔すら浮かべて頷いた。
「わかってましたから。私はただ、自分の気持ちを知っておいて欲しいって思って我慢できなかっただけですから」
「すまねえ」
「いいんです。先輩、好きな人いますよね?」
「なっ……」
 その言葉を聞いて、播磨は息を呑んだ。
「わかるのかよ?」
「はい。先輩の好きな人、塚本さん……ですよね?」
 その一言は、彼を狼狽させるに十分すぎる破壊力を備えていた。
 酸素不足の金魚のように口をパクパクさせ、人差し指を彼女に固定させたままで彼はようやく声を押し出した。
「ちょ、待て……。なんで知ってんだ?」
 その言葉に少しきょとんとしたのち、彼女は笑顔に戻って言う。
「わかりますよ。これでも、ずっと先輩のこと見てたんですから」
「そ、そっか。バレバレだったか……」
「はい」
 にっこりと笑ったのち、女生徒は値踏みするようにこちらを見てから尋ねてきた。
「もしかして、まだちゃんと告白とか、してないんですか?」
「め、めんぼくねえ。勇気が出なくてよ」
 言った彼を微笑みで見つめて、彼女は言ってきた。
「告白、してあげてください。塚本さん、きっと待ってますよ」
 ぺこりと頭を下げると、女生徒は走り去っていった。目じりに少し光るものが見えたのは気のせいだろうか?
 播磨は手摺にもたれかかり、太陽とにらめっこをしながら一人呟く。
「マジかよ。俺たちってはたからそんな風に見えるのかよ。意外だったぜ」
 彼女を振ったことによる罪悪感とは別に、希望がわいてきて自然に笑みが浮かぶ。
「うし」
 拳を手のひらに叩き付けると、播磨は歩き出した。


 沢近愛理の美しい瞳は、焦点を虚空に据えたまま凍りついたように動かなかった。
 いつも強い光をたたえていたその瞳には全く生気がなく、薄くリップが塗られた形のいい唇はわなわなと震える。
 給水塔の影。密かに先回りしていた彼女の耳には、幸か不幸か二人の会話がはっきりと聞こえた。
 予想はしていたことだった。いつも二人は一緒にいた。
 周囲からはすっかりカップル認定も受けている。
 そして、元を正せばそれは愛理が煽った結果でもあるのだ。
「バカみたい……」
 突き上げてくるのはとめどない悔恨。そして、播磨との決して多くはなく、しかしあまりにも濃厚な思い出の数々。
 脈絡もない突然な告白で強引にこちらのエリアに踏み込んできた彼。
 好みでは全くないはず。だが、なぜか彼は、愛理が一番つらいときに側にいてくれた。
 あの雨の日も。そして体育祭でも。
 そう体育祭。あのダンスのときには、心が重なったとさえ思ったのに。
 なぜこうなってしまったのだろう。
 彼のことをもっと知りたかった。
 彼に自分のことをもっと知ってほしかった。
 彼の側にいると楽しかった。
 だが、それでも愛理は自分のその感情を認めようとはしなかった。
 彼が自分に釣りあうような男ではないなどと言う、つまらない理由で。
 そして、今になって、失った今になってようやく愛理ははっきりと気付いていた。
 自分に芽生えた感情が何であったのかを。
 彼といるときに、なぜ胸が高鳴るのか。
 彼が八雲と一緒にいるのを見たとき、なぜあんなに胸が痛かったのか。
 せっかく知ったのに。
 ようやく認められたのに。
 なのに、それはもう帰ってくることはない。
 沢近愛理の恋は終わったのだ。

 そのことを悟った瞬間、まるで堤防が決壊したかのように、瞳から涙が零れ落ちた。




 そしてこの時点では誰も知らなかった。

 自分の想い人と相思相愛かもしれないと浮かれている少年も、彼に告白して散った女生徒も。そしてもちろん、給水塔の影で泣いている金髪の少女も。

 播磨の言う塚本と彼女たちの思う塚本が別の人物であることを、誰も知らなかった。



 夕暮れ。

 買い物客で賑わう矢神町の商店街を、楽しげに歩く四人の少女がいた。
 塚本天満、周防美琴、高野晶。そして沢近愛理。

 周防美琴はひどく不安だった。
 昼休みに播磨の後を追うように……というよりもあからさまに追って出て行ったのち、帰ってきた彼女の様子が明らかにおかしかったからだ。
 沈んでいたのではない。その逆なのだ。
 今も愛理は何かに憑かれたかのように喋り続けている。
「でね、待ち合わせに彼が遅れてきてね。あ、彼と言っても、前に話してた大学生とは別の人なんだけど」
「うんうん」
 相槌を入れてくる天満に視線を走らせたのち、不意に彼女は話題を変えた。
「あの、コーギーすっごくかわいくない?」
 言っていきなり小走りで駆け出すと、愛理はペットショップの前のショーケースに鼻先を付ける。
 そんな彼女の後ろ姿をしばし見つめた後、美琴は笑顔を作って陽気な声で言う。
「おー。どれどれ?」
 愛理の元へ駆け寄り、ショーケースの子犬に目をやりながら、美琴は愛理の肩を抱いた。
 何かにおびえる様に身をすくめる愛理の様子で、やはり何かおかしいと美琴は確信する。
「沢近。私には言えるよな? なにがあった?」
 彼女だけに聞こえる声で美琴は言った。
 距離が近すぎて、表情はよく見えない。
 だが、美琴にはかすかに聞こえた。鼻をすすり上げるような小さな嗚咽が。
 消え入りそうな声で彼女は言ってくる。
「今夜、部屋に来てくれる?」
「……おう」
 美琴が答えたとき、天満が割り込んできた。
「わあ、ほんとかわいいね」
「でしょ。ほら、あの右端の子の目、たまんないわよね」
「ほんと、飼いたい。伊織いるから無理なんだけど」
 少なくとも表面上ははしゃぐ彼女たちから視線を外すと、先ほどから沈黙を守っていた晶と不意に視線が合う。
 いつもと変わらぬ静かな瞳に、しかし美琴は不安げな光を見てとった。
 そんな彼女に小さく微笑んで、美琴は自らの胸を叩いた。
 それを見て、晶は小さく顎を引いた。
 頷いたのか、頭を下げたのか、よくはわからない。
 だが、ひとつだけはっきりとわかることがある。
 晶は自分を信用して、愛理のことを託してくれたのだ。
「応えなくちゃな」
 美琴は、愛理の背中を見つめながら強く拳を握った。



 午後8時。

 沢近愛理の豪奢な私室で、美琴はソファに腰掛けていた。右隣には部屋の主。
 テーブルの上には開封済みの白ワインとバカラ製のワイングラスが二つ。
 そしてチーズとクラッカーが盛り付けられたクリスタルの皿。
「悪かったわね、わざわざ」
 言いながらワインを注いでくる親友を見ながら、美琴はことさらに明るく言う。
「いいってことさ。半ば私から押しかけたみたいなもんだしね」
「そうでもないわ」
 今度は自分のグラスにワインを注ぎながら彼女は言う。
「私も、あんたに相談しようかと思っていたから」
「へえ」
 心底意外そうに美琴は目を見張った。トクトクという音とともに白ワインがグラスを満たしていく。
「シラフでは話しにくい内容なのよね」
 先回りしたかのように愛理が言ってくる。
「じゃあ、とりあえず乾杯すっか」
「そうね」
 二つのワイングラスが重なり、澄んだ音を奏でる。ワインを一口飲んで美琴は感嘆の声をあげた。
「うお、すげえ甘いのな、これ。貴腐ワインってやつか?」
 その言葉を聞くと愛理が少し驚いたように言ってくる。
「ご名答。と言うか、美琴がそんな言葉知ってるとは思わなかったわ。これはトロッケンベーレンアウスレーゼという有名な銘柄なのよ。甘すぎて美琴の口にはどうかと思うけど」
「ん〜、私はいつもビールとか焼酎だからね。でも、こういうのもたまにはいいわね」
 しばし歓談し、愛理の頬が赤みを帯びてきたのとお互いリラックスしてきた頃合を見計らって美琴は切り出した。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
「ん? なによ」
「高野じゃなくて、私を選んだ理由はなんだ?」
「うん……」
 愛理は不安げに両手でグラスを包み、静かに口を開いた。
「迷ったけど。あんたは経験者だから」
 グラスをぐいと煽り、空になったそれを静かにテーブルに置いて、愛理は言った。
「私、失恋しちゃった」
「……播磨か」
「やっぱりわかっちゃうんだ」
「ったりめえだろ」
 美琴もグラスを煽り、そして腹立たしげに言う。
「播磨の奴、バカだバカだと思ってたけど、あんたを振るほどバカだとは思わなかった」
 そんな美琴を見て、愛理がくすりと笑う。
 それを不思議に思い、美琴は微かに首をかしげる。
「なにがおかしいんだよ?」
「前にもこんなことあったなって思って」
 その言葉を聞いて、美琴は思い出したように笑った。
「そう言やそうだな。今日は飲もうぜ。それから、詳しい話聞かせろ。この先輩に」
「そうね」
 にっこりと笑って愛理はワインを注ぎ足した。


 屋上での出来事を愛理から概ね聞きだした頃には、すでにボトルが半分以上空になっていた。
 顎に手を当ててしばし考え込み、美琴は確認する。
「聞き違えとかじゃなくて、確かに播磨は八雲ちゃんのことが好きだって言ったんだな」
「正確な言葉とかは覚えてないけど、会話の流れからは間違いないわ」
「そっか」
 美琴は小さくため息をついた。
「まあ、あの二人、すでに付き合ってるようなもんだし、間違いないんだろうけど……だけど」
「だけど?」
「告白はしてないって言ったんだな?」
「うん」
 愛理が頷くのを妙に据わった目で睨みつけて美琴は言った。
「行け」
「は?」
「播磨が八雲に告白する前に、おめーが播磨にコクるんだよ!」
「な!」
 目を見開き、愛理は口元を押さえる。
「で、できるわけないでしょ! だいたい、振られること決定してるのに……」
「あきらめんなよ!!」
 酔いの勢いも借りて、美琴は愛理に詰め寄った。愛理の肩を掴み、揺さぶりながら言う。
「告白のこと考えただけでそんなに赤くなって……。好きなんだろ!」
「こ、これはお酒で赤くなっただけで……」
「ごまかすな!」
 激昂したように叫び、美琴はワイングラスの中身をぐいっと飲み干す。
 そして、自らを落ち着かせるかのように深く息をつき、打って変わって静かに語りかける。
「なあ、告白しちまえよ。私と同じになる必要ないから」
「美琴……」
 愛理がグラスをぐっと握り締めるのを見て、美琴は勇気付けるように肩を叩いた。
「男なんていい加減なもんでさ。他に好きな子がいても告白されちまうとその気になっちゃうんだよ」
「で、でも、今日の子は玉砕したわ」
「沢近! おまえ、自分の名を言ってみろ!」
「は? 何言ってんの。沢近愛理に決まってんじゃない」
「わかってんじゃねえか」
 美琴は、にっと笑い、確信のこもった声で言う。
「天下の沢近愛理に告白されてその気にならない男がどれくらいいるよ?」
「だ、だけど……」
「だいたいおめー、播磨ごときに振り回されて悔しくないのかよ? たまには、おめーがあいつを振り回してみろ」
「……」
 無言でグラスの中を覗き込んでいる愛理の横顔を見て、美琴は嬉しそうに片頬で笑う。
「その気になってきたみたいじゃねえか?」
「でも……」
 愛理は視線を伏せたまま、小さな声で言う。
「相手は八雲。天満の妹なのよね。あの二人、十中八九両想いで、しかもすでに付き合ってることになってるのよね」
「それがどうしたよ?」
「もし私が播磨君を取るようなことになってしまったら……天満、私のこと許してくれるかしら?」
「沢近」
 美琴は静かに目を閉じたのちに言った。
「そう言うことは告白成功してから考えろ」
「あんたねえ……」
 しばし顔を見合わせてから、二人はどちらからともなくクスクスと笑い出した。
 愛理の首に腕を巻きつけ、美琴は確信を込めて言う。
「天満は大丈夫だよ。ちゃんと説明すれば。自分の親友を信じろ」
「……そうね」
「よし、話は決まった。で、決行はいつだよ?」
 その言葉を聞くと、愛理はウインクとともに当たり前のように言う。
「明日に決まってるじゃない」
「おお、それでこそ沢近だ。今日は飲もうぜ」
 美琴は乱暴にワインボトルを掴み取ると、その中身をグラスの中にぶちまける。
「沢近の初恋成就を祈って」
「初恋なんて勝手に決め付けないでよね」
 二人のグラスが重なって奏でた音は、先ほどよりも軽やかに聞こえた。



 そして運命の翌日。

 決行は昼休みと愛理は決めていた。
 美琴と打ち合わせをしたり、励まされたりしているうちに瞬く間に時間は経過していく。
 そうこうしているうちに、愛理は妙なことに気が付いた。
 なぜか頻繁に播磨と目が合うのだ。
 もちろん彼は濃いサングラスを常時着用しているため、厳密に言えば本当に目が合っているかどうかはわからないのだが。
 それを口にすると美琴は笑う。
「あんたが、ボーッとした顔で播磨のこと見てばっかりいるから、あいつも気になるんだろ」と。
 確かにそうなのかもしれない。
 それ以前に彼の頭の中には八雲のことしかないはずなのだから、自分の方など気にする訳がない。
 だが、しかし。愛理は瞳を閉じて考える。
(今日で最後だから。今だけ少しだけ、期待してもいいわよね)



 昼休み。ついにそのときがやってきた。

 愛理は弁当に手をつけなかった。
 どうせ胃が受け付けてくれるわけなどないから。
「あれ? 愛理ちゃん、お弁当食べないの?」
「ん、ちょっと野暮用」
 愛理は、播磨がパンを食べ終わるの待って腰を上げた。
 睨むように播磨を見るとまた視線が絡んだ。
 愛理はそれをそらすことなく、ゆっくりと播磨に歩み寄っていく。
「播磨君」
「お?」
 彼の机に両手を付き、できるだけ柔らかな声音で言う。
「少し、時間もらえる?」
「ん? ああ、いいぞ。つうか俺もおめーと話、したかったんだ」
「え?」
 想いもしない言葉に愛理の胸がトクンと鳴った。
「屋上でいいか?」
「う、うん」
「んじゃ、俺先行ってっから」
 播磨の姿が扉の向こうに消えていくのをしっかりと見送ったあと、愛理は深く息を付いた。
(ったく、これだけでこんなに緊張するなんて。ほんとに私、告白とかできるの?)
 と、そのとき頭に何か小さなもの---恐らくはちぎった消しゴムか何か---が当たる感触に気付いて愛理は振り返った。
 視界に飛び込んできたのは、満足げな笑顔で自分を見つめている親友の顔だった。
 彼女は大きく頷くと親指を立ててくる。
 愛理は軽く微笑んでウインクを送ると、決意を固めて踵を返した。



 そして屋上。
 通用口を開けると、まぶしい太陽と雲ひとつない空が瞳に突き刺さり、愛理は思わず目を右手を目の上にかざす。
 目が慣れてくると、この間と同じように手摺に両手をかけて空を見つめている播磨の姿が見えてきた。
 違ったのは、彼の方から声をかけてきたこと。
「よお」
「うん」
 振り返り手を上げて挨拶してきた彼に挨拶とも言えないような言葉を投げて、愛理は静かに彼に歩み寄って行った。
 すでに心臓はバクバク脈打ち、足元はひどく覚束ない。まるで砂浜の上でも歩いているかのように。
 なにか軽口のひとつでも叩いておこうと思ったのだが、舌がもつれて考えていた言葉は何もでてこない。
 頭の中はほぼホワイトアウト状態。
(なにこれ? こんなんになるものなの?)
 愛理はこの間播磨に告白していた少女のみならず、自分に告白してきた何人もの男に対してさえ尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「で、なんだったよ?」
「あ、うん……」
 愛理は真っ赤に染まっているであろう顔を見られるのがイヤで無意識にうつむき、必死の想いでそれを上向ける。
 赤面が一発で分かる自分の色白な顔を、愛理は今日だけは呪った。
「あ、あんたの方はなんだったの?」
「お、俺か?」
 なぜか彼も言い出しづらそうに視線を泳がせる。
 自らの中に微かにあった期待が少しずつ膨らむのを愛理は抑えることができない。
 固唾を飲んで播磨の次の言葉を待つ。
 彼は小さく咳払いして恥ずかしげに口を開いた。
「実は俺、好きな女いてよ。その、なんだ。もしできれば今日にでも告白しようと思ってんだ」
「あ……」
 思わず愛理は小さくうめき声を上げた。
 そして彼女は悟った。致命的なミスを犯したことを。
 播磨に先に喋らせるべきではなかったのだ。
 彼にその決定的なセリフを喋らせる前に、こちらから有無を言わさず告白しなければいけなかったのだ。
「おい、笑うことねえだろ」
 播磨の不満げな声で、愛理は自分が笑っていたことを知った。
「あ、ごめんなさい。そんなんじゃないの。それで?」
「お、おう。んでよお。どうやってコクろうかって思って。おめーなら何回も男からコクられてるからそういうの詳しいと思ってよ」
「なるほどね」
 全てに得心が行った。
 今朝から、妙に何度も彼と視線が絡んだわけも。彼も愛理と話すきっかけを探していたのだ。
 愛理とは全く違う理由で。ある意味、全く逆の理由で。
(ごめん、美琴。私、やっぱりダメだ)
 うつむいた愛理を案じたのだろう。慌てたように播磨が声をかけてくる。
「ど、どうしたよ、お嬢? 俺、変なこと言ったか?」
 ああ、やっぱり彼は優しい。そのことを再確認して、さらに愛理は悲しくなる。
 なぜ自分の気持ちをもっと早くはっきりと認めなかったのだろうか。
 チャンスはいくらもあったはずなのに。
 そして今、最後に残されたわずか一縷の希望も、ほんの少し勇気が足りなかったばかりに潰えていった。
「ごめんなさい。なんでもないの」
 言って播磨に背中を向けると、愛理は必死に涙をこらえた。
 それが愛理の最後の意地だ。
 精一杯平静を装った声で愛理は言う。
「そのことなら、何も心配しなくていいわよ。あの子、ずっと待ってると思うから」
「あん?」
 あっけに取られたように播磨。そして、さらに声が続く。
「なんでわかんだ? つうか、俺の好きな女が誰なのか聞かねえのか?」
 その言葉に愛理はくすりと笑った。
「知ってるもの。あんたが好きなのはつかも……モゴッ!」
 最後まで言えなかったのはいきなり彼に口を塞がれたから。
「お、おい、いきなり何言いやがる。誰かに聞かれたらどうすんだよ?」
(話を聞かれたくないから、誰もいないここを選んだんでしょうに)
 胸中で突っ込みながら愛理は思う。 前にもこんなことがあったなと。
 あのときはただ怖くて。イヤで。必死で愛理は暴れた。
 今はどうだろうか。こんな形なのにも関わらず、彼の腕の中にいるのがひどく嬉しい。
 このまま彼が強く抱きしめてくれたらどれだけ幸せだろうか。
 そんなことを思いつつ、愛理は体重を後ろに預けた。
「お、おい」
 狼狽する彼の声が聞こえてくる。そして背中に触れたのは彼の分厚い筋肉。
「すまねえ」
 愛理の想いとは逆に、播磨はやんわりと愛理の肩を掴み、立ち上がらせる。
「いいのよ」
 言って髪を直し、あくまで愛理は播磨に背中だけを見せる。
「この間も人に言われたんだけどよ、俺ってそんなに見え見えだったか?」
「当たり前じゃない」
「ぬう。で、さっきの本当なのか? ほんとにあいつも俺のことを?」
「多分ね」
 必要以上に元気付ける義理もないだろう。
 ことさらにそっけなく言ったのだが、なぜか播磨はやけに喜んだ。
「そ、そっか。お嬢が言うなら間違いねえよな。この間のあの子も言ってたし。放課後さっそく、て、塚本に突撃だ」
 そのセリフが妙に引っかかったが、半ば思考停止状態に陥ってる愛理はそれ以上考えるのをやめて、冷徹な声で言う。
「話は終わった? それなら私戻るけど」
「お、おう、ありがとよ……てか、おめーの話はどうなったんだよ?」
 その言葉を聞くと、愛理は唇だけで笑って答えた。
「私の用事はもう終わったから」
「はあ?」
 首をかしげた播磨だが、得心したように言ってくる。
「そ、そうか。俺がうじうじしてるの気にしてケツ叩こうとしてくれたんだな。おめー、いい奴だな」
 なにげない言葉がナイフのように愛理の胸をえぐる。だが、彼女の心中を知る由もなく、なおも播磨は続けた。
「ほんと、ありがとな。俺たちがうまく行ったら、おめーのおかげだ。恩に着るぜ」
 愛理は言いたかった。いい奴とかありがとうとかそんなセリフなんていらないと。
 だが、結局彼女は沈黙を選んだ。小さく手を振り、播磨をその場に残して彼女は戦場をあとにした。



 周防美琴は待ち続けていた。
 屋上に続く階段の踊り場で腕を組んで。
 ちらりと時々上を伺うが、誰も降りてくる気配はない。
「がんばれ沢近。がんばれ」
 両手を組み合わせて祈るように美琴は言う。
 何度同じ動作を、何度同じセリフを、繰り返しただろうか?

 そのとき、扉の閉じる音と小さな足音を耳に捕らえ、美琴は思わず身を乗り出した。
「沢近……どうなっ!?」
 力ない足取りで降りてくる金髪の少女に結果を訊こうとして、彼女は危ういところで思いとどまった。
 あまりにも明白だったから。
 うつろな瞳が。
 蒼白な顔が。
 泣きはらしたような瞼が。
 頼りない足取りが。
 何もかもが、残酷なまでに結果を叩きつけてくる。
「沢近!」
 思わず美琴は駆け出すと、力いっぱい彼女を抱きしめていた。
「ごめんな、ごめんな、沢近。私がよけーなこと言って焚きつけたばっかりに……」
「違うの。そうじゃないの。私が悪いのよ。勇気がなかったから」
 力なく言って肩を震わせる少女の体を、美琴は抱きしめることしかできなかった。
 できることなら、やり場のないこの気持ちを怒りに変えて播磨にぶつけたい。
 だが、今愛理を一人にすることはできない。
 そして、播磨を殴ったところで、誰も喜ばないことも美琴は知っていた。
 だから美琴はただ精一杯に、頼りないほどに細い親友の体を抱きしめた。


 今度ばかりはダメだった。
 昨日の様な空元気を引きずり出すエネルギーも残ってはいない。
 次々と帰っていくクラスメイトたちを横目で見ながら、愛理は強く唇を噛む。
 昼休みからこっち、全く口を聞こうとしない愛理を気遣って天満や晶のみならず、他のクラスメイトたちまでも寄ってきたが、愛理は何も答えることができなかった。
 そのたびにフォローしてくれる美琴の存在が涙が出るほど嬉しかったが、そんな感情も凍てついた心の表面を滑り落ちるだけ。
 ただひとつの救いは、放課後の告白のためであろう、バカみたいにそわそわしている彼が自分の惨状に気付いている様子がないこと。
「愛理ちゃん、ほんとどうしたの? 大丈夫?」
 不安げに天満が声をかけてきた。
 彼女に心配をかけるのは不本意だったが、今日ばかりは軽口を叩く元気も、虚勢を張る気力もない。
 力なく首を横に振ると、手のひらに顔を埋める。
「愛理ちゃん……」
 視界を自ら閉ざしているにも関わらず、天満の泣きそうな顔が見えるような気がした。
 そして美琴の声が聞こえてくる。
「ごめん、塚本。高野。説明は今度きっちりするからさ。今日だけはこいつのこと、私に任せてくんない?」
「そう。美琴さんがそう言うなら私は外すわ。部活もあるし。愛理、またね」
 背中を叩かれる感触。そしてまた天満の声が聞こえてくる。
「じゃあ、ごめん。私も行くね。友達と待ち合わせしてるから。元気出して、愛理ちゃん」

 それからどれだけの時間が経っただろう。
 周囲のざわめきもすっかり消え、今は暗闇と沈黙だけが愛理を包んでいる。
 つらかった。失恋したこともつらいが、それよりも完全燃焼できなかったのがつらかった。
 そして、せっかくの美琴の励ましをフイにしてしまったことがつらかった。
「バカみたい」
 ほんとに何もかもがバカらしかった。
 そして愛理は、いつまでもこうしていることが一番バカバカしいことにようやく気付いて顔を上げた。
「よっ」
 声をかけてきた彼女の顔を見て、愛理はようやく笑顔らしきものをでっち上げることに成功した。
「暇ね」
「他に言い方ないのかよ」
 不満げに頬を膨らませる美琴。それでも、愛理が口を開いたことに少しはほっとしたのだろうか。柔らかな笑顔とともに腕を取ってくる。
「さ、帰ろう。今日はうちに泊まるか? それとも私があんたの部屋に行こうか? ひとりにしてってのは今日ばかりはなしだ」
「ありがと」
 荷物をまとめるうちに、ふっと気付いて愛理は言う。
「天満と晶は?」
「高野は部活に行ったよ。塚本はなんか友達と待ち合わせとか言って」
「そっか。美琴。悪いけど、茶道部付き合ってくれる? やっぱり晶に少しだけ説明しておくわ」
「ああ、わかった」

 半ば美琴に支えられるようにして教室を出ると、階段を降り、校舎を出る。
 目指すは茶道部室のある旧校舎。
 いつもならあっという間の距離だが、今の愛理には果てしなく遠い。
 だが、少なくとも親友たちに心配をかけたくないという意思だけが彼女の歩みを進める。
 旧校舎の入り口がはっきりと見えてきた時、不意に美琴が声をかけてきた。
「あ、よく考えたら、茶道部室はやばくないか? 高野、携帯で呼ぶか?」
「え?」
 極端に回転の鈍くなった頭で迂遠な美琴の言葉の意味を噛み砕く。
 数秒のときを挟んでそれを理解した愛理は、苦々しく笑った。
「ああ、大丈夫。あの子なら、今いないから」
「え? なんで? まあ、いいけど」

 旧校舎入り口の前で二人は足を止めた。
「一応、私が先に様子見てくるな」
 愛理の肩を叩いてから美琴が入り口の扉を開く。
 なにやら二言三言、誰かと話している様子だが会話の内容まではわからない。
 やがて首をかしげながら戻ってくると美琴は言った。
「八雲ちゃん、いるぞ」
「ウソ!!」
 その言葉を聞いた瞬間、愛理は美琴を突き飛ばすようにして駆け出していた。
 ありえない事態を前にして、一瞬にして活力が回復していた。
 扉を荒々しく開くとその中に押し入る。
「愛理?」
 ティーカップを口元に当て、香りを楽しんでいたらしい晶が声をかけてくる。
 首をめぐらすと二人の少女の姿が眼に入った。
 ひとりは自分と同じような金髪。そして、もうひとりは……
「八雲!」
「は、はい!」
 突然呼びつけられて八雲は立ち上がった。
 愛理はずかずかと彼女に歩み寄ると、叩きつけるように言う。
「あんた、なにやってんの、こんなとこで!?」
「こんなとこって……ここ茶道部の部室で、私、部員なんですけど?」
「そんなことわかってるわよ! あんた、ヒゲとの待ち合わせはどうしたの?」
「……ヒゲ? 播磨さんですか? 今日は待ち合わせの予定なんてありませんけど」
「え?」
 愛理の中で何かが忙しく組み変わっていく。
 何かが、どこかががずれている。
 ジグソーパズルに無関係のピースが紛れ込んでいたかのように。
 不意に播磨のセリフがフラッシュバックした。
「そ、そっか。お嬢が言うなら間違いねえよな。この間のあの子も言ってたし。放課後さっそく、て、塚本に突撃だ」
 播磨は言った。塚本と。
 彼が八雲のことをそう呼んだことがあるか? 否だ。そして、彼が日常的に塚本と呼ぶ女性はひとりしかいない。
 そして、天満は友達と待ち合わせ?
「まずい!!」
 叫ぶと同時に、彼女は駆け出していた。
 後ろから美琴の声が聞こえて来たが構ってる場合じゃない。
 体当たりするように新校舎の玄関に飛び込む。
 上靴に履き替える手間さえ省いて愛理は廊下を駆け出した。
「こら、なにやって……」
 どこからか教師の声が聞こえた気がしたが、空耳と決め付けて愛理は階段を駆け上がる。
「もしも、もしも、私の推測通りだとしたら……お願い、間に合って!」
 恥ずかしげに好きな女がいると打ち明けてきた彼の笑顔が脳裏に浮かぶ。
 彼の恋が成就するのもイヤだが、傷ついた彼の顔も見たくない。
 疾風のような勢いで息もつかずに愛理は駆け上がる。
 最後の踊り場を抜けた。今日の昼、美琴が自分を待っていてくれた場所だ。
 そんな感慨に浸る間もなく、愛理は最後の十二段を一瞬で駆け抜け、蹴り破るように通用口の扉を開いた。
「お?」
「あ?」
 二つの間の抜けた声と顔が同時に耳と目に飛び込んできた。
「ちょっと待ったぁぁ!!」
 叫びながら愛理は二人の間に割り込む。
 荒い息を吐きながら二人の顔を見比べると、愛理は播磨に詰め寄る。
「な、なんだよ、お嬢」
 たじろく彼の襟首を掴み、愛理は問い詰める。
「はぁはぁ……ヒ、ヒゲ、もう告……じゃなくてあれ、言っちゃった?」
「あ、ああ。今返事待ちだ。つかおめーなんでいいところに?」
(このバカ。天満が烏丸君好きなことぐらい知ってんでしょうに。なんだって自分のことが好きなのかもって思い込めるのよ)
 自分のことを棚にあげて胸中で愛理は播磨をなじる。
「あの……愛理ちゃん。元気になってよかった……じゃなくてどうなってるの?」
 すっかり混乱した様子で天満が尋ねてくる。
 無理もない。いきなり播磨に告白されたかと思えば、そこに鬼のような形相で愛理が駆け込んできたのだから。
 息を整えながら頭をフル回転させて愛理は考える。
「えっと、天満? まさか、播磨君が本気で告白してきたとか思わないわよね?」
「え?」
「待て、俺は本気……ぐぼあ!」
 言いかけた播磨を不可視の速度で繰り出した肘で黙らせ、愛理はさらに天満に言う。
「これはね。予行演習」
「予行演習?」
 目を丸くして聞き返してくる天満に、愛理は人差し指を振る。
「そう。あんた、男の子に告白されたことないでしょ?」
「そ、そりゃ、愛理ちゃんはたくさんあるんだろうけど」
 頬を膨らませそっぽを向く天満。
 愛理はなおも笑顔をキープしたままで続ける。
「だからね。本番で烏丸君に告白されたときに、少しでも冷静になれるようにと思って私がヒゲに頼んだの」
「ええ〜! ほんとなの、播磨君?」
「ち、ちが……ぶはっ!」
 言いかけた播磨のみぞおちにパンプスのつま先をぶち込んで愛理は彼に沈黙を強制した。
「ほんとだ播磨君、血が出てるわね」
「おめーは……」
 何か言いたげな播磨を背中で隠すように立ち上がって、愛理は言う。
「で、その様子を私が後ろで見ていてあとでアドバイスするって流れだったんだけど、遅かったみたいね」
「そうだったんだ……」
 天満は静かな、そして少し悲しげな眼差しで播磨を見つめた。
「私のため、ってのは嬉しいけど……でも播磨君があんな風にウソで告白できる人だなんて思わなかった。私、ほんとうにドキドキしたんだよ?」
「て、て……」
 震える手を必死に差し伸べる播磨だが、愛理は無情にそれをさえぎり、天満に言う。
「そうそう。美琴が多分探してると思うわよ」
「え? そうなの? じゃあ、私はこれで」
 そそくさと去っていく天満を見送ったあと、愛理は胸中で言う。
 嘘はついてないわよねと。美琴が探してる相手は天満ではなく、多分自分だろうが。
「さてと」
 心身ともにズタボロに傷ついた播磨の体を手摺にもたれかけさせると、愛理は自分もその横に腰掛けた。
「説明……しろよな」
「わかってる」
 愛理は全てを彼に告げた。あの日、告白の様子を盗み聞きしていたことも、塚本という言葉の指す相手を、お互い勘違いしていたことも。
 ただひとつ、胸の中にしまいこんだ自分の切ない想いだけを除いて。全てを愛理は打ち明けた。
 そして最後に愛理は言った。
「知らなかったわ。あんたが天満のことを好きだったなんて……」
 その言葉を聞いてか聞かずか、播磨は精悍な頬を微かに震わせ、吐き捨てるように言った。
「詰まるところ、俺の独りよがりだったってことか。塚本の好きな相手はやっぱ烏丸なんだな」
 先ほどの会話で、無慈悲に彼に引導を渡していたことに気付き、愛理の胸が軋む。
 彼を自分の物にしたいという衝動と彼の想いを叶えてあげたいという感情が同時に愛理を突き上げてくる。
「ちっくしょお……」
 片膝に顔を埋め、彼はすすり上げるような声を漏らす。
「播磨……君」
 思わず差し伸べた愛理の手を、播磨は力なく払いのける。
「ほっといてくれ」
 そう呟いた彼の姿が、先ほどまでの自分の姿に重なり、愛理は思わず感情を爆発させた。
「なによ、失恋ごときで。あんた、そういうつらい恋してるのが世界中で自分だけだとか思ってない? 美琴だって失恋したんだからね。信じられる? あの子を振ったバカがいるのよ。私だってさっきまで完全に失恋したって思ってた。それにそれに……今だってつらい片想いしてるんだから!」
 そこまで叫んだところで、愛理は播磨がじっと自分を見つめてきているのに気付いて言葉を切った。
「な、なによ?」
 播磨は半開きになった口をようやくといった風に動かした。
「おめー、片想いしてるのか?」
「……っ!」
 問い返されて愛理は悔しげに播磨をにらみ付けた。
(誰のせいだと……)
 その言葉を飲み込み、愛理は自棄のように言う。
「してるわよ、悪い?」
「いや悪いってか……」
 播磨は真顔になって考え込む。
「おめーを片想いさせる男ってどんなんかと思ってよ。そいつ、クラスの奴か?」
「……そうよ」
 愛理が答えると、播磨はしばし腕を組んで考え込む。そして彼はとんでもないセリフを放つ。
「ならよ、お嬢。おめー、そいつにコクれ」
「はぁ!? 何寝言言ってんの?」
「いやよ。全部おめーのせいとか言う気はねえけど。俺は塚本の前で醜態晒しちまったよな?」
「……。悪かったとは思ってるわ」
「ならよ、おめーも恥かいて来い。それで今回の件はチャラだ」
 愛理は呆れたように彼を見つめ、含み笑いとともに言う。
「あんた、状況わかって言ってるわけ?」
「あん? なんのことだ?」
「絶対わかってないわね」
 首をかしげる播磨を見て、愛理は小さく笑った。
 そして彼女の脳裏にいろいろな記憶が蘇ってくる。
 奇しくもこの屋上で二度味合わされた絶望。
 自分のことを必死に思ってくれた親友たち。
 そして、播磨の好きな相手が八雲ではないと知ったときに全身を突き抜けた閃光のような感情。
 ひとつ息をついてから、愛理は意を決したように播磨にその瞳を固定した。
「私の好きな人が誰なのか。教えてあげましょうか?」
「お?」
 播磨が興味深げに身を乗り出してきた瞬間、愛理は全ての躊躇をかなぐり捨てた。
 背中から覆いかぶさる形で播磨に抱きつくと、両腕をしっかりと彼の首に巻きつける。
 形のいい胸をおしげもなく播磨の背中に押し当て、そして、灼熱を帯びた頬をまるでその熱さを誇示するかのように播磨の頬に摺り寄せた。
「お……」
 何かを言おうとする播磨が結局何も言えず絶句するのを確認したのち、愛理はその宝石の瞳を瞼の裏に隠して、全ての想いを込めてその言葉を彼の耳に吹き込んだ。
「好き……」
 その一言で二人の時は止まった。
 大好きな少年の体温を全身で感じている少女は瞼を閉じたまま身じろぎひとつしない。
 少女の想いの丈を鼓動と言う形で背中から受け止めている少年は、まるで現実と虚構を区別するすべを失ったかのように硬直している。
 
 どれほどの時が刻まれただろうか。
 アナログ時計の秒針が刻んだ周回はほんの数回なのかもしれない。あるいは、数十回に及ぶのかもしれない。
 いずれにしても、先に沈黙を破ったのは少年の方だった。
「お嬢……。わかったからよ。とりあえず、離れてくれるか。背中になんか当たってるしよ。どうかなっちまいそうだ」
「イヤよ」
 愛理は播磨を抱きしめたままで即座に答えた。
「だって私がこの腕離したら、あんた、私のこと振る気なんでしょう?」
「お嬢……」
 自らの手に別の手が重なる感触に気付いて、愛理は初めて瞳を開いた。
 力ずくで振りほどかれることを恐れて腕に力をこめるが、播磨はそうすることなく、ただ優しく愛理の手に自らのそれを重ねたまま沈黙する。
 そして愛理はようやく気付いた。
 播磨の頬が自らのそれに匹敵するほどの熱を帯びていることに。何かに耐えるように彼が震えていることに。
「ごめん」
 一言だけ言うと、愛理は唇を噛んで播磨から離れた。
 みっともないほどに赤くなっているであろう頬と思わず取った先ほどの大胆な言動が気恥ずかしくて、彼に背中を向けてうつむく。
 また沈黙が落ちた。それがつらくて愛理は自分から言う。
「いいのよ。遠慮しなくて。あんたが誰のことを好きなのかさっき知ったばかりだし。流れでつい言っちゃっただけだから。覚悟はしてる」
 だが、返ってきた言葉は思いのほか歯切れが悪かった。
「おめーは、俺を軽蔑すんだろうな」
「え?」
「怒るなよ。さっきまで、ついさっきまで。俺はおめーのこと……全然そういう風に見てなかったんだぜ。塚本のことしか頭になかったのによ」
「ヒゲ……」
 苦悩の表情で播磨は続ける。
「なのによ、さっきのあれですっげードキドキしちまって。自分の気持ちが見えなくなっちまってる。いい加減だよな」
「軽蔑なんてしないわ」
 やや視線を伏せて愛理は言う。
「私が、そうだったから。あんたになんて何の興味もなかったのに突然告白されて、それからいつも気が付くとあんたのこと見てた」
「お嬢……あれは……」
「いいのよ、もうわかってるから」
 愛理は小さく微笑んで続ける。
「私が言いたいのは、あんたが自分を恥じる必要なんてないってこと。ましてやあんたに告白したのはこの沢近愛理なんだからね」
 愛理が胸を張って言うと、播磨がふっと笑みを浮かべる。
「なによ?」
 気色ばんで愛理が尋ねると、播磨は笑みを浮かべたままで言う。
「いつものおめーに戻ったなって思ってよ。さっきはあんなに可愛かったのに」
「可愛い?」
「あ……いや……」
 問い返しておいて愛理がうつむくと、播磨も釣られたかのように口ごもる。
 すっかり夕日が傾き、薄暮に包まれた屋上で、二人だけのときは流れていく。
「返事、明日でもいいか?」
「うん」
 播磨の言葉に、愛理ははにかみながら頷いた。さりげなく播磨に擦り寄りながら、愛理は恥ずかしげに言う。
「恥かきついでに、馬鹿なこと言ってもいい?」
「なんでも言え」
 捨て鉢に答えてきた彼の言葉に苦笑しつつ、愛理は言う。
「明日の朝、家まで私のこと迎えに来てくれない? それで……」
「それで?」
「それで、もしOKなら赤い花束を、ダメなら白い花束を持ってきて欲しいの」
「おい」
 とんでもない提案に播磨は凍りつく。
「それじゃ、どっちに転んでも俺は花束持っておめーんちに行かなきゃダメってことじゃねえか」
「いいところに気が付いたわね」
「あのな……」
 困り果てた様子の播磨を見て、愛理はふっと笑った。
「冗談よ。子供の頃見た映画でそんなシーンがあってね。いつかほんとうに好きな人ができたら、そんな風に告白してもらえたら素敵だなって思ってただけだから」
 しみじみと言った愛理をじっと見つめたあと、播磨は空に向けて言う。
「花なんざ、買うのは初めてだな」
「え?」
 目を丸くした愛理に構わず彼は言ってくる。
「しかしよ、問題がひとつある」
「え?」
「俺は、おめーんちの場所を知らねえ」
 言った彼をしばし見つめたのち、愛理はにっこりと笑って言う。
「それなら問題ないわ。あんたはこれから私を家まで送るのだから」
「強引だな、おい」
 言って立ち上がると播磨は当然のように手を差し伸べてくる。
「なに?」
「帰るんだろ。送ってくぜ」
「……うん」
 播磨の手のぬくもりを感じながら愛理は思う。想いを伝えてよかったと。
 明日、彼が何色の花束を持ってきたとしても、後悔だけはしない。
 愛理は自分自身に誓った。




 アンティークなデザインの柱時計が示す時刻は7時30分。

 タイムリミットはもう目の前だ。むしろ、もう彼は門の前にいるだろう。
 そんなことを考えながら愛理は鏡の向こうの自分を見る。
 顔色はいい。昨日、存外よく眠れたおかげだろう。
 念入りにブローした金髪は、我ながら見とれるほど美しい輝きを放っている。
 それに……。
 と、そのとき、傍らに置いた携帯電話が短い着信音を鳴らし、愛理は思考を中断した。
 メールの発信元は天満。
 内容は他愛もないものだったが、なんとなく物問いたげな文面に見えるのは愛理の気のせいではないだろう。
 昨日、天満にはすまないことをしたと思う。
 本来告白されていたのは彼女だったのに、割り込んで横取りしたような形になってしまった。
 無論のこと、天満が播磨に特別な感情を抱いていることなどあるわけもないのだが、それでもダシにしてしまったような形になったのは事実だし、それでなくとも八雲のこともあり、愛理としては後ろめたさを感じずにはいられない。
 そんなことも考えながら短い返答を打ち込んで送信したとき、ちょうどノックの音がした。
「どうぞ」
 愛理が応じると、静かにドアが開かれタキシード姿のひとりの男が静かな足取りで部屋に入ってきた。
「お嬢様、そろそろお出かけの時間になります」
 その男、執事のナカムラは厳かな口調で言うと小さく頭を下げる。
「わかってるわ」
 短く答えて愛理は鞄を手に取る。ナカムラの脇を抜けて部屋を出ようとしたとき、不意に彼が声を掛けてきた。
「この香りは……」
「あら、わかるの?」
 愛理は深い満足と共に勝ち誇ったように説明する。
「今日はね、とっておきの裏技を使ったの。全身にくまなくフレグランスを振りかけたあとで、18.5秒……ここポイントよ。18.5秒シャワーで流したのよ。これをやるとツンとしたトップノートが飛んで、さわやかなラストノートだけが染み込んだように残るってわけ」
 愛理が言い終えると、ナカムラがあくまで静かな表情のままで尋ねてくる。
「全てはあのお方のため……でございますか?」
「え?」
「門の前でお待ちかねでございます」
「そっか……。やっぱり来てくれたんだ」
 来てくれないのではないかというわずかな不安が消えたおかげで自然と顔がほころんでくる。
「ナカムラ」
「はい?」
「彼、何か手に……」
「は?」
「いえ、なんでもないの」
 愛理は自らの質問を自らで打ち切ると、押えきれない笑みを隠すように顔をうつむけてナカムラに言う。
「じゃあ、行ってくるわね」
「はい。ご武運を」
 なにやら妙なセリフが聞こえた気がしたがそれは気にせず、愛理は部屋を後にした。

 この門の向こうに彼が待っている。
 そのことを自分に再確認しただけで胸が高鳴る。
 おかしなものだ。ほんの数日前までは彼のことを想うたびに不愉快になって、躍起になってその感情を否定していたというのに。
 今は彼が好きな自分がこんなにも愛しい。
「勝算は、15パーセントってところかしらね」
 門を前にして立ち止まりながら、愛理はひとり呟く。
 浮かれているとは言え、今日の件に関して愛理は決して楽観視はしていなかった。
 昨日帰る道すがら、聞いたのだ。彼と天満の馴れ初めを。
 それを尋ねることは彼の天満への想いを再確認させることにも繋がるため、無論のこと躊躇はあったが、知りたいという欲求がそれを上回った。
 チンピラに絡まれていた彼女を助けて、そのときに一目ぼれしたという話は全てを語っていないにせよ、概ね真実だろう。
 そして、なによりも愛理を打ちのめしたのは、天満を追ってわざわざ今の高校を選んだと言う事実。
 確かに昨日の告白で、播磨の心をある程度捕らえたという自負はある。
 だが、それほどの想いをあれだけで覆せるわけもないと、そうでなければいけないとさえ思う。
「さてと」
 ひとつ深呼吸をして、愛理は門をくぐって邸外に出た。
 彼の姿はすぐに見つかった。
 フェンスを背にし、両手を後ろに回して所在なげに視線を泳がせている。
 オールバックの髪がいつもより決まっているように見えたのは欲目だろうか?
 彼もまた、愛理のことをすぐに見つけてくれた。
「お嬢……」
 心なしかほっとした表情を彼が浮かべた理由はすぐにわかった。
 いかつい顔にサングラスをかけた男子高校生が、この高級住宅街を朝から花束を持ってうろうろしているのだ。
 通行人や近所の人たちの目が気になるのは当たり前だろう。
「おはよう、播磨君」
 とっておきの笑顔とともに愛理が言うと、播磨は短く「おう」とだけ答えた。
 愛理は彼をじっと見つめたまま、ゆっくりと歩み寄っていく。
 そして、1メートルほどの距離を残して立ち止まるとあとは何も言わずにそのときを待った。
「お嬢……」
「うん」
 愛理が頷くと、播磨は意を決したようにそれを差し出した。
 彼が差し出した花たちがまとっていた色は、愛理が予想していたものではなかった。
「あ……あ……」
 愛理は思わず口元を押さえて小さく震えた。そして……
「ぷっ……あははは。やられたわ。こう来るとはねえ」
 一抱えほどの花束を彩るのは、バラを初めとして、ユリ、スプレーカーネーション。
 そしてその花たちは鮮やかな、ほんとうに鮮やかなピンク色をまとっていたのだ。
 播磨は真っ赤になった顔で不快げに言う。
「笑うなよ。これでも必死に悩んだ答なんだからよ」
「ごめん、ごめん」
 笑いを収めながら愛理は言う。
「だけどさ、まさかこう来るとはほんとに思わなかったわよ。つまり、俗な言い方すると、友達以上恋人未満ってわけ?」
「そうなるか」
 播磨は真顔になってやや顔をうつむける。
「ほんとに悩んだんだぜ。結局、塚本のことはあきらめきれなかった。それで白い花を買おうと一度は決めたんだ」
「それで?」
 こちらもすっかり笑いを引っ込め、愛理はじっと播磨を見つめる。
「だけどよ。目ぇつぶると昨日のことが頭に浮かんできてよ。で、想像してみたんだよ。おめーが他の男とああしてる姿を」
「ふーん、それでどう思ったの」
「むちゃくちゃムカついた」
「なるほどね」
 愛理は両手を後ろに組むと、思わせぶりに彼に背中を向け、顔だけで振り向く。
「つまりこういうこと? 天満のことはあきらめきれないけど、私を他の人に渡すのもイヤだって」
 愛理の言葉に播磨は顔をしかめた。
「そ、それを言われるとつれー。でもよ、それが俺の今の本音なんだよ。だから、こいつは受け取ってもらえなくても仕方ねえと思いつつ持ってきた。やっぱ、ダメだよな?」
 諦めたように言って肩を落とす播磨。そんな彼をじっと見つめたあと、愛理はもう一度彼に向き直り半歩歩み寄るとすっと両手を伸ばした。
「お、おい」
 播磨の言葉に耳も貸さずにその花束を手中に収めると大事そうに胸に抱いてその香りを胸いっぱいに吸い込む。
「この私に対してずいぶんな言い草だけど、まあ仕方ないわね。ひと月分の小遣い全部をこの花束につぎ込んだ気持ちに免じて、今回だけは譲歩してあげる」
「お嬢……恩に着る」
 深々と頭を下げた播磨にくすりと笑って愛理は歩き出した。
「さあ、学校に行くわよ」
「お、おう」
 数歩足を進めたのち、播磨は慌てたように言う。
「おい、お嬢。それ持ったまま学校行く気かよ」
「まさか」
 おかしそうに笑って愛理は言う。
「もう少ししたら、ナカムラに電話して取りに来てもらうから。もうしばらくはこうさせておいて。あんたが私に、初めてくれたプレゼントだから」
「……ああ」
 愛理の言葉に播磨は大きく頷いた。そして愛理は花束と播磨の横顔を交互に見つめながら言う。
「ねえヒゲ。私、この花を必ず真っ赤に染めあげて見せるからね」
 その言葉を聞くと、播磨はきょとんとした顔で愛理を見つめてきた。
「あれか? 赤い水を吸わせると花が赤くなるってやつ。それ、あんま意味なくね?」
「あんたねえ……」
 思わず愛理が花束を振り上げると、おどけるように悲鳴を上げながら播磨が逃げる。
 そんな彼を追いかけながら愛理は思う。逃げられると思うなら、どこまでも逃げなさい。
 でも、私はあんたを絶対に捕まえるって決めたから。
「お?」
 交差点を前にして短い声とともに不意に播磨が立ち止まった。
 彼の視線の先を追うと、ちょうど歩行者信号が青の点滅から赤に変わるところだった。
 彼に追いつくと、愛理は花束を突きつけて声高に言う。
「ったく、ほんとにあんたっておバカで乱暴でデリカシーもなくて……」
 そこで言葉を切ると、愛理は彼の耳元に囁く。
「でも、好きだからね」
 その一言で彫像のように固まった播磨の横顔をじっと見つめたあと、不意に愛理はにやりと笑った。
 周囲に目をやり誰も見ていないことを確認すると、愛理はその唇を、静かに彼の頬へと近づけていった。

〜Fin〜


今までの作品で、一番評価が高いのがこれかも知れません。他のところは3日ぐらいで書き上げたのに、告白のところだけで同じぐらい悩んだり。その甲斐あってそこは評判がよかったんですが、沢近が告白邪魔するのはどうよ?という意見が相次ぎ、自分でもそう思ってます。ここんとこ、そのうち改訂するかも。

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