お前じゃない
私はうなされていた。夢だと知りながらうなされていた。
横に目を向ければ大勢の観客がいる。だが、そんなものはどうでもよかった。
私の視界にいたのはあいつだけ。あいつだったから、私はあのセリフが言えた。
あいつだったから、私は演技を続けられた。なのに、あいつは今夜も答えてきた。
「お 前 じ ゃ な い」
その言葉を聞いた瞬間に、今まで無視していた観衆の声が聞こえてきた。私を笑うあいつらの声が聞こえてきた。あいつら……いつも私を憧れや羨望の視線で見てきたくせに私を笑うの?
そして、あいつの横から、あいつと同じ布団から、あの魔女は姿を現した。
塚本八雲。
私にとっては不倶戴天の敵。いつもいつも私の邪魔をする。悪気がないのがわかるだけに苛立つ。
許さない。許さない。
あの後夜祭は自分ながら奇跡的な自制心で切り抜けたけれども、私があのときどんな想いを抱えていたか、あなたにわかるの? いいえ、わからないでしょう。誰にもわからないでしょう。私のこの心が、どれだけ傷つき歪んだのか。
私の意思を無視して、シーンは進んでいく。そして私は、今夜も戦わずして負けた。あのときの私は、あいつの一言で心が折れていたから。
お約束のようにそこで目が覚めた。目に入ったのは見慣れた天蓋。枕元に置いたルージュで、私は壁にまた、×の字を刻んだ。
×の数はこれで五個目。
私は決めていた。もしも五回以上、あのときの夢を見ることがあったなら、あいつを、播磨拳児を許さないと。そして、今日その五回目の夢を見た。
この瞬間に彼の運命は決した。同情はしない。乙女の心を傷つけた罪は海よりも深いのだから。私はむしろ、歓喜と共に、先ほど刻んだ×をもう一度上書きした。そして私は唇をゆがめて笑った。
播磨拳児。覚悟しなさいよ。
眠れないままに朝が来た。私は身支度をすっかり終え、姿見に見入っている。復讐と言っても普通の人ならどうすればいいのか見当も付かないだろう。
だが、私には武器がある。両親からいいところだけを受け継いだと言われる、自分でも美しいと思える顔立ちが。日夜の努力で必死にキープしているプロポーションが。
そして、これだけは誰もが認めざるを得ないだろう。快活さとしとやかさが見事なまでにバランスされた理想的な性格が。
顔立ち、スタイル。そして性格。
この三拍子が揃った私がその気になれば何を恐れることがあるだろうか。
復讐というが、私はなにも暴力や権力に訴える気はない。それを使えば彼に地獄を見せるのは容易だが、それをするのは負けを認めるようなものだとすら思う。私は両親から受け継ぎ、自ら磨いてきた女の武器で戦う。
そう、私の持ち前の魅力と思わせぶりな態度で彼の視線を釘付けにし、必ず彼に告白をさせる。
そう、そのときだ。そのときこそ私は彼に言う。
「お前じゃない」と。
「くくく。覚悟しなさいよ、播磨拳児!」
いつしか私は哄笑していた。その日が来ることを想像しながら。むしろその日が近々訪れることを確信しながら。
と、そのとき背後から声がした。
「失礼いたします。何度ノックしてもご返事がありませんでしたので」
姿見を通して、執事、ナカムラの姿を確認して私は軽く咳払いをする。
「何の用?」
「お出かけの時間になります」
その言葉に静かに頷き、私は踵を返した。
その日の朝、いつもより少しだけ早く学校に着いた私は階段の影から脱靴場の様子をうかがっていた。復讐の第一歩はまずは彼の心をしっかりと掴むこと。彼が普通の男ならば適当にウインクでも投げてやれば瞬殺なのだが、どうも彼の場合は一筋縄では行かないらしい。そこでまずは決めた。こちらから仕掛けてみようと。
名づけて「体当たり作戦」。偶然を装い彼にぶつかり、謝ってくる彼に気にしなくていいのよなどと微笑み、一気に彼の心を捕らえようという作戦だ。
そのまんまじゃねえかと笑うことなかれ。この古典的な方法が効果的なことは我が家のスーパーコンピューターが証明している。
男子高校生が好む恋愛ゲームの実に89%にこういうシーンが用意されていると言うのだ。
この手法は見知らぬ男女で行うのが一般的らしいが、まあ、私ほどの美少女となれば、そのあたりのことは無視しても構わないだろう。
クラスメイトを含めた何人もの男女が、私のことを何をしているのかと胡散臭げな目で見ていくけど、気にはしない。
気にはしないけど、早く来なさいよ、あのヒゲ。
という切なる願いが天に届いたのか、単に始業時間が近づいたせいか彼はやってきた。がっしりとした体躯にオールバックとサングラス。
正直かっこいいなどとは全く思わないこともないが、私に釣りあうほどの存在とも思わない。あのあいつにあんなことを言われたのかと思うとまた悔しくなる。
とは言え、今はそんなことを言っている場合でもない。なぜなら、今もあのヒゲはこちらに向かって歩いてきているのだから。彼の歩幅、速度をインプットすると、私は完全に階段の陰に身を隠した。目を閉じて、タイミングを計る。1、2、3。今だ!
階段を蹴って廊下へと躍り出る。計算どおり彼は目の前にいた。
「きゃああ」
我ながら可愛いと思う悲鳴をあげて、私は彼に突っ込んでいく。
「うおお!」
と、ヒゲは悲鳴と共にありえない行動を取った。なんと私をかわしたのだ。しかも、その巨体の陰から別の人影が現れた。
「うわあ!」
どこか嬉しそうに悲鳴をあげた男の顔に見覚えはあるが名前は知らないし背も低い。文字通りの小物だ。こんな男にぶつかっても意味はない。
「じゃまっ!」
言いながら私は右足を上げた。そしてその小物の腹を容赦なく蹴り付ける。
「ぶっ!」
うめきながら吹き飛ぶ小物。下着は見えていないはず。あいつ以外の誰かに見せるために下着を履いた覚えなどないのだから当たり前だ。
まあ、別にあいつに見せるために下着を履いているわけでもないのだけれど。
そして私は小物を蹴った反動を利用して再びヒゲへと身を躍らせた。彼の表情がなぜか引きつっているのが分かる。
だが、彼にはよけることはできない。なぜなら、ヒゲの向こうには壁があるから。ヒゲがよけたら私は壁に激突して保健室に直行だ。
私は知っていた。復讐のターゲットに決めたこの男が、ほんとは少しだけ優しいのだと。この男が私に怪我をさせるなどありえない。
そして、次の瞬間私はその認識が甘かったことを知った。ゴツンという音さえ聞こえそうな勢いで私は壁に激突したから。
目の前に火花が散り、意識が混濁していき、やがて暗闇に閉ざされる。しばらくしてぼんやりと意識が戻ったけど、やはり見えるのは暗闇だけ。だけど心が安らぐ気がした。力強く暖かい感触に包まれている気がして。自分がいるべき場所にいるような気がして。
だから私は薄れ行く意識に身を任せ、そして再び、完全に意識を失った。
目が覚めたとき、私はベッドの中にいた。匂いと部屋の様子で、すぐに保健室だと気付いた。
「私いったい……」
小声でうめくと、カーテンが開かれてひとりの女性が覗き込んできた。保険医の姉ヶ崎先生だ。
「気がついた? 気分はどう?」
「大丈夫です。私いったい……」
私が言うと、彼女はクスクスと笑いながら説明してくる。
「ハリオに聞いたわ。なんかすごい勢いで壁にぶつかったんだって? ハリオ……播磨君があなたを抱っこして血相変えてここに駆け込んできたときはびっくりしたわ」
「だ、抱っこって……もしかして?」
そのビジュアルを想像しただけで、頬が火照るのを感じる。そして、姉ヶ崎先生が返してきた返答は最悪だった。
「そうよ、いわゆるお姫様抱っこ。正直、羨ましかったわ」
「そんな……」
私は思わず掛け布団を口元まで引き上げて赤面を隠した。あいつにそんなことされてたなんて……。しかも公衆の面前で。
意識を失った私を恭しく抱き上げるヒゲという構図を想像すると胸がときめくが、私はそれを怒りで押し隠す。
私をよけて怪我させた上に、こんな恥をかかせるなんて……。
そんな私の思いはよそに、先生が言ってくる。
「もうすぐ一時限目終わるから、それ待って教室に戻りなさい」
「はい。そうします。……すみませんでした」
私が言うと、先生は何も言わずに頭を撫でてくれた。
「はあ……」
教室に戻る途上、私は深くため息をついた。なんでこんなことになったんだろ? あいつだ、あいつのせいだ。
私は怒りを新たにした。まずは文句の一つも言わないと気が済まない。
教室に入る。いつも以上に注目を集めているように思えるのは気のせいだろうか?
「あ、愛理ちゃん」
天満が駆け寄ってこようとするのを手で制して私は机に突っ伏しているヒゲへと歩み寄り、机を叩いた。
「お?」
顔を上げ、ヒゲが私に目を向けてきた。私は机に両手をついたままで、きつい口調で言う。
「あんたね、なんてこと。ひあっ」
私が言葉を切ったのは、いきなり彼が大きな手のひらで私の額を撫でてきたから。
彼は重い口調で言う。
「ああ、やっぱコブになってんな。悪かったな、反射的によけちまって。おめーがすっげえ顔して向かってくるからついよ」
思いがけない言葉と優しい手つきに私はついしどろもどろになる。
「い、いいのよ。私も悪かったわ。その、保健室まで連れてってくれてありがとう」
予定を変更して素直に礼を言ったのは、彼の気を引くためにはここは下手に出ておいたほうがいいと判断したから。
胸がときめいたなんて理由では絶対にない。
「気にすんな。お大事にな」
なんで頬が熱いの? そんなことを考えながら軽く彼に手を振りながら机から離れる。
すると、すかさず二人の親友が話しかけてきた。
「愛理ちゃん、聞いたよ。ほんとに大丈夫なの」
「聞いたぜ。朝から災難だったな」
天満と美琴に言われて私はツンとそっぽを向く。
「平気よ。このくらい想定範囲内だわ」
「はあ?」
美琴が意味不明と言いたげな声を出す。と、そのとき私は誰かから手を引かれた。視線を移すとそこにいたのはもう一人の親友、高野晶。
「愛理、ちょっと来て」
「なによ」
腕を引かれるままに私は教室の隅に移動する。そして晶は、周りに目を配りながら言ってきた。
「面白い写真があるんだけど」
「はあ?」
彼女が差し出した写真を見て、私は絶句した。そして赤面した。それこそは私をお姫様抱っこしているヒゲの姿だったから。
「ど、ど、ど」
「面白い写真でしょ」
「面白すぎるわよ!」
私はヤケのように叫んでいた。
「二千円で譲ってもいいけど?」
晶の言葉を聞いて、私は彼女の肩に両手を乗せた。
「私たち、親友よね」
「二千円」
「付き合い長いし、いろいろ支えあってきたと思うわ」
「二千円」
「これから先も困ったことがあったらなんでも相談して欲しい」
「二千円」
私はがっくりと肩を落とした。
「千円プラスパフェひとつで」
「最初からそう言えばいいのよ」
言って差し出してきた写真をひったくるようにして奪う。改めて見ると、まるでドラマの中から切り抜いたような写真だった。
気を失った姫とそれを抱いて走る騎士のような。
それを思って私は思わず叫んでいた。
「誰が騎士よ!」
叫んだ私の頭に晶が手をあてがってきた。彼女は不安げに眉をひそめて言う。
「やっぱり頭の打ち所が悪かったかしらね」
席に戻ると私は何度もため息をついた。最初からこんなハプニングが起きるなんて。
ふと彼に視線を向けると視線が絡んだ気がした。いや、絡んだことにしよう。
とりあえず、過程はどうあれ、彼との距離は縮まった。作戦その1は成功したと言えるだろう。
言える……わよね?
あの写真は帰ったらラミ加工して保存しておこう。復讐心を忘れないために。
昼休みがやってきた。作戦その2を実行するときだ。この作戦は作戦その1とも密接にリンクされていて、ごくごく自然に彼にアプローチ……もとい、彼を網にかけることができるはずだ。
私は彼を横目で見ながら、右手にグルグルと包帯を巻いた。そして、ゆっくりと彼に歩み寄っていく。
「播磨君」
「お?」
私が歩み寄ると、案の定彼は私の右手に目を留めて言ってきた。
「なんだ、その手、どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたも今朝あんたとぶつかって倒れたときに怪我したんじゃない」
「あ? とりあえず、俺とおめーはぶつかってねえが?」
細かいことを言ってくる彼を私は切り捨てる。
「うるさいわね、最初のシナリオではそうなってたのよ! で、こんなんじゃお弁当食べられないから手伝って欲しいの」
私の論理的な提案に、しかしヒゲは頭を抱え、あきれたように言ってきた。
「ツッコミどころが多すぎてどこから突っ込むべきかわからねえんだが、ひとついいか?」
「どうぞ」
私は自信たっぷりに応じた。ヒゲ程度の頭で私の理論武装を崩せるわけがないから。
「三時限目、体育だったろうが」
「見てたの?」
思わず私は答えた。これは想定範囲外だ。しかし、体操服姿の私がいつも以上に気になったとしても、そこは文句を言うべきポイントではない。ここはひとつ誉めておこう。
「まあ、とりあえず、目が高いってことだけは認めてあげるわ」
「意味わかんねえぞ。んでよ、おめー元気いっぱい周防と跳び箱で張り合ってなかったか? 俺が言いてえのは、その手でどうやって跳んでたのかって話だ」
なるほど、そちらを突かれたか。でも、これに関しては簡単に論破できる方法があるので問題ない。日本語には便利な言葉があるものだ。
「錯角よ」
「おめーなあ……」
反論に困り、ヒゲが絶句しているところに、天満が割り込んできた。
「なになに。どうしたの?」
これは利用させてもらうしかない。
「ヒゲが、私に怪我させておいて責任取らないって言ってるんだけど、どう思う?」
「ええ?」
天満は眉をひそめてヒゲに言った。
「それはまずいでしょ。播磨君、最低だよ」
その途端だった。ヒゲが机を叩いて立ち上がったのは。
ふっと髪を撫でつけ、唇に小さな笑みを浮かべて彼は言った。
「塚本、俺がそんなちっけえ男に見えるかよ? お嬢、おめーの面倒はこの俺が責任持って見てやるぜ」
言って私の手首を握ると外へ引っ張っていく。
関係ない天満にかこつけて私の要求を受け入れる辺り、ヒゲもかなり役者なのかも知れない。などと考えながら私は決意を新たにする。
どんなことをしても、復讐を果たすのだと。
あと、手を繋いでもらえて少しラッキーと思ったり思わなかったり。
と言うわけで、私とヒゲは校舎裏の木の下に移動した。この木こそは体育祭のときに彼が私にジャージをかけてくれた想い出の場所。
あの頃から私は彼のことを……じゃなくて、彼が私を好きになることは決まっていたのだと思う。
隣に腰掛けているヒゲが言ってくる。
「つうか飯食う手伝いって具体的になにやるんだよ?」
「あんたが私に食べさせてくれればいいのよ」
「ああ、なるほどな」
私の提案にヒゲは膝を叩いた。そしてその直後。
「なんて納得できるか! なんで俺がそんな恥ずかしいことしなくちゃいけねえんだ!」
「さっき責任持って面倒見るって言ってくれたから」
「ぐっ……」
理路整然とした反論に沈黙するヒゲ。観念したように肩を落とし、それでも抗弁してくる。
「だいたい、なんで俺なんだ。……周防とかに頼めばいいじゃねえか」
「あんたさ、自分が怪我したとして、男に食べさせてもらいたいの?」
「んなわけあるか。俺だったら好きな女に食べさせてもらいてえ……て、あ?」
突然の言葉に私の心臓は跳ね上がった。いきなり図星……からは微妙にずれているが核心をつかれるなんて。
「と、とにかく、約束は約束」
私は強引に会話を打ち切って弁当を広げた。
三段重ねの重箱の中身はそぼろご飯に鳥の唐揚げ、ウインナー、卵焼き、その他もろもろ。基本的にはありがちな弁当のおかずが詰まっているが、どれも最高の食材をシェフたちが調理しているから、味の方はお墨付きだ。
「うお、すっげえうまそうだな。つか、すげえ量だが食いきれんのか?」
言う側から彼のお腹が鳴る音が聞こえてきた。
「残った分はあんたにあげるわ」
言うと案の定、ヒゲは大喜びした。
「マジか? よっしゃ、んじゃ始めるか」
彼は意外に器用に箸を動かし、聞いてくる。
「どれから行くよ?」
「基本的に適当でいいわ。リクエストがあったらその都度言うから」
「わかったぜ」
最初に彼はウインナーをつまみ、こちらに差し出してきた。誰かにご飯を食べさせてもらうなんてどれだけ振りだろうか?
自分で提案したこととは言え、気恥ずかしい。軽く目をつぶりながら、ウインナーにかぶりついてそれを口中に収める。
なんだかそれは、いつもよりおいしい気がした。
次々と差し出してくるおかずやご飯を私は消化していく。何度目だったろうか、私がかぶりつく寸前に、ご飯が地面に落ちてしまったのは。
「わりい。やっぱ難しいな、こういうの」
言う彼に、もう少しサービスしてやろうと思って私は提案した。
「そのね。肩とか抱いてもらうともっとやりやすいかも」
「おいおい」
彼は顔を赤らめながら周囲を見渡す。同じように外での昼食を楽しむ生徒たちがちらほらといる。
「そりゃ、いくらなんでもまじーだろ。人目もあるしよ」
「私なら構わないけど?」
言って彼に肩を摺り寄せる。ヒゲは逡巡するように口をもごもごさせるが本心ではそうしたいに違いない。もはやヒゲは私の術中?
そして彼は観念したように言ってきた。
「んじゃま、失礼して」
左手をこちらに伸ばしてくると、ヒゲはそれを私の肩に回してきた。
すごく大きな手。なんだか落ち着く。考えてみれば、気まぐれにデートしてきた相手にもこんなこと許したことないのに、復讐のためとは言え、なぜ今自分がこうしているのかが不思議だ。
「ほらよ」
優しく彼が差し出してきた佃煮を食べる。ほうれん草のお浸し、ひじき、ミートボール。ご飯と並行してそれらを次々とお腹の中に収める。
三分の一ほど平らげただろうか。もうお腹は十分に膨らんだ。彼の左手が肩から離れてしまうのは残念だけど、そろそろ頃合だろう。
彼のお腹も限界のはずだ。
「もういいわ。ありがとう。あとはあんたが食べて」
「もういいのか? んじゃ、遠慮なくな」
「ちょ、ちょっと……」
止める間もなかった。ヒゲは今使っていた箸をそのまま使って、すごい勢いで弁当を平らげ始めたのだ。
これって、間接キッスって言うんじゃ……。彼の箸は別に用意してあったのだが、今更出しても意味がないだろう。
まずは気を落ち着かせる。まあ、とりあえず私の使った箸を彼が使うのは気にしなくてもいいだろうと自分に言い聞かせて。
逆はさすがにシャレにならないけどと考えていたときに不意打ちが来た。
「お、やっぱまだ食い足りねえか。ほらよ」
言いながら彼が差し出してきた唐揚げを私は反射的に食べてしまった。
頭の中が真っ白になり、頬が灼熱を帯びる。両手を地面について震える私を見て、ヒゲが言ってきた。
「どうしたんだ? 体調でも悪いか?」
「……あんた、わざとやってるでしょ?」
「お? なんのことだ?」
言いながら彼は相変わらずの勢いで弁当を食べ続ける。
「しっかし、ほんとにうめえな、これ。明日も頼むな。なんてよ冗談だけど」
その言葉をしっかりとインプットしながらも私は気を取り直して笑いを顔に貼り付ける。
「しっかり、残さず食べなさいよ」
「言われるまでもねえ」
その言葉通り数分間と待たずに彼は残りの弁当を全て平らげてしまった。
「ふう、食った食った。ごちそうさんな」
「どういたしまして」
そして私たちは並んで木にもたれかかり、食事の余韻を楽しむ。さて、ここから次の計画だ。
私は彼に持たれかかって狸寝入りをする。彼は間違いなく、私の天使のような寝顔に見とれることだろう。
そして起こすのを躊躇するはずだ。授業が始まっても私は起きない。結局私の寝顔に見とれながら起こすに起こせず、私たちは授業に遅れ、私は彼に怒ってみせるのだ。なんで起こしてくれなかったのよと。そして彼は答えるの。すまねえ、おまえの寝顔があんまり可愛かったからと。それを私は笑顔で許し、私たちはラブラブな関係……もとい、彼は私に夢中になり、私は復讐成就へとまた一歩前進する。
と、そんなことを考えているうちに私は右肩に重みを感じた。
「ん?」
とそちらに目をやると、彼は私にもたれかかって気持ちよさそうに寝息をたてていた。
「こ、この男は……」
私は思わず怒りに我を忘れそうになる。まさか先手を打って仕掛けてくるとは。
叩き起こしてやろうかとも思ったが、その寝顔があんまり気持ちよさそうで。
仕方ない。彼が起きたところでもう一度仕掛けることにしよう。私はこちらからも彼にもたれかかり、瞳を閉じた。
「失礼します」
二人声をそろえて職員室を出る。帰りのホームルームが終わってからすでに三十分が過ぎ、すでに廊下は人影も少ない。呼び出しを受けた理由は言うまでもない。二人揃って五時限目の授業、物理に遅れたからだ。
「しかし、まいったぜ」
頭をかきながら彼は言ってくる。
「あのまま眠り込んじまうとはよ。なんで起こしてくれなかったんだよ?」
「し、しょうがないでしょ。あんたがあんまり気持ちよさそうだったから。それで、寝顔見てたら私まで眠くなっちゃって」
「まあ、仕方ねえ。お互い様だな」
私たちは並んで校門を出る。そう言えば、こんな風に一緒に帰るのは初めてな気がする。今までの作戦は順調に進んでいるけど、もう一押ししておくべきだろう。
まずは何かにおびえた振りをして私が抱きつく。反射的に彼は私を抱きとめる。この私を抱きしめてそう簡単に手放せるわけもない。きっと彼はなかなか私を放そうとはしないだろう。そこで私は困ったような声を出す。彼は驚いて私を放して、謝ってくる。私は少しうつむき加減に微笑む。これで完璧。
などと考えていたところに自転車のベルの音が聞こえてきた。振り返るとどこかの高校生らしき男が乗った自転車がものすごい勢いで突っ込んでくるのが見えた。
「っ!」
一瞬体が硬直して動けない。そして、どんどん自転車は近づいてくる。
「あぶねえ!」
危機一髪、ヒゲが私を抱き寄せてくれて、自転車は脇をすり抜ける。
「気をつけやがれ、コラ!!」
ヒゲの怒声が響くが、私は彼にしがみついたまま、呆然としていた。分厚い胸。汗臭い匂いも決して不快じゃない。それどころか胸がドキドキして、私は彼から離れられなくなっていた。
「あのよ……」
困ったような声が聞こえてきた。
「ご、ごめん」
私は慌てて彼から離れた。
「い、いや、いいけどよ」
赤面してそっぽを向く彼の仕草に胸がとくんと鳴った。えっと、これは作戦成功なの?
と、そのとき、唐突に後ろから声がした。
「え〜り〜ちゃ〜ん、見てたぞ〜」
恐る恐る振り返るとそこにいたのは塚本天満。そしてその横には烏丸大路。
「まさかとは思ってたけど、ほんとにラブラブだったんだねえ。播磨君、愛理ちゃんを射止めるなんて、やるなあ」
言いながら天満はヒゲの背中をバンバンと叩く。
「い、いや、塚本、これはよ……」
必死になって何かを言おうとする彼を見て、天満は首を傾げた。
「あれ? そう言えば播磨君、八雲と付き合ってるんじゃ? どうなってるの?」
最後の方は怒り顔になって天満は言ってきた。てゆーか、最初にそっちから突っ込むべきだと思うのは私だけ?
「それは……あのよ……」
ヒゲはすっかりしどろもどろになっている。ここはひとつ、助け舟を出すところだろう。
「あのね、天満。八雲のことは誤解だったのよ。私、本人にもそう聞いたし。そうよね、播磨君?」
私が言うと、ヒゲはこくこくと頷いた。
「ほんとうに?」
疑い深そうに天満がヒゲの顔を覗き込む。ヒゲはやけに顔をこわばらせ、視線を明後日に向けている。
かなり焦っているようだ。もう一押し必要だろう。
「ほんとうよ。ねえ?」
言いながら私がヒゲの腕に自分の腕を絡める。するとなぜかヒゲは完全に固まり、唇を震わせている。
どうしたんだろう? 八雲とはなんでもないってことを証明したいんだろうと思って協力したのに。
私の思惑に構わず、天満は言ってくる。
「はあ、そこまで見せ付けられちゃ認めるしかないわね。じゃあ、お邪魔虫は消えるね。ごゆっくり」
口元を押さえて笑うと、天満は烏丸に歩み寄る。
「見せ付けられちゃったね。烏丸君、行きましょ……」
言って天満は烏丸君に近づき、遠慮がちに彼の袖口を掴んだ。
「つかも……」
「播磨君、愛理ちゃんのこと、よろしくね〜」
にこやかに言って、烏丸君を引っ張るように立ち去っていく天満。いつの間にか袖口を掴んでいた手が、彼の手のひらを掴んでいるようにも見える。
ヒゲは、呆然としたように二人の後姿を見送っている。
そして、その口から思わぬ言葉が漏れた。
「天満ちゃん……」
「えっ?」
思わず問い返しながら私は半ば理解していた。信じがたいことだけど理解するしかなかった。
「あんた、もしかして……」
私はその推測を口にした。
「天満のことが好きなの?」
その瞬間、微動だにしなかった彼の体がグラリと揺れた。
もしかしたら、私のせいなのだろうか? 私のせいで天満に誤解を? だとしたら思わぬ形で復讐に成功したことになるけど。なのに、なんでこんなに後ろめたいの? それになにこの感情は? ヒゲが天満のこと好きだって分かった瞬間に走った胸の痛みは何?
歩道にしゃがみ込みブルブルと震えるヒゲの背中を見て私は思った。私に変な感情を刷り込んだことも復讐の理由に付け加えようと。
何度でも言う。私は絶対に播磨拳児を許さない。
翌朝、ホームルームには彼はいたけれど。すごく寂しげで、あの大きな背中がとても小さく見えた。
罪の意識はあったけれど、私はそれをねじ伏せる。私を先に傷つけてきたのは彼の方なのだから。
ホームルームが終わると、彼はふらふらと教室を出て行き、そして一時限目が始まっても帰ってこなかった。
迷ったけど、私は適当な理由をつけて授業を抜け出した。彼がいるところは大体見当がつく。
屋上へ向かった。通用口を開けると彼の姿はすぐ目に入った。
屋上の隅にしゃがみ込み、膝を抱いている。私が出てきたのにも気付く様子はない。
こういうときはどうすればいいのか? 私は考え込む。あのとき、彼は私の肩にジャージをかけてきて、それから私は彼に夢中に……もとい、彼が少し気になるようになった。
ならば、今はそれを私がやるべきだろう。しかし問題がある。
ここにはジャージも、その代わりになるようなものもないのだ。
「他に方法がないものね」
私は小さく呟くと、忍び足で彼の背中に回りこむ。そして私は、私自身を彼の肩にかけた。
首に両腕を回して抱きしめると、一瞬で彼の表情がこわばるのがわかった。
「元気出しなさいよ。天満なんかよりずっと可愛い女の子が、あんたのこと想ってるかも知れないんだから」
「お嬢……」
私の方を振り向いてくると、ヒゲは呆然とした様子で声をかけてくる。
「なにしてんだ?」
「ジャージの代わり」
「はあ?」
しばしの沈黙。そして彼は言ってきた。
「授業、戻れよ」
「いやよ」
答えた私をじっと見返してきて、不意に彼はニヤリと笑った。
「おもしれえ」
それと同時に体が浮き上がる感触。
「きゃっ」
思わず悲鳴と共に私は彼にしがみついていた。
「そらよっと」
無理やり立ち上がった彼は、すばやく私の脚に手を回して、しっかりと私をおんぶしてしまっていた。
「さ、教室戻るぜ」
ニヤニヤと笑う彼に私は真っ赤になり、ついで真っ青になる。
「ちょ、やめて。おろしないさいよ! バカ〜」
言って私は暴れながらヒゲの頭をポカポカと殴るけど、彼は全く意に介した様子もなく、通用口をくぐって校舎に入ってしまう。
「言っとくけど、騒ぐと余計注目浴びるからな」
「!」
ヒゲの言葉は真実だったから、私は黙るしかなかった。
「バカ……」
私がせめてもの抗議をこめてヒゲの首に回した両腕に力を込めると、彼はもう一度ニヤリと笑った。
そして彼は本当に私をおぶったままで2−Cのドアをあけたのだ。
「失礼しま〜す」
などと声までかけて。
一瞬の沈黙ののちに大歓声が私たちを包んだ。天満は涙さえ浮かべながら拍手を送ってくるし、美琴はポカンと口を開いて呆然とこちらを見つめているし、晶はてきぱきと冬木君に指示してデジカメで私たちを撮影させている。
そして加藤先生のこめかみは神経質そうにピクピクと脈打っていた。
今回は、あの加藤先生が絡んでいる上に二日連続と言うことで、説教も三十分ではすまなかった。先生が私を悪く言うたびに、ヒゲが憎まれ口を叩いて、怒りを自分の方に向けてくれたのは少し嬉しかった。もっとも、それのせいで説教も長引いたのだけれど。
校門を出てから数分。彼は一言も喋らない。怒ったようにまっすぐに前を見つめている。その瞳はサングラスにさえぎられて見えないけど。
「お嬢、少しいいか?」
鬼気迫るような声で、ヒゲは言ってきた。怒ってる? で、でも私を無理やりおんぶしたのはヒゲのほうだし……そこまで考えて思い出した。昨日、私のせいでヒゲが失恋みたいなのをしたせい? あれは私のせいじゃ……ないこともないのだろうか。
そんな後ろめたさもあったから口答えもできず、私はヒゲに連れられて矢神神社の境内にやってきた。境内の中央付近で彼は立ち止まる。周りに人影はない。先手を打って私は口を開いた。
「昨日のことは、反省してないわけでもないわ」
「あ?」
眉をひそめた彼は、苦笑とともに頭をかいた。
「ああ、昨日のことならもう気にしてねえ。あれはバチが当たったようなもんだからよ」
「え?」
「俺、好きな女いたのによ。少し前から他の女のこと、すっげえ気になっちまって。そいつのことばかり見てたから。バチが当たったんだよ。つうか、これで踏ん切りがついた」
「どういう意味?」
全く彼の言う意味が分からず、私は問いかける。するとヒゲは照れたように頬をかき、そして言ってきた。
「おめーのことだよ、お嬢。塚本のことがダメになったからじゃねえぜ。前から考えてたことだ。俺と付き合ってくれねえか?」
「なっ!?」
私は思わず口を押さえていた。もちろんこれは私が待ち望んでいた瞬間。私が言うべき言葉は決まっている。
でも、ほんとに急で、私はすっかり混乱していた。
「えっと、その……。私、あの……」
私が口ごもっているうちにヒゲは信じられないセリフを放ってきた。
「お前じゃねえよ」
「なっ!?」
セリフを取られて私は絶句した。どういうこと? また私はヒゲに手玉に取られたの? 今の告白はウソ? 私の疑問に答えるように彼は言ってきた。
「お前じゃねえよ、そんなモジモジしてんのは。いいんだぜ、遠慮しなくて。無理だってこたぁわかってんだ。おめーが俺なんかを相手にするわけねえってな。すっぱり振っちまってくれ」
ヒゲは自らの首をかっきるような仕草で言ってきた。言うなら今しかない。だけど、私が大きく息を吸った瞬間だった。彼がサングラスを外したのは。
その奥から現れたのは切れ長な、そして意志の強そうな瞳。
「あ……」
私が言葉を失ったのは、サングラスを外した彼が思っていた以上にかっこよかったから。私の口は、私の意志とは無関係にその言葉を告げていた。
「私でよければ……」
「マジかよ!」
歓喜の声とともに駆け寄ってきた彼が私を抱きしめてきた。嬉しさと悔しさと割り切れなさと。他さまざまな感情に揺られながら私は必死に言う。
「お前じゃない」
その言葉は彼の分厚い胸に吸い込まれて、誰にも聞こえなかったろうけど。でも、私はそれでいいと思った。
だって、もう私はあの夢を見ることはないだろうから。
〜Fin〜
これは2ちゃんねるの某所で「演劇であんなこと言われて悶々としてるお嬢でコメディ書いてくれる人キボン」みたいなリク受けて書いたものです。ラストが無茶なのはわかってますが、タイトルオチ持ってくるにはこれしか方法を思いつきませんでした。
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