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My Diary

 

 

 

東京便り19号 モーツアルトの協奏曲B

   MV(モーツアルティアン・フェライン(日本にある同好会))でのフルート協奏曲の演奏は、一昨年D-dur K314、昨年FlとHpの為のC-dur K299、と演奏して来たが、今年は最後。G-dur K313をいつものとおり石黒さんに伴奏をお願いして演奏した。今回は残念ながら体調を崩された名誉会長の若松氏は欠席したため、講演は澤田会長がおこなった。以下はMVのホームページから。

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●11月例会の報告(第320回/2012年11月20日)

モーツァルティアン・フェライン創立30周年記念例会記録

第1部  フルートとピアノによるミニ・コンサート

@フルート演奏 木村 好伸氏 ピアノ 石黒裕丈氏 フルート協奏曲 第1番 ト長調
一昨年より、恒例となったフェライン会員の木村―石黒両氏によるミニ・コンサートから、記念例会は開始された。今回は、金、銀、木製三種類のフルートの音の聞き比べから始まった。



それぞれ意外に音色が異なり、興味深い体験をさせて頂いた。フルート協奏曲の演奏は木製のフルートで行われた(古楽器ではなく、現代楽器)。演奏はとてもアマチュアの演奏とは言えない素晴らしいもので、一体、現役のビジネスマンがいつ練習しているのだろうと疑問に感じるほどであった。ピアノのフォローぶりも抜群だった。

Aピアノ演奏 石黒 裕丈氏 ピアノ・ソナタK.333 変ロ長調
石黒会員はモーツァルトのピアノ・ソナタの最高傑作と言われるK. 332とK. 333の二曲中、変ロ長調ソナタK.333 を演奏された。石黒さんの演奏は音楽性豊かで、我々はその美しさに、しばし我を忘れて身動きもせずに聴いていた。時間の関係でアンコールをお願いできなかったのが、残念である。



2012年11月19日

 

 

東京便り18号 モーツアルトの協奏曲A

  昨年に引き続き MV(モーツアルティアン・フェライン(日本にある同好会))からの依頼で、今回はフルートとハープのための協奏曲を演奏しました。 ハーピストが見つからないので大好きなこの曲の演奏は諦めていましたが、フルートとピアノ用に編曲された楽譜(実際は、フルートパートは変わらず、ピアノにハープの役割も持たせたもの)を米国の楽譜販売サイトで見つけましたので、すぐに取り寄せ伴奏の方に無理を言って取り組みました。

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フルートとハープのための協奏曲ハ長調 K299(297c)について (演奏時のパンフレットより)

モーツァルトはフルート(の音色)が嫌いで、1778年2月14日付父宛ての手紙の中で「我慢できない楽器のための作曲はうんざりする」と言った内容を書いていますが、この手紙が書かれた頃に、現存するフルート曲全8作品(3曲の協奏曲、4曲の四重奏、Andante)が作られました。 

いずれもフルート愛好家の依頼で作られましたが、内6曲(2曲の協奏曲、3曲の四重奏、Andante)はマンハイムのドゥ・ジャンの依頼で作られたとされています。昨年私が演奏しましたニ長調(K.314/285d)の協奏曲もこの中に含まれます。 

今回演奏しますフルートとハープのための協奏曲ハ長調(K.299/297c)は、ベルリンやロンドンでフランス大使を務めた外交官のギーヌ公の依嘱に応じて作られました。「ギーヌ公爵はなかなか大したフルートの名手です。その令嬢に僕は作曲を教えていますが、彼女もハープをとても上手に弾きます」と、モーツァルトが父に報告しているとおり、フルートとハープという珍しい取合せのこの作品は、上流階級の素人芸術家の父娘をソリストに想定して書かれたものでした。 

この曲は嫌いな楽器のための協奏曲だったのにもかかわらず、全楽章とも美しいメロディーで典雅なフランス風サロン音楽が醸し出されています。特に2楽章は、映画「アマデウス」でサリエリを絶望の淵に追い込む曲のひとつとして使われました。 

今回は、残念ながらハープ抜きですが、ピアノがオーケストラと独奏ハープ双方を担当します。名手石黒さんに、無理言ってその重責を担って貰いました。石黒さんの奏でるメロディーが、オーケストラかハープかを聴き分けながら楽しんで頂ければと思います。尚、オリジナルの楽器編成は、独奏フルート、独奏ハープ、オーボエ2、ホルン2、弦5部、です

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演奏後、MVの会報に載りました内容をそのまま掲載します。

11月例会の報告(第309回/11月19日)

第1部:フルートとピアノによるミニ・コンサート   フルート/木村好伸、ピアノ/石黒裕丈
第2部:モーツァルトのオペラ:僕の決定盤   お話/若松茂生

◆K453ムクドリさんがホームページの会員広場に例会の感想をお書きになっていますが、素晴らしい例会報告になっていますので以下にご紹介します。

《今回は大変バラエティに富んだ内容の有意義な例会でした。前半は生演奏で、1曲目が木村さんのフルート、石黒さんのピアノによる「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」のピアノ&フルートによる編曲版でした。オーケストラ伴奏でしたらハープの方が良いでしょうが、室内楽版ではハープとピアノの音色が重複してしまうような気がしますので、ハープとオーケストラ部分をピアノで弾く、この日の版の方が正解だと思います。



木村さんのテクニックは正にプロ級で、そのうえカデンツァが独創的でとても見事でした。第1楽章が終わると期せずして拍手が起こりました。(「大したもんだ〜ッ!!」との掛け声もあり) 楽章間の拍手に目くじらを立てる人もいますが、私は楽章間の拍手も場合によっては悪くないと思います。交響曲や弦楽四重奏曲ならば別ですが、独奏者の華やかな技巧をアピールするような曲の場合、楽章間の拍手が雰囲気を盛り上げる場合もあると思います。



前半の2曲目は石黒さんのピアノソロでソナタ ハ長調K.309でした。調号が何も付いていないハ長調は一見、簡単そうですが、石黒さんの「ハ長調の音階というのは長い指を丸めなければいけないので、実は非常に難しい」というコメントは大変啓発的でした。

「ロ長調のように白鍵を親指で、黒鍵を人差し指、中指で弾くのが練習曲には相応しい」言われてみれば、まさにその通りですね。確かショパンは、それまでの練習曲が全てハ長調から始まっているのに異議を唱え、ホ長調やロ長調が中心となる練習曲集を作曲し、革命を起こしたと記憶しています。石黒さんの演奏も堂々としたスケール感と気品が感じられ見事でしたが、演奏前の解説も示唆的で興味深く、ぜひ一度、講師としてフェラインの例会でレクチャー・コンサートをして頂きたいと思いました。

後半は若松さんの「モーツァルトのオペラ:僕の決定盤」でした。世評や評論家の推す演奏に惑わされず、自分の決定盤を持てるのは良いことですね。「学問的に正しくても、聴いていて感動を与えられない演奏ならば意味がない」という意見には私も全く同感です。



また若松さんは「『皇帝ティトゥスの慈悲』は決して駄作ではない」と、言っておられましたが、ご紹介のあったケルテスの演奏で聴くと説得力がありますね。私は作品の評価は軽々しくすべきではないと思っていますが、それまであまり高い評価を受けていなかった音楽が、優れた演奏家と出会うことで輝きを放つということは少なくありません。》

◆協奏曲のカデンツァとアンコールが好評でしたが、木村さんから次のようなコメントをいただきました。

《この曲のカデンツァは、ライネッケのものが有名ですが、他にはピルネーやニノ・ロータ等数種類あり、いずれもハープと一緒のカデンツァです。今回はフルートのみでカデンツァを演奏するので、フルート単独のカデンツァの楽譜を探しましたが、残念ながら見つかりませんでした。そこでカデンツァをいろいろと見たところ、1946年米国生まれのフルーティストで編曲家のロバート・ストールマン(Robert Stallman)の作品が目に留まりました。それでも、ハープ無しなので何箇所か独自で編曲しました。一部ハープのパートも吹いています。

アンコール曲は「ふるさとによるポエム」で編曲者は安田扶充央です。編曲者の詳細は不明ですが、「ノスタルジーと愛をテーマに編曲した」とのことです。 当日「今年のアンコールはこの曲に決めている」と申し上げましたが、東日本大震災のことを思い演奏したことは、お気付きのことと存じます。》

※なお石黒さんのアンコール曲はシューベルト作曲 即興曲OP90(D899)第3曲で、ソナタ同様素晴らしい演奏でした。

◆第2部は12ページの講演原稿とお聞かせしたい曲をLPからダビングしたCD(各70分)を2枚用意しました。全部話してCDを聞くと3時間かかるところを、45分ですませなければならず、《ドン・ジョバンニ》《コシ》《魔笛》は割愛、その他のオペラについても駆け足でお話ししました。講演原稿は季刊第80号に掲載予定です。

 

2011年11月20日

 

 

 

東京便り17号 ホームコンサートE

夏のコンサートは毎年7月の開催でしたが、Iさんの指導する吹奏楽団がコンクール予選で多忙となるため、今年から1月繰り上げました。

今回の出演者は、主催のIさんと私に加え、以前(’08年)出演されましたソプラノのMさん、息子のVnのY先生、そして前回から続けて参加のIさんの教え子とその仲間達でした。但し、残念なことに我がアンサンブル・ボストンは、ヴィオラ・ダ・ガンバが311震災で壊れ、ピアニストがスキーで左手親指を骨折したため不参加となりました。(その後、ガンバも親指も完治しました)

 

演奏曲目は、私がIさんの伴奏でJ.S.Bach(息子のC.P.E.Bachの説もあり)のFl Sonata g moll( Home で第1楽章の一部が聴けます)、Iさんはシューベルトとラフマニノフの作品、Mさんは今回シューマンやR.シュトラウスのドイツ物、Y先生はクライスラー等の小品を2曲、教え子達は自作の歌曲やサックスの演奏をしてくれました。

  

 

 

                 

コンサート後は、お楽しみの懇親会。演奏後のリラックスした中で、親しい方々と美酒で音楽談義に花を咲かせ、興が乗った人は演奏したり歌ったり、、、、本当に楽しい時を過ごしました。この至福タイムのために日頃苦しい練習をしてコンサートに臨む、と言っても過言ではありません。

気が付いたら、あっと言う間に初夏の夜が更けていました。 

      

2011年6月11日

 

 

東京便り16号 幸運な実話

平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震は2011年(平成23年)3月11日14時46分に三陸沖(牡鹿半島の東南東約130km付近)の深さ約24km(暫定値)で発生したマグニチュード9.0(当初8.8、修正後の暫定値)の西北西-東南東方向に圧力軸をもつ逆断層型(CMT解)、太平洋プレートと北米プレート境界域における海溝型地震が発生。 

気象庁発表によるM9.0は地震の規模としては1923年の関東大震災(大正関東地震)のM7.9を上回る日本国内観測史上最大、アメリカ地質調査所(USGS)の情報によれば1900年以降、世界でも4番目のものとなった。 

地震に伴って巨大津波が発生。この津波によって、三陸沿岸をはじめとする全国各地で被害が発生している。北海道から千葉県にかけて大津波が押し寄せ、特に岩手県・宮城県・福島県の3県では海岸沿いの集落や、名取川などの河口周辺から上流に向け数キロメートルにわたる広範囲が水没するなどの甚大な被害が出た。 

東北地方を中心として大きな被害を出し、1都9県が災害救助法の適用を受けた。地震の影響は広範囲に波及し、関東地方や北海道でも死傷者が出る事態となっている。宮城県警察本部長・竹内直人警視監は県災害対策本部会議(13日午後3時)で、「県内の死者は万のオーダーに達する可能性がある」と報告。 

暗いニュースばかりの中、以前一緒に仕事をした方が、今回の震災で幸運が重なり命拾いした。彼女は、既に自宅に戻っている。大変嬉しい知らせだったので、是非ご紹介したい。

          3/11(金)昼過ぎ、女川のある金融機関の支店での仕事を終え、レンタカーで石巻に向かう

        14:46石巻市手前で被災、揺れがすごく車を止める

        揺れが収まった後、津波警報のサイレンが鳴ったので、山側に向けて車を動かす

        暫く行くと幸いにも「避難所」の看板あり、早速車を乗り入れる

        避難所はスーパーのヨークベニマルで、2Fの青空駐車場に車を止め降りる

        第一波の津波が来て、2Fの床面を洗う

        第二波は更に大きくなるとの予想から、皆3Fの社員施設に上がる

        第二波以降も全て2F床面程度で収まる

        その夜は、家と車を失った人のみビル内に入ることが許され、当職員は他数名と車の中で過ごす

        ガソリンを節約するため、暖房は時々入れる

        幸いにも避難所がスーパーなので、泥の中から水と食糧を掘り出し、皆で取ることが出来る

        2晩過した後の日曜日、仙台より警備会社の人が到着、山側の通ることのできる間道を教えて貰う

       (この時点では、自衛隊は未だ動いていないため、幹道は通行不能)

        3/13(日)15:00頃、当職員の自宅(仙台市)方面に帰りたい数人を同乗させ、避難所を出発

        教えられた間道を通り、20時頃漸く自宅に到着、ガソリンは何とか持った

        両親と対面、地震発生後の2日間は連絡が取れてなかったため、両親は一時最悪のケースも想定したとのこと。涙の再会となった

現在、彼女は自宅待機中。電気は通じたものの、上下水道の復旧までには、あと1ヵ月程掛るそうである。 

最後に、行方不明者の多くが、情報の不備で本当はどこかの避難所等で生存していること、ライフラインが早急に再開されることを祈りたい。

2011年3月18日

 

東京便り15号 老人ホームのコンサート
同居の義母が昨年5月に転んで股関節を骨折した。幸いにも手術は成功したが、リハビリを含め約3ヶ月間入院した。退院後も杖が必要で、介護3の認定を取得。自宅の風呂に入るのは難しく、近所のデイサービスを受けている。朝9時過ぎにライトバンが迎えに来てくれる。施設では、食事、レクレーションそして入浴などを行い4時過ぎに戻る。介護保険の有り難みを初めて実感した。

デイサービスは昨年9月から始まったが、事前に担当の方が自宅までこられてオリエンテーションを行ってくれた。その際、ボランティア演奏で協力できないかと尋ねたところ、「是非!」との快諾を得て当コンサートの開催に至った。メンバーと相談の上、懐かしの国内外ポピュラーソングを中心にプログラムを組んだ。曲目は、数年前に次男の通っていた小学校の70周年記念行事で演奏した曲と、今回ヴァイオリンを手伝ってくれた次男教えるY先生がお持ちの曲などで構成された。

    Top of the World、浜辺の歌、シューベルトのセレナーデ、ホフマンの舟歌、モーツアルトのロンド(K250)

        ユーモレスク、イパネマの娘、蘇州夜曲、見上げてごらん夜の星を、星に願い、の計10曲 

音楽による人助けとして、老人福祉施設でのボランティア・コンサートを以前から考えていたが、今回初めて実現した。お年寄り達はいろいろと騒がしかったが、懐かしくて思わず歌い出したり、昔を思い出して涙される方々もいらっしゃった。大変喜んでもらえたと思う。

また、コンサートの前後や演奏中に、献身的にお世話をされる若い方々の姿を初めて見る機会となり、心を打たれた。

冬の土曜日、午後1時半に始まった演奏は、高齢者を配慮し休憩を挟んで全1時間で終了した。遣り甲斐を感じつつ、またやりたいものである、と施設を後にした。

         世田谷区立きたざわ苑 苑内新聞「笑顔」H23.2.1号より)

        img1.gif

2011年2月3日

 

 

東京便り14号 ホームコンサートD

今年2回目のホームコンサートをいつものIさん宅で開催したが、私は先月までモーツアルトの協奏曲に掛かりきりだったため、新たな曲を準備する余裕が無く同じ曲を演奏した。先月よりミスは少なくPfもより良いものであったが、残響が少し短くなった。

アンサンブル・ボストンは、来月の老人ホームでの演奏に向け準備中だったため欠席となったが、息子のVnの先生であるYさんとPfのIさんと練習してきたルイエのトリオソナタを演奏。ルイエはフランスバロックの作曲家の一人であり、時のルイ王朝などが好んだ甘美なメロディーの多い曲であった。

今回のゲストは、川崎市の公立中学の音楽担当教師をされているIさんの教え子とその仲間。彼女は音大で作曲を勉強しているが、仲間達も同じ大学で励んでいる。教え子は、詩人金子みすずの詩に自分で作曲した歌曲を、ソプラノと自身の伴奏で演奏。仲間達は、Clやサックスの独奏とサックス・カルテットで、バラエティに富んだ楽しいクリスマス・コンサートとなった。更に、いつも聞き役に徹してきたKさんが、やっと重い腰を上げリュートの演奏を披露してくれた。

演奏会後は、いつものとおり楽しい懇親会が、夜の更けるまで続いた。若者からエネルギーも貰った一日でもあった。

2010年12月12日

 

 

東京便り13号 モーツアルトの協奏曲@

今年の春NY在住の長年の友人であるWさんから MV(モーツアルティアン・フェライン(日本にある会))というモーツアルト愛好会の季刊誌編集の手伝いを頼まれた。私は、モーツアルトについては素人であるし仕事も変わったばかりだったので、最初は丁重にお断りしたが、内容は最終校正と印刷屋への連絡であったのと、自身の音楽の勉強になると思いお引受けした。そうしたところ、「やっぱり会員にならないとね」と言われ会員にもなった。

25年前トロントへ赴任したが、そこで日系信託銀行の駐在員であったWさんと仕事で知合った。WさんはMVの創設者である。モーツアルトを中心に音楽に造詣が深いことから親しくなり、以来交際が続いている。専ら聴く方と書く方で楽器はなされないが、モーツアルトのコレクションは半端ではないし、本も何冊か書かれている。私が10年前のボストン駐在の時には、WさんはすでにNY郊外に住んでおり時々お邪魔した。娘さんはPfやOrgを弾かれ、何度か合わせて貰った事を覚えている。銀行退職後、現在も毎日金融とモーツアルトについて意欲的に執筆しており、余暇には山登りと畑仕事で理想的な生活を送られている。羨ましい限りである。

9月にWさんから連絡が入った。毎年11月に帰国されMVの例会でレクチャーをするが、今年はレクチャーと共に私にモーツアルトの曲を演奏して欲しいとの依頼。練習不足で指が思うように回らないと心配し、とりあえず3つある協奏曲の2楽章とAndanteの4曲を候補に挙げ練習を始めた。従来、モーツアルトについてはフルート四重奏のみ演奏した経験はあるものの、今回はメンバーが揃わず無理なので初めての曲ばかりを選んだ。img4.gif

MVの例会では、耳の肥えた会員方がCDやレクチャーを聴き「XXの演奏は不味い」とか「○○の解釈は嫌い」など辛口の批評が飛び交う場となっており、恐ろしいことを引き受けてしまったと感じながら毎週末練習に励んだ。ところが、練習が進むと指も回ってくるもので、欲が出て一曲仕上げたくなってきた。伴奏のIさんにお願いし、協奏曲の2番 D durを全曲演奏することに決め、熱心に練習に励んだ。

いよいよ本番の11/13がやって来た。会場は御茶ノ水クリスチャンセンターで、30名程の会員が集まり、2時から始まった。先ずWさんのレクチャーが盛況の内にも40分程度で終わり、休憩を挟まず直ぐにこちらの時間となった。上手く吹けないが、珍しいものなのでモーツアルトの時代のフルートであるフルート・トラベルソーで一節ほど吹き説明を加え、演奏となった。ミスもあったものの演奏は、練習した成果か熱の入ったものとなった。聴衆の反応も熱かったので、演奏が反応したことも事実である。耳の肥えた聴衆ではあったが、生演奏と気持で総合的に良い演奏が出来たのではないかと思われる。過分な批評ではあるが、以下Wさんの感想である。

季刊共同編集者の木村好伸さんが「フルート協奏曲」第2番ニ長調K314全曲(!)を演奏、霊感とエネルギーに満ちた演奏に会員はすっかり感動、第1楽章で拍手が起こるくらいでした。特にカデンツァが素晴らしかった。とてもアマチュアとは思えない力量でアンコールにもこたえてくれました。img6.gif

伴奏してくれたIさんも、独奏で幻想曲などを演奏。モーツアルトの公演は初めてだそうで、準備など大変だったと思うが、微妙なタッチを上手く表現しており好評だった。

フルート協奏曲でピアノの伴奏をいただいたIさんは、「ピアノのための幻想曲」ニ短調K397と「ロンド」ニ長調K485を演奏してくれました。Iさんはプロですが、日頃は演奏にうるさい会員たちが素晴らしいとすっかり感動、手が大きいということでしょうか、打鍵が深く、「幻想曲」ファンタジーの左手がダイナミックに響き、この曲はこれほどスケールが大きなものだったのかと驚きました。 

来年11月の例会もWさん担当ですが、早速モーツアルトのフルート協奏曲1番 G dur、Iさんにはピアノ・ソナタのご依頼を頂きました。また、一生懸命練習しなければ。                 


                                                                配布資料「フルートの歴史」                                                             

18世紀半ば頃までのバロック時代には、フルートといえば縦笛(フラウト・ドルチェ(伊)、ブロックフレーテ (独)、リコーダー(英))を指し、現在のフルートの原型となった横笛は「フラウト・トラヴェルソ」(横に吹く笛)と呼ばれ区別されていました。この時代のフラウト・トラヴェルソの多くは木製(主にD管)で、歌口と反対側の先端が細くなった円錐形でトーンホールは6つ、キー付きトーンホールが右手小指に1つというのが一般的でした。穴を直接指でふさいでいたため、トーンホールの大きさが限られ、小さな音量しか出すことができませんでしたが、多様な音色を持ち、繊細で豊かな表現が可能でした。  

この頃はフラウト・トラヴェルソを演奏することは王侯貴族のたしなみと考えられており、特に第3代プロイセン王のフリードリヒ2世(1712-1786)は、フラウト・トラヴェルソの名手だったと伝えられています。(右図:Frederick the Great on the Flute with Carl Philipp Emanuel Bach on the Harpsichord and František Benda on the Violin

18世紀半ばから19世紀前半にあたる古典派の時代になると、フルートの半音階や高音域を実現するためにキーのメカニズムが次第に付け加えられ、最高では17ものキーがついた楽器もありました。しかし、これらは必要に応じて付けられたもので、統一されていたわけではなく、運指も大変複雑でした。このような楽器をバロック時代の1キーフルートと区別して、「クラシカル・フルート」と呼ぶことがあります。

ところが、音楽の大衆化で大きな音量の楽器が望まれる中、ベートーヴェンやモーツァルトなどの音楽家達は、フルートに対してあまり良い楽器のイメージを持っていなかったようです。「フルートは、音量が出ない、音程が悪い」という。  

産業革命でいろいろなものの機械化が進行すると、ミュンヘンのフルート奏者で金細工師でもあったテオバルト・ベーム(1794〜1881)が、 1847年に本格的な楽器の改良に成功しました。金属管を使用して歌口や個々のトーンホールを大きく開け、管を円筒形にしました。これによって正確な音程で大きな音を出すことや、 キーメカニズムにより1本の指で複数のキーを動かすこともできるようになりました(ベーム式メカニズム、C管で16トーンホール、19キー)。この運指システムは、今でも使われています。


2010年11月13日

 

 

東京便り12号 渡り蝶、再び
マーキングされた渡り蝶のアサギマダラが蓼科から放たれた後、2ヶ月後に約300Km離れた大阪府池田市の五月山で捕捉されたのは2年前であった。(東京便り3号「蝶のマーキング」参照)

 

今年も8月半ばの夏休みに、20羽にマーキングをして女神湖近くから放した。10月も終り諦めていたが、11月に入ると嬉しい知らせが届いた。「キカイ島で捉えた」との電話、翌日詳しい内容と写真をお送り頂いた。

「キカイ島」とはどこか?奇怪島?恥ずかしながら知らなかったが、奄美諸島の一部の喜界島であることが分かった。ということは、約1200Kmの旅程である。前回の4倍も飛んだ。以下は喜界島からの便り。img8.gif

昨日はうれしい電話をさせていただきアサギマダラに感謝です。地図で見られたように喜界島は離島中の離島です。よくぞピンポイントを目指してきてくれました。

再捕獲したところは、百之台公園といって島で最も高い(標高200m)でアサギマダラのポイントともなっています。画像をお送りします。豪くんマークと再捕獲場所のほぼ上空で過去の取材時に撮ったものです。ご自由に使って下さい。

キカイマークを追加して飛ばしています。さらに南を目指し思わぬところで見つけられてほしいものです。

これから最終目的地の台湾やフィリピンを目指して飛び続けていくのであろう。今年地球に帰還し話題になったハヤブサと重なった。目的地までは未だ遠いが、何とか無事に到達して欲しいと願った。

 

2010年11月2日

 

 

東京便り11号 小林道夫氏と共演

大学時代フルートを始めた頃、一枚のレコードに感動した。それは、小林道夫のPf伴奏でオーレル・ニコレのFlによるシューベルト作曲のアルぺジョーネ・ソナタであった。後にCD(左図)を再度購入し、現在も愛聴盤となっている。

この曲をいつかは演奏したいと常々考えていたが、2年前の第一回ホームコンサートで実現した。(東京便り2号 ホームコンサート@を参照)このソナタは、本来は当時流行しその後廃れてしまったアルぺジョーネという楽器(右写真)のために書かれたものであるが、メロディーがあまりにも美しいので、現在も音域の近いチェロやヴィオラなどでしばしば演奏される。

今春、会社の元上司の薦めで FSS(フランツ・シューベルト・ソサエティ)に加入した。シューベルト同好会であるが、メンバーにはプロの音楽家もいて年4回程度演奏やレクチャーが催される。img2.gif

毎年9月はメンバーの一人である小林道夫氏が担当し、今年もリートのレクチャーと演奏があった。最後に恒例の小林氏の伴奏で会員は誰でも演奏できる機会があり、早速応募しアルぺジョーネ・ソナタの伴奏をお願いした。

演奏時間は一人10分という制約のため、1楽章を前半の繰り返しを省いて演奏することにして、約1ヶ月前に伴奏譜を小林氏の住む湯布院へお送りした。当日、リハーサルを期待していたが、相手がプロなので叶わず、ぶっつけ本番となった。img3.gif

私が、曲の紹介やエピソードを説明、いよいよ演奏となり、小林氏のPfから静かに始まった。そして、Flの出番となり万感の思いを込めてAの音を出した。リハーサルが無くお互い良く聴きあったため、テンポが遅れ気味となったが、流石に伴奏の第一人者である小林氏のPfはこちらを良く引き立て頂き、緊張したものの、お陰で気持良く演奏ができた。

小林氏は77歳とは思えぬほど、Pf演奏は無論、お話しぶりも大変しっかりしており、誰がどう見ても60代にしか見えないほどの健在ぶりであった。この後、J.S.Bachのゴルトベルク協奏曲を全曲演奏するコンサートを控えていると言う。非常にエネルギッシュな方である。

演奏後2つの贈り物を頂いた。ひとつは、お貸しした伴奏譜に適宜なされた書き込み、もうひとつは、オリジナル・ファクシミリであった。一生の思い出となる演奏と共に、大事に仕舞っておくつもりである。

 

2010年9月25日

 

   

東京便り10号 ホームコンサートC

昨年12月は、Iさんが奉職する中学校の行事が、新型インフルエンザの流行で年末ギリギリまでずれ込んだ。その結果、12月に予定していたホームコンサートが、一旦は翌1月に延期したものの結局都合が合わず中止となり、今回は1年ぶりの開催となった。

今回Pf、Flとアンサンブル・ボストンの定番に加え、ゲストにはIさんの知合いでプロのソプラノとそのご主人を迎えた。

私は、9年前にボストンで演奏した、J.S.Bachのフルートのための無伴奏パルティータ。ボストンでは、200人ぐらい収容できる天井が高く大きな教会で演奏したので、Bachが期待した十分な残響があった。というのは、当時も大伽藍の教会での演奏が想定され、残響と次の音のハーモニーを計算して作曲されたからだ。今回は個人のお宅だったので、残響には不足感があった。半面、一つ一つの音はよりクリアーであった。

アンサンブル・ボストンは直前に大きなハプニングがあった。本番一週間前にVnのKさんが病気でリタイア。曲目を変更するには時間が足りないため、一時中止も考えたが、PfのOさんがVnパートの目立つ箇所を弾くと言われたので本番に臨んだ。曲はテレマン作曲の食卓の音楽ニ短調。何とか聴かせられる音楽が演奏できたと思う。何よりもピアノの頑張りのお陰である。楽器編成が比較的自由なバロック音楽であったことも幸いした。また、この曲でヴィオラダ・ガンバはリコーダーのパートを弾くので超絶技巧が要求されるが、見事に弾きこなした。

ゲストのソプラノは、藤原歌劇団に属する現役のプロ。期待以上のできであった。プロはやっぱり上手い!

さて、そのご主人も出演されたが、Iさんと同じ川崎市の中学で教える音楽の先生。ところが、始まりから雰囲気が違う。クラシックでは無さそうだ。始まるとすぐ分かった。韓流ドラマの主題歌を歌い、しゃべりも入れたなかなかのエンターテーナーであった。音楽の授業はさぞかし楽しいことであろう。

最後に、我が息子はVnで有名なチャールダーシュを演奏。ハーモニックスは未だできなかったが、早い動きも遅れることなく出来た。伴奏のIさんのお陰もあったが、本番が一番良くなった集中力には敬服する。この集中力が勉強に出せたらなあ、などと親の希望が膨らんだ。

 

2010年7月17日

 

 

東京便り9号 インターネットのパワー

インターネットの検索というか、探索能力には目を見張るものがある。

この歳になると、旧知に会ってみたくなるものだ。海外転勤などで年賀状が途絶えたため、消息が分からなくなっている恩師や友人がいる。Googleに名前や知っている情報を入れて検索してみると、思いがけない人の近況、或いは、仕事や活動の情報を見つけることがある。これは最近の成功例。img5.gif

先日、中学の親友W君の名前を入れたところ、都内のある私立高校の校長として現れた。名前だけではなく連絡先が分かり、近影(右の写真)で本人確認までできた。早速葉書を送ったところ連絡を貰い、昨夜は20数年ぶりに会うことができ、昔話に花を咲かせた。(左の写真は19歳頃、右にいるのがW君

共に通ったのは、墨田区立両国中学校。越境入学のため月島行きの都電で通った。隣は日大一高、裏は「ヤッチャ場」と呼ばれた青果市場、現在大江戸博物館になっているところ。放課後は、正門前の震災慰霊堂のある横網公園で鳩を追い掛け回したり、近くの安田庭園でクチボソ釣りなど楽しんだ。地元に多いメリヤス製造を営む同級生の家にお邪魔することもあった。一学年10クラスと生徒数の多いマンモス中学だったが、土地柄相撲さんが各クラスに2名、計20名いた。(当時は中学生から入門できた) そのうち関取(十両以上)になったのは1割程度だが、その一人が昭和の大横綱となる北の湖関だった。自慢じゃないが相撲をとったこともあった。今は絶対にいない、すぐに手の出る怖い怖い中村力先生、、、、、、、等々

あっという間に時が過ぎてしまった。今後はいつでも会える安心感がある。「次は他の友人も呼んでやろう」と言って別れた。

以前、逆のケースもあった。私のプロフィールに載せた高校時代の恩師の名前を、娘さんがネットで見つけメールを頂いた。結果30数年ぶりに先生にお会いできた。

インターネットが無かりせば、恩師や親友との再会はなかっただろう。 


2010年2月4日
 

東京便り8号 10年前、20年前、、、は?

1989年11月にベルリンの壁が崩壊した。ポーランドの自由化に続きベルリンの壁崩壊となったが、その後全東ヨーロッパに波及、2年後にはバルト三国の独立そして共産主義の総本山であったソ連自身まで崩壊、ついに東西冷戦が終結した。20周年となった今年は、ベルリンで「壁崩壊記念日(11/9)」のイベントや、父ブッシュ、ゴルバチョフ、コールの3人の再会など記念行事が行われたそうだ。

東西冷戦の終結が、各国の防衛費の削減や科学者の金融分野への進出などを引き起こし、その後の世界規模の経済の発展などに寄与したわけだが、この20世紀の大イベントが起こった時、私はたまたまチューリッヒに住まい、直後のベルリンと東ドイツの主要都市であったライプチヒを訪ねる機会にも恵まれたので、感慨もひとしおである。そこで、自分史について10年単位で振り返ってみた。

10年前:1999年11月 (在ボストン)1999.JPG

米国の投資顧問会社に出向して2年目となり、漸く現地のビジネス慣行やテンポの早い英語にも慣れてきた頃。Japan Societyの役員にもなり日米の文化交流のお手伝いも始めた。一方私生活では、一家でボストンの北30数キロの郊外の一軒家に住み、次男は保育園で一日中英語で遊び、妻は日本人の友達も出来るなど生活をエンジョイするまでになった。また、アンサンブル・ボストンの結成に繋がる初代バイオリニストと知合い、合奏を始めた頃であった。(下記ボストン便り(1999年11月)参照)

世の中の主な出来事としては、 ユーロが銀行間取り引きなどの通貨として導入され、自自連立による小渕改造内閣、そしてITの2000年問題を直前に控え世界中が戦々恐々としていた。

 

20年前:1989年11月 (在チューリッヒ)

その年の9月まで、私は米国のある投資銀行のニューヨーク本社に研修派遣されていたが、10月から半年の予定で今度はスイスの大手銀行へ研修派遣された。会社の規約で1年未満は家族帯同が出来ないので、一旦家族を東京に返しすぐに単身でチューリヒのアパートに移った。スイスでは、チューリッヒで投資顧問業、国際決済銀行(BIS)のあるバーゼルの本店で外国為替を学んだ。スイスの自然は、夏季の方がずっと穏やかだと思うが、それでもクリスマス休暇には家族が東京から来て一緒に観光を楽しんだ。

海外では、ベルリンの壁崩壊に加えソ連のアフガニスタン撤退や天安門事件などがあった。天安門事件は6月に起こったが、同じ会社に勤める同期入社の友人が丁度その頃北京に駐在していたので安否が心配だった。当時私の住んでいたニューヨークでは、フジテレビのイブニングニュースが、時差の関係で出勤前にリアルタイムで放映されていた。ある日のこと、無事帰ってきた日本人の1人として成田空港でインタビューを受けている彼の姿が現れた。血色も良く元気だったので、ほっと胸を撫で下ろしたことを記憶している。彼は、現在札幌で元気に活躍している。日本では、昭和天皇崩御で元号が「平成」に変わり、株価が史上最高値に届くなどバブル経済の絶頂期であった。

30年前:1979年11月 (在大阪)1979.JPG

大学卒業後、現在の会社に就職して2年目だったが、仕事はシステム部門のOS(オペレーティング・システム)の維持管理であった。大きなCPU(中央演算機)、ハードディスク、テープユニットの詰まった広くて暗い機械室でのオペレーションや、アセンブラーという機械語による難しいプログラミングと無我夢中で格闘していた頃であった。当時は、未だ独身で枚方市の寮に入っていたが、二人部屋だったので週末は一人になりたくてしばしば京都を散策していた。

世の中では何があったのだろう。海外では、米中の国交回復、ソ連のアフガニスタン侵攻開始、イラン革命、韓国の朴正煕大統領暗殺そしてサッチャーが先進国で初の女性首相となった。国内は、国公立大学共通一次試験実施、ウォークマン発売(早速買った)、三菱銀行北畠支店での猟銃事件など。

  

40年前:1969年11月 (在東京)1969.JPG

都立高校の1年生。第一志望校に落ち都立には合格したものの、2年前から始まった東京都の学校群制度により、一番行きたくなかった元女子高が割り当てられた。勉学意欲が相当落ちていた中、課外活動には「器楽部」という名のブラスバンド部を選んだ。トランペットを手にしてからは少しずつ音大受験を考え始めていった。ジャズピアニストであった叔父の知り合いの芸大の宅孝二先生にお願いしてもらい、弟子の霧生トシ子さんの夫のN響の主席奏者北村源三氏を紹介して頂いた。

 この年アポロ11号が人類初の月面有人着陸を成功させ、歴史上に大きな足跡を残した。国内では、学生運動がヒートアップし東大安田講堂攻防戦、美濃部都知事の公営ギャンブル廃止、 八幡製鉄と富士製鉄の合併による新日本製鐵誕生、東名高速道路の全線開通、甲子園での三沢高校と松山商の2日に亘る死闘などがあった。

  

50年前:1959年11月 (在東京)1959.JPG

保育園の年長クラス。翌年曳舟小学校に入学したが、クラス担任は生徒から人気のあった山口先生。先生の住所は今でも憶えている。北区滝野川2丁目25番地。残念ながら、翌年は担任が不人気の先生に替わり、山口先生は他校に転勤となった。この年から、向島小学塾にも通い始める。受験が目的ではなく、レッドパージで追放されたラディカルな熱血先生による自然科学が中心。素晴らしい体験をさせて頂いた。しばしば、教室から出て、昆虫採集、植物採集、化石の発掘などを体験、今でもよく思い出す。江戸っ子四代目である私には田舎が無く自然に飢えていたので、砂に滲みこむ水のごとく吸収した。山口先生はご健在なら80歳前後、塾の先生は残念ながら既に他界されている。

キューバ革命、週刊少年マガジンと少年サンデーの同時創刊、天覧試合で長嶋が村山からさよならホームランを打ち、伊勢湾台風で5000人以上の死者、第1回日本レコード大賞に水原弘の「黒い花びら」。小澤征爾が音楽武者修行の旅へ神戸港から出発した年でもあった。

 

2009年11月28日

東京便り7号 ホームコンサートB
7月18日の土曜日の午後、いつものIさん宅で「サマー・コンサート」を開催した。プログラム

【息子の新バイオリン、デビュー】

息子の身長がようやく145cmを超えた。バイオリP7180010.JPGン奏者にとって145cmは重要である。フルサイズの楽器が使えるようになるからだ。楽器の鳴りは、当然本来の大きさが一番。4歳で始めた時は、ダンボール製のペーパー・バイオリンが与えられ、以来 12分の1、10分の1、8分の1、4分の1、2分の1、4分の3、と身体の成長と共にサイズアップしてきた。10分の1はボストン市ニュートンにある Johnson String Instrumentで購入したものの、全てのサイズを買い揃えるのは経済的負担が大きいので、それ以外は教師や生徒のお古をお借りして使用してきた。

フルサイズはこれから一生使えるので、先月家族で楽器屋を回り、大枚を叩いて息子の気に入った1840年頃のフランス製バイオリンを買った。(私は通常ケチだが、楽器には甘い!)バイオリンの購入までの顛末は、売ってくれたお店のホームページに、多少営業用に脚色された記述があるので、ご参照あれ。⇒ バイオリン購入

今回の演奏は、有名なモーツアルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークの4楽章をピアノ伴奏で演奏。楽器が良くなったからと言って、直ぐに上手く演奏出来るわけではないが、楽器の音色の良さに気づかれた方も数名いらした。今後、もっと練習して楽器に相応しい音楽を演奏できるように、と願うばかりである。早く、対等に合奏したいものだ。

【難曲プーランクに再挑戦】

この曲は、2001年の2月に1度挑戦し大変不満足な出来であった。力んでしまい、特に高音域での早い動きの多い3楽章は惨敗状態だった。(以前の日記「ホームコンサート」参照) 今回はそのリベンジとなるが、特にこの2年間「如何に力を抜いて吹くか」を心掛けてきた成果が徐々に出てきたので、このタイミングとなった。

フルートとピアノは対等であるため、ピアノも極めて難しいソナタであるが、Iさんの伴奏で前回より良く演奏ができた。80点位の出来栄えだったと思う。P7180025.JPG

プーランク作曲フルートソナタ: 今世紀最高のフルート・ソナタと言われ、ドビッシーの曲に触発され1957年に作曲された。第2次大戦後の作曲にしてはオーソドックスな内容であるが、楽章ごとの変化が激しく構成が難しい。第1楽章は個性的なアフタクトの16分音符から始まるモチーフにより、これから始まる不安な心理状況を暗示する。第2楽章は極めて情緒豊かでアンニュイなメロディー。メロディスト、プーランクのおそらく最上に美しいカンティレーナ。第3楽章は一変して3オクターブ目の高音での速い動き(この運指が難しい)が多い軽快でエスプリ溢れる曲である。

【ガンバが戻ってきた】 

アンサンブル・ボストンには、今回からTさんのビオラ・ダ・ガンバ(以下ガンバ)が戻り、低音部が拡充された。2002年から2003年の2年間Tさんは入っていたが、その後私のフィリピン転勤でアンサンブルは中断。私が帰国したら、今度はTさんが上海へ転勤していた。Tさんのガンバはその間に壊れてしまったので、今般新品を購入し、6年ぶりに当アンサンブルに復帰した。IMG_2890.JPG

Tさんは、私と同じ会社に勤めており、若い頃も合奏したことがあった。元々ギターから古楽器に移り、ガンバ、リコーダーなど演奏している。ルネサンスからバロック時代の音楽については、相当造詣が深いので、バロックを中心とした当アンサンブルでは、ブレーン的存在。P7180030.JPG

今回は、ヘンデルのトリオ・ソナタを演奏。通常A=435程度でチューニングしているガンバには、現代楽器のA=442に無理して合わせてもらった。ガンバの弦は7本あるが、何れも本物のガット(羊の腸)を使用しているため温度や湿度の変化に敏感で、時には楽章ごとにチューニングが必要となる。以前、真冬に教会で演奏をした際、室温の上昇と共に音程が大きく狂い困ったことがあったが、今回はそういうことは起こらず比較的スムーズに演奏できた。

折角なので、Tさんにはガンバの独奏曲も演奏してもらった。息子にバイオリンを教えていただいているY先生の演奏、Iさんのピアノ独奏もあり、いつもの様に演奏前のおしゃべりや演奏後の懇親会と、楽しい夏の1日となった。IMG_2886.JPG

P7180026.JPG

【我が家が取り持った再会】

Y先生は、その昔Iさんの通った中学の音楽科教諭だった。

我が家とY先生は、隣人の紹介で7年前から息子にレッスンをしていただくようになったご縁。一方、Iさんは、奥様が私と同じ会社に勤めている関係で昨年ご紹介頂いた。

昨年12月、Iさん宅でのホームコンサートに息子が出るのでY先生が聴きに来られた際、Iさんと20数年ぶりに偶然再会した。(最初は、Y先生の名字が変わっていたので、気づかず) そこで、今回はY先生も演奏に参加することになった。

 

2009年10月17日

東京便り6号 マクサンス・ラリュー公開レッスン
ある楽器店主催による、世界的フルーティストとして名高い、フランスのマクサンス・ラリューの公開マスタークラスレッスンを聴講した。

フレンチ・フルート奏法の伝統を保ちランパルと双璧といわれたラリューは、今年75歳を迎える。約5時間に亘り5名の音大生或いは卒業生(例外は中学生の新村理々愛さん)のレッスンを行った。聴くほうも大変だが、教えるほうも大変なはず。しばしば見本を吹いて見せたが、往年と変わらない音とテクニックに感動した。全体にまろやかで輝きのある音、特に高音のppは艶のある美しい音だ。photo

レッスンの内容で、印象に残ったコメントを書いてみる。

【基本】

   ・曲の練習と同じ分量でテクニックの練習が必要

   ・練習曲は、いろいろなものをやってみること

   ・オクターブ→半音→倍音の順で練習

   ・ブレスのお腹の支え、身体のリラックス、音の響きを常に意識して練習

   ・ブレス:曲を壊さないため目立たぬ様身体の上部に空気を溜め小刻みに吸い込む

         きちんと空気が吸い込まれていない事があるので要注意

               ブレス前の音は短く切らないよう意識して長く伸ばす

   ・タンギング:同じ音で、四分音符、八分音符、十六分音符で練習

                     ベートーベンの交響曲第七番の「6/8のタッタター」の要領での練習は効果的

                      タンギングは練習すれば効果が必ず現れる

    ・音:力で押さない。上唇に力が入りすぎると音が硬くなる 

    ・取組み中の曲と同じ調で練習

【演奏】

    ・解釈に確信を持って演奏する

    ・静かな曲は、始めからストーリーを見せない

    ・音の響きを止めない。流れるように

    ・フレージングが重要。日本人は弱い

    ・区切りは聴き手に伝わり難いのでハッキリと

【その他】

   ・印象派から近代のフランス人作曲家(ドビュッシー、プーランク、イベール、ジョリベ等)の速度指示はいい加減

   ・フレンチ式、ドイツ式、英国式などの奏法の伝統は、今や無くなり違いは師事した先生

   ・最後は好みの世界。ランパルはドイツで人気がない。一方ドイツで人気のあるニコレはフランスでは不人気

レッスンの5時間は、一気に終わってしまった。それだけ熱中できたからであろう。あと、何回日本に来れるか分からないが、この高齢の名人の音や考えを生で聞けたことは、この上ない幸せであった。 

2009年5月10日 23時00分0秒

東京便り5号 懐かしの写真
orchestra.jpg 毎年GWは家族で立科に行くが、次男が今春からサッカーのクラブチームに入り試合や練習があったため、今年は1人で行き、笛の練習、散策、読書、温泉と気ままに過ごした。

ところで、蓼科の家のリビングルームには懐かしい大学時代のオーケストラの写真が掛けてある。 1975年12月の定期演奏会の模様で、曲目はベートーベンの交響曲第九番「合唱付き」。

歌のソリストや合唱団が起立しているので、4楽章の場面であることが分かる。残念ながら録音(LPレコード)を無くしてしまったので、どんな演奏か振り返ることは出来ないが、フルートのソロで目立つところが少ないので最初は乗り気でなかったものの、3楽章のアンサンブルの美しさ、そして4楽章フィナーレに圧倒されたことを今でも鮮明に憶えている。

また、当時のエピソードとしては、私が運営委員長をしてたので良く憶えているが、合唱パートは学内(混声合唱団、グリークラブ)だけでは足らず、学校周辺の同好会も募ったこと。ステージに並ぶ時、同好会のオバタリアン(失礼?)達が最前列を強引に陣取ったことがあった。

爾来、第九は交響曲の中で最も好きなもののひとつとなっている。

2009年5月9日 20時00分0秒

 

東京便り4号 ホームコンサートA
12月21日の日曜日の午後、前回と同じIさん宅で「クリスマス・コンサート」を開催した。go20081221.JPG

audience1.JPG息子のバイオリンは今回がデビュー。本人の希望で、ヴィヴァルディの四季より「夏」の第一楽章を演奏した。息子が4歳になった頃、我が家は仕事の関係でボストン郊外に住んでいた。ある日曜日、近くの教会で「Musical Instruments Petting」という催し物があり、息子はそこでいろいろな楽器に触れてみた。それがきっかけとなり、息子の希望で始めたのがバイオリン。かれこれ8年のキャリアとなった。

日々の練習は、15分程度。興が乗っても30分位と短いが、ほぼ毎日続けてきたので、曲りなりにも四季が弾けるようになったのは驚きである。演奏では、細かい動きや音程の不完全な部分が多々あったものの、早いパッセージをこなしヴィブラートもそれなりにかけていた。伴奏のI氏のお陰もあり、途中止まらず最後までしっかり弾けた。これを聴いたバイオリンをやる方からは、「四季の『夏』を選ぶとは玄人好みの渋い選曲だ」とのコメントも頂いた。audience2.JPG

yoshi20081221.JPGボストン・アンサンブルはメンバーの都合が付かなかったため、私の演奏は今回I氏とのデュオのみで、@タイスの瞑想曲、Aドビッシーの小組曲より「小舟にて」、BJSバッハのフルート・ソナタ変ホ長調を演奏した。前回よりは練習ができていたため、ある程度余裕を持ち全体の流れが良くなったと思う。I氏は、現在印象派を得意とする青柳いづみこ氏に指導を受けており、ドビッシーについても有益なヒントを頂いた。misao.JPG

ご一緒させて頂いた他の出演者でソプラノのM氏は、公立中学校の校長を勤め上げ、現在は音楽大学で後進の指導にあたられている。余分な力の抜けた良い声を出され、その結果特に高音は豊かに良く響いていた。私も今春寺本義明氏(東京都交響楽団)のレッスンを受けた際、力を抜く重要性を教えらた。以来課題として常に意識しながら練習した結果、ある程度成果が出てきた。演奏はスポーツと同じで、余計な力を抜けば抜くほど力が効率的に働き、遠くまで届く良い音を出すことができる。M氏の声を聞き再認識した。

前回と同様に、演奏前のおしゃべりや演奏後の懇親会で、楽しいクリスマス・デーとなった。

2008年12月29日 12時00分0秒

東京便り3号 蝶のマーキング
今年の盆休みは、例年通り蓼科で過ごしたが、昼間は息子と蝶の採取を楽しんだ。asagi1.JPG

息子は、捕まえた蝶を展翅台に貼り付け標本にするのだが、アサギマダラという種類は、大変丈夫で長旅をするいわゆる渡り蝶≠ネので、標本とは別に羽にマーキングをして放した。アサギマダラは浅黄色が主色で 斑模様があることから、その名が付いたそうだが、春は南(沖縄・九州など)から北上し、秋には北(本州北中部など)から南下する。体の特徴は、アゲハ蝶ぐらいの大きさ、りんぷん(鱗片)が少なく、羽が丈夫。捕獲したアサギマダラの羽に、油性マジックでマーキング(今回は自宅の電話番号を記入)をして、放蝶する。それを、捕らえた人が羽に書いてある電話番号に気づいて連絡してくれたら、どのくらいの距離をどのくらいの時間で移動したかが分かる。今回は、10羽にマーキングし8月15日に蓼科山の中腹、標高1600mの女神湖付近から放した。

10月のある日、私は出張先からいつもの様に家族に電話を掛けた。すると、息子が興奮した様子で、「留守電に夏に放したアサギマダラを捕まえた人から連絡が入っていた」と知らせてくれた。マーキングの放蝶は今年が初めてではなかったが、従来連絡を受けたことは一度も無かったので驚いた。

後日、次のメールが届いた。

asagi.JPGはじめまして。池田・人と自然の会です。夏休みに信州でマーキングしたアサギマダラがはるばると大阪府池田市までやってきて当会の会員さんに捕獲されました。おめでとうございます。大阪市立自然史博物館のアサギマダラの渡りを調べる会のMLに載った内容を転送します。

大阪府池田市五月山で捕獲したアサギマダラに電話番号が記入されていました。東京の電話番号でしたが、問い合わせた結果、小学6年生の子供さんが信州でマーキングしたものということが確認できましたので移動情報にまとめます。

標識:03 3467 XXXX、標識日時: 2008年8月15日 午前、標識者:木村  (東京都世田谷区在住)、標識地: 長野県北佐久郡立科町芦田八ヶ野蓼科山、標高: 1600m、性別: ♂、備考: 10頭にマーク、個体識別番号はなし、天気: 晴れasagimap.JPG

再捕獲地: 大阪府池田市五月山市民の森、標高: 260m、N 34度50分06秒 E 135度26分12秒、再捕獲日時: 2008年10月19日 14時30分、再捕獲者: M氏、前翅長: 52mm、状態: 鮮度O 破損あり 飛翔中、撮影後再放蝶、天気: 晴れ    

 あんな小さな身体で、蓼科から大阪まで約300Kmを65日で飛んだことになる。羽の一部破損は天敵の鳥に食べられそうになったのかもしれない。よくぞ大阪まで飛んだものだ。渡り蝶の行動は聞いてはいたものの、身近に起こったことで、生命と本能の素晴らしさと不可思議を実感、感動した。今頃は、何処かの南の島で羽を休めているのかな。

アサギマダラよ、頑張って目的地まで辿り着け!GOOD LUCK!!

2008年10月30日 12時00分0秒

東京便り2号 ホームコンサート@
「トロントにいらした木村さんですか?」

ある日、仕事の関係で他部門の女性主任から電話を頂いたが、第一声がこの言葉だった。「もしかして、国際業務にいたOさん?あ、ご結婚されてIさんになったんだね」 20年ほど前に海外事務所のお世話をしていただいた方だったことを思い出した。「ところで、ご主人はピアニストだよね」

それをきっかけに、ご主人が仲間とご自宅で定期的に行っているホームコンサートへの出演依頼を頂いた。

Iさん宅は、拙宅から小田急線で3つ目の駅を降りた閑静な住宅街にある一戸建。リハーサルのため初めてお邪魔した時、普通の家と若干違うことに気が付いた。敷地は平均的な広さだが、白い外壁と特注の窓枠は、アイゼナハにあるJ.S.バッハの生家を模したそうだ。1階は玄関と洗面所以外は床張りの1部屋のみで、その奥には家庭用にしては大きなセミ・コンサートタイプのヤマハ・ピアノが鎮座していた。生活空間は2階に集約されている。コンサートはこの1階で催された。IMG.jpg

7月の穏やかな日曜日の午後、出演者の家族や知り合いなど約30名の方々に集まって頂き、ホームコンサートの本番を迎えた。私はI氏のピアノ伴奏でシューベルトのアルぺジョーネ・ソナタ、そしてアンサンブル・ボストンでJ.S.バッハの音楽の捧げ物からトリオ・ソナタを演奏した。他には、I氏のピアノ独奏や彼の友人によるモーツアルトのホルン協奏曲などが演奏された。

I氏は、小林道夫氏の薫陶を受けたが、アルぺジョーネソナタのピアノの出だしがオーレル・ニコレと小林道夫による同曲のCDを彷彿とさせるものだった。私は、練習不足で細かいミスがあったものの、I氏のお陰で良い演奏が出来たと思う。全楽章25分間の演奏も、我が人生の最長不倒記録である。また、トリオ・ソナタは、アンサンブル・ボストンが結成された10年前から時々合わせていたので、「非常によく合っていた」との感想を頂いた。

ホームコンサートは、物心両面で聴衆との距離が近く、演奏前の解説やユーモアのあるエピソードなども入るアットホームな雰囲気の中で演奏ができるので大変楽しい。演奏後は、聴衆も交えた軽食やワインのある懇親会で、至福の時が流れていった。

2008年7月29日 12時00分0秒

東京便り1号(フィリピン便り10号) 眞さんへのレクイエム
突然の訃報でした。

秋分の日の代休となった静かな月曜日の朝、寝覚めにメールを開けたところ、マニラグリークラブのメンバーから知らせが入っていました。
「悲しいお知らせですが、昨日、マニラ・エックスプレスのメンバー(ベース)であった眞さんが、心臓発作にてお亡くなりになりました。一昨日も同バンドの練習に元気に参加されていたと伺っておりますので、本当に突然の出来事でした」

眠気が一気に覚め、詳しいことを当バンドのメンバーに尋ねてみました。
「日曜日、朝マクドナルドで家族と食べた後、ちょっと胸が苦しいな、ということで薬を飲んだらしいです。その後、楽になったので、ギターで作曲をしているときにそのまま逝去されたそうです。眞さんらしい死に方だなと思ってしまいました。僕もあまりにも突然でなにも考えられない、というのが本音です。しかし、眞さんの優しい笑顔が頭から離れず、今にも「今夜も早いね。」と声をかけてくれてそうな気がしてなりません。困りました。音楽での精神的な支えが無くなった感じがします」と言うのが、返事でした。

眞さんは、ご家族について以前こんなことを私に話したことがありました。
「フィリピン人の妻と結婚して20年余り、3人の息子に恵まれ、可愛い孫も一人いる。自分はベーシスト、妻はダンサーとして六本木の同じクラブで働いていたのが馴れ初め。その後フィリピンに渡り、以来幸せな家庭を築き上げた」と嬉しそうに言ったことが思い出されます。
ご遺族にはご主人の突然の死を受け入れるには余りにも急過ぎて、未だ心の準備が出来ていないことと思います。

私と眞さんとは、2005年の5月にマニラグリークラブがマニラ・エックスプレスと初めてジョイントで開催した「ほろ酔いコンサート」で知り合いました。その際、グリーの余興でメンバーと私のフルートでイパネマの娘を演奏しましたが、コンサート終了後眞さんからマニラ・エックスプレスに誘われたのが、一緒にバンド活動を始めたきっかけでした。眞さんは元々プロのベーシストでしたので、彼から学んだことはたくさんありました。フレージング、間奏や副旋律のつけ方等々・・・・・・。でも、彼がいつまで経っても本番ではあがり性だったことも記憶してます。

今年の5月19日に、3回目となる「ほろ酔いコンサート」を行いました。私が翌月に帰国したこともあり、それが一緒に行った最後のコンサートになってしまいました。マニラ・エックスプレスでは4曲披露しましたが、内3曲が眞さんの作品で、ロマンチックなラブソングから駐在員の生活をコミカルに描いたものまで幅広く、非常に才能豊かな方だったと思います。

一方、実験的に行ったジャズバンド(詳しくはフィリピン便り9号を参照ください)では、手探りの中彼からたくさんのアドバイスやアイデアを頂き、皆初めてにしては良い演奏であったし、アドリブを楽しむことも出来ました。

私はポピュラーやジャズについてど素人でしたが、眞さんから学んだことは決して少なくなかったと思います。今後、そういったジャンルの曲を演奏する際は、いつでもきっと眞さんの事を思い出し、また彼の分まで頑張り楽しみたいと思います。

眞さん、マリキナ市(フィリピン)、享年51歳
合掌
2007年9月29日 12時00分0秒

フィリピン便り9号 ジャズに初挑戦 
私は仕事柄転勤が多いため、新任地に赴任するとその都度アンサンブルを一緒にやってくれる仲間を見つけてきました。楽器の組合せはまちまちで、取組む曲はその楽器編成に左右されます。例えば、ある時はバイオリン、ビオラ、チェロとの組合せでフルート四重奏であったり、時にはバイオリン、チェロ、ピアノでトリオ・ソナタであったりしました。また、どうしても見つからなかった時は、カラオケCD(マイナス・ワン)を相手に合わせるという時もありました。

今回は、幸いにもグリークラブのメンバーにアルト・サックス、トロンボーンとドラム、別にピアノとエレキ・ベースの奏者も見つかりました。私からジャズを持ち掛けたところ、皆ほとんど経験の無い者ばかりでしたがやってみようということになりました。私自身音楽に関しては、ジャンルに拘わらず良いものは良いし、ジャンルの異なる音楽同士が刺激しあってそれぞれが高まる、と考えています。また、プロの演奏家でも、バッハをジャズにしたジャック・ルーシェや、クラシックとジャズ双方の世界で有名な演奏家としては、古くはクラリネットのベニー・グッドマンや現在ではトランペットのウィンストン・マルサリス等がいます。

幸いにも、発表の機会がすぐにやってきました。グリークラブが毎年ホテルのレストランで開催しているコンサートに、ジョインできることになったのです。15分の持ち時間があるので、@イパネマの娘、A虹の彼方に、BA列車で行こう、の3曲を選びました。ところが、練習を始めてすぐに難しい問題に直面しました。それは、アドリブです。メンバーは、クラシックで楽譜に書いてあることのみを演奏してきた者や、アドリブと言えばロックの経験しかない者ばかりでしたので困りました。ジャズからアドリブを除いたら、(少し古いですが)クリープのないコーヒーのようなものですから、何としてもやらなくてはなりません。

とにかくやってみようと言うことで、練習は暗中模索、孤軍奮闘の中でスタートしました。当初アドリブは旋律を少し変えた程度でしたが、回を重ねるごとに徐々にそれらしくなってきました。私も車の中でプロのアドリブを繰り返し聴きました。プロの足元にも及びませんが、段々とそれなりの形になってきたと思います。また、アドリブが入る場合演奏の順序や長さを間違えないよう気をつけることが肝要ですが、練習で確認しても次回ではよく忘れたり間違えたりしました。そこで、それを防ぐため、「演奏マップ」なるものを考案し活用しました。(以下は一例(A列車で行こう))

回数 イントロ A A' B A'
1 Pf, Dr 4 All All All All
2 - Pf Ad Pf Ad All All
3 - Tb Ad Fl Ad    
4 - Sx Ad Gb Ad All All
Coda - 前1 3回 Dr Ad 後3 All  


本番は、大したミスもなく、お客さんにはそれなりに喜んでもらい、演奏者達も大いに楽しめました。第1回目にしては満足のいくものだったと思いました。クラッシックのコンサートとの違いにも気づきました。先ず第一に、お客さんも含め、良くスウィングすることが出来て身体も自然に動きました。次に、マイク、アンプ、スピーカー等の機材を使用し、ミキサーの調整もあったため、音のバランスが取れかつお腹に響くような迫力も感じました。また、当初苦しんだアドリブもステージでは楽しむことが出来ました。

今回はジャズ初挑戦でしたが、これで音楽の楽しみが演奏面でも鑑賞面でも更に広がりました。今後は、メンバーと共にジャズ演奏に更に磨きを掛けて行こうと思いますし、クラシックの演奏でもこの経験を活かせたらと願っております。
2007年6月10日 19時00分0秒

フィリピン便り8号 社 歌 “Smile ‘Til Tomorrow Comes”
フィリピンに赴任してから約3年が経ちましたが、赴任当初、従業員や保険営業エージェントの一体感を高めたり社是を憶えてもらうことなどを目的に、社歌製作を計画しました。そこで、作る段階から皆に参加者意識を持ってもらう一方低コストで済まそうと、歌詞に社是を盛込むことを条件に公募することにしました。

フィリピン人は元来音楽や踊りが好きなので、予想通り従業員達の合作やら、エージェントの知合いなどから、数曲の応募がありました。何れもアメリカン・ポップスのような聴きやすい曲で、歌詞もしっかりしており良く出来ていましたので、選考は容易ではなくフィリピン人は音楽の天才かと思いました。最終的には憶えやすく歌いやすいものという観点から選びました。選ばれた歌の作者を表彰する時、従業員の隣人という女性が子連れ現れましたが、作ったのはお子さんの方で、なんと僅か14歳の可憐な女子高校生(当地は小学校6年の後4年制の高校へ進学する)でした。歌詞は多少修正しましたが良く出来ていました。

その後、プロのアレンジャーにオーケストレーションを依頼、シンセサイザーに私のフルートを加え、従業員の妹(写真、プロ歌手)に吹き込んでもらいました。録音にはプロ用のスタジオを使用しましたが、コンピューターを用いて部分々々でやり直しが出来ることを発見し、テクノロジーの発達に驚嘆しました。伴奏の録音が終わった後、歌手からキーを下げてと言われ、難なく2度下げて収録が行われたことも驚きでした。

完成した社歌は、結局編曲以外は全て手作りでしたが、イベント時歌われたり始業時間などにオフィスで流れたりと大いに活躍しています。日本の本社社歌(これは相当古く、50年代に大作曲家の古関裕爾に依頼、作詞は従業員)の歌詞は「くる朝ごとに〜」と始まりますが、偶然にも当社の社歌も「Every Morning 〜」で始まります。ここからお聞き下さい。 社歌 “Smile ‘Til Tomorrow Comes”

I
Every Morning when we see the sun shining bright
Today has come to see our dreams come to life
A new world is here for you and me as a family
Feeling good and inspiringly
Security is a reality and a reason to every smile

Refrain 1:
In Nippon Life hand in hand
What we promise we keep for you
What we commit we will surely do
See you smile when tomorrow comes
True, sincere and dependable
Nothing can be more secure
Refrain 2:
In Nippon Life we are one
In making your dreams come true
Where your future is what matters
Where there’s radiance in your smile
You can trust, you can depend on us
With Nippon Life … of the Philippines

II
Everyday will always be a better day
Our care will take the uncertainty away
Nippon Life is here where you and I can build a dream
Serving with a heart and built to last
Assurance of our peaceful thoughts is the reason
To every smile

(Refrain 1 and 2)


2007年2月15日 19時00分0秒

フィリピン便り7号 マニラ・グリー・クラブ
昨年3月よりマニラ・グリー・クラブに入り、毎週土曜日ゴルフの後練習に参加しています。歌うのは特に好きというわけではありませんでしたが、始めてみると、そのハーモニーやその後の飲み会にはまっています。また、歌を聴く興味も増し、オペラなどに接する時間も増えてきました。以下は、日本人会報掲載用に書いたクラブの紹介文です。

初めにやや堅い話ですが、歌には、癒しや元気付け、或いは共同作業での調子合わせなど、腹の足しにはなりませんが、人類にとって大きな効用があると言われています。(9月に終了しましたが、NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」でも、主人公が戦時中周囲の抵抗を受けながらも似たようなせりふを言ったかと思います)我がクラブのメンバーも、一週間の疲労回復、共同作業の喜びとそれに伴う心の交流、そして上達感や達成感を求め、毎週集まってくるのです。

グリー(Glee)とは英語ですが、古期英語の「冗談、ふざけ」が「大喜び、上機嫌、歓喜」となり、それが転じて男声合唱団を意味する言葉となりました。家族を守るために戦っている男達が、グリーで冗談を言い、歌い、喜ぶことによって明日への鋭気を養う、そんなことから命名されたのでしょう。

ところでグリー・クラブのメンバーは多種多様。合唱や楽器演奏など長年音楽に親しんできた人もいますが、多くは合唱が初めて。日本人学校の熱血先生、第二の人生を楽しんでいる悠々自適の方、練習後の懇親会で毎回上質のおつまみを持ち寄りダ洒落連発の元落研の現法社長、これまた元落研と紛うぐらいに面白い公務員、のろけか亭主腕白か発言が気になる新婚さん。グリーの語源「冗談、ふざけ」や「大喜び、上機嫌、歓喜」が良く似合う、面白くて楽しい、和気藹々の集団、これがマニラ・グリー・クラブなのです。

もちろん、毎回、身体のストレッチ、呼吸法、音符の読み方、音程の取り方などを行った上で曲を練習します。事前にパート別音源もメール配信しますので、誰でも着実に上達し、それにつれ合唱の喜びが増してきます。その後の懇親会は、先述のとおり、和気藹々の仲間と極上のお酒が味わえること請け合いです。楽しすぎて深酒をしてしまい、翌日のゴルフに響くことはよくありますが。


2006年10月9日 19時00分0秒

フィリピン便り6号 映画「アマデウス」〜目黒のさんま的モーツアルトの味わい
私は東京の下町、向島で代代続いた鳶職の家に生まれ育った。そこには、3月10日の東京大空襲でも奇跡的に焼け残った古い家並みが見られ、代代住む人々の生活の中からは、普段から長唄、木遣り、都々逸、お囃し、日本舞踊、民謡等歌舞音曲が聞こえてきた。江戸情緒の色濃く残るところであった。

ところが、子供の頃は隣の芝生が青く見えるのが人の常。私も伝統文化への反発からか次第に西洋音楽に傾倒していった。小学校で一番好きだった科目は音楽で、音楽史を学び多くの作品を熱心に鑑賞した。「音楽の父バッハ」、「音楽の母ヘンデル」、「交響曲の父ハイドン」、そして次に「神童モーツアルト」となる。モーツアルトの音楽では弦楽合奏曲のアイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(小夜曲)を聴いた。これが、モーツアルトとの出会いであった。綺麗な曲ではあったが、特段の感動はなかった。

私の子供の頃までの音楽の授業は、(西洋の)クラシック音楽と各国の民謡が主であった。(最近は「イエスタデイ」や「翼をください」などのポピュラー音楽もあるそうだ)クラシック音楽については、明治以来の教育の潮流と第2次大戦の同盟国であったことから、ドイツ系音楽の偏重(先に挙げた作曲家達でハイドンまではいずれもドイツ人。モーツアルトはオーストリア人であるがここもドイツ文化圏)と「高尚で近寄り難い」印象を生徒に与えるような堅苦しい教え方があった、と記憶している。

そのような初等教育を受けた結果、私にとってのモーツアルトとは、「幼少時マリア・テレジアやその娘のマリー・アントワネット等オーストリア王家の御前でバイオリンとピアノを見事に演奏し、7才で交響曲を作曲した神童であり、600曲以上の美しい曲を作り、35才で夭折した天才」であったが、特に魅力を感じた作曲家では無かった。少なくとも映画「アマデウス」を観るまでは。

さて、ここで漸く映画「アマデウス」の話に入る。

この映画は1984年の作品で、シナリオの素晴らしさに加え、ネビル・マリナー指揮のアカデミー合奏団という世界有数の音楽家を使い、旧市街が色濃く残るプラハでのロケ、配役のイメージを壊さないためにほとんど無名の役者を主役級に据えるなど、細かな気遣いが奏功した特上の作品である。

あらすじは『生まれながらの天才アマデウス・モーツァルトと、その才能を妬む音楽家サリエリの物語。この映画では、モーツァルトは天才的に作品を作っていくが、日常は下品な若造として描かれている。サリエリは、オーストリア王家お抱えの音楽家という築き上げてきた地位にあったが、モーツァルト登場後は、彼の生活がモーツァルトを妬むだけの日々に変わっていく。やがて彼は、モーツァルトを暗殺しようと計画を立てる。』

随所に見られるモーツアルトの小気味良い天才ぶりと、それとは対照的に色好みで駄々っ子のような子供っぽさも残す自然児的人間くささや、世慣れぬゆえの生活苦。半面、宮廷音楽家サリエリの嫉妬や葛藤、自分を裏切った神への復讐としてその化身と見做したモーツアルト暗殺の企て。それらが織り成す悲喜劇が巧みに表現される。また、すべてが史実に則しているわけではないが、その通りだと思わせるリアルな描写。映画の作り方も素晴らしく、音楽に興味ない方でも思わずストーリーに引き込まれていく。だからこそ、アカデミー賞では、作品賞を始め数多くの部門(主演男優賞、監督賞、脚色賞、美術監督・装置賞、衣裳デザイン賞、メイクアップ賞、音響賞)で最優秀賞を獲得したのである。

ここで演奏される曲は、いずれも200年以上に亘る歴史の選別を経て、今やクラシックとなり「高尚な」音楽と見做されているが、実際のところはモーツアルトも通常の人間と同様に、歓喜、欲望、葛藤、悩み等を抱える中でそれらを作曲した。また、オペラ「魔笛」のように、当時の庶民の娯楽のための作品もある。それは、例えば現代の歌謡ショーか旅回り芝居のようなもの。そのようなことが映画によってビビッドに伝わってくる。「そうか。モーツアルトの音楽は本当はこのような背景で作られ、血の通った人間くさい音楽だったんだ。」と改めて認識し、併せてモーツアルトへの理解の深まりと親近感の高まりを感じた。

さて、私は土地柄江戸落語も良く聴いた。そのひとつに「目黒のさんま」がある。あらすじは、『ある大名が馬の早駆けに目黒へ行った時のこと、空腹となり百姓家で焼きたてのさんまを分けてもらった。屋敷に戻ったが、脂が乗ったさんまの味が忘れられないので、家来にさんまを注文。しかし、家来達が殿の体を気遣いさんまの脂を蒸して抜いてしまった。ひと口食べたがおいしくも何ともない。「このさんまは、いずれより取り寄せた?」「日本橋魚河岸にてございます」「それはいかん。さんまは目黒に限る!」』。要するに殿様がさんまの本当の美味しさを偶然知ったことを、コミカルに描いたものである。

この映画を観るまでモーツアルトの音楽は単に美しい曲と捉えがちであったが、この映画によって初めて彼自身の体温が伝わってきた。私にとって学校で習ったモーツアルトは脂(=人間くささ)の抜かれた味気ない「御殿のさんま」だったが、映画「アマデウス」でやっと脂の乗った美味しい「目黒のさんま」を見つけたような気がする。

今年はモーツアルトの生誕250年(1756年生)。世界各国でイベントが企画されている。また作品の癒し効果も昨今話題になっている。クラシック音楽をやや敬遠される方々には、この記念の年に映画「アマデウス」をご覧頂き、まずは脂の乗った美味しい「目黒のさんま」的モーツアルトから始められたら如何だろうか。人生の楽しみが、またひとつ増えるかもしれない。

 (モーツアルトの誕生日1月27日を記念して)
2006年1月11日 20時00分0秒

フィリピン便り5号 チャリティー・コンサート参加
フィリピンでの合奏仲間をやっと見つけアンサンブルを始めたところでしたが、早速地元の教会から「貧しい子供達の救済」のためのチャリティーコンサートに招かれ、演奏することになりました。これは教会所属のオルガニストの発案で、オール・バッハのプログラムとしましたが、オルガンだけではフィリピン人は厭きてしまうので他の楽器に声が掛かった、そうです。

アンサンブルはフルート、バイオリン(弁護士)とピアノ(プロ、ソビエトと英国で研鑽を積む)です。当初トリオ・ソナタを考えましたが、フィリピン人には地味過ぎて受けない、ということから、「2つのバイオリンのための協奏曲 d moll」となり、私は第一ソロ・バイオリンを担当することになりました。(ところどころオクターブ上げないと演奏できませんが)また、併せてフルートの小品をピアノ伴奏で演奏しました。小品は@フルートソナタ Es Dur よりシチリアーノとAフィリピン人の受けを狙って、管弦楽組曲2番 h moll のあの早くて派手なバデネリです。フィリピン人は学校でもクラシック音楽を聴く機会がほとんど無いため、関心のある人は相当少ないようです。会社の従業員でもクラッシク音楽について詳しい者は、ほとんど見付かりません。ま、信者ぐらいは来るかな、と予想していましたが、実際のところ300人以上集まったと思います。

我々以外には、オルガンに加えソプラノとバリトンが出演しました。私とバイオリニスト以外は全員プロの音楽家で、取り分けピアノとソプラノはフィリピンでもトップレベルで素晴らしい演奏でした。オール・バッハの制約の中で、ピアノはバッハの曲(無伴奏バイオリン・ソナタからブーレ)をラフマニノフが編曲したもの。これはかなり高度な演奏が要求されます。また、ソプラノはヴィラ=ロボス作曲のブラジル風バッハ5番から有名なアリアを歌いましたが、高い声も豊かで楽々と出ていました。

我が演奏ですが、シシリアーノ、バデネリと協奏曲で何れもまあまあの出来でした。特にバデネリは演奏中は気が付きませんでしたが、練習でのテンポ四分音符=120が、本番130となり結構早く演奏したものですから、ワイノワイノの喝采で驚きました。やはりフィリピン人には大受けでした。バデネリについては、本番前々日から必死に練習しました。これほど一曲に集中して練習したのは、多分学生時代以来初めてだったと思います。その甲斐あってか、早いテンポでもズッコケずにできたのでしょう。そこで思い出したのが、相撲解説者曰く『稽古が全て』。

次回は彼らとカンタータやマタイ等が出来たら、と願いつつコンサートを終えました。



(Philippine Star, November 24, 2005)
2005年10月20日 20時00分0秒

フィリピン便り4号 フィリピン人の愛国心
こちらに住んで1年5ヶ月経ちました。未々知らないことが多いのですが、現時点でのフィリピン人についての感想です。

フィリピン人の愛国心をあまり感じることがありません。

自国の政治には、大統領から末端(警察官も含む)まで賄賂や不正が蔓延し、一向に貧富の差は無くならず、アジアの中で最大の低成長国(’86年以降経済成長率は年平均で僅か1.2%)になってしまいました。‘86年にマルコス政権を倒して大統領になったアキノ夫人はそれまで専業主婦でしたし、国民はエストラーダといった俳優も大統領に選んでます。現大統領のアロヨは昨年の再選時、選挙管理委員会へプレシャーをかける等不正を行い、夫と息子は不正賭博で上納金を巻き上げた、と国民のほとんどが信じています。国民の金を搾取したイメルダ夫人も未だに当地で、のうのうと暮らしています。

その結果、国民には自国に対しての諦めムードが蔓延しており、半面海外へ行ってお金を稼ぐことが多くの夢となっています。従って、親も子供に英語を一所懸命学ばせます。この国の海外労働者はGNPの一割を稼いでおり、国際収支もこれによりどうにか黒字を保っています。

ところで、アジアで成功した国は何れも国を思う国士がいて、その中から強いリーダー(シンガポールのリー・クアン・ユーやマレーシアのマハティール等)が生まれ、国を上手く誘導してきました。これが所謂開発独裁による成功例です。

一方フィリピンは、むしろ民主主義を尊重すると言っていますが、大衆はそれを理解する程発達していないため、選挙では政治的手腕に関係なく、単に知名度の高い映画俳優、ニュースキャスター、政治家二世などに投票してきました。

歴史的な背景としても、それ迄多数の部族社会で国の統一が無かった地域が、突然スペインに征服された16世紀以降、米国そして日本に支配され、また第2時大戦後もアジアの反共拠点として米国の援助受けその意向を強く反映した政権が続き、国民には真の民主主義教育の欠如と被征服民としての遺伝子が長い間引継がれてきました。(「フィリピン」という国名自体スペインの国王フィリップから命名)農地改革も行われないまま(ピープルズ革命で生まれたアキノ大統領の実家は、この国で1、2を争う大荘園主)、貧富の差は拡大し、国民一人当たりの年間平均所得はこの20年間ドル建てで1000ドル前後と変わっていません。誰もが、祖国よりも自分と家族さえ良ければと考えていており、愛国心は希薄です。

最近地元紙でフィリピンに関して風刺に富んだ説明を見つけました。以下はその一部ですが、なかなか言い得て妙です。

     ・誰にも海外で生活費を稼いでくれる親類がいる
           ・俳優が法を定め、政治家が娯楽を提供する
                  ・金を払えば法に反することが出来る
                        ・弁護士、技術者や医師に職が無い
                               ・コールセンターの従業員が、教師や看護士より多くの所得を得ている
                                     ・誰もが海外へ逃亡したがっている

せっかくこの国でお世話になっていますし、従業員の純粋な顔を見ると、微力ながらこの国の発展のために何とかしたいと考えていますが、、、、次は、フィリピンの良い面を書こうと思います。
2005年8月1日 20時00分0秒

フィリピン便り3号 イントラムロス
マニラ湾に近いパシグ川に面したところに、昔の城塞(じょうさい)都市跡、イントラムロス(旧マニラ市街)があります。16世紀後半から300年余りにわたってフィリピンを支配したスペインの栄華のあとをしのばせます。 スペイン語で「壁の中」を意味するイントラムロスは、その名の通り、周囲4.4Kmの城壁が都市を取り囲み、碁盤状に整備された道路は七つの城門を結び、マニラの歴史を物語る観光名所の一つだそうです。

この城壁を囲むように、ゴルフ場が設置されています。フィリピンでは最も古いゴルフ場の一つですが、ゴルフ好きのラモス大統領(1992−1998年)が改善工事を施したことでも有名です。

パー66のミニコースですが、狭いのと水が多いので易しくはありません。昨夜初めて回ってみましたが、人工的な光に浮出た歴史的な建造物を見ながらのラウンドは、独特の雰囲気がありました。但し仕事の後のラウンドで、終わったのが午後11時過ぎとなり疲れました。当コースはパブリックで、コストは「グリーン+キャディ」で1290ペソ(約2600円)でした。(但し、フィリピン非在住者はもう少し掛かります。)
2005年5月6日 6時00分0秒

フィリピン便り2号 スイス旅行
昨年の保険営業優秀者を連れて、スイスに行ってきました。旅程は全部で7日間で、ルツェルンとチューリヒに滞在しながら、ティトリス山やリヒテンシュタインを訪問しました。

チューリッヒには以前にSwiss Bank Corporation(現UBS)へトレーニーとして派遣され半年ほど住みましたが、それ以来16年ぶりの訪問でした。欧州の他の町と同様に、町並みはほとんど変わっていませんでしたので、とても懐かしい思いをしました。昔通った楽器屋(Musik Hug)に行きましたが、当時レッスンを受けたハンガリー人の先生(Mr. Istvan Nagy)には会えませんでしたが、この街で健在とのことでした。

ただとても寒く街中で10度以下、ティトリスで乗ったロープウエーにスキーヤーもおり、山の上では雪が降っていました。気温は氷点下7度ながらも、雪が初めてのフィリピン人は子供のようにはしゃいでいたのが印象的でした。

(チューリッヒ市街とチューリッヒ湖)
2005年4月27日 08時00分0秒

フィリピン便り1号
2年間の日本勤務のあと昨年3月よりフィリピンに転勤となりました。少し余裕が出てきましたので、これから「フィリピン便り」でこちらの雑感を書いていきます。

下の息子(小2)が家内と先週(終業式の2日前から休んで)からこちらへ遊びに来ています。先週は聖週間(=イースター)で木曜日から週末まで4連休でしたので、セブ島に行き皆でのんびりしてきました。息子は未だにパパっ子で、常に僕の隣に座るし寝るときも一緒です。これは生まれたときからそうなのですが、何故だか分りません。2ヶ月早産だったため、出産2時間後に別の病院に搬送され、最初に見た顔が僕だった。つまり、ひよこが最初に見たものを親と思う習性と同じ、かも知れません。

フィリピンは貧富の差が激しく、先週もまたそれを実感しました。プールサイドでタオルを配ったり、ごみを取ったりする青年は日給が約500円。一方、我々の食事のサンドイッチ一皿が約700円。その青年は父を亡くし、母と弟妹を養っているそうです。マニラでも信号待ちには、5−10歳程度の子供が夜でも花を売りに来たり、レストランの出口付近で金をせびったりします。

大統領から一介の公務員まで皆賄賂で私腹を肥やす一方、政治は貧困でアジアの他の国にどんどん置いていかれているのが現状です。

生命保険ビジネスは、裕福層(国民の10%程度)のみを狙ってやっています。中間層は保険に入れるほどの余裕は無く、日々食べるのがやっとです。

だから、日本に行ったフィリピン人が日本人と結婚すると、故郷に錦を飾れるわけです。フィリピン人たちは、マレー系にスペインや中国等の血が混ざっており、目は大きくスタイルも日本人より良く、また気持ちも家族思いで温かいので好きですが、この国の現状を考えると将来は決して明るくありません。国民の多くが出来れば米国などに移住したいと考えているような、愛国心のあまり無い国民性ですが、これは主に政治の貧困から来るのでしょう。
2005年3月30日 08時00分0秒

「経営改革と株主価値経営」
(以下は顧客向けニューズレターのために執筆したものです)

ボストンにあるパナゴラ社は日本生命と米国パトナム社を株主とするクオンツ運用会社で、日本のお客様にも外国債券や外国株式などの商品をご提供し好評を得ております。筆者はパナゴラ社へ数年間(1998年〜2002年)派遣されていましたが、米国の会社では経営と所有を分離した運営がごく一般的に行われていたことや、経営者に対する過度なインセンティブが引起こしたエンロン事件などが記憶に残っております。

一方、わが国は3年続きのマイナスリターンや公的年金を中心としたパッシブ運用化の動きなどから、年金スポンサーの受託者責任として株主価値増大への要請が高まりつつあります。今年の2月には、厚生年金基金連合会が自家運用に伴う株主議決権を本格的に行使するために、具体的な行使基準を細かく規定しました。

今月(2003年4月)から改正商法が施行されました。最も注目すべき点は、監査役制度を持ち取締役会が経営の執行と監督機能を同時に担う従来型の経営組織に加え、両者の機能を分化する会社形態(委員会等設置会社)を選択可能としたことです。後者の場合は、経営の執行は執行役に任され、その評価・監督は取締役会が担うことになりますが、取締役会には評価・監督機能の充実のために、過半数の社外取締役で構成される指名・報酬・監査の3委員会の設置が義務付けられています。

今回の改正は経営強化や株主価値の増大という意味から基本的には好ましい動きと思われます。実際のところ、先述の厚生年金基金連合会の株主議決権行使基準も、「『委員会等設置会社』への移行は、積極的に評価する。」としています。

今月と来月の年金ストラテジーではこの改正商法を取り上げます。年金運用にとり株主価値経営がどの程度担保されるかが重要と思われますので、その視点からの分析を行います。今月は施策という観点から、@情報面での株主劣位の立場と、A経営者への有効なインセンティブや、留意点を検討します。続いて次号では、執行役員や社外取締役制度などの経営組織形態について検討します。
2003年4月15日 08時00分0秒

クリスマス・コンサート
12月15日土曜日当日は、開始時間が午後7時と遅かったものの、天気は曇りながらも比較的穏やかで100人以上のお客さんが来てくれた。会場は、ボストンの北50kmの静かな町にある築11年と新しくきれいな教会で、天井が高いため残響が長くクリスマスの雰囲気を十分醸し出していた。舞台の正面にはオルガンの長短のパイプが見えこれも素晴らしい背景となっていた。 プログラム 曲目解説(写真はクリックすると拡大されます)



合奏曲を中心に1時間強ゲネプロを行った後開場、予定を5分遅れて演奏が始まった。全2部構成で、第一部は未成年の部。すばらしい高校生のバイオリンとピアノの後、小学生と大人の合奏でパッヘルベルのカノンとJSバッハのブランデンブルグ協奏曲第5番を演奏した。私もブランデンにはフルートで加わり全楽章を演奏した。練習を開始した約3ヶ月前は、子供達は1楽章ができれば◎、と考えていたがK先生や親御さんのの執念と努力で全楽章を完演した事は正直言って驚きであった。曲の一部を聞いて下さい。 1楽章 2楽章 3楽章



休憩後は大人の部。私は2番目にJSバッハのフルートの為の無伴奏パルティータを演奏した。これはバッハが教会など残響の長い場所での演奏を想定、残響と実音とのハーモニーを加味して作った曲である。いつか演奏してみたいと希望していたが今回やっと実現できた。(あがっているせいで)口の中が渇き演奏しずらかったものの、自分の音と天井から下りてくる残響が良く聞こえ、内容はともかく大変気分良く演奏が出来た。 パルティータ



最後の曲はJSバッハのコーヒー・カンタータから4曲目のアリア。既に9時半を過ぎていたが大部分のお客さんが最後まで聞いてくれた。曲の紹介をすると、18世紀初頭、欧州ではコーヒーを嗜むことがブームとなっていた。ソプラノにより演じられるリースゲンという若い女性はコーヒーが大好き。半面父親は日頃からそれを止めさせたいと思っていた。このアリアでは娘のリースゲンが如何にコーヒーは芳醇かを歌い上げる。歌詞は次の通り。「ああ、コーヒーの芳醇な香りと味は千回のキスよりも素晴らしく、マスカット・ワインより口当たりが良い。私はコーヒーを飲まずにはいられない。コーヒーを入れて頂戴! そうすれば私は心地よい気持ちになれるわ。」

さて、その後の結末は。一計を案じた父親は娘に「コーヒーを止めるならお婿さんを見つけてあげる」と提案する。娘はそれを受け入れたが、父親に内緒で未来のご主人とコーヒーが飲める事を条件に婚約、娘はしてやったり。 コーヒー・カンタータ

私が演奏したこの3曲は、いずれも好きなJSバッハの予てより演奏したい曲ばかりであった。細かいミスは合ったものの(やり直しが出来ればそうしたいと、いつも演奏後思うことだが)、たくさんのお客さんと素晴らしい教会で好きな曲が演奏できたので、私にとってこのコンサートは非常に思いで深いものとなった。
2001年12月26日 03時49分31秒


ボストン交響楽団三題
♪シンフォニーホールのオープンハウス♪
ある演奏会で隣に座ったプリマス町の教育委員という熟年女性から、ボストン交響楽団(以下BSO)の拠点であるシンフォニーホール(写真はホーム・ページを参照)のオープンハウス(一般公開日)があることを聞きつけ面白そうなのでやってきた。もちろん入場料は無料。土曜日の11時から4時までの開催でいつでも出入り自由。普段はノイズをたてるため入場禁止となっている幼児もOKなので、子供連れが多かった。

内容は、大きく分けて、1) コンサート、2) 小澤とボストンポップスの指揮者であるロックハートのインタビュー、3)楽器を触りトライ出来るコーナー、4)館内ツアー、と盛りたくさんである。 プログラム1 プログラム2 (●は実際に聴けたもの)写真はクリックすると拡大

コンサートはBSOそのものではなく、メンバーによる室内楽やメンバーが指揮をしている団体の演奏。どれも、演奏の質はさすがに高い。但し、ロックハートが、彼の奥さんでありBSOのバイオリニストであるリンとピアノで共演するという滅多に聞けないコンサートが、会場が満員のため聞けなかったは残念だった。演奏は同時に2〜3個所で行われ全てを聴きたい人もいるため、演奏中の出入りは自由。

館内ツアーは楽屋、リハーサル室、ライブラリー等をボランティア(ほとんどが定年退職後の男性)の説明付きで回る30分程度のもの。101年の歴史を誇るホールだけに面白い逸話もあった。第2次大戦前初めての女性がハーピストとして入団した時のこと、女性用のロッカー室が無かったため、小柄だった彼女はハープのハードケース内で着替えたそうである。そのケースは今でも残っている。また、ライブラリアンの重要な仕事のひとつに、演奏会終後楽譜を破らないように鉛筆書きのメモを跡形も無く消すこと、があった。次回の演奏では指揮者が変わり別の指示が出るかもしれないので、まっさらにしておく必要があるためだ。それにしても大オーケストラの各パート譜を注意深く消す作業は大変だ。

2人の指揮者のインタビューも身近に感じられ、オープンハウスの意味合いや主催者の狙い(より理解を深めることによって聴衆や寄付を増やす)が感じられた。特に小澤のインタビューでは、9/11の連続テロ事件を松本のサイトウキネン音楽祭でのコンサート終了後食事中にボストンにいる奥さんからの電話で知らされ、直後にテレビでWTCの2回目の衝突をリアルタイムで見たこと、シンフォニーや室内楽等の器楽曲と声楽芸術の極みであるオペラが音楽の両輪であり双方を理解して初めて音楽が解ると言うシャルル・ミンシュの教え、その実践のためウィーンへ行かざるを得ないこと、等非常に身近に(内容もさることながら、至近距離で)聴くことができた。

ロックハートは、聴衆からの質問にも答えた。私は少し意地悪な質問をした。「もしコンサートの本番で楽員が指示と異なる演奏をした場合どうするのか。」これは、私自身がオーケストラにいた時仲間と「気に入らない指揮者には、練習中『はい』と答えておいて、本番では自分流に演奏してしまう。」と話した事を思い出したからだ。これを「本番になればこっちのもの」と呼んでいた。この質問は聴衆の笑いを誘ったが、これに対し彼は最初に手をピストルの形にして「そいつを撃つ」とのジョークの後、真面目に「オーケストラは共同作業なのでそういう事はめったにないが、万が一起こった場合は当人とじっくり話し合う」と答えた。

♪次期音楽監督♪
BSOは現音楽監督である小澤が今シーズン限りでウィーン国立歌劇場に移るためここ数年後任を探していたが、漸く次期音楽監督としてジェイムズ・レヴァイン(James Levine、58)が決まった。 BSO120年の歴史で初めて米国生まれの音楽監督が誕生することになる。

レヴァインは現在、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の芸術監督、ミュンヘン・フィルの音楽監督を務めており、ミュンヘン・フィルとの契約期間が 2004年の6月まで残っているため、2002年の9月からは次期音楽監督としてのみ関わり指揮者は専ら客演を使う。フルタイムとしては2004年の9月からとなり、任期は5年間、年間の定期公演の23週のうち の12週、タングルウッド音楽祭での3週間を指揮する。

レヴァインはシンシナティの生まれ。ジュリアード音楽院で学んだ後、クリーヴランド管弦楽団 の音楽監督を務めていたジョージ・セルの元で研鑽を積み、64年からは副指揮者を務めた。
71年にメトロポリタン歌劇場に「トスカ」を指揮してデビューした後、73年に首席指揮者、75年に音楽監督、86年には芸術監督に就任した。また、99年からは故セルジュ・チェリビダッケの 後任として、ミュンヘン・フィルの音楽監督も務めている。BSOの音楽監督候補には、 9月にベルリン・フィルの芸術監督に就任したサイモン・ラトル以下、コリン・デイヴィス、 ベルナルト・ハイティンクなどの名も挙がっていた。

レヴァインについては、NYメトを発展させた実績がありまた米国生まれの音楽監督なので総じて地元では歓迎されているものの、NYメトとの掛け持ちでBSOが手薄になるのでは、と心配する向きもいる。

♪交響楽団の財政状況♪
11月9日付けの読売アメリカで、「同時多発テロ以来、北米で交響楽団の経営が悪化し、破産、赤字経営表明が相次いでいる」という記事が目に留まった。これによると、今月初めにカナダのトロント響とセントルイス響が破産宣告、シカゴ響がこの15年で初めての赤字転落、だそうである。原因は、昨年からの景気減速でチケットの売り上げや企業の寄付が減少していたが、9月の連続テロ以降は多くの寄付金がテロ犠牲者の支援に回されたことも寄付金減少の一因となっている。

トロント響、セントルイス響では団員の給与カットが既に行われ、スッタフや公演回数の削減等建て直しに懸命である。一方、BSOは財政赤字迄は行っていないようだが、たまたま今日「BSOの友へ」と題した手紙が届き、更なる寄付を訴えている。昨年までこのような手紙を目にしたことはない。BSOもやはり苦しいのだろう。

ところでBSOの寄付は、従来からそのプロモーションのためにいくつかの金額段階を設け、それに応じた特権を寄付者に与えている。例えば、最少段階の$75の場合寄付者には、シンフォニー・ホールの売店での10%ディスカウント、2つの非公開リハーサルへの招待、BSOニュースの無料配布、が与えられる。その上の刻みは、$150、$350、$500、$1,000、$2,000まであり金額と共に特権が増し、$2,000の場合上記に加え、売り出し前のチケットの購入、小澤征爾指揮によるレコーディングの立ち会い、各演奏会のプログラムへの名前の掲載、シンフォニーホール内の特別室の使用等の特権が与えられる。もちろん米国なので上記寄付のほとんどが税控除の対象になる。

BSOの説明によると、チケット収入は全体の運営費の6割しかカバーされない。残り4割を寄付等に頼るわけだが、企業と個人の収入減が直接寄付に影響するため、景気の後退と同時多発テロはこうして芸術面へも大きく影を落としている。
2001年11月16日 06時48分00秒


米国テロ事件の今後
今回の米テロ事件に際しましては、多くの方にご心配をお掛けしましたが、お蔭様で我が家は皆無事に過ごしております。

この事件は未だに現実という実感は希薄ですが、事件後1週間経ち今後について次のように考えています。

米国は圧倒的な世論に支えられて報復の準備をしてますが、これを行うと暴力の悪循環が懸念されます。これでは解決の糸口が見付かりません。イスラム人は聖戦で死を恐れませんので、テルアビブで見られるような自爆が起こると本当に怖いと思います。また、ベトナムでの米国やアフガニスタンでのソ連で見られたとおり近代兵器を使ってもゲリラを殲滅する事は大変困難なことです。相当な長期戦になると思われますし、いったいどのように解決されるのか見当がつきません。

今回の事件で飛行機に乗るのが恐ろしくなりましたが、今後も乗らざるを得ないでしょう。取り分け、今回同時に4機のハイジャックが成功した事は、警備の甘さもさる事ながら多分内通者がいたと言う事でしょう。またどんなに警備を強化しても、例えば、検知されにくいセラミック等の非金属凶器、機内食で出されるナイフ等を使われる危険、またプラスティック爆弾の検知率が相当低いという事等心配は尽きません。

景気への影響も懸念されます。米国連邦準備銀行は機動的に利下げや通貨供給を行っていますが、設備投資の減退やGDPの3分の2を占める個人消費の陰りが見られる時にこの事件が発生。企業業績の悪化、人員整理、業務縮小、株価下落、出張や旅行の手控え等更に消費を冷やす材料ばかりです。もっとも、復興需要や軍需の裾野への波及はある程度あるでしょうが、この困難な局面を政府の機動的な財政金融政策で乗り切る以外に方法は無いと思います。

いずれにせよ今後の米国政府の対応やイスラムの反応が気になります。

米国でもいくつかのマスコミが、報復攻撃ではテロ事件を解決出来ない。という論調が出てきました。やはりこの事件の根は深く、これらを解決しない限り報復合戦に陥る危険性を孕んでいます。以下は9月30日付朝日新聞の記事です。

<< テロの背景にイスラム世界の根強い反米感情−米分析 >>

 同時多発テロ事件の背景にイスラム世界の根強い反米感情があるという報道や分析が、米メディアに現れ始めた。イスラエルに偏った中東外交、唯一の超大国となったことから来る「傲慢(ごうまん)さ」などが遠因だと指摘。テロを糾弾しつつ、米国が憎悪の対象にされる理由の分析なしにテロは根絶できないとの視点がある。発生から約3週間。米国の論調は多面的な広がりを持ってきた。

 「なぜ彼らは我々を憎むのか」。外交記事に定評のあるクリスチャン・サイエンス・モニター紙は27日付で、ブッシュ大統領の議会演説の言葉を表題に特集を組んだ。  大統領演説は、テロリストを糾弾し「彼らは民主的に選挙された政府が憎いのだ。我々の自由が憎いのだ」と米国民に説明している。一方、同紙は、イスラムの人々は米国の理念を嫌っているのではなく、米外交の実態が理念を裏切っていると見て、それがテロリストの土壌になると指摘。  「米国とは、私たちを殺し、家を破壊するF16戦闘機、攻撃ヘリなどイスラエルが使っている道具のことだ」(パレスチナ難民)、「リビアへの報復爆撃で巻き添えになった娘への謝罪ひとつない。米国民は自分たちの政府が世界で何をしているのか見て欲しい」(レバノン在住者)などの声を紹介する。特集はイスラム世界の声をこう総括する。「彼らはこの攻撃が『文明』ではなく米国に対するものであると理解している」

 ニューヨーク・タイムズ紙も23日付で「(米国は)民主主義の理念を宣伝しながら、(サウジアラビアなど)権威主義的な政府を支えていることが裏切りと感じられている」。  ABCテレビの看板番組「ナイトライン」も、21日の放送で「軍事力による反撃は過激派の力を強めるだけだ。注意深く正義を実行せねばならない」とまとめた。  政治専門誌「ナショナルジャーナル」の最新号。米国のアフガニスタン政策を振り返って、冷戦時に侵攻したソ連に対抗させるため、米国はビンラディン氏らイスラム過激派を援助したが、ソ連が敗退するや同国を混乱の中に放置、タリバーン政権を生んだとする。  同誌は「原因を根絶しなければ過激派が繁殖する沼を放置することになる」と警告。イスラム世界の民主化や経済発展を助ける長期的な政策への取り組みを提案する。
2001年09月17日


木管フルート

木管フルートが日本で流行っている。最近読んだ雑誌によるとその理由は、1)クリアでブリリアントな音を出す金属製に比べ、落ち着いた音で癒し効果もよりあること、2)他の楽器(木管、弦は全て木製)とより音が合いやすいこと等。ちなみにボストン響の主席フルーティストの Jack Zoonは以前から木管を使っている。(右写真)

フルートは元来木製で、それが19世紀の中ごろより音楽の大衆化に伴う聴衆の増加からホールが大きくなったため、より遠達性の高い金属製(真鍮、洋銀−>銀−>金(14k、18k、24k)、プラチナ)と変化してきた。木管には木の温もりがあり、自然の創造物から来る人体への受け入れ易さがあるのかもしれない。但し、近代現代の作品は金属フルートを前提として作られているため、これらは原則として金属を使ったほうが良い。(写真は、木管(C管)、銀管(H管)、金管(C管)いずれもHaynes社製)






というわけで、当方も原則としてバロックや古典は木管に近い音が得られる、ボストン在住の永原氏作製による黒檀リッププレート付き銀の笛を、近代現代ものはPowell社製の管体金(14k)を使用している。フルートを始めた頃は、村松の銀製スタンダード(当時18万円で、親から借金して買った)。その後、金製が欲しくなり就職後2回分のボーナスを叩いて14kの村松製頭部管を購入、銀の管体と合わせプロでもたまに見かけるような金銀ミックス笛を使っていた。

いつも思うことだが「どの楽器が良いか」と選択する前に常に「吹き方は正しいか」と言う疑問がある。正しい吹き方なしに正しい楽器の選択はできないわけで、これはいつも吹き方に悩んでいる当方にとっては一生解決できない問題であろう。加えて経済的な問題もある。今まで楽器に相当大枚を叩いてきた。弦楽器を除くとフルートは高価な楽器である。先日大阪のドルチェ楽器の決算セールのパンフレットを見たが、100万円出すとフルートを除き木管、金管ともほぼベストに近いものを手に入れることができる。

フルートの値段は、メーカーにより若干異なるが管体金(14k)で2−3百万円、総金(14k)で4−5百万円、プラチナで5−6百万円、と値が張る。先日雑誌(「The Flute (ザフルート) 50号記念号」アルソ出版)でプロの保有状況を見たが、総金製、それに銀やプラチナと何本も持つ人が多い。これらの設備投資は、弦楽器奏者を除き大変なものだと思う。(尤も数千万円もするようなストラディバリウスなどは、貸与されているケースも多いが)

それでは、数万円の洋銀製フルートとその100倍近くする総金製のそれと、どれ程音に違いがあるのか、と言うと、それは笛吹きとそうでない人にとっては限界効用が違い過ぎる。すなわち、笛吹きにとっては、ほんの少しの音の差(それは笛吹きにとっては、ほんの少しの差ではないが)が百万円の価値に値するが、そうでない人にはせいぜい数万円の差にしかならないだろう。このことは楽器に限らず、絵画、宝石、盆栽等それらを好む人には効用に限界はないのかもしれない。唯一の限界は財布の紐だけであろうか。

2001年09月05日


我がバイオリニストさよならコンサート
バイオリン奏者のS氏が仕事の関係で8月に帰国が決まったため、今回はS氏のさよならコンサートと銘打って行われた。会場は拙宅であったが、当日は激しい雨にも関わらず15家族、41人が集まった。その中には、フルート製作者N氏と次男のバイオリン教師F先生といった音楽関係のお仕事をされている方々もいらした。

N氏の作られるフルートは高級品のみであるが、このところ欧州のプロに高い評価を得ているそうである。日本でも銀座の山野楽器で売られている。私の銀フルートの頭部管もN氏製作であるが、一部(リッププレート)は黒檀が使われており木管の持つ柔らかな音色を出せるため、専らバロックや古典に使用している。

今回のコンサートで、我がアンサンブルは、バッハの音楽の捧げ物からトリオソナタを演奏した。また帰国されるS氏はサンサーンスの難曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」を披露した。 プログラムはこちらをクリック

自宅でコンサートを開催したため、ピアノはヤマハのクラビノーバを使用。ピアノ音はやや物足りなかったが(それでも昔(例えばコロンビアのエレピアンや旧式のエレクトーン)と比べると極めて原音に忠実になってきたと思う)、チェンバロ音を使えたためバッハには都合が良かった。

私はフランクのバイオリンソナタから1と4楽章も演奏したが、これは非常に美しい曲であるだけに難しい。特に1楽章は如何に透明な音を出すか苦労した。ピアノも大変難しい。ピアノは伴奏ではなくフルートと対等かそれ以上だと思う。ちなみにゴールウェイはアルゲリッチと録音している。

T夫人によるチェロの独奏は、メキシコで唯一世界的に有名な作曲家ポンセの作った、有名なスタンダード・ナンバー「エストレリータ」。(題名はご存じなくとも多分聞いた事がある方は多いでしょう)ポンセは著作権を知らず、この曲からの収入は一切無かったとの逸話を残しているが、チェロの暖かい音色での演奏はシックで良かった。 (写真はクリックで拡大)

Oご夫妻の演奏は、アランフェス協奏曲で有名なロドリゴの歌曲。これは、スペインの土の匂いと宗教性がミックスされた興味深い曲であった。イタリア歌曲、米国現代歌曲に続き、O夫人の新分野へのチャレンジ精神は素晴らしいと思う。



S氏のサンサーンスは、練習に力を入れられた様で、最後の演奏への深い思い入れが聴衆に良く伝わった。勿論演奏自体も素晴らしく、カルテットのメンバーは、このバイオリンにもう一度惚れ直し別れを惜しんだ、と思う。



バッハ(J.S.Bach)は、その晩年(1747年5月)に次男のカール・フィリップ・エマヌエルが仕えていたフリードリッヒ大王に招かれポツダムの宮殿を訪問した。その際バッハは大王から受けた簡単なメロディーをモチーフに即興演奏を行い、大王を大変感激させた。その後ライプチヒに戻り、大王のテーマで、2曲のリチェルカーレ、10曲のカノンそして1曲のトリオソナタからなる曲集を完成させ大王に献呈された。これが「音楽の捧げ物」である。

トリオソナタはその最後の部分で、トリオソナタの中でも完成度が高くファンも多いはずである。通常トリオソナタは楽器が指定されていない事が多いが(例えばバイオリンでもフルートでも良い場合が多い)、この曲については、大王がフルートの名手であった関係上フルートパートは指定されている。

演奏者から見ると、素晴らしい曲ではあるものの他のトリオソナタと比べ重量感がある。練習はカルテット結成時(99年11月)から始めたが、前回までのコンサートでは取り上げずに温めていた。今回S氏との合奏が最後である事や他に良い曲が手元に無くなったので、今回やっと演奏が実現したわけである。従ってこの練習は足掛け2年を費やした事になる。個人的には大学時代からこの曲が好きで、例えば当時オーケストラの合宿で、練習後の自由時間に(通常午後9時以降だが)、有志を集め夜通し合わせた事もあり(その結果、翌日のオーケストラ練習では居眠りをしたため演奏個所を落としてしまった)特別愛着のある曲。今回初めて人前で演奏する機会を得、感無量であった。

コンサート終了後、いつもどおり懇親会で話が盛り上がり楽しい時間を過ごした。幾つになっても演奏前は緊張するものだけに、演奏後の充実感と懇親で心は晴れやかになったのは私だけでは無いだろう。外は依然土砂降りだったが。

さてカルテットはどうなるのか、というのが読者の疑問でしょうか。幸いにも、O氏の長男にバイオリンを教えていらっしゃるK氏が参加してくれる事になり、またカルテットを続けられることが決まった。K氏はボストンリリックオペラのオーケストラ奏者で室内楽等アンサンブルの経験もあり、教えて頂ける機会もあろうかと期待され、一緒に合奏するのが大変楽しみである。次回の曲目は未だ決まっていないが、Oご夫妻とバッハの世俗カンタータをやろうと言う計画は進んでいる。
2001年07月01日 06時19分11秒


春の出来事
花粉症♪
ボストンも本格的な春になりましたが、この時期暖気と寒気がこのあたりで攻めぎ合っており、最高気温でいうと10℃から30℃の幅があります。先週は30℃の日が数日ありましたが、今週は平年並みの20℃に戻っております。このあたりの花の咲きかたも東京と違い、いろいろな花が同時に開きます。こぶしに似た花、桜、りんご、チューリップ、クロッカス等今満開です。

先週土曜日より陽気のせいで花粉が大量に浮遊し(例えば車のボンネットは黄緑色の粉で薄く覆われる)、目、鼻、喉までやられ散々でした。薬屋でアレルギーを抑える(実際にはアレルギー反応を起こす抗体の活動を抑える)薬を買い服用してますが、眠くなるのが困ります。別件で昨日眼医者へ行きましたが、花粉症については「あ、そう。」とつれない返事、「薬を」と訪ねると、従来より使用していたが最近効いていない薬を指定され、「これしかない」と言われました。花粉症は、花粉が無くなるのを待つしかないようです。

♪長男現地高校へ行く♪
この春我が家に少し変化が起こりました。それは、長男(写真左)は高校生ですが、今まで通っていた日本の学校(長男は日本で単身残留)を休学し、こちらの現地高校へ留学したことです。本人の希望もあり、米国の高校に通うことにより、英語、米国の文化や考え方(グローバル・スタンダードとされる米国スタンダード)外からの日本観察、自主性や創造性の醸成等、ができればと思い渡航させました。

今週からいよいよ現地校で本格的な授業が始まりました。スクールバスのローテーションの関係で、高校が一番早く始まり(その後、同じスクールバスが中学生、次に小学生をピックアップ)、授業開始が7:30と朝は早い。その代わり2:15で帰れる。昨夜は早速宿題の手伝い。数学はLogの計算、常用対数、自然対数、何だったっけ?日本の教科書を見せてみろ。そうそう、こうだったなあ。自然対数は数III、判らないわけだ、父は文科系だった。しょうがないから、暗記しろ。次は、物理。光の反射と屈折。フムー難しい・・・・・・等と格闘し、出来たのは11:00過ぎ。今後これに国語(英語)と短いためすごく細かい米国史が入ってくる。当面睡眠不足になりそうだけど、つまらなくはない。自分にも勉強になる。でも健康には留意しなくては。
2001年05月09日 21時45分16秒


ホームコンサート
♪ 手作りホームコンサート ♪
ボストン日本語学校の25周年記念行事の一環である音楽会への出演が、音楽会そのものが中止となったためキャンセルされ、昨年6月のコンサート以来発表の場がない状態であった。目標がないともう一つ練習に身が入らないのが演奏家の常で、我がカルテットは毎月第2日曜日の午後に我が家で練習しているものの、皆何か目標を求めていた。昨秋近隣に住む日本人の知り合いの家に呼ばれた時にその話をすると、「それならOk氏宅がすばらしいホールとグランドピアノをお持ちなので、そこでホームコンサートをしたら良いじゃない、私から頼んであげる。」とのご厚意に甘え、開催に漕ぎ付けたのである。参加者は、我がカルテットのメンバーの他に、昨年6月のコンサートを主催されたOi氏、会場を提供してくださったOk氏、Ok氏に頼んで下さったM氏とそれぞれのご家族達。Ok氏のお宅はボストンの西にあり森に囲まれたペンション風の立派な家で、軽井沢でミニコンサートを開くような雰囲気であった。

♪ 我がカルテット ♪
今回は、TelemannのTafelmusikよりQuartet e-moll 全楽章を演奏した。元来Tafelmusik(英訳はTable Music)とは宮廷や貴族が食事の際聞いた音楽であったが、今回はスケジュールの関係で食事前の空腹を我慢しながら聞いてもらった。小さなミスはあったものの、直前にメンバーのOb夫人宅でのゲネプロが奏効し割合まとまった演奏が出来た。FlとVnがVcを挟み後ろにPfを配置したが、今回はBachのTrio Sonataと異なりVcはContinuo+Solo (Pfの左手とは別の動き)であったので、中央配置は効果的であったのではないかと思う。但し、モダン楽器で奏でるバロックはどういうのが良い演奏なのか、正直未だ良く判らない。経験と研究がもっと必要なのであろう。

♪ プーランクにチャレンジ ♪
今回のコンサートでは、カルテットのメンバーがそれぞれ別に行う演奏も盛り込まれている。私はというと、20世紀最高のフルート・ソナタと言われ1957年に作曲されたプーランクのソナタを、Oi夫人のPf伴奏で全楽章を演奏する機会を得た。ドビッシーの曲に触発されたということで、第2次大戦後の作曲にしてはオーソドックスな内容であるが、楽章ごとの変化が激しく構成が難しい。第1楽章は個性的なアフタクトの16分音符から始まるモチーフにより、これから始まる不安な心理状況を暗示する。第2楽章は極めて情緒豊かでアンニュイなメロディー。メロディスト、プーランクのおそらく最上に美しいカンティレーナ、第3楽章は一変して3オクターブ目の高音での速い動き(この運指が難しい)が多い軽快でエスプリ溢れる曲である。演奏は、案の定第3楽章では指がよく滑ったし満足できるものでは無かったが、後で録音を聞いてみると悲観したほどではなかった。これほど難易度の高い曲に挑戦したのは始めてであったが、出難い音や難しい指使いなど工夫し練習したのは、この曲への挑戦があったからであった。またいつかこの曲を仕上げて演奏してみたいものだ。

♪ ビートルズ ♪
M氏の御子息達を中心にポピュラー音楽をやってくれるとのことで、何が出されるか楽しみにしていたが、全てビートルズ、しかも4曲とも知っている曲でうれしかった。同席した親御さんは私と同世代なので、皆同様な感慨を抱いたのではと思う。ボーカルは中学生の次男君であったが、発音はネイティブで歌もリズムに乗りなかなかのものであった。変声後間もないためか高音がやや苦しかったようだが、いずれ直るだろう。M氏のベースとOk氏お嬢さんのPf(彼女はこの後ショパンを弾く)が曲を支え引き立てていた。

♪ ショパンのバラード ♪
Ok氏のお嬢さんは地元の高校に通いながらPfを勉強している。お母さんがPf教師であったこともあり、幼少の頃より始めた。現在ニューイングランド音楽院(Vnの潮田益子、Flのポーラ・ロビソンはここの教授)の先生につき研鑚している。ということで期待は極めて高かった。演奏曲目はショパンのバラード第1番であったが、聞いてみるとやはり上手い。取り分けタッチが多彩であることが印象的であった。来月オーケストラとの共演で、ショパンのPf協奏曲第1番も予定されているという。数年後ニューイングランド音楽院に入学し将来プロを目指すのであろうか。先が楽しみである。

♪ 打ち上げ ♪
楽器を演奏する者に、「なぜ演奏会をしたいのか」と問うと「打ち上げで美味しい酒を飲むため」と答える人が多いと思う。今回の打ち上げも大いに盛り上がった。食事は当地でポトラック・パーティーと呼ぶ各自持ち寄りとしたので、多種多彩となった。どれをとっても美味しい。立食形式にしたのでいろいろな人と話しが出来、これも良かった。また「美味しい酒を飲むため」に演奏会を企画しよう。

<プログラム>
  Title Composer Performers
1 Gavotte  F. J. Gossec  Tomomi Oi Vn, Naomi Oi Pf
2 O Come, Little Children  N/A Kota Misawa Vn, Go Okumura Pf 
3 May Song German Fork Song N/A
4 The Happy Farmer  R. Schumann  Tomomi Oi Pf
5 Clair de lune  C. Debussy  Nozomi Oi Pf
6 Dolly No. 1, 3, 6  G. Faure  Nozomi Oi Pf, Izumi Oi Pf
7 Violin Concerto No. 4 D major, Mov. 1  W. A. Mozart  Yuka Obara Vn, Yukiko Obara Pf 
8 Sicilienne  J. B. Loeillet  Melanie Tamura Vc, Yukiko Obara Pf
9 Spring Sonata, Mov. 1   L. V. Beethoven  Narizumi Shindo Vn, Naomi Oi Pf
10 Let It Be and more  J. Lennon & P. McCartney  Takahiro Misawa Gt ,Eisuke Misawa Dm,
11 Emi Okumura Pf, Naoko Okumura Syth 
12 Spring  D. Argento  Naomi Oi Sp, Izumi Oi Pf
13 Sure on this shining night  S. Barber
14 Diaphenia  D. Argento
15 Flute Sonata  F. Poulenc  Yoshinobu Kimura Fl, Naomi Oi Pf
16 Ballade No.1  F. F. Chopin   Emi Okumura Pf
17 Quartet E minor  G. P. Telemann  Yoshinobu Kimura Fl, Narizumi Shindo Vn,
Melanie Tamura Vc, Yukiko Obara Pf


2001年02月26日 07時39分08秒


我がアンサンブル発表会
我がアンサンブル発表会の日(6/18(日))までの一週間は、親類の不幸で家族が帰国したことと引っ越しとが重ったため、練習不足と疲労のまま、直前のゲネプロはどうにか出来た。いろいろと出来事が重なるもので、ゲネプロ直前に近くの高速道路93号線でタンクローリーが事故で炎上したため通行止めとなり、その結果、それを利用している我がメンバーが遅れたため我が家でのゲネプロは30分しか出来ず、テンポの確認のみを行った。

ゲネプロ後、急いで会場に向かったが、着いた時には開演のアナウンスメントが始まっていた。私は録音係であったので急ぎセッティングを行いどうにか間に合った。ところで、この発表会は、前半が子供達が日頃のレッスンの成果を、後半は大人たちが同様に成果を発表するための自主的なコンサートなので全て手作り。お父さん達は、司会、写真、ビデオを担当した。そんなわけで私も録音を担当したのである。録音は、MD(Mini Disk)と秋葉原で薦められたSonyのステレオマイクを使用したが、結構良い音で取れたし、他のMDへのダビングはデジタルなのでほとんど劣化せずに出来た。MDの利便性を痛感した。

プログラムは、10人の子供達がPf、Vn、Flを演奏した後、休憩を挟んで大人の部が行われた。子供たちの演奏は、可愛いだけではなく一生懸命さが良く伝わってきた。音程が悪い等粗削りであるが、先生の言われたとおりキッチリ弾こうとする努力はひしひしと伝わってきた。私も自ら襟を正さなくてはと感じた。休憩後、大人の部の始めは当発表会の発起人であるO夫人が、御主人の伴奏でDonizettiとArditiのイタリア歌曲を披露、ソプラノが会場内を響き渡った。次がOさんで、30年やられているPfでChopinのBarcaroleを演奏、難曲をうまく弾きこなした。

さて、我々の演奏はプログラムの最後、所謂トリであった。まず、私から簡単に曲と当アンサンブルの紹介をさせて頂き、それから演奏に入った。(シマッタ、Bach没後250年を言い忘れた)第一楽章は、♪=95で行くつもりだったが、案の定(本番は早くなる傾向)♪=97と若干早かったがConfortableだったと思う。続けて第2楽章と、あっと言う間に終わってしまったような気がする。細かいミスはあったものの、練習よりは上手くできたと思う。録音を聞いてみたが、各楽器のバランスもまあまあであった。O夫人によると子供たちが、自分と同じ楽器を食い入るように見ていたとのこと。ある親御さんによるとプロの演奏会に子供を連れていってもなかなか落ち着いて聞いてくれないそうで、この点だけは、プロの演奏家を上回ったのではないかと思う。

後日、録音とビデオの両方でプレイバックしたが、「細かいミスはあったが、全般的には上手く行った」と少し達成感と充実感を味わい、一生忘れないと言うと少し大袈裟だが、ボストンでの大きな思い出ができたと思う。さて、次の仕事はいつ来るのやら我がマネージャー様(奥様)宜しくお願いします。
2000年07月21日 13時16分01秒


HP簡便作成法
お問い合わせが多数ありましたので、ここに掲載します。

HTMLを知らなくても、ジオシティのウイザード通りやれば、簡単に自分のホームページが作成できます。しかも、無料で掲載でき、ソフトも付属のものがただで利用できますので、是非トライして下さい。
手順は、以下の通りです。

1、ジオシティズの市民登録
まず、以下の手順で住民登録(アドレス取得)します。
1) http://www.geocities.co.jp/ にアクセスし、分類の中で好きなコミュニティーを選ぶ(私の場合はミュージックホール)
2) 「このコミュニティに住む」をクリックし、空き家から好きな番号を選ぶ
3) 必要事項を記入し住民登録を行う
4) 登録完了後、20分程度でHP作成に必要なパスワードがEメールで連絡される

2、ウィザードでHP作成
1) http://www.geocities.co.jp/ にアクセスし、 下にある 「ホームページ作成法 」をクリック
2) STEP1 (初級編)の「ホームページ作成ウィザードを使う方法」をクリック
3) 登録した市民IDと連絡されたパスワードを入力し送信をクリック
4) 質問に答えて完成

3、日記の書き込み
HPの日記の書き込み方法は、
http://www.geocities.co.jp/members/tools/diary.html
へ入ると簡単に出来ます。

以上の通り、画面上の説明に沿って行けばHPを作れると思いますが、詳しくは「ジオシテイーズ公式マニュアル(ソフトバンク社1600円)」を見ると良いとの事です。

これはあくまでもイージーオーダーです。好みに合ったオーダーメードにするためにはやはりHTML言語でプログラムする必要がありますのでHTML言語マニュアルが必要となるそうです。ジオシティのお勧めは、「カラー版HTMLタグ辞典(アンク著、翔泳社1500円)」だそうです。

私の場合は、ホームページの作り方教室 http://www.urban.ne.jp/home/kibochan/html_0.htm (無料)を参照しております。
2000年05月31日 20時18分58秒


我がアンサンブル
我がアンサンブルをご紹介しよう。 昨年11月に結成し、原則として毎月1回、第2日曜日の午後に練習を行っている。名前は未だ決まっていない。

♪メンバー♪
編成は、Fl、Vn、Vc、Pf(チェンバロ)。Vnは同じ町に住む唯二の日本人家族で、某日系大手電機メーカーにお勤めのS氏。米国の高校からハーバード大を卒業した秀才、Vnも幼少の頃より勤しんでいるとのことで音程は極めて正確。Vcは、米系銀行にお勤めの日本人と国際結婚された奥様で英系米国人Mさん、日本人女性の如くシャイだが暖かい音を出す。Pfは、S氏とは異なる某日系大手電機メーカーにお勤めの方の奥様で、日本人Oさん。某音楽大を出られ初見も抜群に上手い。

♪公用語♪
Mさんは、日本語をある程度理解出来るがコミュニケーションは英語を望まれるので、当アンサンブルの公用語は英語となった。私は仕事で英語を使っているが、業務上の英語は判るが音楽用語はほとんどちんぷんかんぷん。イタリア語(音楽用語)を混ぜS氏の助けを借りて話しをしている。欧米に通算7年も居るが、専門外の英語は知らない単語が多い。試しにクロスワード・パズルをやってみるとぜんぜん出来ずがっかりするし、スーパーでの買い物や生活関連は家内によく教えてもらう。やはり英語はいつまで経っても外国語である。少し横道に逸れたが、音楽用語では例えば初見はSight Readingと言うそうである。これから少しずつ蓄積して行こうと思う。

♪練習している曲♪
現在の楽器編成から、まずJ. S. BachのTrio Sonataをやろうと思い、BWV1039のG dur(オリジナルはViola da gamba Sonata BWV1027)から始め、BWV1079、c mollの音楽の捧げものも並行して練習しいる。練習場は、いつも私の拙宅だが、PfはヤマハのクラビノーバなのでTrio Sonataではチェンバロの音を使用している。昔、エレクトーンの音が電子音臭く好きになれなかったが、さすがに音響エレクトロニクスでは世界のトップを行くヤマハの技術はすばらしく、最近のエレクトーンや電子ピアノの音は極めて原音に近くなったと感じ購入した。チェンバロを使用したBachはやはり良い。

♪第1回発表会♪
隣町のAndoverにお住まいのO氏ご一家は、ご夫婦共に熱心な音楽愛好家である。ご主人は日系のハイテク会社にお勤めだがピアノを弾き、奥様はソプラノで歌われる。今回ご縁がありジョイントでの発表会の機会を与えて下さった。当アンサンブルのメンバーは皆大いに喜び、曲目はBWV1027と決め目下準備を進めている。目標があるという事は良い事で、練習時の真剣さと集中度が増し、音楽を深堀した充実感を味わっている。発表会は6/18(日)に、O氏の奥様がレッスンを受けているPhillips Academyの施設を借りて行われるが、わくわくした気持ちと緊張感は若い頃といささかも変わっていないように思える。「青春とは不安とときめき」と誰かが言ったと記憶しているが、発表会を控えちょっぴり青春が戻ったような気がする。

♪マネージャー♪
私の家内は楽器の演奏をほとんどやらないし、一度だけせがまれて小澤を見る為だけにボストン響に連れていったものの、家ではクラッシック音楽はほとんど聴かない。ところが、私がボストンに来て以来、ずーとアンサンブルのパートナーを探していたのを知っている家内は、こちらの日本人との繋がり等から見つけてきてくれた。VnとPfは家内のお陰である。Pfは彼女の友達に頼んで見つけてくれた。Vnは奇遇。昨年夏、家内と息子が一時帰国した帰り道悪天候のためJFK空港で足止めを食らったが、たまたまその折同席した日本人家族と知り合った。このご一家は、ちょうどカリフォルニアよりボストンに転勤される途中であったが、先方の娘さん達(双子)が当方の息子と歳が近かった事もあり、意気投合し以降親しくお付き合いをさせて頂いている。これがなぜVnと関係があるかと言うと、その後ご主人がお勤めの会社でボストンへ転勤される方が居り、これがVnのS氏だったのである。また、先述のO氏も家内が見つけてくれた。家内様々である。かくして、家内は光栄にも私のマネージャーに任ぜられたのである。
2000年05月29日 14時17分25秒


ボストン便り(1999年12月)
今は既に紅葉も終わり寒くなる一方で、昨日は裏庭の池が今シーズン初めて凍りましたが、音楽シーズンは酣です。

昨夜、BSOを聞いてきました。プログラムは、

Boston Symphony Orchestra
Yakov Kreizberg, conductor
Lynn Harrell, cello

VASKS Cantabile for strings
SHOSTAKOVICH Cello Concerto No. 2
RACHMANINOFF Symphony No. 2

でした。

都合で、ラフマニノフは聞けませんでしたが、ロシア人の指揮者によるロシア人作品の演奏でした。指揮者はなかなかハンサムな(先日無くなったJFKジュニアに似ていると思います)若手(40歳)できびきびとしておりましたが、未だ表現に余裕が無くやや青い感じがしました。彼をご存知ですか?

また、ショスタコのVCコン2番のチェリストのHarrellは知りませんでしたが、なかなか良い響きと通る音を出してました。1楽章の2重音で高音部分の音程が悪かった事を除けば、全体的には素晴らしい演奏をしておりました。この人知ってますか?

この曲は、初めて聞きましたが、ショスタコらしくスネアドラムを使ったマーチ風のところや、シロフォンを適宜使っており(Pfはありませんが)、時々グロテスク(?)な箇所があるか思うと、古典風にメロディーを締めくくる所もありました。編成はやや歪で、Hp2本、コントラ・ファゴット、パーカッションでは、鞭も用いたりしている一方、Tp、Tbは抜けておりました。

また合奏の方は、探しておりましたPfが漸く見つかりました。これで、VnとPfが揃いましたが、明後日の日曜日にいよいよ我が家で初顔あわせです。J.S.Bach のトリオ・ソナタのGdur(VCソナタにもなっているものです。) と音楽の捧げ物をまずはやってみます。 VCが欲しいところですが、未だ近所で物色中です。

寒くなりますが、風邪などに気を付け音楽ライフをお楽しみください。


ボストン便り(1999年11月)
ボストンもコンサート・シーズンに入りました。先日は、アバド指揮ベルフィルとポリーニで、シューマンのPコンとブルックナーの9番を聞いてきました。小澤のボストンと比べると弦が格段に素晴らしかったです。ちなみにコンマスは安永 徹氏、Vlaには白髪の土屋氏もおりました。また、昨日はエマニュエル・パユ(ベルフィルの主席)のFLを聞きに行ってきました。尚、ベルフィルは一番高い席で$95でした。また、昨日のパユは2番目の席(と言っても脇の席ですがパユから10mぐらいのところ)で$35でしたが、日本と比べて如何でしょうか。

こちらは、BSOやニューイングランド音楽院(教授陣にVnの潮田 益子やFlのポーラ・ロビンソン)があるため音楽事情が良く、彼らが気軽に室内楽をしてくれます。財政面では、企業や個人の寄付によりサポートされてますが、寄付は全額課税控除となるため、する方は税金か寄付の選択が出来るわけです。(但し、寄付の場合は、税軽減額は寄付金額X税率ですが)結果的には、政府による補助金を引き出す形になり、各個人が寄付する先を選べるわけで、これも民主主義の伝統に根差したものだと思います。

と言うわけで、最近はコンサート三昧ですが、加えてスピーカーをJBLに買い換え(今迄20年間YAMAHAのブックシェルフ型を使ってましたが)CDを買い漁って聞いております。(ちなみに家では次男が寝た後、深夜や早朝に聞いてます。次男はパパっ子のため、起きてる間はゆっくり聞けません。)グラムフォンの60−70年代、
80年代前半の録音(例えば、アバド/アルゲリッチのプロコフィエフPコン)が$10前後、何故かEMIのフィラデルフィア管弦楽団(サバリッシュ、ムーティー)が$4の特売(これがなかなか良い)を中心に買いました。

また、演奏の方は最近やっと近所に引っ越してきたVn(日立の人)と練習を始めました。あとメンバーにPfとVcが最低限欲しいのですが、知っている人がいたら教えて下さい。

日本の紅葉はこれからでしょうが、こちらはもう終わりかけてきました。朝晩は霜が降ります。


ボストン便り(1999年6月)
このところ、暑い日が続いており連日30℃を超えております。今年は 雨が非常に少なく、キャンプファイヤ−禁止令が出たり、来る独立記念日の花火を中止する町も出てきております。

さて、ご承知の通り小澤が2002年シーズンでウィーンに行ってしまうというニュースは、地元ボストンでも大々的に取り上げられ、地元紙の1面や、イブニング・ニュースのトップでも報道されました。

但し、私もその頃には転勤でしょうからあまりがっかりはしておりません。 むしろ、西洋音楽の本場ウィーンで認められた事や、60歳をとうに過ぎても未だ現状に安住せず(BSOでは地位が終身約束されていた)、新たな挑戦をすることのへ敬意を表したいと思います。

私の転勤は、今迄 トロント−>NY−>(チューリッヒ−>)ボストンと小澤の道筋を追っているようなので、次ぎはウィーンかなと、期待しております。(ウィーンにはビジネスはありませんが)

話は変わって、先日フルートの世界的なメーカーのひとつであるヘインズ社を訪ね、工場を見学してきました。

二階建てで、私の故郷の東京都墨田区にあったような小さな町工場という感じです。工員は全部で7名です。最初、何本かフルートを試奏させてもらいましたが、出てきたのはイタリア移民の気さくな社長で、そこは社長室でした。(日本では、フルート・メーカーを見学した事はありませんが、多分こんな事はないでしょう)
社長の話によると、ボストンの主席奏者であるゾーンは、目下頭部管の改良中で頻繁に来るそうですし、ランパル(ヘインズを使用していたと思います)をはじめ世界的な奏者が、ここに来るそうです。

ほとんどがハンドメイドなので、最先端の機械はなく、タイムマシンで戻ってこの工場が第二次大戦前の姿と言われたとしても、違和感はありません。例えば、キーの一部を型取りするプレス機械(現役)は何と、1900年製だそうです。

年間生産量は、たったの250本(約5本/週)だそうです。修理・調整もヘインズ製のみを受け、予約は既に来年2月まで埋まっているそうです。

興味深かったのは、工員は全員フルートを嗜みません。当社のパンフレットにも書いてありましたが、演奏家と製造者は、その専門性を高める上で別個であるべき、とのことからだそうで、現社長も工員上がりでフルートは吹きません。(日本はどうでしょうか) 従って、最終段階での試奏はボストン交響楽団等のプロに依頼し、週1回ここで行われるそうです。

ボストンには、世界的なフルート・メーカーがあと2社(パウエルとブランネン)ありますので、また暇を見付けて行ってみようと思います。


ボストン便り(1999年3月)
こちらは、地の利を活用し、小澤のBoston Symphonyに時々行っております。

今年は、小澤の音楽監督就任25周年記念との事で、市の中心にある公園での屋外無料コンサートでのベト9を皮切りに、特別プロとして春祭や蝶々等をを行っております。

また、拠点のSymphony Hallに小澤の特設ディスプレイ(満州での幼少時代、桐朋学園で斉藤先生と、欧州でのコンクール、タングルウッドでのデビュー等昔の写真やらプログラム、ポスター等)を設けたり、記念のTシャツ、手帳やキーホルダー等も販売されております。

小生も、春祭や蝶々は聞きに行きました。小澤得意の春祭は実に上手い。オケも相当慣れている感じがしました。また、全体的には、弦が美しいのと、やはりアメリカらしく金管が抜群です。加えて、Flは1年前にコンセルトヘボウからやってきた名手Jack Zoonが木管Flで柔らかく美しい、そして遠鳴りのする音を出してました。

こちらは、よくゲネプロを公開で行いますが、春祭はそうでして、小生これも行き、Vnの第2プルトのすぐ下最前列に、小澤の左下約5mの距離に席をとりました。木曜の午前9:30開始と言うこともあり、客は大方年金生活者で、他は音大生らしき若者でした。小生は私服童顔(アジア系は皆童顔)でしたので、目立たなかったと思ったのは、本人だけでしょうか。

先ず、演奏にさきがけ、音楽評論家による曲目説明が約30分あり(親切ですね)、休憩を挟んでいよいよオケの登場となりました。当然の事ですが全員私服です。小澤は背中に穴の空いた洗いざらしの白いシャツにラフなズボン、そして、これまた穴の空いたスニーカーを履いており(夫人のベラはちゃんと面倒をみているのか、それとも70年代にヒッピー姿でセンセーションを巻き起こしたのと同様に個性を出しているのか、それともノーケアなのか???)アメリカとはいえ驚きました。オケのメンバーは、もう少しましな格好をしてましたが。

さて、曲順は、ペレメリ、MozartのFlコンGdur(Fl:Jack Zoon)そして春祭。各曲とも1度通した後、何個所か指示を加える等レビューしましたが、メリハリをもっと大きく付ける指示が目立ちました。但し、時間の関係もあったのか修正の必要が無かったのか、春祭は一切のやり直しはありませんでした。料金は$14均一で本番の$75−$24と比べ安いので、本番の代りに聞く人も居ると思われます。

ここSynphony Hallは出来て100年も経った古いホールですがしっとりとした良い音を出すと思います。但し、席の配置は、1階はほとんど勾配が無く後ろが見難くそう。また、2−3階はバルコニー形式で正面はステージから相当離れています。バルコニーの側席は3列ありますが、2列め以降は1列目の客の頭でやや見難いのと、席が横向きなので、ステージを見るためには身体を斜めに向け乗り出す必要があり、少し疲れます。但し、音は何処にいてもバランス良く聞こえ、聞くだけであれば安い席でも十分です。

また、廊下に出てみると、壁面にBoston Symphonyの歴代音楽監督やポップスの指揮者の顔写真と簡単な説明。反対の壁面にはBoston Symphonyの全メンバーの顔写真とタイトル(ex. Principal Flutist) があり、親しみを感じさせます。こういう事は、日本でも大いにやったら良いと思います。

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