歴史

成り立ち

不動禅少林寺流拳法(ふどうぜんしょうりんじりゅうけんぽう)歴史(れきし)は古く中国は河南省嵩山少林寺(かなんしょうすうざんしょうりんじ)に始まる。

釈尊
釈尊

話はインドカピラ城におられた釈尊(しゃくそん)武芸(ぶげい)の達人であった。クシャンチ=デーバについて武芸十八般(ぶげいじゅうはっぱん)を修められ駿馬(しゅんば)叱咤(しった)鉄腕(てつわん)鍛練(たんれん)して国中勇健(くにじゅうゆうけん)の第一位の名を得てなお弓は競射(きょうしゃ)のおり鉄鼓数個(てつこすうこ)射抜(いぬ)いて拝観(はいかん)民衆(みんしゅう)に舌を巻かせた程の達人であった。

デーヴァダハ城主(じょうしゅ)(ひめ)(きさき)に迎える時は、(おう)(ひめ)の前で各種の武芸(ぶげい)披露(ひろう)した事が書かれている。仏門(ぶつもん)に入られてからは主旨(しゅし)が変って宗門(しゅうもん)心身鍛練(しんしんたんれん)の法、正法護持練胆護身破邪顕正(しょうほうごじれんたんごしんはじゃけんせい)大力徳(だいりきとく)としてまた提婆(だいば)経脈秘法(けいらくひほう)に基づく医療衆生済度不傷不殺(いりょうしゅじょうさいどふしょうふさつ)経行(きんひん)即ち動禅行(どうぜんぎょう)として伝えられた法である。

達磨大師
達磨大師

達磨大師(だるまたいし)(ダーマ=パーラ)釈迦(しゃか)から二十八代目・・は、東方(とうほう)に誠の正統仏教(せいとうぶっきょう)を広めようと、インドから中国へ数々の苦難(くなん)を味わいながら渡られた。海路三年(かいろさんねん)月日(つきひ)(つい)やされ、ようやくにして南朝(なんちょう)(りょう)の国の武帝(ぶてい)に会って淡々(たんたん)と真の教えを()かれたが、国の違いは遺憾(いかん)ともしがたく武帝(ぶてい)教導(きょうどう)する事が出来なかった。遂に諦め揚子江(ようすこう)を渡って北の国(()の国)に入られた。

(西暦475年頃)()の国の嵩山(すうざん)にある少林寺に入って正統仏教(せいとうぶっきょう)講義(こうぎ)をされ多くの学僧達(がくそうたち)()かれたが、厳しい毎日の修坐(しゅうざ)に弱りさすがに求道(きゅうどう)(こころざし)堅固(けんご)門弟達(もんていたち)も一人倒れ、二人倒れ下山も止むなき有り様になったので大師は、「もともと法(真理(しんり)に近づく為の教え)というものは心を育てるものであるが体が弱っては仏心(ぶっしん)を修める務めはおぼつかない。私が修めた易筋経(えっきんぎょう)によってまず体を丈夫にせよ仏心(ぶっしん)を一杯に詰め込む袋が弱くては、皆こぼれてしまうではないか!」と身体袋(しんたいぶくろ)丈夫(じょうぶ)にする為に拳法((やしな)(そだ)(さと)りの法)を導入(どうにゅう)され(ぜん)の教えと拳法を一つ(拳禅一如霊肉一体(けんぜんいちにょれいにくいったい))にした動禅行(どうぜんぎょう)として伝授(でんじゅ)された。

その教禅(きょうぜん)新風(しんぷう)理論(りろん)に明け暮れる教義(きょうぎ)にものたりなくなっていた若い修行僧達にとって我が意を()たす仏勇(ぶつゆう)としてうけいれられ、たちまちにして万波(ばんぱ)の如く広まった。そして少林の拳法と俗間(ぞっかん)口端(こうたん)にのりだしたのは今から千三十年位前達磨大師(だるまたいし)が教えられてからは、なんと九十一年程も後のことである。(とう)のはじめ頃(西暦618年)に起きた戦乱の秦王(しんおう)後の(そう)を頭とする数人が助勢(じょせい)して戦陣(せんじん)潜入(せんにゅう)王世充(おうせいじゅう)の姪、仁則(じんそく)捕縛(ほばく)功績(こうせき)をあげたのが始まりとされている。その頃から教外別伝門外不出(きょうがいべつでんもんがいふしゅつ)がたてまえの法も一般民衆(いっぱんみんしゅう)の中に溶け込んで心の()り所となり鍛練護身(たんれんごしん)の術として広く知られるようになった。そしてその名を伝法(でんぽう)の寺名をとって少林寺拳法と呼ばれるようになったのである。

中国河南省嵩山少林寺
少林寺白衣殿
不動禅少林寺流拳法
総本山
大智禅師
大智禅師

不動禅の始祖となられた大智禅師(だいちぜんし)曹洞(そうとう)曹洞宗(そうとうしゅう)のこと)の蛍山禅師(けいざんぜんし)に師事苦禅練行(くぜんれんぎょう)八年の務めをしたひとである。その後中国行脚(ちゅうごくあんぎゃ)を師に申し出て許された。当時の中国は南宋(なんそう)が滅びた混沌(こんとん)とした時代であったにもかかわらず正和(しょうわ)三年(1314年)に中国に渡り霊山少林寺の真風(しんぷう)にあたり在元十有余年(11年~12年)の間あらゆる教えを体得(たいとく)して帰国された後、永平六代(えいへいろくだい)曹洞宗(そうとうしゅう)の六祖)を継承(けいしょう)され永平寺(えいへいじ)福井県曹洞宗大本山(ふくいけんそうとうしゅうだいほんざん))に留?(りゅうしゃく)された禅師(ぜんし)宇蛇寺(うだじ)開山(かいざん)され後に菊池(きくち)心身共(しんしんとも)師範(しはん)となられた。その後意あって長崎に体休(きゅうざん)され、そこで忽然(こつぜん)として動禅(どうぜん)による「教行証(きょうぎょうしょう)」の霊肉一体(れいにくいったい)を説かれたのである。

系統(太唐求法沙門伝法継承系譜)

大智禅師だいちぜんし禅古ぜんこ紹遠じょうえん秀香こうしゅう了好りょうこう慧英ええい慧廉えれん慧納えのう令峻りょうしゅん慶喜けいき志願しがん等繊とうしん宗育そういく梵清ぼんせい正了しょうりょう了達りょうたつ單山龍海たんざんりゅうかい仙岳祖龍せんがくそりゅう了仙りょうせん峻慧しゅんえ岳禅がくぜん慧蘭尼けいらんに慧達けいたつ) ─ 大龍岳禅たいりゅうがくぜん龍虎岳りゅうこがく嚴慎げんしん芳嚴ほうげん了慶りょうけい雲岳蔭龍うんがくいんりゅう大仙祖徹だいせんそてつ大忍茲観だいにんじかん西雲天光さいうんてんこう霊雲臥龍りょううんがくりょう少林康龍しょうりんこうりゅう堀後康龍ほりごこうりゅう

法脈(ほうみゃく)を持続し、伝法(でんぽう)された。三十二代霊雲臥龍(りょううんがくりょう)宗家は七歳の時、虚弱(きょじゃく)な体質を心配した両親に先師西雲天光和尚(さいうんてんこうおしょう)のもとへ体を鍛えるのが第一と預けられた。師と共に山中の草ぶきの小屋に住み始めた。厳しさの中に慈愛溢(じあいあふ)れる指導を受け自然の立木を相手に武技(ぶぎ)稽古(けいこ)を積み現在の人が想像も出来ない修練(しゅうれん)を重ねた。昭和十六年継承行(けいしょうぎょう)に入りついに奥義(おうぎ)の総ての秘伝(ひでん)を受け不動禅少林寺拳法三十二世を名乗ることを許された。そして三十二世霊雲臥龍宗家から不動禅少林寺拳法連盟総本部(会長 堀後康龍(ほりごこうりゅう))に法脈(ほうみゃく)禅譲(ぜんじょう)され現在では三十三世少林康龍(しょうりんこうりゅう)堀後康龍(ほりごこうりゅう))宗家に至る。

尚、釈迦牟尼仏大和尚(しゃかむにぶつだいおしょう)初祖(しょそ)として菩提達磨大和尚(ぼだいだるまだいおしょう)は二十八代目にあたり、日本に()ける曹洞宗(そうとうしゅう)の初祖道元大和尚(どうげんだいおしょう)(禅師)は、菩提達磨大和尚(ぼだいだるまだいおしょう)初祖(しょそ)として二十四代目にあたり、不動禅少林寺拳法の初祖大智大和尚(だいちだいおしょう)(禅師)は道元大和尚(どうげんだいおしょう)(禅師)から数えて六代目を継がれた方である。(ゆえ)に我々不動禅少林寺拳法を修行するものは禅学(ぜんがく)を学び人一倍丈夫な体をつくらねばならない。何故ならば禅学(ぜんがく)とは(さと)り(真理)に至る道であり、悟りとは総てが正しく理解出来るという事である。総てが理解出来るという事は悩み苦しみが無くなると言うことである。自分を信じ自分の一生をより有意義(ゆういぎ)な物にするためにも少しでも真理にちかづく努力を(おこた)ってはならない。

日々これ修行なり。             (合掌(がっしょう)



※少林寺流拳法とは中国の少林寺の流れを汲むと言う意味である。

1941年に、第31代西雲天光より第32代霊雲臥龍に引き継がれる際に名称を不動禅少林寺拳法と変更する。

この名称について、金剛禅少林寺拳法側から不正競争防止法(ふせいきょうそうぼうしほう)(もと)づいた訴えを起こされ、1985年最高裁で、金剛禅側の請求(せいきゅう)却下(きゃっか)されるが、双方和解のうえ名称に『流』を挟むようになった。