昔の色々な日本
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戦国武将の有名なエピソード
今回は室町時代後期から江戸時代初期まで熾烈な戦で
名を馳せた戦国武将達の有名なエピソードを紹介します。
武田信玄[たけだしんげん](1521〜1573)

「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」
と言う信玄の言葉は、「家臣、領民が団結して事にあたらば
何も恐るるもの無し」という意味。団結により敵に勝てと
言う信玄の至上の目的を家臣団に徹底させる為のメッセージ。
信玄堤(ツツミ)
甲斐の国(現在の山梨県)は約80%が山岳地帯であり平坦地は
わずかであった。その平坦地も常に洪水と干害の危険に曝さ
れていた。急流が多い為雨季は暴れ川になり、乾季には干上
がってしまう。特に信玄の本拠地である石和と甲府は東西両端
を釜無川と笛吹川に挟まれ、常に洪水の危険に曝されてきた。
それが国を統治し始めた時代から数百年も続いてきたのである。
ゆえに「治水工事」は甲府を支配する者の避けては通れない
課題であり絶対条件であった。信玄はまず山の樹木を保護育成
し、暴れ水が出ないようにし、そして山に幸たる漆や、和紙、
皮の加工を推奨しスズリ石の生産に取り組んだ。そして暴れ川
釜無川と御勅使(みだい)川のコントロールに取り組む。これは
天正10年(1541)に始まり、完成を見たのが永禄3年(1560)。
なんと20年に及ぶ大工事であった。単なる堤防工事ではない。
それは水を以て水の勢いを削ぎ、溢れる水には逆らわず、自然
の力を利用して洪水の被害を防ぐというシステムだった。
それは現代の土木工事に勝るとも劣らない画期的な発想による
水難防御システム工事であったのである。
信玄のラブレター
信玄の名が歴史に登場するのは天文10年(1541)、二十一歳の
時である。父信虎を駿河に追放して甲斐の国主になった。
信玄は十三歳の時、すでに上杉朝興の娘と結婚していたが
二十五歳ごろに書いたラブレターが残っている。相手は
春日源助、のちの高坂弾正昌信であった。この手紙「最近
僕にとっても冷たいのは、あの弥七郎のほうが好きだから
でしょう?」という嫉妬に対する返事で、信玄は一生懸命
弁解している。「弥七郎にしきりに会っていたのは病気だった
からで、うそじゃない。彼をぼくのお布団に呼んだりして
いない。これまでも、今晩だっても、そんなことはしない。
疑わないでほしい。うそだったら、甲斐の一、二、三大明神、
富士、白山、特に八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰だって
受けるよ。正式には神符の押した起請紙に書くのだけれど
甲府の役人の管理が厳しくて手に入らなかったので、普通の
紙に書いた。あとで誓紙に書くからね。」信玄の文面は老獪
である。弥七郎に手を出していたと疑わざるを得ない。彼は
生涯に正妻の他に三人の愛妾を持ち七男五女を産ませている。
斉藤道三[さいとうどうさん](1494〜1556)
&
織田信長[おだのぶなが](1534〜1582)

正徳寺の会見
斉藤家家中でも婿の信長のうつけぶりは有名であった。
道三は家中のうわさを鵜呑みにするほど単純ではなく、
「ここは直接、我が目で確かめるべきだ」ということで
使者を立て信長に会見を申し入れた。婿舅の初対面を交わ
したいという口実で場所を美濃と尾張国境にある富田(とだ)
村の正徳寺と指定し信長も快諾した。当日、道三は早々と
正徳寺に着き、かねてから考えていた手はずを整えた。
800人以上の家臣全てに折り目高い肩衣に袴という正装を
させて本堂の縁にずらりと居並べもうじき来る信長が
その前を通るようにしつらえたのである。道三の腹づもりは
「信長はどうせまともな格好では来ないであろうから、こちら
は逆に天下の定法に則った厳粛な礼法をもって迎えてやる。
そうすれば、信長は仰天するか、恥ずかしさに身をすくめる
であろう。そこを嘲ってやろう」というのである。そうして
おいて道三は町外れまで行き、とある民家に入り信長がや
ってくるのを待ち構えた。さて、やってきた信長は、いつ
にもまして異様な風体である。まず髪は例によって茶筅まげ。
これを萌黄色の平打ちの紐で高々と巻き立てている。着衣は
これも湯帷子の袖を外したもの。太刀、脇差はのし付き、
つまり鞘に金銀を薄くのばしてあしらっている。ただ、その
柄が普通の太刀よりも長く、三五縄で巻いてある。柄には
太い苧縄の腕貫もつけている。腰のまわりには、猿使いがす
るような火打袋や瓢箪などを七つも八つもぶら下げている。
それから半袴は虎の皮と豹の皮とで四つ替り、つまり替わる
がわるに縫い合わせたのをはいている。このいでたちで、
たくましい馬にまたがってきた。供の衆は700人どっと並び
槍衆は三間半(6.4メートル)の朱槍500本をおし立て、弓、鉄砲衆
は500挺を備えている。この行列を覗き見した道三は物も
言わず、正徳寺に先回りして一行の到着を待った。信長は
正徳寺に到着するとすぐに控所に入った。しばし時が過ぎ、
そして出てきた信長の姿に、人々は思わず息をのんだ。
あの茶筅まげは消えて折りまげに変わり、衣装は褐色
(濃い藍色)の長袴になっている。刀も小さ刀を体裁よく腰に
差している。それは非の打ちようのない正装であった。
信長は色白の好男子である。この時二十歳、匂うような
貴公子ぶりであった。「さては、日ごろのたわけはワザと
おつくり候よ」信長の家臣ですら驚きの声を発した。まして
道三の800人の家来たちは、信長が妙な格好で出てくるの
を楽しみにしていたのだ。驚くと同時にガックリきた。
主客転倒。あとは信長の独壇場である。道三の重臣が出迎えて
挨拶してもそ知らぬ態度で会釈も返さない。本堂の縁に上ると
長袴を巧みにさばきながら居並ぶ美濃衆の前を通り抜け、
対面の間に面した縁の柱にもたれて座った。しばらくして
道三が姿をあらわしたが、信長は気づかぬ振りで視線を外に
やったままである。たまりかねた道三の重臣が道三の出来を
告げた。「であるか」これが、このときの信長の返事であった。
道三としてはおもしろかろうはずはない。この後の短い対面式の
あいだじゅう、毒でも噛んだような顔つきであった。さらに
対面式が終わって帰国する信長を見送った際、信長の一行の
槍が隆々たる長槍であるのに比べ、自分の家来衆の持つ槍が
短いのを見てますます不機嫌になり、美濃へ引き上げる途中も
ずっと押し黙ったままだった。そんな道三の機嫌をとるように
家来の猪子兵助が、「やはり信長はうつけではないか」と
水を向けた。道三はずっとそのことを考えていたのだろう。
こんな答えをだした。「無念である。ワシの子らは間違いなく
あのたわけの門外に馬をつなぐことになろう」。美濃国支配は
自分一代で終わり、やがては信長の物になるだろうというので
ある。道三の言葉はここで切れ、その理由までは及ばなかった。
ただ世間がうつけ呼ばわりしている信長という若者にひそむ
何かを、道三の目は鋭く見抜いていたのである。道三は
山城あたりの油売りから身を起こし、謀略のかぎりを尽くし
美濃一国を手中におさめ「まむし」の異名まである男である。
それほどの道三が、いったい信長に何を見て慨嘆したので
あったろう。実はうつけ、たわけの元になっている部分である。
まず、刀である。信長がたずさえてきた太刀、脇差は、
いずれも柄が長く、それを三五縄で巻き立ててあった。
言うまでもなく刀の柄は柄糸で巻いてあるが、そのままでは
激しい戦闘になった場合、血糊で手が滑りやすくなる上、
柄の木が割れることもある。信長の刀は、それを防ぐ為に
柄も長く、さらに三五縄(ワラの芯で編んだ縄)を巻いて
あったのだ。つまり、いつ戦いが始まってもいいように備えて
いたわけである。刀にはさらに腕貫もつけていた。腕貫とは
柄頭や鍔(つば)に緒で輪を作ったもので手首を通すように
なっている。これまた戦いの時、刀が手から飛ばされない
為の小道具で、あくまで実戦用の備えである。だから室町
式の武家作法では、儀式など公の席に出るときは、刀に
腕貫をつけてはならぬといましめている。ところが
信長はそんな作法などにまったくとらわれない。舅との
初対面に、堂々と実戦の備えをして赴いたのだ。と見てくると
腰のまわりに火打袋や瓢箪、その他の小袋をいくつもぶら
下げた理由も、ことさら説明する必要は無いだろう。すべて
実戦の際の必需品が入っているのだ。獣皮の半袴にしても
腰から下を守る鎧の小道具類の役目を果たす。ことに馬上では
脚が弱点になり、それを守るには毛皮の袴は絶好である。
以上のように、信長のうつけスタイルを点検してみると、
そこに恐るべき攻撃的意図がうかがえるのだ。信長は、
別にそれを隠そうとしてはいない。ただ世の目無しどもが
外見だけでそれを云々しているのである。だが、さすがは
一代で一国を乗っ取った道三である。そうした信長のうつけの
本質を見抜いた。そして、舅との会見場にまでスクランブルの
備えをしてくる信長の戦闘精神を知って、もはや、わが子らの
及ぶところではないと悟ったのではなかったか。『信長公記』は
正徳寺の会見ののちは道三の前で信長をうつけ呼ばわりする
者はなくなったと伝え、以後、信長のうつけ話は姿を消してゆく。
徳川家康[とくがわいえやす](1542〜1616)

徳川軍団を奮い立たせた幻の十天王
かねてからの念願である家康の臣従に成功した秀吉が、大阪城で秘蔵
の宝物を家康に見せた後、家康の宝物は何かと尋ねたことがある。
家康はその問いに対し、「そのような気の利いたものは無いが、ただ
自分の為ならば水火もいとわぬ五百人ほどの家臣がいる」と答えた
と言う。またあるとき福島正則が、家康の四天王、酒井忠次、
本多忠勝、榊原康政、井伊直政を徳川家の重宝として称賛した。
それに対して家康は、「いやたしかに、この四人の者は豪勇並びなき
勇士でござるが、まだほかに六人の勇士がおり申す。十天王という
のが、徳川家の重宝と思っていただきたい」と答えた。十天王などと
は聞いた事もない正則が、残りの六名は誰であるか尋ねた。すると
家康は、はっきりと答えず、笑いにまぎらわした。実はのところ
家康にも六人の者が誰であるか、答えられなかったのである。しかし
この十天王の噂は、たちまち家中に広がり、勇猛剛強な三河将士たちは
われこそその一人であると信じ、さらに勇躍して働いたのである。
稲葉一鉄[いなばいってつ](1515〜1588)
頑固者の代名詞
姉川の激戦の折、稲葉一鉄は信長から家康の加勢を命じられ、
家康と協力して浅井勢を突き崩した。そのため織田方第一の功名と
信長から賞されたが、このとき一鉄は信長に向かい、「わが殿は盲
大将におわすか。このたびの戦勝は三河殿(家康)のお力によるもの。
功名は三河殿の将士にあり、一鉄にありとの仰せは片腹痛とうござる」
と語気強く直言した。この直言から、自分の考えを誰はばからずに
通す者のことを「一鉄者」と呼ぶようになった。
北条早雲[ほうじょうそううん](1432〜1519)

七人のさむらい
早雲のように野からおこって一国の主になった人物にとって、特に
大切なのは資金よりも人=良き協力者に違いない。『北条記』・
『名将言行録』等には、そうした早雲のエピソードが語られている。
まだ伊勢新九郎と名乗っていた頃、早雲がかねてから志を通じていた
友人を集め、「名を成すには今が良い時期だ。関八州は古来武士が
割拠した土地柄で、ここを押えれば天下も取れよう。共に彼の地へ
赴こう」と誘ったところ皆賛同したので、彼は財を投げうって東へ
向かった。この時の仲間が荒木兵庫頭(ひょうごのかみ)・山中才四郎
・
多目権兵衛・荒川又次郎・在竹兵衛尉(ありたけひょうえのじょう)
・
大道寺太郎の六人であった。途中伊勢神宮に詣でた一行は、そこで
神水を飲み誓いを立てた。「この七人いかなることありとも不和のこと
あるべからざること。互いに助けをなして軍功を励まし、高名をきわむ
べし。また一人も勝れて大名ともならば、残る人々家人となりてその
一人を取立て、国をあまた治むべし」。七人のうちで一人、早雲が
国持ちの身に出世したので、誓いの通り他の六人はその家臣になって
早雲を支え、盛り立てた。戦国の世を生き抜き、北条家磐石の礎を
築いた早雲の、これが一番の原動力であったのかもしれない。
早雲の小田原奪(と)り
北条早雲の生涯のうちでドラマになりそうなシーンの一つに小田原攻め
がある。早雲はかねてから小田原の大森藤頼のもとへ使者を往復させ
早雲への警戒心を緩めるよう図っていた。そして、「当国で鹿狩りを
したところ、こちらの山の鹿が箱根に集まってしまいました。恐れ
多いことながら、勢子をそちらへ入れて鹿を当国に追い込んでもよろ
しいでしょうか」と願いでたところ、藤頼はあっさりとこれを許した。
そこで早雲は精鋭数百人を勢子に仕立てて湯本などに潜ませ、夜を
待って千頭の牛の角に松明を付け、箱根山や石垣山へ追い上げた。
石橋・米神村では法螺貝を吹き、板橋村の民家に火を放って、敵に
大軍が来襲したかのごとく錯覚させた。折しも上杉氏の合戦に出兵中
で大森方は手薄だったから、「これはいかにして防げようか。一体敵は
何十万いるのだ」と慌てて、成田市之丞の進言で城から落ちてしまった。
明応4年(1495)、早雲64歳の時である。これ以後小田原は、北条氏の
拠点として京に劣らぬ賑わいを見せていった。
北条氏康[ほうじょううじやす](1515〜1571)
氏康の教訓
北条氏康が隠居した後嫡子氏政に語った教訓がある。氏康が氏政に、
「今何が楽しみか」と尋ねると、氏政は「家来を選び、その能力に
よって使い分けることだ」と答えた。すると氏康はこれに対し、
「それもよろしい。だが、将が家来を選ぶのは当たり前のことだ。
家来が主を選ぶときもある。隣国と戦い常日頃部下を愛さず、
民を慈しまねば、これらは他国に去ってよい主人を求める。だから
家来や民を大切にするのは将の務めであり、重臣にも任すべきこと
ではない。恵まれた家に生まれて下情に通せず、下の者の功や努力を
評価しないと人心は離れる。ゆえにわずかな働きでも誉め、励ます
ようにせよ。これを凋落だと言って嫌う者があるが、それは大変な
心得違いで、決して下の者の功労をなおざりにしてはいけない」
という教訓を示した。
直江兼続[なおえかねつぐ](1560〜1619)
あの世への手紙
直江兼続に三宝寺庄蔵という家臣がいた。この三宝寺、召し抱えて
いる下人の五助を斬った。下人の兄弟・親戚はなんら咎もないのに
斬ったとして、兼続に三宝寺を訴えた。兼続は、銀二十枚を与えて
慰めたが、兄弟や親戚は納得せず、「死んだ五助を返してくれ」。
「それほど死人を返してほしいなら、その方らがあの世に行って
連れ戻して来い」兼続は下人の兄と伯父・甥の三人を斬ると、
地獄に宛てて手紙を書いて貼り出した。「このたび三宝寺の下人
五助が不慮の仕儀で死に、親族は再びこの世に呼び返してくれと
言ってきた。三人を迎えにやるので、かの死人をお返しくださる
べくお願い申し上げる。恐れながら。慶長二年二月七日
直江山城守兼続 閻魔大王 冥官獄卒御披露」