「999について」

 以下は、『銀河鉄道999』の映画の一本目と二本目について、思ったこと

はじめに

 このストーリーは、「若さ」と「死」というのがテーマである。若い情熱は、死を恐れない。自己の信じた理想のために死もいとわない。「理想」成就の問題が「生死」の問題よりレベルの高いところにある。

1,死による永遠化

 それぞれの理想のための「死」は、まさに「死」によって他者に深く刻み込まれ、他者の中で、その死者を永遠化する。死して無に帰したのだから、他者はそれを責任もってその意志を刻みつけずにはいられない。また「死を賭してまで」という強烈な、彼の意志は鮮烈に同士の胸に、刻印されざるをえない。 「死ぬ」ことによって、本当の意味で永遠に「生きる」のである。
例・惑星メーテルの破壊のために惑星の部品となって、自ら死を受け入れた人たち。それを心に刻んできたメーテル。
 永遠の生命の機械の体か、限りある人間の体(すなわち死がある)か、という、この漫画のテーマの中心は、このようなところにある。

2,敵対心と愛国心(仲間意識)

 「機械」を敵とすることで、人間同士がまとまった。彼ら人間が、死を恐れず戦っている気持ちが、よく伝わるように描くことに成功している。戦争というのは、生命を超えた全体の理想のために、戦うことだというのがよく分かる。戦争の目的は、理想が成るか否か、であって、皆がそのことだけが関心であり、自らの命のことは心配していない。

3,メーテルの母

 メーテルは若者を「みとって」きた。多くの若者を深く心に刻みつけてきたから、美しいのか? メーテルの中で、若者は生き、永遠化されている。メーテルの母の孤独。夫はどうしたのか?
(鉄郎との最後の別れについて)
 メーテルは終わりのない旅をつづけるというのが、それは、どんな使命なのか?その個々の若者、鉄郎を含めて、を、永遠化するために、鉄郎と別れなければならなかったのか。まさに、死によって、全ての出会った人々を自己の中に永遠化してきたのと同様な形式で。
 たしかに死者は裏切らない、変わらない。別れによる、永遠化がメーテルと鉄郎の間で完了した。鉄郎にとって、それ以上メーテルは必要でなかったのかもしれない。死別とか別れ、が常だから、常に切なさがつきまとうアニメだ。だからこそ、心に刻まれて、そのまま安心して保存するというわけにはいかない。常に生々しく、生き続ける青春ということになる。メーテルの印象。
 ゴダイゴの歌(前編の最後)は、繰り返しでフェードアウトという形式になっているが、それがストーリーの形式と完全にマッチしている。

4,親と子

 キャプテンハーロックの最後の言葉。ファウストと鉄郎の親子の継体に、人間の生命のあり方を見る。両者は遺伝的に見れば、つながっており、命は続いている。機械のように個体レベルの延命ではなく、類としての命が続いている。しかし意志、理想は、両者はちがう。そういうあり方をハーロックは肯定した。機械のあり方を否定し。
メーテルの母、鉄郎の父−−大人の保守性を表している。
「限りある命だからこそ人間は必死で生きようとする」(鉄郎)は、前編の中心的セリフ。「死がありうる」というのがより本質。人間の偉大さは生死の認識。機械でできるのか?(脳の問題は明確でない。)
後編の中心は、ハーロックの親と子の継体論、大人と若者が一つのテーマ。

5,時

 時と死、まさに存在と時間が、このアニメのテーマかもしれない。「時」をとても重視している。列車という設定。列車の「運動」。時を正確に刻みつつ前進していく列車。列車はまさに時の象徴といえる。

 メーテルの無表情は、人間が最も重要なものを表現するのに、いかにわずかの微妙な表情と動作ですむか、ということをあらわしている。ほとんど、話すことは少ないし、動作も、感情表現も少ないが、ただ見つめる。深く相手の心の奥を見つめている。

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