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『沈黙』で有名な、キリスト教徒の作家・遠藤周作。彼の晩年の作品に『深い河』というのがある。この作品では、彼のキリスト教的精神の側面と、東洋人として生まれ持った、文明の源、宗教的精神の世界的源というべき「インド」への憧憬という側面とが、あざやかに描かれている。登場人物の、ニヒリストも、キリスト教徒も、妻を亡くした平凡なおじさんも、それぞれの思いを抱えつつインドを訪れる。
この名作を元に、「作家はなぜ書くのか」というテーマでまとめたもの。ゼミの発表を元に作成した。
1、遠藤の宗教観…母性神への帰依
a)遠藤のキリスト教理解
聖母マリア(のちに、もう一歩踏み込んだ聖母解釈を見るが)に関して。
「その「祈る」という言葉はその時、ぼくをしみじみ感動させた。恐らく、カトリシズムだけがもらえる慰め。素直なやさしい技巧のない慰めと交流」(遠藤周作の日記より)
ここには子が「母」と素直に素朴に対話する感覚が現れている。神学的に「祈り」がどういうことかとか抜きにして。
「ぼくの聖母に対する信仰はどうしてもなくならない。ぼくはわるい事をした時、困った時、苦しい時、聖母に祈る。聖母は必ずきてくれる。」(日記)
(注:聖母マリア崇拝は、基本的にはプロテスタントにはない、カトリック独特のもの)
ゆるし、贖罪について
b)遠藤の仏教理解
・密教 おおきないのち
「密教的な宇宙、その宇宙の大きな”いのち”に特に関心をもち始めて、そのために仏教へのアプローチも始めた」p187『『深い河』をさぐる、文春文庫』
「ジョンストン:つまり悟る。
遠藤:は、大きなものに触れるわけだけれども、…」(同書)
悟り=大きなものに触れること、と彼はとらえている。これは仏教か? むしろ神人合一のウパニシャッド?
(注:「密教」は、仏教の一つではあるが、むしろインド古来の宗教の流れをくむ)
「火の鳥」(手塚治虫)を思わせる。
・日本的汎神論、動物との交流
・まとめ。上記から、以下のような要素が存在するのが分かる。
清濁受け容れる神、
無条件に受け容れる神、大きないのち
深い河、聖母マリア、赦し受け容れるイエス、
2、遠藤のキリスト教観において、欠けるもの、彼が反発するもの・・・父性的原理。以下、そのような彼の反発する要素を箇条書きにする。
・「決断」的要素…遠藤のキリスト教観にはあまり見あたらない。伝道への使命感、情熱など。
・合理主義、二元論
「結局は宗教でさえ憎みあい、対立して人を殺しあうのだ。そんなものを信用することはできなかった。」s306 『深い河』
西欧の合理的な整然としたキリスト教
・絶対的他者としての神
逆に、身近な汎神論(アニミズム)、抱擁してくれる神を肯定している。
・裁き、審判(二分法的な)…少なくとも、『深い河』の中では、一切主題化されない、キリスト教の一側面。遠藤自身には死を介して、不可避的に(いやいやながら)関係する要素となるが、後に見る。
3、遠藤の信仰の矛盾性
彼はいろいろ信仰上の矛盾のようなものを表明してはいるが、筆者の考えでは、彼の内では矛盾はない。矛盾は制度的、外的なものにすぎない。
神を絶対他者として「他人」みたいに考えることからくる矛盾にすぎない。
神は私自身という思想、「同の中の他」という他のあり方を知るべきであるといえる。
遠藤の考え方の滑稽さ。
「もし、神がなかったら…聖職者たちの人生は全く虚無であった事になる。彼は生涯だまされてきたのだ。」(日記)
神は何より、自分以上に自分自身であるべきだろうのに。
彼は、理性でいろいろ考えて、表面的なレベルで整理しようとしていた。しかし、最後には、自己の自然(良心)を信頼し謙遜ながら肯定する方向へ向かった。
「主の存在を、ぼくは、ぼくと主との対話のみに認めようとばかりしてきた。だから主はささやかなかったのである。神の存在が証明されるのは、ぼくが、人間の中に生き、▼人間との間の問題を形而上学的に深める時、たっせられる。」(日記)
だいぶいい線になってきた。
スーパーエゴ的な外的な神観を持っているから矛盾するのである。『沈黙』の場合もそうだった。
4、愛と死の問題
a)愛欲、肉欲の問題
日記を見ると彼の内で、愛欲が問題となっているが、とにかく、具体的、直接的なことにこだわっている。死についても、問題の取り上げ方は、あくまで地上的な事柄としてである。
「然し、(愛欲の)その炎の激しさは、死さえもこえるものである事を忘れて…」「聖者が、その努力によってなすものを愛欲は、本能と苦しみとで到達する。無償の自己放棄なのだ」「どうしても今のぼくは人間を<性>を土台とした心理分析からしか眺めない。」(日記)
超越、善悪分立、純粋さ(これらは父性的な原理)、などへと向かわない。
b)死の問題(この問題を通して、彼の内に父性的なものが現れてくる)…応答としての「書くこと」
・地獄、恐怖
・実存的解釈
・汎神論的、火の鳥
→責任、応答へのきざし、実績
「死の恐怖が、…ぼくを眠らせなかった。少なくとも、小説を書いて死にたい。自分の如何なる痕跡をも、この生の上に残さなかった恐ろしさ、寂しさ」(日記)
「しかし、今、ぼくにはこの地上に残したいものがあるのだ…」(日記)
「しかし、ぼくは今死ねない。…まだ一つの作品も書いていないのだ」(日記)
死と「書くこと」との関係がここに現れている。
死は一種の父性的分断作用。死が、「母性的な、永遠のいのちへの帰依」なら、つまり、自己の歴史の否定なら、書くことは必要ない。「つまり、大地的なものに、自分の原素をかえしたいという意志。全くの受身、その場合、基督教的恐怖は全くない。あるのは異教的な、汎神性性格である。自己の歴史の否定。」(日記)
死の恐怖と、「書くこと」との関係
「原素を地上にかえすだけならば、さほど恐怖を感じないはずだ。ぼくの死と恐怖には、動物的死の恐怖とは別な二つのものがある事を、あの、又この夜と夜(なんとくるしい夜だったろう)分析せざるをえなかった。何よりも、ぼくをこわがらせたのは、死後における永遠の刑罰である(カトリシズムを捨てたと思ったぼくが何故、それを恐れたのか)。」(日記)
→死後の恐怖とは何か。後で見る。
「しかし昨夜死の恐怖のくるしみの中で、ぼくは恩寵なき世界を浄化する聖母の光をみたのである。それは、自然的世界の、ぶよぶよした湿地帯を透明にうつくしく、変容してしまうものであるに違いない。
病の中で、ぼくは死の恐怖が、ぼくの汎神傾向より、もっと強いものである事を発見した…。
これは、次のことを促すのである。人はその宿命から逃れることは出来ない。ぼくは、ぼく自身だけでは、…起きあがる事は出来ない。しかし恩寵はそれを浄化することが出来るという事である。」(日記)
→死の恐怖>汎神傾向
汎神傾向(単に、自らのすべてを受け容れてくれる大自然、おおきないのち。)よりも、死の恐怖の問題の方が大きい、と言っている。
(また、愛欲の問題も、汎神傾向の問題。結局「死」の問題の方が、愛欲の問題より大きい。『沈黙』でも『深い河』でもそうである。)
死の恐怖の意味:
自らの責任・使命を果たさず死ぬこと。無意味に死ぬこと。
受けた愛(恩寵)に対して、その愛を伝えるということをせずに死ぬこと。
死の恐怖を乗り越える、「聖母」「恩寵」とは。
「聖母」…純粋さ。「透明」。単に清濁受け容れるだけでなく、聖別(「浄化」)された、愛の原理。
「恩寵」…受け容れてくれるだけでなく、具体的に(命を)与えてくれる、生かしてくれること。「力」といえる。恩寵を受けることで、成長もできる(使命を果たすこと)
→「正しい」(透明、浄化された)、「方向性」を持った、「力」を得る。
(「汎神論的」な、単に何でも受け容れてくれること、でなく)キリスト教徒としての純粋な、愛の「受」が、→「授」(書くこと)へ、愛を伝えることへ、向かわせる力となるのだろう。「宿命」に従いつつ(自己自身でありつつ)、同時に、(「聖母」の)「恩寵」によって、そのことをなしうる。
5、何故書くか…伝道(愛をつたえるため)
a)仏教的観点から(少し横道にそれて触れておく)
・孤独、話しかけたい イエス
「そして各人はその異なった原素の宿命から逃れる事はできない。動物たちが闘うように、ちがった原素の人間は孤独であり、又闘わねばならない。それは世界原初の暗い沼に似ている。…考えた。その途端いいようのない生のくるしさが胸にこみあげてきた。」(日記)
各々が代理不可能な使命遂行者。単独者。孤独な犠牲者。…決断的要素。
「こんな話が日本人のあなたにはつまらなく縁遠いことはよく知っています。知っていながら、今晩、真夜中まで書いたことを許してください。でもぼくは誰かに語りたくって仕方がなかったんです。あの方がこのガリラヤで自分のお気持ちを孤独な者、病める者、苦しむ者に語りたくて仕方がなかったと同じように…
ぼくは孤独ですから、おそらく孤独であるあなたに話しかけたいのです。情けないですが、ぼくは孤独です…」p195(単行本)
『深い河』
→これこそ、仏教的。慈悲。
・『深い河』の登場人物…それぞれが、孤独に、その人独自の代理不可能な運命を、背負っている。それらすべてが出会う「場」としてのガンジス川。俗世間(生活)を捨てて、それぞれ独自の自己の探求のため集った集い、僧団(サンガ)。
実存者同士の自己告白。それぞれが例外的な人生のようで、実はみな、「深い河」という同じ劇場で競演していたことに気づく。そのはじめて明らかになった、共通の「場」(共存在)での、交わり、として語ること、書くこと、がある。
深い河、ガンジス川に臨むことは、各々が、逆照射的に自己の「人生」に臨むことを意味する。死に面して自己の人生・存在を直視することも、この一つである。深い河は、死でもあり生でもあり、生死の永遠の流れ、存在そのもの、を意味する。
b)キリスト教的観点から
キリスト教徒として、伝道のため。もちろん、「教団」への勧誘などという意味での「伝道」ではなく、「愛(という道)を伝えること」。
死という父性的分断作用に濾過されて、書くこと、伝えること、の重要性が浮き立ってくる。
・他者に会って、他者によい影響を与えたかどうかを振り返る遠藤。作家としてそれは作品(「書くこと」)を通した読者への影響のことを意味する。
「たとえば夜半に目を覚まして、「俺と出会わなければ、あの女は別な人生を歩んだろうな」とか、考えることがあるんですよ、私は。それから、「あいつはこんな人生になっていただろう」とか。なんでもない出会いを通して、他人の人生に自分がいい痕跡か悪い痕跡か…たいていは悪い痕跡を残してるんですけどね、ぼくなんかの場合(笑)」p24(「『深い河』をさぐる」)
というように、他者への影響について言及している。
まとめ:
遠藤の宗教的欲望は、キリスト教理解、仏教理解を見る限り、結局、すべてを受け容れてくれる母性神への帰依である。父性的な要素はあまり見あたらない。しかし、愛を受けるだけでじっとしていられないのが人間であり、受けた愛を伝えようとする傾向性を人は有する。遠藤においては、それが父性的原理(分断作用)(死)を介して、与えられた限られた(無限でない…母性的な永遠性と反する)、人生の中で、「書くこと」を通じて愛を伝えるという方向へ向かったのである。
参考文献
『深い河』遠藤周作
『『深い河』をさぐる』遠藤周作他
「日記」は、遠藤周作のものから、ゼミの他の学生がまとめたものがあり、それから引用させていただいた。
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