Vom Ursprung und Ziel der Geschichte
by Karl Jaspers 1949
歴史の起源と目標 理想社 重田英世訳

 このテキストは、上記の本からの引用集です。20世紀の哲学者ヤスパースは、世界史の中に、独特の意味を見いだし、今の時代に生きることの意味を、彼なりに説いた。世界史は、単なる段階的な(階級闘争であれ、文化的発展であれ)発展あるいは衰退の歴史ではない。
 彼は、精神的にも物質的にも文明が大きく発展した、(現在にまで影響を与える主要な宗教もそこで発生した)紀元前500年頃から西暦200年の時代を世界史の枢軸時代と呼んだ。現在は、物質的には非常な進歩を見せている時代だが、精神的な発展という意味では、いまだその時代に及んでいないという。


第一部 世界史13
緒論 世界史の構造15
第一章 枢軸時代21
この世界史の軸は、はっきりいって紀元前五〇〇年頃、八〇〇年から二〇〇年の間に発生した精神的過程にあると思われる。そこに最も深い歴史の切れ目がある。われわれが今日に至るまで、そのような人間として生きたところのその人間が発生したのである。この時代が要するに<<枢軸時代>>と呼ばれるべきものである。22

a 枢軸時代の輪郭22
…哲学者… 人間は全世界に内面的に対峙することができた。彼は自己の中に根源を見いだし、そこから自己自身と世界を見くだしたのである。25
 枢軸時代の終わりに発生した普遍帝国は、みずからを永遠に基礎づけられているものとみなした。しかしそれら帝国の安定性は幻影にすぎなかったのである。これらの大帝国は、枢軸時代の国家形成に比較すれば、長年月続いたとはいえ、すべて衰頽に陥り、やがて消滅した。その後の千年は、はなはだしい変遷交替が続いた。このような様相からいえば、枢軸時代の終わり以降の歴史は、かつて数千年間にわたる古代高度文化の世界がそうであったように、大帝国の崩壊と再建の歴史であった。▼ただし枢軸時代以前と以後との相違といえば、枢軸時代以前においては、枢軸時代に発生した精神の緊張、すなわち人間のあらゆる行為に新たな問題性と意義を与えることによって、それ以来たえず活動し続けるに至った精神の緊張は、まだ見られなかったことである。29

b 枢軸時代という観点から構想された世界史の構造29
1
2
3 枢軸時代が最初は、空間的には限られた場所に始まったのはたしかである。しかしそれは”歴史的には最も広い範囲に及ぶのである”。枢軸時代の展開にあずからなかった人間は、数万ないし数十万年来の非歴史的な生き方を続け、あくまで<<自然民族>>のままにとどまった。枢軸時代の三つの世界以外の二年は、あくまで孤立したままか、あるいはこの三つの精神的放射の中心のどれかとの接触に入ったかのいずれかである。接触によって、彼らは歴史に受け入れられた。例えば、西ではゲルマン民族やスラブ民族、東では日本人、マレイ人、タイ人がこのようにして歴史に加わった。多くの自然民族にとっては、この接触が彼らの滅亡の原因となった。枢軸時代以後に生き残った全人類は、あくまで自然民族の状態にとどまったか、もしくは、歴史の基礎をすえた空前絶後の新たな生起に参与したかのいずれかなのである。自然民族とは、すでに歴史が存在するのにかかわらず、先史の遺残を意味するが、これはますます空間的には狭められ、ついに今日ようやく決定的に消滅しようとしている。32
4…奥底に至るまで相互に理解し合うことが可能である。”32… 枢軸時代はそれ以外の一切を同化する。ここから世界史は、唯一の構造と統一性を獲得し、それを維持し、あるいはともかく今日まで維持してきたのである。33

c 枢軸時代なる提言の検討33
 1 この事実は存在したのか?33
 (歴史家たちの証言の例)
 この異議に対して、次のように主張できる。枢軸時代に関して問題となっているのは、まさしくひとつの歴史的事実として現れた共通な出来事、すなわち、今日に至るまで妥当する、限界状況における人間存在の原則が突如として出現した事実(破開durchbruch)なのである。ここで重大なのは、共通な歴史的事実であるが、これは決して地上至るところで人間存在そのものから発したのではなく、もっぱらこれら三つの源が占める狭い意味が、あくまで拭い去れない相違をもちながらも、いよいよ鮮明に現れてくるか否かである。この際時間的一致が一の事実となっているが、これはわれわれが熟視すればするほど、いよいよもってわれわれを驚嘆させるたぐいのものである。しかしこの事実を納得が行くまで説明するには、厖大な叙述を要するであろう。35-6
(2)(第二の異議…)枢軸時代は…”一の価値判断の産物にすぎない”36
(3)(第三の異議…)このような平行関係は何ら歴史的性格をもたぬ、…37
 相互に起源を異にする多数の通路が、何はともあれ同一の目標に通じているように思われる。同じものが三つの形態で多様性を示しているのである。三つの独立した根源があって、それらが後になってー断続的な個々の接触があった後に、決定的には最近の数世紀来初めて、本当には今日以降初めてー唯一の統一をなした歴史となるのである。
 問題は従って、平行関係のあり方である。38

 2 いかなるたぐいの平行論が主張されているのか?38
ただしこの枢軸時代においてだけは、われわれは何らの普遍的法則にも従わぬ平行の事実に遭遇するのである。更にいえば、真に歴史的な、一回限りの事実が、最包括的な、あらゆるひとつの平行をなしている唯一の実例なのであって、単に特殊な現象の一致につきるものではない。40
枢軸時代以後の展開は並行的展開ではなく、むしろ分散的展開である。三つの動きは始まりにおいては、同じ目標を目ざす三つの通路の観を呈していたのであるが、ついにははなはだ相隔たってしまったのである。しかしわれわれが、枢軸時代に達するまで過去へ遡るに応じて、われわれはお互いにますます深縁なものとなり、いよいよ身近なものと感じるようになるのである。40
後世になって根源からますます激しく枝分かれして生ずるに至ったものは、なお時たま類似を示したり、同族なるがゆえの共通の血筋のしるしを示したりはするが、しかしかの根源的な現実的な意味共通性は、全体として再現されれることはなかったのである。40
それは、われわれがほとんど見通せない先史と、もはやいかなる精神的惰眠をも許さぬ歴史との中間の世界である。それは枢軸時代の基礎とはなったが、しかし枢軸時代において、枢軸時代のゆえに没落した世界なのである。42

 3 この事実は何に起因するのか?42…
 同時性の秘密は、枢軸時代を除けば、われわれが指摘したように、おそらくもう一回(従って合計二回だけ)、古代高度文化の発生に対して成立する。問題は次のようである。すなわち、何ゆえほぼ同時にー二千年ほどの距たりはあるがー先史的諸民族の一般的なあり方を脱却して、三ないし四カ所で高度文化への発展が生じたのか、ー何ゆえそれがナイル河、チグリスーユーフラテス両河、インダス河、黄河の流域に生じたのか?42-3
文字なくしては支配統卒という課題、なかんずく治水作業は果たされなかった、といわれている。43
(アルフレート・ウェーバーの仮説)
 歴史は二つの勢力、すなわち古来の安定した、社会的拘束力の強い、個人の意識がまだ睡ろんでいる母権の勢力と、新しく起こった変動の多い、因襲を打破し、個人が自覚的になり行く騎乗民族の傾向性との対決となる。28
 われわれが枢軸時代が生起したれkしいてきこんきょを問題にせざるをえないのは、人類の内部でのー狭い地域でのー精神の破開が問題なのであって、決して全人間の発展が問題なのではないという事実によるのである。人類全体が発展したのではなく、人類のうちのある一部が特に歴史的な先導の役割を果たしたというのが、まぎれもない事実なのである。49
 まるで私がはっきり口にこそ出さないが、神性が関与していると証明したがっているかに思われるかもしれない。決してその積もりはない。そもそもそのようなことは、真の認識を見かけの認識に賭ける命取りの冒険 salto morale たるのみならず、神性への冒涜であろう。むしろ私としてはただ、歴史を理解可能な必然的な人類の進行過程とするご都合本意の解釈、結局は何も明らかにしない解釈をしるぞけたいのである、ーそして、われわれの認識がそのつどの立場、方法、諸事実にかかわっているという意識、従っていっさいの認識が特殊であって絶対ではないという意識を心にとめたいのである、ーそして、問題を未決のままに保ち、われわれがまだ全然先走って想像すらできない、ありうべき新たな認識の芽生えに余地を残して置きたいと思うのである。51
つまり、存在をそれ自身で完結した認識対象に絶対化して消失させてしまう代わりに、最大限の知を通じて真実の無知へと前進するのが目標なのである。51-2

 4 枢軸時代の意義の問題52…
歴史の統一をもっぱら自己の根拠から信仰的に眺めるか、さもなくば、自己の意識を他者の意識と結びつけながら、あらゆる他の人間の根拠との交わりのうちで歴史の統一を考えるか、この二つは全く別のものである。後者の意味で、紀元前八〇〇年から二〇〇年までの数世紀について、この時代こそ、経験的に理解できる、あらゆる人間にとっての世界史の軸である、といえるのである。53
枢軸時代はいかにもシナ、インド及び西洋に限られてはいる。しかし、その三つの世界はついぞ最近まで相互の接触を欠いていたにもかかわらず、枢軸時代は普遍史の基礎となり、精神的にあらゆる人間を枢軸時代につながるという意識に引き込んだと断ずべきである。53
(b)…無際限の交わりを促している”かのような観がある。…
 こういった交わりの要請はー三様の起源があるという歴史的事実のおかげでーひとつの信仰が真理を独占しているとの迷誤を防ぐ最良の手段である。何ゆえならば信仰はいつでも、歴史的実存において無制約的である以外になく、科学的真理のように、言表可能という点で万人に普遍妥当的でありえないからである。真理の独占の要請、この手段としての狂信、人間的傲慢、権力意志による自己欺瞞、ことさらには、もろもろの教義的哲学やいわゆる科学的世界観のごとき、あらゆる俗化した形で現れている独占の要請が西洋に及ぼした害悪、このようなものはまさしく、神は歴史的に幾通りもの姿で現われ、神への道を数多く開いた、という事実によって克服可能となる。あたかも神性が、普遍史という言葉を通じて、真理独占の要請に対して警告を発しているかのようである。54
(c)…(この時代ならびにこの時代の創造物が、後世のいっさいに対する基準であろうか)…54…ヴェリギリウスはホメロスより、アウグストゥスはソロンより、イエスはエレミアより色あせているのでなかろうか?54
すなわち、幾月もギリシャ哲学者の研究に没頭した場合いつもそうであるが、アウグスチヌスが、ギリシャ人特有の冷徹さと非人格性から良心の問題への解放であるかのように感ぜられるものである。この問題はアウグスチヌス以来われわれにとっては切っても切れぬ切実な問題となったが、ギリシャ人には疎遠なものであったのである。しかししばらくアウグスチヌスを研究していると、再びギリシャ人への衝動が増大して、アウグスチヌスを追跡しているうちに発生すると思われる不純さから洗い清められて、再び健全な状態に立ち戻ることとなる。究極的に真なるもの、真実の救いは、この世ではどこにも存在しない。
 枢軸時代も又挫折した。時代はつぎつぎと流れた。
 私はただ次のことは確実と思う。すなわち、枢軸時代という提言が受け入れられようと、しりぞけられようと、われわれの現在の状況意識と歴史意識は、私が一部だけを暗示しうるもろもろの結論に至るまでが、枢軸時代の把握の仕方によって限定を受けているのである。人類の統一が、われわれにとってどのように具体的なものとなるかが問題なのである。55-6

第二章 世界史の図式57
しかもそれ(先史時代の同じような繰り返し)につづく、われわれの従来までの短い歴史は、いってみれば、世界史という舞台に登るための出会い、集合であり、今後の旅行に耐えるための準備たる精神的技術的修行時代なのであった。われわれは、まさに出発しつつあるのである。60
 人間は”四たび”、いわば”新しい基礎”から出発したと考えられる。
 第一に先史時代、すなわち、われわれにほとんど近づきえぬプロメテウスの時代からの出発(言語、道具、火の使用の始まり)。これによって初めて人間が生じた。
 第二に古代高度文化の創始からの出発。
 第三に枢軸時代からの出発。それによって人間は、全く開かれた可能性を具えて、精神的に真の人間となった。
 第四に科学的ー技術的時代からの出発。その改鋳をわれわれが、目下自分で経験しているのである。61
…われわれが眼にしうる人類史は、いわば”二回の呼吸”を行うのである。
 第一の呼吸はプロメテウスの時代から、古代高度文化をへて、枢軸時代とそれ以後にまで及ぶ。
 第二の呼吸は、科学的ー技術的時代、すなわち新たなプロメテウスの時代をもって始まり、古代高度文化の組織化と計画化にも比すべき事態をへて、われわれには依然としてはるかに認めがたいが、真の人間が生成する新たな第二の枢軸時代へ向かうのである。
 しかしこの二つの呼吸には、本質的な相違がある。われわれは、われわれがやっと始めたばかりの第二の呼吸の時代にありながら、第一の呼吸の時代を知りうる、すなわちわれわれは歴史的経験を所有している、ということである。もうひとつの本質的相違は、第一の呼吸がいわば多数分散して並行的に行われたのに反し、第二の呼吸は人類全体としての呼吸であるということである。62
 第一の呼吸から多様な形態で展開したものは、全体としてみれば、もし西洋から新たな呼吸が始まらなかったとすれば、挫折していたであろうと、われわれには思われるのである。今や問題は、歴史に将来の展開の余地が残されているかどうか、そして又、恐るべき苦悩と苦難を通じて、身の毛もよだつような深淵を通り抜けて、真の人間の生成にたどりつくかどうかである、ーそれがいかように行われるかは、われわれにはまだ全然思いもよらない。63
p64歴史の図
第三章 先史時代66
a 歴史と先史66…
伝承が欠けていても、事柄自体としての歴史はありえた、あるいは全く必然的に存在した、というのは誤った見解である。66
 先史と歴史は、このように相ついで、われわれ人間存在の二つの基礎を作り出した。先史時代における生成、すなわち、もろもろの基本的衝動や性質、われわれの構造の無意識的な部分いっさいをそなえた人間の天性の発生は、われわれ存在の根幹を形作っているのである。一方人間が、過去を歴史的意識的に受け継ぎ、築き上げた伝統は、人間に可能であったものをわれわれに示し、かつそれがそなえる渋味ある内容ゆえに、われわれの教育、信仰、知識や技能の源泉となっている。この第二のもの、すなわち形成された歴史的なものは、第一のもの、すなわち先史的な人間天性というまるで火山のような基底層、これを覆う薄い表皮のようなものにすぎない。67

b 先史への態度70…
 歴史の始まりは何を意味しているのか?
 ▼伝承が存在して以来というもの、つまり歴史の開始以来、最盛期たろうと没落期たろうとを問わず、人間は何故いつでも終わりに達したとの感を懐くものなのであろうか?
 歴史とは単なる束の間であり、不断の喪失と忘却がその定めなのか? それなら束の間とは、どんな意味があるのか?
 歴史以前に、人間はどのようになっていかのか? 伝承的歴史の始まる以前に人間は、いかなる段階を経験し、いかなる可能性を展開し、何をなしとげ、何を発見したのか?71…


c 先史時代の時間的図式75
d 先史時代に何が起こったのか?78
 1 人間の生物学的諸性質80
 2 歴史的な獲得87
e 先史全体としての様相
f 全人間の同属性の問題

第四章 古代史上の高度文化94
a 概観94
b いかなる出来事が歴史を準備したか?96
c 古代高度文化の共通性と相違性101

第五章 枢軸時代とその結果105
a 枢軸時代による世界史の構成105
b 破開以後の世界史110
c インド・ゲルマン民族の意義112
d 西洋の歴史115
 1 全体としてみた様相
 2 キリスト教的枢軸の意義
 3 西洋における教養の連続性119

第六章 西洋の特異性122
国土と民族、政治的自由、徹底的合理的精神、人格的存在としての自覚の内面性、世界回避の不可能性、非教義と例外者、独占の要求、決意性、もろもろの人格
 (6)(西洋は安定した一つのものではない)
すなわち階級制度(カースト)に縛られた生き方にも、天命とか宿業とかの宇宙の理法に諦めを見いだす生き方にも凝結させなかった。いかなる意味でも西洋は安定したものとならない。
 西洋の無限の原動力となっている変動する諸勢力は、<<”例外者”>>を発生させるが、これは西洋においては普遍者を突破するものである。西洋は例外者に活動の余地を与える。西洋はしばしば絶対的に新たらしい生き方や創造を受け入れる、ーただし後にはそれらは全く徹底的に否認されるかもしれない。西洋は、決して万人が平等には与ずかれず、おそらくほとんど何びとも追随しえない人間存在の絶頂を極めている。しかしこれらの絶頂は、道標のように輝いて、西洋に対してあらゆる方向に方位を示している。ここに西洋のたえざる不満が根差し、何らかの完成に満足することができない理由があるのである。127
(7)ところが自由ならびに無限に流動的な精神と対照的に、西洋では反面では、回教をも含む聖書宗教において、信仰の真理の”独占的要求”ゆえに極端なものごとを展開している。このような要求がそのままそっくり、歴史を一貫する原理として登場したのは、この西洋のみである。128
第七章 東洋と西洋131

第八章 再論 世界史の図式139

第二部 現在と未来151

第一章 本質的に新たなもの 科学と技術153
緒論153…
 真に新たなもの、根本からして全然別個なもの、アジアから由来するいかなるものも比肩しえず、完全に独自なもの、それどころかギリシャ人さえ知らなかったものといえば、ひとり近代ヨーロッパの科学と技術あるのみである。ふ


I 近代科学
 a 近代科学の特性
 1普遍性
 2原則的非完結性
 3最小のものに眼を向ける…
 このように、あらゆる経験可能なものへ関心を向け、世界の中に現れるいっさいに感動する豊かな情操、こういった精神の広さと次元の高さが、すぐれて近代的なのである。160

 4いかなる宇宙も存在せず諸科学の宇宙が存在する
 5徹底性
 6いかなる支配的範疇もなるあらゆる範疇の支配がある
 7科学的態度
 b 近代科学の由来166…
 ところこのような解釈には、偉大な研究者の精神的態度を見ただけでも、徹頭徹尾反対せねばならない。偉大な研究者に特有というべきは、必然性に対する考え方である。自然への順応とは、まさしく自然研究者のエトスにほかならなかった。しかも彼は、自然が行い、自然の中で生起するものを知ろうと欲する。そもそもこのような知への意志、すなわち盲目的にではなく眼を見開きながら、苦しみ、耐え、そして生きる、こういった知る者の自由とは、攻撃性とか権力意志とは全く別物なのである。それは支配しようという権力意志ではなく、内面的独立性としてのそれである。知る者の意識のこのような自由こそ、まさしく事実性を純粋に、存在のしかるべき謎として把握しうるのである。ー▼蓋然的なもの、近似的なもの、不安定なもの、結局任意なものとは異なって、ー必然的普遍妥当的な知のエトスには攻撃性は含まれておらず、明確性と確実性への意志がある。169
 特に実験による研究は、攻撃的とみなされている。…自然を攻撃するのではなく、自然にたずねることが動機なのである。170
研究を極限へと押し進める三つの動因は、ここから発していると思われる。171
それは、神によって創造されたものとしてのあらゆる存在者への愛において、従って又、研究の真の意義への信頼において、初めて現前的なのである。世界の中に見いだされるあらゆるものが神の創造であるとの知は、無際限に問いかつ前進する探求の不安につきまとわれながらも、現前の深淵に直面しての心の安らぎを与えるのである。173
 創造の思想は、被造物を神によって作られたものとして、愛するに価するものとさせ、かくして以前にはなかったほどに現実への接近を可能とする。しかしこの思想は同時に又、存在からの最大の隔たりを生み出す。われわれが触れる存在は、単に作られた存在にすぎず、存在自身、神ではない。173

 無制約的に真理たるを要請するこのような神は、幻想によってとらえられることを欲しない。神は、詭弁的思想によってヨブを慰め、教えさとそうとする神学者たちをしりぞける。この神は、神自身に向かって繰り返し非難を高めると思われるような内容の知を欲する。これが一方では大胆な認識をあえてさせ、無条件な認識を要求し、ーかつ又他方では、そのことへの畏れが起こる理由なのである。この事態は一対の分極性をなし、あたかも、無制限な探求が神の意志であり、探求は神への奉仕であるという言葉と、ー探求は神の冒涜であり、全部が全部あらわにされるべきではないという言葉とが、同時に耳にされるような事態なのである。
…神を求めることが自己のむなしい幻想を断ち切ることにおいて行われる難事であるごとく、本当の探求意志とは、自己の希望やら期待との闘いなのである。174
 社会学的諸条件、権力意志、聖書宗教
 c 近代科学の課題と逸脱175…
 こういった状況においては、かの本当の科学、すなわち知りうるものを明確に知るのと同じく、はっきりとみずからの限界をも自覚している科学を、自分のものとして身につけることが肝要である。かくしてのみ、科学の迷信と科学の憎悪という二重の誤りが避けられる。人間から何が生ずるかは、時代の変遷を通じて科学を維持し、深化し、ますます多数の人間に実現させることの成否に、決定的に制約されている。
 この注意は軽くとられてはならない。そもそも真の包括的な科学は、深い魂の、歴史的に制約された構造に結びついているのである。それはきわめて傷つきやすく、決して世代の変遷を貫く確実な持続によって保証されない基礎に拠っている。この科学はもろもろの動機のからみ合いから発しているが、これらはきわめて錯綜していて、このうちただひとつが脱落しても、科学そのものが麻痺ないし空虚となるほどである。結果として、近代世界の数世紀を通じて、全面的な科学的態度を実現している科学はつねに稀であったし、おそらくますます稀れとなっているという事態が見られるのである。物質的世界の形成とか、世界中至るところで口にされている<<啓蒙された>>世界観という表現に見られるように、さまざまな成果の醸し出す圧倒的な喧噪も、科学すなわちこの一見もっともありふれたものが、実は最も深く隠されたものである事実を欺きえない。当の近代人そのものがたいていは科学の何たるかを全く知らないし、科学へと駆り立てた衝動を真には体験しなかった。自分の専門領域ではいろいろな発見を続けている研究者すら、ー別なもろもろの力によって進められる動きをしばし無意識に続行しながら、ー往々にして科学の何たるかを知らず、しかもこの無知を、自分が通晩している小さな領域外での挙動に漏らしている。近代の哲学者たちは、あたかも科学を熟知しているかのように科学について論じているが、しかもその際ご丁寧にも、科学を史上一過的の、世界観的誤謬ということにしてしまった。偉大なヘーゲルほどの哲学者たちでさえ、この科学についてはほとんど知ることはなかったのである。180

II 近代技術180…
 フィヒテ、ヘーゲル及びシェリングのドイツ観念論は、自己の時代を最も深刻な歴史の転換期と解し、しかも、今やようやく究極の転換ないし完成に達すると想定されたキリスト教的枢軸時代という見解によって解釈した。これは傲慢不遜な精神的自己欺瞞である。今では…(現在はけして第二の枢軸時代ではないと言い切れる)180
われわれは発見者や発明者たちが味わう悦びというものを充分承知しているが、これと同時にわれわれは彼らを、根本的には無記名(アノニム)な創造過程の一環としての働きをなしているものと見ているのである。この創造過程においては、一環は他のそれにうまい具合につながっているが、この過程への参加者たちは人間として、すなわち魂全体の偉大さにおいて活動しているのではない。個々には高度の創造的な着想とか、忍耐強く執拗な努力とか、理論的試行的仮説をたてる大胆さとかが見られるにもかかわらず、全体の様相は、諸科学さえも支配している技術的な過程へと、精神そのものが引きずり込まれているかのような印象を与えるのは否定できない、ーしかもこの事実は時代をくだるに従って強められる。自分の専門領域外ではきわめて多くの自然研究者が驚くべき愚劣さを発揮したり、…181
従って思い違いの結果、われわれは地上におけるしあわせの創造者として、技術的能力を具えていると考えるのも、史上比類がないし、ーあるいはわれわれが精神を喪失していると考えるのも、同じく比類がないことなのである。182
技術の及ぼす変革に犯されずに残るもの、あるいは技術の変革に抗らって基本的要素として再建されるもの、これが問題である。
 ここでただ一般的に描写され主張されたことは、今やいっそう正確明瞭に理解されるべきである。われわれはまず、つねに人間生活の一部をなしている技術と労働について語りたいと思う。こうして、近代技術と労働によってひき起こされた深い断層は、比較することによって、一目瞭然と理解されることになる。186


 a 技術の本質186
 1技術の定義186…
意識を高めるのに役立つ不可欠の手段たる精神的努力を伴わぬ労働は、その代わりとして自己満足に陥ち入る。人間は無自覚、すなわち意識喪失へと沈んでしまう。190

 2技術史上の大きな断層190
 b 労働の本質196
 1労働の定義196
 労働は三通りに定義される。すなわち
  労働は肉体労働である。
  労働は計画的行為である。
  労働は動物とは異なる人間の基本的あり方、すなわち自己の世界の産出である。196
 2近代技術の断層以後の労働202
 c労働と技術の評価208
 労働の評価208
 近代技術の評価211
 1自然からの疎外と自然への新たな接近213
 2技術の限界の誤認217
 3技術の魔性の認知224…
 全体として見れば技術という出来事は、見通せぬからといって単にまぬがれがたい運命であるにつきず、課題なのである。空想の描き出すところは、これは同時に人間存在への要請でもあるが、人間は人間自身の主人であるべきなのである。個人としての人間のあらゆる可能性がやみ、瞑想は地上から消え去る運命なのか?人間が技術の奴隷となる代わりに、ついにはあらゆる技術的なものを自己の制約下に置く一の根源を、人間は所有しないのであろうか?
 技術のもたらした現実により、人類史の中に一つの巨大な断層が生じたのであるが、人間生活の機械化技術化が成立しているまっただ中にわれわれがありながらも、この断層がいかなる結果に終わるかは、どんなに空想を巡らしてみても予想しえないのである。229

第二章 現代世界の直面する状況231
緒論231…
ところがどうして現在は、そのものとしてわれわれには不透明なのである。それもそのはず現在とは、現在を支えている過去と、現在の中に含まれている未来とに関して、充分な知識があっての上で初めて明らかとなるであろうから。われわれは現代の状況を明瞭に知りたいと思う。しかしこの状況とは、実現されてみて初めてはっきり認められるようになる、さまざまな可能性を秘めたものなのである。231

a 現代の情勢の特徴233
 1大衆が生起の決定的因子となる233…
 かつては上流階級に限られていたもの、すなわち、教育、個々の人間の生活や思想の充分な育成、精神というものになじみ、精神に関心を払う能力、反省し、熟慮し、相互に批判的でありかつ責任をわかち合う人間たちの最高度の緊張と対立の中に理性的なものを歴史的に発見する能力、こういったものごとが大衆自身の中で実現されるとすれば、世界は歴史の絶頂を登りつめたことになるであろう。239

 2伝統的価値の崩壊(信仰の喪失)239…
 現代の増大して行く信仰喪失は、虚無主義を生み出した。ニーチェがその予言者である。彼は虚無主義のもたらす禍いの大いさに注目した最初の人であり、あらゆる物事に虚無主義のあらわれをあばき、彼自身を時代の犠牲として耐え抜き、絶大な努力をもって虚無主義を克服しようと試みたーが、それはむなしかった。241
 現代はもろもろのイデオロギーを生み出したが、同時にそれをそれとして見抜いてもいる。しかしヘーゲルからマルクスとニーチェに至るまで、こういった面で獲得された深い洞察は、心の疎通を打ち壊す論戦の残忍な武器と化した。イデオロギーであると攻撃するやり方は、敵対者そのもの、自分のものとは異なるあらゆる見方に向けられる。しかしながら、信ぜられ、思惟され、表象されるいっさいを、イデオロギーとして否認する者がまさしく、しばしば自分自身、こういった解釈の仕方の最も頑固なイデオロギーにとらわれているのである。243
ケルケゴールとニーチェの到達した高みから、仮面を剥奪する思惟であったこの暴露的思惟が、現代において更に極限まで押し進められた時、この暴露的思惟はもはや偽善暴露ではなく、腹黒い攻撃となり、批判的探求ではなく暗示であり、経験に即した指摘ではなく、ある程度もっともらしい単なる主張にすぎないものとなったのである。かくして鋭い真理認識の方法は、精神分析や通俗マルクシズムの低俗さに堕落した。243

b 現代の情勢の由来247…
技術がどのように受け容れられ、どのような影響をもつに至るかは、技術が遭遇する精神的世界、すなわち技術を受け容れる側の考え方と生き方にかかっている。248
啓蒙… 半知半解の啓蒙のみが虚無に陥ち込むのであり、完全な無制限な啓蒙こそ、根源の秘密をいよいよ聴き取らせるのである。249
フランス革命… フランス革命は二つの方向において、現代の思想に影響を与えている。すなわち第一に正しい点として、各個人の人権と自由のために、抑圧と搾取の悪に対する闘い、ー第二に誤った点として歴史的なつながり、権威、価値の序列を、暴力を用いず理性をもって変革する代わりに、世界を全体として理性に基礎づけうるとなす見解、この二つが現代に影響を与えている。フランス革命は自由と拘束との理性的統一を破壊することによって、この統一を、一方では野放しの自由に、他方では暴力にゆだねてしまったのである。251
哲学的観念論…

c 総括253
 普遍的な事象ー評価の基準…
われわれは転換期を意識するにしても、われわれが単に準備期にあるにすぎないのを知っている。現代はまだ、現実的な技術的政治的形成の時代であり、永遠の精神的創造の時代ではない。われわれは、大規模な科学的発見や技術的発見をともなう現代を目にして、孔子や老子や仏陀やソクラテスの時代に比するよりも、むしろ道具や武器の発明の時代、家畜や馬の最初の利用の時代に比較したい気持ちになるのが当然である。しかしわれわれが、人間存在そのものをその根源か苛形成しなおすという、かの高遠な課題に向かって歩みを進めている事実、われわれがいかにして信仰しながら真の人間になりうるか、という運命の問題を感知している事実は、今日ますます盛んとなりつつある文化のもろもろの根源へ視線を向ける傾向に明らかである。われわれがそこから由来しているところの深い根拠、二次的な形成物やきまり文句や因襲や制度等のヴェールに隠されている本来のものが、再びものをいうようにならなければならない。われわれがそこから由来しているところの根源から相互に理解し合うに際し、人類の偉大な枢軸時代という鏡が、おそらく将来いつかは重要な保証のひとつとなるであろう。257


第三章 未来の問題258
予断についての緒論ー予断の意義についての概観、十九生起の悲観的予断の記録、進歩思想、生物学的予断、新たな現実の深淵に直面しての憂慮、チャンスとしての不安、予断の態度について

 強制収容所に関する報告をむさぼり読んだ後では、それ以上言葉を続ける勇気がなくなる。危険は原子爆弾より深刻である。それが人間の魂を脅かす危険であるからである。完全な絶望の意識が、われわれを襲うのも無理はない。しかしわれわれが人間を信ずるならば、絶望が最後の言葉ではない。人間を信じる場合に限り、このような現実からなされた心を打ちひしぐ予断は、絶対的に出口がないわけではないと思われる。272
 将来の戦争を確実と思い込む者は、まさしくその確信ゆえに、戦争の発生に強力しているのである。平和を確実と思う者はのんきになり、図らずもわれわれを戦争に追い込んでいるのである。危険を熟視し、片時も忘れぬ者のみが理性的な態度をとり、可能なるものごとを行い、かくして危険を払いのけうる。278
 およそわれわれの行動は、未来に期待するところのもの、見込みとか確かさの観念に左右されている可能であると思われるものの余地があっての上で、行動の目標が置かれるのである。
 しかしひとり現在的なもののみが現実的なのである。絶対的に確実と想定される未来は、現在の意義を奪う力がある。未来の救いという予断は、全くそれだけが本来われわれのものたる現在から脱線させる力がある。
 現在の責任を果たすことによって初めて、未来の任を担う資格が生じうるのである。279
今日広く世界に行われている三つの傾向がある。社会主義、世界秩序、信仰、という言葉でいわれているものがそれらに該当する。
 ”第一に”、もろもろの人間集団は、秩序を求める強い意向をもっている。社会主義は、公正な集団組織化の要求を現している。
 ”第二に”、地球全体が空間的に一体化した結果、平和的交流のうちでこの統一を実現しようとの衝動が高まっている。世界帝国と世界秩序との二者択一の問題が現れている。
 ”第三に”、共通な信仰を内容とする伝統的な支えが失われた結果、われわれが生きる根源と目標を問うことと平行して、人間における真の信仰の根源が渇望されている。ニヒリズムか愛かの二者択一の問題が現れている。
 現在の人間的生起と意欲にみられるこれら三つの基本的傾向は、人間の自由の実現を目ざす点で一致する。この三つの主題に先立って、自由がまず論じられてしかるべきである。280

I 目標、すなわち自由280
a 自由の哲学的概念282…
 人類を自由につれきたすとは、彼らを話し合いの場につれきたすことにほかならない。これはしかし、もし表明されない底意が秘められていたり、ー心に含むところがあって、それに抑制されて、内的な交わりが杜絶していたり、ー語り合いはされていても実際は沈黙同然であったり、単なる引き延ばしや奸計が図られるのであれば、依然として欺瞞を伴っていることに変わりはない。本当の話し合いとは、公平無私で腹蔵のないものである。双方ともに、余すところなく胸襟を開いてこそ、共通性をもった真理が発生するのである。288
 しかし真理は実際のところ、究極的絶対的真理としては、誰の手にも所有されていない。真理を求めるとはいつでも、交わりの心構えのあること、他者からも交わりを期待すること、をいうのである。心から真理を求める、従って又交わりを求める人、このような人とは、無造作にあらゆることについて率直に物が語られうるものであり、そして又このような人自身が、同じように振る舞えるのである。ただしこの場合、このような人は、彼に耳を傾けようとする者を傷つけもしないし、手控えることもしない。自由の状態での真理のための闘争は、愛しながらの闘争なのである。289


b 権力と政治的自由290…
政治的自由は純粋悟性によって存立するのではなく、合法性に結びつけられているのである。294
 あらゆる人間には共通しないもの、すなわち世界観、歴史的に特定な信仰、それぞれの活動の場をもつはずのあらゆる特殊な傾向、こういったものがどのような地位を与えられるかが問題である。それらに共通しているのは、それぞれの活動の場を要するということだけである。300
そもそも世俗的問題を処理する仕方は聖書信仰そのものから出てくるのではなく、信仰の現象たる教会的に規定された特殊性から出てくるのである。キリスト教徒が欲しえないのは、ただ悪だけである。(;確かに、どの政体が良いかという社会科学的問題は、個人の内面を問題とする宗教・哲学とは別な問題なのだろう)ところがしかし、冷静にその本来の意義だけに制限される政治の熱情が、信仰から初めて可能であるからこそ、敬虔なキリスト教徒たちは、自由としての近代世界を生み出したのである。信仰は政治の内容を形作るのではなく、政治の基本的信念を作るのである。302
 もう一例あげるとマルクシズムは、科学的マルクシズムとしては、きわめて変化に富む認識方法であったが、絶対化された歴史哲学的社会学的全体観としては、それは一つの科学的に証明可能な誤謬となり、狂信的な世界観と化したのである。剰余価値の私的独占を排除するための大企業の生産手段の社会化とは、信心深いマルキストならでも、当をえたものとして目ざされてしかるべき政治的目標なのである。ー302
世界観的な信仰の動きは、政治においては自由の敵として働く。というのは、信仰の闘争をもってしては、何ごとも語られないからである。しかも政治にあっては、すべての人が相互に語り合い、生活問題の解決のために協調を学び知ることが肝要である。生活問題では、あらゆる人間は、信仰、世界観、関心の相違を全く越えて、結びつきうるものである。302-3
(選挙…それに比べ独裁政治の簡単さ)このわき道は、個々の集団の自己宣伝をへて、奴隷支配に通ずる。奴隷たちは幼稚なままに、自分らは自由であると思い込まされているが、彼らの考えは宣伝で形作られ、まやかしの舞台装置で目を塞がれている。こうしてみれが、たまたま人道的な独裁が起こるのも、よくよく恵まれた場合のことなのである。
 民主主義者も独裁者も、両者とも民衆に呼びかける。306-7
 トックヴィルは、フランス革命のいろいろな現象を直視して、多数者への征服ということが秘める深刻な意味を把握した。人間理性が崇拝され… <<これらの人びとが行った以上に、社会の英知に信頼が示されなかったことは決してなかった。>>彼らは群衆を、ほとど神と同じくらい軽蔑した。<<多数者の意志に、心から、敬意を込めて服従するなとどは、彼らにとってみれば、神の意志に服従するのと全く同様無縁なことであった。フランス革命以降、ほとんどすべての革命家が、この二重性格を示すようになった。…309
しかもわれわれは、カエサルの君主制による自由の傷害と独裁が見抜かれた時に、第一世紀のローマにおいてタキトゥスとロンギヌスが、精神的生活はただ政治的自由においてのみ可能であると書き留めれ以来、西洋にあっては政治的非自由が、精神的沈滞すらの原因であるとして、再三どれほど非難されてきたかを心得ているのである。312-3
そもそも、法に奉仕して力を使用し、権力を法的に統制された権力たらしめ、政治において単に利害を訴えるだけでなく人間の飛翔の衝動に訴えかけ、人間のもっとも高貴な力を挙げて道を求める、こういった意志は全然論理的に一貫して明瞭なものではなく、思い巡らしても完全に瞭然となしえない。このような意志は、ひたすら歴史的に、おのれの道を見いだしうる以外にない。314
そのものとして政治方針の中に組み込まれている信仰は、信仰としては早くも堕落している。信仰は、ただ暴力なき自由の空間にある限り、真理として発生する。しかしこの場合信仰は、実践を動かす熱意の決定的根拠なのであり、実践においてはこの熱意をもって、社会主義と世界統一の理念が支持されているのである。315
 特権を廃し、正義を基準となし、すべての人が共に働き共に生きる状態を秩序づけようとする意向、傾向、計画はことごとく、今日社会主義の名で呼ばれている。社会主義はあらゆる人間の自由を可能にするために、労働ならびに労働収益の配分を組織化しようという、現代の人類にあまねく見られる趨勢なのである。その意味では、今日ほとんどあらゆる人が社会主義者である。社会主義的要求は、あらゆる政党にも見いだされる。社会主義は現代の特徴である。316

II 基本的傾向315
a 社会主義315
 1社会主義の源泉と概念315
 2権力318
 3計画化と全体的計画化320…
すなわち、自由市場での交易によりすべてを繁栄させる世界経済の、全体としては無計画で、適度に理性的な進歩は、予備条件として世界平和を前提とし、平和を目標とする。ーこれに反し、全体として計画的経済で一見理性的ではあるが、実際は貧困の増大を伴い、交易を遮断したり国家監視下に置き、一国の自分だけの瞬間的な利害のみを基準とせざるをえない事態は、両大戦の生んだ結果であり、そして又それ自体として、新たな戦争への傾向をもっている。
 ▼要するに、何らかの窮迫状態が計画化の源泉である。最初の窮迫、すなわち戦争ゆえの窮迫が全体計画化の源泉である。
 ところがこのような窮迫にあっての計画化の意義も名分も、国家的権力意志、防衛ならびに征服意志が、全体計画化により瞬間的エネルギーの最大量を獲得するという事実により変えられてしまう。322


 4経済構造の未来像、自由競争か計画経済か?324
 5計画化の手段、すなわち官僚制330…
 このように官僚制が、もともと意義に充ち、自己をわきまえ、人間味ある人柄によって担われる支配形式でありながら、あまねき阻害と圧制の、不毛の装置に堕した事実は、客観的には次のように描写できる。
 ▼そもそも官僚制は手段である。しかしそれは、自己を自己目的とする傾向がある。決定的な歩みは奉仕する道具たる官僚制から、自立化した官僚制への一歩である。自働機械化した官僚制は、この際自己制限のエトスに代わって、無際限の自己拡張への傾向を発揮する。332
 この安定と保身は可能である。というのは、この機構がほかならぬ複雑化のゆえに、公の監視をまぬがれているからである。それは見通しの利かぬほど複雑であり、批判にとっていよいよ及びがたいものとなっている。ついにはこの機構は、部外者の誰にも見通されず、その中にいる者でさえ、わずかしか自分の領域が見通せなくなってしまう。機構は民衆の側からも最高統治者側からも、手を触れえぬものとなってしまう。それは完了たちの利害連帯性から生まれた生き物なのである。333

 6有意義な計画化の限界334…
 人間界のあらゆる全体計画の実際活動は、あたかも人間が隅々まで知りつくされているかのような人間観や、人間というものの認識にあっての上で懐かれる期待やらをもって、運営されている。この場合、二つの相反する考え方がある。
 一方の考え方では、人間とはいつでも変わらぬものである、人間としての本質を変えない全人間にできるだけ多くの財と自由とを与えるために、社会の構造は、とにかく存在する通りの人間とともに作られている、と考える。
 他方の考え方では、人間は必ずしも同じままとは限らない、人間は彼が生きる状態により、あるいは彼自身により、変わるのであり、幾世代も経過するうちに人間の身に起こる、見通しがたい転変の途上にある、ー従って社会の構造は、人間が真の人間存在を目差して変われるように作られているのである。任現存在の理想は、計画によって目論まれている目標なのである。ある変革を経験した人間が出現して、新しい社会状態が可能でありうるのであって、このような状態を通じて初めて、新しい人間が可能となる、と考えられる。このような考え方は、まるで計画する人間が、人間というものを知識として見通しうるようであり、芸術家が与えられた材料から作品を生み出すのと同然に、人間を作り出そうとするかのようである。これは、人間の上に人間を置く傲慢である(例えば若いマルクスの理念や、ニーチェの超人に見られる)
 しかし二つの考え方のいずれも真ではない。どれも正しい道を示さない。むしろわれわれは、自由のためにつくす決意に基づいて生きる以外にない、しかも、この決意を一の原動力となすというのも、この決意から生ずるものを知らぬという謙虚さに裏づけられている。343


 7社会主義と全体計画化345
 全体計画化において確実に獲得されるべき人類の救済に熱中して、暴力をもって未来の形成に着手する共産主義としての社会主義と、自由のデモクラシーを協調裡に漸進的に実現する理念としての社会主義とは相隔たることほど遠い。前者はそれを信奉する人間を、科学を装って登場する一の信仰の中に呑み込み、不信心者を思いのままに処理できる暴力の材料として浪費の限りをつくす。後者は人に魔法をかけるようなまねはせず、現在に生き、冷静な理性と人間味ある不断の交わりを要求する。345
 正しい世界組織というものは存在しない。正義はあくまで無限の課題にとどまる。正しい世界組織を建設するつもりになっている、人間の計画たる無理な固定化にあっては、正義は害されざるをえない。▼そもそも自由がやめば、正義も又ありえないからえある。
 しかし歴史の道があくまで開いているからといって、すべての人ないし各人の自由意志をあまさず解放することも、やはり課題を誤るであろう。何ゆえならば、このようなことは不正を増大させるであろうし、正義がなければいかなる自由も可能ではないからである。
 社会主義はその生い立ちからして、万人のための自由と正義という理念を維持している。社会主義は絶対化とは関係がない。社会主義は理解されることによって、どの人にも受け容れられうる。それはあらゆる人を結びつけうる。このことは社会主義が狂信的となり、絶対化ゆえに空論化し、暴力的となる場合には、もはや可能ではない。348
自由はきわめて大きな危険にさらされているのであるから、自由を欲するあらゆる人が、言行において彼らの全存在をあげて常時自由のために力をつくす場合に、初めて自由は栄えることができる。自由への無関心と、自由を所有しているとの自己確信が、そもそも自由を失う始まりなのである。
 自由の理念は、人間存在たるにふさわしい。349

 8全体計画化の動機と全体計画化の克服350…
 少なからざる人間が全体計画化を、窮迫からの唯一の逃げ道と思い込んでいる。全体計画化を不問のまま最善と思い込むのが、多数の人にはまるで定見であるかのようになっている。強制的組織化が窮迫と無秩序を克服し、福祉をもたらすであろう、と考えられている。350
 人間が、世界の中で具体的に把握できる目標を追う代わりに全体を見渡しうると思う時、人間は自分をいわば神となすのである、ー人間は超在へのかかわりを失う、ー彼は目かくし皮をつけた馬のように周囲の状況がわからず、このため世界の中では単なる運動があるにすぎぬとか、正しい世界組織が恒久的に建設される、という仮象のおかげで、物事の根源と根拠の経験が彼から失われる。彼はテロと独裁の装置に堕してためらわないのであるから、彼は飛翔の可能性を失う、ー351

b 世界の統一353
緒論 枢軸時代末期への史的類似354…
 世界秩序とは、絶対的な主権の放棄だけでなく、人類のための従来の国家概念の放棄を意味するであろう。行きつくところは、ひとつの世界国家ではなく(これは世界帝国であろう)、法的に限られた地域の自治体たる諸国家の、討議と決議において不断に更新されゆく秩序、すなわちひとつの包括的な連邦制であるだろう。
 ※
 世界秩序とは、内政的な自由状態の継続であり普遍化であろう。両者は、政治的秩序を生活問題に制限することによって初めて可能である。生活の次元においては、全体としての人間存在の発展、形成、充実が問題なのではなく、あらゆる人間に生来共通であるもの、もしくは共通でありうるもの、人間のあらゆる相違を越え、信仰や世界観の偏差を越えて結びつけるもの、普遍的に人間的なものが問題なのである。361


 2強国の政治的支配366
 民族国家と大国、世界の原始的区分、古典的政治的自由、距離の観念と支配の観念
 3世界秩序への途上における危険372
 非寛容、ひとたび達成された独裁は内部から再び廃止できない、絶対的破壊の危険
 4世界秩序の可能性に反対する思想383
 5世界秩序の理念385

c 信仰389
緒論389…
しかしながら信仰は、社会主義、政治的自由、世界秩序がそれらの実現の途上において、そのものによって担われなければならぬところの包括者なのである。それらはこの包括者から初めて、それらの意義を受け取るのであるから。391


 1信仰とニヒリズム392
 2現在の情勢の展望394…
このような紛糾のうちにあって、いかにキリスト教がついに優位をかちえたかは、驚くべきものがある。このものはたしか、決して一義的な形成物ではないが、しかし比較を絶した深い内容をもった信仰であり、この内容は無制約的な真摯さを特徴となし、時代を貫いて変わらず、これを前にして、あらゆる別な流儀の信仰は消え去ったのである。この事実は仕組まれたものでも作り出されたものでもなかった。394-5


 3永遠の信仰の基本的範疇400
 神への信仰、人間への信仰、世界の中でのもろもろの可能性への信仰、信仰の成果、信仰に基づく力、寛容、あらゆる行為に魂を吹き込むこと
(寛容) しかし寛容とは無関心をいうのではない。無関心とはむしろ、自己の真理への驕りから生ずるのであり、最も緩和な非寛容の形式である。要するにー他人は何であれ好きなものを信ずればよい、それは私の知ったことではない、ーという隠然たる軽蔑なのである。
 これに反し寛容は、胸襟を開き、自己の分限をわきまえ、信仰に関するいろいろな表象や思想を、ひとつの絶対的に普遍妥当的な分母に通分することなく、それらを相違性を保ったまま人間的に結びつけようと欲する。404

 4未来における信仰407…
しかしこういったものの基礎、しかも精神が生み出すすべてのものがかかわりをもつ単純なもの、すなわち真理が、大多数の者に現前的に把握されていなければならない。さもなければそれは、要求としてはっきりした形をとらずに、中途半端に終わらざるをえないのである。
 その上今日では、以前にもまして重大な意義をもつに至った問題は、読み書きを覚えた人間が、ー409,410以前には彼らは眠れる、不活発な大衆にすぎなかったがー今後果たして、実際に何を読むかということである。永い歴史を通じて、子供から大人に至るまであらゆる読書人が熟読した書物は聖書であった。今日ではこういったたぐいの伝統や教育は、散漫な読書のために広範囲に失われた観がある。さまざまな新聞があり、それらのうち、高度の精神的水準を持し、時代の最良の頭脳によって書かれる新聞は、現代に生きるどの人にも不可欠なのであるが、しかし、読んですぐに忘れる新聞読者に典型的に見られるように、それだけが唯一の読書にとどまるならば、危険な存在となる。将来いつか、人間の教育目標として、何が人間生きることに開眼させるような読書となるであろうかは、予想しがたい。410
(教会)
 それにしても、われわれ西洋の人間存在の未来を決するものは、結局われわれの信仰の聖書宗教への関係のいかんにある、というのは確実と思われる。413
 聖書宗教の変革がこれ以上成功せず、(防御の外衣をまとって生きたまま行く時代にもわたって支持413,413される代わりに、むしろ硬直した諸宗派の中で途絶えており)、そしてこのゆえに、きたるべき政治的破局に際して簡単に消されかねない可能性が考えられるとすれば、人間は人間であることを止めるわけにはゆかぬから、何か根源的に別なものが出現せねばならぬだろう。この新たなものは、われわれとしては想像しかねるのであるが、このものが、ちょうどギリシャ神話がわれわれに対して有する関係と同じく、聖書宗教はの価値を消して単なる遠い記憶としてしまうか、あるいはこの記憶すら失わせてしまうであろう。聖書宗教は、ちょうど儒教と同じ位長期間通用したであろうが、儒教も今日聖書宗教と同じ情勢と問題に遭遇しているのであり、永いといっても古代エジプトの宗教ほどは永く続いてはいないのである。
 ▼この新たなものは、一の世界帝国の強制力に便乗して、ただ外的な機会をつかんだというだけで創められるのであれば、生きたものとはならぬであろう。そのものが真に人間の魂を動かすとすれば、新たな枢軸時代というような何ものかが高まってこなければならぬであろう。この際、精神の闘いたる心の交わりのうちに発生するもの、倫理的無制約性の緊張のうちに発生するもの、啓示の新たな過程が神性により担われているのを知る歓喜のうちに発生するものが、人類の解放を示すであろう。
 その上、次のように考えられるかもしれない。すなわち、きたるべき数世紀のうちにおそらく、枢軸時代への深い理解に支えられて、現代の知識と経験により充実された、真に信ぜられ、かつ生きる根拠とされるところの真理を告知する人間が出現するだろう、人間は再び全く真剣に、神が存在するということが何を意味するかを経験し、生命を動かす精霊を認めるであろう、と。
 しかしこのことを、神の新たな啓示という形で期待するのは、誤りだと思う。▼啓示の概念はもっぱら聖書宗教に固有のものである。啓示は行われ、そして完結した。啓示の思想はあくまで、聖書宗教と解きがたく結ばれている。415
 世界の統一が信仰の統一なしに起こるだろうということが、ありそうもないと解されるにしても、私はあえて反対のことを主張する。すなわち、(世界帝国とは異なった)世界秩序という万人に拘束力をもつ普遍者は、さまざまな信仰内容が、ひとつの客観的普遍妥当的信仰内容に統一されることなく、歴史的な交わりにあってあくまで自由である場合、ほかでもなくこの時こそ、初めて可能なのである。世界秩序に関してあらゆる信仰に共通することといえば、各自がひとつの世界共同体において生存の基礎を秩序づけようとすること以外にない。このような世界共同体において信仰は、精神という平和的手段をもってする展開の場をもつのである。416
これら個人は、人間に可能な物事を、この世界の中で実現することが人間に課せられており、しかもその実現の可能性がたったひとつのものではない、ということもわきまえている。▼しかも各個人は、自分が置かれている状態、自分が働き掛ける目的を知らねばならない。われわれがその中で生活せざるをえない国家や教会につきものの暴力性をもってでなく、無際限に開かれた心、真の理性、真理と愛と誠実、これらのために働きかけ、これらのために生きること、これはあたかも、各個人が神性により命ぜられているかのように思われるのである。国家や教会の不十分さに対し、われわれはあくまで抵抗したいと思う。418


第三部 歴史の意味419
緒論 歴史的考察の意義421…
 歴史の考察は、人間存在の自覚が覚醒される機縁を与える。ー歴史像はわれわれの意欲の動因となる。ーわれわれの歴史の考え方のいかんが、われわれがもつもろもろの可能性を限界づけもし、あるいは内容ゆえにわれわれの生きることの支えともなり、あるいは又、現実から誤った道に脱線させもする。確実な客観性と解されてすら、歴史的に知られたものは単に主観にかかわりのない事実的内容たるにすぎず、われわれの生きることの要素なのである。それが何らかの権力のための宣伝に利用されると、歴史上の嘘であろうと、このものは影響力をもつのである。歴史を全体として確かめるという課題には、ゆゆしい責任がある。421
 われわれはわれわれの歴史的回想を、充分深く広く押し進めることはできない。全体としての歴史の意味を、われわれはおそらく最も容易に歴史の限界から聴き取るのである。これらの限界は、歴史でないもの、歴史の以前ないし歴史の外にあるものに面して経験され、そして又、歴史をより深く、よりよく、より広く把握すべく、具体的歴史的事実に沈潜する際に経験されるのである。424
 しかしながら、歴史全体の意味の問題は、あくまで最後的な答えが出てこなかろうと、いっこうに構わない。…424
 ▼歴史は生起であると同時に、この生起の自覚であり、歴史と歴史に関する知は一体をなしている。このような歴史は、いわばもろもろの深淵に取り囲まれている。歴史が深遠に堕ち込めば、それは歴史であることをやめる。われわれが歴史に関し、特に付け加え、強調したい点は次の通りである。
 ”第一に”、歴史には、他の実在界すなわち、自然と宇宙とは違ったものとされる、もろもろの限界がある。歴史の周囲には、存在者一般という無限の拡がりがある(第一章)。
 ”第二に”、歴史には、個体的なものの単なる実在とか、止めようもなくひたすら過ぎ去るものとかの、変化を貫くもろもろの内的構造がある。歴史は、一般者と個体との統一をまって初めて歴史となり、かくして歴史は、掛け替えのない意義をもった端的に個体そのもの、唯一ー一般的なものを示すことになる。歴史は存在の充実としての過渡的存在である(第二章)。
 ”第三に”、歴史は、どこに歴史の統一があるのか? という問いを通じて、一なる全体の理念となる(第三章)。427
 もろもろの深淵、すなわち歴史以外の自然、歴史の火山的基底としての自然、ー歴史の中に現れては消えてゆく実在の移行性、ーそれが原因で、いつでも曖昧な統一が求められるところの無限の分散、ーこういった深淵を意識して眺めると、真に歴史的なものに対する感受性が高められる。428

第一章 歴史の限界429
a 自然と歴史429…
 われわれはたしかに、自然の歴史と人間の歴史について語る。両者に共通なのは、時間の中での非可逆的な過程である。しかし両者は、本質と意味において全く異なっている。429

b 遺伝と伝統431…
人間は、遺伝おいては実質的に破壊不能なものを所有し、伝統においては完全な喪失可能なものを所有しているのである。431

c 歴史と宇宙433… 
 しかしこの宇宙は、われわれであるところのもの、それ自体由来の点で不可解なものが、それにおいて、それに基づいて、それを通じて生起しているところの、包括する存在者の暗がりなのである。この暗がりは全体としては、天文学や天文物理学によって探求される生命なき生起という表面的様相しか、われわれに示さないが、こういったことはその大いさを想像してみても、光線のために輝きながら、室内を浮遊している塵埃、という以上には、急にはほとんど想像できない。宇宙とは、この研究可能な表面的様相より以上のものであり、明らかにされ始めているもの、▼すなわちわれわれの人間的ー歴史的開明が生み出すものより、はるかに深遠なものであるにちがいない。434
(;以後、宇宙の踏み込み難さ、別の知的生命体など)
しかしわれわれは、いつでも激しく胸を打つ驚嘆すべき事実を意識しうるのである。この事実とは、人間が、無限の時空の中で、小さなこの遊星上で、ついぞこの六千年来、もしくは連続的な伝承としては三千年来、われわれが哲学すると称するところの、問いかつ知るという営みにおいて、自覚したという事実である。
 この思惟的意識ならびに、この意識においての、かつそれを通じての人間存在という史上特異な現象は、全体としてみれば宇宙の中での微々たる事件にすぎず、全く新しく、全く刹那的であり、たった今始まったばかりである、ーしかしそれとして内から眺めれば、あたかも宇宙をも包み越えるがごとく、すでにきわめて古いのである。438

第二章 歴史の基本的構造439
a 一般者と個体439
 この一回性という様式は、われわれとしてみれば、ただ人間ならびに人間の創造物においてのみ存在するのであって、他のあらゆる実在性においては、それらが人間にかかわり、人間の手段、表現、目的となる限り存在するにすぎない。人間は自然的存在としてはまだ歴史ではなく、精神的存在として初めて歴史なのである。440
 歴史的個体への愛にとって、個体がそれに結ばれている存在の根拠が、それと同時に感得しうるようになる。愛される個体の無限性において、世界が開示される。従って本当の愛は、自己自身を通じて拡張と高揚を経験し、あらゆる歴史的存在者へと拡大され、存在者の根源における存在そのものへの愛となる。かくして愛のまなざしに対し、存在、すなわちこの唯一の巨大な個体が、世界の中で歴史的に存在しているありさまが明らかとなる。しかしこのことは、ある個体の、ある個体に対する愛の歴史性において初めて明らかとなるのである。
 歴史の存在様式には、歴史的認識の特殊性が対応する。史学的研究は、実際に即した理解のためにもろもろの前提を作り出す。このような理解を通じて、又この理解の限界において、研究自体がもはや近づきえぬもの、しかも研究主題の選択や、事の軽重本末を区別する選択の際に、研究を導くものが、われわれに現れうるのである。われわれの認識の対象となる、つねに一般的なものを介しつつ、研究はその限界において、決して一般的にあらざるものとしての、歴史の掛け替えのない個体的なものを示す。このような個体的なものに気づくと、認識を越えた次元、しかもただ認識を経由する以外に到達できない次元において、われわれは個体的なものと結ばれるのである。
 われわれが歴史的特殊者として所有しているもの、すなわちわれわれの歴史性が、われわれをして、唯一の個体へと、すなわち全体史へと前進させる。あらゆる歴史性は、このようなひとつの包括的歴史性の根底に根差しているのである。442-3

b 歴史の過渡的存在443…
 一回限りの唯一のものがいよいよ決定的であればあるほど、ますます同一的反復の可能性は減少し、歴史はいよいよ真となる。およそ偉大なるものは、過渡期における現象である。
 歴史が存在の開示であるならば、真理は歴史においてつねに現前的であるが、しかし決して完結されず、いつでも動きの過程にある。真理は、もしそれが究極的に所有されていると信じ込まれているならば、失われているのである。この動きがいよいよ徹底的であるほど、ますます深い根底から真理は現われうる。最大の精神的作品が、時代の限界における過渡期の作品であるのは、この理由にyるのである。二三の実例をあげてみよう。443
(ギリシャ悲劇)
 ”エックハルト”の神秘思想は、それが教会信仰的であると同時に、新たな自由な理性の始源でもあったがゆえに、きわめてとらわれのない果敢なものであった。この思想はなお、無責任な矛盾性の破滅的遊戯に堕さず、何ら破壊的衝動をもたず、そして思想にいかなる限界をも設けぬ最も広い視野をもった人間の可能性に基づいて生きているがゆえに、最深の洞察への道をも、同じく伝承の解体への道をも開いたのである。444
(ドイツ観念論の哲学)
 精神史上の最も著しい現象は過渡的変遷として、終結であると同時に端緒なのである。これら現象は、ただこれらの発生した歴史的な場所においてのみ、根本的に真なるものとしての中間的存在であり、この真なるものは、その後も回想に対しあくまで掛け替えのない姿で現われながら、しかも反復もできず、模倣もできない。人間の偉大さは、こういった過渡的移行という制約下にあるように思われる。まさにこの理由で、彼らの作品は、無時間的な形成物へと時間を乗り越えながらも、実は後世の人にとっては、決して真理ではなく、われわれ自身彼らに燃え立たせられ、彼らによって心を動かされるにせよ、われわれはその真理と全く同一となりえないのである。445(;真理は常に中間者)
 完結的真理と、存在自身の深みに由来する曇りなき実相を、われわれは歴史のどこかで見たいものだと思う。しかしわれわれがそれを見たと信ずる時、われわれは幻覚に堕ち込んでいるのである。
 ロマンティークは遠い過去の一時代を想像したが、そこでは人間存在の極みは神とともに生きることであり、このような過去は解釈可能な痕跡として以外には、われわれに伝えられていないが、一の感動的な沈黙なのである。当時は真理があった。われわれは消えなんとする残光をとらえるのに急なのである。このように見れば、およそ歴史とは、初めの資本(もとで)の喪失といった観がある。445-6
 歴史的には、過渡的移行も又そのつど特殊なものである。いかなる移行が、まさしくこういった様式の存在開示を可能にするのかが、問題なのである。われわれが過去の大きな過渡的時代に照らして参考にできるのは、ただこういった可能化に関してだけである。
 かくして歴史の根本特徴とは、歴史が端的に移行そのものであるということである。本質的には持続するものは歴史本来のものではない、ーあらゆる持続的なものは歴史の基礎であり、材料と手段である。これに付属するのは、歴史の終わり、人類の終わりが、かつてはその始まりがあったのと同じく、いつかはくるという考えである。後者ーすなわち終わりと同じく始まりもー、われわれには実際的にはきわめて隔たっており、それはわれわれには感知できぬが、しかしこの始まりから、いっさいを蔽うてあまさぬ、ひとつの基準が生じているのである。448

第三章 歴史の統一性449
緒論449…
 人間をこのようにみなすことは、植物的な多様性を記述し分類するのと同じように人間を取り扱うことを意味する。このような現象は、一団の多数者が示す偶然性であり、この多数者は<<人間>>属としてある種の典型的特徴を示し、その点あらゆる生物同様、許されたもろもろの可能性の範囲内で、さまざまな偏差を示すものと考えられる。しかしこのような人間の自然化は、真の人間存在を消滅させてしまう。
 そもそも人間が示すありとあらゆる多様な現象のうち、本質的なものは、人間が相互にかかわり合うということである。どこであろうと人間が相互に出会えば、彼らは相互に関心をもち、反感を懐いたり共感を覚えながら向かい合い、相手から学び取ったり、意志の疎通を図る。この出会いにおいては、いわばおのおのが他者において自己を再認し、同時に他者から自己を独立させ、他者が他者自身として承認されるのである。この出会いにおいて人間は、たとえ彼がどれほど自己の特殊性を帯びていようと、あらゆる他の人びととともに一者にかかわりがあることを経験する。この一者を彼はなるほど所有もせず、知りもしないが、しかしこの一者は彼を気づかぬうちに指導し、あるいは瞬時のうちに、あらゆる人をも犯す熱狂をもって襲うのである。
 かくみなせば、歴史の中でまとまりなく繰り広げられる人間の諸現象は、一者に向かうひとつの動きであり、ーおそらくこの動きは一なる根拠から由来し、ーいかなる場合にも、多様な現象の分散のうちにそのまま究極的本質を示すような何らかの存在者ではない。450

a 統一を暗示する諸事実451
 1人間本性の統一性451
(3)歴史においては、一回限りの創造、破開、実現として、繰り返しえず、代償しえぬものが明るみに出る。このような創造的な歩みは、いかようにしても因果的に理解されず、必然的なものとして導出されないのであるから、これらの創造は、単なる生起の経過とは別な源泉から発する啓示のようなものである。しかしこれらがひとたび存在すると、以後の人間存在を基礎づける。これら創造的な歩みから人間は、彼の知識と意欲、模範とその反対物、彼の基準、考え方、象徴、内面の世界等を獲得する。これらの歩みは、相互に理解し合うひとつの精神に所属し、あらゆる人に問いかけるがゆえに、統一への歩みなのである。456

 2普遍的なもの457…
 しかしこのような普遍的なものは、人類の真の統一性を形作ることは全くできない。反対なのである。開示されている真理の深みに視線が投げられるならば、特殊なものの内に歴史的に偉大なものが見いだされるであろう。しかし普遍的なものにおいては、一般者、非歴史的に恒常なもの、いわば気の抜けた事実的なもの、単に悟性的に正当なものが、見いだされるだろう。457


 3進歩458
 4空間と時間における統一461
 5幾多の特殊な統一464
b 意味と目標による統一466…
 かくして混沌たる衝動は、最高度の清明な意識になる。人間が限界状況の中で最も決然と自覚する時、ー人間が最も深い問いを発する時、ー人間が創造的な答えを見いだし、それによって彼の生活が導かれ、形成される時、そこから意味の統一が生じる。人間存在の頂点による統一は、道具や知識の普及にあるのではなく、征服や帝国形成の大きさにあるのでもなく、殺人的な苦行やトルコ兵の教育のような極端な形成にあるのではない。ー又、諸制度の持続性や安定性、もろもろの固定化にあるのでもなく、ー最も深遠な自覚、本質的な開示の輝ける瞬間にある。467-8


c 全体観的思惟にとっての統一470…
歴史はただ偶然にすぎぬ多様性ではなく、偶然的なものの示すあらゆる特徴が、歴史の一大基本的特徴に含まれるのである。478
 軸とは、隠れた内部にあって、その周りをつねに前景たる現象が巡るものであり、それ自体は無時間的であるが、あらゆる時代を通じて続き、単に現在的なものの砂煙りに包み覆われているものとして考えられたのではない。むしろ軸という名称は、西暦前最後の千年期の中頃の時代に与えられたのであり、先行するいっさいはそのための準備のように思われるし、それ以後のいっさいは、事実として、かつしばしばきわめて意識的にそれに環帰している。人間存在の世界史は、この軸あるがゆえにその構造をもつものである。それは、われわれが絶対性と唯一性を永遠に主張してよいような軸ではない。そうではなく、それは従来までの短い世界史の軸であり、あらゆる人間の意識において、彼らによって等しく承認される歴史の統一性の基礎を意味しうるようなものなのである。こうなるとこの実在的枢軸時代は、人間存在がこぞってそれを中心として巡りつつ結集するところの、一の理想的な軸の化身であるだろう。478


総括478…
 しかしこの目標は、単に万人に共通に獲得されるべき生存の基礎にかかわるにすぎない。このような統一は、あらゆる人間的可能性のための諸前提のうち、なるほど限りなく重大ではあるが、しかしそれは究極目標ではなく、やはり手段なのである。479
 歴史の統一は人類の一本化として、決して完結されぬであろう。歴史は起源と目標との間に成立し、そこに統一の理念が働いている。人間は、歴史という大道を進んでいる。しかし人間は、究極目標に到達して道を閉じるのではない。人類の統一とは、むしろ歴史の限界なのである。いうなれば、到達され、完成された統一とは、歴史の終わりを意味する。歴史とはあくまで、統一に関するもろもろの観念や思想をもってする、統一に導かれた動きなのである。481
 統一の観念は、もしそれが象徴以上のものであるというならば、欺くものである。目標としての統一は無限の課題なのである。というのは、われわれに認められるあらゆる統一は特殊的であり、ありうべきひとつの統一の前提にすぎない。さもなければ、それはあらゆる特殊性を塗り潰す水平化にほかならず、この背後には測り知れぬほど深い隔絶、衝突、闘争が隠されているのである。482
 全体としての普遍史が一者から一者へと進むにしても、とにかくわれわれに近づきうるものいっさいは、これら両極の間にあるという事実は動かしがたい。だからこそ、もろもろの統一が生まれてくるのであり、統一が熱烈に求められるのであり、そして再びもろもろの統一の熱心な破壊が繰り返されるのである。
 かくして最も深い統一は、眼に見えぬ宗教、相互に出会い共に所属するところの精神の王国、魂の調和のうちに存在が開示する隠れた王国として、われわれの渇仰の的になる。しかし歴史としては、あるものはあくまで動きであり、それはいつでも始めと終わりの間にあって、それが真に意味するものを達成したり、あるいは持続的に実現するなどということはないのである。482-3


第四章 現代の歴史的意義484
a 研究方法の多面性と厳密性485…
代表的なものはマックス・ウェーバーと彼の業績、すなわち全体像の固定化に堕さずに、最も広汎な視野を保つ歴史観においての明確な多次元的な理解のし方である。485
b 全体思惟の克服485

 われわれは全体史に関する回想的知識を所有していない。それにもかかわらず、われわれがつねに求めてやまないのもそのような知識である。われわれがその中で一回限り短い時の間を占める全体像が、われわれの意識に、そのつどつど視圏を構成している。486
 こうした事態に対処して現代に取るべき態度は、すぐ前に述べたごとき否定的な全体像をも含めて、あらゆる全体像を決定的なものとせず、われわれの空想に対してありとあらゆる全体像を提示して、どれだけそれらが実際と適合するか験してみることである。それと同時に、そのつどとにかく、他の像を個別的契機とする一の包括的な像、それをもってわれわれが生きる像が、結果として生ずるであろうが、このような像をもってわれわれは、われわれの現在を自覚させ、われわれの状況を照明するのである。487
われわれが真理を手に入れるのは、われわれが全体に通ずる因果性に代わって、もろもろの限定された因果性を無限に探求する限りにおいてである。あるものが因果的に理解可能となる限り、そのものはこのような意味で認識されているのである。あるものが非因果的に起こったという主張は、決して照明しうるものではない。しかしわれわれの省察は、歴史において、人間のもろもろの飛躍、予期されぬ内容の出現、幾世代もの連続のうちでの変化が存在するのを認めるのである。488
 歴史の全体性とは開かれた全体をいうのである。これに対処するに経験的態度は、わずかの事実しか知らぬことを自覚し、新たな事実を把握しようとたえず心掛ける。哲学的態度は、絶対的世界内在のあらゆる全体性を崩壊させる。経験と哲学とが相互に要求し合っているならば、思惟する人間にとって、もろもろの可能性の空間、そして自由が残っている。開かれた全体は、思惟する人間にとって、始めも終わりもない。いかなる閉鎖的な歴史像も認めえないのは当然なのである。488-9

c 単なる審美的考察の克服489…
歴史との真の交渉は、われわれと歴史との闘いなのである。歴史はわれわれの関心をひき起こす。歴史においてわれわれの関心を引き起こすものは、不断に拡大される。そしてわれわれの関心をひくものは、これがすでに人間の現在の問題なのである。▼歴史は、審美的享受の対象にとどまることが少なければ少ないほど、ますます現在的となるのである。490

d 人類の統一490…
マックス・ウェーバーの比喩をもってすれば、世界史とは、悪魔が破壊されたもろもろの価値をもって舗装する街道のようなものである。
 このようにみれば世界史は、見渡せぬほど多数の因果的な連続と形成という点を別にしては、いかなる統一も、従っていかなる構造や意味ももたない。このような因果連関は自然生起においても現れるのと変わりはなく、異なるのは歴史における因果連関が、はるか不正確であるということにつきる。
 しかし歴史哲学とは、このような世界史の統一、意義、構造の探求を意味する、ーしかもこのような歴史哲学が初めて、全体としての人類をとらえうるのである。491

e 歴史と現在はわれわれにとって不可分となる491
 歴史的意識は、二つの対立した態度を含む緊張状態にある。その一方によって、私は歴史から退き、それぞれの基本的輪郭と細部を具えた遠い大山脈を全体として眺めるように、私に向かい合っているものとして歴史を眺める。他方によって、私は全体としての現前性、存在しかつ私がその中に存在するところの今を認知するのであるが、この今が深化すると、私にとって歴史は、私自身であるところの現在になる。492
 普遍的歴史像と現在の状況意識は、相互にもちつもたれつの関係にある。私の過去全体の眺め方のいかんと、私の現在の物事の経験は相関する。私が過去の物事にいっそう深い根拠を獲得すればするほど、現在の事の成り行きへの私の参加は、ますます本質的となる。
 本来私は何に所属し、私は何のために生きるのか、これを私は歴史を鏡として初めて知るのである。<<三千年の歴史を自分に説明できぬ者は、その日その日を送りはしようが、経験に乏しく蒙昧にとどまる>>ーこの言葉は意味の意識、ついで場所の意識(定位)、そしてとりわけ実体の意識を言い表わしている。493

第五章 歴史の克服495…
非本質的として省かれたものが、包括的な本質性を獲得する。歴史の終結づけは不可能と思われる。それは永劫から永劫へと経緯し、ただ外からの災禍だけが、人間の意向にかかわりなくいっさいを断絶させうる。495
 しかしわれわれにとって、知られたアルキメデスの点は歴史の外には存在しない。われわれはいつでも歴史の中に存在しているのである。歴史の前であろうと横であろうと後であろうと、あらゆるものの包括者、存在そのものへと強引に押し入りながら、われわれは、対象的知の形をとりうるものならば、このようなアルキメデスの点であろうものを、われわれの実存として超在に求めているのである。495-6
(…自然に眼を向け、歴史を越える…)
しかしこういったすべては、全く沈黙している自然存在の一過的に経験される神秘、われわれが善とか悪とか、美とか醜とか、真とか偽とか称するものの彼岸の存在、非情で仮責なくわれわれを突き放す存在、こういったもの以上のものと考えられるならば、誤りである。496
(5)
 このようなわれわれの下層に横たわる無意識は二通りの意味をもつ。それ自体で存在し、かつ永遠に開明されぬ自然としての無意識、ーならびに、開明への衝動をもつ精神の萌芽としての無意識である。499
われわれは歴史を無意識的なものへと克服するが、これはむしろ、この克服を通じて、高められた意識に至らんがためなのである。
 とにかくわれわれ人間がせっぱづまるといつでも、そうした気持ちに駆り立てられるのであるが、無意識状態への▼衝動は誤りである。500
(6)
 歴史はそれ自体が超歴史的なものへの道となる。偉大なものをー創作、行為、思想においてー観照すると、歴史はまるで永遠の現在であるかのように光彩を発する。それはもはや好奇心を満足させるのではなく、高みへと飛翔させる力となる。歴史の偉大さは、畏敬の対象として、われわれをあらゆる歴史を越えた根拠に結びつける。501
(7)全体としての歴史の把握は、結局歴史を越えることになる。歴史の統一は、それ自身がもはや歴史ではない。501-2
(8)
 しかし歴史そのものの中では、予想される未来の展望はどこまでも残る。それはおそらく、今後長い、それもきわめて長い人類の歴史が、今や一体化された地球上で営まれるであろうという見通しである。このような未来が見込まれるものとすれば、この際どの人にとっても、<<彼が未来においてどんな状態にありたいのか、何のために力を尽くそうとするのか>>という、自己の意欲の自覚と決意の選択の問題が、ひしと迫るのもまぬかれがたい。503


解説にかえて ヤスパースの歴史論にちなんでの覚書

ヤスパースが<<状況>>第四部第二節においていわば”実存哲学宣言”を行う場合、先述の三人の先達と異なるものとして自己を打ち出していることが銘記されなければならない。これは当たり前な話であるが、当たり前が当たり前に通用しない随意勝手な取り扱いが横行し、例えばキルケゴールとヤスパースが全く同一視されて論じられ、一方の罪は他方の罪でもあるとされ、連帯責任を追及されるというめちゃくちゃな論術が無反省に行われるのである。522

なおヤスパースの思惟がいっさいのドグマ的固定化を避けた浮動とか、流動して留まるところを知らぬ超越する思惟を本領とする点にも心を留むべきであろう。こうした思惟過程は西洋哲学史上では類例がないわけではないにしても、何としても少数派であり、極めて常識的な意味で東洋思想なかんずく仏教哲学史の主張に近い気がするのである。522

p538 カント、ヘーゲル、…等のH.I>maru の思潮系譜

しかし注意すべきはこうした比較文明論がややもそれば相対主義に堕するのに、ヤスパースの歴史論が並べられるのは、相対主義を克服しなおかつ真の比較を可能にするものがヤスパースによって可能となる事実である。これは、そもそもヤスパースの哲学の出発点たる<<世界観の心理学>>自体が、一応類型学とみなされうるにかかわらず、真底の深い意図は類型学を越えている事実と呼応する。539
(マンフォード)
彼によれば、現代といわず歴史上全人類が神経症に罹患しているものと診断される。このためには精神分析をほどこして、忘却された遠い過去に受けた外傷(トラウマ)が発見されるべきなのである。人間本来の自由の忘却と人身犠牲が要求され、人間の狂気を要求してやまぬモロクの神へ奉仕するものに堕する。こうした文明人のタイプに対抗すべく出現したのが、覚醒した枢軸的人間の意義ということになる。547

具体的にいえば、わが国最近の事情では、大衆を批判することは一部の人々から反民主的とか、反動とか呼ばれかねないのである。大衆とは救われるべき犠牲者であり、これに鞭打つなどとは錯誤だとでも考えられているらしい。忌まわしい現象があるとすれば、それは社会体制のせいである、ということになる。ここに重大なすり代えが行われ、人間としての責任も義務も、往々にして甘やかされた扱いを受けているのではなかろうか?551

鈴木三郎 実存の倫理 理想社 s27,4b s38
武藤光朗 社会主義と実存主義 創文社 s33, 6b s38

もう一つは、”歴史的認識における実存の機能”とでもいうべき、”実存哲学的認識論的な意義”、これがほとんど注意されていない。簡単にいえば、”歴史的認識において実存ゆえに増す理解の透徹力ないし洞察の深み”、こういったものが充分評価されるべきである。555

だからカルタゴ史叙述の過程において、ローマ史は超歴史であるといってよい。個別の探求に一般的命題の全体像が先行するということはごくあたりまえの論理である。…
ヤスパースはまず歴史を完結しない個体の実存と見て、歴史は完結しているものすなわち全体像または統一理念というものをいつも自明のものとして前提しているという。歴史をつくるには歴史ならざるものを前提とする。歴史はいつも歴史でないもののあとについて行かなければならない。しかし個体はたえず無完結のものとしてその自分を包んでいた完結体を内から突破してゆくものである。そうやって高度の全体の中に包みこまれてゆく。歴史はそういう意味で絶えざる超越であるということを示した…558-9

”批判的歴史”のかの徹底した形式があるが、それをわれわれはヤスパースに見いだす…彼は未来に対し開いた態度を持し、歴史が閉じられておらず、起源も目標も示されないがゆえに、歴史を一つの”探求の場”と解する…しかしながら歴史なるものがばらばらの偶然に崩れ去ってはならぬものとすれば、歴史の理念は不可避である、それどころか彼は「人類は唯一の起源と目標をもつ」という信仰箇条を充分意識しつつ要請しているのである。>>572

(クリューガー)
それはハイデガーの存在論的態度と存在的実存の限られた視圏からの拘束の問題、少なくとも<<存在と時間>>において徹底的に学たろうとする哲学であった基礎的存在論、これは人間的現存在の存在からの了解を説くのであるが、現存在そのものの意味がそもそも何らかの存在者によって語られねばならない。ハイデガーが古代の存在論とは別にアルケーを求めているのは、何らかの神的現存在においてではなく、人間的現存在においてであり、これはこうした究極の根拠の本質からして、永遠にあらず、ただ時間のみを示しうるにすぎない>>と、ハイデガーの項を結ぶ。これで果たして歴史主義を克服して、真理と学を新たに基礎付けうるであろうか、という疑念をクリューガーは言いたいようである。579
これに続いてクリューガーはヤスパースの項に入ってはっきりと、<<ヤスパースは実存哲学の第二の形式を形作っているが、それはわれわれの問題にとって、ハイデガーよりも重大な一歩を先に進めている。>>かくして<<ヤスパースは近代的思惟とそのアポリアの最も外なる限界に衝当たり、ニーチェの宣したニヒリズムに直面し、近代的思惟の否定がそれと共に開始されたところの形而上学的神学へと環帰する。しかし彼はこのことを古代及びキリスト教的哲学の意味で行うのではなく、近代的啓蒙の地盤に基づいて行うのである>>とヤスパースを高く評価する。580

実存哲学を動かす有力な動機の一つは歴史主義の克服に外ならなかった。ヤスパースの歴史哲学は、認識論的にしろ形而上学的にせよ方法論的にせよ、殆ど主著<<哲学>>において実現されているのである。581

更に本書を動かす意図は、現実に動きつつある世界史、ようやく真に一堂に会した地球上の全人類に強固な連帯意識を植えつけようとするところにある。あらゆる人間に歴史性の相違を超えて共通する一つの地盤を見出そうとする努力は、ヤスパースにとって<<世界観の心理学>>から最近の<<啓示に面しての哲学的信仰>>に至るまで一貫する基本的態度であり、この態度が彼の哲学観と哲学史観の重要な柱であるばかりでなく、彼の世界観史を支え、それだけに尽きず、今後の世界と人類の統一と理解にも大きく役立ちたいと念じているのであるが、このようにキ581,582リスト教の枠をはみ出た<<枢軸時代>><<人類の普遍的根本知>><<哲学的信仰>>といった概念は、当然のことながらキリスト教側からは受け容れられない。582


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