ずいぶんむかし、若い頃(1977年)大学5年生?、わたしは神神の座といわれるヒマラヤに行き、チベットのシェルパ族の人々に接して、仏教に興味を持って帰りました。
日本人のわたしたちの多くは、「お経」を、葬式や法事の時に、サンスクリット語(チベット語)の中国語翻訳の要約バージョンで聞いているのですが、
お寺さんが何語で何を言っているのか、
同じ日本人のお坊さんが、
何を言っているのか知りたく、

例えば、「法華経」で、
”みょーほーれんげきょーほーべんぽんだいに にーじーせーそんじゅーさんまいあんじょーにーきーごーしゃりほつ しょーぶっちーえーじんじんむーりょーごーちーえーもん なんげーなんにゅー いっさいしょうもん ひゃくしーぶつ  しょーふーのーちー しょーいーしゃーが……”とは、いったい何を言っているのか知りたくなり、参考書を見ながら自分にわかるような、ふつうの日本語にしてみました。

そこには、驚くべきことに、美しいが咲きがあふれ、豊かながあり、美女が舞い、おいしいがあり、神々がドラムを叩き踊り楽しんでいる、極楽=天国=パラダイス=宇宙=マンダーラ=ロックン・ロールの世界です。
いったん、この楽しさを知ってしまった幸せを、自分だけで喜んでいてはもったいないので、このHPを訪ねてくださった方に、おわけします。無料です。
”なむ・みょーほーれんげきょー” = 仏の優れた教理を説く法華経を敬い頼み従います。

(参考文献:講談社「お経・日蓮宗」1984


ちなみに、ヨーロッパ文化圏の一部では、チベット仏教を「ラマ教」と呼ぶようですが、当のチベットには、そんな呼び名はもちろん存在しません。
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によると、
チベット仏教は、チベットの国王が、仏教に基づく国作りを目指してインドから直接に後期仏教を取り入れたため、インド仏教直系の仏教といえる。仏教を取り入れるにあたって、サンスクリット語の経典を正しく翻訳できる言語としてチベット語が確立されていった経緯もあり、仏教研究においては、チベット語の経典は、非常に重要な位置を占める。
なお、中国は毛沢東ひきいる中国共産党の文化大革命で、チベットの寺院や僧侶や書物、お経・仏典仏像を、ことごとく踏み潰し焼き壊し、10万人以上の仏教徒を弾圧して、チベットを支配しています。


  参考リンク:../../www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/8433/hokke.htm
        http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/hokekyo/hokekyo.htm


 初稿:1987.08.  更新:2008.06.


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  法 華 経
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妙法蓮華経方便品第2
爾時世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知。所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣難解。舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足。舎利弗。如来知見。広大深遠。無量無碍。力。無所畏。禅定。解脱。三昧。深入無際。成就一切。未曾有法。舎利弗。如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。舎利弗。取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就。止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。
 その時に、仏陀世尊は法華経を説き明かすために心を集中して動かない状態から、ゆったりとした姿で立ち、弟子の舎利弗尊者に告げた。
「あらゆる仏陀の智慧は、はなはだ深くはかり知ることができない。その智慧に至る門は理解し難く、入ることが難しいのである。それは、仏弟子の中で、声聞・縁覚と呼ばれる修行者では、知ることができない境地である。なぜならば、仏陀はかつて悟りを求めて、百人、千人どころか、百千万億の、いやさらに無数のあらゆる仏陀にそば近く仕えて、諸仏の数限りない教えを修行し、強く勇ましく、一心に精進して、その名声は広く聞こえたところであり、そのように深く、いまだかつて示されることのなかった教えの体現を成し遂げたところを、巧妙な方便によって説いてきたが、その真実の意味はたやすくには理解することのできないものだからである。
 舎利弗よ!わたし釈迦牟尼仏は、完全円満な仏陀の境地に到達してから後、さまざまないわれやたとえによって、広く教えの言葉を述べ、数限りない手だてによって人々を導き悟りの道に引き入れ、もろもろの煩悩から離れさせてきた。なぜならば、真理を体現した仏陀は、方便(教え導く巧みな手段)波羅蜜(宗教理想を実現するための実勢修行。完成・熟達の意。現実界(生死輪廻)の此岸から理想界(涅槃)の彼岸に到達するもの)、知見(物事を悟り知る智恵)波羅蜜を既に身に備えていたからである。
 舎利弗よ!真理を現した仏陀の知見は広大であって深遠である。それは、無量であり障りなく、力があって、畏れるところなく、静かな瞑想と煩悩の束縛を解いた涅槃があり、その上に心を集中した静かな境地があって、しかもそれぞれ深く限りなく、かってない法を体得し体現したのである。
 舎利弗よ!真理を体現した仏陀は、よく種々に事理を思いはかり識別し、巧みに諸法を説き、言動は柔軟であって、衆生の心を鼓舞し悦びを与えている。
 舎利弗よ!要するに、はかり知れないほど無辺で、しかもいまだかつて示されなかった仏法を、わたし釈迦牟尼仏はことごとく体現しているのである。
 やめよう、舎利弗よ!再びこのことを説くことはできない。なぜならば、仏陀の体現している境地は、最も優れ、類まれで、しかも凡人の理解を越えた法である。
 それは、ただ仏陀と仏陀とだけが、いま不思議にも究め尽くすことのできる、あらゆる存在(諸法)の真実の相(すがた)なのである。その有様は、あらゆる存在がこのような相と、あらゆる存在の根底となる不変の本性と、このような本体と、このような潜在的な力と、このような働きと、このような原因と結果、このような間接的原因と結果、そうしたことなどが、それぞれ平等に、かつ緊密に結び合っているのである。

妙法蓮華経如来寿量品第16
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
為衆生度故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法 我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者
我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度 我見諸衆生 没在於苦海 故不為身現 令其生渇仰
因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是 於阿僧祇劫 常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時
我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆妓楽
雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽 憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁
過阿僧祇劫 不聞三宝名 諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量 寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑
当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故 実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者
為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生・恣心 放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道
随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
 わたしが久遠の昔に仏陀として最高の悟りを得てから今日まで、およそ推し量ることのできない、はかり知れないほどの長い千万億阿僧祇劫という時間が経過している。そして、常にわたしは教えを説き続け、数億の何倍もの人々を導いて仏道に至らせてきた。その教化の時間は、わたしが過去の久遠に悟りを得てから、無量劫という長い時間である。人々を教え導いて、苦悩から救うために、巧みな手だてをもって、わたしの肉体の身が滅して涅槃の境地に入ることをあらわしてみせるのである。
 だが、わたしはその時実際に死の世界に入ったのではなく、常に人々の住むこの娑婆世界にあって、教えを説き続けているのである。わたしは人々のそばにはいるが、さまざまな神通力によって、心が迷ってうろたえている愚昧な人々の前にわたしの姿を現すことはない。しかし、人々はわたしの身が滅したことをまのあたりにして、遺骨に対し種々の供養を捧げ、仏陀の教えを受けたいと恋い慕い、ぜひとも会いたいと篤い信仰の心を起こす。人々は仏陀に信じ従って素直で柔和で従順な心持ちになり、ひたすら仏陀の姿を拝みたいと願って、自らの大切な身命をも惜しまない。その時に、仏陀であるわたしは多くの弟子たちを伴って、この霊鷲山に姿を現すのである。そうして、わたしは人々に次のように語る。「仏陀であるわたしは常にこの現実の世界にあって、死ぬということがない。ただ巧みな手だての力で、ある時はわたしの肉身が滅したり、ある時は不滅であり永遠であることを示すに過ぎないのである。もしこの娑婆世界以外の所に仏陀を敬い尊び、教えを受けたいという心を起こす人があれば、わたしはいかなる世界であれ、そこに赴いて、最高の教えを説くのである。」
 ところが、あなたたち迷える者はわたしの言葉をよく聞かずに、もう既に世尊は涅槃に入り、肉身が滅してしまっていると思っているのである。わたしが多くの人々を見てみると、煩悩に苦しみ、その苦しみの海に沈んでいることがわかる。その時にわたしがすぐに身体を現さないからこそ、かえって、人々はわたしを仰ぎ慕う心を起こすのである。それらの人々の心に仏陀を恋慕し渇望する心が起こったならば、その時にわたしは姿を現して、人々のために正しい教えを説き明かすだろう。仏陀であるわたしの不思議で自在な神通力はこのようなものである。阿僧祇劫という長い年月の間、わたしは霊鷲山のみならず、そのほかのあらゆる所にあって、常に教えを説いているのである。
 この世界の滅びる時期が来て、多くの人々が劫火によって焼き尽くされる時でも、仏陀であるわたしの仏国土であるこの娑婆世界は安らかで、天上界の神々や人々で満たされている。そこには美しい多くの花園や樹林があり、楼閣や宮殿はさまざまな宝石で美しく飾られ、また宝玉の花や果実をつけた樹木が多くあって、天上界の神々や人々はその世界の中で遊び楽しんでいる。天上界の神々は天の鼓を打ち鳴らし、常にいろいろな音楽を奏で、仏陀であるわたしばかりか、悟りを求める人々に曼陀羅華という美しい白蓮の花を天から撒き降らしている。このようにわたしの国土は美しい浄土なのである。
 わたしの住む浄土はこのように美しく、決して破壊されることはないのに、それにもかかわらず、多くの人々はこの国土は劫火によって焼き尽くされると妄想し、この世界は恐ろしいことや憂いなどの苦悩が多くあって、これらの苦しみに満たされていると思い込んでいる。このように、妄想にとらわれ、煩悩に迷っている罪深い人々は、悪い行いの原因によって、阿僧祇劫という長い長い時間を過ぎても、仏陀・教え・仏法を伝える僧という宝、すなわち仏・法・僧の三宝という言葉さえも、決して耳にすることがない。これに対して、教えを求め、あらゆる善い行いを修め、我執を離れ、心が柔和で素直な人々は、わたしがこの娑婆世界にあって教えを説いているのを見るのである。
 仏陀は種々の手だてを設けて教えを説く。すなわち、わたしはある時には教えを求める人々のために、「仏陀の寿命は無限である」という事実を明かす。また長い長い時間を過ぎて、いまようやく仏陀に会うことのできた人に対しては、それだからこそ、逆に「仏陀にお会いすることは極めて難しく、尊いことなのだ」と語り示すのである。わたしの自在な知慧の働きはこのようなものであって、智慧の光は世界を照らして、まったく限界が存在しない。また、わたしの寿命は永遠であって、その時間は計り知れない。それはわたしが過去の久遠に菩薩の善行を積み重ねて到達した結果なのである。あなたたちは、真の智慧を備えているのだから、このことに疑いを懐いてはならない。疑惑をすべて絶ち尽くしなさい。仏陀の言葉はいついかなる時でも真実であって、けっして虚偽ではありえないのだから。
 それはあたかも、優れた智慧をもっている医者が、誤って毒を飲んでしまってよこしまな観念を懐く自分の子供たちを治癒し目覚めさせるために、巧みな手だてとして、自分が生きているにもかかわらず、遠く旅の地から、父は死んでしまったと伝言したことが嘘の罪に問われないようなものである。それと同じように、仏陀であるわたしもまた世の人々の父であって、多くの苦しみ、悩みの中にある人々を救う者なのである。凡夫たちが真理に迷い愚昧であるために、わたしは実在し、永遠の教化を続けているにもかかわらず、しかも肉身を滅してみせるのである。なぜそうするかといえば、わたしがいつもこの世にいて、人々がいつでも会えることができるならば、凡夫たちはいつでも救いの手を伸ばしてもらえると思ってわがままになり、愛欲に酔いしれ、眼耳鼻舌身の五感を満足させようとしてあらゆる欲望に執着し、思慮を失って地獄道・餓鬼道・畜生道という悪道の中に堕ちてしまうからである。
 仏陀であるわたしは常に多くの人々がどのような道を行おうとするのか、行わないのかを十分に知っている。ある人は正しい教えにしたがって我執を離れて境地に至ろうとしているし、ある人は迷妄におおわれて真理の道を歩いていこうとしない。それらを見定めて、どのようにすれば人々をわたしと同じ境地である悟りに至らしめることができるかを考えて、それぞれの人にふさわしい方法を示すために、いろいろの教えを説くのである。仏陀であるわたしは、いついかなる場所にあっても人々のことを思い続けている。いかにして多くの人々を無上の仏道に入らせ、しかも速やかに悟りに到達して仏陀の徳性を得られるようにすることができるかと。

妙法蓮華経如来神力品第21
諸仏救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神力 舌相至梵天 身放無数光 為求仏道者 現此希有事
諸仏謦・・声 及弾指之声 周聞十方国 地皆六種動 以仏滅度後 能持是経故 諸仏皆歓喜 現無量神力
嘱累是経故 讃美受持者 於無量劫中 猶故不能尽 是人之功徳 無辺無有窮 如十方虚空 不可得辺際
能持是経者 則為已見我 亦見多宝仏 及諸分身者 又見我今日 教化諸菩薩 能持是経者 令我及分身
滅度多宝仏 一切皆歓喜 十方現在仏 竝過去未来 亦見亦供養 亦令得歓喜 諸仏坐道場 所得秘要法
能持是経者 不久亦当得 能持是経者 於諸法之義 名字及言辞 楽説無窮尽 如風於空中 一切無障碍
於如来滅後 知仏所説経 因縁及次第 随義如実説 如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇
教無量菩薩 畢竟住一乗 是故有智者 聞此功徳利 於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑
 世の人々を救おうとするもろもろの仏陀たちは、大いなる神通力の世界にあって、衆生を悦ばせようとしてはかり知れない神通力を現わす。すなわち、広く長い舌を出して梵天にまで届かせ、身体から数えきれないほどの光を出して、仏道を求める人々になかなか見ることのできない霊妙で自在なさまを示す。さらにまた、もろもろの仏陀たちの咳払いの声と指を弾く音とが広く十方の国まで聞こえ、大地はすべて上下前後左右のいろいろな動きと地鳴りや地ひびきの6種に振動し、そして、仏陀が入滅した後に衆生たちがよくこの法華経をたもつことを見通して、もろもろの仏陀たちは皆喚起の声を上げてはかり知れない神通力を現した。また、この法華経を伝えようとして法華経を信じ行う人々を賛美することは、無量劫という限りない時間の間賛美してもなおよく尽くすことはできない。それほどに、この法華経を信じ行う人の功徳は限りなく、極まりあることはないのである。それは、十方の虚空が辺境を確かめるすべもないようなものである。そのような功徳があればこそ、よくこの経を信じ行う者はすぐにもわたし釈迦牟尼仏に出会い、また、法華経が真実であることを証明した多宝仏ともろもろのわたしの分身の仏陀たち、そしてまた、わたし釈迦牟尼仏が今日まで教化してきたもろもろの菩薩に会うのである。そればかりか、よくこの経を信じ行う人を見て、わたし釈迦牟尼仏とその分身諸仏、そして過去に入滅した多宝仏などのすべての方々が歓喜するのである。
 十方の法界にある現在仏、並びに過去仏・未来仏たちは、このありさまを見、供養し、また歓喜するであろう。諸仏が悟りを得た道場に座って体得した神秘で大切な法を、よくこの法華経を信じ行う人に長い時間が過ぎないうちに、必ず体得させるであろう。よくこの法華経を信じ行う人が諸法の意義と名とそれを語り示す言葉を理解するありさまは限りなく豊かなのである。そのありさまは、あたかも風が吹くのに空中ですべて障害がないようなものである。釈迦牟尼仏が涅槃に入って示し、われわれの前に肉体の死を現して後、釈迦牟尼仏陀が説いたさまざまな経典と、法華経が広められる因縁と順序次第とを知って、真の意義に従って真実の法をあらわし説くであろう。
 太陽と月の光明がよくもろもろの暗闇をなくしていくように、この大地より涌き出た菩薩の代表が世間に法華経の救いを広め、よく衆生の闇を打ち払い、それぞれ仏道に励むはかり知れないほど多くの菩薩をおしなべて真実の悟りへの道である一仏乗に目覚めさせ、引き入れるであろう。
 だから、仏道を求める智慧ある人はこの功徳のすばらしいことを聞いて、わたし釈迦牟尼仏が人々に死を示した後の時代に、この法華経を信じ行いなさい。そうすれば、この法華経を信じ行う人は、仏道において安住して、不動の心となって、つまらぬ疑問を起こすことはないであろう。

以要言之
以要言乃 如来一切 所有之法 如来一切 自在神力 如来一切 秘要之蔵 如来一切 甚深之事 皆於此経
宣示顕説 是故汝等 於如来滅後 応当一心 受持読誦 解説書写 如説修行 所在国土 若有受持読誦
解説書写 如説修行 若経巻 所住之処 若於園中 若於林中 若於樹下 若於僧坊 若白衣舎 若在殿堂
若山谷曠野 是中皆応 起塔供養 所以者何 当知是処 即是道場 諸仏於此 得阿耨多羅 三藐三菩提
諸仏於此 転於法輪 諸仏於此 転於法輪 諸仏於此 而般涅槃
 そこで、大切なところを締めくくって説くならば、この法華経の中に、真理を体現する仏陀の悟ったすべての教え、仏陀の自由自在な眼に見えぬ神秘的な力のすべて、仏陀が秘めているすべての奥義が納められていること、さらに、仏陀のすべての深遠な計らい、それらのすべてがこの法華経に述べられ、説きあらわされているということである。
 だから、大切な使命を帯びて大地から涌き出たあなたがた地涌の菩薩は、真理を体現した仏陀なるわたしが涅槃に入って肉体の身が滅びた後において、この教えをただひたすら敬いの心をもって信じ行い、眼で読みとなえ、広く人々のために教えを説き示し、書写し、法華経に説かれているように修行しなければならない。
 あなたがた地涌の菩薩が、ここかしこの国土において、この教えを眼で読み、となえ、広く説きあらわし、あるいは書写して、法華経の教えのとおりに修習するならば、その場所は法華経の教えが広く広まっている所となろう。それがたとえ果樹や花のある園の中であっても、あるいは林の中であっても、あるいは樹の下であっても、あるいは出家者が修行する精舎であっても、あるいは在家の信者が住んでいる家であっても、あるいは広大で壮麗な殿堂であっても、あるいは山や谷や広い野原であっても、この教えが行われている場所にはどこでも仏陀の教えを象徴する塔が建てられ、供養が捧げられるべきである。
 なぜかというと、法華経の教えが広まり、正しく実践されているこの所こそ、仏陀が悟りを開かれた場所と同じ道場なのだと知らねばならないからだ。
 すべての仏陀はこの場所で、この上ない正しい悟りを得られた。それらの仏陀たちは、いまこの場所において人々の迷妄を破り、正しい道を歩むべき教えを示された。そしてまた、すべての仏陀は今この場所において完全な涅槃に入られて、肉体の身を滅せられた。

宝塔偈
此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然 如是之人 諸仏所歎 是則勇猛 是則精進 是名持戒 行頭陀者
則為疾得 無情仏道 能於来世 読持此経 是真善地 仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼 於恐畏世
能須臾説 一切天人 皆応供養

この法華経を本当に信じ行うことは難しいのである。もし少しの間でも信じ行う者があるならば、釈迦牟尼仏であるわたしはその時悦びに打ち震えることであろう。これはわたしばかりでなく、あらゆる仏陀はすべて同様なのである。
 このように法華経の教えを信じ行う人を、もろもろの仏陀は誉め讃えるのである。この法華経を信じ行うことは、どんな困難に出会っても法華経の教えを捨てない心であり、同様に心を込めて善き行いを修めることなのである。これを仏教を信じる者の守るべき戒めを堅く守ることであるといい、すべてを捨ててもっぱら托鉢することによって仏道を修行した僧とまったく同じような境地に至る者と名付けるのである。しかも、これによって速やかに、この上なく優れた仏陀の悟りへの道を体得するのである。不思議にも未来の世に生まれて、この法華経を読み、信じ行うことは、これこそ本当に仏陀の子の行いであり、清らかで善い境地に安住することである。
 仏陀は永遠の存在である。だからこそ衆生を目覚めさせるために、仏陀は肉体の死をお示しになった。滅後の私たちのためにお示しになったその教えを十分に理解するならば、もろもろの天人やこの世のすべての人々を導く手本となるのである。仏陀が肉体の死を示してから時代を隔てた末の世になると、恐ろしい世の中になるが、その中で不思議に短い時間の間でもこの法華経の教えを説法するならば、すべての天人が皆感激してその人を尊敬礼拝することであろう。


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