兵器の歴史

劉旭『中国古代兵器図冊』(北京図書館出版社)所収「前言」からの引用です。
 
 中国は四大文明の古い国の一つです。中国古代兵器には燦然と輝く歴史があります。
 遠く五、六十万年前、私たち中華民族の祖先は一塊の石ころを使って別の一塊の石ころを打ち砕き、そのなかから使える石塊を選び出し、さらに石塊を使って使えそうな木の枝をばっさり切り取ることを知っていましたが、これが我が国(中国)で最初に製造された石器と木器の工具でした。原始社会において、仕事で使う工具と防衛に使う武器とは同じものでした。恩格斯は「我々が発見した先史時代の人の遺物にもとづいて判断し、歴史時代初期の人類と現在の未開人の生活方式にもとづいて判断するに、最初の工具は結局のところどんな物だったのだろうか。それは狩猟と漁獲の工具であって、同字に武器でもあった」(『労働在従猿到人転変過程中的作用』)と述べています。これにより、このときの一まとまりの石器と木器は、同時に我が国(中国)初の一まとまりの石兵器と木兵器でもありました。この頃より始まった我が国(中国)の古代兵器の発展は原始社会、奴隷社会、封建社会と経過していき、時間は六十万年以上にわたっています。この悠久の歴史のなかにあって、大まかに見ると、我が国(中国)の古代兵器の発展は石兵器、青銅兵器、鉄兵器と古代火器の四段階に分けられます。
 我が国(中国)の原始社会の主要なものは石兵器です。もちろん竹木兵器をも使用していました。今を去ること五、六十万年前に生活していた北京原人は、石英と砂岩を採集し、少量の燧石と水晶も手に入れ、簡単な加工を施した後、ふちが鋭かったり、先っぽがとがっていたりする石器を製造しました。これらの石器は仕事のための工具であり、防衛のための武器でもありました。旧石器時代末期になると、人々は加工した石塊を木の棒の先端にヒモでくくりつけ、石矛・石斧・標槍(投げ槍)などを製造すると同時に、遠射兵器−弓箭を発明しました。「弓、弦、箭(矢)は複雑な工具であり、これらの工具を発明するには長きに渡って蓄積された経験とより発達した知力が必要であるし、ついでにその他の多くの発明についても同時に熟知していることも必要である」(『労働在従猿到人転変過程中的作用』)。新石器時代になると、磨製技術がとても発展しました。このころ、人々は念入りに磨かれた石斧、石戈、石矛、石弾などの石兵器、そして石もしくは骨で作られた標槍の先と鏃(矢じり)を大量に使用するようになりました。これらの物は、生産に使えば工具となり、戦闘に使えば兵器となり、兵器と工具は依然として分別されていませんでした。社会の生産力が発展するに従って、原始社会末期になると、私有財産が出現し、奴隷と財産を奪い合う戦争が発生しました。これにより、兵器は工具から独立していき、戦争のための特殊な工具となりました。我が国(中国)の古い文献には「蚩尤が五種の兵器を作った」という伝説がありますが、おおむねこれはその時代の状況を反映したものなのです。
 我が国(中国)は、夏王朝の時代には、第一の階級社会−奴隷社会に入りました。歴史文献より見ていくと、ただ目の前にある大量の出土品が証明しているだけでなく、おおよそ紀元前二十一世紀の夏王朝の時代から、我が国(中国)の兵器の発展は青銅器時代に入りました。いわゆる青銅兵器とは、青銅を用いて作られた兵器のことです。青銅は紅銅に錫を加えた合金で、この種の合金を用いて作られた兵器の色は青灰色もしくは青緑色をしているので、青銅兵器と名づけられました。我が国(中国)の青銅兵器時代は我が国(中国)の青銅器時代および我が国(中国)の奴隷社会と時を同じくしており、すなわち紀元前二十一世紀の夏王朝の時代より始まり、紀元前五世紀の春秋時代になって終わり、夏、殷、西周と春秋の各時代を通じて、千六百年以上の長きにわたり戦争の舞台を独占してきました。この長い歴史のなかにおいて、国王と諸侯とを論ずるまでもなく、すべて戦車の保有台数とその武器装備を一国の軍事力を計る指標としてきました。「千乗の国(千両の戦車を保有している国)」「万乗の君(一万両の戦車を保有している君主)」などというように国力の強さを明らかに示す表現となりました。戦車戦の需要を満たすために、我が国(中国)の青銅兵器は急速に発展していきました。
 夏の時代における青銅兵器の発展状況は、目に見える形では明らかになっていません。史書は「夏の時代には銅を使って兵器を生産した」という伝説だけを記載しています。考古発掘は今に至るまで夏の時代の青銅兵器を発見できていません。これにより、夏の時代における青銅兵器の発展状況についてはさらなる研究と探索が必要です。
 殷に時代に青銅兵器はより発達しました。一つは青銅兵器の種類が完備したことです。考古発掘より見るに、内訳は弓、矢、戈、矛、大矛、短刀、大刀、斤、鉞(まさかり)、?(かぶと)、兵車などです。二つは青銅兵器の製造技術が向上したことです。青銅兵器は銅、錫、鉛の合成比率についてより科学し、どのような兵器にはどのような比率で合成した金属を使えばいいのかについて研究が進みました。三つは殷の時代の軍隊には青銅兵器が標準装備されたことです。当時の主要なものは車兵と歩兵があり、車兵はすでに斧、鉞、戈、矛などの青銅兵器を作戦に広く使用していました。
 西周の青銅兵器は殷の時代の青銅兵器を基礎にしてより大きく発展しました。西周時代はというと青銅兵器の鋳造技術の総体を見ていくに依然として殷の時代を踏襲しており、重大な発展はありませんでしたが、ただ青銅兵器の製造は殷の時代よりも増加しました。青銅兵器の種類は殷の時代より多くなり、殷の時代にもとからあった戈、矛などの主要な兵器のほか、さらに剣、双鈎戟などの重要な青銅兵器が加わりました。青銅兵器の構造は殷の時代より大幅に改善されました。たとえば矛の長さは長くなり、刃が長くなって指し込み口の穴は短くなりました。また戈は胡と穿のないものから短い胡と一つの穿があるものになり、あるものは甚だしくも三つの穿があり、しかも内に刃がついている、寛胡斜刃戈も現れました。短兵器に限って言うなら、周の時代は殷の時代に比べて大きく発展しました。
 春秋時代、諸侯は紛争し、戦争は頻繁で、当時の車戦の需要を満たすため、我が国(中国)の青銅兵器の発展は最高潮に達し、もちろん兵器の形式、数量、品質などの方面についてもすべてグレードアップしました。具体的に言うなら、@青銅兵器の製造範囲は拡大しました。当時、ただ王室が青銅兵器を製造するだけでなく、各諸侯国も青銅兵器を大量に製造しました。A青銅兵器の形式に顕著な改善があり、一般的にすべてより軽く便利で扱いやすくなり、殺傷力が増大しました。たとえばふだん使われている戈は、胡が長くなり、多くは三から四の穿をもつようになり、握る柄はより牢固になりました。また、戈の形は弓状で尖ったものとなり、突き刺しやすくなりました。B青銅兵器の鋳造技術はとても成熟した段階に到達しました。春秋時代末期に書かれた『考工記』は、青銅兵器に含まれる銅、錫、鉛という三種の成分の配分比率について明確な科学規定を記し、当時の青銅兵器の鋳造技術がすでにハイレベルに達していたことを十分に説明しています。我が国(中国)の近ごろ出土した一まとまりの青銅兵器、たとえば越王の矛、越王勾践の剣、呉王夫差の剣などは、この時代のまれに見る逸品です。
 戦国時代より、我が国(中国)は封建社会の入りました。封建社会経済の繁栄、科学技術の向上につれて、我が国(中国)の製鉄業は急速に発展していき、鉄兵器がだんだんと戦争の舞台に登場しはじめました。これにより、戦国時代から、秦、漢、晋、南北朝、隋、唐をへて、唐末に至るまでが、我が国(中国)の兵器発達史上の鉄兵器の時期となりました。この長い期間のなかにおいて、戦争の需要を満たすために、歴代の統治者は大量の品質が優良で、原価が低廉な鋼鉄兵器を生産しました。刀、矛、斧、槍、剣、戟などの鉄兵器および軍船などの水戦武器の製造は緻密で、その構造は科学的で、その殺傷力は強まり、世界の武器のなかでも逸品と言えるもので、我が国(中国)の兵器発展史上における輝かしい一頁となりました。
 戦国時代、我が国(中国)は鉄兵器時代に入ったといっても、しかしながら鉄兵器が青銅兵器に完全に取って代わったわけではありません。これにより、戦国時代から漢初までの時期は、我が国(中国)の兵器発展史上において鉄兵器と青銅兵器が同時に並存していた時期で、青銅兵器が戦争中に必ず使用されており、しかも製造技術のうえにおいても進歩がありました。1974年から1977年まで、陜西臨潼にある秦始皇帝陵東側の秦俑の葬坑のなかから、多くの武士俑とその携帯している数万の矛、戈、鉞、鏃、秦弓、呉鈎などの各種兵器が出土しました。これらの兵器のほとんどが青銅兵器であり、それらは出土したとき新品のようで、腐食しておらず、頑丈で鋭利で、できたてのように原型を完全にとどめていました。そのなかの青銅剣と青銅鏃などの兵器について化学検査をしたところ、それらはクロムメッキ処理されたものであることが判明し、表面には一層の緻密な黒色酸化層がありました。この種のクロムメッキ技術は、ドイツが1937年に、アメリカが1950年に続けて採用し、しかも特許をとって保護しましたが、我が国(中国)は早くも二千年前の秦の時代に類似の技術を発明していたのです。これは我が国(中国)の青銅兵器製造史上の奇跡であり、自慢です。
 当時、青銅兵器がとても発達したといっても、ただ先進の鉄兵器が人々にあまねく重視され、速く発展しました。この頃に、南は楚国の湖南に至るまで、北は燕国の遼東半島と漁陽(現在の北京密雲県)に至るまで、西は秦国の武威に至るまで、東は斉国に至るまで、この広い地域のすべてにおいて鉄兵器が使われるようになりました。当時の主要な鉄兵器には剣、刀、戟、矛、鏃、匕首、鎧甲と頭?などがありました。楚、韓、燕などの国はすべて鉄兵器の製造で有名な国です。史書の記載によると、楚国の宛の鉅鉄釶は、危険な蜂やサソリのようにすさまじく(『荀子』「議兵篇」)、韓国の冥山、棠渓、墨陽、合膊、ケ師、宛馮、龍淵、太阿で製造された剣、戟は牛や馬を両断し、鵠や雁を切断し、敵にあたったとたんに斬るようなもので(『戦国策』「韓策・一」)、中山国の兵士は鉄甲を身につけ、鉄杖を手にもって交戦し、撃つものすべてを砕き、突くものすべてをへこませました(『呂氏春秋』「貴卒篇」)。解放(中華人民共和国建国)以来、考古発掘でも多くの戦国時代の鉄兵器が出土しました。我が国(中国)南方の湖南、湖北などの地にある戦国時代の楚墓から何度も剣、戟、矛、戈、鏃などの各種鉄兵器が発掘されました。湖南の長沙・衡陽の両地の六十四基の楚墓から発掘されたものでは、全部で七十いくつの鉄器のなかで、鉄兵器は三十三を占めていました。我が国(中国)北方の領域内で、鉄兵器も大量に出土しました。そのなかで河北易県燕下都遺跡の一つの葬墓のなかから、剣、戟、矛など五十以上の鉄兵器が出土し、金相検査分析をしてみると、ほとんどが塊煉鋼を用いて製造されたもので、切れ味は尋常ではありません。
 西漢(前漢)初期、社会経済の迅速な回復と発展により、鉄兵器もだんだんと増加していき、青銅兵器に取って代わり始めました。漢の武帝のとき、政府は製鉄業を国有化し、製鋼技術の拡大に大いに努め、全国四十九ヶ所の鉄官すべてが製鋼して兵器を製造しました。これにより、漢の武帝のころから、たとえば矛、剣、刀、戟などの所要な鉄兵器が基本的に青銅兵器に取って代わり、青銅兵器は最終的には戦争の舞台から消え去りました。
 漢の時代における実戦用の鉄兵器の主要なものには、矛、戟、刀、剣、弓、弩、?、甲、鉄鈎?などがありました。戦争の需要を満たすため、西漢の鉄兵器の外形は戦国時代の鉄兵器に比べて重たくなり、大きくなって、東漢(後漢)の鉄兵器はさらに西漢の鉄兵器に比べて重たくなり、大きくなりました。製鉄技術の迅速な発展に従って、漢の時代における鉄兵器の品質は顕著に向上しました。たとえば満城漢墓から出土した刀剣は、金属の結合が改善され、炭素の分布は比較的に均等となり、戦国時代の鋼鉄兵器のなかにあったこの種の顕著な炭素の含有が不均等になっている分層組織を取り除きました。東漢には百錬鋼が出現し、主要な兵器はすべて百錬鋼で製造され、百錬鋼兵器の品質は高く、これは我が国(中国)の兵器史上において自慢できるものだけではなく、世界の兵器の宝庫のなかにおいても先進的なものでした。製造技術の不断の改善により、漢の時代における兵器の強さと鋭さは不断に高まっていきました。たとえば劉勝墓から出土した刀剣は、局部に焼きを入れる熱処理方法を採用して、それは刃の部分には焼きを入れ、背の部分には焼きを入れないというものですが、これによって刃の部分は硬く鋭くなり、背の部分はより強いしなやかさをもち、剛柔が助け合い、折れにくくなりました。これは我が国(中国)古代の労働者の鉄兵器を製造する高度な技術を十分に顕示しています。
 三国時代は、連年の戦争だったので、兵器の製造にはさらなる発展がありました。魏国は兵器の品質にとても注意を払いました。曹操は五把宝刀を製造するため、とうとう三年の期間を費やしました。それは「百辟刀」と名づけられ、さらに「百煉利器」とも呼ばれました。曹操の曹植は専門に『宝刀賦』を作って、このことを記念しました。曹操の太子・曹丕は楚や越の優秀な職人や技術者を招聘して、鉄刀、鉄剣、鉄匕首を製作しました。史書の記述によると、これらの兵器の文様は霊亀に似ていて、形は龍鱗のようであり、色は丹霞に比し、白さは厳霜であるかのようであり、その品質はなんと高かったことでしょうか。蜀国の諸葛亮は漢の時代の旧式連弩に対して改良を加え、一種の新式連弩を発明し、「十の矢をともに発射でき」、威力は旧式連弩に比べて強くなりました。諸葛良はさらに刀を作る専門家・蒲元に一度、斜谷において鋼刀三千本を鋳造するように命令し、刀の焼き入れについてとても研究し、それによって十分に鋭利となり、「神刀」と名づけられました。しかも宝剣の故郷である江南においては、孫権が武昌一帯において銅や鉄を採掘し、長さ三尺九寸の方頭鋼刀一万本、宝剣十本を鋳造しましたが、その強さは抜群でした。
 両晋南北朝時代、製鉄業はとても速く発展し、横法鋼と灌鋼が続けて出現しました。南朝は横法鋼を使って刀剣を作り、その鋭利さ、精巧さをきわめました。当時の人々はつねづね一本の髪の毛を使って一束の稲ののぎをつるして刀剣の鋭利さを検査していました。斉梁の人・黄文慶は横法鋼を使って剣を作り、十五本の稲ののぎを切っても髪の毛を切らず、号して「冶煉絶手」と称しました。灌鋼が出現してからは、人々はさらに改めて灌鋼を用いて剣を作り、横法鋼に比べて労力は少なくて、品質はよいものでした。北斉の?母懐文は灌鋼を使って宿鉄刀を製造しましたが、鋭利さは抜群で、話によると鉄を泥のように破壊でき、三十の甲冑を斬っていけました。
 唐の時代になると、槍が重要な刺殺長兵器となり、長鉄刀も実戦に用いられました。短兵器のなかで、唐の時代の軍隊が大量に使用したのは横刀と陌刀であり、錘、?などの雑兵器も使われ始めました。その他の兵器については、唐の時代は前のものを踏襲し、変化は大きくありませんでした。
 手元にある史書を見てみると、おおよそ晋の時代、すなわち三世紀末から四世紀初にかけて、我が国(中国)は火薬を発明しました。火薬は中国古代の四大発明の一つで、世界史上において意義があり、これは時代を画する記念碑です。遅くとも唐の時代の末、すなわち十世紀初めに、我が国(中国)は火薬を軍事に使うようになり、火器を発明しました。火器の出現は、我が国(中国)の兵器発展史上の一頁を輝かしく飾るものです。これより、我が国(中国)の兵器の発展は古代火器時代に入りました。古代火器は五代十国時代より始まり、清の時代のアヘン戦争のときに終わり、前後の長さは九百年以上に達しました。この九百年以上は、我が国(中国)の兵器発展史上において、古代火器と冷兵器(火器以外の兵器)が併用された時期です。
 初期の火器の主要なものは火薬の燃焼性を利用して相手を焼き殺すもので、これが火器の最初の形式でした。唐の時代の末、哀帝の天佑年間の初期、鄭?が豫章(今の江西南昌市)を包囲攻撃したとき、「飛火」を使って城を攻めたことがありました。いわゆる「飛火」とは火炮、火箭のことです。この種の火炮、火箭は火薬を球状にしたり、箭の棒の上に丸めた火薬をくくりつけたりしたものであり、導火線に火をつけ、それから投石器や弓もしくは石弓を使って発射し、敵軍を焼きます。これは我が国(中国)が火薬を軍事に初めて使った例であり、我が国(中国)と世界の歴史における最初の火器でもありました。
 北宋の時代、趙氏の宋王朝は遼と西夏の武力侵攻に対処するため、武器の改良を十分に重視しました。これにより、火器は急速に発展しました。西暦970年、馮継升の朝廷に対する火箭製造法についての進言が一つ聞き入れられました。北宋政府による試験の結果、成功をおさめ、賞されました。西暦1000年、神衛水軍隊長の唐福は朝廷に対して自身の製作した火箭、火球、火シツレイを献上したのですが、これも賞されました。宋の仁宗のとき、曽公亮らが収録した『武経総要』のなかに火箭、火薬鞭箭、烟球、毒薬烟球、シツレイ火薬と霹靂火球などについてわずかならず具体的に記載してあり、さらに当時の三種類の火薬の配合法についても詳細に記載してあります。
 北宋末年、火器は火薬の燃焼性を利用するものから火薬の爆発性を利用するものへとだんだんと移行していき、爆発火器が大量に使用され、そのなかでも霹靂炮、震天雷などが威力のより強い爆発火器でした。爆発火器が大量に使用されるのと同時期において、人々はまた噴射火器も製造しました。当時の噴射火器の主要なものは火箭です。この種の火箭は以前の弓や石弓を使って発射するものと同じではなく、これは矢の本体に一つの火薬の入った筒をくくりつけ、点火後、熱気流が尾部の封口から後方に向けて噴出し、それが推進力となって矢の本体を前方に進ませるというもので、これは我が国(中国)初にして世界初の噴射火器で、現代火箭(ロケット弾)はこの種の火箭がゆっくりと発展してきたものです。
 南宋になると、火器はさらに進歩し、管形火器の「火槍」と「突火槍」が出現しました。火槍は宋の紹興2年(1132)に陳規が徳安(今の湖北安陸)を守っているときに発明したものです。それは長い竹竿の使って作られ、支ごとに二人が手に持ち、事前に火薬を竹竿のなかに装填したものです。作戦時、火薬に点火し、火炎を噴射して敵を焼き殺します。突火槍は宋の開慶元年(1259)に寿春府(今の安徽寿県)の軍民が製造したものです。その構造は大きな竹を使って作られ、筒のなかに火薬を装填するだけでなく、「子?」も装填し、火薬に点火された後、強大な気体圧力を生み出し、「子?」を射出するというものです。「子?」は初期の弾丸です。火槍と突火槍は我が国(中国)初であり世界初でもある管形火器です。管形火器の出現は、我が国(中国)兵器発展史上の一大飛躍であり、我が国(中国)兵器発展史上における画期的進歩を象徴しています。
 金人は宋王朝との長期にわたる交戦の過程のなかで、宋王朝の軍民から火薬、火器の製造と使用の方法を学び取りました。これにより、金人の火器がだんだんと発展していきました。金の開興元年(1232)、金兵は「飛火槍」を使用して蒙古軍に抗戦しました。飛火槍は「敕横紙を十六重にまいて筒を作り、長さは二尺で、柳灰、鉄滓、磁末、硫黄、砒霜などをつめ、導火線を端につけている。兵士はそれぞれ火種の入った小さな鉄の缶をもち、戦時に点火すると、火炎を遠くまで噴射し、火薬がつきても筒は原型を保っている」(『金史』「蒲察官奴伝」)というものです。この種の飛火槍も管形火器でした。
 元の時代の火器は宋の時代をベースにして発展を続けました。元の時代、爆発性の火器は終盤に近づき、爆発性の火器が実戦において大量に使用されるようになりました。元の世祖・フビライは二度にわたり日本に出兵し、ともに爆発性の火器−「鉄火炮」を使用しました。元の時代、管形火器は大いに発展しました。およそ元の初め、すなわち13世紀末から14世紀初にかけて、我が国(中国)は管形火器を保有しました。小型金属火銃のほか、元の時代には比較的に大きな銅火炮が製造されました。元末に至ると、火炮は戦争に大量に使用されるようになりました。元の至正27年(1367)、張士誠が朱元璋に平江城(今の江蘇蘇州)において包囲されてしまったとき、朱元璋の武将・徐達は「四十八衛の将兵を率いて城を囲み、一衛ごとに五つの襄陽炮、五十以上の七梢炮、大小の五十以上の将軍筒を配備し、四十八衛の各陣地は城の周囲にずらりと並び、張士誠は逃げようにも逃げ道がなく、銃声と砲声が昼夜を問わずひっきりなしに聞こえました」(『呉王張士誠載記』「巻二」)。衛ごとに大小の将軍筒が五十以上あって、四十八衛では大小の将軍筒は二千四百以上あったわけで、火炮の数量の莫大さがうかがわれます。
 明の時代になると、封建社会経済の高度な発展と科学技術の不断の進歩により、当時の戦争の需要を満たすため、明の時代は火器の発展が最盛期に達しました。
 明の時代の管形火器は、種類も繁多で、形式も複雑ですが、ただ主要なものは二大類に分けられます。一つは手で持って点火して射出できる火銃と鳥銃で、その形体と口径はすべて小さめで、鉛弾と鉄弾などを発射し、射程はふつう数十歩から二百歩くらいで、その出土した実物はとても多く、北京中国博物館、北京中国人民革命軍事博物館、首都博物館などが展示しています。もう一つは口径と形体がすべて大きくて、砲座のうえに配置して発射する火炮で、多くは石、鉛、鉄などの実心弾を発射し、いくつかは炸裂弾を発射し、射程はふつう数百歩から二、三里に達し、主には城を攻めたり守ったりするのに用いられ、野戦、水戦と海戦にも用いられました。『武備志』などの史書の記載によると、明の時代の各種類型の火炮は四、五十種です。
 明の時代の爆発火器はかなり発達し、主要なものは二大類に分けられます。一つは陸上において使用する地雷であり、種類は繁多で、石塊で作ったもの、陶器で作ったもの、鉄で鋳造したものなど数十種類がありました。もう一つは水中で使用する水雷であり、たとえば水底雷、水底龍王炮、混江龍などがありました。大量の事実が証明しているように、我が国(中国)は世界で最も早く地雷と水雷を発明して使用した国家です。
 明の時代の噴射火器−火箭は、様式は繁多で、製造は精良でした。『火龍神器陣法』『武備志』などの史書の記載によると、明の時代には、単発火箭、多発斉射火箭、有翼火箭、多級火箭など数類があり、品種の多さは数十種に達しました。燕王の朱棣が建文帝と帝位を争奪したとき、作戦に火箭が使用されました。
 火器の発展により、明軍はあまねく火器を装備し、火器を主に頼りにして戦争するようになりました。永楽年間(1403〜1424)に、明政府は独立した砲兵の部隊−神機営を創設しました。これは我が国(中国)のみならず、世界でも最も早い独立した砲兵の編成でした。
 清の時代は我が国(中国)の封建社会の最後にあたり、社会経済と科学技術はだんだんと坂道を下っていきました。ただ清の時代の前期は、全国を統一したり、三藩の乱を鎮圧するための戦争の需要により、火器の製造は明の時代の製造をベースにして発展するところもありました。清の時代の火器の主要なものは鳥槍(鳥銃)と火炮であり、その他、たとえば火球、火箭、噴筒などの火器は、二番手の地位に退いていました。『皇朝礼器図式』などの史書の記載によると、四十九種という多くの清代の鳥槍が図示されていますが、それらは銃身が長く、口径は小さく、重量は軽く、ほとんどが皇帝と王侯貴族が身を守ったり、狩猟をしたりするためだけのもので、本当に軍隊に装備して実戦に用いるものはわずかに数種の兵丁鳥槍があるだけです。清の時代の火炮は名称が繁多で、乾隆帝の時代の『欽定工部則例』には八十五種の名称がありますが、ただその形状は大きく三つに分けられます。一つは前方は口が大きく中が広くて後方はでっぷりしている形は長くて砲身は筒状の炮で、たとえば金龍炮、武城永固大将軍炮、神威無敵大将軍炮などです。二つは子銃(カートリッジ)を採用した後装炮で、たとえば子母銃、奇炮などです。三つは大口径の管の短い炮で、たとえば衝天炮、威遠将軍炮などです。康煕年間(1622〜1722)は清の時代における火器の全盛期でした。しかしながら、清代中期以降は、清王朝の政治腐敗により、経済と科学技術は落後し、国内に対しては民族弾圧、思想統制を実行し、国外に対しては鎖国し、自尊自大となり、外国の先進的な火器製造技術を吸収することを重視しなくなりました。これにより、乾隆末年(1736〜1795)になると、火器は停滞し衰退するありさまとなりました。アヘン戦争以降、清政府は西洋の槍炮(銃砲)を大量に輸入し、同時に近代軍事鉱業を起業し、近代的な銃砲を生産することを始めました。このように、19世紀の50年代から、中国古代火器はだんだんと近代的な銃砲に取って代わられ始めました。
 我が国(中国)の火薬と火器の製造技術は、13世紀初に戦争を通じてアラブ諸国に伝わりはじめ、13世紀末から14世紀初にさらにアラブ諸国を通じてヨーロッパ諸国に伝わり、これにより、ヨーロッパの火薬と火器はだんだんと発展していきました。
 以上のように見てくると、一定の期間に、我が国(中国)古代火器には大きな発展がありました。しかしながら、古代火器は冷兵器に完全に取って代わることはなく、冷兵器は実戦において依然として一定の地位を占有していました。宋代には火器があって、迅速に発展したといっても、作戦においては冷兵器を主体としていました。当時の主要な冷兵器には長槍、長柄大刀、短柄刀、弓弩、投石器と、シツレイ、蒜頭、?、鞭などの各種雑兵器がありました。元の時代における冷兵器の主要なものは弓矢であり、投石器も大いに流行し、回回炮、三梢炮、五梢炮、七梢炮などはすべて威力が絶大でした。明の時代における冷兵器の主要なものには長柄刀、槍、短柄長刀、腰刀と、たとえば鐺?、馬叉、狼筅などの各種雑兵器がありました。清の時代における冷兵器は基本的に明の時代のそれを踏襲していました。19世紀の七、八十年代に至り、我が国(中国)の冷兵器はだんだんと戦争で使われる範囲が狭まっていきました。