古文書発掘  − 旧屋敷で文書発掘


 山口県内のある方から、「自宅に古文書があり、見てほしい」というメールが届きました。「保存すべき価値のある物か、そして、もしそうであれば、どのようにすればいのか」、という内容でした。『そんなお話であれば、すっ飛んで行きま〜す』、ということで、高速道路を使って1時間弱、ご住所を頼りに訪ねて行きました。訪問の用件はメールでやりとりしているものの、もちろん全く面識もない方とお会いすることに、インターネットの良いところを再認識できたようで....ともかく、本題に入ります。

 古文書は家に伝えられてきたもので、ご先祖は長州の支藩の藩士であったとのことで、早速見せていただきました。


木の箱に入れられた物やビニール袋に入っている物、その他もろもろでした。

ざっと見て、系統的に残された古文書という感じはしませんでしたが、藩政時代(江戸時代)の古文書も結構あり、元禄時代のものもありました。

お伊勢参りの許可書、小笠原流や剣術の免許皆伝、短歌、絵の掛け軸などがあり、


     .......これはいいかも。
     

このような場合、この書状は価値があり、これは価値がない、という見方をするのではなく、古文書群の一つ一つが価値ある史料です。そんな説明をして、大事にされるようにお話しました。

少なからず、このようにご自身には何だか判らない古文書をお持ちの方に出会います。持っていても価値が分からないし、名のある偉人の書ではなさそう。でも、やはりご先祖様が残されたものであり、むげには捨てられない。そんな感じだと思います。でもその感性は大切です。

公的機関(図書館、文書館等)で保存していただけることなどを話していたとき、

依頼者:「実はうちの近くに崩壊寸前の屋敷が残っていて、そこにもまだ古文書があるかもしれないんです。」

私:「え〜。じゃあ、そこに行きましょう!」

依頼者:「長靴をはいて、軍手をして、マスクをして、 懐中電灯を持って来て下さい。

私:「........」


崩壊寸前の屋敷? そこに古文書? 懐中電灯? マスク? と全く状況が分かりませんでしたが、その日は別件で用事があり、翌日またおじゃますることにしました。

翌日、「長靴をはいて、軍手をしてマスクをして、懐中電灯を持ってきて...」という指示にすごくインパクトを受けたにもかかわらず、いずれも用意しなかった私。
「では、近くまで車で行きましょう」と助手席に乗せていただいて出発しました。



 いよいよ発掘調査へ....






堤の向こうにある竹藪に屋敷があるとのこと...。


 写真の右側からが行きやすいということで、 堤を半周しました。
     
  
前方に竹藪が見えた。


依頼者:「屋敷は正面です」

私:「正面???」
     


突然視界に現れた!

これか〜。

果たして古文書がこの中に
あるのか.....?


 のぞいてみると.....、暗い....。



フラッシュを焚いて写真を撮っています。
懐中電灯がないと真っ暗。




依頼者と共に、これまで体験したこともない収集。
まさに
発掘!


ふすまを外して、下張りを採取。









「もういいでしょう」というくらい、史料らしい史料を拾い上げました。しばらく咳き込みながら、屋敷跡を後にしました。

やはりマスクも必要だった....。


 この2袋はお預かりして持ち帰り、自宅で整理しました。


 戸籍謄本、写真、地図や領収書、明治時代の貯金通帳、お年玉袋、名刺、包装紙、経本。
 なんでもかんでも史料になる。


   そのいくつかを紹介しましょう。





だいぶ痛んだ文書ですが、注意深く開いてみると....

戒名がずらりと書かれている。

これは萩藩主毛利家の過去帳の写しです。

こんな文書が竹やぶの屋敷から出てくるなんて....。

しかし、これを持っているということは、それなりの家だったということで、そのことが貴重な情報です。



これはふすまの下張りから出てきた文書ですが、この家にとっては超重要なもの。

先祖四郎兵衛正勝は○藩の家来であった△茂左衛門橘正の四男で慶安年間に三人扶持八石、高に直すと四〇石で□藩に取り立てられたことが書いてあります。

いわゆる、家の由来書です。


(○、△、□の部分は場所が特定されないように、伏せておきます。)
表紙に天保14(1842)年と書かれた文書
これはガラスの上に写された写真で、「湿板写真」といいます。

いわゆる銀板写真の次世代の写真で、撮影の直前にガラスに薬品を塗り付け、撮影後にまた薬品を塗りつけて現像します。ガラスに浮かび上がった被写体がよく見えるようにガラスの裏面に黒い塗料を塗って完成(塗料にはウルシか、輸入したアスファルト系のものを使用)。これをそのまま写真として使いました。

山口県では湿板写真は明治の初期に導入され、この技術をもった人物が県内に3名いたようです。
これは明治後期の写真です。
明治時代、この家の当主は小学校の教員と伝えられていましたが、それを証明する文書が出てきました。○郡役所の辞令で、△尋常高等小学校の雇(やとい)教員であったこの家の当主の給与を月8円としたものです。

郡役所文書が少ない中、これも貴重なものです。

この他、小学生の答案用紙みたいなものがふすまの下張りからたくさん出てきました。


(○、△の部分は場所が特定されないように、伏せておきます。)
そして史料一点ごと、封筒に入れました。

写真左のビニール袋はさすがにゴミにするしかないもの。

 得意のふすまはがしも何とか終了し、目録を作成しました。文書の点数は250程度。
 発掘から9ケ月も経過してしまった。



 さて、ここで、再び発掘現場に戻りましょう。発掘の際に、屋敷の周辺で写真を撮りました。

 屋敷の周囲には石垣と土塀がありました。
 門柱がありました。
 台所らしき建物は傾いていました。
井戸や石臼、かまどもありました。


堤からみた位置関係は、こんな感じです。




その後、依頼者からのメールが届きました。

「屋敷の古い写真が出てきました」とのことで.....。

屋敷前でとられたお嫁入りの写真のようです。堤も写っている。
まん中の母屋はもはやなく、その右隣の瓦葺きの建物で古文書発掘をしたのです。左隣の建物が台所だったのでしょう。

この屋敷に住まれなくなり、そのうちに竹藪が広がって、今の状態になったのでした。



平成の世になって、傾いた真っ暗な武家屋敷から古文書を拾い上げた今回の発掘は、今思えば信じられないような体験でした。
でも、おもしろかった。

そんなところで、このページは終わりにします。


                         この記事は今回の依頼者の許可を得て公開しています。
                                ご協力ありがとうございました。

                   依頼者のお宅では、今回の古屋敷を「竹の子ハウス」と呼ばれているようです。

                似たような状況がありましたら、お手伝いさせていただきます。但し、山口県内限定です。