古文書発掘 − 蔵に眠った文書を探せ
山口県文書館で史料の閲覧していたときに、カウンターの職員にある村(仮にA村とします)の歴史を熱心に尋ねているご婦人(仮にBさんとします。)の声が聞こえてきました。それがまことにオタッキーな質問で、A村の字名や周辺に住んでいる旧家の名前が出てきていました。しかし、それが100%理解できた私。それは、私が興味をもって、10年以上調べていた村の一つでした。「すみませんが...」と話しに割って入り、オタッキーな会話をしました。Bさんの疑問にある程度お答えしたところで、お互いの素性を話し、なんでそんなことに興味を持ったのか、というような話しになり、「お宅に古文書などがないですか?」と聞いたところ、
「家には無いけど、古い家の蔵にはあるかも....」
ということで、「じゃあ」ということになりました。
ただし、古い家は今の自宅より車で20分くらい山に入ったところにあり、もう何十年も住んでいなく、崩れかかっているとのこと。また、蔵のカギがないと入れないとのことで、「最近、そのカギが見つからなくて....」
ということでしたので、カギを見つけたら電話をしてもらい、それから蔵での古文書探しをする、ということでその日はお別れしました。 .....でも、「探し」ではなく、「発掘」になったのですが...。
数日後、「カギは見つかりませんでした」、との電話。
「でも、蔵の戸が少し壊れているので、何とか入りましょう!」
ということで、休日にBさんの家を訪ねました。「では、出発!」
Bさんが運転される車について行き、山奥の旧宅に向かいました。途中、Bさんの車がヘビを踏んで、へびがもがいているのが目に入り、気持ち悪いなぁと思いながらも、結構山道をとばすBさんに必死でついていきました。そして、平成の代とは思えないような風景が広がる目的地に到着しました。
| たしかに、本宅は崩壊寸前でした。 しかし、その横の蔵は結構しっかり立っていました。 |
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| 戸が壊れている、ということで、蹴飛ばせばいい、な〜んて簡単に考えていた私。なんの、なんの、戸は赤土で固められ厚さは10cmくらいあった。跳び蹴りをしても、跳ね返されるだけだ。 戸の下の風抜き部分が木でできていて、これが壊れていた。Bさんはおもむろにノコギリを取り出し、「ここをもう少し切りましょう」 ということで、切断。戸の下に空間ができた。 でも、ここを入るの....? 私は小柄ではないんですが...。 |
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| それで、ゲットした古文書はこんな感じです。 |
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| そのいくつかを紹介しましょう。 | ||
| まずは、天保9年の文書です。 江戸時代は土地の売買はしていなかったとはいいながら、実際にはこのように百姓同士が土地を売り買いしています。売り手が買い手に出し、畔頭(くろがしら)と庄屋の許可が入り、奉行の名前が入ります。ここにある奉行は村橋勇左衛門という武士。あっ、これは萩藩の給領地だ! と分かるところがオタク...。 こちらの奉行は支藩の藩士の名前が書かれています。A村は萩藩領と支藩領が入り組んだところというのは知られていますが、その実情を知ることができます。 |
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| おー、壬申地券が出てきました。 明治政府が土地の一つ一つに対し、地価を決め、所有者にその所有権を認めた証書です。 |
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| 見にくいですが、明治12年に戸長(こちょう)役場に納められた税金に対する領収書です。和紙が使われています。 | ||
| それに対し、こちらは明治19年の領収書です。戸長役場ではなく、A村役場になり、ザラ半紙に赤色の印刷がされた領収書です。印刷技術も発達してきたということでしょう。 しかし、左に書かれた「納税は国民の義務なり」と、教科書で見たような文言。 税金を払わない人に書くのならまだしも、納税した人に渡す領収証に書かなくても....。 |
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| これもよく見るもので、「お手本」のようなものです。近所に住む人の苗字を書き連ねています。 秋本 福本 西村 松元 上田 西郷 田中 岡谷 |
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| ところが、後半あたりから、國司 粟屋 益田 山内 佐世 清水 志道 柳澤...。 この苗字は萩藩士のもの。それも大身の家々です。 この村に住んでいる人の名前だけでは、冊子にならなかったからでしょうか。 |
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| 色々な種類の暦(こよみ)がありました。 昔はかなり縁起を気にしていたようで。 我々も見習ったほうがいいのかも...。 |
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今回、一番感心したのは、処女会関係の史料でした。処女会というのは青年団活動のうち、特に女性組織で構成された会で、大正10年代に全国で結成されたようですが、今回の史料は大正末期から昭和一桁あたりのものでした。
| 毎年、泊まりがけで研修をしていたようですが、その内容がすごい! 右の写真は小さくてちょっとみえないでしょうが、これは接待に関する勉強で、 1.客を出迎ふ 2.客を休憩の間へ案内 3.書院へ燭台出す 4.客を書院へ案内 .... などなど、 自宅に客が来たときの作法を教えるものです。 |
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| 「処女国語」、というものもありました。 死去通知の際の手紙の文面をはじめ、その場その場における手紙の書き方など、超実践的です。 特に、「注意」として、何を伝えるべきか、というようなことが書いてありました。 その他、洋裁や家事についても詳しく、「おいしい飯の炊き方」なんていう記事もありました。 また、A村の歴史をまとめたプリントもありました。 これも花嫁修業の一つだったんでしょう。 昔、祖母の世代の女性が「今の娘は....」と言っていたのは、最近は泊まり込みでこのような教育をしない、という意味だったのだろうか...? まあ、私は男性なので、あまり突っ込まないことにしておこう。 しかし、昔の人は、なんか、偉い! |
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| 招集礼状(赤紙)は何度か見たことがありましたが、招集された場合、どうするのか、という右のものは初めて見ました。 | ||
| その他、地図や教科書など、幕末期から昭和はじめ頃までの村での生活を物語る史料がたくさんありました。 |
史料の点数としては200点弱でした。Bさんは公的な機関に寄贈することを希望されたので、山口県文書館へ寄贈の手続きをしました。現在は公開されており、閲覧が可能です。
廃墟となった家屋の傍らの蔵で、これらの史料は日の目を見るのを待っていたのでしょうか? まあ、良かった良かった。
実はその横にはかなりしっかりした蔵がもう1つあったのですが、その壁は何者かによって打ち壊されていました。Bさんによればそれは昔、米蔵として使っていたとのことでした。しっかりした蔵だったので、お宝があると思った部外者が蔵の壁をたたき壊したのでしょう。 なんたる世の中。その集落にはもう数名しか住んでいないとのことです。
高齢化と過疎化は目に見えて進んでいて、なんだか焦る一方です。
では、この辺で。