地 券 の 変 遷

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山口県の地租改正
 地券の発行
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 ・地券の変遷

山口県の地租改正 













これまで古道具屋さんやフリーマーケットでちょこちょこ地券を購入してきました(右写真)。これに費やした金額は数千円くらいのものです。

どうしたものか山口県の地券はYahoo!のオークションによく出品されていますが、相場は1枚
が1500〜2500円のようです。落札したことはないですが...。

ある程度集まってきたところで、じっくり見てみると色々なことが分かってきて、それをここではご紹介したいと思います。


まずは一般に「壬申(じんしん)地券」と呼ばれる和紙に書かれた地券があります。「壬申」とは山口県が地租改正に着手した明治5年のことですが、地券の発行は翌年にずれ込みました。右の地券の発行は明治6年12月になっていますが、これまで私が見てきた山口県の和紙の地券は全てこの年月です。


※地券の場所に現在もご子孫がお住まいであることが考えられるため、番地と持主名は写真に写らないようにしています。
「地券の発行」のところで述べたように、壬申地券発行の目的は、

@土地に番号(番地)を付ける
A土地の所有者を明らかにする
B土地の地価を明記する

ということで、和紙の地券にはこれらに関する記載はあります。
ちなみに、壬申地券の裏面には何も書かれていません(右写真)。 しかし、

C地租を取る
D土地の売買の解禁


という次のステップには対応できるものではありません。

私のコレクションにはありませんが、

C地租を取る

を満たした壬申地券があります。
代価の記載の横に
「百分之三 金  地税」
とあり、代価(地価)の3/100が税金であることが明記されています。

この記載がある壬申地券も発行年月は同じです。これより壬申地券は二種類ある、ということができます。

明治9年に発行された右の地券は、地租が代価(地価)の「百分ノ三」と明記されています。
薄手の賞状のような紙質で、壬申地券に比べると風格が...。
裏面には「日本帝国ノ人民土地ヲ所有スルモノハ必ラス地券状ヲ有スヘシ....」と印刷されています。



ここで重要なことは、右写真の左に朱書きされた内容です。

「表書之地所今度(名前)ヨリ代価弐拾六銭ニテ買得ニ付地券書換渡モノ也」
即ち、この土地の壬申地券が明治6年に発行されたものの、明治9年に26銭で土地が売買され(安い!、まあ狭い所だが)、新しくこの地券を作成し、裏面にその経緯(売買)を記したのです。



明治10年に発行された右の地券は、「改正地券」と呼ばれることもあります。「地券」という文字の上に「明治六年改正」と印が押されています。

地租の比率が明治10年までは百分の3、明治10年からは百分の2.5、と記載されています。

裏面は一つ前の写真のものと同じく、「日本帝国ノ人民....」で、朱書きで売買が書かれています。
明治14年に発行された右の地券にも「明治六年改正」と印が押されています。

しかし、地租の比率が明治10年をまたいで異なるという記載は、もはや不要であるため、地租は百分の2.5、とのみ記載されています。
この地券の大きく変わったのは、右写真に示した裏面です。売買を記入する欄が5つもあり、土地の持ち主が変更しても、地券を新調せずにすむことになります。

...限りある資源を大切に、ということもあり?


土地の売買が一般化することによって、地券も変化していったことを示しているのでしょう。
地券の発行は県が行うのですが、その職務を行った部署も変化したものと思われます。
壬申地券では県令名(今の知事)で発行されていますが、改正地券では「山口県」と書かれ、明治11年からは「主事」として郡長名が書かれています。山口県においては明治11年に郡役所が設置され、地券の書き換えを県の分任業務として行っていました。しかし、右写真のように「山口県六等属」という肩書きの主事もあり、このあたりのことはよく分かりません。
明治14年に発行された右の地券にも改正印が押されていますが、「明治九年改正」になっています。

上にあった明治六年改正と何が違うのか。それは、「地目が山林」であるということです。右の地券には「薪炭林
(しんたんりん)」とありますが、文字通り、薪(まき)や炭(すみ)にするような木が茂っている山林ということです。この他、柴草山や竹林、また単に山林、というものなどがあります。

山口県においては山林の地券発行は大幅に遅れ、明治14年発行以前のものは私がこれまで見た限りではありません。



今でもある家の蔵から、まとまって地券が出てくることがあります。そのとき、壬申地券と改正地券が混在していることが多くあります。これは明治6年に初めて壬申地券が発行されたときから、地券制度が廃止されるまでその土地を手放さなかった場合、壬申地券はずっと有効であったことを示しています。壬申地券発行の後、土地を購入すると、改正地券が発行され、それを所持することになります。土地を売った場合は、所持していた地券を手放すことになります。売買によって効力を失った地券は厳格に処分されたようで、同じ土地に対して2つの地券が存在した、という事例には出会っていません。

ここで思うのですが...、明治6年に発行された壬申地券は和紙を使い、県令名で発行された風格のある証書でした。しかし、その後の法改正に全く適応したものではなかったため、その形式で発行されることはなく、ぺらぺらの地券に切り替えられました。このとき、発行した壬申地券を全て回収して、ぺらぺら地券を発行するのではなく、所有者の変更が発生し、壬申地券を訂正する必要があった場合に、ぺらぺら地券を発行し、壬申地券を回収したわけです。

全部回収というのは確かに大変で、費用削減には寄与しますが、そもそもよく計画せず
(無理もなかったのか)に壬申地券を発行した責任はどうなるのか。当時のマスコミがそのことを追求したとも思えませんが。


最後に、平成18年の夏にフリーマーケットで買った右の地券をお目にかけます。

値切ったんですが、店のおじさんは1円も負けてくれませんでした。

でも、「これは手に入れておかなければ...
」と思い、言われるままに500円で買いました。

今思えば、500円を惜しんで逃したりしなくて良かった...と。

形式は明らかに壬申地券。和紙で発行は明治6年12月です。代価の横に地税の比率の記載があるタイプです。この地券の分からないところは、
 1.「代価」を「地価」、「百分之三」を「百分之弐ケ半」、「地税」を「地租」と書き直し、壬申地券を
   改正地券の形式にしている。
 2.持主は変わっていないが、地番と土地の面積、代価(地価)が書き換えられている。

1.の壬申地券の形式を朱書きで訂正して、そのまま使うというのは、これまで見てきた地券の変遷から考えると理解できません。その場しのぎでもしたのだろうか、と思ってしまいます。しかし、2の行為は、ある土地に発行された地券を別の土地用に書き換えたことになります。では、書き換えられる前の土地の地券は? 例えば、AさんとBさんが互いの土地を交換するような売買をした場合、Aさんの名前が書いてある壬申地券の土地をBさんの土地の地番、面積、地価に書き換え、Bさんの名前が書いてある方にはAさんの土地の記載に変更する。そうすれば、確かに新しい地券を2枚発行せずとも、書き換えだけで対応できます。しかし、書き換えられた地券はなんと見にくい(醜い?)ことか。
 
この地券をはじめてみたときは、効力を失った壬申地券を使って、改正地券の雛形
(ひながた)を作ったのかとも思いましたが、ご丁寧に訂正箇所には訂正印が押されています。訂正印は山口県玖珂郡長のものです。先に書いたように郡役所が設置されたのは明治11年ですから、改正地券の雛形であるわけはありません。


いつものことですが、ある制度について、その運用の実態に関する史料を見ていくと、なんだかすっきりしない実例が出てきます。制度のとおり運用されていないように見えるだけなのか、つまり附則や運用規定には書いあるのか、それとも臨機応変に対応したこともあったのでしょうか。

受験対策の歴史では、「何年に○○というお触れが出された」という感じで覚えますが、本来はそれを為政者が発した意味はなんだったのか、そしてそれがどのように運用されたのか、さらに制度として良いものであったか、を評価するような学習をしないと、歴史を学ぶ意味がないと思います。

とは言いながら、私はいつも運用面の調査が主体で、制度をじっくり調べない向きがあります。
(時間がないのを理由にしていますが、運用面を調べる方が時間はかかります。)

ともかく、地券については、制度と照らし合わせながら再度整理が必要のようです。