○芸術は教えるものではない。発見すること。

○絵描きは、なんでもいいから人に先んじた新しいことをしなくちやダメだよ。目立つことが肝心なんだよ。

B5の藁半紙を4枚ぐらいに切った大きさの物を何枚かと、半分より短くなった芯の先が丸まった鉛筆を背広のポケットにいつもしのばせていた。行く先々で見つけた面白い形をスケッチしておくためのものだった。文化学院の入学式の時だったか、卒業式のときだったか忘れたが、「私はいつもポケットに紙と鉛筆をしのばせているよ」とマイクの前でそれを取り出していた。決してそれは格好いい物ではなく、何かおじさんがポケットのなかのチリ紙をとりだしているようであった。
その成果は、彼の素描の作品に生かされていたと私は思う。油彩画に持ち込まれない、まだみずみずしい形が彼の素描にはあった。
彼の創作の原動力は、足であった。情報収集のための足であった。バイタリティの元でもあった。誰とも分け隔てなくつきあうことの出来たのも健脚があったらこそである。
日本の伝統である職人の徒弟制度のように芸術は盗んで覚えるものという考えが村井正誠にはあったようだ。だから文化学院芸術科においては何年いようと彼のそばにいることは許された。授業は技術的なことはほとんど何も教えはしなかった。ただアトリエで描かせているといった方が正しかった。生徒は村井正誠の一挙一動から何かを盗む。私はそうだった。そして村井正誠も生徒の存在を盗んだ。「学ぶ」ということは「まねぶ」ということつまり真似することから始まると私は思っているので、真似されることに関してはむしろ喜ばしいことであり、その代わり私も村井正誠には大いにまねばさせてもらった。あくまでも真似から始まると言うことであって一つに始終しては何にもならないということではある。
彼の先生は、幼稚園児であり、彼の生徒でもあった。「生徒から教わっているんだよ」と私が村井正誠に最後に会ったときに言った言葉だ。そして間をおいて、同じように3回も「先生になりなさい」と言われた。違う話をしているときに突然話を折って別々に言われたので、もしかしたら惚けの症状が出たのかしらと思ってもみた。でもこの言葉は今でも私の胸の中で反芻されている。
文化学院での土曜日は、芸術科とデザイン科の掛け持ちと言うこともあって、ついさっきまでいたのにと思うといなくなり、と思うとひょっこりと現れたり歩きぱなしであった。芸術科のアトリエと、教室は結構離れていたのだが。その歩き方は、とてももう70歳になろうとする人の歩き方ではなかった。この足が、彼の作品を、そして人間模様を紡ぎだしたといってもよい。
そのためにはというわけでは無いのだろうが、私が文化学院デザイン科授業のときに初めて村井正誠と対面したときはスーツにネクタイ姿だった。いつ何時誰と会うかも知れないので、失礼にあたってはいけないという考えであったらしいのだが、このおじさんが絵描き?というのが私の第一印象だった。いろいろなところに出没するには正体不明であった方が何かと差し障りがなかったのではないかとも思う。その頃はまた、日本美術家連盟の理事をしたり理事長をしたりして要職もにもあったので人と会うことも多かったのであろう。ちなみに、聞いた話だが彼の着ていたスーツは、フランスへ行ったころに買ってきたものということであった。私の知っている限り村井正誠のイメージはスーツにネクタイ姿である。晩年になって、ネクタイがなかったり、柄物のシャツ姿も見るようになったが、そして2回ほどジーパン姿を拝見したことがあったが、何かしっくりこなかったのを覚えている。やはり、村井正誠は黒のスーツに黒のネクタイだ。
私が知っている村井正誠は文化学院のデザイン科、芸術科の先生としてであった。先生としてだけでも私の知らないところで、雙葉学園幼稚園で絵の先生をしたり、文化学院庄和町校舎へ通っていたり90歳近くまで彼の足は衰えることを知らなかった。さすがに、晩年はその足が衰えてきてその歩幅が極端に狭くなって、逆に足取りは小刻みに速くなってそれが彼の内面のいらいらを見ているようで見ているのもつらかった。
この、足の衰えは、村井正誠の盗みの年貢の納め時でもあった。ということは、それまでの作品の純化に進むしか無かったようだ。95年に行われた養清堂での村井正誠版画展で更に赤が純化して輝きを増したようなので、「村井先生の赤ですねえ」というとその答が「やっていて面白くないなぁ」というような感想であった。弱音とも本音ともつかない村井正誠から聞いた初めての言葉だった。
結局、文化人になるしかなかった村井正誠の叫びを聞いたようで私の心に引っかかっていた。
晩年は、数々の賞を受けたことが年譜には記されているが、私は、偉い村井正誠には興味はない。「村井正誠を語る会」で挨拶にたった評論家の針生一郎氏が「村井正誠に勲章を贈らせる運動をしている者がいるがそういうことはやめてもらいたい」と戦前の官憲の政策ということを述べて主張されていたが、もらうもらわないはどうでもいいことなのだが、どちらかというと私ももらわない方がいいのではないかと思う。アヴァンギャルドとして生きてきた人としてはその生き方を丸め込まれてしまうようで何かひっかかるものを感じる。
村井正誠は生前一回勲章を受けているのだが、その頃私が抱いていた作家としての村井正誠の生き方として勲章は受けないものと見ていただけに意外な感を持った。これは憶測だが、生前村井正誠のアトリエに伺ったおり、小川孝子も一緒に話が弾んでいたときに「私の母が更生保護司として勲章を受けたんです」という話をした。そのすぐ後だっただけに、その話がきっかけで、もらう気になったのだろうかとも考えられる。受賞の理由として絵画教育に携わったかどでということなので受けたのかも知れない。稲垣足穂はやはり生前、第一回日本文学大賞を受けているが、エッセイとしてであって文学であったら受けていなかった。もちろん授賞式には出席していない。
ただ、村井正誠が一般的(もちろん絵画市場として)に知られるようになったのは絵画賞を受賞してということもあるので、後進のためにも抽象絵画の市民権を得るのには仕方なかったことも考えられる。あるいはこれは数ある抽象を追求してきた作家の中での村井正誠の占めるポジションであったのだろうか。
権力であるとか、政治的なところとは外れた活動していた、抽象画家としてあるいは一人の画学生としての村井正誠は開拓精神は最後まで失わなかったと私は信じている。抽象絵画であればあるこそ権力には何のためにもならないポジションにあるはずだ。時にはむしろ刃を突きつけるときもなくちゃいけない。でもそういう、政治的次元をも村井正誠のおおらかな絵画は突き抜けていた。勲章や賞をもらうもらわないの次元も突き抜けていた。
村井正誠の姿は消えたが、村井正誠の旅は終わっちゃいない。後に続く者は常に終わったところから始まる。新しい発見の旅だ。新しい足が必要だ。それがまた村井正誠の旅になる。
それが世間的に成功するかしないか問題ではない。それぞれが一人の人間の旅として始めなければならない。成功という名が付いてきたとてそれが何になるというのだ。

「放蕩したあとではみんなから見放されたような気がする」(ボードレール)

「あれをどうしようかと思う時に、「時間」の意識が生まれる。只おどろいたり、きれいだなと思って見ている時は、「時間」はそこに無い。」(稲垣足穂)  以上、HP「一千一秒倶楽部」より引用