山崎博久著「私の文化学院日記」1950年代の神田駿河台 から
文化学院校庭にて(1957.3) 西村伊作

ルヴァン美術館で購入した、西村伊作 人生語録 「われ思う」を基本にして、西村伊作の芸術思想を中心にして、西村伊作の思想をかいま見られるよう編集をしてみました。
とくに、語録物というのは、ほとんど一言一言が凝縮された言葉であって、肉声であると言ってもいいわけで、部分部分を取り出してきて並べるのもおかしなわけで、それこそ福笑いみたいなものとなってしまう。出来れば全部そのまま掲載したいと思うの常ですが、そうもいきません。
ピックアップしたものからでも、西村伊作の思想が伺えると言ってもらえればそれなりに成功したと言えるかもしれません。
私の手元にはありませんが、西村伊作著「我に益あり」も何度か目を通したことがありました。そのときは本当に若いときでした。ほとんど心に何の引っかかりもなく見過ごしていました。こうして、必要にせまられてくると、近くに寄ってくれないというのが世の常でもあります。できれば、この著書も参考にしたかったのですが、それはまたの機会へということにします。
違った意味で、この、語録も、あんまりにも今の私にすんなり入り込んできて、逆に引っかかるところを探すのが苦労するというものでありました。
長年、文化学院に在籍していて、自然に、無意識に西村伊作の生き方を習得してきたようで、西村伊作は「自分で自分を考える」人であると見るならば、私も同じように「自分で自分を考える」人となっていました。そうしたとき、この西村伊作語録は、自然と肝に染み込む良薬のようでもあり、意識しないでよい物に近くて意識する方が逆に不自然で、そういった意味では大変な作業でした。

道に志し、徳により、仁により、芸に遊ぶ
西村伊作が色紙に何か言葉をと求められたら、この言葉を書くかもしれない。

どんな小さなものでも盗まない。どんな小さな嘘でもつかない。

来るときは拒まず、去る者は追わず、再び遠方より来るときは友として喜ぼう。

動物は行き過ぎない、人間は利己に行き過ぎるし愛情にも行き過ぎる。行き過ぎは困苦を来す。

平凡なうちにデリケートな差がある。

己の欲することを人にさせたい。

なめられてもいいから人柄が善良であるのがよい。

人のよいところを発見することは自己を価値づける。

もっと もっと もっとよく、
もっと多く もっと美しく、
もっと強く もっと賢く、
もっと知り もっと働き、
もっと勝ち もっと愛し もっと取り、
もっと もっとと思うから 心がなやむ、

なくてもいい----君主、財産、学閥、思想、恋人、親、子、文明、芸術。

偉い人になるな。人のために尽くすな。社会のためにするな。
何故なれば、そのことのために恩に着せる心が起こるから。

芸術病にかかるな

写真は迷わされないで物を写す。絵は迷わされた感じをかく。
芸術は迷わされたことの価値を表す。迷いが人生である。

モダーンはすぐしなびる。だから未来を求めて進みたい。

負けるが勝ち、まけて勝て。長いものにまかれ強いものにまける。勝ちとは何か。
遠慮、無欲。「与えられた性格を生かす」

わがうちなる心をゆるくすることにより、外のすべてのものの悪さが消失するようである。許すとは、自分の心をゆるくすること。物をも、人をも、みなよしと思い得たときに、わが世界はよく美しく愛し得るものとなる。

あせって自分を見せつけないように私は気をつけよう。

本当に権威ある思想は平易であって、だれにもよくわかるべきものであるべきであろう。

考えることが多すぎるのは、物がたくさんほしいのと同じ。

思う、われ思う。人は思う。思うと思う。思うと思うと思う。いいねえ、何となくつぶやく。

ばかになれ? 修養のゴール。

無意識で考えることは意識より深く、大きな構造をもつ。

自己---すべてのものは、自分の見るものも持つものであり自己でない。自分の身体も自己が見たり持ったりする以外のものである。
自己以外のすべてのものが、自己を作っているように思われる。だから、他人の生活を自己が生活することもある。

人類が滅亡してもよい、地球が破裂してもよい、そんなことは宇宙の極めて小さい問題にすぎない。

人間 外界を認識し、心が構成される。物を思うときわれを思う。われ思う故に? われあるが故に、われを思う。われを思う--神を思う。神とは、内にあるもの、外にあると感じる。すべての考えは神に至る。神は真。神聖は真正。

高貴は芸当をしない。それを見る方だ。

文化とは男性の女性化--文明というものは、つまりは男性が女性化してゆくことだ。

赤ん坊でも物を持ったり、いじったりする。子供はきょうだいや友達を、自分の好きなようにいちじ扱いたがる。成長するに従って人を自分の思い通りにしようとする。
恋愛するのも相手を持って支配したいから。金をもうけるのも、その金で人を支配し、家を建てたり、機械を買っていじったり、年取ると庭いじりしたり、そういうふうに、人はいつも自分のまわりのものを支配したがる。
人に親切にし、人の世話をし、たすけるのも人を支配することである。

ゆっくり、急ぐ。

自由意志はあると思うけれどない。すべての行為はさせられている。
自分は作られたものであるから、作ったものに支配され動かされる。行動のみならず、考えることも、自分のまわりのすべてのものに、そうさせられているのである。
自分は自然によって作られ、自然はまたなにかによって作られる。

静かなる生活、動物の如く、
古の人の如く、
植物の如く、
無知のごとく、
原始人の如く、
石のごとく、
鉱物、原子のごとく。

人は、その人の与えられた仕事でいろいろなことを各人各様にする。その人のあり方を認め、そういうこともおもしろいだろうと。殺人、汚職、不正などする人の存在を認め、自分の出来ないことはしないだけ。

人は死ぬとき、慌てる権利、特権を持っていると私は思う。あの人は慌てて死んだよと軽蔑しない。あの人は大往生したなんていうのは虚偽だ。人間は本当は慌てて死ぬのがよい。

美しいものはあわれである。あわれでなければ美ではない。
淋しいものでなければ美ではない。美は弱いものである。弱くないものは美ではない。
美はこわれやすい。こわれやすいものでなければ美ではない。
美しいものを愛する。愛するのはあわれなものである。

敵を愛せよ--味方にする、抱きこむ。右の頬を打たば、負けて勝て、敵が悔いいる。愛とは人を自分の味方にすること。

わが一生は大切なものだ、という気がする。永遠の中のちょっとの間、それが一度しかないような気がする。だから、よく生きなければならない。正しい真っ直ぐな道を歩みたい。現世生活に損をしても苦しめられても、真っ直ぐに進みたい。

生きよいとは人がふえること。悪いとは人がへること。争い、憎しみ、戦争は死ぬから悪い。愛、生殖、創作、生産は、人をふやすからよいという。生めよ、ふえよ、人口が倍になっても、人は生きる工夫をするから、世の中はますますよくなる。

知らしめず、依らしむべし。依らしめず、知らしむべし。

我の彼でない、我は彼である、彼は我である。

すべてのもの、我のためにあり。すべてなすことは我のためなり。無我、没我、自己をすてることなども、みな我のため。

我はどうなるか。天より出で天に帰る?何万何億年かの後に、また今と同じことが起こる、回り回っている。一回りはどれぐらいかわからぬが、そのとき、今と同じようにわれわれはあい、今と同じように一緒に進む。

自分をよいと思う。よいとみせかけるのではなく、本当に自分がよいのだと思う、それが自分の徳である。自分が自分を信じ、その信ずることを行うとき、その行いは徳となる。

私が地面を歩けば、地球がうしろへ回る。宇宙も少し廻る。

我---非物質、少数者、一元的。

知より徳、理論より感想、金もうけより人格、健康な身体より健全な精神、名誉より仕事。

表現することは、自分が自分を自分に表し示すことである。自分の考えや技術を表現して多くの人に示し、人が賛成してくれ、感心してくれると、自分の価値を自分で感じて、自分をよいと思う。それによって生きていることをよろこぶ。

せんでもよいことは、せぬがよい。せねばならぬことはなにもない。きかざるいわざる、生きるためにせんならんことでも、せいでよい。死んでもよい。

腰が痛くて立たなくてもよい。
もう一生何もできなくてもよい。
偉い人になれなくともよい。
心が澄み、平静でなくともよい。
理想に向かって進めなくともよい。
求めるものを獲得しなくともよい。
心に決めたことを通さなくともよい。
正しきに徹しなくともよい。
でなければならないと思って突っ張らなくともよい。
生きなくてもよい、死ななくてもよい。
人類はなくてもよい。宇宙もなくてもよい。

優れた人にならなくてもよい。
勝ち通さなくてもよい、
真理を徹底的に追求しなくてもよい、
たいそう道徳的にならなくてもよい、
社会のためにならなくてもよい、
楽しまなくてもよい、
わざと苦しまなくともよい、
人に助けられなくてもよい、
人を助けなくてもよい、
病気がなおらなくてもよい。
このまま死んでしまってもよい。
なくてもよいと思わなくてもよい。
我は思うと思わなくてよい。

少しだけ 少しだけ、わがままをする。
少しだけ、つつしみ、
少しだけ、人に親切にし、
少しだけ、欲張り、
少しだけ、金をもうけ、
少しだけ、人にほどこし、
少しだけ、世の中をよくしようとし、
少しだけ、楽しみ、遊び、
少しだけ、苦労をし、
少しだけ、人々を愛し、
少しだけ人を憎み、
少しだけ、人を教え、
少しだけ、喧嘩し、争い、
少しだけ、人に勝ち、
少しだけ、まけてやり、
少しだけ悲観し、
少しだけ、病気になり、
少しだけ、怒り、
少しだけ、自慢し、
少しだけ、謙遜し、
少しだけ、見栄をはり、
少しだけ、いばり、しゃべり、だまっている、
少しだけ、犠牲になり、
少しだけ、人をたすけ、
少しだけ、世界を美しくし、そして最も多く自分自身がこれでよいと思うようにする。

静かな水の流れのような人になりたい。

芸術の道徳

芸術の世界にも道徳がある、現実社会の道徳と芸術界の道徳とは大きな違いがあるようであるが、道徳の原理は、どちらにも通ずる同じものである、外見が異なるだけである。
道徳とは徳な道といえる、道は人に与えられてある。各人が与えられた道を行くよりほかはない。ゴーイングマイウェイ、わが道を行く、わが道を行くことが我に徳となる、人生の利益を得る、金や物質の利益だけでなく、わが生命の益を得る、その徳を得る道を道徳という。
私は自分一人だけで他の人に係わりないことでも、そこに道徳があると思う。自分は自分一人でなく、自分の中に甲の自分と乙の自分、丙丁とたくさんの自分がある。身体は一つであるが、その身体をもつ自分、それは自分の心、或いは精神というような、科学や唯物論ではわからないはっきり掴むことのできない自我、それは一つの身体に一つしかないように一寸考えられるが、よく考えてみると自分の心の中に沢山の自分がいて、いつも会議を開いている。
人間が物事をさっさと考えるのは、そして、よし、やろうと決断するのは、意識した、即ち、言語を用いる自分の中の甲乙丙丁・・・・・の討議によるのではなく、無意識の自分も大勢の自分の中にいて、その無意識の議員たちが非常なスピードをもって議論する。そして結論をつける。それが人間の考え方であり、意識と無意識と、あるいは潜在意識というのも、一緒に結合されて考えられた結果がわれわれの判断であり、その判断がうまく出来る。即ち美味であり、即ち美しいものであるときに、それが智慧であり叡智であるといわれる。
右に述べたように、自分一人の中に、多勢の自分がいるのであるから、その大勢の自分が自然に社会を作っていると考えることができる。だから、その社会、即ち自分の心の中にも社会道徳と同じ原理をもった道徳が出来ていて、その道徳、道徳は法律のようなものだが、それによって個人の行動がきめられる。だからわれわれがたった一人で他の人に関係しないときでも、自分が自分に対して道徳行為をもたなければならない。
従来の心理学者や哲学者は私のいったようなふうに考えたり説明したりしなかったであろう。私の説は昔や近代の大学者の説とはちがっているだろう、だから、従来もてはやされた有名な学者の説を知識として学び、それを機械的に心の中に陳列して、その知識のコレクションを自慢することが好きな青二才学徒は、私のいうことは学問的ではない、でたらめだというかもしれない。
けれども私は自分の考えたことを言う。人の説を集めて、おおむねのように、口まねすることを私は好まない。古今東西の識者から学んだことが、自分の考えの材料になっていて、それを与えてくれた人の説をありがたく思うけれども、そういう知識は忘れてしまった。そして聖人や学者や識者の説いたことは忘れていても、その原理のようなものが私の心の中に消化されて浸み込んでいるので、私の考えることは自分独特なオリジナルなものだと思っても、大抵は今まで学んだことに過ぎないことが多い。でも、私は、学者を自分の説の保証人として使うことはしないで、ただ自分はかく考えるということだけにするのである。
私は芸術家だと人にいわれる。しかし私は芸術を商売にして生活していない。しかし私は若いときから絵をかき、建築をやり、陶器を作った。自分で土をこね、絵を描き、薬をかけ窯に火をたいた。それで私は芸術というものに一生の心の働きの大きな分量を用いた。それで私は芸術をするには、どんな心持ちや態度をもつべきか。芸術は社会とどんな関係をもつかについて考えることが、私の考える時間の多くの部分をとった。それが私の心の中の芸術の世界の道徳となって私の心に残っている。芸術作品は作っていないけれど、芸術について考えることは今でも続いている。
芸術の世界における道徳は、人生社会の道徳に反するものでも正しいと認められることがあるように思われる。芸術のうちでも文学は人生生活を描写するものであるから、人間の社会生活の道徳に関することを取り扱うことが多い。文学は人間が他の人間に対する態度を最も多く取り扱っている。自然に対する人間の態度も取り扱うのであるが、人間対人間の態度を記述したものの方が強く人間に訴えるようである。人間が自然や人生に対する態度は道徳なのであると考えてよい。道徳は人間の態度である。

社会における性道徳、貞操観などは文学では無視されることがある。そして姦通や、処女と有妻の男との関係、それから畜生道といって排撃される父と娘との性関係や、兄と妹の性愛行為などが、文芸作品の中では美しいものと感じられるように見えるように描写されている。自然主義の作品にそれが多かった。それが今日の実社会へ影響して今日のわれわれの性愛についての考え方や、そういう方面の実際生活の状態が文芸のとった道徳のようなものになって来た。だから文芸の道徳はわれわれの社会の道徳を変化させる。
芸術は人生を描写するが、その描写する芸術家が芸術の道徳によって描写しているうちに、社会の道徳を棄てて芸術の道徳を高潮させてしまうことになる傾向が多く、そのために或る種の芸術は教育上に悪影響ありとして、子女に見せないようにする親や教師や政府の役人などがあったので、芸術家と社会人との間に衝突が起きることが多かったが、芸術家は心の中では頑張っていても、実社会の生活力が弱いから、いつも圧迫されていて、芸術を思う存分社会へ施すことができないで、芸術の世界でだけ偉そうな態度をしていたようである。
われわれが子供らしい心で見て美しく、きれいだと感じる絵もあるが、絵画の世界では、そんなものでは芸術的でないといって、グロテスクなもの、気味の悪いものを描き非惨な残虐な状況を現したものなど、そういうものが深刻な芸術であり、価値のあるもののように思われることが多い。
音楽の世界でも同様に、一般の人が美しいと思うメロディーなんかは芸術的でないとし、民謡や流行歌などの楽しいものは下等なものとし、賛美歌などは、歌うのも聞くのも恥ずかしいことだと思う、音楽家もいたのではないかと思う。社会的に人のよろこぶものや一般人の好きなものを軽蔑して、ベートーベンやバッハなどの曲を音楽会場の椅子に電気死刑因のように座って深刻な形相をして聞く音楽愛好家もある、音楽は軽い心で楽しめるように初めは起こったものであるが、音楽道が、だんだんむずかしくなって、人を苦しめるようなものがよいとされ、その苦しい、渋い、えぐい味を美味として無理に喜ばされているうちに、それがだんだん美味しい味になってくる。ちょうど煙草を初め吸ったら臭くて苦しいが、だんだん味がよく感じだして、ニコチンのなるべく多いものをパイプにつめて、絶え間なく吸うというふうになる。
音楽は物質から離れているので、社会的行為と関係がほとんどないから、社会道徳に反するようなことはないと思われるが、社会道徳と全然無関係なことが音楽が、別の道徳を持つことを証明すると言ってもよい。
音楽の道徳は社会人が自然の法則や社会の規約に従って生きる態度と同様に、音楽法則と音楽的規約に従うことなのであると思われる
芸術という言葉は私は好かない、ゲージュツという発音がよくない。アートとかファインアーツなど英語はきれいな発音をもたないというが、ゲージュツというより英語で言った方がきれいだと思う。何故私は芸術という言葉をこの頃きらいになったかというに、インテリ青二才諸君が、あまりに芸術芸術と尊重し、戦前の天皇狂信者が天皇や国家を神に祭りあげて、人民が偶像崇拝に陥ったように、近頃は、芸術教の信者が芸術を偶像として崇拝しすぎて、人間が芸術の奴隷になり、人間が人間たる権威と自主性を失い、苦しい息をあえぎながら芸術の流行に追従し、流行芸術家を偶像化して有り難がるからである。
芸術家は社会の生活には社会道徳により、芸術の生活には芸術の道徳を用いているわけであるが、ある芸術家は社会生活の上にも芸術道徳を無視することがあるように見える。社会道徳に欠けた行為をしても、あれは芸術だからといって許されることもしばしばある。それで芸術家になろうとする若者は、芸術家にはなかなかなれないけれども、その前に芸術家に似せた生活をしようとして社会道徳を破ることもある。
芸術家は社会道徳を行うことは下手であって、社会的の善事は出来ない。それが、また人に可愛がられることにもなるようである。しかし私は芸術家だからとか、酔っぱらいだからとかいって、社会道徳を破ったものを許すだけの寛大さは持たない。
芸術家が許されないのは、彼らが芸術の道徳を破ったときにある。芸術は制作することである。制作するときの方法や、気持ちや態度が厳重に芸術の道徳によったものでなければ、彼らの作品に価値を認めることができない。
芸術作品は他の作者のものを敷写にしたものは価値がない、絵画を模写することは或る程度は勉強になる。しかし、どんな偉大な画家の作品の外形を真似して誰の行き方だといわれても、それは少しも名誉ではない。しかし、われわれが絵をかいても作曲をしても、自分だけで考え出した創造的なものは、なかなかできないわれわれの芸術の創作は、大部分は誰かの作品を真似している。わざと真似したのでなく、自然に誰かの影響があるのは、平凡な芸術家としては免れない。だから芸術家は自分の芸術を全然独創だと威張ったりせず、独創的でなければならないとあせったりせず、謙虚な心をもって、自分の仕事に少しずつ工夫を進めて、根気よく押してゆくより他はない。芸術家だという気持ちをもたない文学なり、音楽なり、美術の職人であるが、私は自然を正直に見つめて、真心をもって感じたことを、どうにかして表してみたいのですという心で
芸術に過大な誇張をわざと意識することは、やまかん的である。無意識的に知らずして力瘤を出すなら仕方がない。デフォーメーションや、ディスコードをわざと好んで出すのでなく、仕方なしに、それが無意識に出るのは仕方がない。人間の行為は事情に追いつめられて仕方なしにこうしているのだ、私にはこれ以上には方法がないのですというところまで行きつまらなければならない。今日の芸術は行き詰まっていると口癖に言う人があるが、行き詰まるまで行くのが本当であるのではないか。それでは全く自由がないのではないかというかもしれないが、仕方なしに追いつめられて行く道にも、少しは選択することの出来る場合がある。その道を自分の考えに従ったつもりで選んだ行く気持ちを、自由というのであろう。
仕方なしに、どうしても、どう考えても、この道を進むより仕方がない。でも私は誠意をもってわがが道を行く、それが自分の自由であると考えて一所懸命になるのが、芸術家の道徳で芸術の道徳でもある

美を感じるのは理由を考えぬ方がよい。自然物は理由を考えないで自然に生きている。

芸術は美を慕い、美の世界を創ろうととする。世俗的に醜悪なものを芸術においては美とすることが出来る。芸術は美を発見しようとする。社会的に罪悪であることでも、それが自然に発生し自然のリズムに従って自然の階調をもっていることならば、そこに美を見出す、そしてその美を芸術の宝として貴び得る。偽ること盗むこと殺すこと姦淫することにも、自然と共に、自然につれて人間性が活動したことに芸術上の美が認められるのではないか。絵画においては悪が無い、絵画の技法において偽りや誤魔化しや淫行や、いろいろな悪はあるといい得るとも、絵画に表そうとする自然物に悪はなく、醜もない、自然に存在し、自然として動いているものに美でないものを見出すことは出来ないと考えられるのではないか。
絵画の作品に醜悪なものがあるならば、それに表されている自然物が悪いのではなく、それを表現する方法が間違っており、偽りがあり、自然を感ずる感じ方が悪いのであってその悪さは人間の心の働き方が悪いのではないか。手腕の拙劣は美をそこなう事が少ない。心の悪さが美を破壊し芸術を堕落せしめる。
芸術教育は、ひっきょう、真理に対する、自然に対する人間の態度の教育ではないか。自然に対する人間の態度は道徳であると言えるであろう。人間の偉さは、その偉さを増すことを直接教育することは出来ない。人間力の表現によって芸術作品の力が現れ、その作品が尊重され、その作者は敬われることも多い。芸術教育は、その人間の力を付け加えることを目的とせず、自然に対する道徳を向上させることだけしか出来ない。しかし、その道徳を向上させるときに、その道徳を通じて自然に対する進行を引き出し、その結果として人間の力を引き出すことになり、それが芸術作品の力となって現れることもあると思われる。

芸術教育は右のように、自然に対する人間の理解と態度を指示するのが根本的なことであるのではないか。

抽象画をかきだすと絵がかけなくなる。
技術的にいくら上手に書いてもよい文にならないこともある。よい心を育てられなかった人は、よい文が書けない。幼児でも精神薄弱者でも彼らのうちに、たまによい芸術を作ることがある。彼ら特殊芸術家は技巧の未熟をとび越えて、心をそのままに打ちつけるのであろう。

芸術でも「芸術の道徳」に従ったものでなければ価値がない。その道徳は、社会道徳とちがっているが......。

良い芸術を作っても、世の中の人々に受け入れられ無いことがある。社会に受け入れられ、もてはやされる芸術は大抵よくない。職人的で商売的なのが多い。
クラシックとして尊重されている芸術は、多くは現世的な力量をもってはいるが、神によろこばれない。

人間生活をよくする芸術、技術。

芸術作品を鑑賞するのは、その作品を見るだけでなく、作者の心を知ろうとするようだ。芸術は人と人の心を合わす仲介者だという説も、大した間違いはないだろうと思われる。

新しいものが流行しだしたときは、それがもう古くなって新しいものが生まれようとしている。芸術でも思想でも。

人に人の心を現し示すのは芸術である。芸術的な表現によってのみ宗教を伝える。経文や聖書は文芸である。

真の宗教は心の中にあって、この世には現れない。宗教を説くことや宗教の儀式をするのは、芸術なのである。

職業芸術、職業哲学、職業宗教、残業でしたことは、どんな名人のものでも臭い。ほんとうに偉いのは「素人の心」を失わないもの。