
| ルヴァン美術館で購入した、西村伊作 人生語録 「われ思う」を基本にして、西村伊作の芸術思想を中心にして、西村伊作の思想をかいま見られるよう編集をしてみました。 とくに、語録物というのは、ほとんど一言一言が凝縮された言葉であって、肉声であると言ってもいいわけで、部分部分を取り出してきて並べるのもおかしなわけで、それこそ福笑いみたいなものとなってしまう。出来れば全部そのまま掲載したいと思うの常ですが、そうもいきません。 ピックアップしたものからでも、西村伊作の思想が伺えると言ってもらえればそれなりに成功したと言えるかもしれません。 私の手元にはありませんが、西村伊作著「我に益あり」も何度か目を通したことがありました。そのときは本当に若いときでした。ほとんど心に何の引っかかりもなく見過ごしていました。こうして、必要にせまられてくると、近くに寄ってくれないというのが世の常でもあります。できれば、この著書も参考にしたかったのですが、それはまたの機会へということにします。 違った意味で、この、語録も、あんまりにも今の私にすんなり入り込んできて、逆に引っかかるところを探すのが苦労するというものでありました。 長年、文化学院に在籍していて、自然に、無意識に西村伊作の生き方を習得してきたようで、西村伊作は「自分で自分を考える」人であると見るならば、私も同じように「自分で自分を考える」人となっていました。そうしたとき、この西村伊作語録は、自然と肝に染み込む良薬のようでもあり、意識しないでよい物に近くて意識する方が逆に不自然で、そういった意味では大変な作業でした。 |
どんな小さなものでも盗まない。どんな小さな嘘でもつかない。
来るときは拒まず、去る者は追わず、再び遠方より来るときは友として喜ぼう。
動物は行き過ぎない、人間は利己に行き過ぎるし愛情にも行き過ぎる。行き過ぎは困苦を来す。
平凡なうちにデリケートな差がある。
己の欲することを人にさせたい。
なめられてもいいから人柄が善良であるのがよい。
人のよいところを発見することは自己を価値づける。
もっと もっと もっとよく、
もっと多く もっと美しく、
もっと強く もっと賢く、
もっと知り もっと働き、
もっと勝ち もっと愛し もっと取り、
もっと もっとと思うから 心がなやむ、
なくてもいい----君主、財産、学閥、思想、恋人、親、子、文明、芸術。
偉い人になるな。人のために尽くすな。社会のためにするな。
何故なれば、そのことのために恩に着せる心が起こるから。
芸術病にかかるな
写真は迷わされないで物を写す。絵は迷わされた感じをかく。
芸術は迷わされたことの価値を表す。迷いが人生である。
モダーンはすぐしなびる。だから未来を求めて進みたい。
負けるが勝ち、まけて勝て。長いものにまかれ強いものにまける。勝ちとは何か。
遠慮、無欲。「与えられた性格を生かす」
わがうちなる心をゆるくすることにより、外のすべてのものの悪さが消失するようである。許すとは、自分の心をゆるくすること。物をも、人をも、みなよしと思い得たときに、わが世界はよく美しく愛し得るものとなる。
あせって自分を見せつけないように私は気をつけよう。
本当に権威ある思想は平易であって、だれにもよくわかるべきものであるべきであろう。
考えることが多すぎるのは、物がたくさんほしいのと同じ。
思う、われ思う。人は思う。思うと思う。思うと思うと思う。いいねえ、何となくつぶやく。
ばかになれ? 修養のゴール。
無意識で考えることは意識より深く、大きな構造をもつ。
自己---すべてのものは、自分の見るものも持つものであり自己でない。自分の身体も自己が見たり持ったりする以外のものである。
自己以外のすべてのものが、自己を作っているように思われる。だから、他人の生活を自己が生活することもある。
人類が滅亡してもよい、地球が破裂してもよい、そんなことは宇宙の極めて小さい問題にすぎない。
人間 外界を認識し、心が構成される。物を思うときわれを思う。われ思う故に? われあるが故に、われを思う。われを思う--神を思う。神とは、内にあるもの、外にあると感じる。すべての考えは神に至る。神は真。神聖は真正。
高貴は芸当をしない。それを見る方だ。
文化とは男性の女性化--文明というものは、つまりは男性が女性化してゆくことだ。
赤ん坊でも物を持ったり、いじったりする。子供はきょうだいや友達を、自分の好きなようにいちじ扱いたがる。成長するに従って人を自分の思い通りにしようとする。
恋愛するのも相手を持って支配したいから。金をもうけるのも、その金で人を支配し、家を建てたり、機械を買っていじったり、年取ると庭いじりしたり、そういうふうに、人はいつも自分のまわりのものを支配したがる。
人に親切にし、人の世話をし、たすけるのも人を支配することである。
ゆっくり、急ぐ。
自由意志はあると思うけれどない。すべての行為はさせられている。
自分は作られたものであるから、作ったものに支配され動かされる。行動のみならず、考えることも、自分のまわりのすべてのものに、そうさせられているのである。
自分は自然によって作られ、自然はまたなにかによって作られる。
静かなる生活、動物の如く、
古の人の如く、
植物の如く、
無知のごとく、
原始人の如く、
石のごとく、
鉱物、原子のごとく。
人は、その人の与えられた仕事でいろいろなことを各人各様にする。その人のあり方を認め、そういうこともおもしろいだろうと。殺人、汚職、不正などする人の存在を認め、自分の出来ないことはしないだけ。
人は死ぬとき、慌てる権利、特権を持っていると私は思う。あの人は慌てて死んだよと軽蔑しない。あの人は大往生したなんていうのは虚偽だ。人間は本当は慌てて死ぬのがよい。
美しいものはあわれである。あわれでなければ美ではない。
淋しいものでなければ美ではない。美は弱いものである。弱くないものは美ではない。
美はこわれやすい。こわれやすいものでなければ美ではない。
美しいものを愛する。愛するのはあわれなものである。
敵を愛せよ--味方にする、抱きこむ。右の頬を打たば、負けて勝て、敵が悔いいる。愛とは人を自分の味方にすること。
わが一生は大切なものだ、という気がする。永遠の中のちょっとの間、それが一度しかないような気がする。だから、よく生きなければならない。正しい真っ直ぐな道を歩みたい。現世生活に損をしても苦しめられても、真っ直ぐに進みたい。
生きよいとは人がふえること。悪いとは人がへること。争い、憎しみ、戦争は死ぬから悪い。愛、生殖、創作、生産は、人をふやすからよいという。生めよ、ふえよ、人口が倍になっても、人は生きる工夫をするから、世の中はますますよくなる。
知らしめず、依らしむべし。依らしめず、知らしむべし。
我の彼でない、我は彼である、彼は我である。
すべてのもの、我のためにあり。すべてなすことは我のためなり。無我、没我、自己をすてることなども、みな我のため。
我はどうなるか。天より出で天に帰る?何万何億年かの後に、また今と同じことが起こる、回り回っている。一回りはどれぐらいかわからぬが、そのとき、今と同じようにわれわれはあい、今と同じように一緒に進む。
自分をよいと思う。よいとみせかけるのではなく、本当に自分がよいのだと思う、それが自分の徳である。自分が自分を信じ、その信ずることを行うとき、その行いは徳となる。
私が地面を歩けば、地球がうしろへ回る。宇宙も少し廻る。
我---非物質、少数者、一元的。
知より徳、理論より感想、金もうけより人格、健康な身体より健全な精神、名誉より仕事。
表現することは、自分が自分を自分に表し示すことである。自分の考えや技術を表現して多くの人に示し、人が賛成してくれ、感心してくれると、自分の価値を自分で感じて、自分をよいと思う。それによって生きていることをよろこぶ。
せんでもよいことは、せぬがよい。せねばならぬことはなにもない。きかざるいわざる、生きるためにせんならんことでも、せいでよい。死んでもよい。
腰が痛くて立たなくてもよい。
もう一生何もできなくてもよい。
偉い人になれなくともよい。
心が澄み、平静でなくともよい。
理想に向かって進めなくともよい。
求めるものを獲得しなくともよい。
心に決めたことを通さなくともよい。
正しきに徹しなくともよい。
でなければならないと思って突っ張らなくともよい。
生きなくてもよい、死ななくてもよい。
人類はなくてもよい。宇宙もなくてもよい。
優れた人にならなくてもよい。
勝ち通さなくてもよい、
真理を徹底的に追求しなくてもよい、
たいそう道徳的にならなくてもよい、
社会のためにならなくてもよい、
楽しまなくてもよい、
わざと苦しまなくともよい、
人に助けられなくてもよい、
人を助けなくてもよい、
病気がなおらなくてもよい。
このまま死んでしまってもよい。
なくてもよいと思わなくてもよい。
我は思うと思わなくてよい。
少しだけ 少しだけ、わがままをする。
少しだけ、つつしみ、
少しだけ、人に親切にし、
少しだけ、欲張り、
少しだけ、金をもうけ、
少しだけ、人にほどこし、
少しだけ、世の中をよくしようとし、
少しだけ、楽しみ、遊び、
少しだけ、苦労をし、
少しだけ、人々を愛し、
少しだけ人を憎み、
少しだけ、人を教え、
少しだけ、喧嘩し、争い、
少しだけ、人に勝ち、
少しだけ、まけてやり、
少しだけ悲観し、
少しだけ、病気になり、
少しだけ、怒り、
少しだけ、自慢し、
少しだけ、謙遜し、
少しだけ、見栄をはり、
少しだけ、いばり、しゃべり、だまっている、
少しだけ、犠牲になり、
少しだけ、人をたすけ、
少しだけ、世界を美しくし、そして最も多く自分自身がこれでよいと思うようにする。
静かな水の流れのような人になりたい。
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芸術の道徳 芸術の世界にも道徳がある、現実社会の道徳と芸術界の道徳とは大きな違いがあるようであるが、道徳の原理は、どちらにも通ずる同じものである、外見が異なるだけである。 社会における性道徳、貞操観などは文学では無視されることがある。そして姦通や、処女と有妻の男との関係、それから畜生道といって排撃される父と娘との性関係や、兄と妹の性愛行為などが、文芸作品の中では美しいものと感じられるように見えるように描写されている。自然主義の作品にそれが多かった。それが今日の実社会へ影響して今日のわれわれの性愛についての考え方や、そういう方面の実際生活の状態が文芸のとった道徳のようなものになって来た。だから文芸の道徳はわれわれの社会の道徳を変化させる。 |
美を感じるのは理由を考えぬ方がよい。自然物は理由を考えないで自然に生きている。
芸術は美を慕い、美の世界を創ろうととする。世俗的に醜悪なものを芸術においては美とすることが出来る。芸術は美を発見しようとする。社会的に罪悪であることでも、それが自然に発生し自然のリズムに従って自然の階調をもっていることならば、そこに美を見出す、そしてその美を芸術の宝として貴び得る。偽ること盗むこと殺すこと姦淫することにも、自然と共に、自然につれて人間性が活動したことに芸術上の美が認められるのではないか。絵画においては悪が無い、絵画の技法において偽りや誤魔化しや淫行や、いろいろな悪はあるといい得るとも、絵画に表そうとする自然物に悪はなく、醜もない、自然に存在し、自然として動いているものに美でないものを見出すことは出来ないと考えられるのではないか。
絵画の作品に醜悪なものがあるならば、それに表されている自然物が悪いのではなく、それを表現する方法が間違っており、偽りがあり、自然を感ずる感じ方が悪いのであってその悪さは人間の心の働き方が悪いのではないか。手腕の拙劣は美をそこなう事が少ない。心の悪さが美を破壊し芸術を堕落せしめる。
芸術教育は、ひっきょう、真理に対する、自然に対する人間の態度の教育ではないか。自然に対する人間の態度は道徳であると言えるであろう。人間の偉さは、その偉さを増すことを直接教育することは出来ない。人間力の表現によって芸術作品の力が現れ、その作品が尊重され、その作者は敬われることも多い。芸術教育は、その人間の力を付け加えることを目的とせず、自然に対する道徳を向上させることだけしか出来ない。しかし、その道徳を向上させるときに、その道徳を通じて自然に対する進行を引き出し、その結果として人間の力を引き出すことになり、それが芸術作品の力となって現れることもあると思われる。
芸術教育は右のように、自然に対する人間の理解と態度を指示するのが根本的なことであるのではないか。
抽象画をかきだすと絵がかけなくなる。
技術的にいくら上手に書いてもよい文にならないこともある。よい心を育てられなかった人は、よい文が書けない。幼児でも精神薄弱者でも彼らのうちに、たまによい芸術を作ることがある。彼ら特殊芸術家は技巧の未熟をとび越えて、心をそのままに打ちつけるのであろう。
芸術でも「芸術の道徳」に従ったものでなければ価値がない。その道徳は、社会道徳とちがっているが......。
良い芸術を作っても、世の中の人々に受け入れられ無いことがある。社会に受け入れられ、もてはやされる芸術は大抵よくない。職人的で商売的なのが多い。
クラシックとして尊重されている芸術は、多くは現世的な力量をもってはいるが、神によろこばれない。
人間生活をよくする芸術、技術。
芸術作品を鑑賞するのは、その作品を見るだけでなく、作者の心を知ろうとするようだ。芸術は人と人の心を合わす仲介者だという説も、大した間違いはないだろうと思われる。
新しいものが流行しだしたときは、それがもう古くなって新しいものが生まれようとしている。芸術でも思想でも。
人に人の心を現し示すのは芸術である。芸術的な表現によってのみ宗教を伝える。経文や聖書は文芸である。
真の宗教は心の中にあって、この世には現れない。宗教を説くことや宗教の儀式をするのは、芸術なのである。
職業芸術、職業哲学、職業宗教、残業でしたことは、どんな名人のものでも臭い。ほんとうに偉いのは「素人の心」を失わないもの。