ユリ先生(坂倉ユリ)のご厚意により、村井正誠を特集した熊野地方史研究会・新宮市立図書館刊行の「熊野誌」第45号を入手することができた。
内容は巻頭のカラーグラビアによる作品写真と、54ページに渡る本文の特集である。
前半が、この特集号のために書き下ろされた6名の方々の、村井正誠論、思い出、熊野と村井正誠などのプロフィールを語った文章と、先に行われたモダンアート協会・日本美術家連盟主催の「村井正誠を語る会」でスピーチをされた方々10名の原稿に起こしたものに多少の手を加えられたそれぞれの村井正誠像と、妻の村井伊津子の、村井正誠が亡くなった直後の様子などの文章の構成となっている。
前半の、6名の方々は、私にとっては初めて聞く名前ばかりである。「希望は形成されない動的な抽象絵画」の植野比佐見さん、「村井さんとポプラの家」の安川太郎さん、「村井先生と熊野美術協会」の田本実さん、「村井正誠、アバンギャルド(前衛)の道」の太田俊伸さん、「どうして・・・いつも新しい村井正誠さん」の古川秀昭さん、「新宮市・村井正誠さんを語る会に伺って」の柳沢信男さん等である。
内容的には、殆どは私の知り得たところのものであったが、新しく知ったこともまた多い。それをどのように編集しようかと考え始めたら意外と難しいのに気がついた。結局は、正攻法に「熊野誌による人間村井正誠」とすることにした。

はじめに

画家としての村井正誠の一生は、大まかに、風景画家を目指した西村伊作との出会いからパリに渡るまでの時期。パリに滞在してそれまでの自分のものを全て捨て、抽象絵画へと転身した時期。抽象画家としての時代にも、面のコンポジション時代から面に黒い線のオーバーラップ時代、画面いっぱいに黒い線が拡がり、盛り上がった線が現れた黒の時代それから、顔や人型など人間の展開期、そして再び線とも面ともつかない人間の感じられる心象風景の時代に分けられる。
その間には、文化学院の学生時代、二科展への入選、新時代洋画展、自由美術、戦後のモダンアート展と団体と仲間の遍歴があった。
村井正誠が、少年時代を過ごした時代背景、そして画家村井正誠を誕生させた西村伊作の誕生から文化学院を設立するまでの思想的背景と時代等々、調べ出すと興味の範囲は広がり収集がつかなくなってしまう。
ともあれ西村伊作をユートピアの西村伊作として誕生させたのは、叔父の大石誠之助の処刑であり、その伊作に出会うことで村井正誠が誕生し、文化学院は伊作が西村家の養子となり、家督を継いだことから始まっていると言えないこともない。熊野の森林が、西村伊作を生みそして文化学院を生み、更に村井正誠を誕生させたということだ。

1. 少年時代 - 西村伊作との出会い

熊野誌によると、村井正誠は、1905年(明治38年)3月29日村井昌澄・とみゑの次男として岐阜県大垣市で誕生した。
父の仕事の都合により幼少の頃から彦根市、和歌山市、田辺市と転居を繰り返し、1913年(大正2年)9月頃、彼が小学3年生の頃新宮町(新宮市)下本町へと転居し、そこで父が眼科を開業した。村井正誠は1922年(大正11年)新宮中学を卒業するまでこの地で過すことになる。
小学校は丹鶴小学校に編入し、1917(大正6年)に卒業して中学へと進んだ。小学校、中学校を通じて友人として杉本義雄という名前が記されている。
この新宮において、小学校高学年から中学生時代に、イーゼルを立て熊野川の川岸や郊外を写生している西村伊作を傍観した経験と出会いが、後の村井正誠の人生を大きく左右したというのは動かしがたい事実である。医者にしたかった父親の反して、画家村井正誠は西村伊作の強い影響と運命的と言ってもよい出会いにより誕生した。このとき伊作32,3歳?の頃であった。ここで面白いと思うのは、眼科医の息子が眼の快楽とも言うべき画家になったという、偶然と言うべきなのか当然と言うべきことなのかという事実だ。
また、いろいろなことに興味を持ち行動にうつして遊んだ少年時代の村井正誠少年は写真もやっていた。その写真コンテストにおいて、審査員をして、他の審査員が落とそうとした村井正誠の出品作だった、牛の足が三本しか見えないぼーっとした写真を「面白い!!」と言って拾い上げ、更に推賞したのも西村伊作であった。このことからも、村井正誠は西村伊作に出会うことで創作家としての自信も得たのではないかと思う。
その頃の、村井正誠にとって絵画とは特別な思い入れのあった油彩画の風景画であった。パリへ渡るまでは、よい風景画家になることを目指していたことは間違いないようだ。そのつもりで、向かったパリであったが、パリで時代の先端に触れて、一枚も風景画を描くことなく帰国した。
またその頃、容易に絵の具が手に入る時代ではなかったが、彼の、ハイカラなものとして、また遊ぶものとしての絵の具に対するこだわりは、次のようなエピソードにも顕著である。彼の「黄色の世界」の一節である。
私は嘗て少年の頃より黄の色に大変悦びを感じその黄の色の入手法を今でも覚えている。少年の頃紀州の田舎のことで今と違い何もない町のことである。
或日文房具屋で小さなチューブ入りのガンボージ黄というのを一個五銭だか十銭だかで買い求めたことがあったが、これが、私が絵の具を買った一番初めのものであった。奇妙なチューブが私は気に入ってすぐ使い果たしてしまったが代用はもうなかった。中学校の隣に建てられている寄宿舎の庭の垣に白い花の咲くくちなしの植え込みがあった。黄色がその実から取れると云うので随分と沢山その実を採って箱に入れて置いた。鍋の中に入れて煮ると黄色ののりのようなものが沢山出来たが、少々奇妙な臭気があって今でもその臭いは覚えている。紙に塗って楽しんでいたが、余りくさいので私の知らない間にすてられてしまったらしい。そのあと始末は私は覚えていない。くちなしの黄、なつかしい色であった。

一方、西村伊作は1884年(明治17年)和歌山県新宮横町(現在の新宮市)の大石家に生まれ、父は大石余平でクリスチャンであった。1892(明治25)年 母方の実家である奈良県下北山村の大山林家、西村家へ両親と共に養子となり、正確に言うと1892年(明治25年)に、西村家の熊野川奥の山林業で巨額の財を受け継ぎ家督を相続した。
1896年(明治29年)叔父大石誠之助が新宮町に開業したことから叔父の所に同居した。1998年に広島の私立明道中学に入学、1903(明治36)年に卒業した。その頃、日露戦争に対して非戦論を抱き社会主義思想を持ちビラ配りなどをした。それは、叔父の影響があったに違いない。そして招集礼状に対して、病気のためという不応届けを出してシンガポールに旅行をする。
叔父の、彼の敬愛する、医師で号は禄亭の大石誠之助-1867年(慶応 3.11. 4)〜1911. 1.24(明治44)は、明治43年、彼は社会主義者幸徳秋水を援助し、また新宮に招待した。それが原因で、大石誠之助等の新宮グループ五名が、天皇暗殺を企てたというでたらめな理由で1910年検挙され、翌年11年二名が処刑された。そのうちの一人が大石誠之助だった。その叔父を実力奪還しようとした西村伊作の奮闘虚しく敬愛する叔父は刑死した。この大逆事件を契機にして、新宮の町全体が差別され、産業的にも停滞したと言われている。
この事件以後、社会運動から離れた彼は、莫大な山林資産を背景に自分だけのユートピア作りに邁進した。まずは素人建築家として理想の住宅を設計。次いでわが子のため、今に続く理想の学校=文化学院まで設立、大正の文化界に旋風をまきおこすこととなる。
1916年(大正5年)頃、新宮の西村家に滞在中、陶器窯を持ち制作に熱中する。富本憲吉氏が陶器制作を共にした。その頃、童話の巌谷小波、彫刻の安田竜門、作家の佐藤春夫などが西村家のサロンを賑わした。写生に出かけたり、絵を描いたり陶器をして彼の自分固めの生活改善を行っていた時期に、村井正誠と出会うこととなる。彼が31、2歳の頃?であった。
この、二枚の抽象画の写真は、この頃、西村伊作が描いたものである。上が「抽象1」18.9×29B、下が「波」29.4×38.3Bでいずれも1916年作である。
この写真は、文化学院新聞 第135号に掲載されたものである。
今まで、風景画はあったが、抽象画を見たのはこの二枚の写真が初めてである。
正直なところあまりの斬新さに少なからずショックを受けている。画面の躍動感は、西村伊作の内面のダイナミックな激しさを見るようで、村井正誠を生み出す下地は西村伊作の中にすでにあったということのようだ。不思議な縁だ。この頃、村井正誠はこの絵を間近に見たのだろうか?
(文化学院新聞によると、海外から日増しに西村伊作に対する関心が高まっているという。この二枚の抽象画は1999年9月より2000年3月までドイツのケムニッツとフランクフルトで行われた「1910-1970 日本の絵画展」に紹介されたものである。最近では、1997年5月にイギリスのシェフィールドで開かれた「ジョン・ラスキンと近代日本展」でその活動を大きく取り上げられた。更に、1998年7月オーストラリアのシドニーで行われた「モボ・モガ展」でも西村伊作のことが言及された。と記されている。)
ともあれ、西村伊作の文化学院設立は大正ヒューマニズムの拠点となったのは確かである。それはまた政治からの回避でもあり、文化によって現実を乗り越えようとした時代の一つの方向でもあった。
この時代は、様々なユートピアが生まれ、そして壊れてゆく時代でもあった。私の知るところでは、白樺派の武者小路実篤の「新しき村」を作ろうとしての挫折がそうでした。今、この理想が現実にかなわないなら、小さき者達に託そうというという空気がこの時代にはあったようだ。それが、多くの童謡、童話、赤い鳥の刊行、そして子供のためにという文化学院の創立となったといえる。これが俗に言う大正デモクラシーのことだ。ただ、この時代の夢見る大人達は、世のはかなさ、やるせなさを隠さず子供達に伝えようという気概があり、今のハッピーに包んで真相を覆い隠した教育とは大いに違っていた。

西村伊作と文化学院

 西村先生は不思議な人でね、西洋人みたいに人でした。背も高いし ね。私の小学校に洋服を着てくる変な子がいたんです。それが西村アヤ と言いまして、私より二つ三つ下のクラスの子ででした。もっと下には 九二という人もいました。それが半ズボンを履いて足が見える。その頃 私達は着物を着てね、洋服は着てなかった。西村さんの家は西洋流だっ
たんです。私どもは日本流。そういう面白い風俗の違いがあった。西村 伊作という人は、油絵というのを描いていたんです。10号ぐらい のカンヴァスに、画架というのを立ててね。絵具箱の中には何だか、 チューブというのがあって、いろんな色があって、青いのだとか黄色い のだとか、薄い色がやたらきれいに見えてね、それが面白くて。その頃
チューブに入った絵具というのはなくて、絵具っていうのは固い絵具ば かりだったんです。不思議なものがあるもんだなと思って、写生を見に 行くんです。出来るまで見てるんです。ところが西村伊作という人は あっちこっちに写生に行くんです。すぐ伝わりまして、「西村さん絵描 きよるで」と言われると私は走るんです。で、後ろで見ている。私が
立っているのが気が付かなかったのか、気が付いても問題でなかったの か。ずいぶん何回も見ました。で、私もやりたいと思って、文房具屋へ 行ってああいう絵具をくれと言っても何もないんです。絵具を買ってき
て、水で溶いたりして、いろいろやってみたけれど駄目だったんです。 ずいぶん苦心して、油絵の具というから石油を入れたりしたんですが、 いつまでたっても乾かないですからね(笑い)。そういう風に真似して やったんです。それで美術はいいなあ、絵描きはいいなあと思って、中 学を出て、絵描きになろうと思って。
 新宮にはアメリカに行っている家が八軒くらいありまして、どの人も アメリカ式なんです。文学もハイカラな人がいまして、佐藤春夫という 人がいました。文化的な田舎の小さな町で、私も文化的になったんです。で、未だに文化学院と関わりがあります(笑い)。

 中学二年生の時写真を撮ったら二等賞になりましてね、十五円貰った 事があるんです。それはなぜ良かったかというと、霞のかかったところ に牛がいるんです。下が川で。西村伊作先生が審査員の一人で、ぼけて いるところが印象派の絵に似ていたんです、印象派はやっと日本に紹介 されてきた頃で、田舎の人は分からなかったんですが、西村先生だけ分
かってたんです。それで二等賞。中学二年で二等賞、十五円も貰ってそ れは大変な事だったんですよ。未だに写真はうまいと思ってるんです。 ところがぼけて映らない。

 文化学院に大学部が出来たのが1925年ですが、私どもはその前 に文化学院を知っていたんです。まだ中学の頃に東京に学校が出来た と、それが西村といううちの人の学校だと。田舎の少年だった頃にそれ を見にいった事があるんです。御茶ノ水の学校で。秋でしたからコスモ スが1杯咲いていたんです。コスモスの中に見えないくらいの屋 根の低い家が3軒ぐらいあって、それが教室だったんです。文化学院で は不思議な事に皆洋服を着ていた。何だかピアノを弾いてて、外国みた
いなところでした。入学をする時に話を聞きに行ったんですが、お爺 ちゃんが出てきて、こういういい学校だというのを1時間以上話 した、それが与謝野(鉄幹)さんだったんだ。与謝野晶子の旦那さんで すね。ずいぶん長い事歴史的な事から聞いてね、寒くて帰りたかったん だけれども。石井柏亭先生とか、有島生馬先生とか二科会を創立した偉い先生がいるという事を聞かされた。これはどうしても入ろうというので入ったんです。

 初めクラスは4年制だったんです。そのうちに生意気になってきてね。四年もこんな学校に月謝出して行くのもバカバカしいから、三年にしてくれよ、てんでね、三年にしてもらった(笑い)。それで未だに三年制だ。卒業して、とにかくフランスへ行こうと思ってね。(三彩 1993.二月号 特集「村井正誠先生を囲んで」より)