村井正誠は、油彩画において基本的には面の塗りの作家であったと私は思っている。
なるほど、彼の生涯における展開期にはオーバーラップされた黒い線が幅を利かしている。しかし彼の抽象画への転換は、モンドリアン風の、四角の面構成であるURBAIN、そして四つのパンチュールから展開が始ったと見てよいだろう。
晩年は、ほとんど黒塗りの線とも面ともつかない丸みを帯びた面構成のタブローで終わっていることから、多少、乱暴な気もしないではないが、私はこれをもって村井正誠は面の塗りの作家であった結論してしまう。
その根拠とするところは、まだ黒い線がオーバーラップしていたころのこと、NHK教育テレビの「日曜美術館」だったと記憶しているが、司会者に「今後は?」とたずねられると「自分の絵の集大成をしたい」と答えていた。私は、絢爛たるきらびやかな展開を予想していたのだが、だんだん画面からオーバーラップした黒い線が消えて、抽象絵画を開始した初期の頃のように面だけの質素な画面構成となって彼の生涯を閉じたということからなのである。

オーバーラップされた黒い線は、先立たれた妻の小川孝子との結婚生活期間とほぼ一致する。小川孝子は戦前から一貫した線の作家であり、それも油彩画にもかかわらず即席画のような斬新な画面であった。
もちろんそれだけではないのだが、村井正誠は小川孝子との結婚生活の間、小川孝子の線の存在を盗み取ってしまったというのが私の解釈だ。その間、村井自身の持ち味である面構成はオーバーラップされた黒い線の背後に回り、色紙をちりばめたような色彩を主張して、組んずほぐれつの黒い線と緊張関係を生んだ。彼らの結婚生活のように。
小川孝子が亡くなってからは、彼女の線の存在を彼自身の肉化して行き、晩年の面構成の作品に反映していったということに違いないと私は考えている。
男に真の意味でのオリジナリティーがあるのか。彼の存在が作品と化して提出できるのか。それは研鑽と努力が要求される。そその研鑽と努力は捨てることでもある。男性の捨てるべき余計なこだわりのない分だけ、女性はストンとたやすく存在を作品の中に込めることが出来る。ゆえにそこまでは、男性は女性の手助けが必要となってくる。村井正誠だって、例外なく女によって変貌してきたんだと私は断言できる。更にそれ以上に突き進むには女性を超えなければならない。

一部には、村井正誠の代表作とも言われている黒のシリーズがある。黒塗りの画面に三角に盛り上げた線だけの画面構成なのだが、1973年鎌倉近代美術館で開催された村井正誠展の会場で初めてこの絵に対峙したとき、大画面の簡単な構成にもかかわらず、そのパワーに声もなく佇んでしまったのを覚えている。一緒にいた25歳で自殺してしまったF君は、細く盛り上がった線に注目して、「ジャコメティの人のようだ」とやはり相当の感銘を受けていた。
このシリーズは、黒い線の簡単化、更なる抽象化の方向が、彼の場合膨張していった。とうとう全面塗りつぶすに至ってしまい、それだけではもたなくなり、黒の中に黒い線を盛り上げたということだ。もちろん、当時流行の先端にあったアクションペインティングに影響を受けていたこともあっただろうと思う。

私の推測だが、初期の頃は絵の具に解き油を使用していたようだ。私が、村井正誠を知ってつき合うようになったときは油絵の具のチューブから直接生のまま使用していた。テレビでの制作風景でおなじみのところである。だから制作にあたってはパレットは殆ど使っていなかった。
だいぶ以前に行ったきりなので、今、展示されているかどうかは定かでないが、解き油を使用していた頃のものと思われるパレットが笠間の日動美術館に常設で展示してあった。それはまさに、かっての村井正誠の作品そのものの色彩の世界がパレットに残されている。ある意味では作品そのものより興味深い。会場には、他の作家のものも一緒に展示してあって、それぞれの作家の生の姿がダイレクトに窺うことができて、いくら見ていても飽きない私の好きな展示室であった。

時たま古い作品を展覧会などで見かけることがあるが、筆跡の目立たない解き油を使用した形跡があるに限ってのことだが、黒の面は思い切りひび割れをしている。確かに黒の絵の具は他の色の上に重ねるとひび割れを起こす。それも解き油を使用して重ねると早いうちからひび割れをしてしまう。私の経験から言っても黒の油絵の具はその傾向が強い。おそらく彼も経験上、黒を塗り重ねしない方向に行ったのだろう。それが晩年の一番最初に黒のかたちを直接キャンバスに生の絵の具で塗り込めるようになったのだろう。また「黒は黴びやすい」とも言っていた。

ちなみに晩年、村井正誠は黒の油絵の具は文房堂とアサヒクサカベのアイボリーブラックを使用していた。
筆は、使用した後に洗わず、絵の具がついたままの固まった状態で塗っていたときが多かったようだ。それが独特の凸凹のマチエールを生んでいた。

私が受けた村井正誠の最初の授業が、先にフレームを作らずに、鉛筆で塗りながら四角を作ることだった。だからきちんとした四角はなかなか作れない。それがその人の四角なのだというのは後になってから分かったことである。

(追)「村井正誠を語る会」において壇上に立って村井先生の思い出を語った彫刻家の瀧沢嘉子さんが村井正誠の線誕生の興味ある説を語っていた。戦後まもなく村井正誠は小川孝子とともにキリスト教系田園調布雙葉学園の先生になった。幼稚園児から、小学校、中学、高校と教えていたのこと。詳しくは忘れてしまったが、95年ぐらいまで幼稚園だけは教え続けていたということだった。瀧沢さんはその頃から村井先生に目をかけてもらっていたようで子供の頃から村井正誠のアトリエで絵の勉強を週一回、高校生になってから週三回ほど絵だけではない他のことも勉強していたとのこと。村井先生に乗せられてモダンアート展にも出品していたこともあったのこと。「村井先生に自分のしたいことをすればいいと個性を伸ばすことを言われていたが、自分の転機には必ず村井先生がいて、村井先生と関係なく決断したのは二回だけでした。そんなわけで、もしかしたら私は村井先生によって作り上げられた作品だったのかも知れない」と50年の付き合いを回顧していた。
村井正誠の年譜にその田園調布雙葉学園の先生をし続けたということは記されていない。そしてその後モダンアート協会設立に発表されたキリスト教を題材とした作品「天使とトビア」「天使」「母と子」「母子像」などシリーズからオーバーラップした黒い線が登場したことをあげ、これは、幼稚園児の子供の絵から線のヒントを得たのであって、ちょっとした小さなきっかけが村井正誠芸術に影響を与えたのであろうと推測されていた。
この話は、私の村井正誠の線の説を根本から変えざるを得ない話であると思っています。

「村井正誠を語る会」出席者全員に配られた、モダンアート協会製作の村井正誠語録の表紙。晩年に再びヨーロッパを訪れたときのスナップ。

 黒い画面に盛り上がった太い線のシリーズ、これは田圃の畦からヒントを得た筋(線)ですよ。

 色面は、キャンバスに食い込んでいることが大切なのです。

リ ン ク

ピート・モンドリアン 論
モンドリアン的抽象について