マサナリとタルホは、私の中ではごったにの鍋物状態で、味を高めあっているのかはたまた引っ張り合っているのか、うまいのかまずいのかよくわからない。確実に言えるのは「私」を成立している要素であることには間違いないことだ。
両者を比較して検討したことはほとんどなく、その都度でどちらかを思い出すという程度だった。でも考えてみたら、二つの要素は、ジキルとハイドよろしく分裂をけしかけ、またあるときは仲良く机を並べて私の行く道を後押ししてくれるときもあることに気がついた。似ているところも多いけれど違うんだなと思うところも多い。
マサナリとタルホの間には何があるのかないのか、ここで考えてみることにする。たぶん、かえってわからなくなるのが関の山だと思う。しかし、これは自らの矛盾を提示する作業にも等しいと考えている。私とは、矛盾だと声高らかに宣言してしまった方が気が楽だともいえる。
この項は、このMY MASANARIの中核になる部分で、慎重を期したいのだが、もくろみがあまりにも無謀であった。とにかくなかなか進まない。いたずらに「ひとりごと」の更新ばかり進んで多少焦ってきた。そこで、中途のまま出して、随時更新で足して行くという方法を取ることにした。自分の尻を叩く意味で。

タルホに関してはかなり古くからの読者で、多くの本を所持しているのも確かではあるのだが、それほど徹底して研究して居るわけではないので、自分勝手に解釈していてかなり冷や汗な部分も多い。もちろん、これがタルホだなどと宣言するつもりは毛頭ない。
手垢の付いてないタルホを見たければ、一番良いのはタルホの著書に親しんでもらうのがベストだが、このホームページに多くの引用を許可してもらった「一千一秒倶楽部」を訪れて頂ければタルホの神髄を見ることが出来るはずです。是非どうぞ。
そして、私のページの誤りとか勘違いとかを指摘頂ければうれしく思います。


タルホには、ピカソよりピカビアというフレーズがある。生前のマサナリから、ピカソという言葉は聞いてもピカビアという言葉は一度も聞いた記憶はない。考えてみると、マサナリとピカビアの生き方の哲学は水と油といってもよく、無理もない気がする。
ピカビアは、画風を定めず、三十代までにフォービズム、キュビズム、オルフィスムと作風を変えていく。これは、自己に正直であった結果でもあった。「己のなすことを知ることと理解することに努め、特に誠実さと愛をもって自らのために描き、派閥やサロンは無視することである」とピカビアは言った。自己に忠実になればなるほど、オリジナルへの固執というものへの疑惑がピカビアにはあった。逆にオリジナルな対象の再現を自分の絵の中に形跡に残すまいとしていたといってもよい。そこには当然いろいろなピカビアがあった。
ピカビアは、カーマニアでもあり、ベンツを筆頭に生涯に車を127台乗り換えている。その他、自転車、ヨット、ボートなどメカにも強かったせいなのか、タルホが評価している機械の製図のようなデッサン群を発表している。これはほとんど男性の世界と言ってもよいものだった。タルホはこの機械学的デッサンに対して次のようにも述べている。<マン・レイのレイョグラフ、ピカビアの機械学的デッサン、アルブの木片細工、デュシャンのオブジェ・モビール、エルンストのコラージュ・・・こういう類はもともと女性嫌悪から生まれている。即ちそれらは、男性が鋏と糊で-あるいはダリの場合のように、インク入り玉子の殻や蝸牛や火縄銃のタマを用いてさえも-でっち上げようとしている「抽象女性」にほかならない>
またピカビアは、スペインの貴族の父と、フランスブルジョアの娘であった母の残した財産を放蕩に湯水のごとく残らず使い果たしてしまった。それは男性的思い切りのよさである。そんな、ピカビアにタルホは真の男性を見た。
一方、タルホはピカソに対しては、多少評価はするものの絵の面白さはあっても男らしさの飛翔力は感じられず、キュビズムを19年間も持続したところにも解体の精神の欠如を感じていたようだ。ピカソの絵を表して次のような文章を残している。<ある女性の顔を見ると、誰だって気持ちが晴れ晴れするということがあるものだ。しかし、考えてみると、大抵の場合、それは兎や羊や狐やペリカンが止揚されているのではなくて、それらが化粧品や衣裳のために気絶させられているのか、でなかったら地均しされているに過ぎない。そこで、少し癖を入れなくては」ということになって、彼女の顔の中にいる山鳩やペリカンや蜂や蚕などに活を入れる。ピカソの絵は、結局その面白みである。>と。
タルホはピカビアの延長にあるともいえるイタリアの未来派へ、そしてマサナリはピカソのフランスと、両国の違いからでも比較出来そうだ。
考えてみると、どちらかというと私はピカビアの考え方に近い画家といえないこともないなと思っている。キーボードを打ちながら思い出したことなのだが、画家の、故山本蘭村さんの息子である、やはり画家で文化学院出身の山本直文さん(洲之内徹著の「気まぐれ美術館」に彼の章があります)が、私の絵を表して、特に油彩画に色使いからイタリアを感じると言ったことがあった。そのときはそんなものかなと思っていたのだが、何かイタリア的要素が私にはあるのかもしれない。そうか、女性は必ず一回は口説きたくなるのもイタリア的といえば言えないこともないな。考えてみよう。
そんなところが、私がマサナリと長くつきあえた要因でもあったのかなとこの頃感じている。でも私には、ピカビアのように財産はありません。あしからず。

タルホにはイソギンチャクを便器に模したタルホmarkがある。(図2)それに対してマサナリには瓶のような人型markがある。(図1)タルホがお尻りの周辺を抽象化したとしたら、独断と偏見で、マサナリは生殖器の周辺を抽象化したといえばよいだろう。両方とも性を抽象化したもので、両者の存在学の違いが伺えて面白い。
タルホmarkのイソギンチャクは別名「磯の尻」といわれ、一穴で、お尻と口が一緒になっている。人体というのは口(O)からお尻(A)に突抜の円筒であることを象徴して抽象化している。これはいわゆる画家セザンヌの自然の抽象を思わせる。セザンヌが口から尻の巡回を示したのに対して、タルホはこれを逆にしてAO円筒として、肛門から口腔へ抜けるAO円筒こそ、人間の幾何学的存在様式であるとした。この逆流した装置は重力観念から根底的に脱却している。
タルホには「A感覚とV感覚」という著書があって、それが発展して「少年愛の美学」となった。それによると、A感覚とはお尻analのAであり、V感覚とは膣のvaginaのVであり、A感覚は少年の持つ感覚の抽象で、全ての大人が幼年期に通ってきた原始的懐かしさをもつ感覚のことである。それに対してV感覚は、A感覚からの分家で、分家は全女性の数しかないが、本家は人間の数だけ存在ししている。V感覚は開花的、平面的、期待的、乱れがちで待ち受けているが、A感覚は狭窄的、垂直的、拒絶的、抑制的で待ち受けることはない。(V感覚の原始的荒々しさに較べて
clitorisのK感覚は繊細、複雑で、これは見失われた少女期への郷愁に繋がる)
V感覚を更に裏返したのがP感覚penisである。順序としてはA→V→Pという式が成り立つ。V感覚とP感覚は普通の男性女性の姦淫にまつわる周辺の感覚ということで、この場合、P感覚はV感覚の下部でしかなくなり、いわゆる瓶のコルク栓でしかないあわれな存在だ。存在の前の沈没となる。その両感覚の基となっているのがA感覚であり、セックスの彼方、根源にあるものの感覚ということだ。タルホの言うAO感覚はこのA感覚の更なる抽象化なのである。存在から存在学へのジャンプなのである。
それに対してマサナリの人型は、勃起した男根あるいは、男根と膣が結合した状態の抽象化、あるいは瓶としての女性の抽象化ともいえる。あるいはそびえ立つ塔なのだ。両者の示すmarkは、タルホが「逆」という方向に対して、マサナリは「反」重力の象徴した。重力感覚、功利の世界からの脱出の意志の抽象化、つまり「自分からの自由へ」の象徴と私は見たい。
タルホmark図3の両端は、月である。タルホにあってマサナリにないのが月だろう。タルホは、月(自分)をポケットに入れて歩いた月(自分)であり、スターメーカー、イメージメーカーであった。それに対して、マサナリは北風に対する大陽であろうとしたのかもしれない。おだやかに、かたくな人の外套を脱がせたかったのだろう。ただ、外套を脱がせるのは大陽の勝ちと言うことなのだが、暑さは何かしまりがない。腐敗の匂いさえ漂う。一方、寒さに震えていることは冴え冴えとした孤独に自身を奮い立たせるぴりっとしたものを感じる。タルホの言葉に「そもそも寒さは、暑さに較べていっそうロマンチックなもので、事物に陰影をつけるように思われる」とあった。厳しさがないと、ものを創り出すという気にはならず、暑さの先には、多様性が咲き乱れる南国の享楽的世界が広がる。パラダイスではあるけども退屈であるのは確かだ。
マサナリは、晩年は何も言わなくなったが知り合った頃は、作品がロマンチックになることを嫌っていたようで「ロマンチックにならないように」と生徒に戒めていた。私は、ロマンチックな要素を廃した作品はどんなものか予想も立たなかったのを覚えている。いまになって思うと陰影のないおおらかなフラットな作品を要求していたのだと思う。
そういえば、ノヴァーリスに「月は大陽の夢なり」という言葉があったのを思い出した。

ご存じマサナリmark。UFOに見えないこともない。図1
タルホイソギンチャクmark図2

その他のタルホmark 図3
タルホのトイレットペーパーの芯を使ったobject 図4

タルホは、ものを所持することを戒めて、自分も褌一丁、部屋も、執筆の机代わりのみかん箱ひとつの何もないすっきりとしたものであった。それに対してマサナリの部屋は、それとは正反対の、描きかけの作品や、制作済みの作品から集めたものの山で、足の踏み場もないありさまだった。部外者にはゴミ置き場と間違えてもおかしくなく、無頼派の坂口安吾の有名な執筆中の写真を思い出す。生存中は、よくあの部屋で200号もの大作を描けるなあと思ったものだ。岡本太郎だったら画面の遠くで眺めたり、近寄ったりして行ったり来たりして制作するのに。おそらくマサナリはある程度出来上がりもきっちりと予想したデッサンをしておいたのだろう。デッサンと出来上がりにそんなにズレのない作家だった。岡本太郎は、出来上がりこそかれ独特の波打ち曲線だったが、ほとんどデッサンなしの状態でキャンバスに向かったのだろう。出来上がりは未確定のまま始めたのだろう。そう言う場合、針生一郎氏岡本太郎の作品を表していう金太郎飴のように、得して仕上がりは同じような感じになりがちだ。作者の癖がもろに出てくる場合が多いからだ。岡本太郎はこれを自分の強固たる個性と自負していた。確かに、どう見ても岡本太郎だと一目でわかるものであった。そして、岡本太郎は自分と同じ強烈な個性を持った、彼いうところの対極な前衛芸術家を求めていた。そうすれば、前衛運動というのはこの対極を中心に展開して行くはずであった。おそらく、戦後間もない頃彼が主宰したアートクラブはその対極を自ら見つけ育てる種まきの意味であったのだろう。彼のアトリエに前衛作家、評論家等を集め講義した。そこに村井正誠も針生一郎もいた。しかし、どうやら村井正誠も針生一郎も彼のめがねにはかなわなかったのかもしれない。彼曰く、金魚の糞のようにみんなくっついてくるだけだということで彼の孤独感は増すだけだったという結果だったようだ。針生一郎によると、彼の絶望は彼独特の画風を確立させたということだ。つまり一人名声を得る方向への転換だった。針生氏によると、万博の大陽の塔は彼の絶望の極みであったということになる。二つの大陽はなかったのだ。彼を批判する人は、結果的に彼のそれまで取った行動が名声を得るための布石でしかなかったという見方で利用されたと思っていたのだろう。
私は、生前の岡本太郎の生身は二度見ている。一度は文化学院の講堂での学生相手の講義、もう一度は画家利根山光人のアトリエでのプライベート講義のときだ。記憶に残っているのは、文化学院では学生の質問で「フォンタナの作品をどう思われますか」に「フォンタナ?わからない。作品を見ればわかるだろうが」と答えていたのと、利根山光人アトリエで子供連れの母親と子供がうるさいと結果的にアトリエから追い出してしまったことだ。そのときの利根山光人の苦渋に満ちた顔が忘れられない。彼にとっては母子はアルテ・トネヤマの生徒であったのだから。
岡本太郎は、講義が終わってから、誰もいなくなったアトリエに一人壁に掛かった何人かの作家による版画を見ていた。私は近寄って、村井正誠の版画にどのような反応を示すかを見たのが特別な反応はなく目はさっと他へ移っていった。講義の時は爛々とした岡本太郎であって、大きく見えたが、実際は私よりはるかに小さい人であった。たたずまいは身構えた様子もなく、話しかければすっと受け入れてくれそうな感触であったのだが私は話す言葉もなく岡本太郎との出会いはそれで終わった。

タルホははかないものの飛躍性、広がりを認め、印刷されたものとか印刷された写真を好んだ。マサナリはあくまでオリジナルに踏みとどまった面がある。飛躍してシルクスクリーン等のサイン入り版画。もう少し飛躍してサイン入りカラーコピーであった。しかしそうでない例もいくつかあった。銀座イトー屋の包み紙を切り紙してそのまま張り付けただけの作品であるとか、絵の具で汚れたイーゼルの穴に差し込みキャンバスを支える棒(何という名前なのかわからない)をそのまま画廊に持ち込み「画学生」と題名をつけたことなどだ。
画家などは表だった作品よりもデッサンとか発表しない作品とか、ちょっとした書き込みに魅力があることが多い。私はマサナリのそうした違う面にかなり惹かれていたところがあった。

芭蕉と蕪村と山頭火
晩年、村井正誠は芭蕉の句と彼の墨筆の作品集を出版した。何故、芭蕉なのか。私は芭蕉のことには詳しくない。だから村井正誠の存在と芭蕉の存在がどのように結びつくのかわからないのだ。考えられるのは芭蕉の「奥の細道」は岐阜県大垣市が終点であった。マサナリは、大垣市生まれ和歌山育ちだ。彼の生地で旅を終えた芭蕉に特別の思い入れがあったのかもしれない。あるいは次の芭蕉関係の著書の紹介文なのだが、村井正誠と重なりそうな文章なので引用しておく。
......芭蕉(一六四四―九四)ほど密接にその人間と芸術を融合一致させつつ成長していった作家は他にないであろう.「無能無芸にして此一筋に繋る」という覚悟ときびしい精進はついに終生かわらなかった.彼にとっては自己の人間完成への道が即ち芸術完成への道であった.これら書簡にはそうした芭蕉の姿,足どりが見事に写しだされている..........
.......「おくのほそ道」を読むと、芭蕉がこの旅で「歌枕の地を訪ねることに自分自身を埋没させる」ことによって、先人が愛し憧憬をもって歌い込んだ「みちのくの歌枕の地に対する日本古典文学の精神的な流れ」を知り、歌枕への流転をあまねく受け入れることで、停滞をきたした自らの俳諧を見つめ直し、飛躍への契機としたかったのだと考えられるのです。
はるかな場所、みちのくを旅することは、芭蕉が心の師として尊敬していたと考えられる西行や能印法師、あるいは源実方、為仲、義経などの古人の体験を追体験し、自己の俳諧の完成をめざす旅であり、それゆえに第一にみちのくを訪ねなければならなかったのです。......
この芭蕉の姿勢に対して上田秋成は、西行や宗祇が無情を観じて一所不住の生涯をおくったのは、乱世に生まれたが故の因果である。それを秩序ある太平の世にまねようというのは時代錯誤もはなはなだいと非難した。蕪村は、芭蕉の詩趣に学びこそすれ、生のかたちまでなぞりはしなかった。
白石悌三氏の「芭蕉から蕪村へ」という文章によると、芭蕉は<人生のための芸術派>で、一方蕪村は<芸術のための芸術派>で、人と作品は芭蕉は密着し、蕪村は乖離していたとして、芭蕉と共に何かが終わり、蕪村と共に何かが始まったと締めくくっている。芭蕉は、誠を責め、私意を排することに努めて思想はストイックな中世的なのに対し、蕪村は人間の欲望を大胆に肯定し、中世的美意識と絶縁した詩人であった。
画家としてのイメージが強い蕪村と、文人画とむいえる芭蕉のカラスの絵を見比べて感じたことは、芭蕉を村井正誠とするなら、芭蕉のカラスの絵は生涯の友であった山口薫の絵画にある精神風土と同じものを私は見てしまう。だとするならば、彼のやり残した芭蕉を村井正誠自身に同定したのではないのかとも思うのだ。
タルホといえば蕪村である。と言ってもどんな形で蕪村なのか私には詳しく思い出せない。中途半端で申し訳ないが「几巾(いかのぼり)きのふの空のありどころ」という句と、私がフィーリング的に好きな「寒月や門なき寺の天高し」を文章の中に引用していた記憶があるのだが気張って探さないことには見つからない。ただ、芭蕉の場合あまりにも奉られているので、タルホの好みからいって親しみを持つことが出来ず、蕪村を選んでいるということらしい。
私は山頭火である。ほとんど句を読むことはないのだが、山頭火だけは書店で文庫本の山頭火句集に出会ってから思い出しては開いている。まず私でも読めるというのが一番だ。今のところ私は山頭火がピタリしている。「月も水底に旅空がある」が私の好きな句だ。
三者の存在学的に比較してみたいのだが時間を要しそうだ。

タルホは反グルメであったが、マサナリはおなかいっぱい美味しいものを食するところを奨めていた。ビフテキなどの栄養あるものを食さなければいい絵は描けないと公言して居て、過剰が絵を描かすとでも言いたげに。あまりにも両者は相反する。タルホは古代インドの鹿行派もしくはジャイナ教のマハーヴィラの「空衣派」の雰囲気を持っていた。もしタルホとマサナリが相対したら議論になるところかもしれない。しかし、マサナリはグルメとはほど遠かった。出されたものは何でも食べたタイプではないかと思う。酒が飲めなかったマサナリは、パーティーなどの席ではオレンジジュースとグレープフルーツジュースを割った飲み物が好みだった。若いときは、ヘビースモーカーであったらしいが、ある日体に変調をきたしてからはピタリとたばこをやめたとのことだ。だから私の知っているマサナリは両方やらない人であった。
それに対して、タルホはほとんど食べなかったらしいが、酔豚といわれるほど酒癖が悪い大酒のみで、酒で幻覚をみるほどであった。人と会うと馬鹿らしくて飲まずには居られなかったらしく、病院送りになるまで飲み始めたらやめなかったらしい。
ちなみに、私は酒は飲むが、たばこはやらない。その機会もなかった。自分に対しても人に対しても格好つけたい気持ちがあまりなかったから。本当はそれではいけないのかもしれないのだが。よく酒席では友達から拝借して吸っていたこともあったが習慣にはならなかった。

タルホは生涯、徒党らしきものは組まなかった。安泰よりお終いの気分の優雅なダンディズムを愛していたからだ。一方、マサナリは、様々な徒党を遍歴して、団体展モダンアート協会を創立してそこで生涯を終えた。タルホは勝海舟の言葉「人を集めて党を作るのは、一つの私ではないかと、おれは早くより疑っているヨ。人はみな、さまざまにその長ずるところ、信ずるところを行えばよいのサ」をもってマサナリをバサリと切るかもしれない。
権力者タイプは身辺から危険を遠ざけるのにやっきになる。回りにイエスマンを取りそろえることとなる。数だけが頼りとなる。組織化よりも単独、安心よりも不安、危険をタルホは選ぶ。死をまぬがれない人間にとって安定を選ぶより何も得ないかもしれない冒険への賭の方が生き生きと出来る。そして、危機に接した時の方が人間の本来性が現れ倫理が顔を出す。
卒業式か入学式のとき、マサナリの話に「死ぬことは怖いことだ」といったのを覚えているが、やはり怖かったのかなと今になってみれば思う。

マサナリは、キャンバスの上に作品として体をなすことを信条とした。逆に、タルホは、意図やねらいがみえみえの物にはない淡さをただよわせている物体こそ求めていた。玉手箱的な開ける寸前が華で、あけてしまえばそれきりのものである。
マサナリは、作品の善し悪しのたとえとして、チラシみたいだとか、ビラみたいだと評価することがあった。タルホは額縁に取り澄ましている作品より、消えゆく運命のビラにこそ意義を見いだした。ビラには或物の消息を伝えようという予告編の眼差しがあると見ていたようだ。それは「宝物」のようにキラキラと輝く或物だ。それは子供の頃、何気ない只のがらくたでしかないものを宝物として玩具としてみなしたことがあったように、そんな時代を生涯失わない精神にこそ日常に抽象精神を失わない源である。実物ではない玩具こそタルホにとっては宝物であった。

マサナリは進歩とか、進化という言葉を対外的によく使っていた。しかしタルホに言わせるとそれは「罪と死の境涯へいや増しに傾いていく」ということで、それはあくまでも人間性の既存の度合いを増強してゆく謂いに他ならぬことであり、より変わった情勢は来るかもしれないが、より良き情勢が来るべき筈は決してないということになる。私も芸術や絵画の進歩とはどういうものなのかイメージがわかなかった。拡がりは出るかもしれないがそれが進歩とはいわないだろうにという思いがあった。その思いが結局抽象絵画ではなくて「ゑ」なんだという結論になったのだが。マサナリとしては進歩というのはそんなに直接的な言葉ではなくて、芸術や絵画に触れての人間の心の進歩、つまり修行による高みへの方向へという願いを込めた意味で使ったに違いないと思う。タルホだったら、あくまで社会の進歩は常に人間の夢に依るということになる。

タルホには、鉱物があった。鉱物の魅力である、じっとしていること、つまり、実行を避けていること何もしないことを喩えて、実行に距離をおくほど存在性は濃くなると見ていた。そこにこそ意識の拡がりがあるということだ。そしてその存在の沈黙性はエロチックなことでもある。
一方、マサナリは、抽象画において表現の段階で、鉱物=クリスタルは結晶という言葉に置き換えて作品として物足りなさを感じていたようだ。逆に人間的要素を加えることに苦心していた。周囲に対しても、制作において突き詰めて考えず、まず実行することを要求した方だった。マサナリの作品で一番鉱物に近かったのは、やはり黒のシリーズだろう。私は、この黒のシリーズにエロチックなものを感じている。
人間は死なない限り鉱物とは同一面にたてない。そして装飾的なものがなければ成り立たない空虚なものなのだ。タルホの、「何にしても人間よりは樹木の方が偉い。樹木より鉱物、それも水晶のようなものがいっそう偉いのだ。人間も早く水晶のようになってしまったら良かろう」「鉱物に較べると、大方の生物はまるで泡だ」
(水晶物語)という言葉の前にはモンドリアンも、マサナリも吹っ飛ぶ。

タルホには達磨のイメージがつきまとう。かたやマサナリは野の地蔵だ。しかし、マサナリの作品特に黒を使った作品に対して評価として禅画のようなユーモアを感じるというのが多かった。達磨も禅の人で、9年間の座禅修行の徹底的な座の人であった。タルホも生前、立っていても徹底的に座っているイメージがあった。一方マサナリは歩く人であった。いろいろな人に会い影響を与え、与えられた一生であったといえる。作品としては抽象絵画という分野に座した人で、タルホは逆に作品は歩く人であった。