○作品を制作することは、人間を作ることだ。
○なかなか誰にでも、新しい会など創れるものではないよ。よい仲間がいないと、新しい会など創れないんだよ。
○(問) 美術の指導について何かひとつ教えで下さい。
(答) それはねー! 教えないのが一番だよ。
一人の人が様々な人々と関わることによって、その人の人間が出来上がる。村井正誠は村井正誠に関わった人たちの人間模様とも言える。28年にわたる付き合いの中で私なりに判断した人間村井正誠を簡潔に考えてみたい。
村井正誠の展覧会変遷の事の詳細は、他の出版物に譲るとして、簡単に展覧会変遷を綴ってみると、最初は、既存団体である二科展から始まり、独立展と渡り、その独立展のトラブルから、新しい時代の日本絵画を拓こうという精神の仲間たちで起こした団体が「新時代洋画展」その後の「自由美術家協会」そして戦後の「モダンアート協会」であった。
パリから帰って、村井正誠は山口薫、津田(大津田)正豊、津田正周、長谷川三郎、矢橋六郎、シャルルユーグと「新時代洋画展」を結成。銀座の紀伊国屋画廊にて1934年5月以降毎月1日から5日まで開く。そのあと濱口陽三、瑛九が加わり、会場も近代画廊、日動画廊をわたりながら1936年末までに23回を数えた。かなりハードであったことがわかる。だんだん作品制作も追いつかなくなったということもあって、新時代洋画展の同人が中心となり、「フォルム」の難波田龍起「黒色」小野里利信などの同人を会友として、1937年、自由美術家協会を結成する。批評家13人も加わ大所帯となった。山口、村井、長谷川などと話し合いそれぞれが一斉に抽象に踏み切った。
戦後再開した自由美術家協会であったが、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、寺田政明、鶴岡政夫らの加入により、創立メンバーが少数派にまわり庇を貸して母屋をとられる状態となり自由美術家協会を脱退した。
1950年9月山口薫、長谷川三郎、村井正誠、矢橋六郎、荒川龍男、植木茂、中村真、小松義雄らとモダンアート協会を結成。「純粋なる芸術運動の為に新しい方向を示す世代の優れた美術家群によって21世紀への橋をかける役を果たす機関として行動する」というスローガンを掲げてスタートさせた。当時29歳だった吹田文明氏もこのスローガンに惹かれモダンアートに出品をした。
彼には何人かの、信頼のおける仲間に恵まれた。それは幸運なことであった。
グループ及び団体というのは、内部では人間同士のぶつかり合いでもあり、どうしてもそこには政治的駆け引きが動く。自由ということを標榜すればするほど、そこには派閥同士の確執、新メンバーと旧メンバーとのいがみ合い、せめぎ合い、人間同士の好き嫌いが中心となってくる。それは解決のつかない問題だ。人間が成立した同時に刷り込まれた矛盾でもある。そういった問題が嫌いであった村井正誠は、問題が起こってくる度に、新しい団体を起こしてはつぶし、また起こすの繰り返しで身をかわした。村井正誠の一生はその繰り返しであったといってもよい。その変遷もモダンアート協会で一応終わりをつげて、安住の地を得たようだった。
いろいろなグループ、団体を起こしてきた村井正誠にとって、自分で創始した団体を後にするのは、初心を貫く、精神を貫くにはそうせざるを得なかった。新しい別の考えを持ったメンバーが加入することによって、精神が継承されるのであれば問題は無かったであろうが、創立メンバーと後からのメンバーとの間には根本的心構えの違いがあり、会が初心の精神とは違う物になってしまうのは我慢ならなかったのだろう。そしてそれが自分たちの活動を圧迫するようになれば、若いと言うこともあったし新しい会を設立することで、出てゆくのも容易だったのだろう。その度に人間関係も抽象化していった。彼の創作態度と同じように。
雑誌等で常に「日本絵画の確立を急がねばならない」と発言しているのを私は何回も目にした。おそらくこのことは村井正誠創作の精神の大きな部分を占めていたに違いない。そして、彼が人間を見る、そして新しい作品、精神を探す場合のフィルターであったのかもしれない。しかし、まだ村井正誠の考える日本絵画は確立していなかったのか私には良くはわからない。たぶん日本絵画というカテゴリーが確立されていないということなのだろうと思う。確立していない物は壊しようもないということなのだ。
山口薫もなくなって、安住の地であったモダンアートを持続させるには好と好まざるにかかわらず、自分を空洞化させる、言い換えれば天皇化させる必要もどこかにあったのではないかと思う。そうすれば村井正誠の周りは活性化する。受けにまわりながら周りをコントロールする。そうした術を彼はだんだん身につけていったのではなかと私は思っている。ただそれによる自分自身の中で葛藤は大変なものがあったかも知れないと思うのだ。
村井正誠に触れた人たちは口をそろえて「むずかしいことは言わない人だった」と言っていた。事実村井正誠には誰でも気さくに入りやすかった。彼の周りは女性も含め華やかににぎわっていた。私は先生と言うこともあったが、その奥にある怖い部分に気がついていたのでなかなか簡単にはうち解けては入っていけなかった。つかず離れずの付き合いであったといってよいだろう。簡単に言うと、核心部分には踏み込ませず、彼を利用しようと言う姿勢で近づくとしっぺ返しをくらうということだ。
また、彼のシャイな性格は傍らに女性を必要としていたのかもしれない。行動範囲が似ていたこともあって、特に銀座でばったり会うことが多かったが、私もそうだが、男同士のふいの出会いには、二人とも知らんぷりをしてしまうのだ。もっとも歳の近い、親しい間柄であったらそういうことは無いのだが。そこに第三者か知っている女性でもからんでいれば知らんぷりをせずに済む。知人が多かった彼には街を歩く場合話しやすい女性が傍らに必要であったのだろう。
その女性により、彼の晩年、それも死の前の数年間は本当に幸せであったのか私には未だに疑問なのだ。あっちこっちでいい人であり、更に、団体展に女性参加への門戸を拓いたりしていた彼であったのだが、晩年には様々なひずみが生じてきてしまった。側近の女性の裏切りにも近い行為、中傷など、近くにいた私も降りかかってきたことなので、彼はどう対処するのだろうとその大変さはひしひしと感じていた。あまり詳しくは書けないが、結局先妻の小川孝子と作り上げた人間関係に別れを告げる形で我々の前から去っていった。
文化学院を去るということは私は知らなかった。正確には、直接告げられていたのだがそのときは、ちょっとしたトラブルで、初めて村井正誠に対してムカッとしていたという状況もあって、そのときは何言ってるんだいという気持ちであった。あとで考えてみるとあのとき別れを告げられていたんだと思った。そのあとしばらくしてから、ひとりで学院に向かう村井正誠の後ろ姿を学院のアーチ近くで発見。普通だったら追いつかないように歩くのだが、そのあまりにも寂しそうな後ろ姿と横から見た顔が伏し目で、あまりにも普段とは違っていたを見て、思わず私は「先生」と声をかけてしまった。一瞬にして「やあ!」といつもの顔に戻られたが、あの寂しそうな姿は今でも忘れられない。少年の頃の西村伊作との出会いが彼の人生を決めてしまった。そのかれの大きな部分を占めていた文化学院を去るということは、老いということと共にその寂しさを増していたのかもしれない。そして、晩年、彼の周りには、彼の言う「次にやった人たち」が増殖し、様々な難題を彼に吹き付けた。彼の、生涯にわたった太い精神を無視して。余分な物を排除し、その抽象化にはやはり大きな葛藤があったのだろう。
私は、そのあとも変わらずお付き合いをさせてもらったが、文化学院において、村井正誠に頼り切っていた部分を含め新しい自分を模索のため、多少疎遠状態が続いたがそろそろ先生のお宅に伺っていろいろ話を聞いておこうという矢先の死去の知らせだった。残念だ。
私は、さまざまな分野の創作家とも会ってきたが、私が村井正誠に教えを受けているというと「あの人は派閥をつくらないいい人だ」と絶賛する人と、うらみ辛みを言って罵倒する人と評価は二つに別れた。罵倒する人は、利用する思惑がはずれた拒否された人たちだということなのだろう。
私の要求に対して気さくに受けてくれた先生であったのだが、便利であったが故に、あまりにも村井先生を持ち上げられた立場に追い込み過ぎてしまったと反省するところでもある。これはいろいろなひずみを生む要因にもなってしまったのではないかと思っている。
これは村井正誠周辺に限ることではないのだが、ことの判断の善し悪しを村井正誠(大きな権威)に預けてしまう。預けた本人はそのことに関して責任を感じない。その周辺にいながら精神的に関係者以外にいられる。これは日本の精神構造がそうなってしまっているので、事の実体の犯人を探してもタマネギの皮を剥くように最後はなにもないということになる。それはその事の当事者であるにも関わらず大きな権威を攻撃できるという便利な精神構造でもある。私は、気がつかぬうちにこの精神構造の増長の片棒を担いでしまっていたことを反省している。
日本がこの精神構造である限り、美術界に限らず、ものを育てるということはできないのだ。新しい作家を育てることはおろか、オウムの問題はもちろん、現代社会の様々な問題、教育現場におけるいじめの問題など出口ふさがりとなってしまうのだ。
では、どうすればよいのか。今のところ、個人個人で、自分をじっと見つめる客観的なもう一人の自分を育てる、あるいは明確にその存在を意識出来るように黙って一人で遊ぶとしか言いようがない。でもそんなに難しいことではない。絵を描く人だったら、自分の描いた絵をとにかく時間をかけてじっくりと見ることだ。自分から離れて行くまでじっと相対することだ。黙って自分で遊ぶ人が増えなければとしか今はいいようがない。
やりたいことをやってそれをのばしなさいといって、その人の個性を大事にしてくれた村井正誠であったが、よくいっていた「精神」という言葉は、その人の行動を作り上げている核の部分と言い換えてよいだろう。
○自分の為だけにやって来たことはないよ。他の人のためとも思ってやって来た。でもみているとたいがいは俺が俺がって思ってやっているよ。だけどそういう人はあまり良くは行かなかったネ。
○最初の人はともかく次にやった人は悲劇だ。大きな流れの先に行くことはむずかしいと思う。
○ひとの作品の批評なんてできない事だよ。それぞれが、陳列された自分の作品を見て感じればそれでいい。
「総体に革新派は愛に非ずして憎悪に立脚するものであるから、横着者が多い。かれら自身においていかなる生産も創造も持ってはいない。(中略)一口に云うならば、玉子丼の上皮だけ食べようという手合いである。」(稲垣足穂)