私は、1971年にデザイン科入学して、ずっと土曜日だけではあるが1999年の今日に至るまで文化学院に通い続けている。私が入ったのは文化学院がちょうど50周年を迎えた華やかなときであった。
その後の約30年を私は文化学院とつき合ったことになる。西村八知先生とも長いお付き合いだ。その割には、西村八知先生の授業は数える程しか受けていない。それも授業を受けるようになったのは村井正誠が死んでからである。何回かの特別講義とテラコッタの授業があるだけだ。八知先生の授業は、村井正誠がいなくなってから私にとっての文化学院から無くなってしまった何かを埋めてくれるような感触のするものであった。新鮮であった。だから私は八知先生の授業は楽しみなのだ。八知先生は村井正誠に負けず劣らずひょうひょうとしている。だから先生と対面すると自然と肩の力が抜けるのだ。これが私にとっては心地よい。
八知先生は、私より遙かに長い村井正誠との付き合いであるはずだ。美術科の科長であったときから、さらにさかのぼって子供の頃から、そして同じ画家として、ずっとずっと村井正誠のよいところも悪いところも見てきているはずである。ところが、私の見た範囲では、八知先生は何回かの村井正誠を送る会で村井正誠ことを雄弁に語っていないのだ。何か言いにくそうな、歯切れがよくない。なんとなくわかるような気もする。村井正誠は生涯、文化学院に深く関わっていた人でもあったので、いろいろなことがたくさんありすぎるのだろう。また、あまりにも身近にありすぎたのだろう。まして、文化学院は家族経営でもある。当然兄弟間のせめぎ合いだってあるだろうから、方針、経営をめぐってあちらこちらの意見が強くなったり弱くなったりもするだろうし、先生をめぐっての派閥的なものも勿論あるだろう。それだけでも言いにくいはずだ。
本当は私も村井正誠について語ることは何もないのだ。まだ語るべきではないような気もするのだ。ただ、私にとって我慢出来ない村井正誠像が没後、村井正誠周辺の人々に定着してしまうことが堪えられないから、このホームページ借りて村井正誠を語っている理由の一つなのだ。
私は、村井正誠を通じて村井正誠の文化学院を学んだ。むしろ、村井正誠が文化学院であるとも思っていた。村井正誠が学院を去ったら私も文化学院にいる理由はないだろうと思っていた。しかし、村井正誠が学院を去るか去らないかの時期、展覧会の相談をしたときに「展覧会名の頭に文化学院と入れなさい」と進言された。むしろ文化学院からジャンプしようというもとに企画された展覧会に逆行するようなことを言われ、私は「?」の方が強かった。そして、今となっては遺言のような「文化学院だよ」という言葉がずっと気になっていた。村井正誠が去った後も文化学院に残り続けたのは、この言葉の意を知りたかったのが大きな理由だ。そしてちょうどその頃出版されたのが八知先生の「ぼくの美術史散歩」だった。それは新鮮な衝撃だった。まさしくこれが文化学院だと思ったのだ。何とはなしに私はワープロ専用機に目についた言葉を打ち込んでいた。
生前、何かの出版物の中で村井正誠は「展覧会に出かけて、芳名帳にサインするときに、文化学院村井正誠と綴るのだが何か誇らしげな気持ちである。」というようなことを語っていた。村井正誠には村井正誠の文化学院があった。文化学院に対する特別な思いもあったようだ。もちろん私にもある。
私は、もう文化学院に通い続けて30年近くなるのだけれど、文化学院って何?と考えたときその実態は霞の彼方へと消えていってしまう。創立1921年でもう80年近くなる学校であるのに本当のところの存在理由がよくわからない学校も考えてみれば不思議だ。私とてなんで30年も文化学院に授業料を払って通い続けるのだと問われても、きちんとした答えることはできない。宴会などで盛り上がって、自分が帰ってから更に宴会が盛り上がったら嫌だからこのままいようということが一番近いような気がする。本当のところは八知先生の言葉を借りれば、来ても来なくてもどちらでもよい。ということなのだが、土曜日に学院に出かけていくという生活のメリハリのパターンが身体に染みついてしまって、今更変えるのもというところもある。
おそらく、数多くの学院を卒業した学院生もそれぞれの文化学院をかかえて、日々の活動を通して文化学院とは何だろうと問い続けているに違いないのだ。米米クラブだって私に言わせれば文化学院そのものだった。いいところも、悪いところも新しい時代の文化学院そのものだった。
私は、初代の西村伊作学院長には残念ながらお目にかかったことはない。二代目の石田アヤ学院長からである。時代と共にというのか、学院長が替わることで、学院の雰囲気も変化してきた。当然だと思う。石田アヤ院長の頃は、サロンというか、社交場としての校風が強い気がした。そして現在の西村八知学院長になってからは、より芸術的自由の雰囲気が強くなった。初代は多分、愛と反逆というがごとく、まず一般社会との戦いが先にあったことだと思う。時代が文化学院と近くありそして離れすぎていたことがあったにちがいない。
面白いことに、私見だが、西村伊作の子供達は、伊作氏の資質を分け合い、枝分かれをするようにその専門分野へと進んでいった。私の知っている範囲で、故西村久二が建築、故石田アヤが文学、坂倉ユリが工芸、西村八知が絵画と生前西村伊作が親しんだものを子供達が開花させている。
初代が一応専門が建築ということであれば、学院長は建築→文学→芸術と文化学院は変貌を遂げてきたと言えるだろう。その、学院の芸術的雰囲気の中で村井正誠は文化学院に数多くのものをもたらした。反対意見はあると思うが、庄和町の文化学院芸術専門学校、そして軽井沢のル・ヴァン美術館は、村井正誠が文化学院にいたからこその副産物であると私は見ている。
では、次の世代はどうなるのか?気になるところだ。単純に流れからいったら宗教ということになりそうだけれど、そんなにすんなりとは流れていかないだろうと思う。八知先生にしろ、久二先生にしろ言動の中に自分自身の宗教的なものは伺えた。改めて宗教でもないかとも思う。だから、伊作学院長の孫の世代になったときに文化学院はその真価を問われることとなりそうな予感がする。それとも、お孫さんの中に伊作氏の革命家としての遺伝子を受け継いだ人がいて、文化学院を引っ張っていくということもありえるのか、また楽しみな面もある。
前述したが、村井正誠が学院を去るとか去らないとかごたごたした最中に、村井正誠とは似ているけど何か違う文化学院を、私は、西村八知の「ぼくの美術史散歩」の二冊の中に見いだした。ふっと肩の力が抜ける文章でありながら、するどいフレーズがあちらこちらに散りばめられていて、一見頼りなさそうに見えて、学生からは八チャンと呼ばれている気さくな八知先生だったが、これは侮れないぞと考えを新たにした。
西村八知の文化学院は「自由」であると私は思う。普通の人だったらそれは無責任では?と感じる程の自由だ。何をやってもいいよという自由。来たくなければ来なくてもいいよ。やめたければやめてもいいよ。学院に来ても別に役に立つことはやっていなよ。そこでみんなやりたいことをやりましょうという自由、人に認められなくても良い、認められても良い、いい加減それが西村八知の自由=文化学院であると私は勝手に解釈している。
授業の時に八知先生がフッともらした一言ことが未だ気になっている。「そういえばあの人最近見なかったけど、死んでしまったの?」という死に方がしたいと述べて、「葬式はやらないけど、香典はたくさんもらうよ。」更に続けて「ねむの木学園に寄附をするから。あそこは経営が大変で、宮城まり子が講演をしたりして維持しているからね。」と。
なるほど、三作目に素朴派の芸術を取り上げたりして結論のようになっているけれど、私にとってよい絵とはといったら、もちろんねむの木学園の生徒達が描いた絵をあげる。でも、現実としてのことまで考えは至っていなかった。不意打ちを食らったようであった。そして私も何かせねばと今思ってもいる。
以下、「ぼくの美術史散歩」三部作の、最初の「イタリールネッサンス」と「近代フランス絵画」の二冊アンダーラインをしていたものと、約4年間の空白の後に刊行された三冊目の「古代・中世・世紀末他」の新しいアンダーラインを加えた、私の西村八知である。そして文化学院である。
最初の二冊は、すでにワープロ専用機に保存してあったのだが、このマックとはまるで互換性ががないので、もう一度最初から全部打ち込むこととなった。
これはいわゆる八知語録と言っても差し支えないだろう。村井正誠もそうだったが、八知語録の背景には文化学院が縦糸のように存在する。この語録に、私は西村八知を見て、そして西村八知の文化学院を見た。以下は、もう一つの文化学院として、西村八知語録です。打ちながら感じたのであるが、西村八知先生の胸中、村井正誠を失った悲しみは我々の想像超えるものがあるのではないかと思えてきた。
(宗教)
●現代では宗教に関心を持たない人が、特に日本人には多い。だが各自は自分の思想による自分の宗教を持つべきである。既成の宗教は、それを飾った人達の作り話であって、それを信じて幸せな人はそれでよい。
だが宗教がひとの作り話だったら、自分で創った作り話を自分の宗教にしてもよいではないか。しかし、なかなか、納得のいく宗教まではいかないかもしれない。霊魂とか神の問題などとなると誰も断言出来ないものであるし永久の謎だから、それを知ろうとするならば、自分で感じる仄かなものが拠り所なのである。
だからぼくはこの掴もうとしても掴めない、仄かなものを一番大事にしているのである。
(文化)
●ひとは文化と文明とを一緒に思っているようだが、それは違う。文明は仕掛けやらからくりの世界で、ひとの考えたものを踏み台にして更に改良するので、どんどん進歩してゆく。進歩するので世の中が良くなると皆は思いこんでいる。良くなる一方、失うものがあるのにひとは気が付かないでいる。文明が進んでも人間の感性や思想が、つまり文化も一緒に進歩するわけではない。
●文化というのは色々な具の入った掻き混ぜごはんみたいなものだ。その具には愉しさとか安らぎがそれに風流、ユーモア、優雅さ、またしゃれた人情など入っている。
●文化とは静かさでもある。
国や地方のお役人達は、文化的というと劇場や美術館などの施設を考える。しかし文化というのはひとに見せびらかすためにあるのではない。本当の文化は一般庶民のごく日常的な生活に含まれていて、特別に上等なものでないのである。そのように普通がレヴェルの高い普遍であるのが文化のもとなのである。なんでもないこと、ちょっとした仕種、それが近代文明の進歩でだんだん摘み取られてきてるようだ。世の中が忙しくなり過ぎて、美しい風情とかしゃれた人情は反古になってきたようである。
(文化学院の学生)
●文化学院の学生についてだが、抜け目だらけでボンヤリの多いかわりに心の良い人が沢山いる。心の良い人というのは私利私欲だけの考えで生きていない人のこと。ほかに何か考えている人のことだ。学生達はみな欠点を承知のうえで自分にはなにかかならず良いところがあるんだと信じることだ。そうすると、きっと良くなる。
(99年秋の集いパンフレットのコメント)
●古代ギリシャでは学校流派と閑暇はスコールといって同じ意味になっていた。ひまは良い意味で必要なものとして考えていた。
学校は良い閑暇を持つところである。
学校は完全なる暇つぶしでなくてはならない。
人生は死ぬまでの期間、良い暇つぶしをするのが一番大切なことであろう。
暇こそ文化の出発点である。
(パリ)
●やっと着いたパリでの感動は、僕の生涯でも最大のものであった。その後何回もヨーロッパへ行き町や美術館を見たが、あの頃の感動は二度となかった。初めての外国旅行が飛行機でなく船で何日もかけ、東洋から西洋へ少しずつかわる港を見てやってきたことは、ぼくにとってとくに感動的で良かったのである。今の便利なジェット機で着いてもこの感動はない。
●ムーランルージュの時代が一番パリらしかった時代ですね。まだ外国人なんかほとんどいないで、パリらしい時代。今はもうそのパリのかすですね。ベル・エポックを偲んで、いまはそのかすで観光客が来てるようなものです。あなた方がフランスへ行こうと思ったら、パリにいるよりも、むしろちょっと田舎に行った方がフランスを味わえるかも知れない。パリっていうのはもうフランスじゃないね。いろんな国の人が集まってる国際都市ですからね、もうフランスじゃなくなった。
(造形)
●自然というものは、空間と陰影があるね。そして立体のかたまり(量感)がガンとある。みんな中世では認識で絵を描いていたから、それを忘れているんですよ。
この量感というのは何か。英語でボリュームって言うことでしょう?当たったらはじき返すような、持ったら重いようなもの、それが中世にはなかった。
●我々はいつも人の顔を見て暮らしている。顔って言うのは何分の1かなぁ、この頭の。ほんの一部なんですよね。その頭の形が出来ていないと、顔がないの。あ、あの人何君だ、何ちゃんだって言うのは顔だけじゃない。遠くから見て、目鼻立ち分からない時あるね。だけど、なんか頭の格好とか肩の格好で、何ちゃんというのは分かるね。そういう、形の原形、大きな土台というものを忘れたらいけないんです。
●我々はポーズっていう言葉を聞くね。ポーズ、姿勢という。これは何かっていうと、つながりなんです。人間ていうものは、頭、首、胴体、腰、足、そういうものがバラバラな部品であるんじゃないんです。
●木を見た時、あなたは漠然とただ見て、いいなぁとか、葉っぱがいいなぁとか見てるでしょう?桜の花びらが地面に落ちたのはあまり見ないでしょう?あれはゴミになっちゃうね。花見に行って、花を見るんだって言ったって、結局は枝振りなんですよ。桜の木の枝振りのいい所に花があるから美しいんだね。それをちょっと見落とすことがある。人間だって骨がなくちゃだめだね。これで骨がなかったらグニャグニャな枕みたいなものになっちやう。その柔らかいものと堅いものの調和が人間の美しさを作ってるんでしょ?でも忘れちゃうんだな、すぐに見えないものを。
あなた方、建築の途中で鉄骨組んでるところあるでしょう。クレーンでこう上げてね。そういうのを見たことあるかな。それでもう分かるの、建築のいい悪いが。ある絵描きが言ってるのね、建築は出来上がった建築よりも、まだ骨組みの時の方がずっと美しいって。つまり骨組みが良かったら、いい建築なの。それに壁を作って窓を作ったり、飾りを付けたりするのは、ただの付け物で、一番建築の美のもとは、その骨組み何ですよ。
そういう風に、絵や彫刻もそうなの、本当はね。すぐに見えないけど、骨組みってものが大事なの。その骨組みっていうのが、造形っていう風に美術の方では言ってるんですけどね。
●そのままっていのはリアリティーがないんです。我々がこうやって見てる現実ですね。これは必ずしも今、目の前にあるからと言って、リアリティーがあるかって言うと、そうではないですね。幻のようなものかも知れないんです。こういうようなものをいつも見てるけど、こう叩くとあるっていうことは分かるけどね、それでもなんか幻みたいなもの、その中にリアリティーがフッと出てくるときがあるんですね。それは自分の意識の中で、そうだ、本当だ、って言うようなことがある。我々がこう見てる中で、もうほとんど見ても見ずっていうような、空虚なものがいっぱいあるんです、この世の中には。空虚なものの中に、見る人によっては、フッとつかむものがあるんですね。その時に、その形や色は、その人の主観で変わってくるんです。ですから芸術というものは、やっぱりその通りじゃ無いんですね。
●よくデッサンっていう言葉を言うね。あの人はデッサン力がある。これはよく正確に形が取れることを言うという風に言われてるね。その意味じゃなくて、美術でいうデッサン力があるということは、本物を掴む力があるっていうことが言えるのね。本物の力は何かって言うと、命を掴むことなの。命を掴む力がある。そういうことが言われてる。そのことを知らないと、彫刻もわからない。
そして、この命の流れによって、形や位置が変わる。それは丁度、川の水の流れが川の形を変えるようなものだ。川がこう流れてるでしょう、それがこっち行ってぶつかったり、こっちに流れて行ったり、また川の流れが速くガーッて行ったりね、ゆるやかに流れたりしてるね、そして、その流れがだんだん川のカーブを変えたりしてるね。外から見えないもの。そういうものがね、命のあるものの中にあるんです。
●それから、もう一つ大事なことは、このポーズを見ると分かるんだけれど、s字型っていうのがあるのね。何がs字型か。それは身体の中を流れている線なんです。よく見ると、頭のてっぺんからずーっとs字型にバランスをとる線がある。あなた方、家に帰って鏡見て立ってごらん、こっちの足にちょっと重みをかけるか、こっちの足に。そうすると、ちゃんと頭のてっぺんから踵までずーっとからだの中を流れる線があることに気が付くでしょう。それが大事なことなの、古代ギリシャの彫刻などにもある。よくこのことをね、アンシュマンって言うんだけどね、フランス語でアンシュっていうのは腰のことだけど、アンシュマンって大事なものなんですね。
●いくら筋肉隆々であっても、その中に命の流れがないの。しなやかさがないの、ね。それは、今言った、よく仁王様みたいに、力を出してグイグイやってるだけなんで、その流れがないの。つまり、川の流れがないの。外からは見えない流れ、ね。それが川の形を変えるっていういわゆるデフォルマシオンです。これが分かればデッサン力が付くんですけどね。
●デッサンする時は字を書く時と違うんだね。字を書くようなつもりて紙の上に鉛筆をのせちゃいけないの。日本人は字になれてるから、すぐ字になる。そうするとそこに意識した筆勢ができるんです。そうではなく鉛筆の芯は紙の上に載るんだけど、それはどこへでも行ける、自由自在、自分の感性の気持ちが思った方向にすっと行くようにする。そういう風な線の動きが非常に自由な線のデッサンになるわけです。
(絵画)
●絵画っていうものは見た自然そっくりに表すのが目的ではないの。本当に感じたものの表現というのは、眼にうつるままではないことがある。
●自由っていうものが絵の中で大事なんです。それで、絵はきちんとすればするほど自由さがなくなるんです。そこで、その自由さを出さなくちゃいけない。絵にはね。まぁ、そういうことで、ちょっとはずしてるんです、この構図はね。
●絵の、なんて言うかな、風がいつの間にかスーッと来て頬をなでるように来るもの。それが詩なんです。その詩っていうものがある絵と、詩のあんまりない絵とがある。このごろの人の絵は詩がないんですよ。みんなね、芸大なんか出たような人の絵は詩がないんです。うまい絵描きますよ。だけど詩がない。どうしてだろうな、今そういう時代なんですね。詩の薄い時代なの。詩人が少ない時代なんですね。大正時代なんか詩人が多かったけどね。
●よく人は花を描いたりするでしょう。花はきれいだから描くんだって、ね。でも花ほど難しいものはない。花の美しさを追いかけてたらだめなんです。花には負けちゃうんです。花の方がずっと自然で美しい。瑞々しい生きてる花はそれだけで美しいんです。それを絵にしたら美しいものが出来ると思うかもしれないけど、絵にはそれを越える美しさがなければ描いても意味がないでしょ。本物の花を見ている方がいいじゃないの、絵を見るよりも。だから自分の個性が見た美しさというのを出して初めて、絵にする意味があるのね。
●絵は、生まれ育ちを隠せないんです。よく生まれ育ちを隠して生きてる人がいるね。隠したい人は隠したらいいんです。だけど生まれ育ちは出るんです。
生まれ育ちっていうのは何も、金持ちとか地位の高い家が育ちがいいわけじゃないのね。貧乏でも、下積みの家でも、家庭がいい家庭。それにその人の社会環境の影響ですね。
●あなた方の中にも絵を描く時、物を見ながらでないと描けない人がいるでしょう。だけど物を見て描いている時でも、写生している時でも、本当は記憶に頼っているんだけどね。たとえば写生の場合、花があったり、人がいたりするのを見て、それを直接描くわけだけれども、それでも見てから描くまでの間に何秒かあるじゃないの。白い紙の方を見てる時はもう、見た物の記憶で描いてるんだね。何秒かのことだけど。やはり記憶なんですよ。そしてその時に、見て、描く時の記憶が人によってまちまちなの。それでいろんな個性の絵が出来るわけです。
●印象派のもう一つの革命は、固有色の否定なんです。
●いずれにしても人間は絵を描かずにいられない動物なんである。そしてこの頃よりずっと後の時代、今から何千年前の人間達は頭でなくて身体でうけたイメージを絵にしたのだった。
●すべて垂直と水平っていうのが絵に安定と静かさを与えるんですね。このごろ少なくなったけど、日本の家屋でも畳があって、障子があって、垂直と水平できちっとしているのを見ると、すーっと静かな感じを与えられることがあるね。絵でも斜めの線が入ると少し動きが出てくる。筆勢でグーッとやるともっと動きが出る。つまり浪漫派の絵とか、17世紀のバロック風っていうのは、それなんです。ヨーロッパの絵には多いです。壁画でももう、天井なんか見ると本当に空があって天使が舞ってるみたいなのがあるね。壁を忘れさせて、風景がずーっと奥までいってるような、目をだますようなのがある。あっ、これは本当のようだということで、うまいと思う人がいる。でもそれではだめなんだってシャヴァンヌは言うの。壁画っていうものは人も目をだましちゃいけないんだって。絵はあるけど、壁もあるっていうことを忘れさせちゃいけないんだって。ここに壁があるということは常に忘れないようにして。そのためには、うんと立体感や空間を抑えて壁面を大事にする。
壁画というものは、あんまりゴシャゴシャしたり空間があったりしたら、家の中にいて落ち着いててられないね。だから、家の中にいて壁があって、その所に絵がある。少し立体感や空間を遠慮して、スウーッと平面的に見せるようにする。それがシャヴァンヌの考え方だった。この絵を見てもそれが少し分かりますね。
●絵っていうものはね、オリンピックなんかの平行棒の選手みたいに、身体でこうバランス取るものなの。こうだからって頭で考えないで、パッと来たら,クッとこうなるの。自転車に乗る時わざわざ頭で考えてバランスをとらないでしょ。慣れてきたらそれでも倒れない。そういう風に無意識にやることがあるんです。それが絵描きのやり方。身体でバランスを取る。だから、ここにこういう風な物があったら、こちらにはこういう物を入れるとかして、構図を作るんです。そしてその構図がピタッとなって、静かであるときに、厳かな感じが出て来る。なるべく余計な物を描かない。
●好きで描いているものは貴重なんです。人に見せようとして描いちゃだめなの。好きで描く。そういう人達がこの世には結構いるんです。その人達の絵を見て、専門の絵描きやなんかはびっくりしたんですね。あっこれだ! ってね。今まであまりにも古典を模範にして、技術がなくちゃいけない、こういうことでなくちゃいけない、っていうことでやってたの。だけどそういう素朴画家たちのものを見て、ハッとした。その人たちの絵を見ると、心がパッと窓を開いたように見えてくるんです。へたなんですけどね、心が窓を開いてるんです。
●専門に絵を勉強した人達は、みんな感心するけど職人としての芸を見せてるんですね。もちろん心もちょっと見せてる。けれども素朴画家たちは、その専門家が考えられないような心の窓をパッと開いて、見せたんですね。そういうことで、どうやったらその心の窓を開くことができるのか、どこにその謎があるんだろうかと考え始めたんです。そこのところに20世紀が20世紀以前のものと違う美学、その美の感覚があるんですね。
●心だけが先に見えて来る。まずい二流、三流の絵は、技術だけ先に見えて来るんですよ。そして、うまいなあと言わせるのが先なの。そうじゃない、心が先に見えて来るのが本当の芸術ですね。
●アンリ・ルッソーってなんて色感がいいんだろうって僕は思うんだけど、玄人の絵描きなんかにないような色感を持ってる。地味だけどね。
●絵の目的は何かって言うと、客観的な正確さを表現するものじゃないんです。美なんですね。だから、あなた方も授業で絵を描いている時に、先生に間違いを指摘されることがあるかもしれないけど、それは大したことじゃないんですね。
●絵の場合は間違いだらけでもいいのね。そこで心の窓がパッとあいて、心がスッと出て来たら、その方がずっといいんです。正確でちっとも間違いがなくても、心の窓が閉ざされてる絵がある。そういうのはなんにもならない。くずですね、そういう絵は。
●このいいかげんに見えるタッチ、これが自由なんですね。こういうものが20世紀になってから非常にいろんな芸術家に影響を与えてるんです。
あと、まあずっと昔ですけど、クレタ島の壺なんかにあるもの。これを見ると、これはなんだか解らない、渦巻きみたいなものだけど、実にこうのびのびと自由に描いてるんですね。こういうものはくよくよしたら描けない。自由でないとね。こういう気持ちになりたいね、くよくよこせこせ生きて一生終わるのは、本当につまらないことだね。
●アンリ・ルッソーっていうのはくせ者で、本性は解らない。謎の人物なんですね。嘘も言うんです。行きもしないのに、メキシコに行ったなんて言ったりして。夢と現実が一緒になってるんです、アンリ・ルッソーっていう人は。夢の世界が現実に近い。だからこの絵が描けるんですね。夢の世界でそういうことがあったんですね。
●アンリ・ルッソーの真面目さを見たとき、人はその世間ずれしない純真な心を感じるのです。世渡りの不器用さを感じるのです。そこに人間の心の可愛さを見てほっとするんです。当時モンマルトルで友人でもあったピカソは、それをいいなあと思った。ピカソは若い頃からすごく写実のうまい絵が描けたのは有名だか、そのうまい絵を続けることに疑問を感じたんだね。そして不器用なへたなものを入れるようになった。ひとは最初それを見て、いい加減で人を食った不真面目なものだと感じました。あの巨匠、ルノワールでさえそう思った。彼は弟子の梅原龍三郎からピカソの感想を聞かれてそのように答えてます。
ピカソはより心の通じる美を求めるために真面目に考えて不真面目にみえる方向に向かったんですね。これはプロの画家の本当の態度ですが、ルッソーのような素朴画家はそんな気持ちの真面目さではないんですね。もっと自然なネイティヴな真面目さなんです。
●絵というのは不思議なもんでね、何も立派な教育を受けて、美大に行ってやってからって、いい絵を描けるかどうかは分からないんですね。絵という物は結局、心の問題でしょう?技術だけではいいものは出来ない。心というものはどういうんだろうね。心というのは作って出来るものかしらね。生まれつきもあるね。だけどある程度は作ってもいけるものでしょうね。その心が非常に芸術的表現に向いている人と、そういうものに向いていない心を持っている人がいるわけですね。だからいくら絵の大学に行ったりして勉強したって、心がそれに向いていない人はだめなんです。もちろんうまい絵を描けるかも知れない。そして、うまいからけっこう商品として売れることもあるかも知れない。絵描きとして通ってるかも知れない。だけど芸術的に見て、人がハッと驚くようなものがそこに出ない。ハッとするものは何か?それは、本当に心から出たものなんですね。こういうものが売れる絵だからとか、うまい絵だからというのでそういうものを作るのではない。素直に自分の心が出なくちゃいけないんだね。そしてこういう教育を受けてない人達でも、そういう心を持ってたら、それが自然と出て来るんですね。そこに他の人が見てハッとするようなもの、美術の教育を受けた人が出せないようなものを出せるということを発見するわけね。それでそれ以後、20世紀のピカソでもマチスでもミロでも、美術の新しい開拓者はみんな、そういう人達のものに影響されるんです。
●絵というものは形や色の調和があって美しければいいと言うんだけれど、その美しいっていうことは、色と形の調和だけじゃなくて、見る人がその世界にすっと入っていけることでしょう?だからその世界にすーっと入って行けるという風になるためには、その世界を自分が本当だと思わなくちゃいけないんだね。そのために絵の中の人物は、その世界にいるから、何してるんだっていうことなんかにこだわるわけですね。
(芸術)
●彫刻というものには塊の言葉というものがある。これは口で言えないもの。だから彫刻ってものがあるんですね。誰が何をしてるかってことじゃないんです。そのもの - あなた方が石ころ見た時、岩を見た時にも、語りかけてくるものがそれなんですね。塊の力。
●芸術ってものはね、いいなぁ、うまいなぁ、はまだ二流なんだ。超一流になると、もう、いいもうまいもないの。ただどっかからうめき声が聞こえてくるだけ。
●なんでも、いいんですよ。あなた方はね、絵の時間に絵を描いたりすると、嫌だなね私は描けないからって思うことあるね、それはね、それはね、ちゃんと描こうとするからいけないんだよ。ね、絵なんてね、ちゃんと描こうとしちゃいけないの。いいかげんにやった方がいいの。いいかげんにやって、もう間違いだらけでいいんだよ。だけど、自分の感じたものをちゃんと入れりゃいいの。だから、間違いなく、試験の答案みたいにやろうと思ったら、絵なんか面倒くさいよ、ね。だから絵もね、無責任にやるんだね、そういこと言う先生いないけどね。絵の時間は無責任にやれ。
自分の感覚はね、グーッと勉強するような形 - 事務所で仕事をするような形の時のは、自分の感性っていうものは閉じこもっちゃってるの。閉じこめないで広げるためにはね、ギューッとした閉じこめた気持ちをどけなくちゃいけない。その、どくっていうのは、さっき言った、いいかげんにやれって言うことなの。いいかげんな気持ちになる、あ、いいのか! と思ったらスーッと開いてね、自分の感性がもっと出てくるのね。芸術っていうものは、そういう気持ちがないと、いけないんですね。
●あなた方に言いたいのは、おかしいんじゃないかって人に言われることを気にしたら絶対に、いいものは出来ないね。あなた方は彫刻でも絵でもやるときは、人から何を言われるかって言うことを気にしないでやらなくちゃいけない。そうして自分を解放することだよね。もう何も恐いものないんだから、もう全部開けて、そして、間違ってもいい、何言われてもいい、ね、そういう気持ちで、楽にやれば、いいものが出来ますよ。芸術家は、だから理解されないの。普通は、こう言っちゃいけない、ああ言っちゃいけないって言われてやるから、理解されるようにしようとするから、閉じこもって、本当のものが出ないのね。そういうことですね。
●さて、すべてのものに命がある、すべてのものに姿勢と動勢がある。姿勢って言うのはポーズであって、動勢っていうのはムーヴマンっていう意味。すべてのものに命があるって、じゃあ、これなんだ、命があるのか?命がないでしょ? 命がないないけどね、この椅子にも命を与えることが出来るの。命を与える目で見た時に、命ができるの、椅子にも。石ころ一つ見ても、それは命のないものですね。だけど、命を吹き込めば、命ができるの。つまり、芸術家っていうものはね、命のないものに命を作るわけですね。それでないと本当のものはできないの。
●ただこう立ってるだけ。なんにも力まないでいる。そういうのはちょっと恐いね。どんな力がこれから出るか分からない。
●もう力んだのは、力出し切ってるからハァっ力抜く。ところがね、力ある者は力出し切ってないんです。これから力を出すって感じ。そういうものが本当の力なの。芸術での力は、力を出し切ってはいけないんです。
●神っていうのはどんなものか。皆さん方、神ってどんなものか、考える?神様って白い服着て、ひげが生えてるような、そういう風によく描く人がいるけどね。神様ってのは誰も見たことがないね。だから、人間の身体していないのかも知れないね、神様って。サーって空中にエーテルみたいに広がってるのかも知れない。だから、神様っていうものは、我々は見ることができない。でも感じることはあるでしょう、神様っていうの。例えば、馬なんかの目を見ているとね、ウサギの目でもいいや、スーッと、なんか不思議な感じがする時があるね。森の中に入って、自然の中、不思議な感じのする時、誰がこれを造ったのだろうと思う時があるね。海を泳いでいる魚だって、きれいだねぇ。誰がこんなデザインしたんだろう、すべて世の中の、地球の生き物なんか、すごくうまいデザインしてる。飽きるっていうことはないんですね。神様ってすごいデザイナーだなぁと思うのね。だけど、その神様は人間の形しているかどうか分からない。
それで、我々は訳のわからないことだらけで生きてて、なんにも知らないで死んでしまうんだけど、感じることができる。何か感じる。その感じさせるものが、芸術なんですね。感じることでしかない、本当に知ることはできないんです。もう一生かかっても、真理とか神とか、そういうものは知ることはできないんです。歯痒いようだけど、知ることはできない。知ることができないまま死んでしまうんです。でも、なんとなく感じるっていうことはできる。それなんです。芸術は。
●芸術家のタイプは
一つは、新しいもの、未知のものを切り開いて行く人。ジャングルを切り開くように進んで行くと、世の中にはいろんなものや、俗っぽい考えがある、そして嫌な考えもある。ミケランジェロなんかそれに抵抗したね。いろんなお坊さんとか偉い人の考えに反対したりして、そして新しいものの表現を求めようとした。そういうタイプがある。だから、こういうタイプはミケランジェロやピカソがそうです。
もう一方の人は、調和の美を求めるというタイプね。調和の美を求める。誰が見ても、ああ、いいなぁっていう。今日やるのはそういった美を求めたラファエロです。
●僕は絵を描いたりしてる時、いつでも独り言で言ってるんです。大らかに、大らかにって言いながら絵を描いてるの。つまりね、絵はこせこせしちゃいけないんです。へたでもなんでもいいから、うまく描こうと思って技巧の方に頭がいっちゃったりするとだめ。大らかに持ってきた方がいい。すべての芸術の一番いいものは、大らかさなんですね。
●芸術を社会の役に立たせようと考えの人がいるんだね。だけど本当はそれ、間違いなの。芸術っていうものは、そんな程度の低いものじやないんです。そういう、良いことをしているのを描いた絵も、ある程度、教科書の挿し絵みたいに役に立つかもしれないよ。だけど、芸術っていうものはあくまで無言で伝わって来るものがあるんだね。それが一番大事なもので、これは言葉に尽くせないものなんですよ。それが伝わらないといけない。言葉で尽くせるものが伝わったって、それは低い芸術なの。言葉で伝えられないファーッとしたもの、それが大事。人間も本当はそうなんだけどね。人間もただ勉強が出来る出来ないとか、役に立つとか立たないとかだけじゃなく、人間そのものからファーッと無言で伝わるものがそこにある。それが大事なものなんだけど、それは客観的な尺度で測ることはできないんです。
●語らないで語ることが芸術の大事な所ね。それは音楽でもそう、小説でもそう、芝居でもそう、一番大事な所は語らないで語らなくちゃいけないんだね。
●僕は絵を描いている学生に、あなたはまじめすぎるよ、もっといい加減になって描きなさいって言うことがよくある。僕がいい加減にやりなさいという人は、たいていきまじめできちんとしてる。もともといい加減な人にはそんなこと言わないよ。だけど、きちんとした人はきちんとした絵を描く。きちんと描こうとした時、もうすでに自分で自分を縛ってるんですよ。ところが芸術といういうものは身体の中に小さい小鳥がいるようなもの。小鳥が羽をポッポッポッポッとさせて、そのうちにフーッと飛び出してくる。その小鳥が感性ね。あまりきまじめにやってるとその飛び出して来る感性が、閉じこめられるの。きちんとは描けるけど、感性が生きてないんだよ。ところが少しいい加減で楽な気持ちになった時に、羽のはえた小鳥がフッと出て来るんですよ。芸術っていうものは、その空を飛ぶ小鳥が必要なんですね。
●芸術は決して大声を出して目立つようなものが一番いいわけじやない。非常にささやかな小さい歌っていうものも、質の高いものであれば、それは決して芸術として劣るものじゃない。
●芸術は常にその時代と共に生きてるんですね。時代性というものがない芸術は嘘なんです。その時代というものの中に自分がいるんだから、僕がもし江戸時代に生きてたら、違う僕なんですね。今、この時代に生きているというんで、この自分がある。時代を抜きにして本当の芸術はないんです。
●芸術で一番大事なものは何か?それは、唯一無二、たった一つっていうものが、どこかになくちゃいけないということです。たった一つ、世界中にほかにないもの。たとえば、あなた方の顔はほかにないでしょう。双子なんかは似てるけど、双子でもよく見るとちょっと違うね。たった一つ、ね。それは芸術では大事なのね。どんなにうまくっても、誰かのまねとか、誰かの流儀でやるだけだったら、売れるかも知れないけど、それは芸術としてはだめなの。そのユニークなもの、たった一つっていうもの、これは自分がそのまま正直に出たものですね。芸術家っていうものは、いろんなものに影響されるんです。影響されなくちゃいけない。影響されて育つんです。しかし本当にその芸術の一番大事な所は、私だけっていうもの。それがなくちゃいけない。
●芸術家というものは、いつでも、「もっともっと」って気持ちがないといけないんです。これでいいんだって言うようなことになったらもうストップしてしまう。ストップすることは後退することなんですね。「もっと、もっと」ということ。
●芸術というものは、あまり思想を押し売りしちゃいけない。お説教もいけない。そういうものなんですね。芸術の表現は深い美でなくちゃいけない。まず感じさせるのは美である。それで、後でそういうものの教訓的なものが少し見えてきて非常に感銘を受けるということはあるかも知れない。ルノーアールの場合はそういう教訓的なものはないかも知れないけど、美しさっていうものがある。なんていいんだろうという、しかも豊かな美しさ、これはもう、一つの思想であるということができるわけですね。
●芸術はいろんなものがあっていいんですね。見ててスーッと気持ちが静になって、崇高な感じがする、そういうものがあっていい。
●芸術の表現には、もちろん技術がいる。いろいろな訓練がいる。けれどもそれと共に、天性のものと鍛え上げられた技術、こういうものが芸術作品を作るわけですね。プロとしての鍛え上げたものが一番大事なことといわれてきて、それと同時に、純粋な心が大事なものだと昔から思われていたわけなんですけど、20世紀に入った頃から、鍛え上げた技術でない、全然他の職業を持っていながらただ好きで絵を描いている、そういう人達の中に非常にいいものがあるということに気が付き出したんですね。これは子供の絵とか原始時代の絵の良さを発見したのと同じようなもので、それが特に20世紀の初めに意識され出してきた。
●そうです、芸術作品にはうけようとするへつらいが少しでもあると、価値がなくなるのです。今の世間の人間とでなく天と、神と握手するのがアンリ・ルッソーの芸術なんですね。
●芸術はね穏やかで調和があっていいなあっていうものだけじゃだめなんですね。そこに少し気持ちの悪いものや激しいものを入れて、調和を壊すことも大事なんだね。
(天国)
●もし禁断の実をこのアダムとイヴが食べなかったら、どうだろうかね?我々はまだエデンの園にいて、何の戦争もない、ものの善悪もない、そういうフワーッとした所に住んでいたかも知れないね。我々がこうやって禁断の実を食べたお陰で、いろんな悪いことをしたりする。それだけ複雑になって面白くなるわけだ。なんにも悪いことのない世界なんてつまらないね。いい事、悪い事あって、もうグチャグチヤ、ゴチャゴチャあるとドラマが出来て、芸術も生まれるんですね。フワーッとした天国は退屈でしょうがない。まぁ、神様はわざとそういう風にこの世を造ったのかも知れないね。
●ギリシャ神話っていうのは本当にあれだね、キリスト教の道徳と違うね。だから楽しいんだ。芸術的なんだね。芸術っていうのは、悪も善もあるから面白いんだよね。だから善ばっかり、悪を切り捨てるなんていうんではつまらない。だから、あなた方も死んだら天国生きたいと思うでしょう?天国行ったら静かで退屈だよ。地獄と天国の間ぐらいがいいんだね。両方あるからね。
(人間)
●肉体の中に魂が閉じこめられてるね。で、この世の中で、この肉体を持っている我々っていうのは、本当は自由なようで奴隷なんだと。いろいろ制約されて生きている。死んだら奴隷じゃなくなるね。魂がスーッて楽になるかも知れないね。でも、我々はいろんな事を言われたりなんかされて、そしてそれを苦しんで、こうやってる。そういう奴隷。
そういう人間てものが何であるか、それが芸術家のテーマなんですよ。神とは何かって言ったって一口で言えない。口で言えないものを、ああじゃないかな、こうじゃないかなってやるのが、芸術なんです。それは哲学でも、ほかの事でもできないことなんですね。宗教でもできないことなの。
小説でも、劇でも、映画でも、彫刻でもそうなの。それは、こんなものじゃないかなっていうものなんですね。絶対にこうである、とは言えない。神とはこんなものであるって言えないようにね。
●人は自分を見せたがる。音楽家は音楽会をやりたがるし、絵描きはどうしてあんなに絵を出すんだろう。あれはね、ぼくが言うと怒られるかもしれないけど、あれは売春婦。娼婦のようなところがあるね。自分を売り込むの。
ぼくは、上野の公募展なんか歩いていると、なんか吉原の遊郭で格子越しに客を待っている遊女のように見えたりするんだけどね。そんなこと言うと、うんと怒られるだろうね、芸術の仕事してるんだのにって言ってね。
●何か分からない。分からないんですよ、ね。分からないばっかり。本当に情けないねぇ。我々人間は。分からないまま生きてて、分からないまま死んでしまう。だけれども、ハッと感じる時が時々ある。ハッと感じる時ね。その、感じることが生きがいですね。
●人間はいろいろいるから面白いんですね。穏やかで好かれるっていうのはいいけども、それじゃ物足りないね。なんか、食べ物でも苦いようなもの、ピリッと来たものがあったりするのもいい時があるね。いろいろなのがあるところがまた面白いんですね。
●西洋人っていうのは昔から、人間、人間だったんですよ。古代ギリシャから、人間、人間。美術はね、彫刻でも絵でも、その人間ていうものが一番だったの。だって人間ていうのは何かって言うと、眠ったり、食べたり、お便所行ったり、鼻くそほじくったり、ちよっと腋が臭かったり、いろいろするね。そういうものを含めた人間。動物的なもの。
●敵だ敵だって言ってたって、その相手を見たら情がわいて親しくなることがあるでしょう。人種や民族、国が違っても人間同士じゃないの、ね。だけど国や民族といった形の無いもののために、もう鬼のように思って喧嘩したり、殺し合ったりする。そういう、今にも通じてる人間の宿命っていうのかなぁ、そのむなしさ馬鹿らしさ、それをテーマにしようとしたんです、ダヴィンチは。
●ひとはどんなに偉い人でも無知であり、だから最後に縋りつくものが必要なのである。ぼくはキリスト教にも仏教にも属していないが、自然の偉大さ、その崇高の前では自分が実に小さな存在であり、その自然のレヴォリューションには率直従ってゆきたいと思っている。ただ現代人として恐ろしく思うのは、国家や大衆の思想である。いつの間にかそうなってくる思想である。頭が良く知識があってもそして善良であっても間違った思想に汚染された時には人は悪魔になることはこの二十世紀の歴史にも多く見られる。
本当の人間の生き方という思想の面では現代の人間は中世の人間より進歩していない。科学が進歩して今すばらしい板ガラスが出来ても中世のステンドグラスを越えるステンドグラスは出来ていないのである。
●人間が絵を描き、形を造ることは砂浜で自分の足跡を残したのを見るような、自分の行動の跡づけを楽しむようなものがもとにあるのだろうか? 少なくともその起源には人に見せて自分の名声を得るためのものではなかったようだ。しかしあの氷河時代の人間の誰が幼児の絵とは異なり、あんなに壮大で生気のあるものを描いたのであろう。不思議なのである。
●よく聞く話であるが、昔、骨董屋の親父が小僧に教えるとき、偽物は見ないで本物ばかりじっと良く見てろ、という話である。これは美術品だけではない。人間でも本物の人間、偽物の人間がある。これは職業や地位その他に関係なく教養にも関係ない。とにかく本物に出会ったときは嬉しい、そして本物は美しい!
●やっぱり人間ていうのはね、生きてると喰わなくちゃならない。生活しなくちゃならない。何かそれぞれ仕事がある。畑で耕したり、川で魚獲ったり。だけどなかなか、働けど働けどわが暮らし楽にならない、っていうのがあるね。幸いにして子供がいる、奥さんがいる、そういう幸せはあるかも知れない。だけど生きて行かなきゃならない。たいへんだよ、ね。この人達を養って行くのは。子供達は何もしらないでこうやっているけど、支えていかなくちゃならない。人間っていうものは何も喰っていかないで、仙人みたいに霞を喰って生きて行けたら、どんなにいいかと思うんだけどね。まあ、うんと金もうけて豪勢にやる人もいるけど、こういうのもいる。
●人間には誰でも卑しい心と純粋な心と、この二つを持っているわけで、まあ、純粋な心だけという天使のような人は一人もいないわけなんです。この純粋な心というのが、芸術で一番大事というか、美についても欠かせないものなんだけれど、誰でもその純粋な心、宝石のようなものを持っている。ただ人間は成長してくるにしたがって、良く見られたい、感心されたい、地位を得たい、金を欲しい、そういうことは誰しも思うことですね。そうやって人間は進歩するんですけれど、一方、心の方では卑しい心、つまり世渡りするための打算的な考え、そういうものがだんだんと増えてくる。そういうことでその宝石のような純粋な心がだんだん小さくなって来るんですね。
●人間というのは本来、素朴なものなんだ。それをいろいろ、あれやこれややって、いじいじして、そして複雑になってきている。ところが人間というのは、いくら利口そうなことを言ったって、知れてるんですよ。科学や便利な技術なんかが発達すると、それでもう偉くなってきてるんだと思って自惚れてる。それが現代の人間ですね。けれどその自惚れに対して、そのうち仕返しが来る。おそらく人間ほど、こんな地球上で悪いことをする生き物っていうのは他にないと思うんですよね。どんどん自然が汚染されているね。今まで元気でいた、いろんな生き物たちが次々と絶滅したりしている。そのようにだんだん地球が汚れてくる。その元はだいたい人間なんですね。鳥だとか鹿だとか他の生き物を見てごらん、もう本当に素朴に生きてるじゃないか。そんなのは人間なんかよりずっと程度が低いと思ってる人がいるかも知れないけど、それはどうかわからないですね。人間は変に頭がいいことを、自信持って自惚れてる。そういうことがあるんですね。
●人間は自然の中の生き物だ。だから自然を忘れちゃ絶対にいけないんだね。何一つとして自分達の力だけではできないんだ。あなた方だって自分で生まれて来たんじゃないでしょう。自然の動きの中から生まれて来た。親が作ったって言ったって、親なんかに作れやしないよ、こんな精巧な人間をね。親の親だって作れない。結局は不思議な自然の働きによって我々は存在してるわけでしょう。そういうことでね、謙虚になって本当の命を求める気持ちがないと未来がない、という考えがだんだん20世紀になって出て来たわけです。
●あなた方は、変わってるねとか、変人だねなんていわれたら、嫌な気がするかもしれない。しかし変わってるのが当たり前なんですね。みんな同じに大量生産で、自動車の工場で作られてるみたいに出来てるんだったら、人間なんてつまらない。みんな違って生まれて来て、違った環境に生きてる。だからみんな変わってるんです。それを人は、変わってると言われるといけないから、何でもみんなと同じようにしようと思って努力する。まあ、社会の中ではそれも必要なんですけどね。みんなが思ったことばかりやってたら、それは社会の邪魔になる。君たちも社会の中で生活していると、社会のモラルと自分の思うことがぶつかることがいろいろあるんでしょう。だけどそこで自制心というのがあるんだ。人は社会の中で自分を抑えることで立派な人間になるわけではあるんです。だけど抑えて立派な人間になることばかりやってると、自己がなくなるんですね。だからね、変わっていいんですよ。変わってるのが当たり前だね。
●ちよっとうまいことやってやろうとか、気の効いたことやってやろうとした絵はだめなんだなぁ、たいてい。そんなこせこせしたのはなんにもならない。変で、うまく行かなくても、絵全体が大らかであったら、それの方がいい。だから、あなた方もね、こせこせしないで、スケールが大きくなること。いくら頭が良くても、エリートでも、こせこせしてる人間は下ですよ。ね、頭悪くても大らかな、スケールの大きい人間ていうのは上なの。だからそれを覚えておいてね。身体は小さくてもいいよ。精神的に大きいことが大事なことなのね。こせこせしたったしょうがないのね。こせこせして人間は悩むんだよね。
(神)
●中世の美術の傾向というのは、今はつらいけどあの世に行って救われるって信仰が中心となって、神にすがって生きるというための彫刻や絵が多かった。それは厳かな精神的な美しさです。それが15世紀になってくると、いま眼にするものが美しいじゃないか、その美しいものを表現して何が悪いという考え方になったんです。美しいものを表現したいのは人間の一つの欲なんですね。それを出したい。それに、見えるものの美しさを出すと言うことは俗っぽいことのように見えるかも知れないけど、見えるものの美しさをたたえるのは、そんな俗っぽいことでしょうか。
この世界では隠れた所にも谷間に咲く花があったり、南洋の海の底には美しい魚が泳いでいたりする。なんでこんな美しいものが人目に触れない所にあるんだろう。不思議ですね。すごく美しいものがある。誰がデザインしたものなんだろう。そうすると、まあ、神って言うけど、われわれは現代の教育を受けてるから、神っていうものにそうピンとは来ないんですよ。だけど、大自然の不思議さ、これは認めるでしょう。
そうし見るとね、その自然をたたえること、美しい木を見てきれいだなあと思ったり、美しいご婦人を見てきれいだなあと思ってたたえることだって、神をたたえることに似ていることでしょう。そういうことになると、十五世紀になって、見える美しさを描くようになったことは、俗っぽくなったように見えるけれども、中世の行き方とは違った形で神をたたえてるんですね。
●つまり、この世にある美しいものを、ああ美しいとたたえることが一番、神をたたえることになるわけですね。何教でもいいんです、宗教は。まあ、あんまり考えないイージーな人は何教でも。既製品ですからね。今、キリスト教とか仏教、その出来上がった既製品の中に入ってしまうけど、本当に生きようと思ったら、そういう既製品に入らないで、本当の自分の宗教を作るんですね。自分の宗教は何か。そしたら、あーって言うことが自分の宗教。感動することですね。本当に美しいもの。なぜこの魚は美しく泳いでいるんだろう。そういうものから見ると、それがやっぱり宗教だと思うんです。
(本物)
●あいつすごいね、頭がいいやつだなぁなんてね。秀才だなぁって見えるのは本当は頭がいいんじゃないんですよ。まぁ、いいには違いないけど、超一流の頭のいいのはそういう風に見えないの。あいつ、なんだかいいのか悪いのか分からないね、ボケてるんじゃないかな、なんていうようなのが、もっとその上にいたりすることがあるんですよね。
芸術もうまさが見えちゃいけないんだよ。まぁ、絵だけじゃないけどね、小説でも芝居でも、うまさが見えちゃいけない。うまいなぁっていうのは二流なんです。本当にいい芸術に触れた時は、何も言わないんです。まぁ、言うとすれば、あぁーと言うぐらいね。
●絵描きで長生きするのいるんですよ。ただの長生きじゃなくって、もう本当に元気で長生きするの。それはなぜか。それは、造り出す人の精神的な張りですね。
この張りのある人は、まだ駄目だと、自分は、明日はもっといいのが出来る、あさってはもっといいのが出来るはずだ。そう思ってると病気なんかとか言ってられない。その生きる張りをずっと持ってるからね、それが健康法なんですよ。
もっとも、今の自分に満足して、才能もないのに人に見せたがる絵描きもいるね。だが今の自分に満足できるのは才能がない証拠だね。
●ミケランジェロのすごい力を見てるとね、本当に涙ぐんでくる。すごいものを見ると涙ぐんでくるの。ああ、きれいだなぁっていう、愛撫するような、そんなものじゃ無いんですね。涙ぐんでくる。それは、我々人間が悲しい存在だからなんでしょうね。で、やっぱりそこにハッと気が付くんですよ。そのすごい超一流の芸術を見たときに涙ぐんでくる。仕方がないんです、それしか。もう知ろうと思っても知れない、それが一つの礼拝なんです。ミケランジェロにとっても、それが一番うれしいことでしょう。感心されるよりも、涙ぐんでもらえることの方がね。
●我々に大事なのは独自の個性だというけど、独自に作られた個性などはない。どんな天才でも自然を見る目は誰かの色々な人の個性に影響されて見ている。自分のまわりの素晴らしい人達に助けられて自分があるのである。
ぼくは天才ではないけれど、ぼくの考えのもとになっているのは、誰かの哲学書でも聖書などの宗教でもない。それはいろいろな人の芸術作品であり、それらの作品を通してみる自然なのである。それらの作品を通して知った人生なのである。だが大事なことは、その優れた芸術作品は我々に何も教えようとしないことである。もし教える作品があるとすれば、その作品は絶対に一流作品ではない。三流作品である。その教えはいつも隠れたところにひそんでいて、我々もふとしたときに発見するものなんである。
●今、日本は豊かになったように見えるが、本物の豪華な美にはなかなか出会えない。といって本物の簡素な美にもなかなか出会えない。
つまり安っぽい軽文化というかプラスチック文化とでもいうのか、そんな安っぽさに取り囲まれている気がする。
本物の豪華な美も本物の簡素な美も、安っぽくないはずである。我々は今、商売人の作る製品に支配されて、我々の感性までそれに支配されているようなのである。
本物の美はいずれにしても、我々に贅沢な夢をもたらすものなのである。
●世の中には学校がたくさんあるね。学校の偉い校長は何をするかって言うと、いろんなところから寄附を集める。お金集める。そして体育館を作ったり、図書館の立派なのを作ったりする。それで大きくするの、学校を。それが偉い校長のやる仕事なのね。だがここは何もしないんだよ。だから僕は校長の仕事をしない。それはね、この学校なんかは偉大な学校じゃないんだよ。偉大な学校になれっこない。だから、小さくて愛すべきもの、この大事さを出せばいいの。背伸びして立派に見せることないんだよね。
(人生)
●人生の旅路は着くことよりもその途中だ。そこにちょっとした心の安まる幸福を見つけたらいい。それで良いのではないか。
●我々の人生は、明るく生きたいね。愉快に生きたい。
だけどね、本当を言うと、我々の人生は、本当は悲しいものなのです。
つまりね、きれいなものを見て、ああ、いいなあと思う。それもある。だけど、一番深いものは何かって言うと、悲しみが入っている美ですね、一番深いものは。音楽でも、小説でも、彫刻でも、みんなね、その中でね、一番深い美を持っているものは、悲しみが必ず奥の方に入ってるんですよ。悲しみっていうものは、安っぽくなると演歌みたいになっちやうけどね。ポルトガルでもファドなんていうのがあって、なんか悲しみをうたう歌あるでしょ、あれも一つの美しさだね。だけど、ちょっとあれは安っぽい悲しみだね。悲しみ - これは我々の人生でのけられないものです。悲しみを知らない人間は、おめでたい人間でね、それは、非常に浅く生きてる人間なんですね。
●今朝、校庭を見ていると風が吹いてきれいだったよ。葉っぱがファーッと吹雪のようになって散ってね、とてもきれいだったね。黒々とした幹があって、黄色や緑やオレンジ色が適当にちょっぴりあるでしょう?これが、紅葉を見に行くなんて言って、もういっぱい紅葉のある所行ってみる、それは壮大かも知れないけど、こういう所で少しの紅葉を見るのも美しいものですね。一年中でこの木が一番きれいな時だなぁ。だからあなた方も人生の若い時、青春時代が花だと思っているけど、そうじゃない。人によっては年取ってから花になることがある。今のこの木みたいにね。
●急いで人生駆け抜けて、急いで死んだって、なんにもならないからね。
●それで、なぜ年取っても元気で生きてるか?これはね、見えるものだけ見て虫のように生きていたら早死にするんですよ。まぁ、ジョルジョーネなんか天才は別ですけどね。芸術家は見えないものを追いかけるの。だから、見えないものを追いかけてる時は、心が、あの世へ行ってるからいいんだね。この世ばっかりしがみついていると、もうそれで心身ともに古くなってしまう。心が新しいものを求めてウキウキしてたら身体は古くなっても精神は若いまま、強いままでいられる。これはまぁ、いい加減なこと言ったんで、正しいかどうか分からない。
●僕もどちらかと言うと、これから見るコローみたいに静に生きたい。いろんなことして目立ちたいと言う人がいるね。いろんなもので自己を表現する。遠慮なんかせず、図々しく自分を表現するということをしないと、生き生きとした人生は送れないという考え、それもいいけどね。けれども、目立とうとするばかりで、フワフワ表面ばっかりで動いていたら、本当の深い人生が味わえないんじゃないか、とも思うんです。
●人間、その豊かさっていうことが、今の時代どうも忘れられて来ている。頭のいい人も、うんと金を儲けて金のある人も、いろいろいるけれども、豊かさのある人、これはまた別で、非常に貧乏でも、そんなに頭が良くなくても、豊かさっていうのを持っているという人間がいるわけでね、これは人生の中では一番上じゃないかと思うんですね。いくら利口でも知れてるんですね。ただ物質的に豊であっても、こせこせ生きている人が多い。今の世の中は、豊かさを非常に物質的に考えるような時代であるわけなんだけど、気持ちの上の豊かさっていうもの、その大きさ、大らかさが非常に大事なものだということをルノワールは教えてくれてると思うんですね。
●ありえないことも、あるのが現実なんですね。それをありうることしか認めないとする人はかわいそうな人ですね。この世の中、どうせ生きてるのなら、もっと自由に駆けめぐってもいいんじゃないかと思うんだけど、どうも閉じこもっちゃうのね。そして、現実は現実じゃないか、そんな夢なんてありえないことだっていうことになって来る。そのありえない夢が、やっぱり我々の人生で、あるんですね。ありうるんです。それも我々の人生なんだっていうこと。そういうことで、夢を持たない人っていうのは非常に不幸せな人ですけどね。
●人生は平凡で退屈な時間が多い。そのなかで一瞬、あゝとういう時に出会うことがある。
その一瞬が一生のなかに点々とある。
一瞬を受け取る下地を作っておかないと、その一瞬は見逃してしまう。
(世の中)
●世の中はね、役に立つものは必要なんです。頭のいい人も必要。それがないと、文明はないからね。だけど、役に立たないものも必要なんです。役に立たないものがなかったら、世の中どうなる?非常に乾燥したものになる。世の中っていうのは、利口もいれば馬鹿もいるね。そこが面白いんだよね。汚いものがあれば、きれいなものもある。それで面白いの。それが綾になって面白いの。そこに何か違う個性があるからね。それだから、たとえばシェクスピアなんかも、一見したところは馬鹿のような道化なんかを芝居に登場させて、ドキッとするような台詞を入れたりしますね。
(告白)
●ぼくはもし生まれ変わって古代のどこかの国に住めといわれたなら、おそらく古代エーゲ文明の栄えたクレタ島にするだろう。
(世紀末)
●世紀末というのはもう文化が飽和点に達して、いろいろの社会や政治の不信があって、そしてあきらめとか絶望、そういうものの美をそこに見出すようになったのね。爛熟した文化と言うかな、これはもう果物で言う腐る寸前ね。腐る前は確かに味は濃くなって複雑な味が出て来るんだけど、それはもう腐って食べられなくなる一歩手前なんです。そこには未来に対する希望も何もないんです。それが世紀末の作品に現れて来るんです。悪の美なんて言うのも世紀末に現れてくるのね。そこには、何らもっと先に行く新鮮なものがなくなって来て、爛熟したもの、そういう美を楽しむようになる。それが世紀末なんです。
●世紀末の作品に共通しているのは「ファム・ファタール」とフランスで言うんだけどね、「宿命の女」、そんな女性がよく登場する。どうして宿命なのかという、あがらいがたい運命に翻弄される女性には何か妖しさがあるんですね。何か悲劇のもとになるようなものを持ってるの。何か悪が潜んでるの。清潔できれいな優等生みたいなのは、妖しい美って言うのはないんだな。何か退廃的なようなものを持っている。そういう妖しい美っていうものが世紀末に非常に好まれた。
(美)
●美というものは、一度腐って死にかけて、蘇るっていうのがあるんですね。蘇って、また命を吹き返す。それからまた、しばらくたって来ると、だんだん、だんだんそれが惰性的になったりして、美の新鮮さがなくなる。そこで誰か天才が出て来て、また新しい命を吹き返す。そういう繰り返しが多いんです。
(時間)
●汚れたものを見て美しいと感じたことあるかなあ。この向こうの旧校舎、古いねえ。古いから汚れてきたね。だけどこれをきれいに塗ったらどうかねえ。アメリカ人なんかだったら、きれいなの好きだから、真っ白に塗るかもしれない。だけど真っ白に塗ったら、パッとしてきれいかも知れないけど、そこにポエジーがなくなっちゃうんだよね。この校舎が建ってから今まで、長い年月の間にいろんな人がこの壁を見たでしょう。そしてもう、おばさん、おじさんになってる人もいるかも知れないけど、そういう人達のずーっとつながってる歴史が、この壁に染み込んでいるんですよ。こういう物にはね、長く時代を経てきた味があるのね。
●人は暇だとよくないの。昔の中国人はうまいこと言ったね。「小人閑居して不善を為す」ってね。小人というのはつまらない小さい人間ね。それが閑居、暇であると、不善を為す、つまり良くないことをするということです。自分がやることがなかったら、ろくなことしないでしょう、退屈で。オートバイで暴走したりするのはまだいい方で、退屈だからいじめをやったりするのもいるね。自分より弱い子をいじめたりするの、あれも退屈しのぎだよね。暇だからなの。自分のやることがいっぱいあったら、そんなことやらないよ。自分の目的が無い、自分に自信が無い、その劣等感や不安感の裏返しで攻撃的になりナイフでぐさっと刺したりする。それから麻薬やセックスなんかもそうだね。つまんないから、退屈だから、やる。セックスって気持ちいいしちょっとやってみようなんてね。で、やったからってどうってことないんだよね。本当の喜びは愛情なんですね。愛が本当にあったときは、本当の喜びがあるんで別にセックスしてもしなくても同じ。ただ暇だから肉体的快感を得ようと思ってセックスしたって、結局あとむなしいんだね。
(快楽)
●古代ギリシャにエピキュロスって言う哲学者がいたんです。この人は快楽主義というのを唱えた。快楽主義とはね、一言で言えば人生には快楽がなくちゃいけない、人は快楽のため生きているんだという主張です。ただエピキュロスの言う快楽とは、今いったような、ただの肉体的快楽や、そういうものではないんです。そういう快楽は満たされてもただむなしさが残るだけなんだね。本当の快楽とは何だろう。あなた方が何かの目的に向かって努力するとき、その過程が苦しければ苦しいほど、それでも成し遂げたとき、大きな喜びがあるでしょう。ものを創り出す喜び、芸術を深いところで理解する喜び、そういうものを手に入れるためにはたくさんの努力や苦労が必要なんだね。でもそうして得た喜びは深く、そしていつまでも続く。そういうようなものが本当の快楽じゃないんだろうか。
古代のエピキュロスが追求したもの、刹那的に欲望を満たすことではなく、本当の快楽とは何かと言うことだったんですね。だから皆さんも人生の中で大いに快楽を求めるべきなんです。ただそれは本当の快楽でなくてはいけないんですね。
(ギュスターヴ・モロー)
●ギュスターヴ・モローという人の言葉に「私は見えるものを信じない。触れるものも信じない。見えないものしか、すなわち私の感じるものしか信じない。」というのがあります。この世の中で信じられるものは何か?今こうやって見ているものは、その通りの現実に思えるけど、それは幻かも知れないね。触ってみたらどうだろう。でも触ってもそれは本当かどうか分からない。見えるもの触れるものがこの世の中だと思って一生過ぎてしまう人がいる。しかし本当はこの見えるもの触れるものが本当のものかどうかわからない。自分が死んでも、この現実と思っているものはこの通り続いていくのかしら、分からないね。結局、自分にとっての現実とは自分の中にしかないんだね。だから見えないもの、すなわち自分の感じるもの、これしか信じない。こういうことを言ってるんです。
●妖しい美、現実を超えた世界を描くためには、かえって現実味というものが必要なんですね。現実を離れて、独りよがりに超現実、夢の世界だけに遊んでみても、それを見る人には夢の世界なんてちっともピンと来ないよね。昼間聞く幽霊の話みたいなもので、ピンと来ない。だけど幽霊の話だって、真夜中に寂しい雰囲気のところで、細かいところまでリアルに聞かされたら、信じてない人でも本当に思えてくるよね。つまり、きちんとした写実力があって初めて現実を超えた世界にリアリティーが出て来るんですね。だからギュスターヴ・モローは非常にアカデミックなものの描ける人なんですけど、それを利用して、美しい世界、超現実的な世界をそこに出してるんですね。
(印象派)
●印象派は明るい世界だけを求めた。苦労のない世界。嫌なところを見ない、貧しくて困るというのもやらない。それから貴族のうんと豪華なところも見ない。中流ぐらいで平和な生活をしている、そういう、心が安らかになるような世界だけを求めた。明るい世界、見てて嬉しくなるような、気持ちの良くなるものを求めたのが印象派。
(肉体)
●古代ローマの詩人ユウェナリスという人の詩に出て来るんですが、本来は「健全な肉体に健全な精神を宿らしめよ」という言葉です。彼はその詩の中で人間の欲望のむなしさを語り、もし神々に願い事をするならば名誉や富を望むのではなくただ、健康な肉体とそこに宿る健全な精神を与えてくれるよう祈りなさいということを言ってるんです。そしてさらに、実は強い健全な精神こそは神々に頼らずとも人が自分で与え得るものだ、そうすれば残酷な運命の女神も、神としての力を失ってしまうと続けています。ですから古代ローマの言葉をみんな間違って理解してるんですね。
不健全な肉体を持ってて、健全なしっかりした精神を持った人。普通だったらもう、いじけてしまったり、私はもうだめだなんてなるのを、自分の精神で変えてしまう。人間というものは、手足とかそんなものは付属物だね。もっと大事なものはどこかにあるね。どこにあるんだろうね。分からないけど、どこかにある。その大事なものさえしっかりしていればいいんで、体格、容貌、そういうものが良くないということで悩むことは馬鹿らしいことなんですね。目に見えないから分からないかも知れないけど、その一番大事なものがしっかり美しかったら、それは立派な人間なんですね。体格、容貌ばっかり見ているような、そういう考えでいれば、ちょっとでも自分が具合悪いところあったら、悩んだりする。そんなもの悩むものじゃない。それをむしろ逆に転換して、強くするということ、それが大事なの。