2007年12月4日坂倉ユリさんが大動脈解離で急遽された。95歳だった。お若くてお元気な姿しか見てこなかったためか、急遽されたと聞いたときは突然という感が強く、「えっ!!」と驚きが先だったが、お歳が95歳ということでほとんど天寿を全うされたといってよいのかもしれない。それはそれで良かった。

文化学院に在学中において、坂倉ユリさんは私の先生でもあったので、以下、ユリ先生と呼ばせていただきます。

私がユリ先生に最後にお会いしたのは、今年(2007年)ギャラリーサカ主催の「色と形を遊ぶ」展13  (2007年4月17日〜27日)に参加させていただいたときであったと記憶している。そのときも相変わらずお元気なユリ先生のお姿であられた。
この「色と形を遊ぶ展」は画廊改装のため13でとりあえず終了ということで、最後の会に出品できたのも何かの目に見えない因縁めいたものを感じてしまうのだ。以前、この色と形を遊ぶ展の何回目かに要請され宮脇愛子さんなどと出品させていただいたから二回目の出品であった。
この会に出品出来たのは、たまたま出品が決まっていたMさんの誘いに乗ったかたちであった。
当時、文化学院がビックカメラに身売りしたなどと批判の噴出していたときだけであったが、ユリ先生にお会いできたこと、そして芸術科の先生方にお会いできたりして本当に楽しいそして懐かしいひとときであった。

先日のお別れ会(2007年12月9日〜11日)のときにその話となり、お嬢様であられる木田美保先生に「その時のそのままの母を思ってください」と言われ胸がいっぱいになってしまった。

気が付けばもう95歳だったのかと思うほどだから、私としてはまだまだユリ先生にはお手を煩わして頂きたかったことがたくさんあった。村井先生と同様、またまた後悔先に立たずという結果になってしまった。重ね重ね残念だ。

思い起こせば、私の勝手な思いこみでもあるが、文化学院で村井正誠が父親とすればユリ先生は母親的存在であった。このお二人がいなければ33年も文化学院にお世話にならなかったと思うし、お二人からいろいろなものを学び吸収をしたつもりだ。

まず、デザイン科の入学面接がユリ先生であった。そのとき、ユリ先生の話の引き出し方のお上手にのせられ、私は自分でも不思議なくらいぺらぺらと話し、面接後も心地よさが持続し、入学させてもらえると確信していたことを思い出す。本当はそれが間違いのもとで、なんと文化学院に約33年も連続して居座ることとなってしまった。

坂倉ユリ先生は文化学院創始者西村伊作の次女として1912年に誕生。伊作が子供たちのためにと1921年創立した文化学院中等部から大学部を卒業。
モダンな西洋風の洗練された美貌はまさに注目のまとであったと聞く。

1939年、ル・コルビュジェに師事して、1936年パリ万国博日本館の設計を手がけた建築家坂倉準三氏と結婚。1940年坂倉準三建築研究所設立現在の住居に構える。

坂倉準三(
1904年5月29日-1969年9月1日)亡き後、文化学院デザイン科の創設、文化学院アートアンドクラフトセンターの設立など現在にも通じる彼女の活動が始まる。この期間、私が1971年デザイン科入学以来、ユリ先生の活動の幾つかにも参加させて頂き、お亡くなりになる直前までお付き合いをさせていただいた。

それにしても、ユリ先生は華麗な人脈をお持ちになっていた。父、伊作の敷いてくれたレールではあったが、活動のたびに彼女独自の人脈を広げてゆくという才能は持って生まれた彼女の社交的性格も幸いしたのだろう。私も、いくつかおこぼれを頂戴した口だった。

この、MY MASANARIサイトのためにも、西村伊作、文化学院などの話を本格的に聞こうと思いながら、いつもそこにいて、お元気であったということから、ついつい先延ばしをしていったら、いつの間にか95歳というお歳を迎えてしまっていらっしゃった。自分だっていい歳になっているにもかかわらずだ。またも後悔先に立たずであった。

大正の香り、そして西村伊作のユートピアでもあった個性的な文化学院も、新しい時代に存在可能なのかという命題を問われ事となった。このまま、時代の波に消え去るのか、それてもリセット出来るのか私にはわからない。お隣の自衛隊基地跡六本木ミッドタウンの完成、

最後に、文化学院在学中にユリ先生から伺って忘れられないお言葉で「有名でなくても、りっぱな人はたくさんいるのよ。」という言葉で結びたい。

1. デザイン科設立 / アート&クラフト・センター

2. 坂倉ユリのあゆみ(お別れ会に配られた小冊子より)

3. お別れ会に配られたプリント、葉書