●絵は、展覧会で多くの人に見てもらって貫禄がついて帰って来るよ。

●皆さんはネ。個展でもグループ展でも、沢山おやりになった方がよいです。作品が殖えるのは財産が殖えることですから・・・・。

●審査がきびしいのもよしあしで、展覧会はニギヤカなのがいい。一般出品の作品があるから会員の作品がよく見える。

●審査をしながらたくさん教えられます。帰るときはいつもTお土産Uで一杯になります。

●一生懸命に描くだけではダメなんです。スターにならなければ。

●描きすぎても駄目です。見る人が絵の中に入って、その手伝いによって出来上がるのです。

村井正誠は、生涯展覧会大好き人間であったのは間違いない。個展はもちろんグループ展、モダンアート展等々、展覧会があるから絵を続けられていたといってもよい。展覧会に自分の作品を飾ることに意義を見いだしていた。多くの人に自分の作品を見てもらいたいということはもちろんだが、絵は人間と同じように生き物で、作品を村井正誠は子供と同じように思っていた。自分の子供なのだからよくしてあげたいという親の気持ちで自分の作品に接していたといって間違いない。人に見られ、もまれることで絵も成長すると考えていた。デビューしたての新人歌手が大勢の人に見られることによって、ころころとしていたのがスリムになり、そしてきれいになり洗練されていくということと同じこととみてよいだろう。展覧会をすることで作品である絵だけではなくその作者も成長すると思っていたに違いない。だから、彼はそんな素質を持っている人間を見いだす眼力も確かで、ある意味ではアートディレクターでもあった。彼の周りには彼から個展を進められた人が何人もいた。事実、文化学院芸術科の授業中に、芸術科の授業に対してアートディレクターを養成するつもりでやっているということを言っていた。
私が初めて個展をおこなったのも村井正誠の薦めがあったからである。芸術科の2年目始めの頃であった。私の油彩画を見ながら、「そろそろ個展をやりなさい」とぽつりと言った。その一言が私を泥沼に誘い込んだ。
初めて個展をしたときは、正直な気持ち、生きているうち葬式でもやっているような気分だった。あるいは傍らに女性でもいれば結婚式といってもよいかも知れない。とにかくそれまで、人前に自分をもろに晒すことなど無いに等しかったから、これは一種のイニシエーションといってもよかっただろう。自分の絵を人前にさらすことが恥ずかしさを感じると言うことはあっても、こんなに恐怖感が伴うこととは思ってもみなかった。
初めての個展は画廊文化学院を選んだ。銀座であるとか立派な画廊でやる気にはならなかった。画廊文化学院は貸し出しだけで特別に頼まなければ会場に係りの者はいなかった。最初と言うことで訳もわからなかったということもあるが、会場の飾り付け、客の接待はもちろんそれ以前の案内状印刷から郵送、事務的なことも含めて何から何までひとりでやってしまった。おかげで会期中は食事をとる暇もなかった。極度の緊張感もあって、会期中の6日間で5キロも体重が減ってしまった。体が何かしんがぬけたような感じであった。会期を終え片づけも終えて外に出た瞬間、普通の心地よい風であったにもかかわらず吹いてきて思わず私はよろよろとよろけてしまった。

あらかじめ、展覧会の予定をくんでおかないとずるずると何もせずに時間ばかり過ぎてしまう。村井正誠は、締め切り間際まで引きずるタイプの作家でもあった。だから、外からの強制を自ら作っておかないといつまで立っても描かない作家であった。追い込まれないと描けないタイプだった。ほとんどのプロとしてやっていく作家というのは同じであると思う。私もそうなのだから。その間、何もしないかというと、あれこれと考え悶々としているのである。もちろん、ネタを探す行為は続けられるが、テーマを一枚の画に込め、テーマを持った展覧会にまで仕上げるという踏ん切りがつかない。余談だが、私は、血液型の性格占いは茶飲み話にはよく口にするのだが、B型という村井正誠の血液型も関係あるのだろうか。私もAB型でB型の要素を含んでいる。
もちろん、描いた端から絵が売れるというわけではないから、展覧会をやればやるほど絵は貯まってゆく。「ちりも積もれば山となる」ということだ。だから村井正誠のアトリエは足の踏み場もない作品の山だった。私も現在、家には絵を置いておくスペースがなくなるほど作品の数が増えて、アパートの一部屋を借りる羽目となっている。私のアトリエには描きかけのそれも何年も経ってとっくに乾いて、中にはひび割れもしてしまっている絵がかなりの量がスペースを占領している。時間がたてば完成できるかもしれないというわけでとっておいているのだが、それらの作品を完成させたということは今までほとんどない。ということはアトリエにあるのはほとんどゴミの山ということになる。人目に付かず流されてしまった水子だといえなくもない。時々煩わしくなり焼いてしまおうと思う事もあるが捨てられずにいる。やはり、村井正誠が言っているように一応作品は完成させた方がよい。はやく人目に晒して息を吹き込んであげたほうがよいと思うのだ。
初めての個展のとき村井正誠のアドバイスを仰いだのは、どんな評論家に案内状を送ればよいかということだけだった。美術評論家の表を虫眼鏡でみながら丸をつけてくれた。その資料は今はどこにいってしまったかたぶん捨ててしまったと思うが、唯一覚えているのは針生一郎氏のところで首を傾げて考え丸をつけなかったことだ。その当時は私も美術評論家に関してはあまり知っている人がいなかったころで、ただ針生一郎氏だけはなぜか最左翼の評論家として知っていたので覚えている。後に、村井正誠の画集の文章、そして先に逝った妻の小川孝子の最初で最後の画集の文章を担当している。そして、私とも少なからず縁があった松岡正剛氏と美術手帳で対談しているのも、何かの因縁を感じる。その針生一郎氏とはじめて対面したのが村井正誠死後の「村井正誠を語る会」のパーティー会場であった。立食で、丸テーブルの上に私の飲みかけの水割りを置いていたら、その水割りを飲んでしまった人が針生一郎氏であった。あっという間の出来事であったので、まっ、いいか!ということであった。

私の経験から言っても、絵というのは不思議に時間が経つほど部屋になじむ。展覧会の作品の展示中は何かしっくりとしない作品群も、展覧会期間中時間が経つほどそこの壁面にとけ込んでそこにあるのが当たり前のように見えてくる。そしてそれはそれでよいというふうに見えてくるから不思議なのだ。目の錯覚なのか、時間をかけて作品と向き合うことになるので当人の気持ちの違いなのかと思ったりするのだがどうもそうとも言えないようだ。時間の魔術とでも言ったらよいのだろうか。展覧会期間中作品が乾いているということもあるだろうし、いろいろ物理的な条件が重なってのことと思われるのだが、やはり、人に見られることで作品に血が通い生き生きとしてくるとしかいいようがない現象なのだ。これはちょうど、いろいろなたくさんの振り子の時計が同じ部屋にあって、それが最初はバラバラな振り子の揺れが次第にみんな同じになってくるということと類似した現象かもしれない。これと同じ事を、車のエンジンのエージングであるとか、オーディオ機器の、買いたてのころはどうしょうもない音であったのが鳴らしながら時間が経ってくると音がこなれてきて生き生きとしてくるとかが実際に私も経験している。私の現在使っているスピーカーは、自分で組み立ててスピーカーを取り付けたバックロードホーンというシステムで、これが組み立てた頃はひどい音であったのが、一年間ぐらいたつと、バランスのよい自分にとって本当によいスピーカーとなった。これは、組み立てていたときに木工用ボンドを使って組み立てているので、そのボンドが完全に乾いていなかったということもあるし、スピーカーユニット自体も新品の出来立てでコーンとかがスムーズに振動しないという物理的原因があった。結局はスピーカーは鳴らしながら音を整えて行くしかないのだ。本体の木も生き物であって、時間によって、天候によって常に変化している。そういう様々な要素によって、毎日音も違ってくる。まさに時間による「うつろい」だ。耳の方が音に慣らされているのかとも思うが、もちろんそれもあるのだろうが、時間が経つということでオーディオ機器のパーツそれぞれに電気の流れがスムーズになったとか細かいことでそれが大きく拡大されて違ってくるのだと思う。つまりオーディオのように信号を増幅するということは、小さい条件が結果を大きく左右するということで、絵も同じように感覚的なものというのは小さい要素がその印象を大きく変えてしまうと言い換えることができる。

展覧会を開催するということはお金がかかる。無名の作家達を企画でやってくれる画廊はまず無い。だから無名の作家は展覧会を開催するとなるとほとんど会場費から材料費、経費と全部自分持ちとなる。やっとこ開催できたとしても世間的反応はほとんどない。結局、展覧会を開催する以前の作家の社会的要素が成功の決め手となる。気持ちからいえば、最初から無名の作家が個展を開催するのはやるだけ無駄だという結果にもなってくる。だから、営利である画廊は売れない無名作家には目もくれない。そんな冒険をする余裕のない画廊がほとんどだ。やってみるとわかるのだが、一番最初の個展だけは会場費ぐらいは稼げる可能性はある。親戚あるいは知人が、お義理で一枚買ってくれる、あるいはご祝儀を包んでくれるということで多少の収入は見込める。ところが、2回、3回と個展を続けて行くうちにそういう類の収入は望めなくなる。でも、バブルもはじけ景気も悪いことだからそれも怪しくなっているかもしれない。
親や、家族が社会的においしい地位にいるとそれは有利な条件となる。作者本人がタレント、有名人となると更に有利な条件となる。絵画に限らずどこの世界でも同じ事なのだが。このようなわけで、日本の土壌も無名作家に光りを当てるようにはなっていない。このような日本の現状では、無名作家は貸画廊を借りてやるか、団体展に出品して会員になることを目指すか選択の幅は限られている。あるいは日本脱出の道しかない。世間的なんらかのお墨付きがないと話題にもならないからだ。逆輸入を目指す道だ。それがないとどうあがいてもうだつが上がらない。まず受け入れる世間が体制が整っていない。本音で絵を受け入れる気持ちがない。世間的に成功したとて、忘れられるのも早い。維持するのも大変なのだが。作家の側からすれば、美術で成功する人のパーセンテージは今も昔も変わっていないのかも知れないのだが、現在、量的に作家を目指す人たちが増え、昔よりは活況に見えるにもかかわらず、本物の絵を志す場合自分の中の世界を外の世界に延長して行こうとすると、ギャップが生じてしまうのは芸術を志すものの宿命か。日本の現実として絵画の底辺はほとんど広がっていないし、変化していないと断言してもよい。
ではどうしたらよいのか。結局は、その底辺及び、鑑賞する側、購買層の意識改革がなければ何も変わらない。その構造を変えない限り絶望状態だ。絵画好きの人間をたくさん養成、理解できるだけの教養を持った人間の増加を今すぐに実行に移さないことには事態は変わらないことだろう。そういった意味で、制作する側も含めて、スターという存在も必要なのだ。岡本太郎であるとか、池田満寿夫であるとか、棟方志功いった人たちだ。ただ富のバランスがその人たちに偏りすぎるきらいはあるにしても、同じ作家仲間にはその人達はよく迎え入れられていないということはいかがなものかと私は常々思っている。そういう人たちを批判したりすることは結局自分の首を絞めていると同じ事であって、自分の行く道を自ら狭めているのだと思うのだが。そこには、スターになれない者の妬みの感情しか私には感じられないのである。スターには誰にでもなれるというわけではない。でも、心に星空を、そしてスターを持つことは誰でも出来る。持たないで、人の心を打つ魅力のある作品を制作することは不可能であると私は思っている。スターになりなさい。出来なければスターを持ちなさいと特に制作する側に言いたい。村井正誠もそう言っていた。

以上のことも含めて、現状を打破するために、私は村井正誠にも協力をお願いしてグループ展を企画したことがある。ところがそのグループ展も、そういう企画のねらいとは別の方向に行ってしまった。そこが人間の面白いところなのかもしれないのだが。
その展覧会は、村井正誠が関係しているということや、文化学院芸術科在校生が主体であったことで、毎年1回の展覧会であったが新規加入や、出品しなくなった者あるいは再出品の者と入れ替わりはあったが、だいたい毎年25人のメンバーは確保しながら約20年間続けることができた。会費は最初からずっと1万円を超えることなく続けることができた。村井正誠もお車代程度のお礼でも毎回協力をしてくれた。グループ展で私が目論んだことは、一人一人の出品者が個展のつもりで参加してもらい、それぞれのお客さん、知人を展覧会に呼んでもらい観客の拡大、絵の楽しさを知ってもらって底辺の拡大であった。そして出品者は展覧会会場に作品を飾ると言うことはどういうことなのか感じでもらう、そして作品が殖えたら個展にチャレンジしてもらう。そのために展覧会の雰囲気に慣れてもらうということがグループ展を続けるに当たって参加者に望んだことなのであったのだが。
ところが、参加者は個展を経験していない者がほとんどであったということもあって、グループ展があたりまえで結局グループ展の気楽さでしか物を考えられない人たちを増殖してしまったのだ。まず見込み違いだったのは、案内状割り当てで、必要分だけ割り当てますというにもかかわらず、形式的に一人20枚というわずかな数でも、案内状を送る人がいないからと5枚でも拒否する者が出現したのには私も開いた口がふさがらなかった。私だったら50枚でも足らなかったのに。そして、出品者は毎日でも会場に顔を出すと思っていたのも見込み違いであった。結局は、強制的に当番を割り当てないと会場にもこない出品するだけの人がほとんどであった。年取った大家でもあるまいに、そんな姿勢では大成しないよと言いたいのをこらえていた。どこのグループ展、団体展に関しても事情は似たり寄ったりに違いない。結局は進んで事務的なことをこなす世話役と、そうでない人にきっちりと色分けされるのだ。毎日でも会場に顔を出して、自分の作品はもちろん、人の作品から盗めるものは盗んでやれという気構えになってもらわなければ私のグループ展を開催する意味は感じられない。理想は、理想でしかなかったのか。私はまだ次の展開をみいださぜずにいる。結局は、本当に信頼おける仲間を見いだして少数人数で始めていくしかないのかもしれない。
村井正誠がグループ展から身を引いた後も何年か続けていたのだが、出品者同士のせめぎ合いなどで、風通しの悪さを堪えきれなくなって私はグループ展を解散した。グループ展においても村井正誠の存在は大きかったのだ。私も含めて精神的に村井正誠におんぶし過ぎてしまっていたのだった。だから関係した者たちは、ぽかっと頭上がからぽになったような気持ちであった。
私自身の個展が続けられたのも、村井正誠が唯一の他者として見ていてくれたからであった。極端に言えば、村井正誠に見てもらいたいがために個展をやっていたといってよいだろう。私の思い過ごしかも知れないが、私の開いた展覧会に答えて、村井正誠は自身の個展やグループ展で私の作品に対するなんらかの解答を作品をもって返してくれた。その無言の励ましが私を奮いたたせたのだ。またある意味では私の一番幸せな時期でもあった。現在は、以前より自由を謳歌しているのだが。
村井正誠に別れを告げられて以来、私は個展を開催できずにいる。私の作品を見てもらいたいと奮い立たせてくれる存在がないのだ。幸い作品は制作することは出来るのだが、個展をおこなう意義をいまだに見いだせずにいる。自分の中に観客を見つけないといけないのかもしれない。また新たに本物の読者を求めて街へ出て行かなければならないのかもしれない。

「そうであってもいいし、そうでなくてもいい。どっちでも同じだ。」

「何事も「ただそれだけのこと」を出るものではない。」(稲垣足穂)   以上、HP「一千一秒倶楽部」より引用