布施辰治 略歴
  
  布施辰治 (ふせ たつじ) 
  1880〜1953 (明治13〜昭和28)               

布施辰治写真
  
 明治法律学校(明治大学)を卒業し、1902(明治35)年22歳で判事検事登用試験に合格、司法官試補として宇都宮地方裁判所に赴任する。1903(明治 36)年4月に検事代理に任じられるが、同年8月21日に辞任。辞任の直接の原因は、親子心中をはかって自首した母親を殺人未遂で起訴することに忍びなかったことによる。
1903(明治36)年11月13日東京裁判所検事局において弁護士名簿に登録し、弁護士となる。
 明治期の弁護活動のうち、社会問題を扱った事件は、東京市電値上げ反対騒擾事件(1906・明治39年)、東京市電ストライキ事件(1911・明治44年)である。
 大正期に入り代表的な弁護活動は小守壮輔殺人冤罪事件(1915・大正4年)、米騒動(1918・大正7年)、天誅事件、釜石鉱山・足尾銅山・八幡製鉄所ストライキ事件(1919・大正8年)、暁民共産党事件(1921・大正10年)等がある。神戸三菱・川崎両造船所の労働争議(1921・大正10年)において警官隊が抜剣し、労働者を刺殺する等の人権蹂躙事件の調査・抗議の先頭にたって活動した。この事件を契機として自由法曹団が結成され、布施はこの中心を担うことになる。弁護活動で多忙を極めるなか社会活動として普通選挙運動、人権擁護、労働問題、借家人、廊清(公娼廃止)運動を行っている。
 大正後期から昭和前期の主な弁護活動はギロチン団事件(1923・大正12年)、徳川公暗殺予備事件(1924・大正13年)、福田雅太郎大将暗殺未遂事件(1924・大正13年)、群馬県世良田村未解放部落襲撃事件(1925・大正14年)、朴烈・金子文子大逆事件(1926・大正15年)、日本共産党三・一五事件(1928・昭和3年)。他に、小作争議、労働争議、水平運動、借家争議、山村無産階級運動(入会権問題)、漁民運動等の弁護をしている。
布施の弁護活動は、国内だけでなく朝鮮、台湾にまで及んでいる。
 戦後は自由法曹団、日本労農救援会(日本国民救援会)などの代表となり、三鷹事件、松川事件などの弁護活動を行った。

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