音楽の笙


 個人的には、現代音楽などで日本の伝統的な楽器を用いた新しい試みがな
されることに賛成です。しかし、それでもその楽器の使われ方には疑問を感
じることが少なくありません。特に議論をするつもりはないのですが、雅楽
の古典曲を吹いてきた立場から感じることを書きたいと思います。

 もしかしたら、価値観や意見の相違にしかならないのかもしれません。た
だ、日本の楽器は一音で完結できてしまう楽器ばかりだということ。楽音を
弾くために出来ていないということ。機能させることを考えられていない作
りであることなどに気づき、現代の考え方においての作曲時には、必ず一度
立ち止まることを余儀なくされるのでないでしょうか。
 
 日本の楽器は、同じ音であっても楽器によって固有の音名を持っています。
要するに、その楽器にしかない音として捉えていると考えて良いのです。そ
して、記譜の仕方は音ではなく、タブ譜と呼ばれるものと同じで、指や楽器
の位置などが書かれています。ですから、音という部品を組み立てるような
考えが合わないわけです。


 武満徹は、「エクリプス」「ノベンバーステップス」「秋庭歌」など、日
本の楽器で重要な曲を書いていたにも関わらず、その数は少ないです。これ
は、きっと日本の楽器で「作曲」する難しさが関係しているのだと思います。

 ノベンバーステップスでは、仕事場に演奏者を呼び、秋庭歌でも宮内庁楽
部に足を運んだようです。おそらく、自分が演奏していると錯覚するほどに、
その楽器を演奏している奏者を観察し、演奏に入り込み、全ての特徴を体に
染み込ませていたのだと思うのです。

 もともと、西洋音楽の世界でも、楽器職人、演奏家、作曲家は分業されて
いなかったのではないでしょうか。日本の場合は、分業制があまり進まなかっ
たと見えます。現代でも楽器奏者が作曲家、職人であることは珍しくありま
せん。この辺も、作曲家なる人が間に入って作曲する難しさになっているの
かもしれません。


 20世紀から書かれた西洋音楽の書法を用いた笙の曲で、定着しているも
のはないでしょう。もともと、現代音楽が少数派ですから、これは全般に言
えることでもありますが、少し事情が違うと思うのです。
 なぜなら、西洋音楽というのは、いわゆる現代音楽に至るまでに段階を踏
んで来ています。しかし、日本の伝統的な音楽は、ほとんど昔のままを永い
間保存している状態から、いきなり現代音楽になってしまったからです。

 突然変異というと前衛的かもしれませんし、その価値観があること自体は
問題ないでしょうが、もう少し自然な流れや生い立ちを考えると、必ず皺寄
せがあると思うのです。偏りすぎているバランスを取る必要が必ず出てくる
と思うのです。

 バッハから突然ジョン・ケージにはなっていません。いわゆるクラシック
が様々な国で底辺を広げ、映画、ジャズ、ポップスなど、ジャンルも媒体も
多岐に渡るようになり、あらゆる道のりをかなりの時間をかけた上で辿り着
いたはずです。


 確かに、クラシックを勉強していても、現代音楽を実際にレパートリーと
して弾く人は稀かもしれません。しかし、勉強の過程では触れる機会がある
のではないでしょうか。
 ところが、笙や日本の伝統楽器を用いた新曲の存在は、稽古する人のほと
んどが知りません。これは、演奏者の底辺が狭いことにも原因がありますが、
全てが実験でしかない証拠なのだと思うのです。
 
 要するに、古典以外の曲というのは、全て特殊な曲しかなく、新作で斬新
という意味ではないと思うのです。西洋の前衛音楽も、一歩ずづ拡大解釈を
経て、初めてその枠からはみ出て行ったはずです。

 簡単に言えば、なぜもっと身近な所で用いられないかが疑問です。おそら
く、雅楽は伝統、歴史があり、もし新しい領域へ入るにしても、大衆的な方
向へ向くことを邪道、冒涜として好まないのだと思うのです。
 しかし、流れとしては不自然です。数百年変化していないものを、突然そ
の時代を飛び越えることが出来るのでしょうか。まずは、大衆的な方へ開放
されるべきだと思うのです。

 これは言い換えると、大きなギャップが開いたままなのではないでしょう
か。西洋音楽の人口比で例えるなら、バッハ、モーツアルト、ベートーベン
などに最も密集しており、近代、現代へ行くほど人口密度は徐々に閑散とし
てくるでしょう。

 日本の音楽では、古典に密集して、閑散としている現代までの間には、集
まる場所さえ設けられていないと言ったところではないでしょうか。株のチャ
ートで例えるなら、大きな窓が開いています。
 チャートの窓は必ず埋められる動きがあると言われていますが、日本の音
楽においても、伝統と前衛音楽との間にあるギャップを埋める、底辺を広げ
るような音楽が確立しない限り、しっかりとした足取りで定着する新曲は現
れないように思うのです。
 
 雅楽は、数百年同じ曲のみを演奏してきたわけです。もちろん、時代と共
に演奏は変遷を繰り返したでしょうが、この間、新作がなかったと考えても
差し支えないかもしれません。

 ですから、その楽器を用いるにしても、一夜にして新たな道が出来上がる
とは考えにくいわけです。数百年熟成されてきた雅楽の古典曲から、突然、
西洋から来た現代音楽に変われるとは思えないのです。
 やはり、まずは、身近(俗的)になる方向へ進み、底辺が広がり、そして
新たな形で高度なところへ向かっていくのではないでしょうか。

 身近というのは、口ずさんだり、口笛で吹けるような曲を笙で吹くぐらい
のことが、実際に笙を演奏している人の間で、当たり前に行われるというよ
うなことです。言い換えると、一般的に広まるような曲が演奏されることが
先決で、現代音楽はその後で良いはずです。

 既に現代ですから、その域に入っている人がいるのも当然です。しかし、
この世界の全体的な流れを考えると、まずは、当たり前のようなことが広ま
らない限り、その場限りの曲しか生まれず、笙という楽器を理解し吹いてい
る人が、探求の過程で挑戦しようという新作は出来上がらないのではないで
しょうか。

それとも、この楽器は雅楽の古典以外では用いられないべきなのでしょうか。
個人的には、新しい楽器や音楽が誕生できる可能性があると思っています。



     



Sho-window 〜笙窓〜
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