和食と洋食
(オリエンテーション1)



 和食と洋食では楽しみ方が違うように、日本の音楽と西洋音楽では、
その味わい方が異なります。これを取り違えると、双方にとって残念
なことになりかねません。

 おそらく、生の魚を食べる習慣がない欧米人が、初めて寿司や刺身を
見た時には、原始的で調理をされていない食べ物として、口に入れるこ
とさえ拒んだのではないでしょうか。もちろん、好みはそれぞれですか
ら、現在でも生魚を好む人もいれば好まない人もいるでしょう。


 残念ながら、日本の音楽や楽器も馴染みのない人にとっては、原始的
で稚拙にさえ見えてしまうようです。しかも、日本でも西洋音楽が一般
的になり、伝統を知識として教育されないため、日本人が日本の音楽、
楽器を目にした時に、見方を誤ってしまうこともしばしばです。

 日本の音楽、楽器は、純粋にその響き自体を楽しむために整えられて
います。ですから、音を動かすことは二の次なのです。尺八で「一音成
仏」という言葉を聞きますが、これは、日本のどの楽器にも当てはまり
ます。

 笙も同じです。その音色自体を聞くための楽器であることは、演奏す
るようになればすぐに感じられるでしょう。俊敏に音を動かす機能性は
持ち合わせていません。調律をし、その延長で整った音を楽しむものな
のだろうと思います。

 現代では、欧米の影響も強く嗜好が変化してきました。ですから、日
本の楽器を取り巻く環境も変わり、俊敏に複雑な音の動きに対応してい
くことが技術の高さになっています。
 ですから、一つの音を鳴らし、しばらく響かせるということは、原始
的で稚拙になってしまうのでしょう。


 刺身が生だからといって、ソテーしたりボイルしたりフライにしてし
まったら、もはやそれは刺身ではありません。そして、これが一時的な
ことではなく、常に火による調理を加えるようになってしまえば「刺身」
という料理がこの世からなくなります。

 日本の音楽、楽器は、この刺身のようなもので、調理してしまうと全
く別の料理になってしまうのです。ですから、自分の嗜好に合うかの判
断は、まず、本来あるべき姿、味わい方を十分に理解した上で行わない
と、せっかくの美味しい部分を見逃してしまうかもしれません。

 米を「噛めば噛むほど味が出る」と称するのは日本人だけでしょう。
本来、米は味のないものです。笙を聴く上でも吹く上でも、味付けをす
るのではなく、自ら味を探求できる鋭く繊細な耳と感性が必要とされる
のです。日本人には、もともとそれが備わっているのだと思います。 

     


Sho-window 〜笙窓〜
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