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戊辰箱館戦争録 慶応四年十月二十日〜十月二十七日  

当サイト内の各日録は複数の史料を参考にして管理人が独自に額兵隊周辺を中心にまとめたものです。主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい。額兵隊のことをご存知の方はお気付きになっていらっしゃると思いますが、当サイト中「戊辰箱館戦争録」に関してのみ、一つの史料をベースに進めています。慶応四年九月十五日→十月二十七日までは「星恂太郎日記」を、それ以降は「蝦夷錦」がベースとなっています

慶応四年

十月二十日

諸艦北島をさして南部海を航行するに、午の下刻より西風吹き来たり各艦離散し前後する、未の上刻に至り風は益々烈しく、激浪は甲板を越える、長鯨は千秋を曵くことにより進むこと能はず、是に於いて船を止めて引綱を絶たんとする、千秋は風に順じて前進し、長鯨を下腹に当たり反射せられて又長鯨に觸れるること数回、千秋殆んど覆没せんとする、舟中は大に動乱する、熱海、荒井、三橋等、兵を下知し各棍木を取りて長鯨の下腹に当て声を揚け力を極めて之を張る、荒井宣行は刀を抜き綱を絶つ、両艦各左右する、後を顧るに長鯨一片の黒煙を捲きて遥かに走るを見るのみ(長鯨は「ムロラン」に到着する)

千秋は走ること一里程にして碇泊する、何れの地たるを知らず、先きに長鯨に綱を切らるるの時、橋舟二艘を失なう故に上陸すること能はず、翌二十一日漁舟の近傍に来たるを招き、地名を問うに蝦夷地「トコロ村」と答える、是に於いて米七俵を与え、一小船一艘を得て薪水の備えに供するを得たり、二十二日、大江丸諸艦の探索に出たる、会えて本船は鷲ノ木に着せんことを知る、この夜来南の風になり、直ちに出帆し二十三日鷲ノ木に着船す是時回春丸と改めり

十月二十一日

黎明、回天、鷲ノ木に着船する、次いで開陽、鳳凰、大江、着す、陸上を見れば連山波涛の如く積雪銀を敷くが如し(蟠龍、神速、長鯨、謬りて蝦夷地「ムロラン」湾中「エトモ」村の番屋「トカルムイ」と云える処に着して追々鷲ノ木港に入る)此日、風浪を犯して悉く上陸する(橋舟を覆しに及び小舩を流す)是に於いて榎本泉州(釜次郎と改名する、何の故たるを知らず)大鳥圭介、松平太郎、土方歳三、榎本対馬等、諸将を会し軍議する、榎本釜次郎、自ら筆を揮って四通の書を認める(此書は初め徳川脱藩の臣榎本釜次郎、永井玄蕃、松平太郎を初め海陸軍の兵卒に至るまて三千有余名、上皇国下活計の為めに不毛の地を開拓せんとて寛典憐愍の御處置を歎願すと雖とも、中間に障蔽せられて達すること能得す、反て征代せらるるに因て武州品川を脱し仙台に来たり再び此事を歎願す、又何の御沙汰にも及ばず、再び追討を加えらる故に身を此地に避け北方の一境を守りて朝廷の御沙汰を待ち奉るものにして、敢て官軍に抗するにあらず、然れとも其方より兵端を開かるるに於いては已むことを得べからざるとの云々を書記せるものなり)而して加藤昇太郎、小柴長之助(此両人は探索に妙を得たるものどもなり)を招き、是の書を両人に渡し汝輩如何にもして之を官軍に達せしめよと云い、両人、領承して箱館に至りて下湯ノ川の村長に命じて五稜郭及ぴ一本木関門、其外処々の番兵に之を出さしむ

是に於いて両道の討手を定む、本道の総大将は大鳥圭介、軍監佐久間貞二、仏蘭西国教師「カヅノーフ」「マルラン」先鋒遊撃隊(隊長大岡幸次郎、副長杉田金太郎)中軍伝習隊(大川正次郎)殿りとして新選組(相馬主計)間道の大将は土方歳三、軍監菰田元治、額兵隊、陸軍隊(隊長春日左衛門、副長和田傳兵衛)隔日に先鋒たるべしと仏国教師「ブーヒー」を添らる、兵糧弾薬を配分し本道口は明後二十三日、間道は明日拂暁出兵と定む

十月二十二日

暁を払って間道の兵、鷲ノ木港を発し、宿野部(シュクノッペ)尾白内を過ぎて砂原に着陣する

十月二十三日

天色曚々寒風膚を裂くが如し、寒威を犯して進軍する、巳の上刻より北風益烈しく、雨雪混降して将より卒に至るまで身纔に一重の戎服を纒うのみにして、足に袋なく頭に笠なく満身濡れさる所なり、四肢亀手して殆んど凍餒せんとす(砂原嶽の麓にして道路極めて嶮難馬足の立さる所多し、至處荒村貧駅土民と蝦夷と混駅雑居する)菅部村に休して午飯を喫し、大に火を焚きて寒威を凌ぎ雪の晴るるを待つ、漸くして風雪稍収まる、是に於いて再び進軍し辛うじて広部村に至り宿陣する

十月二十四日

我が額兵隊、先鋒たるを以て暁天に進発し、熊泊村に於いて午飯を食し兵を休す、是に於いて舟を以て兵糧弾薬を川汲に送り而して兵を海に添って川汲に至る、軍監菰田元治、額兵隊の七八名を命じ湯本に斥候する、敵是の処にありて温泉の家を楯となし小銃を連発す、額兵隊の吉助が担ふ所の銃把を貫き拇を創く、兵去り来たり敵ありと報じる、直ちに進みて湯本に逼れば敵はや峠に引揚げたり、則ち菅原道守等に士官隊一小隊を授け間道より攻入らしめ網代康實、堀口武泰等各一小隊を引きて本道より進むに怪石奇岩道を遮り、隘道九折断巖絶壁嶮岨言語に絶す、然のみならず積雪山壑を埋め堅水鏡の如し、匍匐して頂きに近く敵嶮により銃を発す、康實、武泰等、必死を極め攻めると雖とも嶮にして上ること能はず、徒に敵を白眼し切歯して立つのみ、是時菅原道守辛うじて間道の嶮を渉り敵の備たる背後の山上に出でて筒先を揃えて突然と連発し敵兵大に狼狽す、此の機に乗じて本道よりも攻め登り来んて敵を討つ、小田邊行成(二十三)梅津道治(十七)片平定歳(十九)山路兼明(十八)井島恒盛(二十三)等を初め血気の若者とも直先に進み銃を捨刀を揮て大に奮戦す、敵狼狽散乱する、道路嶮且つ地理に闇きを以て長く追うことを禁ず

星恂太郎は湯本の本陣に在って兵糧松明を用意なさしめ自ら勢を操り出さんとするに、軍監菰田元治兵を率して峠を下り来る、恂太郎は勝敗を問う、菰田いわく味方大勝利にして分捕等夥しと、恂太郎は然らば何の故を以て嶮を捨て帰陣を為と云う、山上雪深く寒風烈しくして陣し難し故に番兵を残し置きて兵を引き揚けたりと云う、恂太郎は切歯し大いに怒る、夫れ是の川汲峠たるや東蝦夷地三嶮(川汲峠一の波峠、不砂子山中大瀧峠)の一にして一つ之を守れば万卒犯す能はざるの絶嶮なり、今幸に敵弱く未た備なきを討て此の嶮を得たるは実に味方の僥倖にして力を以て得たるに非す、焉そ之を捨て安閑と枕を高し麓に宿陣するの理あらんや、若し再び敵此の嶮によらば後臍を噛むとも及ぶ可んやと、元治は恂太郎の論に服す、是に於いて影田興隆に兵糧を司らしめ、恂太郎自ら松明を振り真先に進む、佛人「ブーヒー」もこれに続いて登る、兵も亦隨て上る、絶頂積雪三尺に過ぐ日西山に没し月光の助けなしと雖とも白雪皎々として銀の如く鮮血黙落花の如し、寒風颯々として皮膚に徹す、是に於て兵卒各刀を抜き木を倒し枝を切りて火を焚き徹霄厳に番兵をして之を守らしむ(味方死傷なし敵討死七名手負、十余名転倒壑に落ちる者数不知)

十月二十五日

暁天に土方歳三、後陣の春日左衛門等が来たりて額兵隊と合し、而して野田布に下り民家を探索して白砲二門及び弾薬数荷を得たり、是に於いて兵を間道より額兵隊、本道より陸軍隊と二手に分けて両道より攻め入る。、敵は悉く逃げ退いたため上湯ノ川に至り宿陣、兵糧が乏しいため、額兵隊軍監金成善左衛門が単騎にて川汲に引き返し調達する。是に於いて、四方に斥候、番兵を出して山々峯々に篝火を焚く、夜は已に三更、函館の辺りで火あり、土民に命じて探索なさしめるに、五稜郭を開き、弘前陣営千代ケ岡(文化年間の仙台藩の陣営、後に津軽藩に於いて之を有する、故に此の名があり)を自焼し、惣軍箱館に走ると云う

十月二十六日

本道口の味方も勝利し、終に五稜郭及び函館を得て、皆五稜郭城に操り込みたるに因て、額兵隊、陸軍隊も速に五稜郭へ操り込む可きとの報告がある
是に於いて土方が率いる軍勢、上湯川を発して下湯川に至り(陸軍隊は本道、額兵隊は金堀沢通りの志野里海岸より川を渡りて下湯川に分け入る)民家を探索なさしめるに官軍が兵を挙げるのとき、小銃数十挺を蔵し置きたるを獲たり。而して兵を出さんとするとき、新選組の野村理三郎(故ありて仙台石巻港に於いて合兵した者なり)未た進軍の命出さざるに、獨り己が隊を進めんとす。春日左衛門、之を咎め、汝、号令を待たずして私に先鋒するとは何事ぞ、速に後陣に下がれと云う。理三郎、大に怒って刀を抜き、左衛門に迫りて曰く、鷲ノ木出兵より以来、我兵を見て弱兵と慢り未だ曽て一度も先鋒をなさしめず、是、汝が軍法に私有のものにして、我、自ら先鋒す、これは敢えて軍法を破るに非らず、若し我軍法を破るの罪を糾さば、我も亦、汝が軍法に私あるの罪を糾さんという。左衛門は大に怒り、軍法を破り令に背く罪人を斬って、これを以て衆に示さんと刀を抜き已に事に及ばんとす、是時喇叭の指揮役小泉喜三郎を初め、諸令官左右を宥め、額兵隊を以て先鋒となし、黄昏五稜郭に入る(是の日、榎本釜次郎、松平太郎、回天艦にて函館に来り各国の洋人と応接する、時に報あり、日本の国旗を揚け入港し、又英国の籏を上けて碇泊せる陣艦ありと、人をして応接す、船将は薩藩の田島敬蔵、副将は井上千城、秋田の軍艦にて高尾丸と云う船なり、則ち之を分処して第二回天と号す、後ちに田島、井上等は官軍の手負と共に青森に送る)

十月二十七日

額兵隊二番小隊、川汲より至る、初め此の兵回春丸に乗り長鯨に綱を絶たれ、本船より両日後れて二十三日に鷲ノ木に着し、二十四日鳳凰丸をして川汲に兵糧を運するにより、同船に乗り川汲に着し、直ちに走りて本隊に追い付かんとせしに、其の近傍に敵ありと云うに因り、是に於いて四方に斥候、番兵をなし兵糧を護衛する。両日、敵は悉く退きたるにより、初めて五稜郭に到る