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戊辰箱館戦争録 慶応四年九月十五日〜十月十九日

当サイト内の各日録は複数の史料を参考にして管理人が独自に額兵隊周辺を中心にまとめたものです。主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい。額兵隊のことをご存知の方はお気付きになっていらっしゃると思いますが、当サイト中「戊辰箱館戦争録」に関してのみ、一つの史料をベースに進めています。慶応四年九月十五日→十月二十七日までは「星恂太郎日記」を、それ以降は「蝦夷錦」がベースとなっています

慶応四年

九月十五日 額兵隊、養賢堂→芭蕉ノ辻→長町→中田→増田→岩沼→槻木

黎明、額兵隊仙台を出陣する。出陣前に葦名靱負が「兵を止めよ君命なり」と駆けつけるが恂太郎等はこれを聞かずに出陣を強行した。副長熱海貞爾が出陣に際して祝砲を打ち鳴らした後、隊長星恂太郎の号令で屯所養賢堂を出陣、城下芭蕉ノ辻に至り制札上に額兵隊出陣書(文作は後藤正左衛門)を掲げる。これより相馬口に迫る敵を攻撃せんと南へ進発する。軍楽を奏して行進し長町にて小休止、中田にて朝食。そこへ再度、葦名靱負、松倉良輔が駆けつけて解諭するが恂太郎等は当然聞かず。さらにまた報があり、君公父子が馬を飛して追って来るというので、直ちに兵を進めて増田駅を経て岩沼駅に至り午飯を喫す。
当地にて大夫大町因幡、参政大内主水、恂太郎を旅客に招いて欺き捕縛せんとする。恂太郎は兵隊を鎮撫するとしてこれを免れ、熱海貞爾に謀を示し、大小砲に弾薬を装鎮して戦隊に整列。そこへ主水がやって来て、甘言を以て兵の疲労を慰し、また金五円を出して酒肴を調え、兵に与えて速に帰陣せよと云ったので、恂太郎は偽ってこれを諾した。主水は大に悦んで帰り、恂太郎は屯営を出て数歩のところで大喝一声して行進の令を下し、直ちに関門に迫った。だが衛兵は固く支えて関門を開かず、先鋒の将三橋喜代太郎は大刀を揮い大喝して曰く「出兵急なり強て支るときは汝等か首を切らん」と、衛兵は大に恐れて関門を捨てて逃走した。三橋自らこれを開いて兵を通した。ここで大石源之進は病と称して関内に止まり隊を離脱。総軍は槻木に至って宿陣。駅の前後に大砲を備えて番兵一分隊をしてこれを守備した。深夜、参政笠原中務、大内主水、葦名靱負、松倉良輔等を使として君公の自筆を恂太郎が賜る。曰く「汝等兵を南方に出せしより我久しく病に臥すと雖とも、之を犯し強て汝等の為めに子と共に岩沼城に至る故に貞爾半左衛門(熱海貞爾と菅野半左衛門)と同しく之に来れ」と云う。君命に背くべからずと即ち馬に鞭して共に岩沼城に到るに及んだ。時は十六日黎明。

九月十六日 額兵隊、槻木→岩沼→増田

早天君公に謁する。悉く近臣を退けて大夫参政のみ座に列する。このとき君公、左右を顧みて云く「今般熊本宇和嶋両家の扱により降伏し城外に謹慎しあるの処、不日に官軍府内に来るならん、今汝か所置を見るに官兵来らは必らす我か命に反き、之れと抗せん然るときは降伏謹慎の典を破り、我をして自ら朝敵に陥られしを再ひ擾乱を生するに及はん、今日は汝兵を城北に引ひて我と共に謹慎し固く兵を治め必らす動揺を生せしむること勿れ、我兵隊数多ありと雖とも就中恃むべきは只汝か兵のみ、若し我朝廷より死を賜はるとも汝誓て憾とすること莫し我も亦又一身を殺して以て祖宗以降の社稷を保し、次て万民塗炭の疾苦を救はゝ縦ひ死すとも豈一心に関する所あらんや」と、反覆この言を説きたまう。恂太郎は血涙を払って云く「先に殿中に召さるゝの敵情万分の一も告さす今更に其大綱を奉らん、夫れ彼の説くや初め和を以し次に降伏謝罪を以てし、後には公をして邦境に出軍門に至れと、而して兵を府内に入れ、則ち旧幕を所置するの事に做ふて我藩を所置するものなり、今熊本宇和嶋両家の約する所も皆譎詐たるのみ、他日必らす齟齬せん然るときは藩祖以来の社稷忽ち滅亡し、寸地尺土も有るあらさらん臣只命これ順ふと云と雖とも、斃れずんは已ます寸陰といへとも遅々すべからす速に兵を揚くべし」という。
恂太郎は君前を退き馬に鞭して槻木駅に到り、直ぐに兵を率いて岩沼に帰陣。この時細谷十太夫兵が隊を引率して来護する(君命に反き南方に討出すべきとの嫌疑あるために護衛についたのか?)額兵隊は若君に従して増田駅に退く。恂太郎は長官等六七輩と岩沼駅に止まり後事を謀っていると、榎本泉州、松平太郎より加藤昇太郎を使者として恂太郎に密事を告げて云う「要路の奸臣等官軍と議し子を刺んとす」と、恂太郎もまた予めこれを知る故に宜しく注意して毒手を避けんと答える。又報告あり、若君増田にありて恂太郎を待ちたまうと、参政大越文五郎、松倉良輔と共に来たり、恂太郎を増田に赴くよう促す、故に熱海貞爾、菅野半右衛門と共に増田に到り若君に謁する。すなわち恂太郎に兵隊を潜伏させる地を尋問する。故に松島瑞巌寺然らんと答える。若君曰く瑞巌寺は幕兵すでに屯す、汝か兵は村田に於いて潜伏すべしと命ぜられ、かつ後事を縷々遺言せらる、夜五更(虎の刻)過ぎ、若君増田を出馬せらる。これによって惣軍を整列し捧銃の楽を奏する。我兵ここに宿陣する。是に於いて村長に命じ馬八匹を買い長官に分与する

九月十七日 額兵隊、増田→菅生→村田

雲翳拂暁兵を発する。恂太郎は葦名靱負と共に増田の西に入る。時に鴻鴈群飛して恂太郎が頭上を過ぎる、伍長竹内東虎仰ぎ討って一羽を落とし、馬前に携げ来て出兵の吉兆たるを以て呈すと云う。従者をして之を受ける。菅生に至って午飯を喫す。葦名靱負君公の病を見舞うと云い、ここを去らんとする。恂太郎強いて之を止めるが、葦名靱負、聴かずして終に去る。是時葦名の馬尾に従って脱走するもの百有余名、三橋光種大に怒り兵を率ひて之を追う。脱兵山を越え谷に入り林に伏し卒に擒ふること能わずして帰る。須更(しばらくの間)にして惣軍村田(片平大丞居館)に至り、村長(重三郎)の家を本陣と為し、順次に各隊の宿陣を配置する

九月十八日 額兵隊、村田

新たに法令を出して兵に示す、是の地は柴田郡に属するが故に白鳥明神を以て氏神となし民人挙げて白鳥を尊宗す、故に之を取り次に農家に畜う所の鶏を買うを禁じる。総て民に害をなす者は悉く死刑に処すべしと、是に於いて民の心は大いに定まる

九月十九日 額兵隊、村田

片平大丞の館外にて額兵隊操練する。陸軍隊副長和田傳兵衛、宮内清三郎と共に来る。是に於いて幕兵と力を戮せ、兵を石巻に纒めて官兵を討たんことを議す、和田、宮内等大いに悦び帰る。是より先き、槻木に在る処の弾薬二十七駄を君命なりと云って庫を封じ、小栗大三郎をして之を守備すること甚だ厳なり(恂太郎が、君公の召によって岩沼に至るとき、事甚だ急なり故に、弾薬は隊士六七輩をして守備するに、監察松坂右膳等奸徒に託せられ同駅に潜伏して、恂太郎が去るのを待って後、駅夫司輩と謀り馬を差し止めて荷駄を奪いしものなり)是に於いて弾薬の衛士太田直之進、中村萬橘、矢内貫左衛門等弁を極めて諭すると雖とも固く渡さず、貫左衛門、馬を飛ばし来たり恂太郎に仔細を訴える。故に謀略を示し只庫を守らしむるのみ

九月二十日 額兵隊、村田

男澤又左衛門来たり説得する。又細谷十太夫来たり説く、又梅津貞藏来たり説く、皆聴かず。葦名靱負来たり云く「官軍不日に府内に入る、もし是の地に潜伏しあるを知らば、彼必ず可否を云ん、陣を松山(志田郡)宮床(黒川郡)郷六(宮城郡)の中に転するに如かず」と、恂太郎は宮床に隊を移すを以て諾す。靱負兵ごとに金を手自ら与え、こののち固く隊長の命令を守りて動揺すべからざるの旨を慇懃に教諭する。恂太郎はまた、槻木に於いて松坂右膳に奪われし所の弾薬を渡さずに非ずんば兵を鎮撫すること難しと云う。靱負之を肯す、直ちに岩沼軍議局に至り参政等と議して小栗大三郎に書を遣わし、守る所の弾薬を皆額兵に渡すべきの肯を通達す、恂太郎は荒井宣行を槻木に到らしめ卒に弾薬を得たり

九月二十一日 額兵隊、村田

代官高橋宗助、手塚正左衛門より贈る所の書と弾薬とを齎し来り、恂太郎に魚若干、牛二匹とを贈る。魚を兵に分与し、牛は弾薬の運送に役す

九月二十二日 額兵隊、村田→菅生→志賀→大野田→長町

早天に村田を発し菅生村にて午飯、その後志賀村に至る。宮内清三郎来る。伴って大野田に至り惣軍を止め休す、恂太郎は傍の茶店に入りて休す、時に番兵来り、今駕籠を飛して前を過ぎるものは国賊遠藤文七郎なり、天の与える所、速かに之を討ちたまえと云う、恂太郎云く「否、今彼一人を誅すとも無数の奸徒焉そ殱すことを得んや、必ずしも災害を釀すこと勿れ」と云って之を止める。兵を進めて申の上刻長街駅に着し宿陣。黄昏、陸軍隊長春日左衛門が潜行して来る。共に一室に入り小酌を設け閑談数刻に及ぶ。是時梅津貞藏来たるにより左衛門旅亭に帰る。貞藏は泊す(奸臣等軽挙を恐れ、恂太郎らの所置を窺はしめんか為のものなり)是夜斥候を出し置き急を告げ来らば、茂陵に登り討手を支ふ可きに謀を定め、厳しく巡邏番兵を出して守備する。夜半果して報あり、今軍勢数多廣瀬川の関門に迫る何の故を知らずと、是に於て速かに令を下し戦争の用意をなさしめ、斥候を出して事の実否を窺はしむるに、細谷十太夫兵を率い来たり、額兵隊の軽挙暴動の処置あらば防禦せんがために河北まで来れるなりと云、因って兵を休憩なさしむ

九月二十三日 額兵隊、長町→北目町→芭蕉ノ辻→北山→七北田→熊谷→富谷新町

暁天に兵糧を遣わし行軍の順序を定める。一番に荒井宣行斥候として一小隊を引率し、二番に小荷駄五十匹(大小砲の弾薬を積む)太田貞泰これを司る、三番に網代康実一小隊を撒兵に擺列し小荷駄の前後を警衛する。四番は大砲隊菅野半左衛門これを司る。五番に楽隊遠藤虎吉これの長たり、六番は士官隊二中隊(四小隊をいう)武藤勝作、菱沼誠之丞等これを指揮す、七番則ち隊長星恂太郎と副長熱海貞爾、菅原道守等なり、三橋喜代太郎兵を撒列してこの左右を護衛する。八番は三田村有久後殿す、細谷十太夫兵百余名を率いて小荷駄と砲隊との間にあり、辰の上刻長町を発し前軍北目町に至るに及び惣軍を止める(春日左衛門、和田傳兵衛より、恂太郎を伴て染師町長清水惣左衛門の家にて後事を約するが為なり)而して軍を進め芭蕉ノ辻に至る。老若男女群集人山をなす、午時北山に到り菊田源兵衛の家を本営となす。宮内清三郎来る(是時約に反くの色あり)細谷十太夫、梅津貞藏と別盃し七北田に小憩し熊谷に到り是の時瀬上主膳に逢う、恂太郎、之に府内の形勢を告げて城下に入るを留めるが、彼らは聴かずして去る(のち奸徒のために縛せられ東京に送る、是れ君公の命により長の参謀を本宮に討の罪)富谷新町に宿陣す。夜、芳賀季六郎(恂太郎の門弟)来たり、額兵隊を宮床に移すを怪み其の策を問う、恂太郎は別に策あるにあらず只君命に因って潜伏を為すのみと云う。季六郎大に怒り我先に兵法を先生に受く、師たり弟たり、今国家の大事に望み何そ隔心あるの甚きと云うて刀を抜き強いて策略を聞かんと恂太郎に逼り(季六郎、最乱酔言語首尾前後恰如泥)誤って菅野半左衛門に瘡を負わせる、半左衛門奮然として怒るが、木村長方が酔客を縛して半左衛門を宥めた

九月二十四日 額兵隊、富谷新町→宮床覺照寺

季六郎は酒が醒めると先の非を悔やんで髪を斬って謝ったので、菅野半左衛門はこれを許した。監察渋川助太夫、同駅の旅亭に在って、使者を以て恂太郎を招く。恂太郎は疲労していたが酒肴を出して饗し、国の廟算と自身の所置を問う、また恂太郎は渋川の人たるを知るが故に、彼に国論と策略との大概を示した。助太夫はこれを聞いて大に驚き、潜伏することを謀る。恂太郎は別れを告げ、ただちに兵を率いて宮床(伊達某の居館)覺照寺に入る。砲隊と坑隊を各寺に宿陣(渋川助太夫は瀬上主膳等と秋田口より共に凱陣せしものなり)

九月二十五日 額兵隊、宮床覺照寺

兵を休する。また兵に近隣に入って民家に乱暴することを禁じる令をし、牛を屠って酒を与える

九月二十六日 額兵隊、宮床覺照寺

是より毎夜、兵士脱走して潜伏するものが多い故、如何となれば、官軍府内に入りし以来、奸臣等、時を得て、但木土佐父子、葦名靱負、瀬上主膳、坂英力、大槻平次、新井義右衛門、田邊蘭吉、手塚正左衛門、大石彌左衛門、牧野大勝、小梁川敬治、安田竹之助、福井源助、後藤正左衛門、前嶋清治、高橋兵三郎、男澤精一郎、小國卯兵衛等を始め、総て忠臣義士を捕らえて皆を獄に下す、かの櫻田敬助に投機隊を授けて、不意に宮床に押し寄せ、額兵隊討つべしとの君命、すでに下りしとの風聞区々あり、恂太郎、あえてこれを恐れず、日々、宮床城外の曠原に出て兵を操練し、府内に間者を入れて敵と奸との情実を探索する

九月二十七日 額兵隊、宮床覺照寺

和田傳兵衛来たり、敵情を恂太郎に告げる。館外七凝峯(俗に七森と云う)の麓、大の原に額兵隊を調練し兵に酒を与える。又兵糧の吏に命じて餅五石を搗かしむ

九月二十八日 額兵隊、宮床覺照寺

大雨で車軸を流す、家人々短鈴蓑笠にて雨を犯して宿陣へ来る。恂太郎は、その故を問う、ただ別れを告げんがために来るのみと云う、恂太郎、万謝し、しかして諌めて曰く、奸人等慈子を狙うこと甚し、今や襲い来るも測り知る可からず、共に災害を蒙ってしまうよりは、速に潜伏してほしいと、そこで恂太郎の知行たる穀田村に潜行なさしむ

九月二十九日 額兵隊、宮床覺照寺

大風雨出水にて小橋を流す、大嶌丈輔来たり恂太郎と合兵せんことを望む、元来知己たるを以て直ぐに諾する。因て丈輔、兵を引率して来るとを云って府内に行く(奸徒の探索が厳しく、終に叶わず潜伏すると云う)是時恂太郎が阿母、相原半治を倶して家に蔵する所の戎服及び機械弾薬数駄を齎し来たり、府内の形勢を告げ、汝、誓って国恩を忘れて父母を辱しむるなかれ、速に兵を発して石巻に至り、旧幕の義士と力を合せて尽力せよと、恂太郎、敬服する。時に春日左衛門、和田傳兵衛より報告あり、官軍の塩浦入港が旦夕に迫ると、早く兵を発して石港に来れと、是に於いて熱海貞爾を塩浦に急行させる

九月晦日 額兵隊、宮床覺照寺→富谷→大松澤→田稗村

雨が漸く収まる、塩浦より報告あり、明日、恂太郎が輩を撃たんがために投機隊を宮床に向わせると、速かに石港に走るべしと、是に於いて恂太郎は諸令官を招いて報告の情を説き、明拂暁兵を発すべしと令す、これに対して荒井宣行が云う、兵は神速を尊ぶと、今、奸臣の処置謾る可らず、目前に災い生じればのちに悔いとも及ぶなし、今より直ちに兵を発したまえと、恂太郎は之を然りとなし、速に命令を伝えて先に貯える所の餅を一員毎に一日の料を分与して、西洋二時間(我らの一時なり)にして軍装を全く整えて、黄昏に兵を発し、宮床城外の曠原に於て出兵の祝酒を飲し、行軍を急かしむ、中村實相、松明数百束を為り、各隊に分与し、しかして悪路を犯して一砲車を引き、第一等に富谷に着する、是の時に当たって風雨又至る、是に於いて馬と人夫とを募り大松澤より高城を指して陣を押すに、連日の雨にて川濠水漲隘路泥深くして大砲は車輪を埋め、人馬は脚を没し大風は松明を吹き尽して闇冥咫を弁ぜず、衆みな之に苦しむ、已にして風雨稍止み辛うじて田稗村に到りて休す

十月朔日 額兵隊、田稗村→高城→小野駅

未明、田稗を立って高城駅に至る、時、午に近し、朝飯を喫し小憩して人馬を募り午後兵を出し小野川を過ぎる。小野駅に宿陣、是の時小野川の舟を陸に上けて通路を絶んとす、村民の憂となるを以て之を止め番兵を出して来往を検査する

十月二日 額兵隊、小野駅→矢本→北上河東添村

黎明、細谷十太夫が来て恂太郎が東方に兵を進めるを怪しみ、且つ君命に背き私に兵を動かすことへの罪を責める。恂太郎これに大に怒り、汝は是れ会津追討以来処々の戦に少し功あるを以て忝なくも莫大の俸を賜わり、一方の大将に任せられ、未た幾くならざるに、はや君恩を忘却し、今奸徒に組するか、人面獣心の匹夫、何ぞ忠臣義士の志を知ることを得んや、我は我たり、汝再び我が所置に関すること勿れと、恂太郎は兵を進めて矢本に至り、兵を休せんとするに、荒井宣行が云う、此の処の地形、甚だ宜しからず、暫くも陣を止めるべきの地にあらずと、故に一斉に石巻まで陣を押して休憩の令を伝える。のち恂太郎は馬を飛ばして春日左衛門の旅営に至る、これより先に熱海貞爾がここに至り、左衛門と議して兵を添村に屯すべきを預め定め置きたり、是に於て兵を北上河東添村に移し宿陣なさしむ、是時に当たって府内より投機隊を遣わして恂太郎か輩を探索すること頻なり、故に熱海貞爾(阿部蔦蔵)荒井平之進(橋本左京)姓名を換える、恂太郎もまた梅田帯刀と変名し、新選組の野村理三郎の陣営に潜伏する

十月三日 額兵隊、北上河東添村

参政古田山三郎、松本知之進等、剣客二百余名を率い来たりて恂太郎か輩を刺さんとする、然れども恂太郎ら輩、深く潜伏するを以て求めることを得ず、故に金成善左衛門に命じて、恂太郎ら輩を探索せしめる、善左衛門は偽ってこれを諾し、恂太郎と共に北島に抗せんことを謀る、恂太郎は直ちに此事を榎本泉州に告げる。泉州はこれを諾す、善左衛門は大に悦び、是より恂太郎を説得することを名目として反して大夫参政等を謀る

十月四日 額兵隊、北上河東添村

和田傳兵衛、金成善左衛門、野村理三郎等、額兵の食料として糧米三千石を与えよと云って参政に逼る、参政等これを決せず、細谷十太夫が四方に奔走す

十月五日 額兵隊、北上河東添村

和田傳兵衛、恂太郎と議して赤服を着し、旅陣に「新額兵隊長和田傳兵衛本営」と表札を掲げ、参政監察を初め、奸徒の陣営毎に入りて頻りに激論する、奸徒大に怖れる

十月六日 額兵隊、北上河東添村

和田、金成、野村等、参政武田杢助を弁着して糧米一千五百石、味噌数千貫目を得たり、且つ当港の吏氏家要七(額兵隊の指揮官氏家文太郎の父)船数艘を出して之を積む

十月七日 額兵隊、北上河東添村

恂太郎、左衛門、傳兵衛等と議して一奇策を設ける、奸徒綿々日を追って石港に来るは是れ則ち額兵隊を討たんが為なり、先んずるときは人を制し、遅れるときは彼に制ぜられん、今直ちに川を渡り討って出、奸徒を誅伐せんと、因て各隊に布告するの旨、回章を作りて左衛門に贈る、左衛門は即ち回章を携えて参政の陣営に至りて之を出し、又言をゆゆして新額兵隊及び新選組等、手に唾して額兵隊の川を渡たるを待つ、渡り来たらば忽ちに相応して戦わんとすと、参政古田山三郎、松本知之進等、色を失い狼狽し、兵を率いて矢本に走る、是に於いて恂太郎は春日、和田、野村、相馬主計等と大宴を設け、奸徒を罵るを以て肴とし黄昏に及んだ、日暮れて河東に往く、三橋光種、兵を率いて来たり護衛する

十月八日 額兵隊、北上河東添村

総軍を海岸の台場に整列し初めて蝦夷地に航海することを明らかにする、恂太郎に従って航せんと欲するものは国家を恢復するの機会を得る、然らずば生きて再び国に帰るを欲する勿れ、又別に意あるものは止まって国に尽すべし、往も忠、止るもまた忠ならん、只止る者は機械を出して速かに河西に去るべしと、是に於いて菱沼誠之丞は家兄君側にあるを以て災兄に及ばんを恐れると云って辞する(実は一命の惜きならんが兄君側にあるの語を以て辞するの言、甚だ拙なり)葛西瀧次郎、畑山織之進を初め、器械を奪い去るもの数人、矢内勘左衛門共に脱せんとせしに父源五郎書を以て之を止める、勘左衛門涙を振って分かれる、其他多少の論を立て府内に帰る者が若干、残るもの纔に三百名、是に於いて隊を第一号より四号と定め、外に大砲隊を一隊と定める、時に石港より報告あり、先に矢本に走りたる奸徒、官軍の先鋒となりて梨畑(地名)に至る、是に於いて河西の兵隊巡邏番兵をなす、又斥候を日和山に出し敵の挙動を窺はしめ変により応じたまえと云う、恂太郎もまた河東に兵を備え、牧山の絶頂より峯々山々に悉く篝火を焚き、海岸は皷を打ち角を吹き大に巡邏番兵をなす、夜半に番兵来りて云う、今小舟を以て海岸に来るものありと、太田直之進必ず投機隊ならんと獨り鎗を捻りて躍り出て之を追うが終に得ずして帰る

十月九日 額兵隊、北上河東添村→折の浜

榎本泉州、松平太郎、土方歳三共に来たり、事已に整えり速に陣を折の浜に移すべしと、是に於いて、肝煎清六に命しで舟二艘を雇い兵をして之に乗らしめ川口に至るに及び、熱海、太田等、上陸し兵を撒布し台場に登十二斤砲一門を放解し、其衛兵を説得し附属の機械弾薬を出さしめ之を船に入れ、折の浜に向う、同夜丑の下刻、折の浜に着船

十月十日 額兵隊、折の浜

上陸して兵糧を焚かしめ次に薪水を諸艦に入る、参政武田杢助、監察太田盛、郡代若生文十郎来り榎本泉州に応接す

十月十一日 額兵隊、折の浜

影田泰藏興隆なるもの来たり、額兵隊に加わらんことを請うと、恂太郎、大に怪しみ、興隆なるものは元来友人にして其人たるを知ると雖も、是の機会に当り突然と来る、人心測る可らず、彼も胆大なるものなり、恐らくは刺客ならんかと猶豫して決せず、菅原道守来たり云く、彼は必ず異心あるに非らず故、如何となれば彼しかと云う、我突如として来たり、志を同じくして共に国家の為めに駑鈍の力を尽さんと雖も、衆が我か言葉を信ぜざること必せり、衆の嫌疑が散じる迄は我を船中に入れよとの言を以て之を察すれば必ず怪むに足らずと、是に於いて恂太郎は初めて疑いを散ずる

十月十二日 額兵隊、折の浜→開陽、回天艦に乗船して出帆、蝦夷地箱館へ〜

早天、各五日の糧を提し、第一、第三、第四及び砲隊は開陽艦に乗り込み、金成善左衛門が之を司る、二番小隊は恂太郎が自ら率い、副長及び荒井宣行等と共に回天艦に乗る(松本要人奸徒に家を襲われる時、要人の臣主が代わり屠腹するによって難を逃れて回天艦中にあり)大江艦中刀圭家に乏しきを以て、額兵隊の医師伊東友賢、高橋友安を遣わす、黄昏回天艦、諸艦(開陽・蟠龍・神速・長鯨・大江・鳳凰)に先立ちて折ノ浜を出帆す(諸艦は夜に入りて出帆し南部鍬崎に向かう)

十月十三日

回天艦、朝卯の半刻、気仙沼の湾中大嶋と松ケ崎との間に着船する、則ち端舟にて兵隊悉く気仙沼に上陸し村吏に命して各隊の陣営を配置せしむ(同時に陸軍隊も上陸して春日左衛門、和田傳兵衛と共に我輩の陣営にあり)村内に令して大に薪炭及び水を本船に入れる、荒井、和田、熱海等、代官橋本専治を周旋なせしめ大に物産(生糸・口糸・真綿・干鯨・推茸等)時に松ケ崎台場警衛の隊長矢野清太夫より使者を遣わして曰く、尊艦より兵隊上陸せしにより土民等恐怖して皆山林に走る、何の故に上陸をなすと、答えて云く、薪炭等を得んが為めなりと、然らば薪百駄炭百俵を呈せん願わくば兵隊の上陸を禁じ愚民をして心を安せさせたまえと云う、恂太郎、之を諾して速に此の事を甲賀源吾(回天船将)に告げる、則ち兵隊の上陸を禁じて薪炭を得たり

十月十四日

熱海貞爾を尋ね来るものあり、之に会して往事を談諾して数刻に及ぶ(貞爾、曽て此の港に至り蒸登楼を造る故に貞爾を知る者甚だ多し)其の知己云く、初め尊艦の当港に入るや民人大に恐怖する、其故は当港艮に離れること四五程にして広田湾と云う港あり、六七日以前二艘の和船を追って一艘の賊艦が来たり、彼の和船及び同船に積む所の塩鱒三万尾を奪って後に上陸して広田村の民家に入り猥りに金策する、故に尊艦もまた此の数ならんと衆且嫌疑して大に恐怖せしなりという、是に於いて恂太郎は熱海及び春日、和田、荒井等と議して彼の賊を誅し船を奪わんとする、則ち間者を出して探索なさしむるに未だ広田湾中に碇泊せりと報告す、是時甲賀、矢作等、恂太郎が陣に浴を求めるに会う、故に恂太郎は此の事を談ずる、甲賀、矢作、功を我輩に譲れと直ちに回天に乗して彼の処に至り賊船を得たり(旧幕の船千秋丸なり、我藩に於いて徳川氏より借りて蝦夷地守衛の人数を引き揚げんが為めに蝦夷地に行きしに、人数離散の後に北島に着し空しく帰航し南部鍬ケ崎に碇泊中、彼の和船は水夫等と内港に於いて互に搏突し金の出入ありて鱒を奪わんとせしものなり)是に於いて彼の鱒を千秋丸に積み移すべきを命し、回天艦は直ちに気仙沼に引き返す

十月十五日

早天人員を検査するに十余名欠けたり、三橋、和田(七三郎)自ら探索に出たり、而して総軍は悉く回天艦に乗る、申の上刻気仙沼を発して黄昏広田に着船する

十月十六日

熱海、荒井、春日、和田等、広田に上陸し物産(気仙沼に於いて買う所のものと同物なり)を買う、大凡五千金に過ぎる、是時三橋、和田等、気仙沼より山野を越えて来たり会う、黄昏、兵を乗船して出航する

十月十七日

南部海を航して日暮れて鍬崎に着船する(是より先き開陽・蟠龍・神速・長鯨・大江・鳳凰是の港に入る実に十三日)回天にて燈を上る各艦も又燈を揚げて之に応じる

十月十八日

当港に外国舩二艘碇泊す、米船より「ウェリーイト」(サンドウェッチ、ハワイ国のコンシュール、ゼネラルなり)来たり榎本を説きて布哇国に往かしめんとす、榎本聴かず、是時一艘の外国船、南部藩両三人を乗せ函館に往けり(此の南部藩は君命によりて脱艦の所置を函館に報告せしものなり)当港に於いて薪水兵糧の手当十分整えり、額兵隊の大砲隊の士官横尾啓之進、蜂谷清助、漆山隼人之助、奈良坂道三郎、岸浪謙八郎等脱走する

十月十九日

恂太郎自ら人員を検査するに惣人員二百五十六名に及ぶ、而して惣軍各艦に乗り込みたり、第一、第三、第四、及び大砲隊は開陽に乗り、恂太郎が自ら之を指揮する、第二小隊は熱海、荒井、三橋等之を令して千秋に乗船、早天より蒸気を焚き、開陽は鳳凰を曵き、長鯨は千秋を引き、蟠龍・神速・大江・回天艦は同時に鍬ケ崎を出帆する