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戊辰箱館戦争録 慶応四年十月二十八日〜十一月十五日
当サイト内の各日録は複数の史料を参考にして管理人が独自に額兵隊周辺を中心にまとめたものです。主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい。額兵隊のことをご存知の方はお気付きになっていらっしゃると思いますが、当サイト中「戊辰箱館戦争録」に関してのみ、一つの史料をベースに進めています。慶応四年九月十五日→十月二十七日までは「星恂太郎日記」を、それ以降は「蝦夷錦」がベースとなっています
慶応四年
十月二十八日
松前攻略の軍、五稜郭を出発。総督土方歳三。仏人教師「ブヒヘー」と「カヅノフ」、先鋒に彰義隊、後陣に額兵隊と陸軍隊、砲兵隊、総勢五百余人、これに応援として衝鋒隊二百余人も同行
十一月一日
知内へ進行。この駅より松前氏の封領内にて、福島駅までの行程は七里、道は甚だ嶮難、その途中に一ノ渡と云う峰があり、松前兵が来たりて陣するとの由、報告がある。よって彰義隊と額兵隊は萩去と云う地まで進軍、土方歳三は陸軍隊と共に知内に宿陣
※補足として2002年度河出書房新社刊「土方歳三」掲載<箱館戦争を追って>より以下を抜粋
「脱走軍が五稜郭入城を果たした同日、箱館の運上所に江戸から帰着した松前藩士櫻井恕三郎等三人が出頭しており、彼らが脱走軍の講和の使者として松前に向かうことになった。出頭した松前藩士と面会に及んだのが土方歳三で、松前藩士と土方の会談は二十五日から二十八日の間、数回行われている。土方が後軍にいたのはこの為で、彼は松前藩の脱走軍への敵対行動を強く詰問するなど高圧的な態度で会談に臨んだ。松前側は脱走軍の追求をどうにか交わして、帰藩して藩の首脳部との講和協議を理由に、土方から十一月十日まで出兵停止の約束を取り付けた。実のところ松前藩には脱走軍との講和の意志はなく青森の官軍に増援を依頼する時間稼ぎであったのだが、ともかくこの時点では十一月十日までは双方交戦に及ばないはずであった。ところが松前藩と土方軍の戦端はひょんなことから勃発する。十一月一日、松前の状況探索のため箱館を出帆した脱走軍の蟠龍艦が松前沖に接近、砲撃に及んだのである。「松前城下湾に来たりて形勢を窺うにいたって寂寞たり、しかし坂の中央には「アツシ(アイヌの衣装)」を着たる人一ヶ所に集まり、また海岸の市中蔵倉の間なる壁に数ヶ所大砲を備え後ろ鉢巻したる人物の居るを見る。よって試みに右蔵倉の間を目掛けて一の破裂弾を放射せしに、たちまち彼よりは台場そのほか八ヶ所より我艦目掛けて打ち出す」と蟠龍の乗組員が記録している。蟠龍の砲撃で松前藩が土方軍は約束を反故にしたと思ったのは言うまでもなく、この日の夜半、知内の土方軍に夜襲をかけた」
知内にて萩去の先鋒へ送り出すべき兵糧を周旋しようとしていたところ、その夜初更に至って、村の中より火を放つものがあり、陸軍隊の陣営近くで小銃の音が聞こえ、海岸の方からは「大隊進め」との号令にて敵勢が進み来た。春日左衛門は直ちに令を下して喇叭を吹かせ、当方の軍兵は鞋も解かずに油断なく守備についていたので、即時に本陣に整列して、敵に向って小銃を放った。額兵隊の網代清四郎、澤木武治は、兵士四、五人と共に此の駅に止まり、兵糧焚出しの周旋をしていた所に、小銃を放つやいなや、扉を蹴破り槍を持って突入する者が二人あり、砲卒の喜三郎、側にあった短刀を抜いて是に向かう処を、下腹五寸ばかり突き通される、即ちに持ちたる短刀を敵に投げ付け、腹に立ちたる槍を抜き取り、敵に向かって突き掛れば、敵も支えることあたわず逃げ出す、是を追わんとする処を残る一人に又三寸ばかり脇下を突かれども、喜三郎は事ともせずに槍を払って突き掛かれば、敵は堪えたかと思われた所へ、網代と澤木ら、刀を抜いて切って出ず、是によって敵は直に逃げ退く、喜三郎は深傷を受けたものの、後に治療を加えて全快せしも不養にして再び瘡が破れて死す。此夜は西風が烈しく、火は倍々と盛んになり、敵は風下より攻め入りしことなれば、その火煙にむせび意の如くにならず、我が兵は天の助けと連発数十回なり、よって敵の戦死は四人、傷者数多く出て、敗走して脇元に引き退く、我が軍は地理を知らず、殊に夜中のことなれば遠くまで是を追わず、兵を収めて死傷を検するに、額兵隊砲卒喜三郎、陸軍隊兵士一人、傷を受けるのみなり、又、火を防がしめて民屋を救う。此時、星恂太郎は萩去に居て、知内の火を見て、敵が知内の我が後軍へ夜撃をかけたことを計りとり、速やかに行って是を救えとて、三橋光種に一小隊を応援として向かわせた
この日、太田貞泰と中村實相、荒井左馬介は木古内へ宿陣しており、知内に火が上がるを見て、村中が動揺して知内にて戦争が始まれり、必ず此の村にも放火があらんと、家財雑具を持ち運ぶ者すくなからず、荒井は直ちに裁判役の宿陣に行き、共に議して泉沢に宿陣する衝鋒隊へ応援を乞い、かつ海岸所々に大篝をもって虚勢を張り、民の動揺を静めた
十一月二日
春日左衛門、陸軍隊一小隊、額兵隊応援一小隊を率いて脇本へ到る。敵福島へ引き揚げし後なれば福島に向かう
萩去の先鋒彰義隊と額兵隊、一ノ渡に進む。敵は山上に大砲を備えたりしが一つも放たず、大砲二門を捨てて逃げ去りたり。彰義隊は一ノ渡にして兵糧を用意せしが、額兵隊隊長星恂太郎は兵を率いて先頭に進む、彰義隊長澁澤誠一郎は是を支え、先鋒の我が隊が進まざるに、何故に先に兵を進めるか、此の処に於いて兵糧を喫し、しかる後に兵を出せと云う、星恂太郎、是を聞いて額兵隊の兵糧は、昨夜、知内の夜撃にて悉く焼失せり、よって速に福島に向いて敵を追い払い、その兵糧を奪って兵を養う策なりと云って先頭に進み、四十八川の難所を越えて福島に向った。澁澤も額兵隊に先んじられるのを恐れ、既に食わんとしたる兵糧も食せずして、兵を進めて駆け出せり。敵は福島より一里程前へ兵を出し、胸壁を搆えて防ぎけるを、星恂太郎は一鼓して討ち破る。此時、遠藤良治清景が敵一人を切る、則ち是を一番首と称する。これより彰義隊と額兵隊は一緒になり、直ちに福島に向かいたり、敵は法界寺を本陣として、寺内、山上、処々に胸壁を築き、大砲を掛けて小銃を散兵に備え、木蔭より頻りに打ち出して防備する。我が軍、是を事ともせず、小銃を散兵に打ち掛け、本道正面よりは彰義隊、額兵隊は二手に別れて、街口の裏道を左右より襲い、敵の陣せし法界寺に火を放ってこれを攻める。敵は大いに敗走し、先を争い逃れ退く、白布、宮ノ歌、吉岡等の民屋へ火を放って松前に引き退く、此時、彰義隊の甘利徳太郎、独身諸軍にさき立ち戦いし所へ、同隊大久保久之助が駆け来たる。敵の戦死十余人、傷者数を知らず、我が兵の彰義隊毛利秀吉戦死する。傷者は四人なり、此の近辺を悉く兵を出して探らしむれば、山路千喜治ら敵四人を捕え来たる、ほかは悉く逃げ去りたり、これにより各隊は兵を収め、用心堅固に宿陣せり。星恂太郎は兵士を集め、酒肴を与えて勝利を祝す、今夜は敵、必ず襲い来るの憂はなかるべし、何れも快く休め、敵が駅々に火を放ちて去りしは、追手を恐れ道を絶しものなり、疑うことなかれと云って休憩せり
既に福島を攻め落とし、此の処にして生け捕りたる松前藩の軍士を許して又和議を謀らしんと雖も、松前にては更に之を容れず、志摩守は生来病身にして軍事に携わること能はず、これにより松前より二十里奥原沙布と云う処の新城に移り、福山城は蛎崎民部を総大将と定め、一千余人にて守城し、城外所々に砲台を築き、防禦の備え厳重なり
十一月五日
我が軍は福山城を攻撃せんと暁天に福島を出、先鋒彰義隊、二陣陸軍隊、後殿は額兵隊なり、吉岡山上に至って敵の備あらんことを計り新古両道より兵を進めるの処、ただ陣屋を焼き捨てたる篝火のみにて敵一人もなく引き退きたり、是より福山へは二里半の道程なれば、只一撃と進みたり
時に海軍回天艦は甲賀源吾を船将として、矢作平三郎を始め士官五十余人、蟠龍艦は松岡磐吉を船将として、松平時之輔等其勢三十余人、払暁より福山海へ迫り、港内に入り大砲を放ちたり、陸軍の将士、是を見て海軍は既に迫りたり、速かに進んで一同に攻めよと、既に城下に到らんとする時、根森と云う処の台場より頻りに大砲を打ち出すを事ともせずに駆け行ければ、根森を引き退き及部川を隔てて防戦する、既に先鋒及部川を渡り城下に逼る、此時陸軍隊、額兵隊も二道に分れて城に向かう、然るに回天より打ちたる弾丸、民屋に入って破裂して火燃える、又額兵隊砲長菅野半左衛門、法華寺の高台より城中へ放つ弾丸、城中にあたって破裂し、積み重ねたる藁秣に火が移り、城内にも火が燃え上がる、敵兵拒く能はず、城下処々に火を放ち、江差を目指して落ち行きたり、我が兵処々より城内に攻め入り、即ちに日の丸の旗を楼上に立てたり、街巷の火は倍々盛んになり、老弱男女、山野に逃れ迷いければ、我が軍是を防がしめ、城下の出入口を厳重に堅めたり、額兵隊は城北の神明社に兵を聚め、民の動揺を防がしめ、其の日暮、松前右京なる者の家に入って宿陣し、市内鎮撫を司る、陸軍隊は法華寺に宿陣せり、土方歳三は彰義隊と衝鋒隊を率いて城を守る、此日、敵を殺す二十余人、生け捕り五人、傷者数を知らず、我が陸軍隊頭取設楽半輔を始め戦死七人、傷者十余人なり、額兵隊は幸にも死傷一人もなし、敵の武器を取ること大砲三十六門、刀剣馬具の類は勝て算るに暇なし、民家の焼失千九百八十屋、同十日に至るまで、総軍爰に在り、仮の裁判局を立て、大鳥圭介が仮総督たり、これにより市中漸く静謐せり
此時、網代清四郎及び兵士幸七、松前藩久下琢巳、湯嶋甚左衛門を伴って来る、星恂太郎は乃ちに城中に携行して土方に会する、土方曰く、我軍松前氏に恨なきこと皆人知る所なり、依って初め櫻井恕三郎をして和を結ばんと欲す、松前人は是を拒み、知内を夜撃し、かつ福島等に兵を出すに依って、やむを得ずに攻めて終に此城を得たり、片時も爰を守るを快とせず、故に我又兵を進めて江差に向はんとす、汝等我と共に江差に行き、我の和を勧むるを述べよ、汝か主果して和を欲せば、我また兵を引て函館に帰り、此城を爾か主に与えん、両人、命を受け退き発するに到るまで星恂太郎の営に置く
十一月十一日
福山城を発し江差へ向かう、先鋒額兵隊、其の次に衝鋒隊、彰義隊都合其勢五百余人、土方歳三が総督たり、仏人「ブヒヘー」「カヅノフ」両人教師たり、時に彰義隊長澁澤誠一郎云々有りて隊を分かち、頭取菅沼三五郎、池田大隅を奉じて百四十余人出張せり、又澁澤が腹心の者八十余人、自ら彰義隊と号して松前に残る、各隊其日は根札に宿す
十一月十二日
江良町
十一月十三日
先鋒原口に進む、此日額兵隊の士、敵の間者に食物に毒を加えるを知らず、之を食うや否、指図役三田村徳太郎を始め十余人、悉く苦しんで食物を吐けり、軍監金成善左衛門、此の家の男女を捕えて是を糾明す、彼らは何事も知らずと答える、依って其食物[蛸の酢味噌合]を家内の男女に食はしめるに、皆一同苦しんで之を吐く、依って又糾明に及びしかば、宿主暫く考えて曰く、君等と一同下僕来りて兵糧を周旋したる人有り、須臾にして行方を不知、定めて彼者の所為ならんと云う、これにより四方へ兵士を走らしめて尋ねると雖も其の行方を失せり、是れ敵の間者、我が兵の此の駅に入る時、駅夫と偽り爰に来たり、是を計り去りしならんと、乃ち各隊に令して人員を改む、此時、隊長星恂太郎は江良町に宿陣せしかば、金成は兵を走らせ是に報告せり、恂太郎は驚いて直ぐに医官伊東友賢を走らしめ是を看護せしむ、伊東曰く、是、砒石を入れて食わしめると見えたり、悉く吐かしめて其毒を払えば、須臾にして治せんと云って薬を服せしめるに、翌朝に到って各人平癒する
此日、星恂太郎福山より伴い来りし久下、湯嶋をして大瀧[小沙子と石崎の間の敵の陣所]に到らしむ、松前の兵二百余人、此の陣屋にして防禦せり、両人は大瀧に到って和睦の論ありとて軍監今井典膳、蛎崎某両人を星恂太郎の本陣に伴い来る、両人曰く、是れより厚沙布へ到り、主を諌めて和を計り、三日にして必ず答えん、足下は兵を此処に止めて是を待てと云う、恂太郎曰く、三日を約して兵を止めることを許すと雖も、足下等、大瀧の要害に於いて我と対陣するに於いては待つこと能はず、兵を石崎に退いて日を約するにあらずんば、暫時も我が兵を止め難しと云う、両人又曰く、我輩君命を奉じて守る地を、私に一歩も退くこと能はず、本陣に帰り、衆議の上で明朝答えんと、恂太郎又曰く、明朝我兵を出して大瀧に向うべし、其時同処の陣を退けずんば直に戦争に及ばん、速に行って国家の無事を謀れと云う、両人これを諾して大瀧に帰れり
十一月十四日
先鋒星恂太郎、兵を進めて大瀧に到る、敵、是を見て頻りに大砲を放つ、これにより我軍も止むを得ず砲兵隊を先に進め、四斤二門はんと一門を放つ、又小銃は散兵にして沢を隔てて戦いたり、此の大瀧と云う処は小紗子より一里程にて、左は海、右は高山なり、我が兵の進みし所より敵の陣する所に到るまで直経六百歩に過ぎず、然れども深沢九折の嶮難にして、是を越えて攻めること難し、よって星恂太郎、菅原道守に命じて、士官一小隊をして右手の沢より高山に登らしめ、敵を目下に見下して襲うべしと云う、道守即ちに道なき嶮山を渡り、既に彼の山に登り、銃を攅めて放ちければ、敵は大いに仰天し、拒くこと能はずして逃げ去る、今井典膳等是を制止すと雖も、防がんとする者一人もなく、悉く陣を捨て江差に引き退く、星恂太郎、是を見て山上の兵既に敵陣に逼れり、力を合せて攻撃すべしと、沢を越えて敵陣に攻め入る、此時道守は一挙に敵を追い退け、一番に陣屋を攻めとり、大砲三門を得たり、敵死者五人、傷者数を知らず、額兵隊の兵士源右衛門なる者、弾丸左の股より陰嚢を抜き、又右の股を貫かれ、一丸にして六ケ所に疵を受ける、深傷なれば命危うしと思う処、療養して後に治癒す、死傷一人もなし、此時敵両人海岸へ逃げ行く処を、堀口武泰の隊士小太郎と云う者一人を撃ち留めたり、残る一人は何方へ逃げ去りけるか其の行方を失う、此の夜各隊石崎に進んで宿陣する、始め大瀧へ使いしたりし湯嶋甚左衛門、縛せられ此の処に在りしが、我兵俄に進軍せしにより、番兵是を捨て逃げ去れり、よって星恂太郎即ち湯嶋を助ける
十一月十五日
江差に向かわんとせしに、衝鋒隊長永井蠖伸齋、星恂太郎に謂て曰く、今日我軍江差に入る、願わくば我に先鋒を遜れ、足下は五稜郭を出しより以来、処々の戦場に功を立て、殊に昨日大瀧にて大功を立てたり、我兵始終後陣して未だ功を顕わさず、今日江差落去に至っては、兵に功を立てさすべき期なし、足下是を察して我に許せと云う、星恂太郎曰く、足下の言誠に感ずるに堪えたり、然れども総督の指揮に非んには遜ること能はずと云って、土方歳三に此の事を問う、土方是を聞きて互に士情を以て遜り遜らるるに於ては其意に任ずべしと云う、これにより衝鋒隊は先鋒として江差に向かう、此日早天、海軍江差に向かって大砲を打ち掛けしかば、海軍防禦すること能はずして敵は戦わずして熊石へ引き退く、これにより陸軍の各隊江差に入り、処々に兵隊を屯して民の動揺を鎮撫せり
此時総督榎本釜次郎は海軍を帥い、開陽・回天・神速三艘にて江差へ渡りしが、連日狂風に逢い、激浪の為闇礁に触れて開陽艦沈没し、又神速艦も吹き倒される[両艦乗込人数死傷なく上陸]回天艦も既に危うきを免れ、凌いで函館に帰る、嗚呼嘆ずべきは開陽艦なり、去る壬戌の歳、榎本釜次郎等台命和蘭国に到り「トルトレク」に於いて新たに製造せし四百馬力「ヘトロツケン」二十六挺を備える、軍艦にして六ケ年を経、丁卯の年成功して日本に回航せり、大阪港・兵庫に廻り、戊辰の春正月伏見淀の事件により、摂海に於いて薩の軍艦春日丸等を追いて阿州の洋に戦い、終に一艘を打ち沈める、又春日艦も弾を請け叶わざるを知って自国に帰る、後品海に浮んで威を逞うし、今蝦夷地に数艦の長として渡海し、実に皇国無双の戦艦なりしが、今変風の為に破る、是れ天吾輩を亡すか、非か