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戊辰箱館戦争録 慶応四年十一月十九日〜
当サイト内の各日録は複数の史料を参考にして管理人が独自に額兵隊周辺を中心にまとめたものです。主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい。額兵隊のことをご存知の方はお気付きになっていらっしゃると思いますが、当サイト中「戊辰箱館戦争録」に関してのみ、一つの史料をベースに進めています。慶応四年九月十五日→十月二十七日までは「星恂太郎日記」を、それ以降は「蝦夷錦」がベースとなっています
慶応四年
十一月十九日
江差を進発して熊石に向かう、又厚沙布へ応援として彰義隊向かいたり、此時松前志摩守は和船三艘にて三百余人、同二十一日熊石を出帆して津軽を差して落ち行きたり、海上狂風にして船既に覆らんとす、津軽より助船を出して是を救う、漸くして三厩に渡り、四五日を経て志摩守病死せしと云う、これにより熊石に残りし松前藩四百余人悉く降伏せり、此時厚沙布より進撃の一聯隊も、本道の軍と一所になる、降兵をば額兵隊是を警護する
十一月二十四日
江差に引き揚げたり、これにより三日間兵の労を休め、一聯隊をして江差の警衛を司らしめて各隊は松前に移す
十一月二十七日
額兵隊、降伏人を引いて江差を発する、降伏人へ松前法華寺にて謹慎を命じ、菅原道守が一小隊にて是を護る、星恂太郎等は悉く城に入って兵の労を休め、降伏人を悉く糾明するに津軽に入って君と死生を共にせんことを願うもの二百余人、悉くこれを許して津軽に送る、また農商に成りて身を保たんと云う者百有余人、是を許して其業を営ましめ、また我が軍に入って共に尽力せんことを願うもの五十余人、悉く望みに任せ、是を呼んで護衛隊と云う、同隊をして松前市中を守る、また榎本釜次郎は江差福山を静謐せしめ、五稜郭に遷る
これより先、大野、七重村等の戦争に疵を蒙りし者十余名を捕虜とし、函館病院にて厚く療養を加えて、重傷にて死せし者は寺院に葬り、残る五名[長州並びに福山の藩なり]悉く平癒せしにより津軽へ送る、かつ秋田・津軽等へ檄文を送り、我輩天朝の命を待んが為に、仮に蝦夷地に身を避ける処、清水谷侍従、是を許さずして戦争に及び、はからずも五稜郭を得て是を守るところ、松前氏是を拒み兵を出して攻撃する、よって、いささかの遺恨なしと雖も、止むを得ず戦争に及び、終に松前城をも得たり、これにより仮に全島を守る、貴国に対していささかも恨なし、必ず動揺して兵を起こす事なかれ、然れども軍兵を向けられるに於いては、無拠戦争に及ばん、相互に意恨なければ、誤って軍隊を出し兵を傷つけることなかれと云い送る
十二月十二日
額兵隊は福山静謐に及び、同地を発して函館に向かう
十二月十五日
函館全島平定を賀して軍艦並砲台にて百一発の祝砲あり、ここにおいて各国「コンシュル」及び港内碇泊の軍艦船将と榎本の応接あり、函館交易、其他の諸件、是までの通りになし、我等の所置定めての後、定約を成すを議する
額兵隊はこの日有川に至る、此時榎本の使が来たり、兵を大野に遷して彼の地を守るべきとの報あり、よって額兵隊は大野に向かう
十二月二十二日
額兵隊は大野にて越年、この時、星恂太郎、令を下して民を撫育し、又兵隊の規法を定める、其文に曰く
額兵隊法令
夫れ吾人の将に仙台府を脱走せんとするや否や、各誓言相結び、異性殊族と雖も、其交情は必らず骨肉兄弟の如く、将に以て其心を一にして衆力を協合し、無前の鯨賊を剪鋤し、簫牆の奸酋を誅戮し、仰ては速に君冤を雪きて其本意を明し奉り、以て社稷の殆んど傾覆するを興復し、俯しては臣庶声を呑み涙を呑むの憤怨を散して大義を宇内に伸し以て天地鬼神を震撼せんと欲するものなり、此旨意前日布告する処毎三既に悉くせり、然るに或は未だ其の義を貫徹せず、懶惰一日の安きを偸み、長官を悔り蔑するもの、其の間にあること蓋し尠からず、夫れ既に此のごとし、今にして厳に是を制せずんば其弊未た底止する処を知らず、焉んぞ同盟に義を唱ふるの一大事を破壊せざるを保たんや、是れ勢理の必然たる処のものなり、故に今又重て其犯し易きもの数條を敷令す、各各当さに深く是を肝に銘し、厚く是を身に体し、必す之を遵奉し、精力を尽して烈士の勇を振ひ、たヾ君冤を雪ぎ奉りて宗社を恢復し、是を盤石の如く堅くして、泰山の如く安き処に置くの鴻業のみ、死生を不顧して実に之を以てすべきものなり
一、私憤を以て相争ふ事を禁ず、之を犯す者は法に処す、若し或は人を殺傷するに於ては其罪尤も軽からす、止む事を得ざるものあらば、各是を其隊の役人に告げて是れが裁判を請ふべし
一、小隊令官たるものは、其の隊の小頭以下へ鞭撻を加へ、又是に謹慎を命するの権を許与す、若し不公平の所置の有るに於ては、必らず其罪を悄譲す
一、人員改の時、号令を発する時は、速に是れに応じ、本営の前に隊伍をなすべし、隊伍「ミニート」を限る、闕名の者は勿論遅刻の者罰則あり
一、各小隊一日一人、已むことを得ずんば外出を許す、但し事情を当番の役人に告げ、許を受け後に出づ、帰る時も又是れに面すべし、若し帰期遷延するものは罰則其遅速に随ふ
一、練兵の時疾を称する者は是を罰す、但し疾病ある者は其時々医局より是を本営当番の役人に告ぐべし、時に臨んで告るは其疾に緩急の不同ありと雖も越度たるべし
一、各小隊毎月一日出遊して宴飯することを許す、其法は一日一小隊を限る、又是を半隊若くは分隊に分けて令官及び半隊令官其他官員各是に付添へ、決して兵士に醜態なる挙動をなさしむべからず、尤も隊伍を脱離し、一人の遊をなすは痛禁なり、其詳なるは時に臨んで口示す
一、市中民屋に入て鶏牛を窃盗し屠るものは勿論兵威を以て商売を劫かし、物価を賤しめ、強て其売る事を欲せざるを買ふもの、其罪民屋を狼藉するの罪に準す
一、曽て兵隊の恥辱を顧みず、独り己の欲を恣にし、遊宴の楽みに耽り、金を借り財を乞ひ、醜態を世に顕すものは斬て以て徇ふ、且つ其金財は其隊の給金を以て是を償ふべし、尤もこれは令官たるもの制導不届の致す處なり
以上
この如く令を出して非常を戒め、民の害を除く、額兵隊は折ノ浜を出る時、人員二百五十名有りしが、南部鍬ケ崎滞泊の時、大砲方士官横尾啓之進・八谷静介・淺田隼人之助・奈良坂道三郎・岸並謙八郎都合五人、義に背いて器械を奪って脱走せり、又蝦夷に渡るや否、函館等に潜伏したる同藩の士、河田春治・笠原彌二郎・猪股重兵衛・加藤権二郎等来りて同盟し、かつ農商にして兵を望み来り加る者十餘人、是等を合して四小隊に分かち、日毎に調練を慢ることなく、大野にて越年せり