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戊辰箱館戦争録 明治二年四月九日〜  

当サイト内の各日録は複数の史料を参考にして管理人が独自に額兵隊周辺を中心にまとめたものです。主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい。額兵隊のことをご存知の方はお気付きになっていらっしゃると思いますが、当サイト中「戊辰箱館戦争録」に関してのみ、一つの史料をベースに進めています。慶応四年九月十五日→十月二十七日までは「星恂太郎日記」を、それ以降は「蝦夷錦」がベースとなっています

明治二年四月九日、官軍が乙部に上陸。江差追撃の時、厚沙布口へ一千五百余人向かいしが同処より二手に分れて、二俣口へ七百余人、木古内口へ七百余人、両道に進撃。先に木古内に向かいたる軍勢には先鋒に松前藩、引き続いて長州・薩州・津軽・徳山をはじめとし、一文字に山道の嶮難を凌ぎ軍を進めた

四月十日

我が軍、木古内より二里程山奥に至って野陣を張る。此手を固めたる輩には彰義隊池田大隅の兵一小隊にて護り居たりしが、同夜八ツ時、官軍の斥候十余人が忍び来たり、彰義隊の番兵の処へ斬り入る、兵士六人で守り居りしが、怠って睡眠せし者三人討たれたり、残兵が逃れ来たりて本陣に告ぐ、ただちに兵を整列して四方を探索せしかども、敵は速やかに引き退きてその行方を知らず、これにより間道から敵が来たる事を知り、早馬を以て五稜郭へ報告して援兵を乞う、陸軍奉行大鳥圭介・伝習隊総督本多幸七郎・教師「ブラヂール」・伝習隊一小隊額兵隊一小隊を引きいて木古内に進む

四月十二日

大鳥圭介自ら額兵隊、伝習隊を引きいて間道口へ進み、敵の屯を斥候せんと進出す、然るに木古内より一里程山奥に一軒家と云う処あり、敵は此所より小銃を打ち出す、我が兵も撒兵に備えて暫く攻め合いしが、敵は大勢、我が兵は小勢にして続く応援もあらざれば、始終勝利の目的なきが故に引き退く、喇叭にて兵を収めて引きたり、我が軍の傷者、伝習隊頭取・手代塚靱負、額兵隊差図役・遠藤良次、同士官・本多子之吉、大宮清吉を始め都合七人なり、此時額兵隊長星恂太郎は、有川を本陣として固め居りしが、木古内小勢にて防戦甚だ危からんと一小隊を帥い、応援として木古内に到る、大鳥圭介自ら兵を帥いて敵陣に向かいたる由なり、星恂太郎はこれを聞き、敵は大勢、殊に嶮を取って戦をなさん、大鳥の小勢甚だ危うしと云いて直ちに間道に進む、夕陽に至って大鳥は兵を収めて引き来る、これにより共に兵を収めて木古内に引きたり

四月十三日

未明、間道口の彰義隊の番兵走り来たり、敵、既に近く攻め来れり、早く兵を出して防ぐべしと報告せり、これにより額兵隊、伝習隊、俄に兵を整列し、直ちに出でて山上処々の胸壁を固め、何れも撒兵に備えたり、此日、朝霞深くして咫尺を分からず、敵の音声にしたがって小銃を放ちたり、敵もまた味方の砲声にしたがって小銃を放ちたり、敵も又、味方の砲声に応じて方角を探り、互に暫く戦いけり、又彰義隊は山上に備えたる大砲をしきりに放って防戦す、然るに敵近く攻め来り、既に人影見えければ、時分はよしと星恂太郎、三橋光種、今野秀實をして引き来れる山用忽砲霰弾をしきりに放ちしむるに、群れ来たれる敵軍なれば、是に中りて倒れる者、数を知らず、終に官軍は此手より敗走に及び、山奥指して引き退きたり、我が軍は小銃を放ちながら跡を追う、時に敵五人踏み止まり、後殿して防戦する、額兵隊嚮導役・杉山豊三郎刀を抜き、勇を振って切り入り、敵両人を切り倒す、残る三人は是を見て逃げ去りければ、杉山は両人の携えたる小銃二挺を奪いたり、大鳥は四方に令を下し、霞を犯して深山に追い行く者、敵の謀に陥らんと速に兵を退かしむ、此日、敵級を得る二十余人、傷者数を知らず、我が兵の戦死、額兵隊籏役・高橋丈之輔一人なり、傷者は同隊の兵士又吉のみ、そのほか死傷なし、大鳥圭介は勝軍を祝し、今日の戦功、額兵隊大砲方・今野秀實、三橋光種が第一等、次に杉山豊三郎なりとて是を賞して金を与える

此の先、十一日の戦争にて兵を退く時、額兵隊の喇叭手・煤孫金次深入りして敵に囲まれ、進退の道を失い、深沢に入って身を忍び、此夜木古内に帰る、星恂太郎、その所以を問う、煤孫、答えて云う、それがし甚だ敵陣に近付き、進退途を失って深沢に入り、蕗の生茂りたる中に潜伏して、その難を免れたり、然れども敵陣近ければ彼の沢より出ることあたわず、昼夜潜伏せしが、今日敵兵を出して我が陣を襲わんとす、是れを知れとも報告する事あたわず、なおも潜伏して敵の怪みを避ける処、幸いに敵が敗走せり、其処に乗じて遁れ来れりと云う、星恂太郎聞きて、汝は幼少なれば共に退く事あたわず、必定、敵の擒と成りしと思いしに幸いにも帰れりと大に悦び、乃ち飲食を与えて其勢を補わしむ

四月十四日

仙台藩二関源治照忠なる者、見国隊四百人を帥い、英船「エーレンブラック」に乗り、東海沙原に来る、此の所を守りし衝鋒隊、是を怪しんで台場より此船へ大砲を放ちたり、これにより英船のカビテン小船を下して是に乗じ、旗を振るうて陸に向かい、仙台の脱兵応援に来れりと報じ、各此の地に上陸し、衝鋒隊より五稜郭に報告し、総督よりの命に依り、二関照忠此の処にて兵を二つに分け、二百人を「モロラン」に指し向けて彼の地を守らしめ、残る兵は森大野に止め置き、照忠は横尾治兵衛精成・福岡猛信友・佐藤雄・仏人「ガリーネ」と共に有川に来て星恂太郎を訪う、此の時星恂太郎は木古内に陣する、有川は一小隊をして菅原隼太道守及び荒井左馬介宣行が守り居たり、荒井宣行は照忠等四人を誘導し、五稜郭に到りて総督に謁せしむ、其時二関照忠榎本の令を請い、兵隊を有川・函館に移して宿陣せしめ、二関照忠は単騎にて木古内へ

是より我が兵は日々、間道口、山中へ探索を入れ、かつ大木を倒し、岩石を崩して道路を塞ぎ、敵の屯になるを拒んで一軒家を放火し、防禦の術は厳重なり、此時、松前より我が軍の敗兵福島に集りけるが、木古内を敵に敗られなば、我輩中途に在って前後の敵を防ぎ難しと、同処警衛の会遊撃隊も一同退きて防禦の術を巡らし、まず一ノ渡り峰上の胸壁へは会遊撃隊、神木隊、知内には彰義隊、陸軍隊、砲兵隊が屯して本道口の防禦、且は木古内の応援に備えたり、遊撃隊、一聯隊は札苅と泉沢に引き移って宿陣し、木古内・矢不来両処の応援に備える、此時、東海の森・鷲ノ木を固めたる衝鋒隊応援として来たり、当別に宿陣す、また矢不来の間道より敵の来たらんことを慮り、木古内より本多幸七郎が伝習隊を引きいて茂辺地に移りここを固める、木古内宿陣の彰義隊は松前より退き来たる本隊に加わらん事を願って知内に到て合兵する、これにより木古内は額兵隊ばかりにては保ち難く、札苅・泉沢に在る処の遊撃隊、一聯隊を進むべき旨、大鳥圭介より令を下す、これにより遊撃隊は速かに木古内に兵を遷す、一聯隊の出兵が延引なるが故に、遊撃隊長伊庭八郎馬を飛して泉沢に至り

四月十九日

夜半頃、(伊庭八郎が)一聯隊を帥いて来る、此日、五稜郭より砲兵隊頭取中川長五郎一砲車を引き来りて木古内に加わる、山上の番兵は額兵隊、遊撃隊なり、此日、官軍は敗兵を集めて軍議する、我輩は人跡遠き深山に来り野陣を張り、度々兵を出して戦争に及ぶと雖も、徒に力を労するのみ、利を失って更に功なし、然る間に福島・二俣に向かいたる軍勢攻口を破って函館に迫りなば、おくれを取って面目を失うに到らん


同日、木古内に至った二関照忠が星恂太郎に対面し、其夜同処に一泊せしが、翌四月二十日、俄に戦争始まりければ、星恂太郎、二関照忠に向かって、足下は此の処を守る将にあらず、速に函館に帰りて兵隊を撫育し、彼の地を守れと云う、二関照忠乃ちに函館に帰り、戎服器械を調えて専ら戦争の用意せり

四月二十日

未明より総攻撃して敵を破らんと各々夜半に兵糧を食す、兵を出して木古内に逼る、此日も朝霧深くして四方定かならず、然れども大勢攻め来ることなれば、近寄るにしたがい人声夥しく聞こえければ、山の上の番兵より是を報告する、直ちに諸隊兵を整列する間に、山の上の番兵は瓦解して敵すでに村内に逼って火を放つ、これにより額兵隊隊長星恂太郎は即ちに一小隊を帥いて稲荷山の胸壁に馳せ上り、撒兵に備えて村の西方を防衛する、同隊頭取堀口秋次武泰、一小隊を引いて村の東裏海岸の方より攻め来る敵を防ぐ、砲兵隊中川長五郎、四斤旋條砲を小路の直中に備え、しきりに霰弾を放つ、遊撃隊は村の西裏に兵を出し、敵の横合より放ちかけ、各勇を振って戦いけれども、敵は目に余る大軍、我が兵は僅に二百の小勢なれば、次第に死傷累なり既に破れかかる、額兵隊頭取武藤勝作清秀、大に怒り、兵の多少は有れども敵勢鬼神にも有らず、我に続いて防戦せよと、兵を指揮して雨霰の如く飛び来る弾丸を事ともせず、敵の群がる正面へ押し出て、自ら小銃を取って敵七八人を打ち倒す、然れども多勢の敵に攻め立られ、清秀は乱丸の中に死す、是に従う軍兵も同枕に七八人倒れければ、此手の嚮導役嶋津利藏友安、清秀が死体を肩に掛け退きけるが、敵は間近く是を追って清秀が首級を切り是れを携えて退きたり、又海岸には堀口秋次武泰・成田武三郎清則が一小隊を撒兵に列ね、胸壁により漁舟を楯として防ぎ戦うと雖も、多勢の敵に攻撃せられ、嚮導役高野權兵衛等此処にて倒れければ、堀口武泰刀を抜き、高野が首を斬り是を提げて退きたり、成田清則大に怒り、胸壁を越えて前頭に顕れ出、既に敵中へ切り込まんとせし時、敵陣より小隊打ち放つ弾丸が咽を貫く、清則猛虎の威を振うと雖も、急所の深手なればたちまち倒れたり、此の処にて額兵隊の嚮導役杉山豊三郎・林久四郎・成澤豊治等深傷を負う、又砲兵方中川長五郎左の腕を打たれけれども、先に進みて砲車を指揮し頻りに放つ、これにより本道よりは敵が進み兼ねて見えたる処、既に弾丸打ち尽くし、火門に釘を打って引き退く、此の処にて砲兵方加藤誠一郎・同付属高屋善八等戦死する、額兵隊大砲方今野七十郎秀實・三橋喜代太郎光種、是も山用忽砲を本道へ出し、中川と共に防戦するが、余りに強く放ちたれば、車台が砕けしゆえ退きたり、遊撃隊は人家裏山に連なりたる大原にして血戦し、隊長伊庭八郎・同嚮導役中島健之助等深傷を蒙る、[伊庭は傷の為に後に五稜郭にて死する]依って兵隊は是を介抱して引き退く、星恂太郎は稲荷山に登り、四方の敵を眼下に見下し、自ら小銃を取って狙撃し、敵数人を打ち倒す、然れども吾が兵、総瓦解と成って引き退き、既に防禦の策が尽きければ後殿して兵を退く、此時遊撃隊副長澤録三郎も踏み止まりて防戦せり、恂太郎は澤に謂て曰く、我跡に止まりて今一回防かずんば、敵は何れの処までも攻め来るべし、予は馬を失うて歩立なり、幸に足下は馬上にあり、先に駆け行き我兵の退くを止めよ、予は此処を去らずして戦うべしと云う、澤は諾して即ちに馬を飛ばし、刀を抜きて敗兵を止め、札苅・木古内中程に備えを立て防がしむ、敵も此の処にて兵を収めければ、我が兵も泉沢に引き揚げたり、一聯隊は前夜深更に木古内に進み、兵悉く労して休む否や敵攻来りし事なれば、防禦の義勢もなく途を失うて兵散乱し、真っ先に泉沢に退きたり、此日、我が兵の戦死三十余人、傷者四十人なり、敵の死傷是に倍する、未明より戦始まり、午ノ刻に至りて戦止めて敗兵を集め、泉沢に至りて各々糧を喫し、暫く息を休めける処、本多幸七郎伝習隊を帥い、太田直之進貞泰額兵隊士官隊を帥い、応援として茂辺地より来り加わる、当別よりは衝鋒隊一小隊を帥い秋山茂松来り加わる、これにより諸将議して曰く、既に木古内を敵に敗られ、一ノ渡知内にある処の我が兵前には福島の敵有り、今木古内を立切られ前後に途を失う、是を救わずんばあるべからずと、本道は伝習隊・衝鋒隊・遊撃隊、山上の間道は額兵隊一聯隊各向かう攻口を定める、此日蟠龍艦・回天艦泉沢沖を巡羅して過ぎる、小船を走らして木古内の応援を乞い、且つ此日の傷者は悉く船にて函館病院に送り、既に泉沢を立て木古内に向う時、未ノ下刻、札苅に到る敵の斥候来りて是の所を守りしが、木古内に火の上るを見て斥候を出し、是を見せしむるに木古内既に敗られ、吾が兵泉沢に敗走せりと告ぐ、これにより一ノ渡を固めたる各隊も知内に引き揚げ、軍議しけるは今木古内敗れて前後に敵を受け、既に我輩死場に陥りたり、此の処にて自滅せんよりは、各木古内を敗り泉沢に退かんと、彰義隊・陸軍隊・会遊撃隊・神木隊・砲兵隊都合三百余人、直に木古内に攻め寄せたり、官軍も兵を整列して是を防がんとする処へ、沖合よりは回天、蟠龍蒸気をさかんに立て寄り来り、後よりは泉沢より進みたる軍勢二道に分れて押し寄せ来りければ、官軍大勢なりと雖も、終日の戦争に兵労れ、三方の敵防禦の策を失し、各先を争い間道口へ引き退く、爰に於いて暫時に敵を追い払い、前後の我兵各々木古内に入りたり、此時衝鋒隊秋山茂松、長追いして敵の乱丸に中って死せり、各隊木古内に入り、諸将会議して曰、此の地は敵を防ぐに地悪くして始終保ち難し、全軍悉く矢不来に引き、嶮に拠って防禦すべしと総軍を引き退く、其夜は泉沢に宿陣し

四月二十一日

矢不来に遷る、此時彰義隊・衝鋒隊は矢不来の入口なれば茂辺地に宿陣して固めたり

この間、既に我兵、木古内・知内等を引き退き、矢不来に陣を移せし由聞えしかば、福島等の官軍悉く相会し、其勢一千五百余人、泉沢まで進みたり

四月二十五日

我兵斥候兵七十余人を出して当別の敵を打つ、敵は敗れて去る

四月二十八日

英船にて官軍二千余人青森より福島に渡海し木古内知内まで進みたり

四月二十九日

海陸より矢不来を攻撃すべしとて、陸軍先鋒松前藩これに続いて、弘前・柳川・薩州・長州の勢、都合二千四百余人、五百人ずつ四隊に備え、夜半に糧食を喫し、暁七ツ時泉沢を発し、明六ツ時茂辺地まで攻め寄りたり、海軍は陽春・丁卯を先鋒として、甲鉄・春日・朝陽・飛龍都合七艘、是も同時に矢不来に向かいたり[沖合には英仏の軍艦蒸気を揚げて是を見物する]吾が軍は矢不来の砲台胸壁都合二十六ケ所に兵を分け、斥候として彰義隊より一小隊を茂辺地へ進ませ、敵の虚実を窺わしむ、矢不来入口の胸壁は彰義隊、山上数ケ所の胸壁には伝習隊・遊撃隊・砲兵隊、天神森は衝鋒隊・会津遊撃隊、関門口の砲台並びに海岸の間道は額兵隊星忠狂是を指揮する、後備の応援として同二小隊堀口武泰及び、荒井宣行是を帥て富川を固めたり、此の台場には長加農二十四斤の大砲を置き、海軍の防禦を為す、然るに茂辺地より彰義隊の番兵馳せ来たり、数千の敵軍既に茂辺地に押し来たり、後軍は木古内・知内より段々続いて進むと報告す、これにより各々寨を固め防禦の用意せし処に、早、茂辺地の番兵敗走して矢不来に退き来たり、本隊に加えて備を立てる、此の時、敵の陸軍三方に分かち、本道海岸山上より攻め寄る、此の時、海軍の先鋒陽春・丁卯、地方へ寄せ来たり、七、八町にして大砲を矢不来に放ちたり、是を合図に陸軍一同攻め近付く、吾軍本道は伝習隊・彰義隊・遊撃隊兵を進めて防戦す、海岸へは額兵隊三田村徳太郎、一小隊を引き潜みて之を待しが敵は道もなき磯辺を廻り、身体半は浪に浸りて一人立に成て押し来たる処を、小隊一度に銃を放ちたり、天神森の胸壁より衝鋒隊力を合わせ、筒先下りに放ち出す、これにより海岸よりは敵進むこと能わず、本道に廻りて攻め来たる、海岸の勢此を見て甲鉄・春日・朝陽・飛龍一同に地方へ向けて大砲を発す、其音声海陸に響き渡り、山岳も崩るるが如し、吾が兵是れか為に死傷甚だ多し、然れども各々胸壁を固め、嶮に拠って戦ふうなれば、目に余る大軍と雖も是を敗る事能わず、互に命を惜まずして勇を振い、爰を先途と攻め戦う、此時、山上に向かいたる敵軍五百余人、内藤沢の嶮岨を凌き、矢不来に続きたる高岳に登り、眼下に小銃を打ち出す、此時海軍よりも頻りに大砲を放ち、胸壁二ケ所を破りたり、本道口の敵軍も坂を登り益々進む、敵は数千の大勢なれば、往来二三里程引き続き、前後互に攻め入りければ、吾が兵終に防くこと能わず、山上の胸壁に退きたり、此の処へ地雷火を装置し、彰義隊の兵士前野次郎潜伏して敵の過ぎるを待って引綱を切る、これにより敵の先鋒十余人即死せり、前野は敵の為に擒と成る、後番兵の油断を窺うて逃れ来たれり、敵勢是を見て道路を行くが故に地雷の難あり、道の左右に別れて攻め寄せしと左右を進み来る、此の時甲鉄艦より放ちたる七十斤の弾丸、台場に中りて砲車を砕く、又天神森を固めたる衝鋒隊海陸より攻められ隊長永井蠖伸齋・天野信太郎兵を励まし、必死に成って防戦し、終に両人共此の処にて戦死す、これにより第一番に此の兵敗れ退く

是より少し引き下りて額兵隊太田貞泰士官一小隊にて固め居たりしが、吾が軍の敗走を見て大に怒り、兵を撒兵にし、官軍の中へ無二無三に攻め入りたり、差図役梅澤彌平・近藤辰三郎・嚮導役小田邊其九次・眞山俊輔・山路平喜治を始め、義を重んじ死をかえりみず、士官の面々三十余人踏み止めて拒ければ、是れが為敵の死傷数多し、然れども敵は数千の大軍なれば、平一面に進み来る、これにより貞泰下腹より背へ貫かれ、腸疵口より漏れ出たり、急処の深傷なれば、兵士是を助けて引き退く[貞泰是より三日を経て五月朔日病院にて死す]此時前後の胸壁一同に敗れ、砲兵隊に加わりたる杜陵隊頭取並松岡副太郎・同取締船越惣平を始め戦死五十余人、傷者数を知らず、各各富川に退く、官軍戦死七十余人、傷者是に倍せり

星忠狂は始め砲台にて兵を指揮して防戦せしが、砲車碎かるるに至り、山上の胸壁に上り、自ら小銃を取って頻りに防戦す、弾薬悉く尽きて左右を顧みれば、大砲差図役今野七十郎・隊士三浦富之助両人のみ、吾が軍悉く逃れ去って四方皆敵なり、これにより忠狂遁る事能わざるを察して、敵の手に死せんよりは自殺せんと云う、今野・三浦諌めて曰く、今是の矢不来敗るると雖も、富川に至っては二百余人の兵士あらん、今隊長自殺する時は、隊士悉く瓦解に至り、各々同盟を約し、此の地に来れるの大旨を失う、短慮にして大事を誤る勿れと、直ちに忠狂を助け、深沢を渉り高岳を凌き、敵の空虚を探り、漸くにして富川に退く、此の日未明より八ツ時までの戦争なれば、身体悉く労れて、忠狂携え来たる小銃を捨てんとす、三浦是を取って己れが携えたる銃と共に二挺を左の手に持ち、右の手に忠狂を引て嶮難を事ともせず、須臾にして富川に至る

此時富川を固めたる額兵隊、矢不来の砲声を聞きて未明より兵を整列し、荒井宣行砲台に上り、砲士に令して弾薬を装し、用意既に調えける処へ、海軍先鋒陽春・丁卯迫り来たり、台場を目的に放ち出す、荒井は勝田源八郎・佐藤源吉に令し、二十四斤の長加農砲を頻りに放たしむ、此の弾丸陽春艦にあたり、機械を損して引き退く、然るに矢不来の吾が軍敗走し、衝鋒隊長梶原雄之助第一番に逃れ来たる、荒井は梶原に矢不来の戦状を問う、梶原答えて既に吾が兵瓦解して兵卒此の地へ逃れ来れり、是を止めんが為め来れりと云う、荒井云う、敗兵未だ此の処へ来ず、足下爰に止まりて兵を止め、防禦の策を運らすべしと云う、梶原是を聞かず、馬を飛して逃れ行きたり、引続て諸隊の兵士悉く富川に来たる、陸軍奉行大鳥圭介退き来たり、荒井に謂て曰、既に矢不来敗れ、星忠狂も其行く処を知らず、此の胸壁にて防かずんば吾が軍、弥々瓦解に至らん、兵を止めて防ぐべしと云う、これにより堀口秋次・和田七三郎・柴山靜男等二小隊を散兵に備え、追い来たる敵を拒かんとす、新井は矢不来より引き来たる士官隊を一処に止め、山上の胸壁へ到りて防がんとす、此の時忠狂只三人にて退き来たる、新井を始め兵士まで隊長死せりと憂うる処なれば大に悦び、互に無事を祝し、勇み進んで防戦す、本道より追い来たる敵軍の中へ小田邊・近藤・梅澤・山路を始めとて士官二十余人撒兵に成って是を拒く、暫し防戦して敵若干を殺す、然れども敵は四方の山野に兵を分ち、大勢潮の湧が如く押し来れり、吾が兵は弾薬を尽し、終に引き退く、此の処にて士官高橋繁戦死す[此の処に踏み止りて防禦せしむ額兵隊砲兵隊のみ、外、悉く走れり]此の時応援として濁川を固めたる杜陵隊半小隊を引き、池田傳富川に来りて村の西裏より山を越えて敵の横合を襲わんと進みたり、伝習隊頭取山口朴郎、富川・三ツ谷の村堺に止り居たる処へ、星忠狂兵を引て来たる、山口星に向かって応援の杜陵隊、今是の山手に進めり、味方悉く瓦解して之を助けるものなし、足下の隊士をして是を助け救うべしと云う、これにより忠狂は荒井宣行をして一小隊を引かしめ山上に到らしむ、荒井は直ちに兵を率ひ、山口と共に四五町山奥に進む、此時既に杜陵隊敵に取り巻かれ、四方途を失い、指図役並木戸治太郎を始め、嚮導役森藤太郎等悉く戦死す、纔か七八人生残りて走り来る、これにより山口及び荒井も拒く能わざるを察し、後殿して有川へ引き退く、敗兵を集め各隊糧を喫し、防禦の策を議して、額兵隊は有川北裏を固むべしとて、木村長方・堀口武泰・三田村有久・網代康實等兵を率て出たり、又富川へは見国隊二小隊を率いて、間喜太夫固めたりしか、敵の来たるを吾れの敗兵ならんと思い、猶予して居たる内に、敵は磯を伝って有川の南裏へ廻り、俄に小銃を打ち立たり、これにより吾軍大に動揺して先を争いて逃れ出づ、長官令官四方に散って是れを止ると雖ども、更に聞き入る者もなく、算を乱して逃れ去る、敵は此の虚に乗じ、大勢押し来りて小銃を打ち、これにより吾が兵総瓦解と成りて退きたり、五稜郭にては矢不来難戦の報告頻りなれば、総督榎本釜次郎単騎にして有川へ走せ来たり、此の瓦解を見て刀を抜き、逃るる兵士を止れ共、連崩かかりし軍兵なれば、総裁の命をも更に不聞入止まる者はなかりける

此時星忠狂落涙して榎本に謂て曰、我が兵此の裏手を守て散伏せり、吾軍悉く引き退くに於いては、敵の為に皆殺しとならん、総督令して是を救え、榎本大に之を憂うと雖ども、其策を施す事能わず、これにより忠狂中村万橘・二階堂駒之輔を遣り、兵を引ん事を計らしむ、両人直ちに斥候を遂け、走帰りて指図役網代清四郎戦死、兵は悉く大野の方へ退きしと報す、これにより忠狂は菅原道守及び吾軍纔か七八名、五稜郭に向いて引き退く、此の日有川にて戦死の輩には一聯隊頭取奥山八十郎・額兵隊差図役今野七十郎・同士官河田春治・衝鋒隊頭取鹽島松太郎を始十余人、傷者は同差図役茂田儀八郎・高木藤太郎を始数十人なり、榎本は心ならずも敗兵を率いて二里余退き、亀田函館の岐路にて暫らく兵を休め、且つ人員を改め、整列して五稜郭へ引き入たり[大野へ落ち行きたる兵隊は二俣口より引きたる土方歳三の兵に加わり翌朝五稜郭へ引き退たり]