当サイト全内容につき無断転載、引用禁止「北帰行」
額兵隊隊士
このページでは額兵隊関連各史料にちまちまと載ってる記録&現地調査で得た情報等、重箱の隅を突付き廻すようにして、額兵隊の隊士だった人々のあれこれをまとめて行きたいと思います…気長にやらないと挫折する〜〜(>_<) ってことで、どうぞ宜しくお願いします(笑) ええと、所々に「年○○」って感じで年齢の紹介もしていますが、参考にしている史料の様子からたぶん慶応四年時点のものと思われますが?確証はありませんのであしからず♪五十音順で主だったメンバーの紹介ページです♪主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい。それから、額兵隊において『改役』とは頭取や隊長と同じ意味のようです♪小隊の隊長さんです♪なお、同一人物かも判らない隊士名が見受けられると思いますが、そのあたりは管理人では判断がつきませんので〜〜〜宜しくです(笑)
◇青木關太郎久雪
指図役並、喇叭手とも、元近習鉄砲組、年二十四
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
◇赤松橘彌
士官隊伍長、小頭、仙台藩並医師、年二十三
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
◇葦名靱負盛景
額兵隊は参政葦名靱負の部下に属し星恂太郎の訓練する所にして、強壮有為の兵士を精選し其勢凡そ一千人あり、服装は赤色にして燦爛として目を奪う、常に養賢堂に屯集せしめて敵軍の城下を襲うに備えたり、当時靱負の詩に曰く
敢死三千是額兵
紅装一隊傚蘭英
遮莫新潟若松陥
猶向江城思遠征
>>>「仙台藩戊辰史」より
登米郡石越邑主、伊達家の準一家、食禄千石、字は子行、通称繁太郎、号は豊前、靱負、蘆洲、晩翠山房、晩年は雪江と改めた、佐渡盛長の第二子、小姓頭、若年寄兼大番頭、養賢堂御用係等、仙台藩の要職を歴任し、戊辰戦争時は慶邦公に従って出陣し、後備指揮係、鎮撫使応接方、額兵隊用係、参政をつとめた、明治十年西南の役では三等警部として出征し功があった、明治二十九年三月十九日東京芝邸にて没、享年五十八才、仁雄院忠參蘆洲居士
>>>「仙台人名大辞典」より
◇網代清四郎康實
指図役、大砲方器械方、海岸台場取締、明治二年四月二十九日戦死、忠道義清居士
◇熱海貞爾
額兵隊副長、改役、五稜郭陸軍週番所専務
玉虫左太夫、林塾の塾長を辞して、安政の始め頃より、江戸藩邸順造館跡に寓し専ら同藩諸生の江戸に学ぶを督す。熱海貞爾はその部下に属す
>>>「仙台藩戊辰史」より
福澤諭吉の自伝中、明治二年四月頃「仙台藩の人が在京の同藩人に対し様々残酷なことをして既に熱海貞爾という男は或夜今そこで同藩士に追駆られたと申して私方へ飛び込んで助かったことさえありました」
>>>「仙台戊辰史」より
熱海貞爾、元片倉家の臣、大槻春齋に就き洋学を修め本藩に召し出され養賢堂の教授となる
>>>「仙台戊辰史」より
熱海貞爾、荒井平之進、金成善左衛門、横尾傳左衛門、賊論を主張し剰へ函館へ脱走するに仍て家跡収没、熱海貞爾は明治二年四月二十八日「去年(慶応四年)九月中令脱走候に付家跡没収家財欠所被仰付候事」と親類への達あり、熱海と金成は明治三年十月東京藩邸へ自訴して赦免され、荒井と横尾とは明治二年四月五日函館に於いて前罪赦免の上藩へ引き渡さる
>>>「仙台戊辰史」より
額兵隊にては金成善左衛門、熱海貞爾の両人をして鴫原某、新井某等と共に明治二年三月二十日出発の仏国帆前船に搭乗せしめ仙台事情探索の為遣わしたるが探索人の到着せし時は、仙台にて大捕縛の行わるる場合なりしため彼等は遁逃して免かれたりき
>>>「仙台戊辰史」より
江戸で大槻俊斎に蘭学を学ぶ、藩校養賢堂の蘭学方教授及び兵学教授。慶応元年八月養賢堂学頭大槻習斎の産業開発政策により製塩事業の指導にあたるが不成功におわる(文久元年気仙沼脇川尻にて下総国行徳村より職人を雇い房州製塩を開始、のちに養賢堂付塩場となり、元治元年からは西洋流食塩製法も試された)
>>>「黎明期の仙台キリスト教」より
天保七年六月一日生まれ、白石片倉家臣熱海喜左衛門の第二子、明治三年?民部省十二等出仕に始まり、「官員録」には明治七年内務省土木寮官員七等出仕翻訳官、明治八年土木寮八等出仕七級出仕、明治九年土木寮十五等出仕七級出仕の記録が残っており、歴官ののち東京府土木理事部長となったという、明治十六年病で辞官、同十七年七月より避暑に赴いた相州箱根にて八月九日病没、享年四十九才、寳珠院秋譽貞嶽爾原居士
◇荒井左馬介宣行
旧名は平之進宣行、明治になって荒井悟と改めた、「蝦夷錦」の執筆者
改役、裁判方吟味役、四十才
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く
鎮撫総督の庄内討伐に関して征討総督府に御沙汰を請う為、参政葦名靱負を正使、大番士荒井平之進を副使とし慶応四年四月八日江戸へ遣わす
>>>「仙台戊辰史」より
慶応四年閏四月廿二日、薩摩人弾薬七車が尿前を越え羽州へ赴かんとして出発したのを聞き、仙台藩の荒井平之進、橋本豊之進、狭川公平、小人組松田三四郎、山田五郎吉等尿前より半里程先へ廻り待受けしに一行鍋越澤という処へ来あつまりしを以て襲撃す、薩人の屍は近傍へ埋め、首級は仙台へ持ち登せ七北田刑場へ捨てたり
>>>「仙台戊辰史」より ※「戊辰始末」では首級を仙台まで持参したのは荒井平之進と記されている
熱海貞爾、荒井平之進、金成善左衛門、横尾傳左衛門、賊論を主張し剰へ函館へ脱走するに仍て家跡収没、荒井は「去年(慶応四年)九月十五日養賢堂より令脱走候に付家跡没収家財欠所」と達あり、熱海と金成は明治三年十月東京藩邸へ自訴して赦免され、荒井と横尾とは明治二年四月五日函館に於て前罪赦免の上藩へ引渡さる
>>>「仙台戊辰史」より
玉虫左太夫は荒井東吾宣昭の養子となり宣昭の娘虎婦と結婚するが、一女佐世を残して虎婦が病没、左太夫は虎婦の妹に家督を譲り荒井氏を離れた、この妹と結婚したのが平之進宣行で、彼と玉虫左太夫は縁者といえる、万延元年外国渡航した玉虫左太夫が現地で撮影した写真を今尚荒井平之進宣行方で秘蔵という記録が「仙台戊辰史」にもあり
明治二年五月朔日、今朝第九時頃より額兵隊人数凡百七拾人斗り当台場内長屋江宿陣之事、改役・荒井左馬介
>>>「箱館千代ケ岡陣中日記」より
晩年、千歳庵一叟と号し、俳道を趣味とし、名取郡増田に退隠して子弟らの教授をし、同地の郵便局長となる、明治三十九年八月廿五日没、享年七十七才、辞世の句は「散る花を途連れにして吹れけり」、悟の子は東吾と云い、俳人で、大正六年一月廿一日に五十七才で没
>>>「仙台人名大辞典」
仙台榴ケ岡天満宮境内の星恂太郎碑、二関源治碑、額兵隊・見国隊戦死弔魂碑、すべてに建立者として荒井悟の名が見られる
◇石垣孫市
士官隊兵士、喇叭手、仙台藩近習鉄砲組、旧禄拾六石参斗六升、年十七、十六とも
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
◇伊東友賢祐綱
明治になって佐々城本支と改める
医師、箱館の榎本政権下では箱館病院医師となる
明治二年五月十九日、大病院より高松呼出に来、伊東友賢も出る、菅野湫水も来
>>>「小野權之丞日記」より
伊東友賢、菅野湫水、浜尾最一郎、根田昌賢、菅野慎斎、高橋友安の六人が額兵隊付属の医師であり、榎本軍の蝦夷政権確立後、六人共に政権の民政方箱館病院詰めとなった、伊東友賢は病院本院、あとの五名は高竜寺、五稜郭、湯の川の各分院で箱館戦争終結まで活躍した、終結後は新政府軍の命令で八月中旬まで浄玄寺仮病院で活動を続けた、本院の伊東友賢は病院頭取高松凌雲、病院掛頭取小野権之丞らと共に病院の管理運営等、組織の中心としても活躍している
>>>「仙台郷土研究」より
五月十八日箱館戦争は終結、その翌日、新政府軍より傷病者の治療は続行するよう箱館病院に通達があり、同廿日に湯の川分院から八十八名の傷病者が移送された、五月十一日の襲撃で焼失した高竜寺分院のかわりに浄玄寺を仮病院とし、浜尾最一郎と室岡同直(出身未確認)がここに詰めて治療にあたった、さらに四十名が移送されて来たため、会津屋敷を仮分院として菅野湫水、根田昌賢、菅野慎斎が治療にあたった、同二十二日に本院明け渡し、湯の川分院閉鎖、両院の傷病者百五十名が浄玄寺仮病院に入る、八月五日、松前から四十三名が箱館へ移送された(全員水腫病だったという)身体が回復したものは随時退院し、残った約百名の中から重症者八十一名が八月十七日、箱館を立ち東京へ送られた。高松凌雲、伊東友賢、浜尾最一郎、根田昌賢らがこれに付き添っている、箱館病院では開院からこの日までに一三四〇名が加療された、そのうち三百八十二名が戦傷者だとされている(戦傷者中九十七名は死亡)
>>>「仙台郷土研究」より
以下の文章は「伊東友賢小伝」「『或る女』の生涯」「佐々城豊寿覚え書」等より管理人が独自にまとめました───
伊東友賢は天保十四年七月九日仙台藩医佐々城正庵の四男として仙台東二番丁の佐々城家屋敷で生誕(現在の東二番丁小学校)幼名は桃吾、文久二年三月、二十才の時に同じ仙台藩医の伊東友順の養子となり、名前を友賢と改め、元治元年、友順の一人娘千代と結婚(千代は当時十五才)伊東家の屋敷は仙台東一番丁にあった、慶応二年九月に長男賢治が誕生、この賢治の筆による伊東家伝の友賢略歴によると、友賢は慶応年間、明治初年に横浜のヘボン及び東京の高松凌雲について医術を研鑽したとあり、この時期の友賢の消息としては、当時江戸にいた新井常之進が仙台の母に送った手紙により慶応三年正月から二月頃に友賢が上京していたことが判明していて、また伊東家には明治元年横浜で撮影したという友賢の写真が残っている、
明治二年八月廿日、箱館から降伏人の傷病者八十一人に付き添って高松凌雲らと共に神奈川着、同廿二日芝山内通玄院、舜成寮に患者を収容、友賢は九月中旬島原藩預けとなり、東京の島原藩邸で謹慎閉居を命ぜられた、放免の日時は不明(高松凌雲は明治三年二月十一日)
明治三年十一月十五日次男友二郎が誕生、明治五年正月洋学医学修行のために上京、浅草片町の高松凌雲宅に寄留、同年三月廿一日横浜基督公会(プロテスタント)で米人宣教師バラーより洗礼を受ける、このあと時期は不明だが友賢から本支(もとえ)に改名し(明治六年二月の届書は本支になっている)仙台から妻子が上京、共に小石川金剛寺付近に住み、高松の元で医学修行を続ける傍ら、中村正直の同人社で英語を教えていたという、明治八年三男福也が誕生、また陸軍に入り軍医として明治七年台湾征討、明治十年西南戦争に出征、「官員録」には明治十年軍医試補、明治十一年軍医補、明治十二年陸軍省軍馬局勤務とあり、明治十三年十月二日に辞職
明治十一年、本支の妻千代は三人の子を連れて仙台の親元に帰り、明治十三年十月に二人の結婚が解消、本支は佐々城家に復籍、中村正直の弟子で同じ仙台出身の星豊寿と結婚、日本橋品川町裏河岸八番地、俗称釘店で脚気専門の内科医院を開業、本支の見立てと人柄の良さで医院は評判となり繁盛したらしい、二人の間には明治十一年に長女ノブが誕生していて、豊寿が入籍したのは明治十九年十二月廿八日になっている、子供は他にあい子(明治十九年生)、佑(明治十六年生)、よしえの一男三女、明治廿六年、妻豊寿が老母と子女五人で北海道へ渡り佐々城家は室蘭絵鞆村に転籍、明治三十三年まで本拠を北海道に置いたが、本支と長男の佑は東京に残った、明治廿八年一月、脚気の調査のため南洋に赴く
明治三十四年四月九日、本支は脳溢血で日本橋釘店の自宅で倒れ、同十三日逝去した、享年五十九才、妻の豊寿も同年六月十五日四十九才で急逝、豊寿は婦人解放運動の先駆者として、長女のノブは有島武郎の「或る女」のモデルになった人、「伊東友賢小伝」の著者も伊東友賢の孫にあたる人物です
◇井鳥巳之輔愼盛
嚮導役、仙台藩大番士、年二十三、二十四とも
箱館戦争終、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
◇岩淵喜三郎
士官隊、仙台藩大番士、年十九
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎中の明治二年十月二十九日病没
◇氏家宗治
士官隊、仙台藩大番士、年二十、二十一とも
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
◇氏家文太郎俊光
四番小隊指図役、元大番士、年十八、十九とも
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
◇宇田川求
士官隊、年四十一、生国武蔵両国本矢倉、徳川藩聖堂和学取詰
箱館戦争終結時、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎、後の消息不明
◇梅澤彌平道治
士官隊指図役、仙台藩大番士
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く
明治三年九月十三日より西洋兵法を学ぶために三ケ年上京、熱海貞爾所に随身した
嘉永五年十月四日生、仙台藩士梅澤道貞の次男、牛田恵治手記に「梅澤将軍に面会す」と題された一文がある「額兵隊の白石迄出陣(槻木の誤か)するや伊達君公馬上にて同所(岩沼の誤)まで御出張、親しく慰諭して出征を止めしむ、此に於て已を得ず引返へし会榎本武揚の回陽丸を率て北海に航するに際し、閣下等一隊之に投し北海に脱走せり、然るに官兵の追撃遂に支ふる能はす函館に監禁の身となる、間もなく津軽公に預けられ死刑に当てられんとす、然るに一等を減しられ日高の国に入国を命ぜられ禁国の刑に処せらる、此の時の苦みや実に名状すべからず、全く無人島に等しく食ふに物なく、衣るに布なく、一行六十余人死地に投ぜらる、此に於て一行は「アイヌ」に乞ひて鹿熊の乾肉を貰ひ、之を縄にて結び一日間水に浸し而して小刀にて表皮をけづり之を食し又は山に入り木の根草の実を採り之に塩を投じ煮て食す、住むに家なく、山より木を伐り之を土間に敷き並べ、壁に枝木を立て、屋根亦其通り到底生還の見込なかりき、然るに時期に於て恰も夏季に属するが故に如何でか凌ぐことを得たり、苦し冬季にかヽらんには絶体絶命其土に死するよりなかりし、一行は天に哭し地に叫び、切歯扼腕して居たりしが、豈計らん二ケ月計りにして解放の令下れり、然るに一行中年長の者は生還の見込なしと断念し、思ひ思ひに草隠れとなりしが、閣下等十二三人の人々は、生気天を衝く元気にて再び本国に帰り隠れの身となりて時の至るを待てりと…(略)」
>>>「仙台先哲偉人録」より
明治四年藩から抜擢されて大阪兵学寮青年舎に入り翌明治五年卒業、二十才で陸軍少尉に任官し東京鎮台麻布第一聯隊付、明治十年西南戦争に従軍、各地を転戦、山鹿戦で右腕に銃傷を負い、療養の後近衛第一聯隊副官に転じ、大尉に進み、中隊長となり、少佐に進んで福岡聯隊大隊付を命ぜられる、後熊本歩兵第二十三聯隊大隊長に転じ、明治廿七年日清戦争には大寺少将麾下に隷属して出征、威海衛を苦戦の末陥落させ、山東の各地に転戦し功をあげて中佐に昇進、講和成立の後、熊本に凱旋し功四終金鵄勲章を賜る、後鳥取歩兵第四十聯隊長となり大佐に昇進、翌年近衛歩兵第四聯隊長に転補、明治三十七年日露戦争にはこの聯隊長として出征、戦地で少将に任ぜられ、近衛後備混成旅団の編成に伴い旅団長に補せられ、各地に転戦し、その勇猛果敢さは「花の梅澤支隊」と賞せられ全軍にその名を轟かせた、明治三十八年凱旋後近衛歩兵第二旅団長、明治四十四年中将に任じ熊本第六師団長、大正四年後備役に編入、大正十三年一月十一日東京四ツ谷の自邸に正三位勲一等功二級を以て薨去、享年七十二才、西多賀三神峰上に碑がある、道治の養嗣銀造は久邇宮邦彦王殿下の御付武官として永年奉仕した、銀造の親(道治)にと、のち昭和天皇皇后となったその人から御手縫の襦袢を賜った、道治はそれに一度も袖を通さず、恩賜の家宝とした
>>>「仙台先哲偉人録」より
明治廿七年分家して一家を創立、牛込区市ケ谷富久町二十一番地、夫人マツ子(安政元年生)、養嗣銀造(明治十二年生)、銀造夫人キミ子(明治廿一年生)、銀造とキミ子の間に道孝(明治四十三年生)、美智子(明治四十一年生)がある
>>>「大正名家録」より
戒名は剛勇院殿誠忠日道大居士、西多賀三神峰上にあった碑は陸軍幼年学校建設のために西多賀神社境内に移転し現存している、「仙台先哲偉人録」にある「恩賜の家宝」と梅澤彌平の肖像写真着用の軍服と帽子は当時、西多賀の小学校に寄贈されたが戦災で消失した、実兄の梅澤新五郎は初代増田小学校校長とのこと
◇遠藤軍三郎
士官隊、年十七、明治二年五月十一日討死
◇遠藤孝之進
士官隊、仙台藩大番士、年十九、明治二年四月二十九日の戦で負傷
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴き、帰農永住したと伝わる
◇遠藤虎吉寛典
明治に改め遠藤陸郎
二番小隊指図役、指図役並、指図役喇叭手とも、元楽手隊長
仙台藩医員遠藤如幹の弟、年二十四
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く
その後、仙台に戻り写真師となり仙台立町通に開業、仙台においての写真師の元祖となった
のちに台湾に移住し大正三年五月六日台南で没した、享年七十才
仙台榴ケ岡天満宮境内の星恂太郎碑、二関源治碑、共に建立者として遠藤陸郎の名が見られる
◇遠藤良治清景
士官隊指図役、十九才、明治二年四月十二日の戦で負傷、五月二十七日死去、本伏広良信士
◇大石源之進篤實
慶応四年六月新潟開港の為に仙台藩より出張の面々、葦名靱負が全権、副使は監察牧野新兵衛、周旋役金成善左衛門と石川重松、外国事情に詳しく欧文を読める星恂太郎と横尾東作が付属、白川出陣の大石源之進と牧野權十郎の二小隊が護衛、仙台発五月二十六日、米沢会津に立ち寄り六月十日新潟着、ほかに新井常之進が同行
>>>「仙台戊辰史」より
慶応四年七月二十五日新潟開港場。新発田藩反覆破盟官軍合併新潟へ進撃発砲、仙藩牧野新兵衛、大石源之進、僅に一小隊半の兵を散布し、同所の川を隔てて防戦、追って官軍大軍を進めて烈敷発砲、源之進激戦官軍死傷も相見候、戦は同日より二十九日迄、五日の間不撓日々苦戦尽力罷在候処、同日米藩持口懈惰候虚を見込、官軍衝突烈敷、衆寡難支終終に全軍瓦解仕、会津国境八十里越迄引退申候、手負深手小隊長大石源之進
>>>「戊辰始末」より
慶応四年九月十五日額兵隊の仙台出陣時に隊を離脱、大番組与頭
明治五年陸軍歩兵大尉、正七位、西南役の功績で勲五等に叙せられる、明治二十八年十月十八日台湾にて没、享年五十五才
◇太田直之進貞泰
士官隊改役、太田勇嫡子、年二十一、明治二年四月二十九日討死
◇男澤松壽郎
士官隊、仙台藩大番士、年十八
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
◇小野寺小太郎義明
四番隊嚮導役、仙台藩和田織部家来父軍左衛門忰、年二十八、二十とも、
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
◇小野寺勇吉
士官隊伍長、仙台藩近習鉄砲組、年二十四、二十五とも
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
明治三年三月四日、降人二番長屋小野寺勇吉、同河東田縫之進、右両人昨三日台場塁上江登り候に付函衛隊秋田隊両隊江御預け禁固申付候事
>>>「箱館降伏人取締役所日誌」より
明治三年三月五日、二番長屋取扱、星恂太郎、其方去冬当所へ再渡已来二番長屋取扱申付置候所去年十二月菅原隼太不埒之筋有之、今般又小野寺勇吉、同河東田縫之進等心得違ひいたし候段畢竟其方取扱方不締より前件再度之不都合に立致り候条不行届之始末に付右役名被免候事
>>>「箱館降伏人取締役所日誌」より
明治三年三月十一日、降伏人二番入小野寺勇吉、同河東田縫殿之助、右両人先日御規則を破り謹慎之趣意越不相弁段不届之振舞に付函衛秋田両隊江御預けに相成居候処二番長屋取扱青山二郎より歎願之義も有之候に付格別之儀を以今日差許候事右差免候儀青山二郎へ両半隊長を以申達候事
>>>「箱館降伏人取締役所日誌」より
◇相原勝次郎
額兵隊大炊方御尋人…(略)…気仙之高田江上陸、御歩目付へ申出候、十月廿二日仙着之積、于今不相知候分
>>>「日新録」慶応四年十月廿五日の記録より
◇青木由之輔
青木由之助、青木由三郎、とも記されている史料あり、青木由之輔は「額兵隊諸事調帳」より
四番小隊嚮導役、討死
◇明生左金吾
明治二年二月廿一日戦死
>>>「日新録」明治二年十一月八日の記録より
◇明見左金吾
亀田にて傷
>>>「霊鷲院箱館脱走人名」より
◇淺田隼人之助
荒井宣行の「蝦夷錦」に名前が見られる
◇芦立養輔
二十八才
>>>「額兵隊諸事調帳」より
◇飯塚三之助
箱館にて傷
>>>「霊鷲院箱館脱走人名」より
◇飯塚数之助
士官隊平士、十九才、明治二年五月十一日手負
「額兵隊諸事調帳」より
◇猪股重兵衛
士官隊平士、二十二才、明治二年四月廿九日矢不来にて手負
◇漆山隼人之助
「星恂太郎日記」にて脱走の記録あり
額兵隊大炊方御尋人…(略)…気仙之高田江上陸、御歩目付へ申出候、十月廿二日仙着之積、于今不相知候分
>>>「日新録」慶応四年十月廿五日の記録より
◇大嶋勇蔵
明治二年四月廿三日戦死
>>>「日新録」明治二年十一月八日の記録より
◇大橋重蔵
四月廿四日没、北海道函館市実行寺の境内に埋葬したと伝わる、戒名静久信士
◇大宮清吉
士官隊平士、三十才、明治二年四月十二日木古内にて手負
◇小田邊喜久治
士官隊嚮導役、二十四才、明治二年五月十一日千代ケ台にて手負
◇小田邊其九次
荒井宣行の「蝦夷錦」に名前が見られる
◇小田邊行成
「星恂太郎日記」に名前が見られる
◇貝山敬吉
士官隊、十九才、仙台藩大番士
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明
◇影田泰藏興隆
明治になって影田隆郎、影田隆と改めた、荒井宣行の「蝦夷錦」の序文を記す
軍監、改役、裁判役、二十五才、仙台藩大番士
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、その後、明治五年十一月に現地を出たとされる、「日本正教伝道誌」「日本キリスト教歴史大辞典」によると、函館でニコライの再来訪前からロシア語を学んでいた者の中に影田隆郎の名前があり、明治五年十月廿六日に東京に於いて受洗し、明治六年岡崎に正教を初めて伝え、明治七年五月東京での第一回正教伝教会議の議員の一人となり、伝教規則の編成に携わったという、洗礼名はダニイル
明治二年五月朔日、今朝第九時頃より額兵隊人数凡百七拾人斗り当台場内長屋江宿陣之事。裁番役・影田泰三
明治二年五月七日、明日、山炮を箱館海岸江運転なし候に付、額兵隊之内重役影田退蔵と申者江、隊長より御頼かたがた御談し有之候事
>>>「箱館千代ケ岡陣中日記」より
◇葛西瀧次郎
「星恂太郎日記」と荒井宣行の「蝦夷錦」に名前が見られる
◇笠原彌二郎
明治になって笠原文司と改めた
二十六才
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
天保十三年生、剣に優れた元亘理藩士、明治十七年老父を伴って札幌に入り、薄野遊郭の顔役高瀬和三郎の後押しにより南五西三で花月楼を開く、明治廿年、武士の前歴を見込まれ貸座敷(妓楼)業の取締役と消防組第三番組頭に担ぎあげられ、侠名をほしいままにした、明治廿四年、十八人の芸妓を擁して札幌初の薄野見番(芸妓の見張り番、取締、取り次ぎを行う事務所)を設立する、生来血の気が多く、札幌惣代人の岩井信六らが消防組の振る舞いを批判、北門新報が同調して「消防組の悪弊断つべし」の記事を掲げたことに激高し、明治廿五年十二月、子分二百人を率いて岩井宅と新報社を襲撃、「凶徒嘯聚罪」で懲役六年、が、上訴の結果無罪の逆転判決を得た、明治三十六年、妓楼と見番を知人に譲渡し東京に去った
>>>「札幌人名事典」より
北海道開拓使文書の中にも「御当使貫属、有珠郡住居、笠原彌一郎(笠原彌二郎の父)、同姓文司、明治四年十一月廿一日」…付の出張届?が残っている
◇片平定歳
「星恂太郎日記」に名前が見られる
◇片平徳五郎
士官隊平士、二十三才、明治二年四月廿九日矢不来にて手負、士官平士
◇片山清五郎
明治二年五月十五日戦死
>>>「日新録」明治二年十一月八日の記録より
◇勝田源八郎
指図役、大砲方一等、千代ケ岡にて討死
明治二年五月八日、十時五十八分頃、額兵隊勝田源八郎被参、工兵方小菅龍之進参り、兼而額兵隊中之十二斤コロニアァーン当台場江据付置き申候処、前同人、明日中借用申度と申来候間、則相渡申候間、御含み迄にと隊長江申来候事
>>>「箱館千代ケ岡陣中日記」より
◇加藤覺之丞
士官隊嚮導役、明治二年五月十一日戦死、享年二十四才
◇加藤權二郎
士官隊、二十六才
◇亀山久三郎
慶応四年十二月廿六日戦死
>>>「日新録」明治二年十一月八日の記録より
◇河田春治
士官隊平士、明治二年四月廿九日有川にて戦死、享年二十四才