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二関源治と見国隊

二関源治照忠は天保七年十月七日生まれで、諱を照忠、考諱は駒治、通称を源治と云った。二関氏は大番隊士の家柄で、照忠が八歳の時に父親が没した為、母親の実家である大内氏の所で育ったという。その容貌は、小柄で色が白く婦女子のようだが、性質は沈着冷静勇猛果敢で、戊辰東北戦争が始まると猪狩兵左衛門配下の銃士として越後口に出陣して奮戦した。そのあと額兵隊に入って小隊指令(半隊司令使とも)を勤めたという。

明治元年十二月仙台藩の処分が公示された。藩は一旦領地没収となり、新たに朝廷より二十八万石を与えられ、藩の存続を許された。が、ここ数年間にわたる凶作、さらに領地の半減という現実に仙台藩は騒然となる。同年九月に仙台藩は官軍に対して降伏恭順の姿勢を取り彼らの戊辰戦争は終結したのだが、藩内平穏というには程遠く、この処分公示で世情不安はさらに拍車がかかった状態になった。藩は領地半減の対応策として陪臣等の人員削減を徹底して行い、また領地の代替、永暇を出された元藩士らの生活の場として、蝦夷地開拓の申請を出しこれを実行した。しかし、この処分問題と藩の態度に不満を覚えた者は多く、仙台藩士・二関源治、旧幕臣・石川欽八郎等が主唱して、仙台藩の二、三男、及び浪人者等に呼びかけ、結集して創設したのが見国隊である。

彼らは石巻周辺を本拠地とし近辺の富豪より軍用金を徴収する等(特に桃生郡の富豪斎藤家に軍資金を強請)着々と活動準備を行った。勿論、仙台藩がこれを放っておくはずがなく投機隊を差し向け鎮圧しようとするが容易に進まず、見国隊は追っ手を避けながら気仙沼へと移動する。この時ちょうど気仙沼沖に碇泊していた加賀・前田家の船に仏国人が乗り合わせており、これに石川欽八郎が趣意を告げ、同船に乗り込みの許可を得て、横浜に赴き、英国商船に談判し、兵器弾薬の買い付けに成功し、これを英国蒸気船(英国商船ユーレンブラック号)に積載して気仙沼に帰港、彼らはそのまま石巻港へ移動し、同港に碇泊していた船五隻(仙台藩の和船か?)に米殼が満載されているのを知ると、これを奪取して英船に移し、箱館の榎本軍と合流するため石巻を出帆した。石巻脱出時の見国隊士は三百五十余名(三百八十余名とも)明治二年四月八日のことである。

六日後の四月十四日、船は無事に蝦夷地東砂原に着船(この船には桑名藩主松平公を迎えに来た桑名藩士、伊庭八郎の家来五十嵐半兵衛らも同船。到着時、現地を防衛していた衝鋒隊に敵船と思われ砲撃されたが、合図を送って無事に上陸した)上陸した見国隊は兵力を二分して、室蘭防衛と森大野周辺の防衛の任につくことになり、隊長である照忠は額兵隊隊長・星恂太郎と面会のために有川へ向かった。恂太郎はこの時木古内にいて不在であり、有川には菅原隼太と荒井宣行が率いる額兵隊一小隊だけであった。訪れた照忠に対して荒井が嚮導役となり彼を連れて五稜郭へ向かい榎本と会見させた。榎本は照忠に見国隊を有川箱館に移動するよう命じ、彼はこれに従い、森大野方面に駐屯させていた隊を移動させ、四月十九日、単騎で木古内の恂太郎を訪ねた。彼は恂太郎に仙台の事情を話し、木古内で一泊したが、木古内は翌早朝より戦闘状態に入ったため、恂太郎は照忠に、君はここで戦うべきではない、見国隊を連れて箱館防衛にあたれと告げ、彼はこれに応じて速やかに戻り、箱館で臨戦態勢をとった。

照忠は明治二年五月十一日の箱館市街戦・大森浜にて奮戦中、敵の銃弾を受け倒れる。見国隊は隊長の負傷により五稜郭へ退却、照忠は受けた銃創のため五稜郭本営分院で翌十二日死亡、郭内に埋葬したとされている。享年三十四才。辞世の句が残っている
 「君の為め千尋の海に沈むとも何かいとはん長き恵に」
源治は後藤氏より妻を娶っており、二子を残した。長男は忠之進と云い、世襲後次宏と称した。あと一人は女子で高橋今朝三に嫁している。

◆◆◆ 参考史料(一部抜粋) ◆◆◆

◇二関君源治碑銘

我仙台藩。戊辰之難。自奮提兵。倔強抗西軍者。有三人。曰星恂太郎。曰細谷直英。曰二関源治。三子資性雖異。而意気慷慨。能樹義声。則未嘗不同也。而源治君。独戦死北海。其志亦可悲矣。頃旧友針生惣助。中島高。与直英等謀。建石于仙台城東榴岡。以表其奇節。以余与君親善。来徴碑銘。按状。君姓二関氏。諱照忠。源治其通称也。考諱駒治。妣大内氏。世為藩大番隊士。君八歳喪父。為母氏所鞠養。奉事甚謹。家貪能■菽水之歓。及長専学刀槍。嘗挙胥吏。非其志也。奥羽之戦。自夏渉秋。藩論一変罷兵。是時榎本釜次郎。大鳥圭介等。以幕府遺臣。来投我藩。遂北遁蝦夷。恂太等亦同之。君慨然曰。大藩養士三百年。為有今日也。乃糾合同志。得五百余人。号見国隊。衆推君為長。屯桃生郡船越村。適西軍入仙台城。緝捕激徒。将遣兵来攻。君偵知之。遣人横浜。雇英商威氏船隻。満載衣糧器仗等。率部兵航北海。投榎本等軍。同大鳥守千代岡。与西軍戦于大川村。連戦数日。後大戦于大森浜。両軍健闘。君叱咤督衆。中弾丸仆。呼曰吾事畢矣。部兵舁入五稜郭。創劇。翌日遂逝矣。時明治二年四月十二日也。距生天保七年十月七日。亨年三十四。葬于郭中。部下哀慕。莫不揮涙。娶後藤氏。生二子。長忠之進。襲後。次宏。一女適高橋今朝三。君状貌不揚。一見如婦人女子。諸友■辱之不与校。衆目為怯。雖余心窃疑其柔懦。不料其毅然有所樹立如此也。顧君長余一歳。比髫齔常相携上藩学。及壮不易交。戊辰之役。余為当時者所忌。禁錮累月。放還田里。途宿松島。逆旅有一人。蓬髪■々然。挙手招余。遽不弁其為誰。諦視則君也。曰事既至此。復何言。今将北行。事成有会期否。則血膏草野耳。揮袂而去。遂成永訣矣。今接碑銘之。請。回憶幼時同嬉戯。及臨別激昂憤■之状。音容彷彿在于目睫。俯仰今昔。不覚老涙沾臆也。乃拭涙銘之。銘曰。
得士五百。誓同死生。絶海埋骨。何似田横。
英風凛然。千載維馨。噫若而人。死有余栄。
正三位勲一等、大鳥圭介篆額
仙台、永沼秀實撰文

(「仙台藩戊辰史」より)

◇二関源治について

容貌白哲宛も婦人の如し、然と雖も沈勇果決人を屈服せしむ、戊辰の変起るや猪狩兵左衛門と越後口に出征し、毎戦挺身銃丸を冒して敵兵を斬るも軽傷たに負はず、曰ふ進めは弾丸懼るゝに足らず、退けば必す中ると故に必す先頭に立て進むを常とす、帰国即ち額兵隊に入りて半隊司令使となる、同盟軍の懦弱なるを憤り切歯して惜かず、帰順降伏削封の事を聞き、百万石大藩の士卒如何にして養はん寧ろ北地に渡り以て為す所あらむとす、旦有為の士を斥け奸侫阿諛の徒要路に当らは国家の前途知るへきなり、我是より敗弱の恥を雪き、藩祖の武威を墜さゞらんことを計るへしとて大に同志を募り、榎本等に投せんか為め先つ桃生郡の富豪斎藤家に到り軍資金を強請し、徳川逋軍に投して松前に走り各地に奮戦して遂に斃る、年三十四、時に明治二年五月十二日なり、法号勵光院戰譽放貫儀爭居士、辞世君の為め千尋の海に沈むとも何かいとはん長き恵に

(「仙台戊辰殉難小史」より)