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箱館戦争後日録 明治二年五月十八日〜九月晦日
当サイト内の各日録は複数の史料を参考にして管理人が独自に額兵隊周辺を中心にまとめたものです
主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい
明治二年
五月十八日
五稜郭降伏開城。午前七時総裁榎本釜次郎・副総裁松平太郎・海軍奉行荒井郁之助・陸軍奉行大鳥圭介、五稜郭を出て敵の軍門に至り、恭順して天裁を待つ。恭順に際して両総裁は衆を呼んで諭して曰く「我軍素と君家の為め諸君と共に其素志を述べんと欲す、同心協力既に今日に至り、死して已んと誓ひしに頼みとする兵卒等は諸君の見らるヽが如く、気力衰へて快戦思も依らず、去りとて強て之を鞭苔叱咤して其の兵卒を死地に陥れんとするも快からず、依て倩々熟慮するに我輩衆に代て敵軍に赴き、皇裁を仰ぎ甘んじて天戮に就んと決せり、諸君慚憤激烈の志を翻し深く思慮し、枉げて我意に就くべし」また「諸君幸に吾輩等を舎てず、同心戮力今日に至れり、今方に永訣せんとす、朝廷寛仁、諸君必ず白日を仰ぐの日あるべし決して落胆せず、一は朝廷の為め、一は君家の為め、今日迄奮戦せられしものを以て之に報ぜられんことを、諸君自愛せよ」と、衆は皆、到底快戦期し難きを察して何れも悲憤の涙を振って両人の意に従った。
午後二時より諸隊の者が五稜郭を出て箱館へ向う。諸隊の行進順は彰義隊、伝習隊、士官隊、同歩兵隊、神木隊、遊撃隊、一聯隊、杜陵隊、砲兵隊、工兵隊、機械局、騎兵隊(額兵隊か?)、会計局、回天乗組、その他俗務の官員等合せて千八百名とあり、護衛の兵に囲まれて、称名寺・実行寺・浄玄寺・会津屋敷等に入り謹慎した
額兵隊は星恂太郎等幹部主要メンバーは称名寺に謹慎しているが、のちに秋田送りになっているメンバーの収容先は今のところ不明。
人数については凡そ三千五百余名とも云われ、五稜郭で降伏となった者が千八百名、弁天台場で降伏した者が二百五十余名、室蘭にいる者が二百余名、箱館病院に入って創を療する者が四百余名、戦死する者、先に降伏する者は未詳との史料がある。また開城に伴い会計局から分与金が出ている。その額は兵卒金三円、下役以下隊士に金五円、差図役並以上改役まで金八円、頭並以上金十円、文官もこれに準じて配布された
頭取の者は腰に帯刀を許されるが、平士以下は皆丸腰で編み笠をかぶり箱館へ向かった。会計奉行榎本対馬及び、会計方器械方の役職面々は五稜郭に居残り、器械弾薬糧米など悉く調べて、午後五時、軍監前田雅楽・器械役綿貫敬太郎・小野俊十郎へ引き渡して、六時に全員五稜郭を出て箱館に至り謹慎した。この時、榎本釜次郎は斎藤辰吉を使者として室蘭へ遣わし「勢ひ既に不及して官軍に降れり、速に其地を引渡し、人数を治めて函館に来れ」と云い送った。榎本釜次郎・松平太郎・大鳥圭介・荒井郁之助・永井玄蕃・相馬主計・松岡磐吉の七名は、鎮輿にて津軽より羽州を過ぎ東京へ登送されることになり、榎本対馬を始め五百八十名は津軽へ謹慎と決まった
(五月十八日の五稜郭降伏開城は間違いないと思うが、その後の諸隊人員の箱館寺院での謹慎、五稜郭の引渡し等については各史料の日付が十八日付、十九日付とまちまちな為に十九日に行われた可能性もあると思う)
五月二十一日
朝七時に通達があり、諸士五百八十余名津軽に謹慎となり、午前十時(九時頃とも)箱館港を出帆。英国船「アルビヨン」米国船「ヤンシー」二艘にて青森へ渡海、午後五時に青森港に到着するが波頭荒く上陸は不能、船中に泊まる。また諸士二百十八名は秋田へ謹慎となる
額兵隊は津軽、秋田の二手に分かれて謹慎となる。津軽謹慎者に星恂太郎等幹部主要メンバーがいる
五月二十二日
午前六時より上陸して蓮華寺、蓮心寺等の四ケ寺に入る。夕刻新選組と蟠龍乗組の大砲隊の諸士は油川駅明誓寺に移って謹慎となる。油川は青森より一里を隔て警衛は厳重という。
榎本、松平、荒井、大鳥、永井、松岡、相馬の七名は青森を出て駕で東京へ護送された。
彼らが入った寺院について「先頃官兵夥多宿陣せし跡にて汚穢の事言語道断なり、賄方器具等も前書の如く、殊に兵卒も士官も同等の一間にて窓其他の出這入り口等はかんぬきを横たへ芳簾を張り詰めて恰かも獄屋に等し」との記録が残っている
額兵隊の津軽謹慎者は蓮心寺に入る
(この青森出帆、上陸の日付も史料により二十一日から二十三日かけてとバラつきがある)
五月二十四日
額兵隊兵卒・久太郎、箱館病院に移る
五月二十七日
額兵隊指図役・遠藤良治清景が箱館病院で死去す
五月二十九日
徳川降伏人二百十八名、称名寺より温泉丸へ乗船し秋田へ向かう。その夜津軽三間屋(三厩)へ着船、兵糧を調えて夜明けに出帆する
六月一日
秋田送りの者、暁に至って突田領野代へ着船する。直ちに上陸して秋田家預りとなり、同所寺院に一泊する。
箱館病院に入院中の額兵隊兵卒・久太郎、右手切断の手術を受ける
六月二日
秋田送りの者、大川駅に到着し同所に泊まる
六月三日
秋田送りの者、八ツ時頃、秋田城外八橋の寿量院に到着し、ここで謹慎となる
六月六日
箱館病院に入院中の額兵隊兵卒・久太郎死亡
六月九日
油川明誓寺に謹慎の者、青森蓮華寺に移る
六月十一日
青森で謹慎の者、弘前に移り、本行寺・法立寺・最勝院・薬王院・耕春院・真昌寺(貞昌寺)・真教院の七ケ寺へ謹慎となる。その行程について「青森より七里なる波岡にて昼食す、人馬を絶立て城下より二里前なる藤崎にて小憩す、夜中頃弘前城下新寺町本行寺に入て恭順す、此寺は日蓮宗にて二ケ寺あり、可なりの寺にて油川の取扱とは殊の外代りて随分丁寧なり」との記録があり、ほかにも「真教院と称する一寺に禁錮せられたり、同囚八十余人(彰義隊、伝習士官隊、衝鋒隊等の士官隊士)室内一庭の外出づるを禁ぜり、寺の四面に竹矢来を設け各寺に監守を置く」と謹慎の様子を記されている史料がある
額兵隊は貞昌寺に入る。同所の者は見国隊と幕府遊撃隊ほか八十六名、ちなみに本行寺は幕府遊撃隊ほか六十九名、法立寺は四十九名、最勝院は衝鋒隊、一聯隊、伝習隊ほか百十八名、薬王院は新選組ほか九十九名、耕春院は六十二名、真教院は彰義隊、衝鋒隊ほか九十八名で別に病院預かりの者が四名いた
箱館病院にて本日暮頃より高橋友安(額兵隊付属医師)が不居のため種々探索する
六月十三日
津軽藩に生国役名及び旧藩を書して提出する
六月十七日
版籍奉還
六月十八日
少年の者並びに兵卒の謹慎を許され各国に還されることになる。士官少年の者は函館学校に入って学ぶ由。具体的には「中山錦之進、加藤國造、田村銀之助は今日許され、天朝より函館へ御遣はしにて洋楽を為さしむ、後田村は薩の参謀に貰はれて東京へ行くと聞く」との記録がある
(兵卒身分の者の放免に関しては、六月十七日、二十一日、二十二日になっている史料もある)
七月(日付不明)
七月より月に一人、塵紙二状、阿波たばこ一袋を津軽家より配給がある。この儀に付き津軽家の不取扱いの議論がある
七月四日
箱館病院の者、品川上陸にて願成寺へ入る。四百五十名。「小野權之丞日記」によると「船中見国隊と雑居候」と記している
七月五日
大鳥圭介は「獄中日記」で同日、「仙藩両人伊東仙石と入牢せり阿州の船に乗りて来りし由」と記している(額兵隊伊東友賢と見国隊仙石丹治郎か?)
七月六日
津軽侯より謹慎者のうち士官クラスの元役の調べがある
七月七日
「小野權之丞日記」によると「見国隊長病有之に付医師来」との記録がある
七月八日
官制改革「職員令」開拓使設置(太政官直属機関)
七月二十日
津軽謹慎者、弘前を発して再び青森へ移動。ほぼ前にいた寺院に入り謹慎となる。その様子を記した史料として「俄に東京行の達しありて六ケ寺(七ケ寺の誤記)の人員即日出立、波岡にて昼食人馬継立てしめ、同日夜十二時青森の常光寺へ安着す、此の日途中の人馬の不足及び昼食場所の不都合等言語道断、此情実を押して津軽家の不誠事なること民の不懐を知る、我輩の迎船三日を待たずして来るとの説あり、又は八月に入て早速来るとの説紛々として日々虚説を楽んで日を送ること百日に近し。我連は本行寺へ入りしより、士分同様の取扱にて朝飯は一汁一菜、昼夕は二菜なり」がある
(この移動日について七月二十九日になっている史料もあり)
八月二十九日
大鳥圭介の「獄中日記」に、元会津純義隊にて見国隊に入り函館に在った松本鶴吉が降伏して増上寺に来、軍務官に引渡されるところ、贋金二両二分吉原にて遣った咎により入牢するとの記録がある
九月(日付不明)
津軽家より謹慎者一同に、昨年来、物入りが多く、殊に当年凶作にて、不行届の由に付、今日より賄方を減じて、朝昼は一汁、夕は一汁一菜とするとの達しがあった
九月二日
箱館で許された兵卒が青森に上陸、陸路東京へ出立した
九月九日
秋田謹慎者、秋田を出発し青森へ向かう
九月十六日
秋田藩預りの者二百十八名、秋田藩の護衛にて青森港に到着し、蓮心寺に入る。この頃、東京より近々船が来て我輩は東京へ送られる沙汰があると専らうわさになった模様。また秋田謹慎者が入った先が星恂太郎等額兵隊のいる蓮心寺ということは、二手に分かれていた額兵隊メンバーが一ヶ所にそろったことになる。秋田謹慎者のメンバーの一人芳賀七郎は「戦争談毎日毎夜なり」と記している
(秋田謹慎者の青森到着日付は、九月十一日、十五日になっている史料もあり)
九月二十五日
監守人が告げて曰く、「徳川御旧臣は更に函館にて謹慎仰付けられ他の藩士は東京に御送りの趣取締局より通達ありたりと」
九月晦日
箱館裁判所を開拓使出張所に改称、同時に「箱館」を「函館」と改称する(しかし、ほぼ徹底されていたのは開拓使関係の文書だけで一般的にはその後も長く混用され、明治九年五月に再度正式統一の追認がされた)