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箱館戦争後日録 明治二年十月〜明治三年二月二十九日
当サイト内の各日録は複数の史料を参考にして管理人が独自に額兵隊周辺を中心にまとめたものです
主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい
※このページ以降の日録では…参考元の史料が硬いというか、物好きな勢いが命だけの管理人の頭ではかなり難文でして(汗)
現代風に訳す努力もしてみましたが、表現を間違えるより漢字のニュアンスで意味はわかると思いますので、あまりいじらずに記載することにしました、あしからずご了承下さい
明治二年
十月四日
監守人より、青森駅へ巡察使が到着したので一層謹慎すべき旨通告があった
十月六日
巡察使が秋田へ向かうと監守より聞く
十月二十三日
官の蒸気船大阪丸が青森港へ投錨
十月二十四日
箱館兵部省役人井口寛次郎ほか一人来て、五ケ寺へ謹慎の者共へ左の通り申渡これあり
箱館降伏人、静岡、伊達元家来共
其方共儀、東京へ可被差送手順にて秋田弘前両藩へ預け被置候処、静岡伊達元家来共は当分函館に差置候様更に被仰出候間、函館へ差遣し候條於彼地謹慎、追ての御裁断可奉待者也
第十二字(第三字とも)、蝦夷地行きの者、官船大坂丸、津軽藩船安濟丸乗組に悉く乗艦する
十月二十五日
朝六時青森を出帆、同日午後四時過ぎ箱館港へ投錨、大坂丸乗組の者は即夜上陸し弁天台場に入る、尤も同船へ乗込候、前書両藩(静岡、伊達)の外他藩の者は上陸せず、直様東京へ御送りに相成候
十月二十七日
安濟丸乗込の者共上陸し弁天台場に入る。
額兵隊芳賀七郎の記録により、仙台藩の者はこの日上陸しているので安濟丸に乗船していたと思われる。芳賀は「同僚、我此所に在りしとき、某、此所にて死せり某は敵と此所にて打合せりとか回旧談に涙を流す者多し、此所は我軍の要害地にて在りければなり」と記している
また彰義隊の丸毛靱負はこの頃の生活ぶりを「此に於て弘前藩に幽せられしもの六閲月、其間同藩の待遇甚だ深切ならず、其一人に給せしものを挙ぐれば毎月煙草二玉(二玉にして江戸の半斤に過ぎず)塵紙四十枚半紙十枚に過ぎず(偶々自己の金を以て物を買はんとするときは、名を贋金に藉り一個即ち二分金に付僅か三匁若くは四匁なくては通用せずとて賄方なる者非分の利を貪れり)其食料は朝汁、昼蔬菜一品、晩香の物のみなり、而かも六カ月の間に白金巾の筒袖一枚と漸く十月初旬に至りて木綿布子一枚とを給付せられしのみなり(夜衾は五布布団一枚と木枕一個とに過ぎず)故を以つて其函館に送らるゝも別に足袋、草鞋等を給し呉れざるを以つて皆多く徒跣にて上陸し、雪中を徒歩して台場に入れり、其の惨状想ふ可きなり、之に反し他の諸藩に禁錮せられしものは人数に多少の別ありと云ふと雖も、各皆善く之を待遇し、就中某藩の如きは元禄赤穂の諸士に比し優遇するに至れりと云ふ」と記している
十月二十八日
兵部省出張取締役所より吾党(弁天台場謹慎の者)の主だった者を招喚、因て榎本対馬等両三人出頭、謹慎取締方を厳重に申渡される。此時、徳川慶喜公、伊達慶邦公東京に於いて謹慎御免之由を承る。是より先、安濟丸に搭載せしより以来毎日の食事、三回共に握飯(所謂もつそう飯)と味噌とを供せるのみなり
十月二十九日
額兵隊岩渕喜三郎、弁天台場病院にて死亡、十八才
十一月一日
此日より三飯共に散らし飯と為る、朝生味噌、昼汁、晩香の物等なり、且つ一人毎に木椀一個を分与す、兵部省官員前田雅楽、藤井又八等降伏人取締たりと云う
此日取締より左の達しあり
賜物
一、紺足袋一足ずつ
一、塵紙(但一カ月四十枚宛)
一、朔祝日に付魚一片ずつ
右 巳十一月
十一月四日
また左の達しあり
一番長屋 松岡四郎次郎
二番長屋 星恂太郎
三番長屋 大川正次郎、瀧川充太郎
四番長屋 榎本対馬、富津勢吉
五番長屋 梶原雄之助
六番長屋 瀧録三郎
病院取扱 畠山五郎七郎
右九名の者長屋局中人数取扱方申付候、閣各申合不取締無の様可致事
十一月 降伏人取締役所
此日部屋々々にて毎十人に取締一人ずつ撰み役所へ申出づべしとの達しあり、各部屋へ左の掲示あり
覚
一、降伏人謹慎の趣旨心得違無の様可致事
一、祝砲或は試砲相発し候日は二便の外局外へ不可出来事
一、内外へ書翰往復禁止の事
一、台場塁へ不可登事
一、無拠入用の品自分金を以て買調度節は品書致し取扱方へ相届二日或は三日分相纏め右品書賄方頭取の者より取締所の許を受け買調可遣候間私に品物買入候義禁止の事
一、降伏人病患有の節は取締方より守兵へ可申出守兵より取締役所へ申出診察の上病患の軽重により病院入局申付候事、但看病人は組合又は知己の者より可差出候事
右の条々堅可相守若心得違の者於有之は厳重取締可申付候事
十一月
十一月七日
以下の書面を達す
降伏人病患有の者、医師診察病症軽重見窮の上病院入局可申付旨、兼て申渡置候処、台場内は寒気別て烈敷重患に至ては治療も行届兼候に付、極々重病難治の症は医師一同詮議の上兼て申渡置候規則の振合を以て、医師より申出次第当県病院入局可申付候間右様可相心得事
但台場中病院も是迄の通可相心得申迄も無候得共、当県病院にて滞局中も台場中に謹慎同様に相心得可申事医師出頭之節病患の者は病院へ出診察可受事
但急患にて自歩行不相叶者は格別の事
十一月七日 降伏人取締役所
十二月(日付不明)
仙台潜伏の金成善左衛門(額兵隊)と新井常之進、仙台を脱出し江戸へ。しかし新井は間もなく仙台へ戻る。新井の去った後、金成善左衛門は一条十二郎の紹介で森有礼の食客となる
この頃の生活ぶりを彰義隊の丸毛靱負は以下のように記録している
「名にし負ふ深雪降る函館山の殊に海面に百千尋打出たる□台の中にしあれば、雪風膚を衝き寒気身を裂くよりも甚だしく炭火さへ六々あらざれば、其艱酸苦楚実に言ふ計りなし、のみならず三飯の如き十人を一組とし、賄方なるものより汁はさる棒と唱ふる木器に入れ飯は量を度りて入れ持来るも、一飯二椀に過ぎず、殊に汁に至りては冷水の如く(其調理するを見るに大釜に湯を沸かし之に味噌の摺りたるを和し塩を混淆しさる棒にて交ぜ汲み来れるなり)之を暖めんにも器はなく、且つ一組の内手疾きものは三椀四椀を喫し手遅きものは常に空腹に堪へざるより、各一策を案じくじにて順次給仕番を設け彼の陣平の漸く平均に分割するを得たりき、前には戦闘の修羅の巷の思を為し、今亦地獄否獄裏に餓鬼道の苦患を受く、斯れば出獄まで一人の飽腹せしものとてはなかりき、夜衾も一人に三布蒲団一枚づゝなれば、寒を凌ぐに術なく、又一策を設け二人組合ひ蒲団二枚を袋の如く観世よりにて綴じ合せ、二人其中にもぐり臥し、僅に寒を凌ぎたりし、湯は月に一両づゝ焚きぬれど、這は自ら潮水を汲み火をも互に焚き合し事にてありき、斯る有様なれば病み臥すものゝいと多く、其病院に入りぬるも平癒せしものとてはなかりき、予は幸に疥癬を患へしのみにして、其他の病には罹らざりし、此間読書(僅に二三の端本を互に伝写せるもの)するものあり、洋書、数学、習字等を学ぶものあり或いは碁(碁は小銭を紙に包み黒白の碁子に分つ)を囲み、又は拇戦を試み、或は終始うかうかと喋言居るものありて、五百余人己が様々にり、憂き中とても、流石月日に疾く、やがて歳も暮れ」
明治三年
この頃の生活ぶりについて
額兵隊の芳賀七郎の記録
「明治二年も過ぎて三年も迎ゆるも未だ罪不解、同僚中には遥々面会に来る妻子あり、魚船に依頼せしなり、老母もあり、父もあり、面会したさの余り国を出で、皆な辛苦を重ね来りしと云ふ憐れなり」
彰義隊の丸毛靱負の記録より
「春とはなれど、四方の山々は去年の白雪積み層み雪より雪に埋れあれど、早や如月も過ぎ、弥生となれば、流石春のしるしとてまばらながらに芝草の若葉の萌へ出づるにぞ、各々芝原に出で車前草、土筆、嫁葉の類を摘み取り密に火薬庫の銅を剥ぎ来りて鍋と為し、毎朝渡さるゝ生味噌を残し置きて之に加へ打寄り調味せるを以て、最上の佳味とは為しぬ、這は囚中苦楚の一事を掲げしものゝみ、瘴雨蛮風其辛苦艱惨の状に至りては到底筆紙の能く及ぶ処にあらざるなり」
一月四日
山之上町新地賄人足の福次郎、同町商人の喜兵衛、右両人、降伏人六番長屋岡本柳三、二番長屋菅原隼太(額兵隊副長)へ窃に相通し贋金弐歩に付、銀九匁五分ずつに買受、正金廿七両、両人へ相渡し贋金百両請取、右正金は両人入手贋金は持出し候途中、賄頭取より取押へ自訴致候に付、右福次郎、喜兵衛、召捕入牢申付有之今日差許候事
先是二日三日両日岡本柳三、菅原隼太、御不審之筋に付、函衛秋田両隊へ御預けに相成候に付、六番小屋取扱澤録三郎、二番小屋取扱星恂太郎両人より取扱名義御免願出候に付、不及其儀段井口出役申渡す外に衣類之儀有之
昨三日、本多幸七郎外四人より岡本柳三、菅原隼太、一条に付歎願之云々有之是に略す
一月五日
降伏人岡本柳三、菅原隼太、両人贋金取扱の一件に付、不埒の筋あり、昨臘晦日、函衛隊・秋田藩両隊へ御預け相成り候ところ今日被免候事
一月十日
新井常之進、函館到着
二月二日
台場二番小屋入、降伏人伊達藩中村徳蔵、病死。十九才
※降伏人の病死は守兵嚮導役に届け出ることになっていたようで中村徳蔵は「如例埋葬す」とされている。ほかの病死者で「例之通り山背泊江埋葬す」とされているものがあり、彼もこの地に葬られたのかも知れない
二月三日
降伏人よりの願出に付、洋書二十七冊貸下け遣す
二月十五日
降伏人、二番小屋入、佐藤熊之丞、大患の趣、医師に申出候に付、今日県病院へ入局申付候事
二月二十二日
降伏人、二番小屋入、菅原隼太、大患之趣、医師に申出候に付、県病院入申付候事
二月二十九日
(史料よりそのまま引用/降伏人提出の嘆願書)
昨夏謹慎已来一同文学等心掛候に付筆墨紙其外必用之品々買調元来貯薄之処互に流用仕候得共即今に至り候而者通用金之分者悉皆遣払□と困却極申候然処多人数之内十に八九者壮年血気之もの共にて何れも差せまり英仏学等勉強罷在纔一二本之原本を以数十人にて書写いたし候事故自然料紙入用も不少中にて日数に比較いたし候得者存外学業相進候ものも有之候を筆墨紙等手当不行届故を以此儘廃学為仕候而者如何にも歎か敷且つは各学術相励居候得者兼而御趣意之趣確乎と相守罷在候義に有之壮年之もの共束手消光仕居候而者徒然の余り不知心得違の場合に立至り可申も難量と夫是痛心仕候得共当節之身分他に金策可仕道も無之仍而者悪金御引替の義に付旧臘中厚御配慮被下候御内談之趣も御座候間甚以恐懼之至に御座候得共右悪金取集候処金四百十四両弐歩有之候に付右を以て唯今御役所において御取替拝借奉願度何卒前書之情実御賢考願意御許容之程私共一同奉懇願候已上
二月廿八日
松岡四郎次郎、星恂太郎、大川正次郎、瀧川充太郎、榎本対馬、根津勢吉、梶原雄之助、澤録三郎
右の歎願書を守兵を以て差出候事