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箱館戦争後日録 明治三年三月〜十二月
当サイト内の各日録は複数の史料を参考にして管理人が独自に額兵隊周辺を中心にまとめたものです
主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい
※このページ以降の日録では…参考元の史料が硬いというか、物好きな勢いが命だけの管理人の頭ではかなり難文でして(汗)
現代風に訳す努力もしてみましたが、表現を間違えるより漢字のニュアンスで意味はわかると思いますので、あまりいじらずに記載することにしました、あしからずご了承下さい
明治三年
三月四日
降伏人二番長屋小野寺勇吉、同河東田縫之進、右両人昨三日、台場塁上へ登り候に付、函衛隊秋田隊両隊へ御預け禁固申付候事
三月五日
二番長屋取扱、星恂太郎、其方去冬当所へ再渡已来、二番長屋取扱申付置候所、去年十二月菅原隼太不埒の筋有、今般また小野寺勇吉、同河東田縫之進等心得違いいたし候段、畢竟其方取扱方不締より前件再度の不都合に立致り、候条不行届の始末に付、右役名被免候事
二番長屋
右取扱役星恂太郎不行届に付、役名被免候間、長屋中談合取扱役人撰早々可申出事
三月七日
一昨五日、恂太郎一件に付取扱方人撰の義、二番長屋中へ相達置候所昨日人撰書差出候其文左に
今般星恂太郎儀、二番長屋取扱被相免候に付、跡役人撰可仕旨御達の趣承知仕一統評議仕候処、同御小屋内に而者青山次郎義可然歟と談決仕候間此段申上候以上
二番長屋詰合、降伏人一統 明治三年三月五日
右書付守兵より当局へ差出す
前書の通人撰書差出候に付、青山次郎へ取扱方申付候右書付左の通
青山次郎
其方事二番長屋人数取扱方申付候間不取締無の様可致事
降伏人取締役所
降伏人、佐藤熊之助、右之もの病気全快今日県病院退院いたし候事
三月十一日
降伏人二番入り小野寺勇吉、同河東田縫殿之助、右の両人、先日御規則を破り謹慎の趣意越不相弁段不届の振舞に付き、函衛秋田両隊へ御預けに相成居候処、二番長屋取扱青山二郎より歎願之義も有之候に付、格別之儀をもって、今日差許候事右差免候儀、青山二郎へ両半隊長を以申達候事
三月十五日
降伏人四百八十九人へ天竺木綿白手拭、壱人に宛一本ずつ被下候事
三月十八日
降伏人、二番竹内東乕、大患に付き、県病院入りの儀、医師より申出候間病院入差免候事
三月十九日
二番長屋人数九十四人
三月二十日
静岡伊達両藩へ達しの写
静岡藩知事徳川家達
元徳川慶喜家来兼而於函館謹慎申付置候処今般被差免候条於函館出張所可請取事
但し人員書之義者於彼地可相渡候事
三月
兵部省
仙台藩知事伊達宗基
元伊達慶邦家来兼而於函館云々右同文
但右同文
三月
兵部省
降兵双刀の儀者取束ね幾百幾拾腰被下置候段申達可相成丈人員に相応候様可致候併降伏の筋より致不足候分者不得止候得共詰り御不体裁に不相成様可取斗候事
但し他に貸渡等致し有之候はヽ勿論引揚可相渡候事
右両藩之外降兵之取揚刀有之候はヽ逐而当地江可相廻候事
三月二十二日
本省より御用状一昨日到来に付、開拓使へ降人脇刀の義及掛合候其文に曰
東京本省より申越候云々有の候間兼而会議所より及御引渡置候降人取上げ刀剣悉皆、明廿三日御引渡し有の候様致し度仍而及御掛合候也
降伏人取締役所
三月廿二日
開拓使庶務局御中
開拓使庶務掛り返事
東京本省より御申越の云々有之に付兼而会議所より引渡相成居候降人取上げ刀剣悉皆、明廿三日御引渡可申旨御掛合越之趣致承知候然る処明日者何分差懸り故差支候間来る、廿五日晴雨共四時揃於五稜郭土蔵中御引渡可申候間左様御承知受取人持夫共御差出可被成候此段御回答申入候也
三月廿二日
開拓使庶務掛
降伏人取締役所御中
三月二十五日
菅原文治、兄隼太へ見舞のため県病院まで罷出度旨、二番長屋取扱青山二郎より歎願に付則聞届面会為致候事
兼而庶務局江掛合之通五稜郭に於て降人より取上之大小類為請取井口寛七竹内利喜藏致出張請取候事
三月晦日
降人、弐番竹内東乕、病気全快県病院退申付候事
四月二日
静岡藩の関口、中山、海老原、下山、橋爪等五人、吾党を受取らんが為めに函館へ着す、然れども砲台にては之を知らざるなり
是より先き誰れ言うことなく吾々のまが罪も日ならず降り積りし深雪と共に解け初め、やがて白日を仰ぐのよすが来ぬらんなと口さがなく言い触らせしが果して此事あり(感旧私史)
四月三日
静岡藩、中山、橋爪、海老原、下山、関口の五名、降伏人請取人として到着
明四日十字降人名簿相渡し可申段今日申入置候所二字後に相渡し候間三字出頭可有之仍而申入候也
兵部省出張役所
四月三日
静岡藩出張中
四月四日
静岡藩、関口、橋爪、海老原
右三名呼出に付罷出静岡藩降人取調名簿引渡し候事
取締局前田雅楽、井口寛七の二人獄に来り関口等の到着を告げ、左の口達書を達したり
口達
元徳川慶喜家来、元伊達慶邦家来、降伏人一同
其方共義今般寛典の御沙汰被仰出謹慎御免旧藩へ御引渡に相成候、就ては近々両藩受取として出張致し候者へ、於当地引渡其節謹慎御免可申渡候得共先づ心得迄申聞置候事
四月五日
被仰渡之條に
元徳川慶喜家来、元伊達慶邦家来、降伏人一同
(略)
右にて徳川請取人として、関口、下山、海老原、橋爪、中山、渡海す、此時仙藩不来して、仙台降服人のみ当地に残る事となりければ、暫し国元の案否を待居る也
関口等五人、前田、井口と共に獄に来り吾々の元身分を取調べたり、関口等吾々の爛褸を纏ひ蓬頭垢面形容枯稿せると、獄舎の矮陋、食物の疎悪なるとを見て感愴にや堪へざりけむ、五人相顧みて涕を垂る衆皆凄然(感旧私史)
四月六日
台場内謹慎之降人明細取調度旨静岡藩出張役員願出に付聞届、今十字より左之通り出役す
役所より立合、前田、井口、竹内
静岡藩、関口、下山、橋爪、海老原
降人食糧一件に付開拓使江富士亦八郎罷出候処早速相整候に付明七日第九字地蔵町蔵元に於て可相渡細定相成候事
関口等五人亦獄に来る、曰く今日は前田等を酒楼に請し妓に命じ酒を強ひ彼等を酔はしめ、因て彼に請ふて漸く吾々のみ来ることを得たり、さて諸君永々の御心労察し入る処なり、此獄舎と云い、此食物と云い、其艱難実に想像するに余りあり、上様にも深く諸君等を御不憫に思召し、今回も思召しにて毛布其外を諸君に下されんとて既に高尾丸に搭載し駿州を発せしかども、未だ着せず、併しながら諸君も御承知ならん、御当家は実に非常の御減禄となり、加之、追々御旧臣の願うて御領分に移住せしもの数万人に至りたり、此等へも夫々御扶助遣はさるるを以て其費用を要するに実に莫大なり故を以て此度とても諸君の衣服調度等迄には行届かせられず、然るに諸君の実況斯くの如き甚だしきに至らんとは実に想像の外にてありき(各藩禁錮の者皆優待せらるるを以てなり)如何せん諸君をして此爛褸の儘帰郷せしむるとはと言て窃に落涙す、衆亦君恩の有り難きと関口等の好意とに感じ不覚に涕涙を催せり(感旧私史)
四月七日
降人為取調静岡藩義台場内へ通行差許候尤印鑑弐枚同藩江相渡候降人守兵江為見合印鑑紙一枚相渡置候事
四月八日
鼻紙料として一人へ一両づゝ藩主より贈れり(静岡藩)
四月十日
今朝十字前田雅楽、井口寛七台場内江出役之上静岡藩へ降伏人謹慎差許之上四百弐十人引渡候外に遠山春平壱人合四百弐十一人なり右謹慎差許候書面左に
元徳川慶喜家来、降伏人一同
(略)
二番長屋仙台藩取扱星恂太郎へ達書
元仙台藩降人病院取扱遠山春平江可相命心得之所同人事今日謹慎被免旧藩へ御引渡しに相成候付而者差向き右病院世話いたし候者無之間其元取扱兼候也又者同藩之内病院取扱方人撰可申出哉両条之内否可申出候事
四月十日
二番長屋取扱、星恂太郎
今日差許候旧静岡藩四百廿一人是迄之通弁天岬台場内江入置候様静岡藩より願に付此段聞届其儘台場内へ入置候事
岡本柳藏、菅原隼太、賄人足福次郎、小商渡世喜兵衛、右一件正贋左に
正金弐十七両、右喜兵衛贋金百両買入代金
贋金百両、降人より差出候贋金也
降人取扱より歎願に付正贋引替遣し候分左之通
正金百弐十弐両一分
此正金は前静岡藩より上納に相成候分に御座候
贋金四百十四両弐分
右贋金は降人より差出候金則静岡藩へ返し遣わし候分、以上
静岡藩より話し合有之に付印鑑札に而今日被免候旧静岡藩義台場内外出入之義相改め候に付別紙掟書函衛隊半隊長へ相渡尚口伝有之
静岡藩謹慎被免候もの台場出入之節印鑑持参之ものは合印鑑と見合相違無之ものは通行可為致事
但し門限朝八字より夕六字限り
右門限過き候はヽ通行差止め万一期限不帰之もの有之は同藩台場内取締之もの江相糾名前取調可届出事
四月十日
午前十一時、静岡藩士謹慎御免に相成
前田、井口等、関口等と共に来り謹慎放免を申渡せり
元徳川慶喜家来降人一同
其方共義今般寛典の御沙汰被仰出謹慎御免旧藩静岡へ御引渡相成候此段可心得者也
四月十日
此時前田曰く、是迄は職務により諸君に失敬せり、諸君も定めし東京に居らるるならむ、猶相変らずと、関口笑て曰く、成敗は兵家の常、貴公と雖も運拙にして軍敗るる時は亦此輩の如くならん、然るときは塩汁黒米の御相伴あらんも計り難し、因て先づ相変る方天朝の御為なるべしと前田愧汗す、蓋し関口其取扱の非なるを怒り戯言に托して嘲責せしなり(感旧私史)
是より先一同費用に窮し、前田に依頼し銘々所持の二分金を取集め、数百金、金札と引換を請願せしに、先一百金を渡し呉たり、然るに此に至て関口等に達して曰く、兼て降人より差出したる二分金は五稜郭新鋳の贋金なるを以て朝廷に没収せられたり、因て前に降人に貸し遣はせし一百両は其藩より上納すべしと衆皆其欺かれしを怒れり(感旧私史)
此日より一同本藩の賄と為る(仙台藩は未だ迎のもの来らず故に是迄の如し)昨日までの「ポンポチ」米の餓鬼道と違い、三飯共に必ず魚肉を添へり、此日又藩主よりして一同へ酒五樽玉子数千顆を賜はれり、一同歓極まり感涙にむせべり、此に於て皆久しぶりにて酒肉に飽き、快く酔ひしも敢て喧噪するもの一人もなかりし、此時関口は前田に請ひ曰く、同国仙藩の諸士未だ受取のもの着せざるを以て放免御申渡し無くも固より弊藩の諸士と異るなし、今日弊藩諸士へ聊か酒肴を与へんと欲す、然るに同室の仙藩諸士へ対し如何にも忍び難きに付諸士へも分与したり決して不都合は致させ間敷、若し過のあるに於ては拙者共誓て引受け貴兄等へ御迷惑相掛けまじきにより、人情を以て黙許あらんことをと、前田等漸く諾せり、此に於て仙藩の諸士(額兵隊、見国隊等)へも分与せり、諸士大に喜び深く我藩の好意に感し共に歓を尽せり、而して皆其藩の因循なるを怒る(感旧私史)
四月十一日
町役人直十郎へ申渡市中布告之義左之通
此度降伏人為引請取静岡藩出張に付昨十日静岡元家来共四百廿一人引渡候に付用事有之族者印鑑紙を以台場出入致し一日に廿五人を限り市中往復致し候間若市中に於て不作法強談押借乱妨等之不行跡有之候も難斗若心得違之者於有之は急度姓名相糾静岡藩旅宿或者当役所江可届出且又前廿五人と相限り候義は民心之疑惑を相避候次第に候若多人数台場内より出候而者市中民心に関係致し候事に付厳重に町中江相触候上心得違無之様相通し置可申旨急度申渡す
刀四百弐十本静岡藩江相渡候に付則請取書取之
是より先き吾々の五稜郭を出て函館の寺院に入る時、双刀は追て御渡しあるべきに付一時預り置くとの事にて銘々名札を付け官軍に渡したり、此に至りて其下げ渡しを申出しに少しく目ぼしきものは皆すり換へ曽て銘々の所持せしものにあらず、因て前田等も大に困却し終に朝廷より新に賜れりと称しくじにて分付したり(感旧私史)
四月十二日
二番長屋取扱、星恂太郎
金三両、衣服為料被下之
四月十二日
この日より交る交る本藩の印鑑を携へ市中を徘徊す、是より先き放免の申渡しありしも猶台場に留め外出を禁じありしが、此に至りて他出散歩するを許されたり(感旧私史)
四月十三日
仙台藩大塚薫之助
元仙台藩降人病院取扱申付候事
四月
口達
元徳川慶喜家来、元伊達慶邦家来、降伏人一同
其方共儀今般寛典之御沙汰被仰出謹慎御免之上旧藩江御引渡し相成候に就而者近々両藩為請取出張いたし候者江於当地引渡其節謹慎御免可申渡候得共先以心得迄前条申聞置候事
四月
静岡藩出張役員江今日台場内通行印鑑参枚相渡す
謹慎被免候静岡藩之ものへ台場出入印鑑三十弐枚橋爪昇一郎江下け渡候事
四月十四日
仙台藩呼出し之上御用状相渡候其文に曰く
其藩元家来降伏人引渡之儀兼而於東京本省より三月初旬御沙汰済に相成静岡藩も同様御沙汰に付同藩儀者今月二日請取役員渡着同十日引渡相済候然に其藩儀者静岡より道行程も近く敏くに請取人参着之筈如何之事に候哉此達書被見次第請取役員出張可有之候也
兵部省出張、函館降伏人取締役所
四月十四日
仙台藩、重役中
今般謹慎御免之上御引渡相成候当藩士一同今十四日御台場内引払申候此段御届申上候以上
静岡藩、関口頼藻
四月十四日
兵部省御出張所
静岡藩降伏人はこの日乗船
四月十五日
仙台藩庄子宮喜江台場内通行印鑑紙相渡候事
静岡藩降伏人はこの日出帆にて越後江渡海すと聞及ぶ、運送船は長鯨丸也
仙台開拓方役人庄司宮喜内、国元より忍び来り、見舞として金百両に寒製の塩引四十本、是を差送り、夜を待ちて帰国したり
此に至りて該地を発せし我船の未だ到着せざるを以て、更らに長鯨丸を借用し一同之れに乗り込めり、其台場を出づる吾々の喜び勇めるに引き替へ、仙藩諸士のしほしほとして吾々を羨やみ名残を惜める様、其離情の切なるは李獲河梁の別れ、俊寛僧都の鬼界島の事も斯くやと一同涙に双袖を絞りたり、予は仙藩星恂太郎、影田恭藏、横尾治兵、大塚薫之助、木村文三の諸士とは五稜郭相知以来尤も懇親にせしを以て、握手墜涙惜別多時、互に紀念の為め一詩を交換し、終に依々恋々として別袂為したり、此夜十二時函館を抜錨す(感旧私史)
四月十六日
昨日印鑑紙相渡候庄子宮城罷出候上拝借之印鑑札上納之上種々御礼申上る
四月二十四日
弁天台場で謹慎中の芳賀七郎の元に、戦友元大砲方八彌世輔、遥々忍び来りて面会す、国元より妻子老母の書面十数通預りて渡せり
四月二十七日
仙台藩も静岡同様御沙汰に相成候旨兼而被仰越候得ども未請取役員出張無之不審之儀に付早々請取役人出張可有之候様本月十四日国許江用状差出し申候仙台之人員七十三名有之候
五月
新井常之進の招きにより、仙台より正教会の協議を学ぶために信者の第一陣が函館到着
五月四日
実兄菅原隼太へ弟文治、見舞いのために県病院へ出度旨、星恂太郎より願出に付則聞届け願之趣差許す正に面会相成候事
五月十四日
仙藩伊藤俊吾、小梁川両人為請取都合十五人来り
五月十五日
当藩士兼而謹慎被仰付候者共今般被免当地於御出張所御引渡可相成旨東京兵部省御役所より御達に付右為請取私共儀昨夜当地着仕候宜御指図被成下候様奉願候以上
仙台藩、片桐祐作、伊藤文吾
午ノ五月十五日
兵部省御出張所
降伏人為請取仙台藩昨夜着港相成候に付明十六日第十字御引渡に相成候条為心得相達候事
五月十五日
星恂太郎
五月十六日
今朝第十字前田雅楽、井口寛七両人弁天台場に出張、伊達慶邦元家来共謹慎差許請取人同藩片桐祐作、伊藤文吾江引渡候事
元伊達慶邦家来、降伏人一同
其方共義今般寛典之御沙汰被仰出謹慎御免旧藩伊達江御引渡に相成候条可得其意もの也
兵部省出張、降伏人取締役所
五月十六日
謹慎御免にて御酒を頂戴する
五月十八日
天朝より刀御渡に相成
五月二十一日
降伏人之内元仙台藩家来共謹慎差許候上同藩江引渡候間為念申入置候也
降伏人取締役所
五月廿六日
開拓使庶務掛り御中
追而右降人引渡し候已上は降人当地に壱人も無之候に付弁天岬台場御引渡し可申之所仙藩降人悉皆旧藩開拓地江相移し候に付而者乗船迄之所今三四日風待中拝借いたし度旨願に付聞届遣わし候条右人数乗船次第御引渡し可申候間此段為御心得申入置候也
五月二十三日
当藩士兼而謹慎被仰付置候者共今般被免当地御出張所において御引渡し可相成旨東京兵部省御役所より御達に付右為請取之私共儀此度当地へ罷出候処何様之訳に而遅延有之罷出候哉可申達旨御直に罷仰談奉承知候右遅延之次第者右人員北海道支配地江為引取候手配に付彼是往復之間延引に茂可罷成趣東京において御本省江御届申上御承知相成候段同所より追々申越候間此段御届申上候以上
仙台藩、伊藤文吾
五月
兵部省御出張所
稲田屋冨右エ門雇舟、宝年丸幸次郎乗、星恂太郎外三拾八人、同妙生丸市三郎乗、荒井左馬介外三拾一人、右之通仙台旧藩箱館に而降伏人謹慎御免に付仙台藩支配地日高洲砂流郡開拓方へ相廻候に付別紙名前之通今廿三日乗込相下候
五月二十五日
出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡江赴く
※北海道開拓使文書には五月廿四日付で稲田屋冨右エ門雇舟、妙生丸幸次郎(市三郎の誤記か?)に乗込として仙台藩の英透(細谷十太夫)の届出があり、さらに妙生丸に乗込となっていた額兵隊・鈴木姫が病気で廿五日に病院に入っていることから、日高行の船の出帆は廿三日ではなく廿五日であると考えられる、鈴木姫はその後回復して六月四日に函館を出発して日高へ向かった
六月六日
着岸、上陸有て「ビラトリ村」と云ふ海岸より五里山奥へ至り開拓す
然るに一等を減しられ日高の国に入国を命ぜられ禁国の刑に処せらる、此の時の苦みや実に名状すべからず、全く無人島に等しく食ふに物なく、衣るに布なく、一行六十余人死地に投ぜらる、此に於て一行は「アイヌ」に乞ひて鹿熊の乾肉を貰ひ、之を縄にて結び一日間水に浸し而して小刀にて表皮をけづり之を食し又は山に入り木の根草の実を採り之に塩を投じ煮て食す、住むに家なく、山より木を伐り之を土間に敷き並べ、壁に枝木を立て、屋根亦其通り到底生還の見込なかりき、然るに時期に於て恰も夏季に属するが故に如何でか凌ぐことを得たり、苦し冬季にかヽらんには絶体絶命其土に死するよりなかりし、一行は天に哭し地に叫び、切歯扼腕して居たりしが、豈計らん二ケ月計りにして解放の令下れり、然るに一行中年長の者は生還の見込なしと断念し、思ひ思ひに草隠れとなりしが、閣下等十二三人の人々は、生気天を衝く元気にて再び本国に帰り隠れの身となりて時の至るを待てりと(仙台先哲偉人録)→梅澤彌平道治
六月九日
榎本釜次郎公より音信あり、大鳥公、荒井公皆な健在の由
七月八日
仙藩開拓寮より星恂太郎宛仰渡書あり
御手前儀取締の諸人数之内、病人之外は一宇御引揚之儀は、別而栗野實より申渡置候通、明九日爰元出立にて、仙台表江引揚に相成候条、其心得首尾可申之者也
この達しにより一同現地引き揚げと決まる、ただし全員が仙台に戻ったわけではなく、現地に残留した者、別の土地に移った者と道が別れた、星恂太郎は仰渡書が彼宛になっているところから責任者として一旦帰郷したことは間違いないと考えられる
七月九日
出立にて勇払宿
七月十日
白老
七月十一日
室蘭宿
七月十二日
乗込同日出帆
七月十三日
昼過に至て函館港江着岸
七月十五日
函館出帆
七月十七日
津軽青森江入港す、上陸有て逗留
七月十九日
青森出立
七月晦日
堤駅に着す、同日親類呼出にて御引渡に相成候事
閏十月九日
東京開拓使庁廃止、東京出張所となる、本庁機能は函館の開拓使出張所(長官も箱館に在勤)
閏十月十三日
金成善左衛門、新井常之進、熱海貞爾、仙台藩脱藩の罪を許される(熱海貞爾は福沢諭吉に庇護されており、後、内務省翻訳官に奉職)
十二月
新井常之進、森有礼と共に渡米