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星恂太郎と額兵隊

額兵隊は慶応四年四月下旬、参政の葦名靱負、松本要人によって組織された仙台藩の正規軍である。母体となったのは但木土佐の兵で、士官百人を選抜して城中に置き、楽兵隊と称して訓練を行っている。同年閏四月十五日、藩に呼び戻された恂太郎が楽兵隊の教師となり、二大隊に編成して葦名靱負が隊長となった。五月になり新潟開港に伴って仙台藩は葦名と恂太郎に新潟出張の令を下す。隊の教師不在を嫌った葦名は恂太郎を留め置こうとするが、外国事情に精通しているものが少ないため、藩はこれを却下し恂太郎の新潟出張を強行した。彼らの不在の間、隊長は但木左近、教師を菅原隼太が代行した。しかし間もなく但木左近が秋田口に出陣となり、額兵隊を統轄するものがいなくなったうえ、藩の軍事が切迫して他の隊へ編入されるもの多く、六十人に満たない状況にまで陥ってしまう。新潟から帰った恂太郎らは、これを知って急いで敢死の兵を募集し、その結果、藩士の二、三男からなる八百余人を得て、百五十人を砲兵、二百人を土坑兵、他を楽兵と編成し、調練を行った。隊の制服は英国式にならって赤色を用い、戦闘時は裏に転じて黒色となす方法を取り入れた。隊の武器は精良で、兵士の訓練も熟し、期待にかなった隊を仕上げたと認めた藩は、同年八月、恂太郎を新たに番士(のち大番士、賜俸百七十石)に列して額兵隊指令に任命した

「楽兵隊」が「額兵隊」に改められたのが何時なのかは不明、恂太郎が指令に任命された時には「額兵隊」になっている。「額兵隊」と名したのは大槻磐渓で、由来として関連があるのではと思われる事は、額兵隊の屯所である養賢堂の視学所の藩主御座ノ間が「額の間」と云う点である。養賢堂は仙台藩の藩校で、大槻磐渓はその学頭である。「楽」から「額」に改めた要因の一つと考えていいのではないだろうか?また隊服については、前記の通り外套、ズボンともに赤黒リバーシブルタイプで、赤と黒の服地、それと靴を横浜の外国商館より購入し、服地は軍服に仕立てた。生地は呉絽服連とされているので、厚手の毛織物だったと思われる。それと、仙台藩は兵士の徽章を家中士凡陪臣ともに左右の肩襟際より袖へ横に一尺幅一寸五分の白筋を縫い付けることになっていたので、額兵隊もこれを用いていた可能性がある

恂太郎が額兵隊指令に任命された時期、戦況はすでに南方の列藩軍が敗退し、西軍は仙台国境に迫っていた。藩は額兵隊の出陣要請を続けるが恂太郎はこれを拒否する。理由は武器弾薬が出陣出来る状態まで整っていない、今の状態で無理に出陣しても戦利を失い兵気を阻喪させるだけだ、というものであった。恂太郎は昼夜を問わず兵士に弾薬の製造を急がせ、九月に入って出兵準備が万全に整ったところで、十三日、城中に召し出された。出陣要請だと思い城中に入った恂太郎と葦名に下った令は、仙台藩は降伏恭順と決定、よって額兵隊は屯所より動かぬようにとの命令で、これに納得できない恂太郎は憤然として退出し、額兵隊の屯所へ戻り隊士を集めて、曰く
 
「我、今この一隊を出して、先敗の恥辱を雪かんとす、然るに君側の奸徒敵に降りて身命を保んと、その計策すでに成れり、今官軍国内に逼り、勢及ばずして降る時は、国家を削封せられんこと、上杉、相馬の前見の如し、故にこの虚に乗じ速に兵を出す時は、一戦にして敵を退けん、然らば四方より応援の勢不招して来るべし、その勢に乗じて奥羽を一統し、またのち関東に逼らん、然る時は敵より和を乞うに至らん、これ累代の国恩に報ずるの義戦にあらずや、各如何」
 
隊士は皆これに賛同し、九月十五日に屯所である養賢堂を出陣した。藩主の命を受けた葦名靱負が引き止めに屯所へ急行したが、額兵隊はこれを聞き入れず出陣を強行している

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星恂太郎は、仙台東照宮六供のうちの一戸、点茶事を務める星家に天保十一年十月四日誕生した。父の名は道栄と云い、母は洞口氏の出で名をまつという。恂太郎は名を初めは享治と名乗り、諱を春章のちに忠狂とし、字は士狷、無外と号した。準士格台所人の小嶋友治の養子となり名を孝治と称し、剣を狭川喜多之助、天文を村田喜治郎、西洋兵式を真田喜平太に学んだ。しかし庖厨(台所)事に従事するのを嫌って小島家を出、生家に戻って武芸に熱中したという

恂太郎は小柄で色が白く瞳の大きい、一見すると婦女子のような容貌だが、性格は豪爽で縄墨(規則)に拘わらず、精悍の気質が眉間に現れ、怒ると満面朱の如くなり、汗は額にあふれ、眼光は爛々と人を射した。人の下に屈するを悪とし、強者を抑え、弱者を救うを元として行動し、幼少の頃より武芸を好んで、その才智は人に勝ったという。また、酔えばただちに詩を吟じるのが癖で、その声は清朗、聴く者の感嘆を誘ったらしい。

始めは攘夷を唱えて金成善左衛門、男澤珍平、菊地虎太郎と共に大槻磐溪、但木土佐、松倉良輔等の暗殺を計ったがすべて未遂に終わり、但木土佐等の説得に耳を傾けた彼は、元治元年、国を脱して江戸へ走り、幕臣川勝、下曾根等の西洋砲術家に歴従して洋式の銃隊編制調練等を学び頗る精通の聞こえがあった。さらに諸国を遊歴して各藩の兵備を視察し、横浜に至って米国人ヴェンリードに従い兵学砲術を研究し江戸に出て、諸藩士に兵学砲術を教授するまでになり、戊辰の年を迎えた。江戸に西軍が入ると戦火を避けるために横浜へ居を移し、そこで教授を続けたという。
西軍の会津征討が起こるに及んで松倉良輔等の進言で恂太郎は藩へ呼び戻されることになり、慶応四年閏四月十五日、身を東照宮宮司星半齋養兄とし、西洋流銃術指南役で仙台藩に召し出された。

(ここから先については「戊辰箱館戦争録」のページで、日録状態で随時内容を更新して行く予定です・・・と、言ってもスローペースだと思いますが・・・気長にお付き合い下さいマセ。以下は箱館戦争後の星恂太郎についてです)

明治三年五月、弁天台場での謹慎放免後、恂太郎は他の仙台藩士等と共に、日高洲沙流郡の仙台藩開拓方へ送られ開拓作業に従事するが、約一カ月後の同年七月九日、開拓方は解散となり、現地に残る者もいたが、恂太郎は仙台引揚者の代表となっていたのでこの時点で一度仙台へ戻ったと考えられる。その後どういう経緯があったかは不明だが、この翌年の明治四年三月七日、開拓使十五等出仕を拝命し、岩内郡掘株製塩場詰となったが、業績不振で明治五年十一月に製塩所が閉鎖と決まり、恂太郎は責任をとって開拓使免職、のち上ノ国で興業を起こそうとした等の話もあるが定かなことはわからない。明治九年七月二十七日、故郷の仙台で没した。享年三十七才。

恂太郎の妻・つるは金成善左衛門の妹で仙台出陣にあたり、恂太郎が金成善左衛門に願い、つるも承知したので嫁に迎えたのだという。つるはこの時十七才であった。恂太郎とつるの間には二女があり、長女は榎本対馬の次男、孝三郎に嫁ぎ、次女は樋口忠一に嫁いだ。つるが没したのは大正十五年九月一日。享年七十五才。

◆◆◆ 参考史料(一部抜粋) ◆◆◆

◇星恂太郎碑銘

仙台藩祀東照公。供祠務者六戸。曰六供。掌点茶事。星氏其一也。星恂太郎君。以天保十一年十月四日生。父名道栄。母洞口氏。君為人。短小精悍。有胆気。好武技。不屑茶儀。慷慨詭激。動輒以気凌人。人罵其狂。君曰。人言当矣。因自名曰忠狂。時外事日逼。攘夷開国。分党相鬩。藩老但木土佐。儒臣大槻磐渓。専主開国。君怒曰。是国之蠧也。与同志士金成善左等謀刺之。磐渓喩以海外大勢。君大悔悟。遂脱走江戸。時土佐在江戸。有藩士富田鉄之助。以義侠聞。一夕抵土佐索数金。土佐問将何用。曰。恂太来投我。彼材可用。請資而遣之。土佐笑曰。吾子亦解人也。乃投以十数金。於是君去游四方。与志士交。遂就米国人於横浜。講究洋兵学。就林祭酒久世侯。並聘教練其家兵。戊辰変。土佐徴君趨急。君踊躍曰。足以償前罪矣。乃馳還献計。募藩士少壮千許人。請磐渓名額兵隊。教練四月而成。八月擢大番組士班。賜俸百七十石。時四境告急。藩促出兵。君曰。我兵屡敗。以糧餉弾薬不備也。乃百万蒐集。発有日矣。会土佐見斥。奥羽同盟瓦解。藩論一変罷兵。君憤慨曰。一戦而克。猶不足挽大勢耶。乃檄於市。不告而発。進到槻木駅。時九月十五日也。藩主大驚馳止之。君不得已。還屯宮床村。伺動勢。時幕府海軍将榎本武揚。率艦隊泊松島湾。将走箱館。使人招君。々遂以隊兵投之。乃謂部下曰。欲去者去。奮請従者二百五十人。十月従武揚至鷲木。尋破川汲嶺。陥松前城。額兵隊毎戦有功。明年四月。西軍大挙。来討海陸鏖戦。両軍死傷無算。武揚拠五稜郭戦酣。西軍餉以酒。衆疑不飲。君笑曰。我輩命在旦夕。彼豈須毒我。乃大■数椀曰。美酒々々。既而西軍諭降。武揚会君等諸将。議曰。孤軍難支。不若吾輩就誅免我衆。五月十八日終降。三年六月。君見釈。仍留在北海道。従拓殖事。尋出仕開拓使。進大主典。四年六月。移家於岩内。開製塩場。六年辞官。客遊上国。謀興業。九年七月二十七日。病歿於仙台。年三十七。葬北郊万日堂。配金成氏。名鶴。善左妹。初君将発。過善左曰。一死報国。吾所期也。独有老親在。請得君妹以托之。善左問妹。々時年十七。曰。義師不振。妾痛次骨。星君幸有是挙。使其無後顧之憂。妾願也。遂帰焉。生二女於岩内。君歿後。帰仙台。紡織賃作。養姑撫孤。先是武揚官于朝。善視遺属。故旧相謀。贅榎本対馬次子孝三郎。配長女。対馬嘗同走箱館者。次適樋口忠一。君有義弟半齋。別成家。仙台士荒井悟。亦嘗同従軍。今茲与同志謀。欲為君建碑著其蹟。徴文于余。々亦従事戊辰役者也。乃不辞。為之銘曰。
 君嘗遺言。宜死北洋。不幸余生。帰葬故郷。
 勿封勿碑。任厥廃荒。吁嗟星君。忠烈酬国。
 死不顧名。人則■惜。掲厥峻節。銘茲貞石。
  正二位勲一等子爵榎本武揚題額
  仙台大槻文彦撰文

(「仙台藩戊辰史」より)

◇星恂太郎について

恂太郎身幹短小、白面巨眼、一見婦豎の如きも、怒る時は満面朱の如く熱汗額に湧き眼光爛々たりき性豪爽縄墨に拘はらず、酔へば則ち詩を吟ず、音吐清朗、聴くもの感嘆せり、始め攘夷を唱へ金成善左衛門、男澤珍平、菊地虎太郎と共に大槻磐渓を斬らんとし又但木土佐、松倉良輔を奸賊なりとして殺さんと計り事成らず脱藩して信毛に隠れ大條季治一條十次郎と洋行せんとして成らず、後洋法兵学を学べり

慶応四年六月新潟開港の為に仙台藩より出張の面々、葦名靱負が全権、副使は監察牧野新兵衛、周旋役金成善左衛門と石川重松、外国事情に詳しく欧文を読める星恂太郎と横尾東作が付属、白川出陣の大石源之進と牧野權十郎の二小隊が護衛、仙台発五月廿六日、米沢会津に立ち寄り六月十日新潟着、ほかに新井常之進が同行

星恂太郎、名は忠狂、東照宮星道榮の子にして台所人小島友治の養子となり孝治と称せしも庖厨の事に従事するを厭ひ生家に復りて武芸を修め、元治中国を脱して江戸に走り幕臣川勝、下曾根等の西洋砲術家に歴従して洋式の銃隊編制調練等を学び頗る精通の聞こえあり、諸国を遊歴して各藩の兵備を視、更に横浜に至りて米国人ウエンリートに従ひ兵学砲術を研究し、江戸へ出て諸藩士に兵学砲術を教授し居りしに西軍江戸に入り上野の戦争となるに及び、避けて横浜に隠れ居りしが会津征討の事起るに及び松倉良輔等は星の用ゆべきを聞き執政に上申し内命を下して帰国せしむ、星は閏四月に帰国せしを以て執政松本要人は仙岳院の役僧を召出し恂太郎が東照宮宮仕星半齋の養兄として仙岳院配下の者たるを確かめ同十五日同人を召出して
  東照宮宮仕半齋養兄 星恂太郎
 西洋流銃術指南被仰付候に付勤仕中大番組格被仰付御切米三両御扶持四人分被下置候旨御意之事

星の額兵教授たるや飲酒流連を事とす、隊長葦名靱負屡之を戒む、星曰く一朝臨戦生を期せず請ふ暫く度外に措け、養賢堂に屯するに及び葦名大に軍令を厳にせしが兵士は星の放蕩を見て服せず私に不平を唱ふるものあり、葦名又星を戒む、星曰く兵士の不平猶未た足らず大に起るに及び之を撫せんと、更に悛めず、渡海して松前に移るに及び自ら酒を禁じ品行厳正殆と別人の如く恩威並び行はれたり

星恂太郎も亦書を裁して旧師米国人ヴェンリード(在横浜)に送りしが同人も和睦を勧め来れり
「ゴキゲン ヨロシウ アナタノテガミ マヤリマシタ イロイロノ メヅラシイモノモライマシタ マコトニ アリカト トキトキ テガミ モライタイ アナタノテガミ イセカツニアケマシタ シンフンノコト 一モンカカリマセンヨイ サンガツ十九ニチ タイテ カングンハコタテ マヤリマシヤウ ナルタケ ワボクヨロシウ ワタクシノ トモタチ ミナミナ ヨロシク ヘサヨナラ       ウエンリイト」

額兵隊長星恂太郎は赦免後北海道開拓使に出仕し大主典となり、四年六月家を岩内に移し製塩場を開き、同六年官を辞して各地を視察し九年七月仙台に歿す、享年三十有七、北六番丁萬日堂に葬ふる。妻鶴子は金成善左衛門の妹なり、恂太郎の額兵隊を率い仙台を発せんとするや、善左に謂て曰く、関心唯老親のことのみ願はくは足下の妹を予か妻とし老親を托したし如何、善左鶴子を呼び之を問ふ、鶴子時に年十七、答へて曰く星君義挙の為妾に奉養のことを托し給ふに意あらば妾誓て後顧の憂ひなからしめん、恂太郎大に喜び老親を鶴子に托して去れり、後岩内に至り同棲して二女を舉げ、榎本の媒酌にて榎本対馬の次男を長女に配せしといふ

(「仙台戊辰史」より)

星恂太郎人となり短小精悍胆気あり幼より武技を好み慷慨詭激気を以て人を凌ぐ、人其狂を罵る、恂太郎曰く人言当矣と因て自ら忠狂と名く、字は士狷、無外と号す、時に外事日に逼り攘夷開国両党互に相閲ぐ藩老但木土佐専ら開国を主とす、恂太郎以為く是れ国蠧なりと同志金成善左衛門等と之を刺さんとす、土佐諭すに海外大義を以てす恂太郎大に其説に服し遂に江戸に脱走して四方志士と交る又米国人に横浜に就き洋兵学を講究す、明治戊辰の変藩之を徴して急に趨かしむ乃ち馳せて仙台に帰り藩士の少壮者千余人を募り西洋兵式を調練し四月にして成る号して額兵隊と曰ふ、是に於て大番士に擢じ百七十石を給せらる、時に四境急を告げ藩出兵を促かす、恂太郎曰く我兵の屡ゝ敗るヽは糧餉弾薬の備はらさるを以てなりと百方之を蒐集し発する日あり会ゝ藩論一変兵を罷め事を執るもの斥けられ奥羽同盟瓦解す、恂太郎憤慨して曰く一戦大勢を挽回する亦快ならすやと兵を率い告けすして発す楽山公大に驚き馳て之を槻木駅に止む乃ち已むを得す還て黒川軍宮床村に屯し以て動勢を伺ふ、時に幕府海軍の将榎本武揚等艦隊を率いて松島湾に碇泊す乃ち隊兵の事を共にせんとするもの二百五十人を将て之に投し武揚に従て松前鷲木に至り川汲嶺を破り進て松前城を陥る、額兵隊毎戦功あり、五稜郭陥り孤軍支ふる能はさるに及ひて遂に降る後ち赦されて開拓使大主典に任す明治四年家を岩内に移し製塩場を開く尋て官を辞し上国に客遊し興業を謀る、明治九年七月二十七日病て仙台に歿す享年三十七、仙台北六番丁萬日堂に葬る

(「仙台人物史」より)