
ハワイから日本にヨットで行くなんて聞くと大冒険のように聞こえるが、その時の僕はヨットの経験はまったくなく、ひょんなことからこの航海に参加することになった。そして、結論から言うと問題なく42日後に横須賀に着くのだが、まあ暇な人は1時間ほどこれを読んで軽く疑似体験をしてください。
そのとき僕は150万円持っていた。それは神戸で柿屋と焼き芋屋をして貯まった金。朝に柿やさつま芋を買って、町に行ってその倍の値段で売りまくるというシンプルな仕事だったが、馬鹿ほど儲かった。僕は柿屋と焼き芋屋をしたせいで、金を貯めただけでなく商売をするという楽しみも覚えた。だからハワイに行っても、何か買ってそれを売れば、今持っている金が倍倍になるだろうと考えていた。
ハワイに着くと、ワイキキに住んでいる友達のところに転がり込み、少し体を休め、町に何か売れそうなものを探しに行った。その頃ダイビングのインストラクターというのにも興味を持っていたのでダイビングショップに行ってみた。「ダイビングをしながらお金がもらえるならいいんじゃない」という安易な動機だ。日本人がやっているダイビングショップがあったので、そこで色々話を聞いてみた。60万円でインストラクターの免許が取れるという。そこの店の日本人スタッフはそれは素晴らしい、いい考えだと言っていたが、話を聞けば聞くほどいやになってきた。とりあえずダイビングのインストラクターはボツ。
150万円という大金を持って街に行くといままで買えなかったものが買えた。例えばワイランドという画家のギャラリー。彼は流行の画家で、彼の海や魚の絵はとんでもなく高い。油絵のオリジナルの絵なら数百万はくだらない。と、その中に6000ドルのカジキの水彩画があった。これなら買えそうだと思って、僕はお店の人に聞いてみた。
「すいません。これ、オリジナルですか。」
男の店員は待ってましたとばかりに言った。
「さすがお客さんお目が高い。この絵はワイランドにしては珍しい水彩画で、しかもオリジナルです。私もワイランドの絵は好きですが、カジキの絵は珍しいですね。」
「これって日本では高く売れるの。」
「この絵は日本では倍の価値があるでしょう。何せ日本人はワイランドには目がありませんから。」
「と言う事はこれを日本で売れば、1万2千ドルで売れるの。」
「その通りです。しかも日本ならワイランドといえばすぐ売れるでしょう。何せこの絵は世界にひとつしかないオリジナルですから。ここだけの話、もしワイランドに何かあった場合にはこの絵の価値はどうなることやら。私には見当もつきません。」
僕はしばらく考えていた。このセールスマンの言っていることは、本当だろう。日本で2倍で売れるというのは十分ありうる話だが、どうやって売ればいいんだろう。僕が考えている間、セールスマンは僕にぴったりついていた。僕が少し考えさせてくれと言うと、店員は今契約しないと明日には売れているかもしれないと、僕を脅した。そして僕も見れば見るほど自分のものにしたくなっていた。「日本にもって帰れば何とかなるだろう。面白そうじゃないか。これはチャンスだ。やってみよう。」僕は思い切って、それを買う契約書にサインをした。そのとき僕は20ドルしか持ち合わせがなかったのだが、そのセールスマンは20ドルでもいいから前金で入れれば契約が成立すると言う。そんな簡単ないきさつで、僕は6000ドルの絵のオーナーになっていた。
ワイランドは流行っている画家で、せまいハワイに何軒もギャラリーがある。僕は今自分が6000ドルの絵を買ったことに興奮していて、歩いて20分くらいのところにある別のワイランドギャラリーにも行ってみた。頭の中はワイランドの絵のことでいっぱいだった。というより金のことでいっぱいだった。そこのギャラリーにも、さっき僕が買ったのと同じような水彩画が同じような値段で売られていたので、ためしにお店の人に聞いてみた。
「この絵は日本でどれくらいの価値があるの。」
そこのお店の人は真面目なたちのようで、店の奥に入っていってわかる人に話を聞きに行った。戻ってくるとその人はもっともなことを言った。
「日本のギャラリーでいくらで売られているかは日本に問い合わせてみないとわかりません。」
「もし、これを日本で売ったらいくらになるかわかりますか。」
「それはわかりません。高く売れるかもしれませんし安くなるかも知れません。高く売れるという保証はできません。ただこの絵はワイランドの描いたオリジナルで、いいものだということは保証します。」
僕はそれを聞いて現実の世界に戻った。だまされた、いやそんなはずはない、いややはりそうだろう。少し残念な気もしたが、同時にほっとしたのはやはりそれが真実だからだろう。僕は、一応話の流れ上
「えっ。でもアロハタワーのところの人はこれと同じような絵なんだけど、倍の価値になるって言ってたよ。だから買ったんだけど。」
と言って抗議をした。その人は本当にちゃんとしたセールスマンで、それを笑って済ませず、僕の話をいちから聞いた。そして、アロハタワーのギャラリーに連絡し、話を聞いて、僕の言っていることが本当だとわかると、世間知らずな僕を責める態度をまったく見せずに、ワイランドギャラリーのスタッフとして僕に謝った。「倍の価値がないなら買わないよ。」と言うと、快く契約も解消してくれた。僕はディポジットの20ドルを取りにいくと、さっきの調子のいい男は
「本当にもったいない。見てみてくださいもう一度。本当に素晴らしい。」
と、まだやっていた。まあなんでもいいや。お店を出ると、さっきまでの興奮は消えていたが、肩の荷が下りてすっとした気分だった。
それからしばらく手持ちの150万円を増やすべく売れそうなものを探して廻った。ハワイにいるのだからハワイらしいものがいいだろうと、目をつけたのがハワイアンジュエリーとウクレレ。
ハワイアンジュエリー屋では、100万円分まとめて買いたいというと、安くするからと必死に売ろうとしてくれたが、どうもハワイアンジュエリーの価値がわからずうやむやになってボツ。
ウクレレ屋では、ウクレレ屋の日本人の社長に
「お前。そりゃ百万円持ってるって言ったらどこ行っても、いいお客が来たなって思われるよ。ワイランドの所だってそれは商売なんだからそれくらい言って当たり前じゃないの。オレはいい人だからいいこと教えてあげるよ。よく聞いておけよ。10人いたらそのうち9人はお前を利用してやろうって奴だよ。1人くらいはいい奴いるかもしれないけどね。俺は金持ってるからいいよ。お前をだまそうとは思わないよ。昔オレだって金がなかったんだ。プカシェルのネックレスって知ってるだろ。そこらへんに落ちてる貝をネックレスにしただけなんだけど、あれハワイじゃ百円もしないんだ。それをお前、昔の話だけどマルイに売って、マルイはきれいな箱に入れて一万円で売ってたよ。それが大流行しちゃって、俺はその1年か2年で1億は儲けたね。いやあ、おれって本当たいしたもんだ。」
と、自慢話を聞かされた。だけど、その社長にはなんとなく親しみと少しあこがれを感じ、「ウクレレなら買ってもいいな、売れるかもしれないな」なんて思っていた。ウクレレを山ほど買って、東京の街角でウクレレを弾きながら売れば、売れそうだなんて考えていた。
一通り金儲けのことを考えると、僕はヨットハーバーに足を運んでいた。僕の夢は、僕が金を欲しがるのは、ヨットを買って南太平洋の何百何千とある島々をサーフィンをしながら回ることだからだ。アメリカのサーフィン雑誌で読んだ話で、どこかの弁護士がそれまでの生活をなげうって、ヨットを買ってフィジーに行くという話があった。そしてそいつはいい波を腐るほど見つけ、最高のサーフィンをしたのだけれど、最後に気が狂ってしまった、という話。最後に気が狂ったというのがよくわからないが、僕はそれを読んでなんて楽しそうなんだと、それにひどく憧れたのが始まりだ。それからはそれが考えられる究極のサーフィンライフだと思っている。
ヨットというととてつもなく高いというイメージがあったが、調べてみるとヨットにもピンからキリまであった。ハワイにはヨットを個人売買する人の為の情報誌のようなものがあって、それをみてみると安い船なら100万円くらいからあった。一度ヨットディーラーの人に詳しい事を聞いてみた。
「100万円ぐらいの船だと太平洋を渡って、南太平洋に行くにはちょっときついんじゃないかな。お兄さんの話を聞いていると、やっぱり200万円ぐらいかかるかな。ヨットにも性能があって、あまり軽いヨットだとゆれすぎて外洋にはいけないんだよ。太平洋のような大きなところに行くのなら、重いいい船でいかないといけないよ。それにしてもヨットの経験がないなら、一度ヨットに乗ってから考えたほうがいいよ。ハワイでヨット買ってタヒチまで行ったはいいけど、もうこりごりとタヒチでヨット売ったなんて事がよくあるんだよ。」
「200万円あればヨットで南太平洋に行ける。そのためにもあとひとがんばりしてお金を稼がなきゃ。200万でヨット買ってそれ以外に100万はいるかな。」
僕はヨットハーバーに浮かぶ船を見て自分の夢を確かめた。ヨットハーバーの掲示板には情報誌よりもいい掘り出し物がある可能性があったので、そういうところもこまめにチェックした。
ハワイにはいくつもヨットハーバーがあり、いろいろ安いヨットを探しに廻ったが、ワイキキヨットクラブの掲示板にこんなことが書いてある紙切れを見つけた。
求む 乗組員
日本行きのヨット 帰りの飛行機代出します
食事つき 経験あったほうがよい
キャメロン 454 3351
これを見た瞬間これに行ってみようと決めていた。早速そこにあった公衆電話からキャメロンに電話をした。後から思えばこのときすでに行けるような気がしていた。それでも電話をする時は緊張し、どんな人だろうと思いをめぐらした。きっと難しい人なんだろうなと思っていたが、電話で話してみると、若い感じの普通の人だった。
「ハロー。えっと乗組員募集というのを見てかけたんですけど。」
「ヨットの経験はあるの。」
「いや。ないんですけど。」
「経験がないのはいいんだけど。」
「日本人なんだけど。」
「じゃあ日本語は話せるの。」
「はい。」
「そうか。今仕事で忙しいから。今日の夜待ち合わせをしよう。」
話はすぐ決まり、その日の夜9時にワイキキのデュークカハナモク像の前で待ち合わせをした。話し口調はさわやかなで軽い感じだったので、ファッション雑誌の広告にでてくるような金髪でかっこいい感じで、海の男っぽい人が登場するんだろうなと想像していた。しかもオートバイに乗ってくると言っている。
約束の時間に15分遅れてキャメロンは登場した。車にまぎれてなんとなく登場したキャメロンは、想像していたのとはまるで正反対だった。確かに髪の毛は金髪でオートバイにはまたがっていたが、がっちりした海の男というよりコンピューターの得意そうな、ひょろっとした男だった。怖いとか強いとか、そういうのとはまるで関係のない、あたりさわりのない、すれ違っても気づかなさそうな普通の人だった。僕は肩すかしをくらったわけで、いきなり緊張もほぐれ、とりあえず二人で近くのハンバーガー屋さんに入り、話をした。
まず簡単な自己紹介と身の上話。キャメロンはすでに髪の毛が薄く、年上だろうと思っていたが、実は僕と同級生の26歳。アメリカ海軍の潜水艦に乗っている少尉。大卒なので若くして出世したのだ。今は真珠湾の軍のヨットハーバーに泊めてある自分のヨットに住んでいる。今度ハワイの基地から横須賀の基地に転勤になったので、自分のヨットで横須賀に行くことにした。ヨットの経験は3年など等。僕も、ヨットの経験はないがヨットを買いたいということ、サーフィンが好きなことを説明し、職業はフルーツを売っていると言っておいた。自己紹介した後、少し気になっていたことを聞いた。
「ヨットで日本に行くって安全なの。」
当然安全なんだろう。だから行くんだろう、そんな人はけっこういるとわかっていたが、無知を装って、一応聞いてみた。キャメロンは良く聞いてくれたというように話し始めた。
「太平洋を横断するってことは、ヨットの世界ではそんなに難しいことじゃないんだ。現にそんな人沢山いるし。遭難して死ぬってことはないよ。だからといって簡単じゃないと思うけど、だから楽しみなんだ。僕もハワイ諸島周辺なら何度もヨットで行ってるし、それに今回はもう一人プロのヨットマンを雇うんだ。僕とその人の2人は決まっていて、もう一人乗組員を探しているのさ。」
僕はもう自分がいける気になっていたが、それも無垢を装って聞いてみた。
「他にも行きたい奴っているの。」
「ああ。10人くらいの人と話をしたけど、まだちゃんとは返事していないんだ。」
ガーン。僕はそれを聞いてやっと、まだ行けると決まっていないことに気づいた。よく考えてみると、ヨットに関してはまったくの素人で体が丈夫という以外なにもとりえがない。多分この時キャメロンも「そういえばこいつじゃなくてもいいんだ」と思ったと思う。急にキャメロンが赤の他人に見えた。急に場が冷めた。僕はそれまでの態度をガラッと変えて、キャメロンに気にいってもらおうと自分をアピールし始めた。
「絶対行きたいんだけどなぁ。帰りの飛行機の切符要らないよ。だから連れてってよ。船の中で日本語も教えられるし。」
どうも、キャメロンはお金がぎりぎりらしく帰りのチケット代が浮いたということが効いたらしい。そこらへんから話が本気になっていった。
話が一通り終ると、ヨットを見に来るかと言うので、オートバイの後ろに乗せてもらい真珠湾までキャメロンのヨットを見に行った。そこにあったのはマストの立っていない白い船。今度の航海のためマストを立て直している最中だった。船の名前はリリノーといってハワイ語で白い霧という意味。そのときはマストがなくてヨットとしては不格好だった。それまでヨットハーバーで色々なヨットを見てきた僕の目には、そんなに立派な船に見えなかったが、それでも同い年のキャメロンがこんなものを持っているということに驚いた。キャメロンの船は大体十メートルくらいのケッチという種類のヨットだった。ケッチというのはマストが2本立っている形のヨット。キャメロンの船はそんなに新しいわけではなく、中古で300万円ぐらいだったと言っていた。中はけっこう広くテレビやキャメロンの生活用品が散らばっていた。中に入ると天井は高く、まっすぐ立つこともできた。無理をすれば5人ぐらい寝れそうだったが、快適に過ごそうと思えば2人か3人が限度だ。
すでに夜遅く、泊まっていってもいいと言ってくれたが、遠慮してバスに乗ってワイキキまで戻った。その日キャメロンと別れるときにはもうヨットに乗って日本にいけることがほぼ決まっていた。それから1週間後はっきりと僕に決めてくれた。

それからヨットで出発するまで、一ヶ月くらいあったが、その間キャメロンは海軍の仕事で忙しくしていた。僕は何もするわけではなく相変わらず、ボチボチ商売になりそうなことを探したり、友達とサーフィンに行ったり、ヨットの準備を手伝ったりしていた。出発の3週間前になるとヨットの準備を手伝うという条件でキャメロンのヨットで寝泊りを始めた。
ヨットは維持するのに手も金もかかるものだが、今回のような大航海の前には万全の準備をするのに越したことはない。太平洋のど真ん中で、「あっ、マスト取れちゃった。」では手遅れだ。
今回の航海の準備とはまずマストの立て直し。ウィンドベインという機械をつける。食料と水を積むという作業。船はプロの人に来てもらい直してもらった。本当は自分で船は直したほうがいいのだが、転勤前のキャメロンは忙しく誰かにやって貰うしかなかった。その代わり暇人の僕が簡単な仕事を手伝った。

船を直しに来た人はリッチーという人だったが、お気楽な人で僕とすぐに息があった。キャメロンはリッチーに対して、予定に間に合ってないと言ってイライラしていたが、リッチーはマイペースで、いかにもアメリカ人といった働き振り。僕はヨットを直す仕事なんてのもいいな、なんて考えながら、なるべくリッチーの手伝いをするようにしていた。
マストを立てるところは絶対に見逃せないなんて楽しみにしていたが、意外におおざっぱ。難しい機械を使うわけでもなく、マストがまっすぐ立っていて、マストを固定するワイヤーが全部きつく張っていればそれでよしという程度。ウィンドベインという機械は風を利用して、船を自動的に操縦してくれる機械なのだが、リッチーはそれも割と適当。日本人の僕からしてみると、いかにもアメリカ的な仕事ぶりだった。
キャメロンに自分で雨合羽を買っておくようにと言われていたが、最後にリッチーが古い合羽と長靴を譲ってくれた。
食料と水は僕とキャメロンで準備した。食料は大型安売り店で米やパスタ、缶詰など腐らないものを40日分買う。水は40リットル入る水専用の入れ物を、海洋用品店で5つほど買い、十分すぎるほどの水を準備した。
僕は今度の航海のことについてはかなり興奮していて、日本の友達や知り合いのところに絵葉書を送っていたが、神戸の実家にも連絡を入れておいた。
「今度海軍のキャメロンターマンっていう人とヨットで日本に行く事になったから。2月15日に出発予定で一ヶ月くらいかかるらしい。」
と言うと、母はびっくりしていたが、それから1週間後、今度は僕がびっくりさせられることになった。その日、船の準備の手伝いでヨットに行くと、キャメロンが
「さっき君のお母さんが来たよ。」
と言った。一瞬状況がのみこめなかったが、どうやら本当に母がハワイに来たようだ。「これがお母さんの泊まってるホテルだから」とキャメロンがワイキキのホテルを教えてくれた。こういうことは子供の頃から慣れていた。教室に突然乗り込んできて、忘れ物を届けてくれたりするのだが、僕の恥ずかしいという気持ちは無視され、母はニコニコしている。まあ典型的なやさしいお母さんだ。
だけど今回は、恥ずかしいというよりもびっくりした。ワイキキの友達の電話番号は教えていなかったし、キャメロンの電話番号も教えていなかった。そのとき母が持っていた情報は、海軍のキャメロンターマンという人のヨットで横須賀に行くということだけだった。
ではどのように、僕のお母さんは真珠湾にある小さなヨットハーバーにあるキャメロンのヨットを見つけたのか。母によると、まずは僕から届いた、ヨットに乗って日本に行くという絵葉書。次に、僕からの電話。その時、一緒に行くキャメロンターマンさんは海軍のオフィサーで、彼とはワイキキヨットクラブで出会ったということがわかる。実際にはヨットクラブで出会ったわけではなくそこの掲示板の張り紙を通して知りあったのだが、母はそこで出会ったと思い込み、KDD電話局でワイキキヨットクラブの電話番号を調べ、電話をした。僕の母は旦那、いわゆる僕の父のアメリカ駐在員時代にアメリカに8年間住んでいたので、簡単な英語はしゃべれた。母の場合は英語力よりも、積極性で言葉の壁を乗り切るタイプだ。僕も同じく。
母の電話がヨットクラブにつながり、母は事務の女の人にキャメロンターマンの事を聞いたが、
「ここは会員制のヨットクラブですが、ここにはそんな人はいませんねえ。」
と言われてしまった。しかし相手の人も女の人だったせいか、母の事情がわかると親身に聞いてくれたらしい。
「それではキャメロンの船の名前はわかりますか。」
と聞かれたが、母は船に名前があることさえ知らずに困っていた。すると、ヨットクラブのメンバーの宮王さんという人が、たまたまそこにいて電話を変わってくれた。
宮王さんは日系のアメリカ人で日本語が話せたので、母は一部始終事情を話した。宮王さんという人は親切な人で、電話の後ハワイ中のヨットハーバーでキャメロンを探してくれた。それから何度か母は宮王さんと連絡を取り合ったが、宮王さんはキャメロンも僕も探し出せなかった。次に宮王さんは、母にハワイに駐在している自衛隊の池田大佐を紹介した。宮王さんは池田大佐なら海軍のキャメロンを探してくれるだろうと考えたのだ。
母は池田大佐に連絡して僕たちを探して貰うよう頼んだ。それでもキャメロンの居場所はわからず、母は宮王さんも池田大佐も忙しいだろうからと考え、今度は自分でハワイに探しに行ってみることにした。僕はサーフィンが好きなので、サーフィンする場所を歩いて聞いて探すか、サーフショップに行って聞けばきっと見つかるだろうと考えたのだ。母は、建国記念日をはさんだ3連休で、混みあった飛行機になんとか乗り込み、僕を捜しにハワイにでかけた。
母はハワイに着くと、まずワイキキヨットクラブに向った。そして池田大佐に連絡を取りヨットクラブで待ち合わせをした。池田大佐を待つその間もヨットクラブにいたおじさんたちに話を聞き、軍人の人なら真珠湾のほうのヨットクラブかもしれないなあというのは、聞いていたらしいが、池田大佐が現れて全てがはっきりした。池田大佐が白い海軍の制服と制帽をかぶってワイキキヨットクラブに登場したときには、池田大佐はもうキャメロンがどこで働いていて、キャメロンのヨットがどこにあるかもわかっていた。
池田大佐は真珠湾に海軍の小さいヨットハーバーがあることを聞いて寄っていたのだ。そしてそこの事務所の人にキャメロンの事を聞いてみると、そこにキャメロンの船があることも、最近若い日本人が出入りしていることもわかった。キャメロンの職場もそこでわかった。
母は早速池田大佐の車で真珠湾に行き、キャメロンの職場である潜水艦に連れて行ってもらった。そこにキャメロンがいないとわかると、キャメロンのヨットが泊まっている真珠湾のヨットハーバーに連れて行ってもらった。しかしそのときはキャメロンも僕もそこにはおらず、母はそこのヨットハーバーのクラブハウスで待つことにした。池田大佐はそこで仕事に戻ったということだが、やれやれといった気持ちだっただろう。すみませんでした。池田大佐。
しばらくしてキャメロンが帰ってきたのだが、母は待っている間、サンディエゴからヨットで来たという人に会ったりいろいろな人と話をして、アメリカではヨットで太平洋を渡るというのはそんなに大それたことじゃないのかもしれないとなんとなく感じたらしい。母はキャメロンと出会い、話をしてキャメロンの実家の連絡先や、船の無線の事を聞いたりしたのだが、やはりその時キャメロンを見て、「えっ、この人が太平洋をわたるのっ。」と、思ったようだ。話してみると、穏やかで紳士なんだけど、見た目はヨットでハワイから日本に行くと聞いて想像する人とはまるで違うのがキャメロンだった。
母はキャメロンに何で今度の航海をするのか聞いてみた。
「いつも潜水艦で世界中回っていますが、いつも海の中なんで一度くらいは海上を航海したいと思っているんです。」
そのあと母はキャメロンに予約のしてあったホテルまで送って貰い、ホテルで僕からの連絡を待ち、その日の夜やっと母は僕に会うことができた。
ヨットは2月15日に出る予定だったが、船の準備が遅れ、実際の出発は2月20日になった。そういうわけで、母は僕を見送るつもりだったのだが、それを待たずに神戸に帰ってしまった。ハワイに来たときよりは安心して帰ることができたが、神戸で春一番の突風が吹いた日にはいてもたってもいられず、住吉神社に行き「お百度参り」をしたらしい。
3人目の乗組員マイケルは出発の前の日にやってきた。マイケルショースターキーヴィッチさん。ポーランド人で英語はたどたどしく僕より下手だった。年は40代半ばぐらいで髪は薄く、太り気味。職業はプロのヨットマン。ヨットマンといってもレースをするわけではなく、ヨットの運び屋、もしくは運転手だ。例えば、日本の人がハワイでヨットを買ったとする。だけどその人は仕事で、ヨットに乗って日本に来る時間がない。そんな時はマイケルのような運び屋に頼んで、ヨットを日本まで操縦してきて貰うのだ。大きな貨物船に積んで、運んで貰うということもできるが、運び屋に頼んだほうが安上がりになる。キャメロンの場合も海軍の命令で引っ越すので、マイケルに渡す分のお金は、海軍から出るのだが、もし貨物船に乗せて運ぶとしたら、それは高すぎて海軍は出してくれないんだと言っていた。キャメロンはヨットの雑誌に出ていた船を運ぶ会社に電話して、そこから派遣されてきたのがマイケルだった。
マイケルのヨット歴は長く、若い時にはレースもしていた。最近は大西洋、ヨーロッパを中心に働いていて、課外学習の子供達をのせたヨットを、ヨーロッパ中運航したりしたこともあるし、大西洋を渡ったこともあると言っていた。
キャメロンのヨット歴はそんなに長くない。ヨットで寝起きしたのは3年かもしれないが、オアフ島の隣のモロカイ島とラナイ島にヨットで行ったことがあるというのが、キャメロンの最長記録だった。オアフ島とモロカイ島の間の海峡は世界一危ないんだぞとキャメロンは言っていたが、天気のいい日はすぐそこにモロカイ島が見える。毎年モロカイ島からオアフ島までサーフボードをこいで、その海峡を渡るレースが行われているくらいの距離だ。そんなキャメロンだがプロのマイケルを雇ったのはとてもいい判断だった。それからマイケルに幾度となく助けられ、日本に着くことになった。マイケルなしではおそらく日本には着いていなかったと思う。
出発の前夜、キャメロン、僕、マイケルと今回の航海のメンバーがやっとそろった。もう夜遅く、僕らは近くのファミリーレストランに行き、しばらくの間お預けになる陸での食事を楽しんだ。そのときはわからなかったが、船の中での食事はひどいものだった。
次の日、とうとう僕ら3人は日本に向けて出発した。見送ってくれたのはそこのヨットハーバーに住むキャメロンの仲間たちだ。皆海軍の軍人でキャメロンの近所の人達だ。キャメロンにしてみれば、そこで過去3年一緒に住んでいたので寂しいはずだろうが、キャメロンはどうもそういうふうでもなく淡々としていた。キャメロンは感情的なやつでないことは確かだ。キャメロンのガールフレンドも見送りに来ていたが、涙もなくあっけらかんとした別れだった。僕もこの3週間はそこの人達と顔見知りになっていたので、「頑張ってくるよー。」と手を振って別れた。キャメロンの仲間は船をひとつ出して真珠湾の出口まで見送ってくれた。

僕らの船は、大きな潜水艦が泊まっているすぐ横をぬけて、真珠湾を出口に向けて順調に走っていた。真珠湾は大きな湖のようになっているので、波もなく船もまったく揺れなかった。天気もよく、僕もこれからの1ヶ月はのんびりした、充実した楽しい船旅になるだろうと予測していた。ヨットのことも覚えられるし、船酔いもすぐ慣れるらしいしゆっくり揺られながら日本に行くんだろうと思っていた。そのときはつらいことなどひとつも思いつかなかった。
時間もあるだろうから、この機会にギターでも覚えようと思い、小さいギターを購入していた。そのギターは箱のところが細くコンパクトなギターで、大げさじゃないのが気に入っていた。どうも大きなギターを脇に抱え、ボローンとやると、大きな音に気恥ずかしくなってしまい、それが何度もギターを挫折した原因だった。
真珠湾も出口近くになると、それまで使っていたエンジンを止めて、帆を張った。僕は何をしていいかわからないので見ているだけだったが、キャメロンは帆を張るとなると張り切って、嬉しそうにしていた。ヨットは帆を張ると、マストにロープが当たりかんかんかんと音がし始めた。最初はどっかおかしいんだろうと思い、キャメロンかマイクがその耳障りな音を止めてくれるだろうと思っていたが、どうもそれが正常のようで、誰も何もしようとしなかった。その音が永久にやむことはないということがわかると、少し気が滅入ったが、それから10分後に起こることに比べればどうってことはなかった。

キャメロンの仲間のヨットは真珠湾から出ずに真珠湾の出口までくるとヨットハーバーに引き返していった。僕たちは大きく手を振ってお別れをした。「さあもう僕らだけだ。行くぞ。」
真珠湾の出口付近になると、前方の海の色と湾の中の色が違って見えた。湾の中は静かだが、湾の外は少し荒れている様だ。湾の中は穏やかな色をしていたが、湾の外は波や風のある色をしていた。僕はそれを見て、なにが起こるかはっきりとはわかっていないのに急に心細くなり、いやな予感がした。その日はいつもより風の強い日だった。船は風に乗って、どんどん進んでいった。そして湾の外に出ると、船は急に揺れ始めた。あまりにも揺れるので立っていることもできない。揺れ方もゆーらゆーらと規則正しい揺れでなく、どた、どたどたと不規則で乱暴な揺れだ。この時もこの揺れはマイケルかキャメロンがどうにかしてくれるのだろうと思っていた。この揺れはおかしい、こんなに揺れているのは何か船の調整をしなければいけないはずだと思っていたのだが、マイケルは笑っていてなにもしようとしない。僕はこの揺れがいつまで続くのか聞きたかったが、その答えが怖くて聞けなかった。答えは聞くまでもなかった。船が進むに連れ、岸から遠ざかるに連れてますます揺れはひどくなっていった。真珠湾を出て5分後、僕はすでにこの航海に参加したことを後悔していた。
後ろを見るとすぐそこにハワイが見えた。「ああ、あそこに帰りたい。」砂浜を見てそう思った。船の上はさっきよりもロープのマストに当たる音が大きくなっていて、うるさいぐらいだ。船も激しく揺れていて座っていても何かにつかまっていないと振り落とされてしまいそうだ。全てがつらく、楽しいことなどひとつもなかったが、一番つらいのはそれが終らないということだった。僕は何も言わなかったが、本当に引き返したいと思っていた。
そのときとまったく同じ気持ちになったことが子供の時にある。遊園地のバイキングという絶叫マシーンに初めて乗った時のことだ。最初はよかったが揺れが大きくなってくると、心臓が飛び出そうな感覚に、一緒に乗った姉に「怖いって言ったら止めてくれるかな。」と聞いた。止まらないとわかると、乗ったことを後悔し、後はもう耐えるしかなかった。それからバイキングは逆さになるところまで揺れて、何分後かに止まってくれた。
この時もキャメロンとマイクに頼めば今ならハワイに引き返せる、ハワイはすぐそこだと思ったのだが、そうするには勢いずき過ぎていた。もしこの日本行きが昨日決まったことなら、本当にそこで僕は頼んで引き返してもらっていたかもしれない。しかし、3週間も暖め、楽しみにしていた思いがあったので、そこで何とか持ちこたえたんだと思う。この船は遊園地のバイキングと違い、1時間たっても1日たっても揺れていた。僕はその間ずっと何かにしがみついていた。
今までえがいていた想像は海にでると、すべてかき消されてしまった。目に入るものは大きなうねりだけ、聞こえてくるのは耳障りなロープの音だけだった。前方を見ると大きなうねりで水平線が見えない。今この一瞬を耐えるのに精一杯なのに、いつになったら日本に着くんだと考えると、日本がはるか遠くに感じた。実際どれくらい揺れていたかというのは説明しにくいが、ヨットという船はよく揺れるし、冬のハワイはうねりが高いというのが一般的な話だ。
船は出発すると止まることなく進み続けた。その日は風も強くうねりも大きい日だった。船はマイケルとキャメロンが操縦した。僕は酔わないようにずっとなにかにつかまりながら気を張って座っていた。酔い止めを飲んでいたので船酔いはしなかったが、気を張って自分を制していないとどうしようもないほど、動揺していた。夜になるとハワイの光が遠くに見えた。船の周りは黒い大きなうねりが通り過ぎていた。緊張していたのでその日は遅くまで起きていたが、僕が寝たときにはキャメロンも寝ていて、マイケルが舵を持っていた。寝る前にマイケルと二言三言話したが、マイケルはほとんど何も話さず船を操っていた。それでもマイケルはどこか満足げで楽しそうな顔をしていた。
僕の寝るところは幅50センチくらいのソファー兼ベッドだった。ヨットは常に右か左に傾いて進んでいるので、壁側に傾いている時は安定するが、ベッドの通路側に傾いている時は落ちないように寝ないといけない。僕は寝ようと横になったが、船の中は船が揺れる音や、マストのガチャーンという大きな音がして、揺れがさらに大きく感じた。不安と頼りなさでいっぱいだったが、あまり考えすぎないうちに寝ようと目をつぶった。船は相変わらず、恐ろしい音を立ててゆれている。しかし、しばらく目をつぶっているといつの間にか寝ていた。
次の日、目が開くと船は相変わらず揺れていた。ゆれは朝から晩まで24時間止まることはなかった。僕はとにかく、真っ先に船酔いの薬としょうがの飴を食べた。しょうがの飴は船酔いに効くとキャメロンが教えてくれた。どこにも逃げ場のない船で一番怖いのは船酔いだ。前の日も船酔いの薬のお陰で何とか生き延びることが出来たが、それでも本当にぎりぎりだった。薬を飲み外に出ると、マイケルが舵を持っていた。僕が寝ている間キャメロンと交代で舵を持っていたようだ。僕はマイケルの近くに座り、昨日と同じように何かにつかまり、緊張していた。どの方角に向かっているとかいうことはまるでわからず、ただ自分の平静を保つのが精一杯だった。周りには海しか見えず、大きなうねりの中を頼りなく揺られている木の葉の上にいるようだった。
マイケルは自信に満ちて舵を右や左に回している。船も安定してまっすぐ進むわけでなく、木の葉のように大きなうねりや波に揺れていて不安定な状態に思えた。マイケルにどっちに向かっているのか聞くと、マイケルは舵のすぐ前についている方位磁石を指差して
「ここの280度の方角に向かっているんだよ。」
と言った。見ていると確かに船が280度から右か左にずれると、マイケルは舵を回して船を280度の方角に向くよう戻していた。そうとわかるとマイケルのやっていることも簡単なことだった。さっきまでは「波にあわせて船を操縦しているみたいだけど、難しそうだな。さすがマイケル」と思っていたが、わかってみると誰でもできる単純作業だった。
マイケルが僕にやってみるかと聞くので、やってみることにした。最初は舵を握ると思わず、肩に力が入り必要以上に緊張したが、実際舵を取ってみるとかなり簡単だった。それに何もしていないよりは楽だった。最初は舵の動きと船の動きとの感覚と、舵を回してから船が動くまでの時間差の感覚がわからず、舵を動かしすぎていたが、慣れると車を運転するようなもので、簡単なものだった。ただ方位磁石を見ているだけで、簡単に操縦できた。車は道路に沿って走るが、船はコンパスにそって操縦する。それだけの違いだった。
しばらくしてキャメロンが起きてくると、3人で食事をした。二人は昨日の夜徹夜で交代で操縦して、疲れていたので食事が終ると寝てしまった。僕が舵もちをすることになり「280度に向かって進んでいればいいし、もし何かあったら起こしてくれ。」とだけ言われた。
午後になり皆そろう。キャメロンは無線でハワイの知り合いの人と話をしている。それから毎日、キャメロンは午後になるとハワイと無線で連絡し、無事であることの報告と、無線から流れる海洋天気予報を聞いていた。
無線のチャンネルを回していると、時々日本語が流れていた。聞いてみるとまぐろ漁船の情報交換だ。まぐろ漁船の取れ高を報告していたようだったが、雑談とかはなく、口調も業務事項を簡潔に報告しているだけでつまらない話だった。
あるとき無線でこんな話が聞こえてきた。どこかの船がウィンドサーファーを救助したのだが、その人はハワイからオーストラリアまでウィンドサーフィンで行く途中だったらしい。ハウクレイジー。
マイケルは毎日午後5時半になると船の位置のチェックをした。GPSがあったのでいつでも緯度何度、経度何度、今どの方角に何ノットで走っているというのはわかるのだが、一日一回地図に居場所を記しておくのだ。
ハワイを出て2日目のその日は、キャメロンとマイケルがなにやら楽しそうに地図を見ていた。緯度と経度がわかれば、地図上での現在地がわかる。僕はそれを見て愕然とした。なんと現在地はハワイのほんのすぐ横だったのだ。地図上では1センチも離れていない。ハワイから日本まで地図の上で60センチくらい離れているのにハワイからほとんど進んでいないではないか。キャメロンとマイクは楽しそうにしていたが、僕はそれを見て何の達成感も感じることができなかった。「本当にこの船は日本に着くのだろうか。」僕はこのとき今まで以上に、日本までの道のりが果てしないものに感じた。マイケルはコンパスを使って昨日1日での帆走距離を調べた。ハワイから120マイルは走っている。約200キロだ。キャメロンもマイケルもその数字には満足そうだった。
二日目からはウィンドベインという、自動的に舵を取ってくれる機械を使った。機械といってもコンピューターを使った精密機械ではなく、風と、船が進む力と、てこの原理を応用した自動舵取り機だ。しかしこれが本当によくできた機械で、考えた人は天才だと思う。
原理はこうだ。まず海の上では遮るものがないので風は驚くほど一定方向に吹き続けている。僕らのこの航海ではほとんどの場合、貿易風という東からの風が吹いていた。当然日によっては北東の風になったり北の風になったりするが、海の上ではいったん風が吹くとしばらくは、ほとんど風の向きは変わらない。その性質を利用して考え出されたのがウィンドベインというきわめて単純で原始的な機械だ。
まず行きたい方向と風の向きにあわせてウィンドベインの羽根の角度をセットする。そうするだけであとはウィンドベインが操縦してくれるのだ。コースからずれるとウィンドベインの羽根がそれを感知し、羽根とつながっているものが水の中に突っ込んであるので、それに水の力が加わってロープを通して舵を勝手に取ってくれるわけだ。ただしこの機械は風の吹く方向を基準に行き先が決まるので、時々方位磁石を見て正しい方向に進んでいるかチェックしないといけない。この機械のお陰で船の上はほとんどする事がなくなった。

最初の日はマイケルとキャメロンがほとんど舵をとっていたが、2日目からは交代で船の見張りをすることになった。6時間制で一日を朝7時からの朝のシフト、昼の1時からの昼のシフト、夕方7時からの夜のシフト、夜1時からの夜中のシフトの4つに分けた。これなら公平かつあまり忙しくない。4つのシフトに3人なので皆3日に1度は夜中のシフトに当たるわけだ。これを聞いて夜中は勘弁してほしいなと思ったが、今思い起こせば夜中のシフトの時にずっと眺めていた星空がこの航海で一番印象的だった。実際夜中でも雨さえ降っていなければ、昼間より快適だった。昼間の南の海は暑くて頭が痛くなり、動くことはもちろん口を動かすこともできなくなった。イグアナのようにただじっとしているしかなかった。昼間は曇りか雨の日がすごしやすくて、夜は逆に雨が降っていると惨めだった。
見張りの時の仕事は船の進行方向のチェック、周りの船の注意、それになにか異常がないか番をすることだ。そうは言っても何もすることはない。船は勝手に進むし周りに船なんかまるで見えない。僕は最初そんなに大事なことだと思わず、居眠りをしていた。するとマイケルに起きていないといけないと言われた。
「船に当たることはまずないが、それでも起きていて万が一に備えないといけないし、浮いている大木に当たったら、船に穴があいてしまうこともあるんだ。船同士でも皆当たる訳ないと思って注意してないから、時々本当に出会いがしらで当たるんだ。」
と、マイケルはこのときばかりは真剣に話していた。キャメロンも
「ニュージーランドで家族の乗ったヨットが大きな貨物船に当たって沈んだという記事が載っているから読んでみてくれ。」
と、雑誌をくれた。
それからは見張りのときは起きているようにした。もともと寝たくて寝ていたわけでなく、やることがなくしょうがなく寝ていただけだったので、起きていないといけないと言われれば、起きていれた。お金をもらっているわけでもなく、キャメロンに怒られるわけでもないこの航海は遊び感覚だったので、どうしていいかわからなかっただけで、起きていなければいけないというはっきりしたルールがあるなら喜んでそれに従った。
この航海ではキャメロンもマイケルも僕も一度もけんかもせず日本に着くことができた。僕は3人の中では一番不機嫌だったが、それはその状況に対してであって、キャメロンとマイケルに対して怒ったことは一度もなかった。もともと3人とも常識的でおとなしい人間だったし、けんかするほど、お互いのことを知らなかった。必要以上に楽しくやろうという感覚はなく、山登りを淡々としているのに似ていたと思う。
5日目から日記をつけ始めた。
今、海の上です。5日目です。魚は一匹も釣れません。波はおだやかですが、船はゆれています。ねっころがって書いた方が書きやすいです。キャメロンとマイケルはねています。たのしい事と言えばメシぐらいです。船よいは薬をのんだのでしていません。ジンジャーキャンディーもきいています。毎日、薬とキャンディーで、一週間目くらいにはなれるかなと思ってます。それにしても魚が釣れない。暇なのでつれればいいな。あとお腹いっぱい食べたいし。いままでいろんな事したけど、今回はなんか長旅って感じ。
40日って、一言で言えば長い。しかもすることのない40日って長い。多分、ろう屋の中はこんな感じだと思う。なにかしていないと暇でしょうがない。本当はなにか食べ続けたいけど、食料も無限ではないので、まだ4日目だし、調整しています。魚が釣れれば最高なのに。

今日6日目
今日した事。朝起きて7時〜1時まで見張り。その間ギターひく。ワンタンメンを食べる。クラッカーも食べる。その後2時くらいから夕方までゴロゴロして7時に皆でパスタ&チーズを食べる。めちゃくちゃうまいけど量が少なすぎる。早く魚をつりたい。昨日イカをつった。でも足一本引っかかってただけ。そっこー食べちゃった。えさにしとけば魚が釣れてたかも。あと6時ごろイルカを見た。しあわせだった。おやすみー。又夜1時に起きます。


今日は7日目。ついに魚を釣った。70cmくらいのカツオ。最初はひかないので、なにかひっかかったのかと思ったけど、海に潜ったら魚だった。久しぶりにお腹いっぱい食べた。早くも明日で一週間。早いのか遅いのか、びみょうなとこだ。
今日8日目。昼1時から7時まで見張り。めっっちゃあついし風はないので(ウィンドベインが働かず)かじを自分でうごかさなきゃいけないのでつらかった。今度船とすれ違ったらのっけてってもらって、ハワイに帰りたい。とか思った。あまりにうごかないので、マイケルさんに言ったら起きてきていろいろやってくれた。マイケルもキャメロンもまいってなさそうだ。オレはまいった。夕方になったらすずしくなってきて気もおちつく。どうやら世の中にすばらしい所なんてどこにもなさそうだ。ハワイにいてもまたそれはそれであるし、日本にいてもそれはそれである。
9日目朝。夜涼しくなってからコックピットの中のそうじした。カツオをつってからちょっとくさかったのだ。マストをとめるつなに血がついていて、それがくさいみたいなので、バケツにせっけんと水入れてそれにつけておいた。気分もよくなる。
昨日昼漁船が見えた。近づいてきてくれて、名前はKilauea。これはハワイ語。よっぽどのせてもらってハワイに帰ろうかと思ったが、キャメロンが無線で話しをしてて、むこうが
「Do you have a problem?」
こっちが
「No. We are fine.」
ていったのでそのままいってしまった。多分あの船なら2日いや24時間でハワイに着くだろう。その後キャメロンが
「アイスクリームもらえばよかった。」
っていうのを聞いて、なに言ってんだ早く気づけと思った。
なんとはやくも10日目、いやーこんなに生きているとは思わなかった。この調子ならWake Islandまでなにとかたどり着けそう。
低気圧からの風じゃないからか波はない。船もあまりゆれない。ふだんはしんど10くらいゆれてるが、今日はしんど5くらい。
今3時半、5時になったらみんなバタバタしはじめる。キャメロンはハワイと無線で話しはじめる。マイケルは位置を確かめる。それで昨日どれだけ進んだかわかるわけだ。100マイルはいってるはず。
日本に帰ったらすることはまず電話、メシ、ゲーセン、ブラブラ。そー、このブラブラがオレのしたいことなんだよー。コンビニ行って立ち読み。中華も食べたいし、寿司、弁当。うおー早く帰りてー。だんだんおちついてきたが、2,3日前まで船から飛び降りるわけにもいかないし、つらかった。だんだん慣れてくる。オレって今までつらいことはしないできたからツケが回ってきたのかも。これも書き始める前はダルイけど、書き始めるとやめるのがこわくなる。だって他にする事がないんだもん。
11日目の夜、2時 ただ今夜1時から朝7時までの見張り中。英語ではWatchというやつ。今日は昼から風が弱くなり、昨日5時半から今日5時半までの記録は100マイル。その前の日は一日中風が吹いていて120マイル。今まででも120マイルが最高で多分これから一番いい日でも、せいぜい130マイルくらいだと思う。120マイルは192キロだから、時速8キロということは1分では130メートル。たぶん自転車で普通のスピードとおなじくらいかなあ。ジョギングぐらい。一日60マイルぐらいの時は歩いているぐらい。たまに焼きいもの車ぐらい遅い時もある。
今日の夕食はマカロニチーズ。ゆでている時にやけに少ないので心配したが、十分ゆでたら倍くらいになった。それにフランスパン。最後のパンを食べた。11日も持つとは思わなかった。皆最初の5日はものすごい勢いで食べていたが、かつおを食べてからは少食になっていった。書きはしなかったがかつおを食べてからお腹の中から、体の中から魚の血生臭い臭いが取れなくて気持ち悪かった。キャメロンとマイクは魚を明日又釣ろうと言っているが、オレはもういい。いらない。又気持ち悪くなるのが怖い。温かいご飯とわさびとしょうゆがないと食べたくない。
だんだん慣れてきている。昼の暑さもだんだん夕方になればおさまるというのがわかり、待てばいいということがわかった。暑いと本当にボーっとしてしまう。口を開くのもおっくうになる。いつも5時くらいになると皆コックピットに集まってきて、暑いのが去って幸せという幸せを感じながら色々話をする。この時が一番楽しい。いろいろなことを話す。

14日目の朝。今太陽が1つ昇ってくる。多分今日は一つしか昇ってこないだろう。そんなことよりキャメロンが又釣りを始めてしまった。釣れたらめんどうくせえ。まきとっちゃえ。ここ2日間日記をつけてなかった。今までいろいろあったなあ。思いかえせばなんかつらいことばかり。しかしまだ四分の一しか来てないってんだから。あと3000マイル。まだ1000マイル。残る望みはWakeでキャメロンがNavyからWakeから飛行機で帰って来いって言われるパターン。そしたらどうしよう。まあそんなことはないと思う。
12日目の夜はものすごい雨が降って来た。風もきつく、マイケルが当番外だったけど出てきて操縦していた。いやーきつかった。13日目は当番以外ずっと寝てた。最近昼間、雲が多く暑くない。昨日今日と風が弱い。多分今日は60マイルくらいしか来てないだろう。
今ぜんぜん進んでない。小学生一年生がダラダラ歩いているのより進んでない。この調子なら一年はかかるはずだ。おそらく5年くらいかかるはず。
今まで会った生物。鳥 かもめと小さい白い鳥、魚 釣れたカツオ、飛び込んできたトビウオ、ルアーに引っかかってたイカの足、イルカ。
今船はとまっていると言っても過言ではないぐらい進んでいない。はっきり言って早く日本に着きたい。と、ぐちっていてもいいことは一つもないので、このひまな時間を有効に使おう。ひまということは何もすることがないということなので何かをしていればひまではないということになる。考えごとをしていてもいいのだが、それにも限界がある。つくづくろう屋には入りたくないと思う。それだけでも幸せ。ため息がでてしまう。
飛行機では8時間くらい。この船だと1000時間くらい。あと750時間くらい。のんびりやってこ。日本で誰かと一緒に食べたい。なんか人恋しい。今スパゲッティを作って食べたい。
ウェイクには一泊しかしないって言ってた。その間に英気を養わなくちゃ。アイス食べて、鳥肉、牛肉、サラダ、牛乳、あー考えただけで別世界。だんだん小学生の歩みくらいのスピードになってきた。
あと缶詰めが70くらい、ラーメンとマッシュポテトが30くらい、パスタ系が1週間分くらい。おーいもっとくわせろー。
この船だんだん慣れてきたけど、マイケルはくさい。やっぱ外人ってくさいよな。なんか近くにくるとすっぱいにおいがするんじゃないかって感じ。いー人なんだけどね。あとオレのジャケットとパンツ汗くさい。あとオレ自身体の中がくさい。水を飲む為飲み終わった後変なにおいがする。
ここでどうしてヨットというのは風が前の方から吹いていても進むのかを説明しよう。とは言っても前方から左右に35度ずつ計70度進めない風がある。だから真正面から吹いてくる場合には、右または左に角度を35度以上変える必要がでてくる。そして又もとのコースに戻るというわけ。でもでは何で、前方45度からの風でも前に進むのか。マイケルによるとセイルは弓の形になっているから、そこに風が当たって、そこは気圧が高く、風が当たってないところは気圧が低い、だからセイルが気圧の低い方に行きたがるからなんだって。
3月7日 今日は凪。しょうがないから水泳をした。船の上から飛び込んだりして、気分もすっきりする。その後は皆外で、マイクはセイルをぬって、キャメロンはエンジンかけて操縦して、オレはなにもしないで、なんかいい感じ。日曜日の食事はごうかにしたいらしく、ごはんとハム。4時半で、6時ごろめし。7時から当番寝ようかと思ったけど、日記をつけることにする。
昨日はなんと40マイルしか進んでなく、でもウェイクまで960マイル。これからはどんどん9,8,7,6,5,4となっていくのが楽しみ。昨日の夕ご飯はオートミールとパイナップルとナッツとあとレーズン。一日一食。戦争時代はこうなのかと実感。
今日はおそらくまた40マイルくらいしか進んでいないはず。昨日くらいから気が滅いっていたが、今日泳いでスッキリした。あとハミガキ粉を使って2週間ぶりに歯をみがいた。変なにおいも少しは取れたかもしれない。
この旅を一番楽しんでいるのは、マイケルだと思う。こんなことを25年やっているってことは好きなのだろう。マイケルはプロのスキッパーで、この旅をしている間もキャメロンからお金をもらっている。キャメロンは海軍からスキッパーの分はもらえる。しかしこの旅にあたって、いろいろ修理した分はもらえない。ヨットというのは維持費がかかるというが自分でできれば、それ程でもなさそうだ。やっぱり大金持ちかヨットが好きで、それに命をかけてるような人ぐらいの人でないと、ただのじゃまな物になるはず。キャメロンは好きみたいで、海軍を終えた後は世界中をヨットで行くと何度も言ってる。変なやっちゃ。オレはそんなことに興味0.ただヨットがあればそれで誰もいけないサーフスポットに行って、サーフィンできると思っているだけ。この旅はそんなオレにとってすごすぎる。
この船で三人しかいないが、三人集まることは稀で一日の内2時間もない。大体、オレが寝てたりする。もしくはキャメロンがなんか本読んだりしたりする。三人でいて、今なんかはマイクはあいかわらずセイルをぬっていて、オレは日記をつけていて、キャメロンは海を見てるが、なんか気持ちいい。今日はみんな泳いだからなんかおち着いている。
さっき日記を書いている途中、スクリューにあみが引っかかってるというので、さっそく潜ってナイフで切ってきた。夕焼けが今、きれいです。船は西に向かっているので、日と月の沈む方に行けばいいので、方向がわかりやすい。最近星も覚えてきました。北斗七星は大熊座だというのも初めて知る。さそり座が一番きれいでわかりやすい。でも新しく知った星座は自分の星座みたいで親近感がわく。夕焼けはハッと気づいた時が一番きれい。今日は60マイルきました。あとウェイクまで900マイル。10日というところ。明日、日付変更線を越すと思う。そしたら明日は3月9日。多分3月19日にウェイクに着くとみた。最近夜がくらい。夜1時くらいにならないと月はでてこない。今日は雲もあるから星は見えないな。雨ふらないといーけど。なぜなら雨具は面倒&くさい。やっぱ夜はDry。昼はくもりが一番。それにしても急に風がでてきた。昼は凪だったのがうその様。
やっぱり速く進んでいる時はゆれがおちついていて気持ちがいい。進んでないと、ちょっとした風でバタバタゆれるので、マストがガタガタいうし、気分わるい。
3月8日、16日目 昨夜 1時に見張りを終え、寝る。朝起きると頭が痛い。多分水が足らないから、水を500mlくらい飲んで、また寝ようとしたが、眠れないので、起きる。海は荒れているが、風は昨日と同じ東北の風、貿易風。昨夜程、強くないが船は5ノット位で進んでいる。
3月10日、17日目 日付け変更線を越えたので3月9日はナシ。食物は慣れたが運動したい。
昨日飛び魚が飛んでいるのを初めて見た。飛魚ってのは羽根をバタバタ小さな鳥みたいにして飛ぶ。300m飛ぶことができるってのをなんかで読んだけど、本当に鳥みたいに飛んでるんだから300mくらい飛ぶこともあるだろう。醤油があれば大根おろしがあれば焼いたらうまいんだよなー。
3月15日 4日さぼり 明日Wakeに着く。今Watch。ついに明日ウェイクに着きます。昨日5時半に225マイルだったので、今日5時半には125〜100マイルでしょう。なので明日日暮れ前には着くはず。時計をいじっていないので、まだHawaiian Time。9時半まで明るい。
最近バックギャモンを始めた。オレってゲームに関してはあつくなる。昨晩星がきれいだった。もう月もほとんどでなくなっている。星座が本にでているのは全部見える。本に出ている以上星が見える。
えー、只今海の上にいます。ヨットでハワイから日本に向かっている途中です。えー、海しか見えません。えー、それだけ。
最近ウェイクから日本まで3週間かかるけど、行ってもいいかなと半ばあきらめかけています。あきらめているというか、どっちみちそうなるんだから、楽しくやろうじゃないかと思っている。大体多分そうなると思っている方向に行くよな人生って。
それにしてもこの一週間長かった様な感じ。待ちどおしいってのは長く感じさせる。
3月16日 AM8:47 晴 風 良好 海 おだやか 今、東の空が明るくなってきて、雲がピンクになってきて、そろそろ日の出という感じです。先程キャメロンに起こされまして、2時間程前から西にウェイクアイランドの燈台を探していましたが、とうとう明るくなってしまいました。GPSで調べました所、あと35マイルといった所。神戸から姫路までくらいかな、それでもあと6〜7時間でつくでしょう。今日は重大な日なので気もひきしまって、少々興ふん気味です。この調子だと横須賀ついたら泣けてきそう。でもこれで3週間ってのはどんなものかわかったから後半の方が楽かもしれない。ウェイクで買うもの Rice、Pasta,Peanuts,Toothpaste,チョコレート、ごはん、鳥肉、弁当。
あとウェイクアイランドっていう所もどんな所なのか興味あるとすれば、サーフィンができるかっていうことを確かめたい。波は東北から来ている。これぐらいの波だと陸ではどれくらいになっているんだろ。ウェイクの人はみなアメリカ人だといっていた。あー走ろ。膝ががくがくしそう。大体あと25マイル。
ウェイク島でのことは、この航海でのハイライトだった。たった一日だったが濃い一日だった。その日、日記はつけていなかったが、その日のことだけはよく覚えている。
「ウェイク島が見えるよ。」
最初に見つけたのはマイケルだった。双眼鏡でのぞくと水平線の上に確かに何か見えた。波があるので見えたり見えなかったりしたが、ゴミのように何か小さいものが見えた。
「確かに何か見える。あれかな。」
僕はチラッと見えては消える点を双眼鏡で探した。
「方位磁石で見ると、ウェイク島のはずだよ。」
僕は双眼鏡を離さずにずっとウェイク島を見続けていたが、一時間もすると島は消えずにずっと見えるようになった。点ではなくちょっと横に長くなっている。
「ばんざーい。ばんざーい。ばんざーい。」
僕は一人でばんざい三唱をした。
その日は島が見えてから島に着くまで6時間ぐらいあったが、その間は食べたいものを食べたいだけ食べたり、お祭りムードだった。キャメロンは島と短波ラジオで交信しようとしていたが、島のそばに行くまで通じなかった。
島は近づくにつれて、白い建物が見え始め、緑が見え始め、双眼鏡なしでも見えるようになった。島のそばに来ると車が一台走っているのが見えた。車が動いているのを見て、人間がいるのを感じて懐かしくてなんだか胸が張り裂けそうになった。他人が自分とまったく関係なく動いているという感覚が、それが妙に懐かしく感じた。島には大きな倉庫のような白い建物がひとつ見えるだけだった。

島のそばに来るとラジオが通じた。
「こちらリリノーというヨットです。私は海軍少尉のキャメロンですが。島に寄りたいんですが案内してください。僕のほかに2人の乗組員がいます。」
「港は南にあります、そこに入ってください。」


運河から港に入るとそこは、ヨットがひとつ止まっているだけのがらがらのだだっぴろい港だった。僕らのヨットを先に泊まっていたヨットの後ろに泊めて、僕らはウェイク島に上陸した。島に上陸したとたん笑ってしまった。自分がゆらゆらゆれて陸地でうまく歩けなかったのだ。まっすぐ歩けず、どうしても左右に揺れていた。立っているのが精一杯なぐらいだった。陸地は動かないのに自分が揺れていたのだろう。
港にはキャメロンがラジオで話していた人が、ゴルフのカートのようなもので迎えに来てくれていた。握手と自己紹介と歓迎を受けた後、僕らはその人に空港の管制塔のようなところに連れて行かれた。島は何もなく、人もいない。ただ海岸沿いに道路があるだけだ。海はぎざぎさの珊瑚の岩がでていてサーフィンなんてできそうになかった。管制塔では征服を着た軍人がいてキャメロンは敬礼をしたり、兵隊っぽい話し方をしていた。
「部屋を用意したからそこに行って、シャワーを浴びてゆっくりしてください。本人は判らないかもしれないけど、ひどい臭いだよ。」
さっきの人が寮のような建物に連れて行ってくれた。そのときは島には誰もよそからの部隊がいなくてその建物はがらがらだったが、兵隊用の泊まる施設だった。部屋は3部屋用意され各自個室をもらった。

「夕方の6時になったら、夕食の準備ができるから食堂にいきなさい。お店は4時半から5時までの30分だけしか開いてないから、今日はもう閉まってるよ。それから、夜になったらバーがあるから来て話しを聞かせてくれないか。」
ラジオで話した人が僕らの世話役をしてくれたが、その人の島での仕事は、警察兼通信係等2つ3つくらい肩書きがあった。小さく、人のいない島なのでみんな2つ3つ仕事の役割を分担していた。住人は100人でそのうちタイ人の労働者が60人。40人はアメリカ人で軍関係者。平らな小さい島で真水がなかったので原住民はもともと住んでいなかったが、今は雨水をためて人が住めるようになっている。
ウェイク島は戦後すぐは太平洋のなかで軍事的に重要な役割を果たしていた島だったが、ミサイルが開発された今では、そんなに重要でなく、ほんの時々飛行機が立ち寄る程度の静かなところになった。
僕らは3週間ぶりにシャワーを浴びた。部屋にはテレビもあった。少しゆっくりして食堂に行くと、肉、野菜、スープ、ジュース、牛乳、デザートが食べ放題だった。タイ人のために中華もあった。山盛りの皿を持って席に着き、食べようとした時のことだった。
そこは広い食堂だったが、壁に日本刀の軍刀が飾られているのが目に入った。そして、その刀の下の説明文を読んでびっくりした。そこにはこの刀は第2次大戦の時、日本兵が残していったものだと書いてあった。しかし、びっくりしたのはその刀のことでなかった。10メートル離れたところの小さい字がくっきり見えたことが驚きだったのだ。ぐっと目を凝らしてみると、自分の目がカメラのズームのようになっていき、その説明文がアップになった。見えるはずのないものが見えたのだ。自分の目なのに自分の目でないようだ。普段は視力1.5くらいだが、そのときは3.0か4.0くらいはあっただろう。それは、3週間遠いところ、海と空と月と星だけ見て、夜には明かりもなく、いつも腹をすかせて生活していたからだと思う。お腹をすかした動物は餌を探す為、目も冴えるはずだからだ。その食事をすまして、満腹になると目は普通になっていた。

食事を済ますと、そばの橋の上に行きタイ人が釣りをしているのを見ながらゆっくりした。橋の下には大きな魚や色々な魚が釣堀のようにうようよしていた。さすが太平洋のど真ん中にある何もない島だ。おかしなぐらい魚がいた。

次の日の夜、ウエイク島出発ということになった。キャメロンは横須賀に連絡して、遅れるという報告と、その許可をもらった。僕は日本の実家に連絡した。
次の日は午後の店が開く時間まで3人でウェイク島を散策した。タイ人から自転車を借りて5キロくらいさきの島の端まで行ってみた。この島は空港の周辺以外には何もなかった。途中古い大砲が海岸にあった。日本のほうを向いていたのでアメリカの物だろう。ウェイク島は太平洋戦争が始まった直後日本が占領したが、すぐにアメリカが取り返した歴史をもっている。
僕はヨットでハワイからウェイクに来たばかりだけに、船で戦った人達のことを考えた。遠くから船に乗ってくるだけでも大変なのに、それからわざわざ戦うなんて兵隊も大変だったろうな。特に船対船の場合お互い苦労してきてるんだから、わざわざでかい海の上で戦うこともないのに。
そのほかウェイク島にはでかいヤドカリがうじゃうじゃいたり、手付かずの自然がそこらじゅうにあった。島は珊瑚の島で土地は白く、緑は低い木が沢山生えていて、丘や山はなかった。

一日30分だけ開く店で買い物を済ますと、暗くなる前にウェイク島を出た。キャメロンもウェイク島までの航海で賢くなり、けちけちしないでどしどし食料を買ってくれた。僕もチョコレートやお菓子をたっぷり買った。ウェイク島を出るときは「よし。これから日本だ。後は日本に行くだけだ。」と、かなり積極的な気になっていた。海に出て揺れてももう怖くなかった。怖いどころかうきうきしていた。
ウェイクからの日記。
3月23日 もうかれこれウェイクを出てから一週間になろうとしています。ハワイを出て一ヶ月たちました。信じられないけどよくここまできたなと改めて実感。ウェイクでは本当によくしてもらった。今度の満月には涼しくなっているだろーな。
地図も日本が出てる地図に変わる。明日くらいには南鳥島のそばを通る。ということは明日には日本にいるということだ。ありがとうみんな。よくここまでこれた。あと15日あっという間かどうか。ウェイクの場合は最後の何日かがめちゃくちゃ長かった。この15日は長いのかな。最後の週は小笠原諸島が見えるかもしれない。
3月24日 今飛魚が10秒近く飛んでた。南鳥島を見てみたい。多分明日の明け方に見えるかもしれない。
日本に着いたらやらなきゃいけないことがある。まずキャメロンの面倒みる。原付かチャリか車を探す。ヨットハーバーを探す。
3月28日 後880マイル。多分9日で着く。
今日、今のところはすばらしい天気。海はほとんど穏やか。風は南風10〜15ノット。船は5〜4ノット。今ジェノアを修理しているので使えないが4ノットは軽く出てる。最近よくいろいろ壊れる。ジブ、ジェノア、風力発電、エンジン、舵が壊れました。
実は24日の夕方から風が強くなりはじめて夜には大雨、強風、船は揺れるし、波は高くて、キャビンの中にまで水が入ってくるしで大変だった。マイクはジブをストームジブに変えたり、キャビンの水を汲んだりして夜中起きていた。オレも寝っころがってたけど、眠れなかった。少し手伝った。そして次の日も波高く、風つよく、真夜中のウォッチだったけど、波がたまにとんできた。それでも雷の日よりはこわくなかった。雷の日はめちゃくちゃこわい。あんなのはいやだ。こんなことがすきなのは変だ。今も思う。キャメロンとマイクは変だ。だから24日の夜遅くから25、26日の朝までは風が強くストームジブだけで走った。
昨日は25N 151Eでした。あと東に10度、北に10度です。ハワイからは北に5度東に50度来たのかな。Wakeからは日本までの折り返しを昨日したところです。この前キャメロンと話をしていて、今ビーフジャーキーとコーンフレークとライチジェリーがあるのだけれども、おいしいので500マイルになるまでとっておこうということにした。1日には食べれると思う。コーンフレークはれん乳をうすめたので食べるとおいしい。
雲っていうのは、いつの間にかできてる。さっきまで何にもなかったのにいつの間にかできてる。風上に雲ができてるから雨が降りそうだ。この前までは北風のほうがいいと思ってたけど、北風が強いと波が高くなる。26日の夜には髪も洗ってさっぱり。キャメロンもマイクもはげているので、はげがうつらないか心配だ。今Mikeが近くにいて初めてわかったが、あの人はカレーのルーのにおいがする。


3月29日 今日は55マイルしか進まなかった。
3月30日 今日は位置を確認する日。位置は毎日確認しているのだが、GPSで横須賀まで何マイルか確認する日だ。多分680マイルだろう。
4月2日 30日、31日、1日とまた風、波が強くなった。だんだん寒くなってきた。3日前680マイルと予想したが690マイルだった。次の日120マイル。その次70マイル。昨日だがそれでも500マイルは突破していないとキャメロンが言ってたので、多分530マイルくらいだったんだと思う。多分今日は90マイルくらいきているはずだから450マイル。ライチ(ゼリー)を食べよう。地図ももう折り目のところにきていて日本がでている所からすぐだ。明日には更に小さい地図に変わるはず。あと5日くらいだと思う。何もなければ。
昨日朝ジブが少し破けてしまった。強風でバタバタさせるとすぐに破けるらしい。それでそれを縫うのに2時間かかって、その間メインセイルだけで進んだが、ほとんど進まなかった。メインセイルというのは、そんなに早く進まないみたい(メインセイルは、マストについているセイル)。夜の見張りはあと2回あると思う。予定よりちょい遅くなりそう。明日の夜の見張りをのりきればあとは楽勝。そんなに大変なことではないんだけど、気分的な問題。明日はコーンフレークが食べれる。あと5日、天気がいいといいなあ。風も吹いて本当に5日で着くのかなあ。5日には250マイルくらいになっていてほしい。けっこうゆっくりだ。昨日は夜11時まで明るかった。多分4日にすぐなる。4日になれば本当にすぐだ。多分7日に着くだろう。ここまで進んできたんだから、後500マイル弱、大丈夫だろう。Wakeの時も待ち遠しかった。日本のほうがWakeのこともあるし、早く時間がたちそう。食料も余ってるし本当は安心していいのかもしれない。でもまだ安心しない方がいい。安心するとだらけるから。安心するほど短くない。でも本当にあとちょい。今まで2月は7日、3月は31日。40日間。スゴイ、40日も海の上。あと5日。今日はおだやか。後5日こんなんだったらいいなあ。今日は久しぶりにお日さんも出てる。今3時だけどまだ朝なんだなあ。もしかしたらこれからもっとあったかくなるかも。ちょっと前までは暑かったのに、ここじゃあちょっと寒いくらいだ。また曇ってきたので干してあるものを中に入れる。
でも最近いいものばっかり食べている。


4月5日 どうやら無事日本に着きそうです。多分明日明るくなった頃には日本が見えるであろう。しかも千葉。
今からキャメロンがシャワーをあびる。(鍋で湯を沸かして簡易シャワーを浴びた)オレは別に浴びなくてもいいのだが。
4月6日 もうすぐ横須賀につきまーす。
日記を読み返していると、お腹がすいた。つまらないということがほとんどだ。日記を書くことによってストレスを解消している面もあった。確かに、ほとんどの時間は何も変化のないものでした。
嵐のことは日記には書いてないが、嵐のときは、日記どころではなかったからだ。
天気はほぼ3日か4日ごとに変わった。晴れで風のあまりない日が3日続くと、曇りか雨で風の強い日が3日続いた。
無風から強風に変わる時は本当にわかりやすく、そよ風でもいったん風が吹き始めると止まらなくなる。あっという間に風は強くなっていき、強い風もしくは嵐になる。海もわかりやすく、風が吹いてくるとそれまで穏やかだった海面がざわつき始める。風が強くなると、あっというまに波になりしばらくすると海がうねりはじめる。そして風が出ると水平線のさっきまで青く雲ひとつなかったところに決まって雲がでてくる。はるか遠くに見えるので、どうなるかな、こっちに来るかななんて見ていると、あっという間に雲の下に来ている。そして、雨か大雨に見舞われるのだ。雨は降ったり止んだりのときもあったし、降り続けていた時もあった。船は風が吹けばよく進むので、風が吹き始めると僕らもよしという気持ちになる。
風がちょうどいい強さで吹き続ければ一番いいのだが、天気はいつも激しすぎるか、穏やか過ぎるかのどちらかだった。だいたいが激しすぎた。時には大嵐になっていた。風が強ければ強いほど、ヨットは早く進むわけではない。逆に強すぎると、ジェノアをジブかストームジブという小さい帆に変えるので、逆に遅くなってしまうのだ。
よく覚えているのがある夜のこと、大嵐が来たときのことだ。僕は寝ていると反対側の壁まで吹き飛ばされて目が覚めた。何だか外はものすごいことになっているようだ。僕は雨具を着て安全ベルトをつけて、外に出てマイケルの隣に座った。嵐になるとものすごい音がする。風の音と海の音と波の音とマストの音と雨の音でバチバチ、ガタガタ、ビュービュー、ドッカーンと迫力満点だ。雷の時はそれに雷の音も入る。海も荒れに荒れまくる。船は揺れに揺れてほとんど倒れる寸前だ。うねりと船の揺れがうまくかみ合うと、外のコックピットに波がドッカーンと入ってきてずぶぬれになる。そして水がたまると「危ない。船に水が入る」とあせって水をかき出します。それでも間に合わず、船の居住空間に水が入ってくると、みんなで必死になって水をかき出す。外は夜で真っ暗な上、雨と風と波で何も見えない。マイケルは何も見えない状況で必死に荒れ狂う波にあわせて、舵を取っていた。
僕はもし船がひっくり返ったら、船の前のところの救命ボートを外して、みんなを助けてやろうと頭の中で想像していた。いつもは船が沈んだらいいのに、そしたらヘリコプターに救助されて陸に早いこと帰れるのにと考えていたが、このときはさすがに、肝を冷やした。
そんな状況だったが命の危険を感じたり、怖いとは思わなかった。超暴力的な自然の力は怖いという感覚まで消し去ってしまっていた。どうにでもなれとか神様助けてくださいとかいう気持ちも吹き飛ぶくらいむちゃくちゃだった。もうただ単にその光景を見て、音を聞いているだけだった。
今思えばマイケル抜きだったら、確実に遭難していたと思う。そんな時でもマイケルは楽しそうにしていた。僕は何もできないまでも、舵を忙しく動かしているマイケルの横に座っていた。
「たのしいね。」
と、マイケルは笑って言った。確かに刺激的。マイケルは真っ暗で見えない波に合わせて忙しく舵を動かしていた。大きな波と強風で、船がひっくり返らないようにしているだけで精一杯のように見えた。きっとあれは危なかったんじゃないかと思う。
本当に転ぶと思っていたが、マイケルは数々の嵐を乗り越えてきた経験で、太平洋の嵐も乗り越えた。その大嵐も2時間くらい我慢すると、落ち着き始めた。
太平洋で見た星のことはお金では買えないいい体験だった。もしお金を払って大きな船に乗せてもらってもその船には夜には電気が付いているはずだ。このヨットは真っ暗だった。それに一晩中寝ころがって星を眺めた夜が何回か有った。見張りで起きていないといけなかったからだ。そんなこと強制されなかったら誰もしないだろう。海の上で星や月をずっと見ているといろいろなことがわかった。高い山の上や砂漠で星を見たことはあったが、太平洋での星が一番良く見えた。月のない晴れた日には360度水平線の上は全部見渡す限り星だらけだった。ただ星を見ていた。星座標と照らし合わせて、星座を探すと星座は全部見えた。
その時持っていた星座標には、12星座の説明があってそれを読んでみた。そして納得した。12星座とは星占いに出てくるさそり座とかいて座などの12の星座のことだが、12星座は太陽系の周りにぐるりと帯状に囲んであるという。地球は太陽の周りを1年かけて回るが、星座は太陽系より何億倍も離れたところにあるので地球から見て星座の位置は変わらない。だから地球から見て太陽の反対にある星座は変わっていく。それが12星座なのだ。と、書いてあった。空を見ると、確かに12星座のうちの半分が空に見えて、それらは並んでいた。残りの半分は水平線の下に隠れているのだ。そしてその12星座は昼間太陽の通るところに並んでいると書いてあったが、確かにそのようだ。なるほど、おもしろい。学校で習っても面白くないことが、そのときは感動するくらい面白いことだった。
昔の人は今みたいに明かりがなくて、夜になったらこれぐらい星が見えていたんだろうな。だから古代ギリシャの人達が12星座を作ったんだな。僕は12星座が科学的に決められていることを知って感激した。星占いも馬鹿にできないなと思った。星座を見るのも飽きて又ただ眼を開けて空を見ていた。空には星が敷き詰められている。明るいのや暗いのや集まったのもあれば、ぽつんと離れているのもある。北のほうは星が少ないようだ。「暗い星をずっと見てたら、目が慣れてもっと星が見えるかな」
暗い星をしばらく見ていたりもした。なんとなく暗い星のほうがまぶしくなくて見やすいようだ。ふと、自分は星で言ったらどれかな、北極星だったら一番いいけどそれはうそだし、一番明るい星ならいいけどそれも絶対違うし、いや、でも自分で決めてしまおうか、なんて頭の中でぶつぶつ考えが始まった。そしてまた星占いのことを思い出した。いやその考えは馬鹿にできない。インドには生年月日と時間と場所から占う星占いがありそれは驚異的な的中率だという。生まれた時間と場所がわかればそのときの天空の真上にある星が計算でわかるはずだ。それが自分の星というやつかもしれない。それが明るい星の場合もあるし、小さい場合もあるし、星がないところを指しているかもしれない。だとしたら、その星の動きをそれから100年間計算してその人の人生を占うなんてのも、科学的かもしれない。僕はそんなことを考えた。
もうひとつ感動したことがある。そのときは満月で昇ってくる大きな月をじっと見ていた。じっと見ながらこの月がこう上がってくるのは地球が東に自転しているからであって、自転しているから風が西に吹いていて、この船は西に向かっていて、この月は地球の周りを東に公転しているなんて事を考えていた。難しいことを考えているわけでなく、月ぐらいしか動くものがないので月のことを考えていた。そのままじっと月を見ていたが、なんだか月が平面でなくてボールに見えた。そして宇宙にそのボールが浮いているのが見えた。空が空でなくて宇宙に見えた。と同時に地球が宇宙に浮いているのもわかった。
地球上の上で感動したことは、嵐の夜に船の周りを飛んでいた鳥だ。ずっと離れず飛んでいたのだが、野生動物の強さがよくわかりうらやましいと思った。ハワイからも日本からも遠く離れた海の上のことだ。
最後に日本に到着するあたりを思い出してみる。横須賀に着く2日か3日前になると、大きなタンカーやら貨物船がぼつぼつみえはじめた。それまでの40日では4隻しか見なかったのだが、そこからはどんどん増えてきて、そこら中に船がみえるようになった。ぶつからないようにしなければいけないほど近くに来ることもあった。
日本の近くでは天気は良かったが、風はあまりなかった。日本に着く前の日は無風で船はまったく動かなかった。キャメロンはエンジンをかけて船を動かし始めた。キャメロンは4月までに来いという命令に遅れていることを気にしていたからだ。
僕は早く着けるので良かったと喜んでいたのだが、その後すぐ微風が吹き始めると、エンジンを止めて帆で走るようにマイケルとジブを変え始めた。このとき僕はこいつらはあほかと思っていた。そこまでこだわらなくてもいいだろうと思ったのだ。しかし今はキャメロンのなるべくエンジンを使わないで、風でこの航海を走りたいという気持ち、よくわかる。そのときの僕はキャメロンが「エンジン使わなかったの」という必ず聞かれる質問に、かっこよく答えたいんだろうと思っていたのだが、今の僕はヨットというのはエンジンで走るより、風で走るほうが気持ちいいということを知っている。ごめん。キャメロン。
軍隊みたいなところで、キャメロンみたいなわがままがよく通ったなと思う。横須賀に着いたのは4月7日。キャメロンは7日の遅刻だった。
横須賀に着くとアイスとドーナッツを食べて、港の近くの掘っ立て小屋のような移民局に自主的に行ってパスポートにはんこを押して貰った。横須賀に着いた感動は残念なことにあまりなかった。それよりも、その前の夜、初めて千葉の明かりを見たときに感動した。最初に灯台の明かりが見えて、千葉が見えた。次に町の明かりが見えると、人間の生活が見えたようであったかい気になった。車のライトが動いているのが見えると、ほっとしたような気がした。車の光を見て、人が生きているのを確認できた気がした。懐かしい感じだった。
横須賀に着いた日はキャメロンとマイケルをデパート、風呂屋、ラーメン屋に連れて行ってあげた。風呂に入ったあとでもマイケルはマイケルの臭いがしていた。次の日は、キャメロンの船を置くヨットハーバーを探すため、三人で三浦半島をうろうろしたが結局キャメロンの希望するヨットに住めるヨットハーバーは見つからなかった。次の日、マイケルは次の仕事のために飛行機に乗ってアメリカに行った。最後にマイケルはWe met.と言っていた。直訳すると私達は出会ったという意味になるのか。無口なマイケルだが、最後に詩的で意味深な言葉を残していった。
僕はそのあとすぐ神戸の実家にもどり、キャメロンとマイケルはそれ以来あっていないが、キャメロンとは一回手紙のやりとりをした。それにはこう書いてあった。
手紙ありがとう。僕は今湘南に住んでいて、電車で横須賀まで通勤しています。仕事でハワイやアジアいろいろ行きました。日本は波が小さいですね。ハワイに戻った時は毎日サーフィンしたよ。僕の夢はまだ変わっていません。今度は世界一周をしてみたいと思っています。それにはもう少し大きい船を買わないといけないかもしれません。それに、今度はどっさり食料を持っていくことにします。
僕の夢もキャメロンと一緒。世界中をヨットで回りたいね。サーフボード積んで。
