今日はアメリカを一周した時の話をします。アメリカに移り住んで約10年後、サーフィンばかりやってた元気も影を潜め始め、将来のことが心配になってきた27歳頃の話。その頃の生活のベースはハワイだったんだけど、夏になると波のいいインドネシアにシーズンの間、長期で滞在するような生活をしていたんだ。ハワイは冬の方が波がいいからね。仕事は相変わらずフリーター。定職につかないのはもちろんのこと、職種も安定してなかった。大体が労働力として使われる仕事だった。いろんな仕事をしたけど、まだ若かったし、それで充分だった。楽しかったし、仕事にも結構恵まれていた。

 その年インドネシアからハワイに戻ったのは12月。ノースショアのシーズンは始まっていた。その年は夏の間、約半年滞在した。その前はハワイのカウアイ島というところに1年住んでた。インドネシアでは仕事をせずにサーフィンだけ。物価の安いインドネシアでは働く必要はないし、その価値もないから。カウアイ島ではホステルに住み込みで仕事をしていた。週一日だけ受付の仕事をするだけでそこに住むことができるという楽な生活。そこでもサーフィンだけしかしていなかったので、貯金は底をつきそうになったんだけど、丁度カウアイ島で戦争映画の撮影があり、そこに日本兵の役で出れたので、そのお金でインドネシアに行くことができたんだ。確か3000ドルくらい貰って、インドネシアに半年行って2000ドルくらい使ったはず。飛行機代も含まれてだから安いでしょ。

 ハワイに戻った僕はノースショアにあるサーフショップでバイトをしながら、毎年楽しみにしていた大会、ハレイワインターナショナルを待っていた。その大会は大きな大会で,そこで良い結果を出すことがその頃の目標だったんだ。だけど見事惨敗。サーフィンの試合っていうのは負けるとサーフィンに対するやる気がまったくなくなる。自信もなくなるし。試合で結果を出すためにサーフィンをしているわけではないのに、だ。サーフィンをしてがっかりするなんてのは本当におかしい。普通サーフィンをしたあとはさっぱりした気持ちになるものだから。サーフィンの試合なんてナンセンスだという意見は根強くサーフィン界にあるけど、その意見には賛成だ。サーフィンというのは楽しい時間を過ごすためにする遊びで、誰かと競い合うというのはサーフィンの本意に反するというのが、僕も含む大部分のサーファーが持っている考えである。それでも試合はおもしろい。

 試合に負けてかなり落ち込んだが、いつまでも落ち込んでいるわけではなかった。プエルトリコに行くことにした。どっからそんな突拍子もない考えがでてきたのかは忘れたが、その時はノースショアのサーフシーンに飽きていたし、野宿をしながらバイトを続ける生活がいやになったというのが直接の原因だと思う。同じ野宿をするならもっと刺激を求めてジプシー的に生活した方がおもしろいに決まっている。カウアイに戻ってのんびりサーフィンするか、冒険するか。この2つが選択肢だったが僕は冒険する、を選んだ。今さらどう計画を練ったところでしょせんたいしたことにはならない。だったらたいしたことがないなりにめいっぱい無茶してみよう。それがそのときの精神状態だったと思う。

  プエルトリコにその時期、波があるということは前から雑誌で読んで知っていた。行ったことのない場所に行って、サーフィンをする。もう27くらいにはなっていたけれどサーフィンは大好きだった。

 お金はなかった。全財産は700ドル。約8万円。プエルトリコはフロリダの近くのカリブ海に浮かぶ島。ハワイからはかなり遠い。僕の計画はこんな具合だった。ハワイからロスまでは150ドルで行く。これはスタンバイという特殊なチケットで、ATAという飛行機会社で買えるチケット。このチケットは、出発する日の朝に飛行場に行き、飛行機に空席があれば買えるという余りもの的なチケット。ハワイからアメリカ本土まで150ドルというのはそんなに高くない。僕はこういったチケットがあることを知っていたので、フロリダからプエルトリコまでも似たようなスタンバイの安いチケットがあるだろうとたかをくくっていた。まあそれが150ドルだとしても400ドル余る。それどころかハワイ、ロス間と比べると、フロリダ、プエルトリコ間はずいぶん近いので、150ドルよりもっと格安なチケットがあるかもしれないと思っていたぐらいだ。問題はロスからフロリダ、アメリカ西海岸から東海岸までだが、そこは陸続きなのでヒッチハイクで行くことにした。ヒッチハイクなら交通費はタダだ。今思えば無茶な計画だが、その時は行けると思っていた。それにその無茶さが楽しみでもあった。

 そんなわけでプエルトリコに向けての旅が始まった。飛行場までは車で友達に送ってもら。その人は吉田さんという日本から来たサーファーで、今でも付き合っているが、知れば知るほどインテリで考え方がしっかりした人だ。多分、急にプエルトリコに行こうなんて思ったのもこの人に出会ったからというのがあったのかもしれない。この時のプエルトリコ行きは確実に僕を幸せにし、人生の転機にもなった。

 ATAのロス行きの飛行機は朝早いので、空港に着いたのは早朝だった。しかしその日、スタンバイのチケットは買えなかった。飛行機に空きがなかったのだ。というわけで、その日は一日、空港の中、もしくはその周辺で時間をつぶした。金がないかわりに何の予定も約束もない僕には1秒のあせりもなかった。その夜はボードケースにくるまって空港で寝た。次の日の朝はスタンバイのチケットを買えたが、ボード代で50ドル取られたのが想定外だった。さてチケットを手に入れ無事に飛行機に乗ったはいいが、機械のトラブルでその飛行機はホノルルの空港で2時間程もたもたし、出発が遅れた。いらいらしている人もいたけど暇人の僕にとっては問題ではなかった。逆にサンドイッチが出てきてラッキーと思っていたくらいだ

 ロスの空港に着き、バゲージクレイムで荷物を待つ。そこまではお金も払ってあるし、決められたことなので楽勝だが、そこから先は自分でプエルトリコまでの道をこじ開けていかなくてはいけない。昔ロスに住んでいたので空港の周辺のことはよく知っていたが、そこはどう良いように思い出しても、バカでかいボードケースを抱えてヒッチハイクできるような場所ではない。少しごみごみした雰囲気で、せわしない街だ。空港を出てからじゃヒッチハイクはできない。そう考えていた僕は、同じバゲージクレイムで荷物を待っていたサーファーに声をかけた。彼もサーフボードを持っていたのでサーファーだとわかったのだ。僕はとりあえず彼の車に乗せてもらおうと思っていた。サーフボードを持ってのヒッチハイクは本当に不便だ。乗せてもらうには、まずサーフボードが乗る車でないと始まらない。僕の壮大な計画では、アメリカ大陸を横断する長距離トラックを捕まえて、西から東海岸まで行くことになっていた。それならボードケースも入るだろう。しかし、空港でいきなり長距離トラックを見つけられるわけがない。フリーウェイの入り口にでも立てば可能だろう。しかしそこまでは一般のサーフボードを積める車に乗っけてもらうしかない。僕がサーファーに声をかけたのは、サーファーならでかい車に乗っているだろうと考えたからだ。

 しかし、僕の予想に反して彼は車に乗ってきていなかった。又、誰かが迎えにくるわけでもなかった。しかし結果的には彼に声をかけたことは正解だった。飛行機が2時間遅れたお詫びとして飛行機会社がシャトルバス代を出してくれるらしい、という情報を彼が教えてくれた。僕は彼と一緒にサンディエゴ行きのシャトルバスに乗り込んだ。サンディエゴはロスから南に2時間程車で走った所にある、アメリカ西海岸最南端の街だ。サンディエゴには昔住んでいて勝手を知っていたし、ロス周辺よりものんびりしているのでまずはそこに行こうと決めていた。サンディエゴにはフリーウェイ8という高速道路が東に向かってひたすら伸びていて、それに乗って東に行けばフロリダに着く。そういう計画だった。僕はバスを降りたらサンディエゴのどこかのビーチで野宿をしようと考えていたのだが、その事をサーファーに話すと彼は「じゃあ、うちで寝ればいい。」と言ってくれた。その夜はエンシニータスというサンディエゴから少し北にある彼の家に泊まることになった。まったく見ず知らずの出会ったばかりの人を泊めるなんて、なんていい人なんだろう。彼は僕と同い年くらいの若いサーファーだったが、きれいなアパートに住んでいて性格もまじめな人だった。今思えば信じられないほどの親切だが、その時はその機会に遠慮なく飛びつかせてもらった。

 ハワイを出たときの全財産は700ドルだったが、そのほかに300ドル分のバティックを持っていた。バティックというのはインドネシアのジョグジャカルタ特産の染色された布のことで、僕はインドネシアでバティックを大量に買っていた。ハワイで売りさばこうと思っていたのだ。インドネシアは物価が安いので300ドル分のバティックといえばかなりの量になる。僕はそのサーファーにそのバティックをいくつか貰ってもらった。そのバティックはその後の旅路で貴重な資金源になる予定だったが、後日フロリダで悪い奴らに騙されて全部盗られることになる。

 次の日の朝、彼の仕事に行くついでに職場の近くまで車で送ってもらった。そこからはヒッチハイクだ。目的地はフロリダ。サンディエゴの北端くらいまでは着いたが、サンディエゴは小さい町ではない。彼の職場はデルマーというところだが、そこからフリーウェイの入り口まではちょっとある。荷物が少なければバスにでも乗ればいいのかもしれないが、サーフボードが2枚はいった大きなボードケースを持っていた。ボードのほかに着替えと寝袋、バティックが入っていたが、バティックが結構重い。一人になり重い荷物が僕の身動きを制限した。お金もない。頼れるのは自分の気持ちだけ。車のあまり通らない早朝、時々通る車も当たり前のように無視して走っていく。ヒッチハイクには慣れていた。ニュージーランドの南島を一周したこともあるし、大阪から東京まで行ったこともあるし、ハワイでは日常的に乗せてもらったり、車があるときは乗せていたりした。それだけにでかい荷物を持ってのヒッチハイクは難しいだろうというのを感じていた。最初の15分がやけにつらい。かなり弱気なスタートだ。どういう状況で止まってもらえるのかイメージがわかないままヒッチハイクをしていたが、ふと一台のピックアップトラックが止まってくれた。運転手は陽気な男の人で、そこから2キロばかり南にあるビーチまで送ってくれた。そのビーチは昔サンディエゴに住んでいたとき、一番よくサーフィンをした場所だった。

 スクリップスビーチ。僕にとってはかなり特別な場所である。駐車場から見えるビーチの景色は変わっていなかった。サーフィンを覚えたての頃、夢中でサーフィンをしていた場所だ。18歳の時サンディゴに住み始めてからは、暇さえばそこでサーフィンをしていた。しかし、その時はもう寒かったしウェットスーツもないし、暖かい場所でサーフィンする事に慣れてしまったし、友達も顔見知りもいなさそうだし、まるっきり熱い気持ちはなかった。昔、自分の家のように感じていた海は全く知らない人たちの物になっていた。そして海の上で繰り広げられるサーフィンをただ見ていた。計画していたわけではないが、思い出の場所に5年ぶりに自分はいた。今思えば何か運命めいたものを感じる。そして、しばらくすると駐車場に一台のワゴン車が入ってきた。

 ワゴンの運転席から波をチェックしている顔を見ると、カラニだった。なんでカラニがこんな所にいるんだろう。ありえないことだが目の前にはカラニがいた。カウアイ島に住んでいたときホテルで一緒にレストランで働いていた奴だ。サーフィンが異常にうまくて、不良だったがよくしてくれた。カウアイにはサーフィンが上手い奴は沢山いるが、この人はその中でもうまい。カウアイで生まれ育った生粋のカウアイボーイであるカラニとサンディエゴで会うなんてまったく想像できない展開だ。話しによるとサンディエゴの女性と一緒に住むことになったようだ。彼女はカウアイのホテルのお客さんで、そこで知り合ったみたい。カラニはちょっとした無法者でホテルの高いシャンパンやお酒を持ち出してパーティーに持って行ったり、カウアイボーイであることを人一倍誇りに思っていて、よそから来るアメリカ人をあからさまに嫌っていたりした。そんな彼をよく思っていない奴もいたけど、僕はあまりにも自由奔放でサーフィンのうまいカラニにあこがれていた。興奮している僕を見てカラニは僕に「びっくりしているのか。」と言った。

 僕はカラニに会ったことを心から喜んでいた。彼はカウアイで出会った人の中でも、もっとも強烈な印象を受けた人の一人だったし、ボードケースを持ってのヒッチハイクという試練の最中で不安な気持ちがあったから、近所のスーパーで会った時のように気楽に話しをしてくれるカラニに会えたことは救いだった。カラニに偶然会ったことは、この旅が正しいものだという啓示のように感じた。彼は仕事中だったが僕を少し南のラホイヤのホスピタルというサーフスポットの前まで送ってくれた。彼が運転していたのはホテルのワゴン車で、仕事中なのに勝手に波をチェックしに来ていたのだが、カウアイを離れても同じペースでやっているカラニはやはりおかしかった。

 ホスピタルからもう少し南にあるミッションビーチまでは、若くていかにもサンディエゴのサーファーっぽい若者が乗せてくれた。ピックアップトラックに乗っていて、若くてノリのいい感じで、いい奴だけどいいかげんそうな奴。ヒッチハイクするのには一番いい感じだ。僕はそのころにはもうボードを持ったヒッチハイクが特別難しいものには感じていなかった。

 ミッションビーチというところはサーフタウンであるサンディエゴの中でも、おそらく一番サーフタウンらしいところだろう。サンディエゴではどこにいってもサーファーが溢れているが、若いサーファーがサーフィンしかしない時期に住むのがミッションビーチという町だ。仕事や学校よりもサーフィンが優先して、車や住む場所よりもサーフィンが優先するような場所。それがミッションビーチ。波が特別いいわけではないが、そこに住むサーファーや町自体のキャラクターはずばぬけてスペシャルだ。若いサーファーが多いが、サーフィンしかしない時期が中年になっても続いているような、ファンキーな人達も多く住んでいる。またそういう人が平気で暮らせるような雰囲気をもっている。一生をサーフィンだけに捧げる。ミッションビーチはそれが許される場所なのである。

 僕はミッションビーチに住んでいたことはないがその近所に住んでいたことがあったし、そこに知り合いもいた。それにカウアイ島で出会った奴もそこに住んでいたのでそいつらを探した。仲間意識の強い場所なので誰かに聞けばわかるだろうと思っていた。そこにいる人たちは比較的みんな暇そうなのだが、暇そうな人を見つけて声をかける。

「エクスキューズミー。フランクって奴知ってる。金髪でカーリーヘアーの。」

「あー、知ってると思う。どのフランク。あーでもどこ住んでるのかなあ。よく見るんだけど。顔みたらはっきりわかるけど。」

といった感じで要領を得ないまま、暇人同士の会話は続くのだが多分僕はそれでもよかった。結局、見つけたとしてもたいした用事もないわけで、その街のだらだらしたウェルカムムードを感じるだけで旅路の途中である僕は人心地つくのだった。

 僕はコインランドリーを基地に洗濯をしたり、気のよさそうな人に自転車を借りて、昔働いていた寿司屋に行ったり、うろうろした。コインランドリーで見つけた情報誌で東海岸行きの飛行機のチケットの値段を探したが、200ドル以上していたのでそれはあきらめた。

 フリーウェイの入り口はもうすぐそこだった。ミッションビーチの隣、オーシャンビーチに行く途中にそれはある。ミッションビーチはこれ以上ないくらいレイドバックした所なのでヒッチハイクするのも気楽だった。交差点でしばらく待っていると、大きなアメ車が赤信号で止まった。運転手も見るからに幸せというわけではないが、とりあえず人生に深く悩んだことがなさそうな人だ。僕がオーシャンビーチまで乗せてってくれと頼むと、あきらめたように言った。

「ったく、しょうがねえな。すべての出来事には理由があるっていうからな。」

この人はうそのつけない、いい人とでもいうのだろうか。そして神を信じていたんだと思う。「すべての出来事には理由がある」天の言葉を聞いた僕は、自分の今している旅もそういうことなんだ、と思い気持ちが高揚した。カラニに会った時と同じように、正しく導かれて前に進んでいるのを感じた。

 オーシャンビーチに着いた。フリーウェイの入り口だ。この東に向かって走るフリーウェイに乗ればフロリダに着く。僕はガソリンスタンドに行き、アメリカ合衆国の地図を買った。そして、ダンボールを貰って、マジックを借りた。ダンボールに大きく書いた文字はFLORIDAだった。よし、これでフロリダにいける。僕はそのダンボールがフロリダ行きのチケットであるかのように、このヒッチハイクの旅がうまくいくことを確信した。

 その日、フリーウェイの入り口でヒッチハイクを始めたのが朝だったので、夕方まで一日中ヒッチハイクをした。結果は夕方になっても誰にも乗っけてもらえず1メートルも進まなかった。それでも、楽しい一日だった。僕は車が来るたびフロリダと大きく書いたダンボールをかかげて、運転手に愛想を振りまいていたのだが、みんなの反応はかなり好意的なもので、クラクションを鳴らして、がんばれよとやってくれたり、フロリダというのを見て、びっくりされたり喜んでくれたり。

 ヒッチハイクをしている最中、自分が目立ちたがり屋みたいで恥ずかしいという気持ちはあった。それでもふっきれてやるしかなかった。そして、いろいろなことを考えたと思う。あー、こんなに沢山の人に顔を見られて、みんなどう思ってるんだろうとか。俺ってホント変な奴だな、とか。我ながらおかしな事してるな、とか。一日中無視されると本当に疲れる。実際に止まってくれた車も一台あった。しかし、ボードケースが乗らない普通のセダンであきらめるしかなかった。夕方近くになると、出来る限りのことはやったという、慰めのようものを感じながら、フリーウェイの入り口から歩いて降りた。

 その日の夜はオーシャンビーチにある野球場のバックネットの裏で寝た。持っている服を全部着て、ボードケースの中で寝たので寒くなかったが、冬のサンディエゴは結構寒かった。それでも心は熱かった。

 次の日、朝起きると仕事に行くようにヒッチハイクを始めた。その時はまだ希望を持っていた。いつか誰かが拾ってくれるだろう、と。しかしその日の午前中、不安と希望で揺れる心を挫く事件があった。

 一台の車がフリーウェイに乗ってきた、ここはフリーウェイが始まる地点で、そんなに車が早く走っているわけではない。ちなみにフリーウェイは無料なので料金所はない。その車に乗っていたのはいかにもサーファー風の若い男だった。僕の中で期待度は上がり、その男に「乗せて欲しい」というを気持ちを強くアピールした。しかし、その男はこっちを見ながらファックユーの中指を突き立てて僕の前を走っていった。がーん。しかし、その男を恨めるわけでもない。無理をしているのは十分自分でもわかっていた。それからしばらくはそこでがんばっていたが、昼ごはんを食べに町に戻ったときにはもう心は完全に折れていた。「もう無理。ヒッチハイクはしんどすぎる。」1日半がんばって、全然前に進めなかったらこう思ってもしょうがない。しかもあの仕打ち。

 飛行機で東海岸まで行くという可能性もあったが、ふと脳みその片隅に記憶されていたことを思い出した。そうだ、グレイハウンドバスで行ってみよう。グレイハウンドというのは、アメリカではあまりにも有名な長距離バス会社のことだ。アメリカで長距離バスといったらこれしかない、というくらい大きなシェアを誇っている。その昔グレイハウンドのコマーシャルをテレビで見て、アメリカ中どこまで行っても99ドルというのを思い出したのだ。安いし、楽しそうだ。ぜひそうしよう。

 グレイハウンドでアメリカを移動するというのには、ある種特別な意味がある。アメリカはでかい国だ。中西部の小さい町なんていったらそれこそ陸の孤島。だから、そこで育った若者は華やかな世界を求めて、又は夢を叶えるためにハリウッドまたはカリフォルニア等に行きたいと思うのは自然なことである。そんな時に必ず登場するのがグレイハウンドバスなのだ。それが飛行機であってはいけない。小さい町の、家からそう遠くないバス停に止まる銀色のグレイハウンドに乗ってハリウッドに行くというのが、正しいアメリカンドリームの追いかけ方っぽい。多分。映画ではそうなっている。そういう意味ではバスに乗るということは自分の中で負けではなかった。

 僕は電話帳でグレイハウンドの電話番号を調べて電話した。値段は160ドルと思ったほど安くはなかったが、決して高くはない。99ドルというのを問いただしてみると前もって予約していればいくらかは割安になるということだった。僕はオーシャンビーチから市バスに乗りサンディエゴのダウンタウンに向かった。グレイハウンドのバスターミナルはサンディエゴのダウンタウンにあった。ヒッチハイクでアメリカ大陸を横断するという冒険はいきなり失敗に終わったが、未練どころか自分が自分にかけていたプレッシャーから解き放たれてほっとしていた。

 ダウンタウンの銀行でバス代をATMから下ろすと残高は300ドルもなかった。全財産があまりにも少ないと、逆に考えることが減って気楽になる。僕は銀行に入っているお金を全ておろし、働き始めてから初めて、全財産を財布の中に入れた。すると、お金との一体感を感じた。頭の中で300ドルと考えるより、財布の中に実際に金が入っている方が実感がわく。

 目的地ははっきりしていた。あとはバスに乗って前に進むだけだ。僕はダンボールにFLORIDAと書かれた嘘っぱちで役に立たないチケットでなく、本物のフロリダ州マイアミ行きのチケットを手に入れた。嬉しいことにバスではサーフボードの別料金がかからなかった。

 バスはサンディエゴを出ると、東に向かわず北に登った。ロスから東に1時間程走ったところにある砂漠の近くの町サンバナディーノという町に出ると、そこからフリーウェイ10というアメリカ大陸を東西に突っ切る道路に乗った。アメリカに来た当時、そのあたりに住んでいたことがあったので懐かしい気持ちがした。そしてその頃を思い出し、新しい国で右も左もわからなかった自分と今の自分を比べて、ずいぶんとアメリカに慣れたものだと、時間の流れとアメリカという国にこうして関わるようになった運命を一人感じていた。

 その頃には僕はアメリカにもう10年くらい住んでいて、カリフォルニアには5年ほど住んでいたが、グランドキャニオンから東には行ったことがなかった。カリフォルニアに住んでいた頃はサーフィンを始めたばかりで、サーフィンがおもしろくて仕方なく、1日でも波から離れることが出来なかった。波のないところになんの魅力も感じなかった。しかし、もうその頃にはサーフィンに対する情熱も一段落して、サーフィン以外にも大切な物があることをわかっていた。アメリカに長く住んでいるのにニューヨークや東海岸の町に行ったことがない自分がつまらなく思っていたし、もったいないと思うようになっていたのでアメリカの東海岸に行くということも、僕にとって大切なことになっていた。バスはフリーウェイ10に乗るとひたすら東に走った。砂漠に出てしばらく行くと雪が見えてきた。

 グレイハウンドで西海岸から東海岸まで3日かかる。2泊3日の旅だ。その間いくつもの大きな町を通る。メキシコ国境の町エルパソ、テキサスのヒューストン、ルイジアナ州のニューオリンズを通ってフロリダに着く。かなりの長旅だ。しかし、その間ずっと同じバスに乗っていないといけないわけではない。JRと同じで目的地までの切符があれば途中下車ができる。同じ路線を一日に何台も走っているのでどこか途中の町で降りて、食事をして次のバスに乗るなんてことも出来る。それどころか途中の町で一泊して次の日のバスに乗ることさえ可能なのだ。もっといえば有効期限が切れるまでならいくらでも途中下車していてもいいという、かなりおおらかなシステムになっている。はっきりとは覚えていないが一週間くらいは有効だったような気がする。

 国境の町エルパソでは公用語がスペイン語だった。売店でスナックを買っていたとき、周りの人も店員もスパニッシュを使っていた。店員にもスパニッシュで話しかけられた。ニューオリンズのバスターミナルでは黒人がいた。黒人を見るなんて珍しいことでもなんでもないが、その黒人は堂々としてかっこよく、南部にきたんだなと思った。バスの旅も二晩開けるとフロリダ州に入っていた。今まで来たことのない場所にいるというのは楽しかったが、バスから降りなくてはいけない時間が近づくと、ふつふつと不安が湧き上がってくるのを感じていた。バスから降りたらどうすんべ。限られた予算の中ではすべてが思い通りに行くなんて保証はない。

 三日目の昼ぐらいにバスはマイアミに着いた。重くてでかいボードケースはバスターミナルに置いといて、僕は街に詮索にでかけた。プエルトリコまでのエアーチケットも探さないといけなかった。マイアミのバスターミナルの周辺の街はそれまでに見慣れたアメリカではなく、ラテン系の街なみになっていた。メキシコのラテンとはまた違う、ベネズエラとかキューバといったマイアミサウンドマシーンが聞こえてきそうな明るいラテンだ。人もラテン系が全然多い。

 僕はとりあえず見つけた旅行代理店でプエルトリコまでのエアーチケットを調べてもらったが、予想以上に高くて買うことが出来なかった。フロリダからはかなり近いので100ドル、200ドルくらいであるかと思っていたのだが、普通に700ドル近くしていた。

「まあ、この店は高いんだろう。」

 僕はそう思って、マイアミ空港まで市バスで向かった。空港に行けば安いスタンバイのチケットがあるはずだ。そう思っていた。市バスにサーフボードを乗せていいのかどうかは怪しかったが、僕からすればそれしか術はなかった。ハワイの市バスでは大きな荷物を載せられないが、ラッキーなことにフロリダでは何も言われなかった。

 マイアミ空港は混雑していた。僕はなんのあてもなく、片っ端から航空会社の窓口でスタンバイのチケットがあるか聞いていったが、結果は惨敗。フォートローダーデールの空港ならあるかもしれない、と誰かが教えてくれたのが唯一の収穫だった。しかし、その日はもう遅くなっていたので空港で一泊した。

 次の日、フォートローダーデールの空港までバスで行き、スタンバイのチケットを探したがそこでも見つからなかった。スタンバイでないチケットのことももちろん聞いたが手の届く額ではなかった。プエルトリコ行きの安いチケットは買えないと悟った僕は、フロイズというホステルを電話帳で探し、電話した。フロリダにしばらく居るしかないというわけだ。このホステルはグレイハウンドに乗っているとき、バスターミナルで広告を見つけて、一泊の値段が安かったので覚えていた。一泊15ドルで朝食付きは安すぎる。そこはフォートローダーデールの空港からはそんなに離れていなかった。ホステルの近くまで市バスに乗っていくと、スタッフか誰かが迎えにきてくれた。

 フロイズに着くと事務所でそこのシステムを説明してくれた。僕はそれまでに色々なホステルに泊まった事があったし、ホステルで働いていたこともあったが、フロイズはかなり過ごしやすく、気の利いたホステルだった。朝食はパンとジャムとコーヒー程度のものだったと思うが、貧乏旅行者にとってはただ飯はどんなものであってもありがたい。更にそこのホステルでは日雇いの労働力を探しに、毎朝誰かが迎えに来るというのだ。朝早起きしてホステルの前で待っていれば仕事にありつけるらしい。これは僕にとっては願ったり叶ったりだった。プエルトリコまでのチケットが思っていたより高いと知った今、何か仕事を探すしか前に進む道はなかった。

 次の日からは仕事を探す日が始まった。次の日の朝、目が覚めるとすぐに外に出た。すると、そこにはもう10人ぐらいの若者が並んで待っていた。しかもみんなに今日は駄目だなー的な空気が流れている。僕も一応みんなと一緒に、誰かが人を拾いにくるのを待っていたが、誰も現れない。しばらくそこで待っていたが結局拾われていったのは2,3人で、外で並んで待っていた連中の大部分は仕事を貰えなかった。彼らは全員ホステルの滞在者で、年齢は10代後半から30代前半くらいの、僕と同じタイプのいい加減そうな人たちだった。出身地は様々で南アフリカからスウェーデン、イギリスからフランスまでなんでも揃っていた。当然アメリカ人もいたがアメリカはでかい国なので他の州からすればフロリダなんて外国のようなものだ。

 仕事を探さないと、プエルトリコに行けないどころか路上生活者になってしまう。そんな脅迫観念が僕を駆り立てた。いろいろ話を聞いているうちに、ヨットハーバーで船の修理のような仕事なら見つかるかもしれない、という情報を得た。フォートローダーデールというところは高級住宅地でもあるし、高級ヨットやボートの停泊地でもある。ニューヨークで働いて金持ちになり、フロリダで贅沢な暮らしをする。そんな理想的なアメリカンドリームを送っている人達が住んでいるのがそのフォートなんとかという街なのだ。僕は同じ部屋の住居人であるスウェーデン人の若者と一緒にヨットハーバーに仕事を探しに行った。スウェーデン人がすべてそうというわけではないだろうが、彼は日本人っぽい少しまじめな20歳くらいの若者だった。おそらくアメリカ人というのは世界でも特別いいかげんな連中なんだと思う。いいかげんという表現が悪すぎるなら、よく言えばなんにも気にしない幸せな人達。彼は自分の父親を嫌いだと言っていた。少し悩んでいたようだった。そういえばイギリス人の友達も同じようなことを言っているのを聞いたことがあるが、アメリカ人がそういうことで悩んでいるのをまず見たことがない。

 僕とスウェーデン人は仕事を探し回った。金髪で白人の彼の方が好かれる可能性は高いと思ったが、どうも僕の方が仕事を探すのは慣れていた。それでも僕が臆せず仕事があるか聞きまくっているのを見て、スウェーデン人もがんばって仕事を探していた。船はいくらでも泊まっていた。誰もいない船がほとんどだったが、誰か人がいたら手当たりしだいに聞いていった。

「何か手伝えることありませんか。仕事はありませんか。」

 断られても断られても次々聞いていった。その日、ほぼ諦めかけていたころその船は見つかった。船の名前はストーンフェイス。60フィートはある超高級クルーザーだった。その時の返事は後でホステルに連絡する、というものだった。そして、その日の夕方、電話がかかってきた。仕事が決まった。しかも僕だけ。スウェーデン人の彼は体がでかすぎてだめだということだった。僕は彼に悪い気がしたが、それでもうれしかった。

 次の日、体がでかすぎてダメ、の理由がわかった。僕に与えられた仕事は高級クルーザーの貯水タンクの内壁のペンキ塗りという作業だった。ボートが馬鹿でかい分、貯水タンクも馬鹿でかい。しかし、それでも身長170センチ程度の僕がやっと作業できる程度の広さしかなかった。190センチはあるスウェーデン人の彼だったら、タンクの中に入るだけでやっとだったろう。結局、貯水タンクのペンキ塗りには3日程かかった。報酬は時給15ドルだったが、少し多めにくれて3日で300ドル近くもらった。それに仕事中はランチも食べさせてもらった。その船の豪華さといったらなかった。個人で持つボートとしては世界でも最高級クラスだろう。何せオーナーは今世界中によく見られるショッピングモールという構想を考え出した建築家らしいから。ボートは新艇で900万ドル、約10億と言っていた。その船で働いていたキャプテンやコックさん達もいい人で、僕がこれでプエルトリコに行けるというと、喜んでくれた。

 プエルトリコ行きのチケットは新聞広告で見つけた格安チケット店で買った。店は隣の町にあったのでバスに乗って行った。フロリダという未知の街は徘徊しているだけでも楽しかった。印象はアメリカっぽくだだっ広い、平らな場所。特徴は海沿いに延々と続くヨットハーバーと膨大な数の船。海沿いの高級住宅街。 海はひたすら砂浜で波は常にフラット。本当に大西洋というでかい海に面しているのかと思うぐらいだ。僕が見た限りでは琵琶湖とさほど変わりがない。天気ものっぺりとした快晴の日が多く、それが余計に海の静かさを感じさせた。

 フロリダからプエルトリコまでは飛行機であっという間だった。機内食一食か二食分くらいの距離しかない。朝早くにフォートローダーデールを飛び立った飛行機は昼にはプエルトリコ上空に来ていた。飛行機から見るプエルトリコは意外に家が多く、うんざりした。期待していたのは熱帯のジャングルが人間の居住区を脅かすくらい、ワイルドに満ち溢れた島だった。しかし、飛行機から降りてからのアドベンチャーは想像を超えていた。

 バゲージクレイムで荷物を拾うとリンコン行きのバスを探した。リンコンという町はプエルトリコのサーフィンの中心地だ。しかし、困ったことにプエルトリコ人は英語が話せなかった。そこらで働いている人達もタクシーの運転手も少しは話せるのだが、リンコン行きのバスはないというところで会話が止まってしまい、それ以上のことは誰に聞いても聞き出せなかった。こんな時お金があればどうにでも解決するのだが、無駄に使えるお金などびた一文持っていなかった。インドネシアみたいな物価の安いところでは、慣れて安く生活できる様になるまで少しくらい贅沢しても知れているが、プエルトリコのタクシー代はアメリカとさほど変わらなかった。こんなにあせったのは久しぶりだ。英語が通じないのがまずい。状況をまったく把握できなかった。

 僕はなす術なく空港をボードバッグをかついで歩き回った。これも何かに導かれていたのかもしれない。何故なら本当に路頭に迷っていたからだ。ふと目にしたのがツーリストインフォメーションらしき建物だった。らしき建物、というのは看板も英語でなくスペイン語だったからだ。その部屋のドアを開けて中に入ると一つだけデスクがありその奥に一人のおばさんが座っていた。部屋には観光のポスターが貼ってある。その人はボランティアなのだろうか。それとも公務員で観光局の様なところの人なのだろうか。それともそこはただの旅行会社で、その人が親切だっただけだろうか。そのおばさんは異常に親切だった。まるで神様のようだ。英語も喋れるし、聞きたいこと全てを丁寧に我慢強く教えてくれた。リンコンまではサンホセからパブリコスという安い乗り合いバスが乗ればいいということ。空港からサンホセまでは市バスが走ってること。安くて安全なホテルの場所等など。僕のことを親身に心配してくれる様子はまるで本当の母親のようだ。その部屋に入るまで僕は迷子の子供みたいだったが、部屋を出るときにはちょっとしたプエルトリコ通になっていた。

 プエルトリコというところはアメリカと違って、同じキリスト教でもカソリックの人が多い。さっきの親切なおばさんにもそんな印象を受けた。運まかせで行き当たりばったりの人生を主に歩んでいる僕はクリスチャンではないが一応、神を信じている。アメリカに長いこと住んでいて周りにそういう人が沢山いたので、それで影響を受けたのだ。特に僕のような外国人に親切にしてくれる人達は本当にいい人ばかりで、話をすると神を信じているということが多かった。アメリカ人にも悪ぶった奴はいるし、実際に悪いことをする奴も沢山いる。しかし、そんな奴らでも神を信じている奴が結構いる。逆にそんな奴らの方が強烈に神を信じている様なことを言ったりする。やってることはめちゃくちゃでも口ではなかなか正しいことを言う。日本とアメリカの違いは多分そこにあるような気がする。アメリカにイジメや人への無関心、せかせかした空気がないのは多分それがあるからだと思う。逆に言えば日本人は信仰心が余りなく、周りとの人間関係で自分の存在を確認しようとするから、イジメとかがあるんだと思う。もうひとつ、アメリカで親切にしてくれる人といえば同性愛者の存在を忘れてはいけない。僕もやけに親切にしてくれるな、と思ったらホモだったなんて経験が何度もあったが、そっちの方はあまり影響を受けないほうがいいと思っている。

 プエルトリコに着いてから僕は何かに見守られているような気がしていたが、それは不思議な連鎖で実際に形になって現れていった。バスに乗ってサンホセに着いた僕はサンホセの街をうろうろしていた。と、そこに炊き出しのようなものが見えた。どこかの教会がホームレスの為に夕ご飯を配っていたのだ。僕は迷わずその場所に吸い寄せられていった。その広場はレンガでできた古ぼけた街の中の広場だった。サンホセという街は全体が古めかしくて古い教会のような雰囲気を持っている。広場で僕はホームレスのような人達と一緒にプレートディナーを楽しんでいると、二人の若者が近づいてきた。男と女のカップルで年は大学生くらい。カップルではなく、ただの友達だったのかもしれない。プエルトリコ人はアメリカ人と違ってちゃらちゃらしてなくて、落ち着いてた感じなのでカップルと呼んでいいのかどうかはわからない。

 日本人の僕が珍しかったのか、二人は僕に話しかけてきた。僕がサーフィンをしにきていて、泊まる場所を探していることがわかると、二人はピンときたらしく僕をどこかに連れて行こうとした。二人は少し変わっていた。目的地に着くまで歩いて話をしていたのだが、こんな具合だった。

男 「今日すごくいい詩が書けたんだよ。」

女 「へー。」

男 ノートを取り出して、詩が書いてあるページをめくり、大きな声でかなり感情的に朗読する

女 興奮ぎみに言う 「すごい。いいじゃない。」 

 彼らは詩が好きなのだろうが、僕は詩がそこまで好きな人に生まれてこのかた会ったことがなかったので少しびっくりした。彼らが連れて行ってくれた場所は街のなかの建物で、中に入るとだだっぴろいホールのような部屋があった。音楽が流れていて、そこにはアーティストっぽい若者が15人くらい集まっていた。今考えてもどういう目的でその場所があるのかわからないが、部屋は薄暗く、中ででかい絵のようなものを作っている者や、演劇のようなことを練習している者、何もしないで友達とお酒を飲んでいる者などがいた。誰かが住んでいるというわけでもなさそうだ。僕を連れてきた二人はその中の何人かに僕を紹介してくれた。その中の一人がサーファーのサンディージョーだった。彼は体がでかく、すこし気だるそうなアメリカ人っぽいプエルトリカンだ。

 僕はサンディージョーにリンコンに連れて行ってくれとせがんだ。彼は最初まったくその気がなさそうにしていたが、しだいに行ってもいいかなというような素振りを見せ始めた。それから2時間後、僕はサンディージョーのピックアップトラックに乗ってリンコンに向かっていた。夜の高速道路を2時間ほどサンディージョーの車は走った。けっこう遠いな、というのが僕の印象。サンディージョーはあまり英語が話せなかったので、会話が弾むわけではなく疲れていた僕は寝てしまった。夜中に海に着くと彼は何もかけずに外で寝た。僕はボードケースの上で寝袋の中に入って寝た。ハワイ、サンディエゴ、フロリダと野宿をしてきたが、プエルトリコは寒くなかった。

 次の日、サンディージョーの友達がサンホセから現れて4人でサーフィンをした。水は暖かく、波もあった。彼らは若く、サーフィンに対する情熱には舌を巻いた。

 その日の夕方、彼らは僕をリンコンに残してサンホセに帰っていった。サンディージョーとはあまり会話が弾まなかったが、「おまえみたいにいつか俺もサーフボードを担いで旅がしたい。」と言っていた。彼にはお世話になりっぱなしで何も返すことはできないが、僕との出会いによって、やりたいことが見つかったり、やってみようというきっかけになったとしたらうれしい。出会いは人を変えていく。僕がこうして少しの金を持って地球の反対まで波を追っかけているのも多くの人の影響を受けたからだ。カウアイ島のホステルで働いていたときの仲間は世界中から来ていたが、所持金が5ドルとか一銭もないとか、僕の常識からもかけ離れた生活を送っていた。インドネシアで出会ったオーストラリア人達はおじさんになってもいろいろな形で波を追っかけまわしていた。船を持ったり、バイクを持ったりとか。人間一人の力はどれほどのこともないが、周りに影響を与えていくことができるのならそれは波紋のように世界中の人に伝わっていくなんてこともありうる。そう考えるとなかなか楽しい。

 リンコンで一人になり、まずはその日の宿を探した。僕はオープンテラスのある軽食屋でゆっくりしていたアメリカ人達に安宿の事を聞いた。彼らはサーファーではなく、バケーションで来ていたインディアナポリスのお医者さんで、近くの安宿に泊まっていた。話を聞いているうちに、予約していたベッドが一つ余ってるからそこで寝ればいいと言ってくれた。一緒に来るはずだった人が来れなくなったらしい。「そのかわりサーフィンを教えてくれ。」と言われたがお安い御用だ。そんなことはなんでもない。すぐにOKした。

 その宿は一泊20ドルとそんなに安いわけではなかったが、そのあたりではそこが一番安いようだ。その宿に泊まっていたのはほとんどが東海岸から来たサーファーで、僕がそれまでにあまり出会ったことのないタイプの連中だった。彼らからしてみても日本人のサーファーというのはあまり会ったことがなかったと思う。最初は少しよそよそしいような感じがしていたが、すぐに親しくなりいろいろなものをご馳走してくれた。

 それから数日はそのお医者さん達と一緒にサーフィンをしたり車に乗せてもらったりして遊んでいた。サーフィンも教えた。その人は若くてバク宙ができるくらい運動神経がよかったからか、人生で最初の波で横に滑れてしまった。波も小さくて丁度良かったし、僕が貸してあげた板も7フィートの厚めの板で全ての条件がうまく揃っていたというのもあるが、押してあげたわけでもないのにショートボードでそれは普通ありえないことだ。彼は僕にバク宙を教えてくれたがそれはできなかった。彼らはとてもいい人達で典型的ないいアメリカ人だったが、別れの日が来てしまった。と、同時に僕は宿代を払わないといけなくなってしまった。

 僕が次に取った行動はその宿で手伝いをする代わりにただで泊めてもらうという作戦だった。そのオーナーとはもうその頃には顔見知りになっていたし、話はすぐにまとまった。僕に課せられた仕事は宿の裏の崖のごみ掃除だった。崖はゴミ捨て場のようになっていて、空き缶から粗大ごみのようなものまで捨ててあった。しかも何年も放置されたような物ばっかりで、泥まみれになりながらゴミを拾っていくはめになった。結局その宿にいたのは1週間ほどだった。リンコンの波はハワイに比べるとサイズがないものの、質はよかったし水は暖かった。宿で我慢して手伝いをしていればもうしばらくはそこにいれたはずだ。そして、その間に何かもう少しちゃんとした仕事を見つけられたかもしれない。しかし、何かが僕を満足させなかった。もっと、冒険したい。その気持ちが僕を又さらに不安定な生活へと導いた。

 ウィルダネスという場所でサーフィンの大会があるというのを聞いて、大会の日の朝、宿のお客さんに乗せてもらって途中まで来たが、降ろしてもらった場所が街のなかで、正気になるとそこからウィルダネスというサーフスポットまでヒッチハイクしていくというのは、どう考えても不可能だということに気付いた。なにせ地図も持っていなかったし、サーフスポットの名前なんか言ってもサーファーでないとわかるはずがないのだから。ウィルダネスもサーフィンの大会もあきらめて、今度はクレブラというプエルトリコの離島を目指した。そこにいい波があるのかどうかはわからない。しかし、位置的に波はあるはずだ。波があればいい波がある可能性はある。なんでもいいから自分自身で何かを見つけたかったんだと思う。そこにいい波があるという情報があって、そこに行くっていうのは確かにおもしろい。だけど、そこにいい波があるかどうかわからないけど行くってのはもっとおもしろいもんだ。

 パブリコスのバス停までヒッチハイクで行き、サンホセまでは運賃を払ってパブリコスに乗った。サンホセのパブリコスのバスターミナルでは強烈な値段交渉の末、折り合わず次の日に持ち越すことにした。公園で野宿をしたが、寝る前にバーのようなところを散策した。飲み屋でみるプエルトリコ人はアメリカ人と違ってきちっとした服装をしていた。きれいなシャツに革靴なんかを身に付け、女の人はドレスのようなスカートを履いていた。そして音楽がかかると男女ペアになってタンゴのような社交ダンスを踊りだしていた。しかもかなり本格的にだ。

 次の日、前の日交渉した値段よりも5ドル安いバスを見つけたので、クレブラ島行きの船が出る港町ファハルドに向かった。バス停から港までは、カウアイ島のジェシーに似た奴に拾ってもらった。なんだか自分勝手な考えだが、こんな時僕はこういう風に考える。このプエルトリコ人が僕を拾ってくれたというよりも、ジェシーが俺のことを拾ってくれた、もしくはジェシーの好意がこのプエルトリコ人を伝わっておれを助けてくれた、というように。ジェシーはカウアイ島のサーファーで、彼を通してカウアイの多くのサーファー達と知り合うことができた。サーフィンはカリフォルニアで覚えたが、5年ほどカリフォルニアでサーフィンした後ハワイに移った時、カルチャーショックを受けた。サーフィンって本当に楽しいものだったんだ、と気付いた。暖かい水のなかではみんなのんびりしていた。カリフォルニアのような戦いのようなサーフィンはそこにはなかった。僕の事を見て、知らない奴だと思ったら話しかけてきて歓迎してくれた。ジェシーもそんな奴の一人だった。

  ファハルドの港から2時間くらい船に揺られるとクレブラ島に着いた。そこは南の島のフローラに出てくるような、水の透明な小さくて人のあまり住んでいない島だった。いかにもお金の臭いがしない僕の想像していた以上にきらきらした島だった。そこに波があるのかどうかはわからないが、こんな素敵な島に来ただけで幸せだ。

 最初プエルトリコに行くと決めた時、どれくらいそこに滞在するか、というような予定は立てていなくて、どちらかというとプエルトリコにしばらく住んでみようかなと思っていた。スペイン語を覚えることもできるし、知らない町で生活するというのは僕にとっては楽しいことだったので。しかし、言葉が通じないことがあまりにも不便で、そこで生活しようという気持ちはプエルトリコに着いてわりとすぐに消えていた。波があまりなかったこともひとつの原因だ。冬のハワイから来たばかりだったので、膝くらいの波に群がるサーファーを見て幻滅してしまった。仕事についてもサンディージョーとかに聞いてみたがアメリカのような豊かな国ではないので反応はもうひとつだった。     

 そのころの僕は27歳で自分の将来について漠然と不安を抱き始めていた。それまでは好きなところに行ってサーフィンをして、適当に日銭を稼いで生活しているだけで幸せだったのだが、だんだんそういう生活に疲れが出てきていた。自分を精神的に支えていたのはサーフィンだけだったが、やりがいのない仕事をしているときはサーフィンにも自分の人生にも自信が持てないでいた。それまでにやった仕事を上げるとかなり長いリストになる。しかも変わった仕事が多い。

 なんと最初の仕事がサンディエゴの催眠術師の手伝い。彼女はラスベガス進出をもくろんでいたので、彼女の催眠術ショーをビデオで撮るというのが僕の仕事だった。この仕事はかなりおもしろくてRVという住居一体型の車に乗ってサンディエゴを出発し、ロス周辺の高校の卒業式パーティーを13校も回って催眠術ショーの出し物をした。この時初めて催眠術というのを見たが、催眠術の威力は強烈だった。彼女が言えば催眠術にかかった人は、動物にも宇宙人にもなった。

 それからは旅行会社、すし屋、タクシーの運転手、車屋、スキー場のバイト、バスの運転手、ホテル、映画のエキストラ。又日本に戻ったときには力仕事、露天商。この露天商はかなり儲かったので、それから2年半ほどはまともに働かなかった。そのまともに働いていない時期はサーフィンをしていたのだが、プエルトリコに居たのはまさに露天で稼いだ金が尽きようとしていた時だった。そしてクレブラ島に着いた時にはプエルトリコに来る前に貯めた少しのお金も尽きようとしていた。クレブラ島では10日ほど野宿をした。何もなくて、誰もいないビーチで。

 島に着いてまず最初にしたことは地図を探すことだった。地図を見るとこの島には本当に何もないことがわかった。船着き場がその島の中心街ということなのだが、見たところ一軒のダイビングショップ以外になにも店がない。海の水は透き通っていて水の中では大きなトランペットフィッシュがゆったりと泳いでいる。

 そこから波のありそうな北に面したビーチまでは歩いていくのだが、結構な距離だ。途中でパンと野菜を買うが、スーパーではなく、小さくて薄暗い家のなかに無造作に野菜や缶詰がおいてあるようなところ。結局ビーチまでは途中小さい山を越えて3時間くらいかかった。

 そのビーチは長さ1キロくらいで両端は岩場になっていて完全に隔離されていた。後日探索に行った時も結局その岩場は越えられなかった。山からは一本道がビーチまでおりてきているが、道は狭くビーチに来るには歩きよりほかに手段はない。島を歩いている時もほとんど人に会わなかったくらいなので、そのビーチには当然誰もいなかった。両脇が木で覆われた一本道を抜けると誰もいないビーチがある。そしてそこにはパーフェクトな波が静かに割れていた、という結末なら興奮のあまり僕の血は沸騰していただろうが、目の前の海は完全にジャンクなビーチブレイクだった。

 そのビーチには木とやしの葉で作られた掘っ立て小屋があり、僕はそこで寝ようとしたが、そこは虫があまりにも多く、焚き火をして虫をおっぱらわないと一睡もできないような状態だったので結局はビーチの真ん中で野宿をすることになった。それでも虫が多かった。10日くらいそこに滞在してたが、あまりサーフィンがしたいと思うような波ではなく、義務的に毎日はサーフィンしたがあまり思い出に残るようなサーフィンではなかった。それよりもその場所を思い出す時に思い出すのは、頭を痛くした自分の姿だった。これからの自分のことを一人でずっと考えていたので頭がパンクしかけていた。これからどうすればいいのか。どんな仕事をしたいのか。どこに住めばいいのか。それを決めようとしていた。そんなことはそれまでにも嫌になるほど考えていたのだが、普段の生活の忙しさでなんとか自分を紛らわしてきた。しかし、もうその時には金も尽きかけていたし、周りには何もないしできることといったら自分のことを考えるくらいのことだった。結局そのときに出た結論が鍼灸師になるということだった。僕はやっと答えが見つかり、鍼灸師になることを固く決意したが、結局その夢は後日インターネットで鍼灸師の学校を検索したところまでしか進んでいない。

 クレブラでは何人かのローカルサーファーに会い、暇な島なので食事に誘ってくれたり家まで遊びにいったりしてよくしてくれたがそれ以上そこに長居する理由はなかった。又プエルトリコという国もしかりだ。そこに長く住みたいと思うような場所ではなかった。少なくともその時の自分にとっては。僕はフロリダに帰る飛行機が出る日の朝クレブラを出た。

 持ってきた2本のサーフボードはクレブラのサーファーに売り、身軽になった僕は鍼灸師になるという新しい目標を胸にプエルトリコに向かう船に乗った。フロリダに着いたのはその日の夜で、プエルトリコに出発する前に泊まっていたホステル、フロイズに戻った。結局プエルトリコに居たのは3週間。最初にチケットを買ったときのままの予定で帰ってきた。フロリダにはプエルトリコに行く前に

数週間滞在しただけだったが、プエルトリコという言葉も通じない慣れない国から比べると我が家に戻ってきたように安心した。

 フロイズはホステルなので当然人の移り変わりは激しい。プエルトリコに行く前に知っていた顔もいくらかは残っていたが、新しい出会いが待っていた。この時に出会ったピカソというイギリス人だけはいままでに見てきた膨大な数の人間のなかでも、特別にスペシャルで特異な人間だ。ピカソは変人だった。ピカソは完全に世の中の人間と隔離されていた。時間に対する観念も、人間関係も、生きる事に関する大体の感覚が他の人間とずれていた。最初は同性愛者かとも思ったがそうではなかった。

 彼は20歳くらいの若者で見た目はほぼ普通なので、僕も他のドームメイトも彼と関わることができたが、40歳の男が道端で同じような行動をとっているのを見たらただの狂人だと思うだけだろう。ピカソという名前は彼の本名ではなかった。彼がピカソと呼ばれていたのは彼が桁はずれな絵の才能の持ち主だったからだ。彼はクレパスのようなもので時々絵を描いていた。その絵は例えばただの屋根の絵だったりするわけだが、彼がそれを描くとその絵はカラフルでしかも質感のある油絵のような絵になっていた。そして見当もつかないような色を使っているのにバランスのとれた高級な絵に仕上がるのだ。素人がピカソやモネを真似したような子供だましのような絵ではなく、さっさと描いているのにだれでも「すごい」と唸ってしまうような絵だ。アイデアだけがすごくて真似できるような絵でもなく、真似のできないくらいうまい。彼の絵の常識を逸脱した様子は、まさに彼の性格そのものだった。

 彼の絵の才能はもともと持っていたものだろう。彼自身は自分の絵にそれほどこだわりを持っていなかった。それよりも彼がその時夢中になっていたのはカルロス・カスタネダという人の書いた呪術師の本だった。カルロス・カスタネダの名前は聞いたことがあった。本屋ではニューエイジの部類の棚にあるような精神世界の本で、サーファーに囲まれて生きてきた僕の周りではそういった本を読む人が多かった。

 僕もダン・ミルマンという人が書いたピースフルウォリアーという精神世界のことについての本を読んだことがあって、そのときはしばらくその本に夢中になっていた。そういう本は読んだことがある人なら分かると思うが、読む人の性格や年齢によってはこんな世界があったのか、と必要以上に傾倒してしまうことになる。ダン・ミルマンの本には幸せになるということは金や名誉などの欲を満たすことではなく、逆にそれをなくしてしまうことだ、という「足るを知る」の理論が長々といろいろな話をひっつけて書かれている。まあ、それだけならああおもしろかったで済むのだが、この本では幸せになるための方法が具体的に示されていて、それによってもたされる結果も極端なのでみんなはまってしまうわけだ。実際この本はかなり売れた。具体的な方法の例としては肉、コーヒー、たばこ、酒、砂糖等を一切口にしない。究極の小食主義。考えすぎないで感覚を研ぎ澄ませて感る、等など。極端な結果の例としては、健康で長寿でゆるぎない幸せなど。そして若かった僕はそれを100パーセント信じて努力したこともあった。何度も読み返したので15年以上たった今でもその時の本の内容は心に残っている。

 ピカソが好きだったカスタネダの本も、内容は概要くらいしか知らないがけっこう浮世ばなれしている。カスタネダの方はメキシコのインディアンが師匠で、アメリカの大学生が師匠のもとで修行するという設定の本だ。インディアンは昔から伝わる幻覚性の薬草でそのアメリカ人の精神を開かせ知恵を与えるという話なのだが、アメリカ人はその薬草の効果で犬と話したり、カラスになったりするという類の話のようだ。

 その時のピカソはまさに昔の自分のようだった。悟りを開くために我を忘れていた。カスタネダ体操のようなものもしていた。ピカソによればそれは意識を研ぎ澄ませる効果があるらしかった。ピカソはみんなで何かしようという時にも協調性のかけらもなかった。その時の彼にとってはお金や社会的なしがらみよりもカスタネダの教えを実践することが最優先事項だった。当然僕は彼に興味を持った。僕は彼の絵にも最高にあこがれたし、彼のカスタネダにそこまでぞっこんになる精神もすごいと思った。彼は社会のルールからは完全に自由であった。カスタネダの本に出てくる呪術師も、ミルマンの本に出てくる不思議なパワーを持つ老人の先生も本の中では完全に自由で完全に幸せな人間として書かれている。

 というわけで僕は彼とけっこうな時間を過ごした。彼はいつも真剣でいつも突拍子がなくいつも日常からかけ離れていた。夜中に散歩するだけでも、ピカソと一緒に行くとおもしろかった。真っ暗な道路の真ん中でカスタネダ体操をしたり、インテントと叫んだりした。インテントというのは意識を集中させること。ピカソの本ではこの言葉がキーワードらしい。最初はおもしろがっていた僕も、ピカソと一緒にカスタネダ体操などをやっているうちに日常的な世界から脱けだし、かなりエキセントリックな精神状態になっていた。

 プエルトリコから帰ってからのフロリダではエバーグレーズ国立公園というアリゲーターがいる湿地帯に行ったり観光もしてみたが、行ったという記憶が残るだけでさして特別な思い出はできなかった。僕はフロイズにしばらく滞在しながら皿洗いのバイトや庭掃除などの手伝いをしていたが、ある時フォーブスという雑誌を手に取る機会があった。フォーブスはお金持ちが読む雑誌で日本だったら日経プレジデントにあたるのかもしれない。その中には1日で数億円稼ぐというウォール街のビジネスマンだか株トレーダーだかの写真が載っていた。しかも何人も。僕はこの時こう思った。

「ウォール街に行ってストリートミュージシャンになろう。そしたら変な日本人がいるということで有名になって金持ちになれる。」

これはうまくいくに違いない。僕は確信した。

 ニューヨークに向けて旅立った時の全財産は200ドルくらいだった。それプラス、ピカソがホステル代を払っていなかったので彼に100ドル貸していた。ニューヨークにはフロイズに泊まっていたアメリカ人の車で、ピカソと僕の3人で向かった。車はぼろぼろのワーゲン(ビートルではない)でアメリカ人の彼は元軍人で年は30歳くらいの割とふつうの奴だった。おもしろい奴ってのはどういう奴のことを言うんだろう。しゃべりがおもしろい奴は確実におもしろいが、ピカソのような自分勝手に好きなことをやっているのに人を引き付けてしまうという奴は本当におもしろい。

 僕らを乗せたワーゲンはフロリダのフリーウェイを北上した。途中デイトナというレースの盛んな町に寄ったのは、数日まえに有名で伝説的なレーサーがレース中の事故で死んだからだった。オールドスクールな一匹狼レーサー。デール・アーンハード。

 その日の夜着いた街はジョージア州のサバンナという街だった。ダウンタウンのメインストリートでは聖パトリックデイの祭りの準備でにぎやかな雰囲気をかもしだしている。僕らの連れのアメリカ人がバーで仕事を軽く探すと、皿洗いの仕事なら明日からでもあるということだった。夜は車で林の中に入り僕らは林の中の少し開けた場所で地べたに寝た。

 朝、目を覚ますとそこは白樺のようなキレイな木に囲まれた場所だった。地面には柔らかい乾いた木の皮がびっしり敷き詰められていて、スタンドバイミーの映画に出てきそうなアメリカっぽい理想的なキャンプ地だった。僕らのその日のミッションは仕事を探すことだった。僕らは3人とも超キンケツ状態だった。

 明るい日差しの下で見るサバンナという街は見たことのないタイプの街だった。建物は茶色いレンガでできていて、古くて威厳があった。アメリカは東海岸から出来あがっていったので東海岸の街は歴史があるのだ。今、インターネットで調べてみると、サバンナは奴隷の貿易が盛んだった街で、聖パトリックデイのパレードはニューヨークに次いで2番目の規模だとある。どうりで祭りの準備が大げさだったわけだ。聖パトリックデイは3月17日で、その日は聖パトリックデイの2日前だった。ハワイを出てから丁度2ヶ月が経っていた。

 最初は仕事を探すのに一生懸命だった僕らも、街のお祭りムードに当てられ出店で賑わう川沿いの広場で一日をゆっくり過ごした。占い師がいたので、僕は10ドルばかり払って占ってもらった。何か自分の人生の手がかりになるかもしれない、と思って。

「あなたのお母さんはとてもいい人ですね。」

これは当たっている。僕の母は公平に見て平均よりかなりいい人だ。この人はなんだか本物の占い師だ。僕の直感はそう感じていた。

「あなたの友達はあなたが女性を好きじゃないと思ってますよ。」

多分これも当たっている。でもどういう意味だよ。それって。僕は少し動揺したが、彼女の「このろうそくを買えばあなたを女性から見て魅力的な男性にしてあげられますよ。」という言葉には乗らなかった。あまり役に立たない占いだったが僕は占いが結構好きなので別に後悔はしなかった。ピカソは僕に占いなんかしてバカだと言っていたが、100ドル貸してる奴にそんなことを言われたくなかった。その日の夜、僕はピカソと喧嘩してそのままニューヨーク行きのグレイハウンドに一人乗った。バス代を買った後の全財産はほぼ100ドル。結局ピカソに貸した100ドルは返ってこなかった。

 バスは夜じゅうアメリカ東海岸を北上し、次の日の昼にニューヨークに着いた。聖パトリックデイの前日、3月16日だ。映画では100ドル片手に夢の街ニューヨークに着いた主人公はほぼ間違いなく成功する。しかし、僕のニューヨークは映画どおりには行かなかった。

 ニューヨークのバスターミナルを出ると、ものすごい数の人間がかなりのハイペースで歩いている。東京とほぼ同じ感覚だ。とりあえずアメリカでこんなに日本ぽいところはいままで見たことがない。まず最初にしたことは、自由の女神を見に行くことだった。

「自由の女神を見て自由になるんだ。」

僕は冗談でなくこう思いながら、2,3時間かけて歩いて自由の女神が見える海辺まで行った。なにせ僕はミュージシャンを目指してニューヨークに来たのだから。初めて自由の女神を見た時、遠くて小さくしか見えなかったが、ニューヨークに来たという実感を感じようとした。そしてビッグになることを誓ったんだと思う。

 その日はセントラルパークの横にあるホステルに泊まった。1泊25ドルプラス鍵代が5ドルで全財産は70ドルになった。朝になり、仕事を探しに行かなくては行けなかったが、大きな荷物を持って探すのは効率が悪い。僕はその夜の分もお金を払い、荷物を部屋に置いたまま仕事を探しに街に出た。これで全財産は45ドル。僕はそれでも楽観的だった。ニューヨークには何千という店があるわけだし、そこで皿洗いでもなんでもするつもりなら仕事なんてものはどこかで見つかる。僕は片っ端から店で仕事を探した。じきに街が目覚め始めると、なにやら聖パトリックデイのパレードで街が騒がしくなってきた。なんだか朝から人が沢山いる。と、街角に帽子を売っている黒人の売り子がいた。その帽子はアイルランドの象徴である緑色のハットであった。僕はピンときて、その黒人に聞いた。

「それどこで買ったの。」

「ただじゃ教えらんねえよ。」

僕は2ドルばかり差し出した。

「このストリートをまっすぐいって6番目の角にある帽子屋にあるよ。」

 言われたとおり行くと店先に沢山のワッペンが飾られている店があった。どうやらここのようだ。中に入って見渡したがさっき黒人が売っていた帽子はなかった。そのかわりブランクの野球帽とアイルランドのワッペンがあったので、ワッペンを帽子に貼り付けてもらいそれを10個買った。一つ4ドルだから全部で40ドル。すっかり文無しになってしまった。ニューヨークの街角で文無し。持っているのは新品のアイルランドのワッペンのついた帽子10個。これを1個15ドルで売れば150ドルになるという計画だ。

 もうパレードは始まっていた。正確にはパレードが始まっていたかどうかは知らないが、とにかくもうそのころには街はお祭りムードで人が溢れていた。

「帽子いかがですか。アイルランドの帽子だよ。15ドル。安いよ。」

僕は行く人、行く人に声をかけた。みんなお祭りムードで客とのやりとりも適当。高いと言われてまけたり、帽子を取替えっこしたり、日本人なのにおかしいじゃないかと言われたり、まあそんな感じで結局の手元に残ったのは60ドル。150ドルには程遠いがまあ20ドルは儲かったわけだ。

 次にしたことは、レストランで仕事を探すこと。マンハッタンには日本料理屋が沢山ある。まあ、僕は傲慢というかバカ正直なので、大体こんな感じだった。

「すいません。仕事探してるんですけど。働けるビザはあります。」

「おっ。いいねえ。どれくらい働けるの。」

「今お金ないんでとりあえずって感じで。」

「じゃあ。無理。」

 それでもその日の午後には仕事は見つかった。中国人がやっているすし屋「アイアン寿司」。そこでの主な仕事は寿司の出前。自転車に乗ってマンハッタン中を出前するわけ。まあマンハッタンっていうところはアパートとマンションだけで、一戸建てなんてものは多分存在しないからいろんなアパートに行ったね。大体がビルに入るのにベルを押して玄関を開けてもらうパターン。それで部屋まで届けてチップを貰うわけ。お客さんの印象としてはずいぶんと穏やかでやさしい人が多いなって感じ。カリフォルニアだとちょっとはじけた人が多いからそう感じたんだと思う。特に変わったことはなかったと思う。けっこうチップも貰えていい仕事だった。それでもそこの仕事はすぐに解雇。人が余ってたんで。

 新しい住みかはアイアン寿司で働いた初日にそこの中国人のオーナーに連れていって貰ったチャイナタウンでみつけたナイスな物件。一泊12ドルでしかも個室。個室っていっても2畳くらいの部屋で,ネットカフェみたいに天井が抜けてるんだけどね。まあそこで1ヶ月半程のニューヨーク滞在を過ごしたわけ。そこは宿っていうかみんな住み着いている感じなんだけどね。

 まー、そういうところだからおもしろいことがあったよ。しかも、しょっぱなから。その宿に行った初日、チェックインしてたら黒人の男、30歳くらい、が俺のこと見てちんぽこ出して一生懸命いじってるんだよ。宿の人もわかってるらしくて、怒るんだけどそいつはなかなかやめないの。しまいには俺の部屋までついて来るし。俺としてはやべー部屋がばれた、まーいいかって思ってたんだよ。そしたらそいつドアをノックしやがんの。俺も怒るんだけど、そいつも懲りずに何度もするわけ。しょうがないから俺も根負けして相手してやったんだよ。って、そんなわけないでしょ。まあ、そんな感じですわ。

 その黒人には続きがあって、後日会った時にあやまってきたりして話をするようになったんだ。なんだかキューバかそこら辺出身の人で、コカインが好きでああいうことになったらしかった。それからはへんな事はなかったよ。まあ、時々出会うくらいでわざわざ会いに行くってわけじゃなかったけどね。それでも俺がニューヨークを出るってときには、じゃあメシでも食いに行こうってことになって、ワールドトレードセンターの屋上に連れて行ってもらったり、中華をご馳走してもらった。まあそのビルはそれから5ヶ月後に崩れ落ちるわけなんだけど、つくづくその日じゃなくて良かったって思うよ。

 仕事の方はアイアン寿司を解雇されてからは窓拭きやら中華の皿洗いとか。窓拭きってのは、車屋に行ってバケツとワイパーを買って、マンハッタンの店を一軒一軒聞いて回るわけ。

「窓洗いますよ。10ドルですよ。」

ってな具合。これは窓を洗ってる人を見て、これなら俺でもできるって思ってやってみたわけ。あんまり儲かんなかったけどね。まあしばらくそれをやってたね。そんなことをしているうちに中華料理屋と知り合いになるわけ。それで皿洗い。ケチな親父だったけど、俺もカシューナッツ食いまくって、うまかったからまあいいですわ。

 もう一つこれは仕事じゃないかもしれないけど、おもしろい仕事。中華屋の帰り、板が捨ててあったわけ。これを見て俺はピンときた。次の日その板の真ん中に穴を開けて、テニスボールを買って、マジックで板にこう書いた。「ここにいれれば10ドル。」それを持って通りに言ってこう叫ぶわけ

「さあさあ。いってらっしゃい、見てらっしゃい。ここに入れたら10ドルあげるよ。そんかし一球1ドルね。」

 どう。おもしろそうでしょ。これはちょっとした自慢だね。みんな、おいおいって顔して見てたし。何事だ、って感じ。写真も撮られたし。まあ、でもあんまり挑戦者は現れなくて、俺だけが目立ってたってだけで終わっちゃったんだけどね。まあ、予定通りにはいかないもんさ。

 ニューヨークの思い出はこれくらいだね。すげえおもしろかったよ。サーフィンとはまったく関係のない世界だけど、そこにいるだけでエネルギーを感じるっていうか、お金がなかったからニューヨークに行くなら行かなきゃもったいない、博物館やミュージカルなんてものは行かなかったんだけど、そこら辺にいる人間がすごく野望に満ちてる感じがしたよ。やっぱりアメリカで一番の街だね。

 いやなこともあったよ。白人の女の警官に座ってるだけで注意されたこととか。人種差別なのかどうかははっきりしないけど、個人的にはそう感じたね。そんなことってほぼ初めてだよ。15年住んで。出前の時にビルの中に入ろうとしたら偉い勢いで怒られたりしたこともあった。タクシーの運転手にただで乗っけてってやると言われたり、ケーキ屋の主人にえらく気に入られたのは笑い話だね。

 ニューヨークって街はアメリカンドリーム求めて集まる人が多いからかどうかは知らないけれど、占い屋が多いんだよ。で、よく店先に5ドルとか10ドルとかって看板がでてるわけ。俺なんか金はないけど、ケチケチするほど金持ちでもないし、心は不安でいっぱいだし、占いは結構好きだしってわけでニューヨークにいる間3回程見てもらったんだよ。そのうちの一つでインチキ商法にまんまとひっかかっちゃったわけ。その占いの女の子が結構かわいくてそれで騙されたのかもしれない。なんせその人が俺に問題があるって言うわけ。真剣な顔で。俺も自分に問題があるのはわかってるんから信じるじゃない。それで彼女がその問題が何か調べるためにこのクリスタルを買えっていうんだよ。そのクリスタルを寝る前に塩につけて、すっぱだかになって眉間と胸の上に乗っけて、今度持ってきたらその問題がわかるっていうわけ。知りたくなるじゃない。やっぱ。で、40ドルくらいのクリスタルを買って言われたとおりに塩つけてやって、次の日に持ってったんだよ。そのクリスタルを。そしたらなんて言ったと思う。このクリスタルじゃ小さすぎてわからない。あなたの問題がわかるためにはこの80ドルのクリスタルが必要ね。だってさ。それでやっと気付いたんだよ。騙されたって。チャンチャン。

 結局ニューヨークに着いたのが3月17日で出たのが5月1日。出発した時はぎりぎりバス代を貯めて出たからあんまり持ち合わせてなかったと思う。でも、その時アニキがシカゴに出張で来ててそこを訪ねて行ったわけ。お兄ちゃんはちゃんと働いてる人だからお金を貸してもらおうと思ってたわけ。そういえばニューヨークに来たときの夢、ストリートミュージシャンになるってのはマラカスを買ってノートに歌詞を書いたとこまでで終わったね。まあ、そんなもんでしょ。

 ハワイを出たのが1月15日くらいだからまだ3ヵ月半しか経ってないね。ハワイからフロリダ、プエルトリコときて、ニューヨーク。この時はまだ、これからどうなるかなんてぜんぜんわかってなかったよ。アラスカにサーモン漁に行くことになるなんて夢にも思ってなかった。とりあえずサンフランシスコまで行って、そこからハワイに戻ろうと思ってたんだ。バスのチケットはシカゴ経由でサンフランシスコ行き。途中ナイアガラの滝を見に行ったのは、貧乏旅行にしては贅沢なチョイスだった。行ってよかったと思う。

 ナイアガラの滝のそばのバスターミナルから滝までは徒歩15分くらい。荷物が重いしでかいから面倒だった。滝のすごさは到底言葉じゃ言い表せられないね。でかい。うるさい。圧倒される。そういうことですね。グランドキャニオン程じゃないけどまあまあすごいよ。なんせ一人旅だから、そういう場所に行っても、行ったってだけでたいしておもしろいことはないの。まあちょっとした達成感を感じるくらいかな。

 そこからはシカゴ。アニキというかお兄ちゃんが出張で来てたのはラッキー。会えるのもラッキーだし金を貸してもらえるのもラッキー。なんせニューヨークの街を脱出するのが精一杯の金しか貰ってなかったから。あの中華料理屋の親父、給料ごまかそうとするし。

 シカゴのターミナルから、アニキが滞在してたホテルまでは市バスで行った。これが結構な距離で何回も乗り継ぐんだけど、途中変なおじさんに家に誘われたのが唯一の思い出。で、おもしろいのが帰りにバスに乗った時もそのおじさんがいたこと。

 久しぶりに会うアニキはもうすっかりサラリーマンですっかり大人だった。財布の中身も大人で、レストランでどしどし注文してた時にはすげえって思ったよ。ファミレスだけど。まあ、シカゴではゆっくりさせてもらった。寝るところもただだし。話相手もいるし、アニキとは仲いいしね。

 バスの有効期限もあるし、シカゴは5日程で去りました。シスコに向けて出発です。まあ、アメリカの真ん中ってところは本当になんもないの。農耕地帯って奴。ひたすら何もない。人口密度が低い場所をしばらく走った。途中の街でうろうろしても、さほどおもしろい物は見つからなかった。で、ワイオミングのシャイアンって街があるんだけど、あっシャイアンってインディアンの言葉。かっこいいでしょ。シャイアンインディアンってのがいたんだって。ともかく、僕はシャイアンのバスターミナルの横の芝生で寝てました。正確には寝転がって、ゆっくりしてたんだ。そしたら男が近づいてきたんだよ。用がありげに。悪い気はしなかったよ。俺の予感は当たってたよ。仕事しないかだってさ。なんだかおもしろそうな感じがしたから、車に乗って現場まで行ったよ。車の中にはポップコーンの道具とか露天っぽい道具があったから、ハハーンって思ったけど、クールに何も聞かなかったんだ。で、着いたところがサーカスのテント。そう、サーカスの仕事ってわけ。

 その日の夕方にはもう仕事をしてたね。その夜にショウがあったから。ショウの間はロープを引っ張ってサーカス団員を空中に引っ張りあげたり。動物のうんこをシャベルですくったり。ということは俺もスポットライトを浴びたことになるな。たぶん。で、無事に公演が終わるとテントの後片付け。そのテントが馬鹿でかいんだよ。ポールが2つあるテント。普通一つでしょ。まあでかいでかい。結構な労働でさ。ちょっと危ない感じ、ちょっと怪我しそうな仕事だしあんまり楽しくなかったね。まあいいさ。肉体労働は慣れてるし。で、当然寝床はサーカスのトレーラーの中。そのサーカスはアメリカ中を回ってるサーカスだったんだ。すごいでしょ。で、俺もそのサーカスについてアメリカ中をまわりました。っていう結末にはなりませんでした。だってさ、給料が一ヶ月で20ドルだぜ。同じトレーラーに寝泊りしてた奴から聞いたんだけどその瞬間もう無理って思ったね。そいつは神を信じるかって、俺に聞いてきたけど確かに信じてないとやってられないだろうよ。というわけで次の日の朝、コロラド州の町でサーカスを退団してシャイアンに戻ったよ。ヒッチハイクして。そのままサーカスについていけばよかったのに、って言われたことあるけど、確かにおもしろいだろうよ。ある意味ね。でも俺はそこまでおもしろい奴にはなりたくないよ。

 シャイアンからはネバダ州のリノを通って、サンフランシスコ。リノはカジノが有名だけどビールを飲んだだけでちゃんと素通りしました。何も悪いことはしていません。

 サンフランシスコには友達がいた。インドネシアで会ったアメリカ人デイブって奴。まだ1年くらい前に会ったばっかなんだけど、同じ家に泊まったり、一緒に誰も知らない波を探したりしたけっこう気の会う奴。いい奴なんですわ。で、彼を訪ねて一泊だけさせてもらったんだよ。それで話をしてて、アラスカのサーモン漁がもうすぐ始まるってのを教えてくれたんだ。アラスカのサーモン漁のことは前から聞いたことがあって興味があったんだよ。儲かるってことでね。それでハワイ行きはひとまずおいといてシアトルに行くことにしたんだ。何故ならサーモンの仕事はシアトルで探すってのを知ってたからね。

 サンフランシスコからシアトルまでまたグレイハウンド。距離は近いんだけど結構値段したね。まあ、しょうがないよ。歩いてはいけないしね。シアトルに着いてからのことはホームページの「アラスカのサーモン漁」を読んで。もう書くのめんどくさいし。

 で、タイムワープして9月に入りました。シアトルに着いたのが5月15日くらいだからシアトルとアラスカには3ヶ月半居たことになるね。ハワイから数えて7ヵ月半ですね。この頃何を考えていたかというと、やっぱりサーフィン。サーモン船の船長に聞いたベンチュラのいわし漁で儲けてヨット買って南の島にサーフィン行こうって考えてたんだ。この夢は25歳くらいの時からずっと今でも持ってる夢だから10年は暖めてるね。アラスカの時は28くらいだからまだまだだね。まだ夢は実現してないけど、ヨットは手に入れたよ。去年。後は行くだけ。

 そうそう、ベンチュラね。この時はもう貧乏人じゃなくて、ちょっとした金持ちだった。なんせアラスカでサーモン獲ったんだから。自信みたいなのもすごくあったよ。俺はすげえって思ってた。この旅は人生の転換期だったって、最初に書いたけど漁をしたことがそれに当たると思ってる。まあ、これから先のことはわからないけどそれから8年、今までずっと漁師をしてきてるからね。途中怪我をしてできない時期もあったけど、とりあえずは自分は漁師が好きだというのがわかったし、向いてるんじゃないかと思ってる。それってそれまでの自分からしたらすごいことなんだ。なんせ仕事なんてしょっちゅう変わってたし、それはいまでも一緒だけど職種もいろいろだったしね。

 ベンチュラってところにはやっぱりバスで行った。でも、仕事は見つからなかったんだ。なんだかストをやっててさ。それで俺も困ってたんだけど、ある時それどころじゃないことが起きたんだよ。

 ある日ビーチで目を覚ました僕はいつものようにパン屋で朝飯とコーヒーを買って、店のテレビを見てました。あっ、俺ケチだから金はあっても一泊60ドルとか払ってモーテルとか泊まるの無理なんだよ。体質的に。で、ビーチ寝。で、そのテレビにはビルの火災が映ってました。俺もよくわかんないけど、ビルが燃えてるなくらいにしか思ってなかったんだ。で、ぶらぶらしてまたテレビの前に戻ってくるとテレビでアメリカが攻撃されたって出てるわけ。何が起こったか把握したのはワールドトレードセンターが崩れてしばらく経ってからだよね。とにかくアメリカ中の誰もが何が何だかしばらく分からなかったと思うよ。

 まあ、その時の報告をすると国の反対側の西海岸の町ベンチュラでもみんな凍ってたね。石になってたよ。街に行っても車の通りが少ないし。アメリカの国旗をかかげてナショナリズムを呼びかけようとしている奴もいた。俺も怖かったよ。ロスからベンチュラなんてすぐだし、もしロスに核爆弾が落ちたら死ぬなって真剣に考えた。

 まあ世界はそういうわけでしばらく混乱してたんだけど、俺の方はなかなかいわしのストが終わんないわで困ってたわけ。まあ金はあんだけどね。ビーチで寝て、荷物をブッシュのなかに隠しておくのも面倒になってきて車を買ったんだよ。スバルの乗用車。900ドルくらいだったかな。まあ、それでひとまずは落ち着いたんだけど、今度はアラスカで貰ったチェックを換金しようとしたら、シアトルにある銀行に行かないとできないことが判明したの。小さい銀行のチェックだったんだよ。

 というわけでベンチュラからシアトルまでドライブしたのよ。結構あるよ。カリフォルニアを抜けて、オレゴン、ワシントン州までだからね。大阪、東京の4倍くらいはあると思う。苦じゃなかった。だって暇すぎて困ってたくらいだから。それで俺はフリーウェイに乗らないで、海岸線を走るPCHっていう道路を北上してったんだ。パシフィックコーストハイウェイっていうの。かっこいいでしょ。まあ、自分で言うのもなんだけどロマンなんだろうと思うよ。下道で行くってのは。

 うん。おもしろかった。気分も良かったし。なんせ金があるってのは気分がいいもんだよ。特に貧乏したあとだったから。それでピスモビーチやら、有名なサーフスポットを通り過ぎたり、ビッグフットっていう雪男がでるっていうレッドウッド、でかい杉のこと、ばかりのとこを過ぎたりした。サンフランシスコをすぎるくらいから気候が変わるのか緑が多く、濃くなってくるの。きれいだよ。で、カリフォルニアを抜けて、オレゴン州に入ってしばらくしてのこと。ヒッチハイクしてる奴がいたから拾ってやったんだ。で、気分よく走ってたらパトカーに止められた。うわっ、最悪。スピード違反。だけど事態は深刻な方向に向かっていく。

「自動車保険を見せて。」

「あっ、ないです。」

で、なんと車を取り上げられることになったんだよ。やばいでしょ。返してもらうには自動車の保険を買わなくちゃいけないだって。必死にポリスにお願いしたけどだめだった。今でも覚えてるよパンチって名前の警官。血も涙もないってのはあのことだ。レッカー車が呼ばれて俺もレッカーに乗ってガレージまでついてった。だって止められたのは山の中だよ。何にもないんだから。そういえばヒッチで拾った奴は手錠かけられて連れてかれてた。なんだかそういう奴だったみたい。凶悪犯じゃないと思うけど、なんだったんだろ。話してるかぎり悪い奴じゃなさそうだったけど。ということは俺、犯人逮捕に協力したことになるな。で、この仕打ち。

 ガレージのあるところはほんとに小さい町なんだけど、当然そこには保険屋はなくて、となりのちょっとでかい町に行きました。ヒッチで。で、その町に着き、保険屋に行って保険を買おうとしました。ところが車のナンバープレートがカリフォルニアだからオレゴン州じゃ保険は買えないって事が判明。カリフォルニア州に行かないと買えませんって言われたの。ガーンだよ。ガーンの連続。この日は。ゴールドビーチってとこなんだけど、そこは。そこからカリフォルニア州の最北端にある町クレセントシティまでは100キロ近くあるんだ。まあ荷物のないヒッチだから行ける事は行けるだろうけど、車を取り上げられちゃうし保険を買えるのかどうかもわからないしで気分は最悪だったよ。結局その日のうちにはつかないでレストランの影の風の当たらないところで寝た。ボードケースも寝袋もないし、ちょっと北だから寒いし、みじめだったね。あの夜は。

 結局次の日にクレセントシティに着いて、お金の持ち合わせがなかったからシアトルの船長にお金を送って貰って保険を無事買ったってわけ。アメリカってところはウェスタンユニオンっていう便利な会社っていうかシステムがあって、どんなちっちゃい町のスーパーでも取り扱ってるんだけど、お金を送金できるんだよ。お金を受け取る人は免許証を見せてお金を貰うわけ。それまで使ったことがなかったけど便利だね。助かった。これがなかったら俺クレセントシティでまたバイト探して、車ないから野宿して保険買えるだけのお金貯めて、車を取りに行かなくちゃ行けなかったかもしれない。その間ガレージ代は日毎に増えていくし。ぞっとする。

 クレセントシティーから警察のあるゴールドビーチまでは少し苦労したけど無事ヒッチ成功。その日は金曜日で、夕方警察が閉まる直前にぎりぎりセーフで到着。もし間に合わなかったら土曜、日曜ってまた悲惨な目にあってた。運が向いてきた。それから愛車が置いてある小さい町に戻り、ガレージ屋に電話するんだけど夜だからかつながらないの。で、その晩は電話ボックスのなかで寝た。だって寒いんだから。でも次の日の早朝、無事愛車を取り返しました。エンジンがかかって、吠えたね。絶対。最悪の二日間だった。泣きたくなるってのはこのこと。

 それからは怖い物なし。保険もあるし、最悪の事態を過ぎた後だし。オレゴンって所はきれいなとこでね、運転してるだけで気分爽快。自分の人生最高って思ってたんじゃないの。

 シアトルに着いたら、船長に会ってそれからしばらくそこにいた。そこでいわし漁の船が見つかったから。それで船の準備をしたりして漁に行くのを待ってたんだけど、結局その船は行かないことになった。シアトルには2週間くらい居て、船の中で寝れたし周りに若い連中もいたしで結構楽しかった。スケートボードを買ってシアトルのスケートパークに行ったりした。そこでなんとトニーホークとマイク・バレリーがデモに来ていて見に行った。飛びぬけてキチガイですね。スケートボードはいくらやってもただなのが嬉しい。シアトルはスケートとか音楽とかが盛ん。スケートと音楽を結びつけるのはおかしいと思うかも知れないけど、ナバーナとかパールジャムとか、昔だったらヘンドリックスとか若い連中の好きな音楽がここでよく生まれる。きれいな街だし、生活している人も派手じゃないけどきれいな雰囲気をもってるし、自由で文化的な空気が溢れてる。日本で言ったら神戸なのかな。姉妹都市だし。シアトルを出たのが10月10日。ベンチュラのいわし漁のストが終わってることを祈りながら南下した。ハワイを出て10ヶ月。

 シアトルからオレゴンに入り、町の図書館でオレゴンのスケボーパークと温泉を検索した。アメリカの図書館はインターネットが使えるのでよく利用させてもらった。パークと温泉の検索結果をコピーして、オレゴン州の地図にパークのある場所をマークした。オレゴン州はスケボー天国。法律がゆるいのでカリフォルニアより過激な作りのパークになっている。ポートランドの高架下には有名なバーンサイドというパークがある。ここはスケーターが荒地に勝手にコンクリートのパークを作ったのが始まりだが、結局そういった連中がコンクリパーク作りの会社ドリームランドを始めて、ドリームランドがオレゴン州にパークを作りまくっているという状況。当然町が金を出して作るのだから、やはりオレゴンはスケート天国といえる。アメリカというところは広いので、町と町がつながっていない。だからしばらく車で走って町に着くという感じなのだが、その町、町にパークがあって全部は回りきれない程の数だ。

 スケートパークはすべて公共のものなので無料。形もいろいろあるのでものすごくおもしろいし、パークに居る連中はフレンドリーで楽しい。オレゴン州には3週間程滞在。すべて車中泊。足を曲げたまま寝るのと、運転のしすぎで膝がいたくなった。

 温泉もオレゴンには沢山ある。いくつか回ったが、一番のお気に入りはバグビーというポートランドからそんなに遠くないところにある温泉。車を降りて、山に入り30分程歩くと、川の音が聞こえてくる。懐中電灯がないと真っ暗。何も見えない。川のそばに木でできた小屋がありその中には大きな杉の木をくりぬいたフロ桶が3つほどある。温泉の量は豊富で、湧き出た温泉はフロ桶の横の溝を流れている。温泉に入るときにはフロ桶にお湯を入れて、川の水をバケツで汲んできて温度調整をするという仕組み。これがなんともいいんだ。電気も通ってない、木の小屋ででかい杉をくりぬいたフロ桶に入って、温泉を楽しむ。いーですねー。

 ベンチュラに戻ったのが10月30日。しかしまだストは終わっていなかった。で、サンディエゴに南下。ツナ漁の船がサンディエゴにあるらしい。サンディエゴのツナ船での仕事は見つからなかったが、そのかわりカジキ漁の船で仕事を見つける。さっそく出港。

 船はそんなに大きくない。乗組員は船長と僕の二人だけ。漁は夕方から1時間ほどかけて網を流すわけ。4キロくらいある長い網なんだけど、これは刺し網っていって魚が泳いでてその網に突っ込むと絡まって捕まってしまうという漁なんだ。それで朝早くに3時間くらいかけてその網を巻き上げるというわけ。一週間ほど沖に出っ放しなんだけど、朝の仕事が終わると夕方まで何もすることがないのが参ったよ。この時ばかりは一日16時間寝れる体質になりたかったね。

 結局獲れたのはカジキが7匹、サメが5匹、オピっていう赤い魚が一匹だね。サメは売れるのと売れないのがあって売れないのは海に捨てちゃったからもっと獲れたよ。それよりも沢山獲れたのがマンボウ。どうもその時期に産卵期か何かでマンボウが海面近くに上がって来てたらしいんだ。それでマンボウが100匹くらい大量に絡まっててさ、大変だったよ。マンボウは多分早く泳げないからだと思うんだけど、網にかかっても結構元気で死んでないんだよ。全部海に戻すんだけど、馬鹿でかいマンボウなんか船長と二人じゃないと動かないくらい重いんだから。そういうわけでサンディエゴに船が戻ると俺はすぐに船を降りたね。もう無理無理って感じだよ。あの退屈さは。

 ベンチュラに戻るとストはもう終わってて、仕事も見つかった。エンデバーっていう船で、やっとベンチュラで仕事見つかったんだけど、結局イカ漁1回といわし漁2回行っただけですぐにその船を降りちゃうんだよ。確かあんまり漁に出れなかったか何かで、儲かりそうもなかったんだよ。おもしろくなかったんだろうと思うけど、情けないよ。今思うと。

 その頃、アキシゲっていう友達がベンチュラに来てたの。そいつがおかしな奴でさ、彼女と来たんだけどその彼女がイスラエル人でね、日本語ペラペラなんだけど、二人でずっと旅行してるわけ。日本からアジア行った後、南太平洋行って、アメリカ来たらしいんだけどさ。それで東海岸のほうでアイスクリーム屋をやったり、引越し屋かなんかをやってたんだ。それで連絡取り合ってたんだけどベンチュラにイチゴ畑があって、メキシカンが不法に働いてるから仕事あるんじゃないのって言ったら、ぼろぼろのアメ車に乗って来たわけ。結局仕事は見つからないで、二人はいつも喧嘩してたよ。その頃の俺も情緒不安定でさ。ちょっと殺伐とした時期だったね。ちょうどその頃おばあちゃんも亡くなったし。何をしていいのかわからなかった感じだね。

 そんな気分を飛ばそうと思ったのかサーフボード買って、パナマまでサーフィンに行くことにしたんだ。車でメキシコ、グアテマラ、コスタリカを通ってパナマ。おもしろそうでしょ。お金もあったしね。とりあえず南下。メキシコの海は暖かかった。そしてタコスがうまかった。でも波がなかったんだ。小さいのはあるんだけど、行った時期がちょっと遅すぎたみたい。夏のサウススウェルがシーズンらしくてさ、ずいぶん下までいったんだけどね。結局メキシコより南には行かなくて、メキシコシティーのピラミッド見てアメリカに戻っちゃったんだ。どうも、このころはちぐはぐだったよ。何をやっても落ち着かない感じでさ。結局メキシコには2週間だけいた。正直この時にどうすべきだったのかは今でもわからない。確かにあのまま南下してたら思い出はできただろうけど、その時点で気分が乗らなかったんだからその時の自分のした行動を支持するしかないね。

 カリフォルニアに戻ったのが12月20日。もうその頃はぐったりだね。とりあえずそこを離れたくてハワイに行くか、日本か迷ってた。車を売ってとにかくそこを離れたかったんだ。

 ハワイに戻ったのが12月29日。ハワイに来たら元気が出た。やっぱりハワイはいいところなんだよ。時間が止まってるしね。いい状態で。それでいつも仲良くしてるサーフショップでバイト。このサーフショップには今思うとホント良くしてもらってるわ。この時は夜は店の中で泊まらせてくれて。この年の大晦日はハワイの仲間のそばでいい年越しをさせてもらったよ。

 結局2001年は動き回ってた一年だった。年始にハワイから始まって、ロスからフロリダ、プエルトリコ、ニューヨーク、シアトルからアラスカ、ロスからメキシコ、年末に戻ってきたのがハワイ。これまでの生活のなかでも一番激しい年だったよ。でもこの年サーフィンはほとんどしてないんだ。でもサーフィン以外にも楽しいことをみつけた本当に重要な時期だった。

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