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作者別詩別にリンクを設定してあります。
2.劉邦(前256、または前247〜前195)
(1)大風歌
3.杜牧(803〜852)
(1)烏江亭に題す
4.王安石(1021〜1086)
(1)和題烏江亭
5. 陶淵明(365〜427)
(1)飲酒序文抜粋
(2)飲酒の五
(3)帰去来の辞
6.頼山陽(1780〜1833)
(1)癸丑歳偶作
(2)不識庵撃機山図
7.白居易(白楽天772〜846)
(1)長恨歌
8.蔡文姫(三国志の頃 曹操の学問の師 蔡ヨウの娘)
(1)胡笳(あしぶえ)の歌 匈奴に拉致された女性の叫び
9.李白
(1)早発白帝城
(2)山中与幽人対酌
(3)清平調詩その二
(4) 月下独酌
10.杜甫
(1)
.李白(701-762)
プロフィール 物の本の助けを借りて
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天才詩人李白
西欧では、中国の発音と同じく「リーポウ」または
李太白「リータイポウ」で親しまれている
杜甫とならび唐代の大詩人。杜甫の「詩聖」に対して「詩仙」と称せられる。「李絶杜律」といわれるように、杜甫の「律詩」に対して「絶句」が得意だった。
(注)絶句は4句、律詩は倍の8句
その詩風は、風刺性が一般民衆の心をを代弁しているとよくいわれるが、その特徴と魅力は、次のように評されている。
1.感性の鋭さ 独り敬亭山に坐す
2.比喩や表現の巧みさ 白髪三千丈 疑うらくは是地上の霜かと
3.内容の豊富さ、多彩さ、自在さ
4.リズムのよさ、新鮮さ
5.ロマンチックな幻想さ
6.率直な風刺性
7.自由多彩な形式
性格は豪放磊落で、山、月、花の自然、女、酒をこよなく愛した。彼の人生総括する言葉としていわれるのは、
1.南北漫遊 南から北まで好きなように歩き回り
2.求仙訪道 仙人や道士を尋ね
3.登山臨水 山に登り水辺に遊び
4.飲酒賦詩 酒を飲んでは詩を作った
任侠道と交わったこともあるようだ。どちらかというと律儀・真面目な杜甫と気が合い、一緒に旅をしている。
酒については杜甫が、「飲中八仙歌」の中で次の様に評している。
李白は 一斗にして 詩百篇 李白は酒を一斗(約6L)飲めば、たちまち百篇の詩ができあがる。
長安市上 酒家に眠る いつも、長安市中の酒屋で酔っぱらっては眠っている。
天子 呼び来(きた)らしむるも 船に上がらず 天子のお召しを受けても酔いが覚めずに船にも上がれず、
自ら称す 臣はこれ酒中の仙なりと 私は酒の中の仙人であると自ら天子に申し上げた
ただ、不遇だったのは、酒の上の過ちばかりともいえない。
出身は、四川省とも西域ともいわれる。青い目をしていたとの記述をどこかで見たことがある。
5歳 難しい書物を読みこなす。
10歳 剣術の修行に明け暮れた。
25歳 士官を求めて、故郷の四川省を旅立つ。
42歳 翰林供奉(侍従)の地位を得た。だが、それも3年で幕を閉じた。原因は中々難しい。以下当時の評を列記すると、
1.貴族でもない、進士でもない、たかがいかがわしい田舎者として軽んじられた。
2.態度がバカにでかい、と嫌われた。
3.わずかな詩文の才能を鼻にかけすぎる。
4.大酒飲んで傍若無人の振る舞い。
5.許し難い大言壮語
酒の上の過ちでは、
1.酔って玄宗皇帝の前で宦官の高力士の靴を脱がせた。これを根に持った高力士は、楊貴妃に讒言した。「清平調」・・別途記載・・という詩中で楊貴妃をおとしめた、というもの。称えたつもりが、とんだ落とし穴があった。これに楊貴妃は激怒、玄宗がかばっても聞かず、、昇進なども考えたが、ことごとく反対して、ついには下野することとなった。
2.楊貴妃の従兄弟、当時大臣だった楊国柱に墨をすらせた。これも憎しみとして根に持たれた。
56歳 安禄山の乱で、討伐に立ち上がった玄宗の息子永王李リンに招かれて幕僚となった。
57歳 粛宗に反乱軍と見なされて投獄、さらに野郎(貴州省)に流されることとなった。
59歳 四川省巫山のあたりで野郎に向かう途中で恩赦、自由の身となる。この時長江を下り、有名な「早発白帝城」は詠まれたといわれている。
62歳 病死。酒に酔って水に浮かぶ月を取ろうとして落ち、水死したとの説も。私は、この方が詩仙とも酒仙とも評される李白に対する最高にふさわしい、死に方の表現と思う。この時、代宗が召し抱えようとしたが、その時はすでに死亡していた。
(1)早発白帝城 早(つと)に白帝城(はくていじょう)を発す
朝辞白帝彩雲間 朝(あした)に辞す 白帝 彩雲(さいうん)の間(かん)
千里江陵一日還 千里の江陵(こうりょう)一日にして還(かえ)る
両岸猿声啼不住 両岸(りょうがん)の猿声(えんせい)啼いて住(や)まざるに
軽舟已過万重山 軽舟(けいしゅう)已に過ぐ 万重(ばんちょう)の山
(解釈等)
プロフィールでも触れたが、流刑地へ向かう途中で恩赦になり、長江を下る時に詠んだ詩である。白帝城は、三国志の時代、蜀の劉備玄徳が関羽の仇討ちに呉と戦い、敗れてこの城で世を去っている。ちなみに、臨終に当り、諸葛亮孔明に言った言葉は有名である。即ち
「息子劉禅に皇帝の素質があるならば、補佐してほしい。無ければおまえさんが皇帝になれ」
と。彼は、出来の悪い息子の補佐に努めた。この城もダムの底になる運命である。余談が長くなった。
白帝山と白帝城
ーNHK漢詩紀行からー
早朝、朝焼け雲のたなびく白帝城に別れを告げて山峡を下り
千里も離れた江陵の地にたった1日で帰って行く
その途中、両岸の猿の鳴き声が絶え間なく聞こえていたが
その声を振り払うように、私の乗った小舟はもう、幾重にも連なる山々の間を通り抜けていた
(2)山中与幽人対酌 山中にて幽人(ゆうじん)と対酌す
両人対酌山花開 両人(りょうにん)対酌すれば山花(さんか)開く
一杯一杯復一杯 一杯(いっぱい) 一杯(いっぱい) 復(ま)た 一杯
我酔欲眠卿旦去 我酔うて眠らんと欲す卿(けい)旦(しばら)く去れ
明朝有意抱琴来 明朝(みょうちょう)意有らば琴(きん)を抱いて来たれ
(解釈等)
随分前のことだが、某洋酒メーカーがコマーシャルにこの詩を出していた。特に第二句の 一杯一杯……を 「いーぺい いーぺい……」 という中国語の発音が記憶に残った。
何年か後に図書館でこの詩を見つけ早速メモして帰った。今では、寝室の壁に下手な字で書き貼り付けている状況である。
特に解釈は要らないと思う。幽人は隠者。琴はきんと読む。
(3) 清平調詩その二
一枝濃艶露凝香 一枝(いっし)の濃艶(のうえん) 露 香(こう)を凝(こ)らす
雲雨巫山枉断腸 雲雨(うんう)巫山(ふざん) 枉(ま)げて断腸(だんちょう)
借問漢宮誰得似 借問(しゃくもん)す 漢宮(かんきゅう)誰か似たるを得ん
可憐飛燕倚新粧 可憐(かれん)の飛燕(ひえん) 新粧(しんしょう)に倚(よ)る
(解釈等)
当時、李白は宮廷詩人として活躍していました。当日は城下で飲み歩いていたのを、召し出されて、この詩を作ったと聞いたことがある。たくさんほめあげて、玄宗皇帝も喜び、曲をつけさせて宮廷歌人に歌わせたとか。ところが、嫉妬、陰謀が渦巻く宮廷のこと、たちまち、揚げ足を取られて失脚します。NHKの漢詩紀行が分かりやすく書いてあるので、紹介します。
ひともとのあでやかな牡丹の花、その上におく露は花の香をを結晶させたよう
これに比べると、雲となり雨となった巫山(ふざん)の神女も、人の心を空しくかきむしるだけである
ちょっとおたずねするが、別嬪ぞろいの漢の後宮で、誰が楊貴妃に比べられるだろう。
それは愛らしい趙飛燕が、お化粧したばかりの美貌を誇る姿であろうか
つまり、楊貴妃を漢の成帝の寵妃「趙飛燕」になぞらえたのを、楊貴妃をおとしめるものだと衝いたのである。言い方を変えれば、超飛燕など及びもつかない、というべきだというのであろう。
同じ場所に居ないのに、どういう基準で誰が選考するんですかねぇー。
(4) 月下独酌
花間一壺酒 花間(かかん)一壺(いっこ)の酒
独酌無相親 独(ひと)り酌(く)んで相親(あいした)しむ無し
挙杯邀名月 杯(さかずき)を挙(あ)げて名月を邀(むか)え
対影成三人 影(かげ)に対して三人と成る
月既不解飲 月 既(すで)に飲(いん)を解せず
影徒随我身 影 徒(いたず)らに我が身に随(したが)う
暫伴月将影 暫(しばら)く月と影とを伴(ともな)いて
行楽須及春 行楽 須(すべか)らく春に及ぶべし
我歌月徘徊 我歌えば 月 徘徊(はいかい)し
我舞影凌乱 我舞えば 影 凌乱(りょうらん)す
醒時同交歓 醒時(せいじ)は同(とも)に交歓し
酔後各分散 酔後(すいご)は各(おの)おの分散す
永結無情遊 永く無情の遊(ゆう)を結び
相期邀雲漢 相期して雲漢(うんかん)邀(はるか)なり
(解釈・・NHK漢詩紀行による)
月も影も、面倒な気配りやあとくされがなく、酒の友としてふさわしい」とうそぶく、酒仙李白ならではの作。私には、ヒゲを生やし中国服の老人が酔って月下花園でを歌いながら徘徊する姿が浮かびます。
花咲く木陰に酒壺ひとつ
独りぽっちの手酌で相手がいない
そこで杯を挙げてのぼってくる月を招き
影も出てきて三人となった
月はもともと飲めないし
影もひたすら私の真似をするだけ
まあ、この月と影とを友として
心ゆくまで楽しんで、この春を逃さぬようにしよう
私が歌えば月はふらふらと舞い
私が舞えば影は乱れ動く
酒がまわりきらないうちは、三人で楽 しみあい
酔ってしまえばそれぞれに別れていく
いつまでもこのようなしがらみのない交遊をつづけ
次にはあの天の川ででも再会するとしよう
8.蔡文姫(さいぶんき、三国志の頃 曹操の学問の師 蔡ヨウの娘)
(1)胡笳(あしぶえ)の歌・十八節
はじめに
頃は三国志の時代(今からおおよそ1800年前、西暦200年前後)、英雄豪傑があまた輩出して、戦乱の末、天下が魏・呉・蜀と分かれたころです。魏(ぎ)の曹操(そうそう)の学問の師、蔡ようの娘が、匈奴に拉致されその嘆きを、そして2児を設け、帰還はしたものの、子供への思いは断ちがたく、其の思いをつづったものです。
全部で十八節、その番号は私が付け加えました。それ以外は中村愿様の翻訳のままです。
蔡文姫(さいぶんき)は、後漢の大学者で曹操の学問の師でもあった、蔡ようの娘。父の獄死後、蔡文姫は匈奴(きょうど)の王にさらわれて異郷の地で2児の母となったが、望郷の念やみがたく、のち曹操の助けによって帰漢することができた。この歌は、その数奇の体験を詩にした彼女の絶唱である。彼女はまた、琴の天才でもあった。
第1節
生まれた初めは知りません
育つにつれて国運おとろえ
天は無慈悲にも戦乱おこし
地は無慈悲にも
私をこの時に遭(あ)わしめました
休みない戦火に道ゆくさえ危(あや)うく
民衆は流亡(るぼう)して共に悲しむ
煙塵(えんじん)、野をおおって胡虜(えびす)はびこり
人の心はばらばらに
節義は地に落ちてしまいました
異族の習俗になじめずに
受けた屈辱を誰に訴えましょう?
胡笳(あしぶえ)一(ひと)ふし、琴一ふし
恨みに胸つぶれても知る人なし
第2節
ひとりの戎羯(えびす)
迫ってわたしを妾(つま)となし
引きつれてゆく天涯のはて
雲つく峰はいくえにもつづき
ふり返り見れば帰路はるか
疾風は千里を走って砂塵、巻きあげ
獰猛(どうもう)で蛇のようにいやらしい胡兵(こへい)らは
弓引きしぼり鎧(よろい)着て
胸つきあげて武威しめす
胡笳二(ふた)ふし、琴の音(ね)はりつめ
心こなごな、 独りうち嘆(なげ)く
第3節
漢土(かんど)をあとに胡の城(まち)にいたる
家亡く、いまや自分失(な)ければ
いっそ命も無ければよいものを
毛皮の衣裳にこの身はふるえ
なまぐさい羊の肉に
わたしの感情は耐ええない
鼓(つづみ)たかだかと夜明けまで打ち鳴り
はるかに吹きわたる辺境の風
要塞は冷たく闇につつまる
今に涙し、昔日(むかし)偲んで胡笳三(み)ふし
悲哀と恨みを呑(の)みくだし
いつ平安は訪れる
第4節
昼となく夜となく
思うは故郷のことばかり
この世に生は受けました
けれど、私の苦しみに
すぎる苦しみがありましょう?
天は崩れて国乱れ
人にひとりの英雄なく
ただ幸(さち)うすきこのわたしは
遠く戎虜(えびす)にかこわれる
なれぬ習俗(ならわし)に心かよわず
この身はどこに置けばいいのでしょう?
食べ物異なり
心うち明ける友もない
あれこれと思い悩むこの苦界(くかい)
胡笳、琴の四ふし成れば
わたしの悲しみはさらに凄愴
第5節
雁よ、南へ飛ぶときは
わがこの想いを運びゆき
雁よ、この地に帰る日は
漢土(かんど)の便りをお願します
そう思えども空高く飛ぶ
かなたの雁に問うすべはない
むなしさに胸かきむしり
心は暗澹(あんたん)
眉ひそめ、月に向かって琴抱(いだ)けば
胡笳、琴の五(いつ)ふし冴(さ)えて
沈む思いはいよいよ深し
第6節
霜は凍って
寒気するどくこの身を刺し
いくら飢えても、羊の肉や酪乳(らくにゅう)は
わたしののどを通らない
深夜、聞こえてくるかすかな嗚咽(おえつ)
隴水(ろうすい)よ ※辺境を流れる河
お前も泣いているの?
朝(あした)にながめる長城ははるけく
つらかった胡地(えびす)への旅
六(む)つふし、悲しみこみあげて
つまびく指もつかえがち
第7節
日暮れて風は悲しみを運んでくるのに
あたりにさんざめく胡人の声
知るはずもないわたしの愁(うれ)い
いったい誰に打ち明けましょう?
狼煙(のろし)は荒涼とした原野に連なり
ここは、老弱をさげすみ
強きものをたたえる風俗(ならい)
水と草を追い求めては
家をつくって砦をきずく
野に放たれた牛や羊の集まるさまは
まるで蜂や蟻のよう
草食べつくして木枯れれば
羊や馬連れ移ってゆく
胡笳、琴の七ふし流浪(さすらい)
この辺土(いきょう)への憎しみつきず
第8節
天よ、もしも眼(まなこ)があるのなら
独り漂(ただよ)うこのわたしが
見えないはずはないでしょう
神よ、霊(たましい)があるのなら
どうしてわたしを
この地の果てに追いやった
天に背(そむ)いたことはありません
なのに、なぜ
わたしを異民族に妻(めあわ)せた!
神に背いたことはありません
なのに、なぜ
わたしを荒野にうち捨てる!
憂い消そうと八(やつ)ふし成せど
かえってつのる身を裂く怒り
第9節
天涯(はて)しなく、地に果てなく
私の愁(うれ)いも限りない
過ぎゆく人生の速いこと
疾走する白馬をすき間から覗(のぞ)くようなもの
それなのに歓喜の一つも残さずに
わたしの青春は逃げてゆく
怨みをこめて天に問えど
天は蒼々(あおあお)とつきぬけてつれない
頭(こうべ)をあげて空をあおげば
ただ白き雲のたなびくばかり
胡笳(あしぶえ)九ふし、琴九ふし
ああ、この気持ちは伝えようなし
第10節
狼煙火(のろしび)は辺境に絶えたことなく
辺境の戦さ、いつ絶えるともしれず
殺気は、朝な朝な城門にせまり
北風は、夜な夜な辺境の月に吹きつのる
故郷(ふるさと)は遠く、便りもなく
忍び哭(な)いては思いにむせぶ
一生の辛苦(しんく)は別離にあり
十(と)ふし、悲しみあくまで深く
涙いつしか血に変わる
第11節
生をむさぼり
死を恐れるのではありません
この身をあきらめきれぬのは
心に思うことあるがため
もしも、生きて願いがかなうなら
わたしは漢土に帰りたい!
死んで故郷の土となり
あとはやすらかに眠るのみ
けれど月日は、無情に過ぎゆきて
わが身は変わらず異郷の地
胡人(えびすのひと)はわたしを愛し
二人の子供をなしました
この子らを慈(いつく)しみ育(はぐく)むのに
何を恥じることがありましょう
あわれみをかけ心をそそぎ
二人は辺土に育ちゆく
かくして生まれた十(とう)と一(ひと)ふし
哀(かな)しい調べは骨身にしむ
第12節
季節はめぐり
春風とみに暖かいころ
漢の天子様の停戦のお布令(ふれ)
羌胡(えびす)ら舞い踊ってよろこび歌い
国交なって戦火は止んだ
たちまち到る、漢の使いの詔(みことのり)
千金おくり
わたしのこの身を買いもどす、と
生きて帰れる、そのうえに
聖人(すくいのかみさま)にお会いできるのはうれしいけれど (注)曹操のこと?
幼児(おさなご)に別れたのちは
いつの日ふたたび逢えましょう
胡笳、琴の十二(じゅうに)ふし
喜び、哀しみ、重さひとしく
去(ゆ)こうかー、いいえ、この子らとー
陳(の)べがたし、ふたつの情(なさけ)
第13節
あきらめていた残りの人生
帰国する日が来ようとは
胡(えびす)の児、強く抱きしめ
あふれる涙は衣(ころも)をぬらす
わたしを迎える四頭立ての
漢の使いの馬車は来た
親と子、泣き叫べど声にならず
この心中、誰が知りましょう
生も死も共に生きてきたのに、この別れ
子らへの愁いに日も輝きを失った
ああ、翼があれば
おまえらを連れてゆくのに
一足遠のくたびに重くなる足どり
魂消えて影消えても、未練は残る
十(とお)と三(み)ふしの琴と胡笳(あしぶえ)
つまびき激しく、調べ悲しく
ただ独り胸えぐられる
匈奴の地で生んだ二人の子、そして夫と永遠の別れをして漢に帰ってゆく蔡文姫
(「文姫帰漢」より)
第14節
わが身ひとり
漢に帰って来ましたが
随(したが)う子供の姿なく
飢餓の苦しみにも似たこの辛さ
四季、万物(ばんぶつ)には盛衰あるのに
わたしの苦しみは時節を選ばない
山高々と地は広く
わが児らに会うあてどない
ある夜更(ふ)け
お前がここまで来た夢を見た
夢中で手をとりあい
喜び、そして悲しんだ
目覚めたあとの心の痛み
時はうつれど止むときなし
十(とお)と四(よ)ふしは涙さめざめ
河の流れは東に向かい
わたしの心は思いに沈む
第15節
胡笳十五、ふしの調べは迫りくる
胸うちふさぐこの憂いを
曲に読みとる方はいませぬか?
辺境の地の慣れぬ風習
帰国を願う一心が
ついに天をも動かしました
漢土に帰れさえすれば
ただ、それだけで幸せと――
なのに、心をおおうこの思い
なぜか憂いは増すばかり
えこひいきない日や月も
わたしに光をそそがない
子供と母は別れ別れに
願いは思うにまかせずに
出合うことのないない商星(なつぼし)と参星(ふゆぼし)
天のかなたに隔てられ
生死もたがいに知ることなく
行きて訪ねるすべもない
(楽遼注)参星=オリオン。明けの明星。 商星=ルシファー。 参は西方に、商は東方にあって同時に見ることができないことから、人が別れてから長く会わないことにたとえる。・・・漢和辞典より。
第16節
十(とお)と六(むつ)ふし、思いは茫然
離れて暮らす親と子は
東の太陽、西の月
お互いはるかに眺めあうまま
手をとり合うこともかなわずに
むなしく胸をかきむしる
亡憂草(わすれなぐさ)の前に祈っても
なぜ消えさらぬ、この憂い
かき鳴らす琴の音ひびくたび
はげしく痛む心の傷
わが子と別れて帰ったいま
かつての恨みは遠のいて
新しい恨み湧きおこる
涙を血にして頭(こうべ)をあげ
蒼(あお)き大空に訴えん
わたしと胡人(かれ)の胡児(わがこ)なのに
どうして、わたしひとりだけ
こんな仕打ちをうけるのでしょう!?
第17節
十(とお)と七(なな)節胸つまる
山河は行く手をはばみ、道はけわしい
彼(か)の地での日々、頼るものはなく
故郷を想いつづけておりました
胡児(わがこ)と別れの時がきて
心は乱れ、ただ呆然とするばかり
砦に生えた蒿(よもぎ)は黄ばみ
枯枝に干からびた葉がゆれる
過ぎ行く砂漠に散乱する白骨
見れば、刀痕(とうこん)痛いたしく矢疵(やきず)負う
きびしい風と霜に春夏さえ寒く
人も馬も飢えと疲れに力つき
今にも果てんとするときに
再び長安城にたどりつけようとはーーー
息を呑みこみ、はらはらと涙流れる
第18節
胡笳(あしぶえ)の故郷(さと)は胡(えびす)の地
琴にうつせど調べは同じ
十八ふしで曲は尽きても
残る余韻に思いは止まず
音の調べの絶妙さは
造化の神のしわざでしょうか
哀しみであれ、喜びであれ
人の心のうつろうままに
調べも変わり、また通う
胡(えびす)と漢は風土(とち)風俗(ならい)もみな異なり
天地ほどにかけ離れた、西に住む子と東の母
わたしを苦しめる怨みは深く
あの大空よりもはてしない
宇宙が広大というならば
受けてみよ!
わたしの怨み!
[完]
7.白居易(白楽天) 772−846
(1)長恨歌(ちょうごんか)
はじめに
時は西暦700年半ば。ところは唐の都長安。皇帝玄宗(げんそう)と寵妃楊貴妃(ようきひ)のラブロマンスを、わずかに遅れて生まれた白楽天が美しく歌い上げた古今ゆるぎのない名作、詩絵巻である。
1句7文字。120句あるので840文字。1回に2〜4句として掲載します。
最後に全文通しを掲載。小見出しは私楽遼の創作。
@いよいよスタート
漢皇重色思傾国 漢皇(かんこう)色を重んじて傾国(けいこく)を思う
御宇多年求不得 御宇(ぎょう)多年求むれども得ず
(直訳)
漢の皇帝は容色を重んじて、国を傾ける程の美人のことを思っていた。
長い間探しましたが見つかりませんでした。
(解釈、裏話など)
裏話を書かないほうが、白楽天の美しい詩絵巻を純粋に楽しめるかも知れない。が敢えて記述する。
漢皇
漢の皇帝実は唐の玄宗皇帝。長恨歌が作られたのは、玄宗皇帝が亡くなってからあまり年月が経っていないので、実名をはばかった。わが国の忠臣蔵も、最初は仮名手本忠臣蔵として、登場人物を室町時代に求めたのと同じである。
傾国
傾城傾国(けいせいけいこく)の語源は、紀元前100年頃の漢の武帝の時代、宮廷楽士の李延年が自分の妹を皇帝にPR した時の言葉である。すなわち
北方に佳人あり、絶世にして独り立つ
一顧(いっこ)すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く
寧(いずく)んぞ傾城と傾国を知らざらん
佳人再び得がたし
要は、そのような美人に接して、国を傾ける恐ろしさを知らない者はない。しかし、このような美人は、2度と手に入れることは出来ないですよ、と。
好色な武帝は、並みの美人には食傷していたので、大いに食指が動いた。結果は絶世の美人だったので満足した。彼女も皇帝の愛情を独占したが、美人薄命で1子を設けたが他界した。
日本でも、吉原などの花魁を傾城などと言っているのを、落語か講談で耳にすることがある。
御宇
宇は本来曲がった屋根のこと。この場合は天下。敬語の御がついているので、あなたの天下。御治世。
多年求むれども
玄宗皇帝には、武恵妃という寵妃がいた。彼女が亡くなってから、彼の落胆は激しく、お側の宦官(かんがん)高力士が気を利かせて探したとも、皇帝自ら探させたともいわれる。宮廷には何千何百の女官がいたが、皇帝の目に止まる女性はいなかった。
妃:現代では皇族の妻を言うが、当時は女官の最高の位。
A 息子の嫁を取り上げる
揚家有女初長成 揚家(ようけ)に女(むすめ)有り 初めて長成(ちょうせい)す
養在深閨人未識 養われて深閨(しんけい)に在り 人未(いま)だ識(し)らず
(直訳)
揚家に娘がいて、どうにか成長しました。
深窓で育てられたので、人は誰も知りませんでした。
(解釈等)
揚家有女初長成
揚家の娘とは、実は亡くなった武恵妃の息子で、一時太子となっていた寿王の嫁である。幼名揚玉環と言い後の楊貴妃である。宦官(かんがん)の高力士(こうりきし)が紹介したのだが、見初めてしまった。そして、取り上げようというのである。
息子を言い含め、代わりの嫁をあてがい、揚玉環を離婚させ出家させた。彼女は揚太眞と名乗った。そしてすぐに還俗(げんぞく)させた。見え透いた手順を踏んだものである。
中国では、皇帝が死ぬと次期皇帝は財産を相続した。妃妾達も前皇帝の財産?であり当然相続の対象である。父子2代に亘って愛された女性はどの程度いたかは知らないが、この場合は逆である。
初めて長成す:どうにか成長した。
養在深閨人未識
彼女は今の四川省の出身である。長安では揚家に養女として入ったらしい。
宦官
人為的に男性の機能を取り去られた元男性。後宮に出入りさせても安心だった。当時高力士は宦官のトップにいた。もっとも、彼には妻がいたというから、切除が不完全だったと思われる。
紀元前100年頃の有名な歴史家、司馬遷も罪を得て宮刑(取られる刑)になった。秦(しん)末期の趙高(ちょうこう。平家物語の最初に、(遠く異朝を訪(とぶら)えば、秦の趙高……)も宦官だった。自ら望んで男性を捨てた人も多かったと聞く。
余談だが、彼らにはひげがない。中国の男性がひげを生やしたのは、宦官に間違われない為、と読んだことがある。イスラム世界のは、多分に宗教的な理由かもしれない。
Bいよいよ宮中へ
天性麗質難自棄 天性の麗質(れいしつ)自(おの)ずから棄て難し
一朝選在君王側 一朝(いっちょう)選ばれて君王(くんのう)の側(かたわら)にあり
回眸一笑百媚生 眸(ひとみ)を回(めぐ)らして一笑すれば百媚(ひゃくび)生じ
六宮粉黛無顔色 六宮(りくきゅう)の粉黛(ふんたい)顔色(がんしょく)無し
(解釈など)
一朝 : ここでは、ある日と解釈
回眸 : 美人の表現の一つに、明眸皓歯(めいぼうこうし)という言葉がある。楊貴妃はすばらしい眸の持ち主だったのでしょう。回頭(こうべをめぐらして)と書く本もあるが、私が西安から持ち帰った拓本には、回眸とあるので、それを採用する。
百媚 : たくさんの魅力。

山口県油谷町にある楊貴妃像
西安市で作られた
六宮 : 後宮(江戸時代の大奥といったところ)には、6棟の宮殿があったというので、六宮といわれた。
粉黛 : おしろいとまゆずみ。つまり、美人達。
顔色なし : 顔色を失った。
玄宗皇帝 : 685〜762 唐6代の皇帝。はじめは内政の安定に努め、「開元の治」と称えられる善政だった。その後政治に飽きて、楊貴妃を寵愛して、国家衰退の端緒を作った。中国ではただ一人の女帝「則天武后(そくてんぶこう)」の孫。
則天武后 : 628〜705 武則天とも。 2代目皇帝太宗(たいそう)に仕えた身分の低い女官であった。太宗死去後、霊を弔う為他の女官たちと出家して寺にいたところを、3代目皇帝高宗(こうそう)の目にとまった。
性格は、目的達成の為には手段を選ばずの典型だった。例として、高宗との間に女の子が生まれた。野心ある彼女は、皇后がお見舞いに訪れたのを幸いに、自分の生んだ子を殺し、皇后に罪をかぶせて失脚させた。そのあと、皇后と彼女のライバルの妃の手足を切り落とし、酒甕に投げ込んだという。
日本で、TVの人気時代劇「水戸黄門」の水戸光圀の圀の字は、彼女の創作である。いくつかの字を作ったようだ。
また、西安の観光ルートにある「大雁塔」「小雁塔」のうち小雁塔は、彼女が夫高宗のために建てたものである。
C 初夜を迎える
春寒賜浴華清池 春寒うして浴(よく)を賜う華清(かせい)の池(ち)
温泉水滑洗凝脂 温泉水滑らかにして 凝脂(ぎょうし)を洗う
侍兒扶起嬌無力 侍兒(じじ)扶(たす)け起こすに嬌(きょう)として力無し
始是新承恩澤時 始めて是れ新たに恩澤(おんたく)を承(う)くるの時
(解釈等)
春寒賜浴華清池
華清池は、長安の近く、驪山(りざん)の麓にある。中国には数少ない温泉が湧き出て、歴代の王、皇帝は避寒地として利用していた。したがってこの場合の浴とは温泉である。私も華清池を訪れたとき、彼女の浴室も見ることが出来た。床を掘り下げて海ドウの花をかたどった浴槽だった。玄宗皇帝のは、蓮だったと記憶している。
余談だが、蒋介石も前線督励のためこの地に来て、張学良のために幽閉されたことがある。その寝室や会議室が保存されていた。
温泉水滑洗凝脂
凝脂 : 白く艶のある女の肌。即ち楊貴妃の体。本によっては、きめ細かく、豊満な……と表現している。多分に想像が入っているのではないかと思う。
洗う : 通常の我々の入浴のごしごし洗うとすると、詩情がなくなるので、そそぐ程度。語源は、水と先(はだし)から成り立って、はだしに水を注ぎかけること。それが転じて洗うことになった。
侍兒扶起嬌無力
侍兒 : お付きの少女侍従。
嬌として : なよなよとして。なまめかしい。色っぽく美しい。陳鴻(ちんこう)の長恨歌伝に「既に水を出(い)ずれば、体(たい)弱く力微(かすか)にして、羅綺(らき)に任(た)えざるが若(ごと)し」と書いてありました。
始是新承恩澤時
恩沢 : 愛情。 始めて陛下の愛情をうける時のことでありました。
D皇帝は愛するあまり政治をなおざりに
雲鬢花顔金歩搖 雲鬢(うんぴん)花顔(かがん)金歩搖(きんぽよう)
芙蓉帳暖度春宵 芙蓉(ふよう)の帳(とばり)暖(あたたか)にして春宵(しゅんしょう)度(わた)る
春宵苦短日高起 春宵(しゅんしょう)短きを苦しんで日高くして起き
従是君王不早朝 是より君王(くんのう)早朝せず
(解釈等)
雲鬢花顔金歩搖
いずれも楊貴妃の美しさを表現している。
雲鬢 : 直訳すれば雲なす髪。中国の昔の絵などで見かける髪の毛がたっぷりあるヘアースタイル。
花顔 : 花のように美しい顔
金歩搖 : 歩くと揺れる金のかんざし。
芙蓉帳暖度春宵
暖かい芙蓉のカーテンに囲まれて、春の夜は過ぎていく
芙蓉 : ハス。愛情の象徴。
張 : カーテン
春宵 : 宵というと日本では夜の初めをいうが、ここでは夜そのもの。
春宵苦短日高起
二人にとっては、夜の時間は短かかったようです。
従是君王不早朝
これからは、君王は政治をしなくなった。
不早朝 : 文字どおりだと、早起きしなくなったということだが、昔は政治は早朝に為された。従って政治をしなくなったということ。
困ったものです。傾国の楊貴妃にうつつを抜かして政治を放り出すとは。
E寵愛される楊貴妃
承歓侍宴無間暇 歓を承(う)け宴(えん)に侍(じ)して間暇(かんか)なく
春従春遊夜專夜 春は春の遊びに従い 夜は夜を専(もっぱら)らにす
後宮華麗三千人 後宮(こうきゅう)の華麗(かれい)三千人
三千寵愛在一身 三千の寵愛(ちょうあい)一身にあり
金屋粧成嬌侍夜 金屋(きんおく)粧(よそおい)成りて嬌(きょう)として夜に侍し
玉楼宴罷酔和春 玉楼(ぎょくろう)宴(えん)罷(や)んで酔うて春に和す
(解釈等)
皇帝と楊貴妃が一緒に暮らしたのは、16年といわれる。その間離れたのは、たった2日であった。1日は、楊貴妃のあまりの嫉妬の激しさに。そしてもう一日は、皇帝の意に沿わぬことをした時らしい。しかし、楊貴妃がいないと、玄宗は誰彼なく当り散らすので、高力士が連れ戻しに行ったようだ。
承歓侍宴無間暇
楊貴妃は歌舞音楽に通じているばかりでなく、とても頭のよい女性で、皇帝が何を考え、なにを欲しているかを素早く察知して、常に意に沿った行動をした、と読んだことがある。こんな接し方をされたら誰でも喜びます。付っきりで忙しかったようです。
夜專夜
皇帝の夜を独占する
後宮華麗三千人
華麗 : 美人達
三千人 : 白髪3千丈の類か。北京の紫禁城ですら、そんなに住めたとは思えないが……。
三千寵愛在一身
3千人の嫉妬一身にあり。と読み変えしたい。すさまじい嫉妬だったと思う。
金屋粧成嬌侍夜
金の宮殿でお化粧整え、あでやかにお側に仕え
玉楼宴罷酔和春
そして玉の宮殿での宴会もおわり、酔い心地で春の夜に溶け込む
F一族も昇進
姉妹弟兄皆列土 姉妹弟兄(しまいていけい)皆土(ど)に列す
可憐光彩生門戸 憐(あわれ)むべし光彩(こうさい)門戸(もんこ)に生ずるを
遂令天下父母心 遂に天下の父母の心をして
不重生男重生女 男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ
(解釈等)
姉妹弟兄皆列土
兄弟縁者が皆えらくなった。文字通りだと、兄弟姉妹だけになるが、不良少年の従兄弟「揚国忠」が宰相まで登りつめたので、親戚縁者とします。
土は国の意味がある。国を治める諸侯の列に加わった。
会社に例えると、社長の座に居座ったまま、職場放棄して、愛人と遊び呆けている大会社の社長。その愛人の一族が、皆重役になっちゃった。ということになる。
可憐光彩生門戸
門戸が光り輝いている。絶頂期にある家の表現です。
可憐:うらやましい。
余談ですが、こんな話を読んだことがあります。楊貴妃の姉さん達も出世した。あるとき、城外で皇帝の娘と道の譲り合いになったが、彼の姉さんは、ついに道を譲らなかったとか。
遂令天下父母心 不重生男重生女
女の子が生まれれば、ひょっとして、楊貴妃のように皇帝のお側に仕え、親戚縁者も出世するのでは、という期待が父母の間に広まった。
楊貴妃の美しさを歌った李白の詩を挟みます。玄宗皇帝と楊貴妃のボタンの花見の宴に呼ばれた李白は、ほめあげて、高力士に揚げ足を取られて追放になった詩です。掲載して少しあとで李白欄に移します。
清平調詩その二
一枝濃艶露凝香 一枝(いっし)の濃艶(のうえん) 露 香(こう)を凝(こ)らす
雲雨巫山枉断腸 雲雨(うんう)巫山(ふざん) 枉(ま)げて断腸(だんちょう)
借問漢宮誰得似 借問(しゃくもん)す 漢宮(かんきゅう)誰か似たるを得ん
可憐飛燕倚新粧 可憐(かれん)の飛燕(ひえん) 新粧(しんしょう)に倚(よ)る
(解釈等)
当時、李白は宮廷詩人として活躍していました。当日は城下で飲み歩いていたのを、召し出されて、この詩を作ったと聞いたことがある。たくさんほめあげて、玄宗皇帝も喜び、曲をつけさせて宮廷歌人に歌わせたとか。ところが、嫉妬、陰謀が渦巻く宮廷のこと、たちまち、揚げ足を取られて失脚します。NHKの漢詩紀行が分かりやすく書いてあるので、紹介します。
ひともとのあでやかな牡丹の花、その上におく露は花の香をを結晶させたよう
これに比べると、雲となり雨となった巫山(ふざん)の神女も、人の心を空しくかきむしるだけである
ちょっとおたずねするが、別嬪ぞろいの漢の後宮で、誰が楊貴妃に比べられるだろう。
それは愛らしい趙飛燕が、お化粧したばかりの美貌を誇る姿であろうか
つまり、楊貴妃を漢の成帝の寵妃「趙飛燕」になぞらえたのを、楊貴妃をおとしめるものだと衝いたのである。言い方を変えれば、超飛燕など及びもつかない、というべきだというのであろう。
同じ場所に居ないのに、どういう基準で誰が選考するんですかねぇー。
Gは二人は平和の夢をむさぼる
驪宮高處入青雲 驪宮(りきゅう)高き處(ところ)青雲に入り
仙樂風飄處處聞 仙樂(せんがく)風に飄(ひるが)えって處處(しょしょ)に聞(きこ)ゆ
緩歌謾舞凝絲竹 緩歌謾舞(かんかまんぶ)絲竹(しちく)を凝(こ)らし
盡日君王看不足 盡日(じんじつ)君王(くんのう)看れども足らず
(解釈等)
驪宮高處入青雲
次の句とともに実に巧みな風景描写で、彷彿と致します。雲がたなびく高いところにも宮殿があり、ゆっくりした音楽が風に乗って聞こえてくる、というような。
驪宮 : 驪山の北面にある宮殿
仙樂風飄處處聞
仙樂 : 仙人のような音楽。どんなものか?
緩歌謾舞凝絲竹
緩歌謾舞 : ゆっくりとした歌と踊り
絲竹 : 絲は弦楽器。 竹は管楽器。
盡日君王看不足
歌や踊りばかりでなく、楊貴妃を一日中見ていても飽きない。
このような間に、反乱の準備は着々と進んでいた。
Hは晴天の霹靂の反乱 悲劇の幕開
漁陽へい鼓動地来 漁陽(ぎょよう)のへい鼓(へいこ)地を動かして来(きた)る
驚破霓裳羽衣曲 驚破(きょうは)す霓裳(げいしょう)羽衣(うい)の曲
九重城闕煙塵生 九重(きゅうちょう)の城闕(じょうけつ)煙塵(えんじん)生じ
千乗万騎西南行 千乗萬騎(せんじょうばんき)西南に行く
(解釈等)
大変な事態が勃発しました。玄宗皇帝の放漫な政治の結果、河北一帯の軍政長官、安祿山が反乱を起こしました。大義名分は、楊貴妃の従兄弟で宰相の揚国忠の暴政を正す為、としています。揚国忠は、若いときは不良少年、政治的には宰相の器ではなかったようです。
官軍は方々で打ち破られ、反乱軍は都長安に接近してきました。皇帝は、難を逃れるべく蜀(しょく、今の四川省)の成都を目指して、早朝都を脱出しました。そのときの情景です。
漁陽へい鼓動地来
漁陽の反乱軍が、地を動かすような陣太鼓をとどろかせて、迫ってきた。
漁陽 : 北京付近
へい鼓 : 陣太鼓。 へいは革偏に卑の旁。単語登録できず。
動地来 : 地をどよもして来る、と読ませる本があります。ご自由にどうぞ。
驚破霓裳羽衣曲
歌舞音楽にうつつを抜かしていた彼らの夢は破られました。
霓裳羽衣の曲 : 玄宗皇帝の作曲。
九重城闕煙塵生
宮廷を囲む九重の門からは煙塵が生じて、つまり逃れる為に生ずる車馬の煙塵を表現している。
九重城闕 : 中国の王城は9重の城門があり、その中が正殿である。一つの城の9箇所の門ではない。わが国でも、都を「九重(ここのへ)」と表現しているのを見かける。小倉百人一首に「いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に においぬるかな」とある。この場合は平安宮。
煙塵生 : 実際は雨天だったようです。泥まみれでは詩になじみません。
千乗万騎西南行
天子の一行は、西南にある蜀の成都を目指した。46日目に着いたそうです。
千乗万騎 : 天子の行列の呼称。夜逃げ朝逃げに、こんなに軍隊や御側衆はいない。
I楊貴妃、死を賜る
翆華搖搖行復止 翆華(すいか)搖搖(ようよう)として行きて復(ま)た止(とど)まる
西出都門百餘里 西の方(かた)都門(ともん)を出(い)ずること百餘里(ひゃくより)
六軍不發無奈何 六軍(りくぐん)發(はっ)せず奈何(いかん)ともする無く
宛轉蛾媚馬前死 宛轉(えんてん)たる蛾媚(がび)馬前(ばぜん)に死す
(解釈等)
翆華搖搖行復止
翆華 : 天子の所在を示す旗。
搖搖 : 揺れながら
行復止 : 進んでは止まり、進んでは止まっている。
西出都門百餘里
百餘里 : 当時の唐の1里は約500メートル。
従って都門を出てから約50キロメートルのところで
六軍不發無奈何
近衛兵が進軍を止めてしまって、どうする事も出来ない。
六軍 : 近衛兵六部隊
宛轉蛾媚馬前死
宛轉蛾媚 : 楊貴妃のこと。当時、蛾の羽のように長く丸く眉を引くのが唐のモードであったそうな。
楊貴妃が馬前で死んだ。
このままで先に進むには、あまりにも簡潔すぎるので、吉川幸次郎、桑原武夫先生が、資治通鑑(中国の歴史書)と揚太眞外伝の記載を、つき合せて述べているので、長くなりますが紹介します。
都門の西50キロの馬嵬(ばかい)の駅に着いたとき、兵士たちは急に反抗の気勢を示した。
「こうなったのは、すべて総理大臣楊国忠の責任だ。そうだ、そうだ。やっちまえ」
揚国忠は馬上で用談していたが、ふいに矢がその鞍を射た。危険を感じて、駅の西門まで逃げたところを、兵士たちに惨殺された。体は八つ裂きにされ、首は駅の門にぶら下げられた。
兵士たちはさらに、姉の韓国夫人、秦国夫人をも血祭りにあげると、ときの声をあげて、皇帝の居所を包囲した。
玄宗は已に71歳であった。しかしさすがに落ち着きを失わず、靴をはき杖をつくと、駅の門のところまで来て、懸命に兵士たちをなだめた。
近衛兵の司令官である陳玄禮が進み出て平伏した。
「この上は、おそれながら、楊貴妃のお命を」
「あれは奥向きの女だ。政治上のことにはなにも責任がない」
「しかし陛下、兵士たちは、楊貴妃の兄☆を殺しました。それに、楊貴妃がおそばにいては不安です」
老皇帝は、駅の門から引き返し、楊貴妃が休息している建物のほうに歩き出したが、ふと、小さな路地があるのを見つけると、その中に入り、杖に寄りかかり、じっと首をかしげて立っていた。兵士たちのデモの声は、一層盛んである。
若い侍従が進み出て言った。
「陛下、国家のためにご決断を」
皇帝は力なく建物の中に入り、しばらくすると楊貴妃と一緒に出てきて、貴妃を北側の街道沿いのくぐり門まで見送り、あとは側近の高力士に付き添わせた。程遠からぬ仏堂、その前にかけられた練絹(ねりぎぬ)が、楊貴妃の命を奪った。齢(よわい)38、玄宗とともにいること、16年であった。
兵士たちの騒ぎは、それでも静まらない。玄宗は楊貴妃の死体を中庭に持ち出させた。司令官陳玄禮が掛け布団をめくり、死体の頭を持ち上げて言った。
「たしかに」
井上靖の楊貴妃伝によれば、高力士が絞め殺した事になっている。
「自分の腕に全部の重みを託されているこの世のものとも思えぬぜいたくな女体が、決して蘇生する事がないように、高力士は何回も念を入れて布片を絞った。……」
☆ 実際は従兄弟
陳鴻の長恨歌伝は実に簡潔である。
「……貴妃を以って天下の怨みを塞がんことを請う。上(しょう)は免(まぬが)れざるを知る。而(しか)れども其の死を見るに忍びず。袂を反し面を掩いて、之を牽きて去らしむ。倉皇展転して、竟(つい)に死に尺組(せきそ)の下に就く」
自ら首を吊ったようにも解釈できるが……。
Jああ、悲惨。
花鈿委地無人収 花鈿(かでん)地に委(い)して人の収(おさ)むる無く
翠翹金雀玉掻頭 翠翹(すいぎょう)金雀(きんじゃく)玉掻頭(ぎょくそうとう)
君王掩面救不得 君王(くんのう)面(おもて)を掩(おお)いて救い得ず
回看血涙相和流 回(かい)リ看(み)れば血涙(けつるい)相(あい)和(わ)して流がる
(解釈等)
私は、楊貴妃が死んで地上に放置されたこの場面になると、今でも感情が昂ぶり、涙を禁じえません。いずれ旅日記に書き込みますが、山口県の楊貴妃の墓を訪ねた時、彼女の像がとても寂しく感じられました。地上の絶対権力者ですら救い得なかったことに対する、複雑な心境が微妙に表情に表れていたからと思いました。
楊貴妃の美しいかんざしの数々が、地上に散らばったまま、誰も収めようとしない。玄宗皇帝も救う事が出来ず顔を掩ってしまった。玄宗の涙と楊貴妃の血と一緒になって流れた。
花鈿 : 花のかんざし
翠翹 : かわせみの羽
金雀 : 金の雀のかんざし
玉掻頭: 玉のかんざし
これから先は、玄宗の寂しい晩年の描写が続きます。彼は楊貴妃が死んだ翌日、帝位を太子に譲りました。太子は有能な人で、辺境に走りウイグル族と協定を結び、援兵を得ました。この情報で各地の官軍も戦意を盛り返し、1年余りで長安を回復しました。安史の乱を完全に平定するまでにはまだまだ時を必要としましたが……。
K蜀の成都へ
黄挨散漫風蕭索 黄挨(こうあい)散漫(さんまん)風蕭索(かぜしょうさく)
雲棧榮紆登剣閣 雲棧(うんさん)榮紆(えいう)剣閣(けんかく)に登る
蛾媚山下少人行 蛾媚山(がびさん)下(か)人の行くこと少(まれ)なり
旌旗無光日色薄 旌旗(せいき)光無く日色(にっしょく)薄し
(解釈等)
馬嵬で一泊した玄宗一行は、四川省の成都を目指して出発した。この大きな盆地に入るためには、難所を通らなければならない。前漢の劉邦が往復した時、三国志の諸葛亮孔明が、魏を攻める為に通った時など、難所であると紹介している。
黄挨散漫風蕭索
黄色い埃が舞い上がり、風はもの寂しく吹いている。
雲棧榮紆登剣閣
雲棧 : 雲の架け橋 榮紆 : くねくねと曲がっている。非常に険しい山道を表現している。
蛾媚山下少人行
蛾媚山は成都の南にある山。成都は昔から栄えた都市で、賑わっていたはずです。ここは、玄宗の胸中の表現と思われる。
旌旗無光日色薄
皇帝の所在を示す旗も、色あせて光無く、太陽の光さえ希薄に見える。
L行宮の寂寥
蜀江水碧蜀山青 蜀江(しょっこう)は水碧(へき)にして蜀山(しょくさん)は青く
聖主朝朝暮暮情 聖主(せいしゅ)朝朝(ちょうちょう)暮暮(ぼぼ)の情(じょう)
行宮見月傷心色 行宮(あんぐう)に月を見れば心傷(いた)ましるの色あり
夜雨聞鈴腸断聲 夜雨(やう)に鈴を聞けば腸(はらわた)断(た)つの声あり
(解釈等)
ここは、行宮での玄宗の寂しさを表現している。
蜀江水碧蜀山青 : 蜀江、蜀山はいずれも蜀(四川省)の山と河。碧は濃い青色。青は草木が地から萌えいずる時の青緑。
聖主朝朝暮暮情 : 聖主(玄宗)は朝な夕なに思うは楊貴妃のことばかり
行宮見月傷心色 : 行宮は仮の皇居。ここで見る月の色は感傷的な色である。楊貴妃がいないから。
夜雨聞鈴腸断聲 : 鈴は駅馬車の鈴の音という。雨の夜に聞こえる鈴の音は、人のはらわたを断ち切るように寂しく聞こえる。吉川先生は、別の言い伝えとして次のように書いている。
鈴の音まで、サン ラン ラン ダン という風に聞こえたという。字に書けば「三郎郎党」、つまり、三郎様落ちぶれましたな、というふうに。玄宗は3男だった。
M長安への道もまた悲し
天旋地轉廻龍馭 天は廻(めぐ)り地は転じて龍馭(りゅうぎょ)を廻(かい)す
到此躊躇不能去 此(ここ)に到りて躊躇(ちゅうちょ)して去ること能(あた)わず
馬嵬坡下泥土中 馬嵬(ばかい)の坡下(はか)泥土(でいど)の中(うち)
不見玉顔空死處 玉顔(ぎょくがん)見ず空しく死せし處(ところ)
君臣相顧盡沾衣 君臣(くんしん)相(あい)顧(かえり)みて盡(ことごとく)衣を沾(うるお)す
東望都門信馬帰 東のかた都門を望み馬に信(まか)せて帰る
(解釈等)
楊貴妃墓
西安の西50〜60キロの馬嵬にある。
楊貴妃の墓の土は塗ると美人になる
と伝えられ、頻繁に盗まれたので煉瓦
造りになった。東西古今、女心は変わらない
天旋地轉廻龍馭 : 天下の情勢が変わり。楊貴妃が死んだ翌日、玄宗は帝位を息子(粛宗)に譲った。
粛宗は行宮(あんぐう)を霊武(西安の西北、万里の長城あたり)におき、ウィグル族と協定して、また官軍もその情報で力を盛り返した。安祿山も息子に殺された事もあり、757年10月、長安を回復した。それで玄宗も長安に戻る事となった。成都には1年2ヶ月の滞在だった。龍馭は皇帝の馬。
余談だが、安祿山の横顔を少し。彼は西域の出身でペルシャ系と聞く。体格は、超デブで腹がひざに着く程だったという。相撲の小錦を連想する。あるとき、玄宗皇帝が「その中にはなにが入っているのか?」と聞いたところ、「ただ、赤心のみ」と答えて玄宗を喜ばせたという。つまり、忠誠心しか入っていない、と答え上手のいえる性格だった。楊貴妃の養子になったり、赤ん坊の着物を着てその真似をして皆を笑わす茶目っ気もあったようだ。死ぬ寸前には、失明寸前となり、全身にできものが出来たという。糖尿病だったのかもしれない。彼の失敗は、洛陽を落としたことで満足して、玄宗たちの追撃を怠った事との説があります。
到此躊躇不能去 : 楊貴妃が死んだ所へ来て去りがたかった。此処とは楊貴妃が死んだ馬嵬のこと。
馬嵬坡下泥土中 : 埋葬も雑だったようで、泥の中にいる。
不見玉顔空死處 : いまや玉のような顔を見ることが出来ない、空しく死んだ所だ。
君臣相顧盡沾衣 : 玄宗も臣達も皆涙で衣をうるおした。
東望都門信馬帰 : 馬を制御する力も無く、馬の歩くに任せて。呆然としていたことの表現。
杜甫の春望 時期を見て杜甫欄に移します
この頃杜甫は、粛宗のもとに駆けつける途中で捕われました。獄中で詠んだ詩です。
国破山河在 国破(やぶ)れて山河(さんが)在り
城春草木深 城春にして草木(そうもく)深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連(つら)なり
家書万金抵 家書(かしょ)万金(ばんきん)に抵(あ)たる
白頭掻更短 白頭(はくとう)掻(か)けば更に短く
渾欲不勝簪 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
(解釈等)
国破山河在 : 破れては敗れてではない。安史の乱のために国家の組織がぼろぼろに破れたこと。
それでも、山河は変わらずに残っている。
城春草木深 : 城には春が訪れたが、荒れ放題の草木は深々と繁っている。
感時花濺涙 : 戦乱の時には花を見ても涙が出る。
恨別鳥驚心 : 家族との別れを恨んでは、鳥にも心が痛む
この2句を花が涙を流したり、鳥が心を驚かす、と花鳥を主語としている本を見たことがありますが、私は杜甫自身だと思います。
烽火連三月 : 烽火はのろし。
家書万金抵 : 家書は家族からの手紙。
白頭掻更短渾欲不勝簪 : 心労の為、白髪頭を掻けば掻くほど抜け落ちて短くなり、冠を止める為のピンにも耐えられないほどだ。簪は@かんざし A冠を頭に止めておく為に髪にさす道具。
Nは帰りきた長安も寂しい
帰来池苑皆依旧 帰り来たれば池苑(ちえん)皆旧による
太液芙蓉未央柳 太液(たいえき)の芙蓉(ふよう)未央(びおう)の柳
芙蓉如面柳如眉 芙蓉は面(おもて)の如く柳は眉の如し
對此如何不涙垂 此れに対し如何(いかん)ぞ涙垂れざらん
(解釈等)
756年に都落ち、長安に帰ったのが757年10月。往復の日数を差し引き、成都にいたのは1年2カ月でした。帰ってみれば、いるべき楊貴妃を除き、みな昔のままである。池の芙蓉は彼女の顔にも見え、宮殿の柳は眉のように見える。此れに対してどうして涙せずにいられようか。
太液 : 池の名前
未央 : 宮殿の名前
芙蓉 : 蓮
Oは惜しみない白楽天の感傷表現
春風桃李花開日 春風(しゅんぷう)桃李(とうり) 花開く日
秋雨梧桐葉落時 秋雨(しゅうう)梧桐(ごどう) 葉落つる時
西宮南台多秋草 西宮(せいきゅう)南台(なんだい) 秋草(しゅうそう)多し
落葉満階紅不掃 落葉(らくよう)階(きざはし)に満ちて 紅(くれない)掃(はら)わず
(解釈等)
春風桃李花開日 : 季節が巡って春風にスモモの花が咲く日でも
秋雨梧桐葉落時 : 秋雨に打たれてアオギリの葉が落ちる時でも 楊貴妃のことが思われる。
西宮南台多秋草 : 奥深い西宮も、南台も秋草が生い茂っている。
落葉満階紅不掃 : 階段に落ち葉が積もっても誰も掃除に来てくれない

興慶宮
観光案内から
彼は、長安に戻ってからは南台(興慶宮)住まいでした。しかしここは、市街地に近く、市民達が玄宗を見ると万歳を叫ぶ。玄宗は喜んで菓子を与える。これが現皇帝の側近達には面白くない。そこで、玄宗の側近達を流刑にして、玄宗を体よく宮殿の奥深い西宮に幽閉した。別な本は玄宗が復帝するのではないかと怖れて前述の処置をした、とあった。権謀術数が渦巻く宮廷のこと、どれが本当やら。
従って、この4句は、楊貴妃を思い、また側近達まで取り上げられた玄宗の一人ぼっちの寂しさがにじんでいる。
宮廷事情 : 権謀術数渦巻く……。当時この方面で有名な宰相がいたので少し触れる事とします。
名前は李林甫(りりんぽ)。彼は、「口に蜜あり、腹に剣あり」といわれた人です。
中国では宰相は2人いました。あるとき彼はもう1人の宰相Aに、「こういう案件があるよ」と耳打ちしました。これを聞いた宰相Aは、喜んで早速玄宗皇帝に報告しました。玄宗は李林甫に諮りました。李林甫答えて曰く「その案件は承知しております。ただ、未確定要素があり陛下に報告するのを差し控えておりました」 それで宰相Aは失脚です。彼は、宰相Aが十分な調査をせずに陛下に報告するのが読み筋だったのです。
自分の保身を図るには、自分より有能な同僚は引きずり落とす。有能な部下は昇格させない。暗愚な皇子を太子(皇位継承者)に立てる運動をする。そして政権を我が物にする。こんな事はしょっちゅうあったようです。文明文化が発達しても、心は旧態依然で変わらない。
Pああ、寂しいなあ
梨園弟子白髪新 梨園(りえん)の弟子(ていし) 白髪(はくはつ)新(あら)たに
椒房阿監青蛾老 椒房(しょうぼう)の阿監(あかん) 青蛾(せいが)老いたり
夕殿螢飛思悄然 夕殿(せきでん)螢飛んで 思い悄然(しょうぜん)
孤灯挑盡未成眠 孤灯(ことう)挑(かか)げ盡(つ)くして 未(いま)だ眠りをなさず
(解釈等)
梨園弟子白髪新
梨園 : 今でも使われている言葉です。玄宗皇帝が梨の木が植えてある庭園で、自ら俳優を指導したという故事から生まれた。音楽舞踊学校、宝塚音楽学校を思い起こします。
弟子(ていし) : 生徒。
生徒たちにも白髪が新しく見える。
揚太眞外伝に次の挿話があるそうです。
玄宗が西宮に軟禁される前、南台興慶宮にいた頃のある月夜、2階の闌干にもたれて歌をうたっていた。……庭前のh樹(きじゅ)はすでによずるに耐えざるに、塞外(さいがい)の征人(いくさびと)は未だ帰らず……。どこからか歌声が起こり、玄宗の歌に唱和した。側近の高力士に探らせたところ、はたしてかっての梨園の弟子達であった。泣かせますね。
椒房阿監青蛾老
後宮の監督女官も老いてしまった。
椒房 : 皇后のいる部屋。漢の時代に皇后の部屋の壁に山椒の実を埋め込んだことからできた言葉。何か意味があったと思う。
阿監 : この場合女官たちの監督者。
青蛾 : 楊貴妃が死ぬ場面で、「蛾媚」と言う言葉が出てきました。眉の意味です。当時の比喩には蛾が出てきます。今の女性に「青い蛾のように美しいですね」なんて言ったら、ただでは済みませんぞ。危険予知で少し離れて言わないと大変だ。例えも時代とともに変わります。
夕殿螢飛思悄然
夜の御殿に螢が飛んで……。玄宗がしょんぼりしている姿が目に浮かびます。私の好きな表現です。
孤灯挑盡未成眠
たった一つの灯り。かっては昼のように明るかった彼の周囲は、いまは一つの灯りしか与えられていない。その燈芯をあげ尽くしても(時間の経過をうまく表現しています)、楊貴妃を思い眠れない。
Q寂しすぎる玄宗
遅遅鐘鼓初長夜 遅遅(ちち)たる鐘鼓(しょうこ) 初めて長き夜
耿耿星河欲曙天 耿耿(こうこう)たる星河(せいが) 曙(あ)けなんと欲するの天
鴛鴦瓦冷霜華重 鴛鴦(えんおう)の瓦(かわら)冷ややかにして 霜華(そうか)重く
翡翠衾寒誰與共 翡翠(ひすい)の衾(ふすま)寒くして 誰と共にかせん
(解釈等)
遅遅鐘鼓初長夜
2種類の解釈を見ました。@鐘がゆっくり鳴る A時を告げる鐘と次の時を告げる鐘の間隔が長い
私はAに賛成です。
耿耿星河欲曙天
きらきら輝いていた星河もいつしか消えかかり、夜が明けようとしている。つまり、眠れないまま夜が明けてしまった。
鴛鴦瓦冷霜華重
鴛鴦(えんおう)はおしどり。仲のよいことで知られる。おしどりをかたどった瓦も、霜が落ちて重く感じられ。ここでオシドリを出したのは、玄宗と楊貴妃になぞらいたのでしょう。楊貴妃がいないのでよけいに寒々とした寂しさを強調した表現と思う。
翡翠衾寒誰與共
翡翠(ひすい)はかわせみ。ここでも2種類の解釈を見ました。@かわせみの羽を縫いつけた掛け布団。Aかわせみの刺繍をした掛け布団。私はスマートにAでいきます。いずれにしても、楊貴妃がいないので一人寝は寒々として寂しい。楊貴妃がいないから、誰かかわりがいないか、ということではありません。
衾は布団。今でも使われています。同衾(どうきん)と言う単語で。
Rいよいよフィクションの世界に
悠々生死別経年 悠々(ゆうゆう)たる生死 別れて年を経(へ)たり
魂魄不曾來入夢 魂魄(こんぱく) 曾(かつ)て来たりて夢に入(い)らず
(解釈等)
これまでは、伝聞や記録等の描写でした。これからはフィクションの世界に入ります。今日はイントロです。
日本でも、巫女(みこ)に亡くなった人の霊が乗り移り、話をする、というのが各地にあるようです。この詩絵巻では、死後の世界に楊貴妃を訪ね、話をし、そして記念品を持ち帰るというものです。恐ろしいものではなく、美しい描写ですから安心して読みつづけてください。
昔は、夢の中に魂が入り込んで姿を見せる、と信じられていました。いまでも、人が死んで夢に現れると、ああ、あの人は別れの挨拶に来たんだと、いう人が結構いますね。
ここでは、死んだ楊貴妃は一度も夢の中で訪ねてきてくれない、という玄宗の嘆きをうたっています。
S 修験者が楊貴妃を探しに
臨叩道士鴻都客 臨叩(りんこう)の道士(どうし) 鴻都客(こうとかく)
能以精誠致魂魄 能(よ)く精誠(せいせい)を以って 魂魄(こんぱく)を致す
為感君王展輾思 君王(くんのう)展輾(てんてん)の思いに感ずるがために
遂教方士慇懃覓 遂に方士(ほうし)をして慇懃(いんぎん)に覓(もと)めしむ
(解釈等)
臨叩道士鴻都客
臨叩道士 : 四川省臨叩の修験者。
鴻都客 : 修験者の名前。 2通りの解釈を見ました。そして、読みも鴻都の客(きゃく)でした。@修験者が集まっていた場所。 A天上の世界。私はどちらもとらず、修験者の名前としました。
能以精誠致魂魄
誠心誠意魂魄を招き寄せる。込め凝らした精神力で魂魄を招き寄せる。
為感君王展輾思
展輾の思い : 寝返りばかり打って楊貴妃を思う君王すなわち玄宗皇帝。
遂教方士慇懃覓
弟子の方士に丁寧に探させることにした。
方士 : 修験者。今昔物語に「蓬莱に行く人也」とあるそうです(広辞苑)。蓬莱は死後の楊貴妃がいるところです。
21は楊貴妃はいずこ?
排雲馭気奔如電 雲を排し 気を馭(ぎょ)して 奔(はし)ること電(いなづま)の如し
升天入地求之遍 天に升(のぼ)り 地に入りて 之を求めること遍(あまね)し
上窮碧落下黄泉 上(かみ)は 碧落(へきらく)を窮(きわ)め 下(しも)は黄泉(こうせん)
両處茫茫皆不見 両處(りょうしょ)茫茫(ぼうぼう)として 皆見えず
忽聞海上有仙山 忽(たちま)ち聞く 海上に仙山あり
山在虚無縹渺間 山は虚無縹渺(きょむひょうびょう)の間(かん)に在りと
(解釈等)
排雲馭気奔如電
行者は、雲を排し大気をも操って探し回る速さは稲妻のようであった。電を「でん」と読ませている本もあります。
変な余談を : 昔稲妻を稲夫と書いたことがあった。イナヅマと稲は夫婦という。つまり、夫(イナヅマ)が降りてきて、子供(米)ができるという理屈です。ずいぶんと豪快で騒がしい夫婦があったものです。(^−^)
升天入地求之遍
天も地も総て探し求めた。
上窮碧落下黄泉
上は大空の果て、地下はあの世までも探し求めた。
黄泉 : あの世
両處茫茫皆不見
天も地も茫茫として何も見えなかった。茫茫は果てしなく広いようす。
忽聞海上有仙山
ふと、海上に仙人の住む山があることを耳にした。忽ちはこの場合、ふと、の意。
山在虚無縹渺間
虚無 : 見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえず
縹渺 : かすかではっきりしない。
そして、その仙山はそのような處にあるらしい。
22、楊貴妃は間違いなくここにいる
樓閣玲瓏五雲起 樓閣(ろうかく)玲瓏(れいろう)として五雲起こり
其中綽約多仙子 其の中に綽約(しゃくやく)として仙子(せんし)多し
中有一人字太眞 中に一人(いちにん)あり 字(あざな)は太眞(たいしん)
雪膚花貌参差是 雪膚(せっぷ)花貌(かぼう) 参差(しんし)として是(これ)なり
(解釈等)
樓閣玲瓏五雲起
仙人の住む高殿は、麗しく光り輝き、五色の雲がたなびいている。
樓閣 : 仙人の住む高層建築。というと詩情がなくなるので、高殿
玲瓏 : 麗しく照り輝き
五雲起 : 五色の雲がたなびいて。五雲とは青・赤・黄・白・黒の5色をいう。しかし、黒色はつや消しである。正確に五色ではなく、美しさの形容である。
其中綽約多仙子
其の中には、あでやかな仙子が多い
仙子 : 仙は人と山を合わせて、社会を逃れて山の中に入った人。さらに、不老不死の術を修め神通力を得た人、と漢和辞典にある。前後の文脈から、ここでは仙女と解釈するのが適当かもしれない。
中有一人字太眞
中の1人は太眞と名のっている。
字 : 本名以外の呼び名。楊貴妃は、玄宗皇帝のもとに上がる前、夫と離婚して出家させられた。そのときの道教の呼び名が「太眞」であった。
雪膚花貌参差是
雪のように白い膚、花のように美しい顔かたち、まさにこの人が楊貴妃だ。雪の膚(はだえ)花の顔(かんばせ)と読む本も見かけました。私はこちらの表現も好きです。
参差 : 辞書どうりだと、不揃い、となる。これでは意味がとおらない。まさに、てっきりと解釈。
23、やっとたどり着いた
金闕西廂叩玉けい 金闕(きんけつ)西廂(せいそう)玉けいを叩き
転教小玉報雙成 転じて小玉(しょうぎょく)をして雙成(そうせい)に報ぜしむ
聞道漢家天子使 聞くならく 漢家(かんけ)天子の使いなりと
九華帳裏夢魂驚 九華(きゅうか)の帳裏(ちょうり)夢魂(むこん)驚く
(解釈等)
白楽天の友人で、詩人の陳鴻が書いた長恨歌伝に、次の描写がある。
修験者のおとないに応じて、初めに出てきたのは2人の女の子であり、それは何もいわずに引っ込んでしまった。
しばらくすると、碧衣の腰元が出てきて、「どこから来たのか」、と訪ねた。「漢の天子の使いである」と言い、来意を告げると、「玉妃はまさに寝ぬ。請う少し之を待て」と言って、中へ入っていった。
修験者は、洞窟の戸の前でじっと佇んでいた。時に雲海沈沈として、洞天は日暮れが迫り、玉の戸は重なり閉じて、悄然として何の声もなかったが、息をひそめ、足を整え、手をこまねきつつ、じっとそこで待っていた。
前2句の状況は、長恨歌伝が実にわかりやすく描写している。
金闕西廂叩玉けい
宮殿の西の廂の下の玉の戸を叩いた
けい:漢字に変換できず。かんぬきとか、戸の意味
転教小玉報雙成
この句は分かりにくい。漢の武帝の頃の話に出てくる名前だそうである。
最初に出てきた女の子は、雙成という腰元に報告した。
聞道漢家天子使
楊貴妃が目覚めるのを待って、腰元は漢の天子の使いが来た、と報告した。
九華帳裏夢魂驚
それを聞いて、豪華なカーテンの中で休んでいた楊貴妃は驚いた。
24 寝起きに身なりも整えずに
攬衣推枕起徘徊 衣(ころも)を攬(と)り 枕を推して 起(た)ちて徘徊(はいかい)す
珠箔銀鉤いり開 珠箔(しゅはく)銀鉤(ぎんこう)いりとして開く
雲髻半偏新眠覚 雲髻(うんけい)半(なか)ば偏(かたよ)りて 新たに眠りより覚め
花冠不整下堂來 花冠(かかん)整えず 堂より下りて来(きた)る
(解釈等)
寝込みを襲われたように、どう対処するのか。意識がはっきりしてきて、身なりをも整えずに、慌てて出てくる様子がリアルに描かれています。
「さあ、その使者に会いましょう」
攬衣推枕起徘徊
衣はツーピースの上。裳はスカート。
珠箔銀鉤いり開
真珠のすだれと銀の掛け金が開く様子。いりのいは、しんにょうに施の偏の部分。りは、しんにょうに麗。単語登録できず。
雲髻半偏新眠覚
とにかく眠りより覚めたばかりだから、雲なすまげも片方にかたよって
花冠不整下堂來
花の冠も整えぬままに、堂から下りてきた。
25 楊貴妃久しぶり。でも、寂しそう
風吹仙袂飄よう擧 風は仙袂(せんべい)を吹いて 飄(ひょう)ようとして挙(あが)り
猶似霓裳羽衣舞 猶(なお)霓裳羽衣(げいしょううい)の舞に似たり
玉容寂寞涙闌干 玉容(ぎょくよう)寂寞(せきばく)涙(なみだ)闌干(らんかん)
梨花一枝春帯雨 梨花(りか)一枝(いっし)春 雨を帯(お)ぶ
(解釈等)
風吹仙袂瓢よう擧
急いで下りて来るため、その袂は風にひるがえって挙り
仙袂 : 仙人の袂
瓢よう: ひるがえって。ようは単語登録できず。
猶似霓裳羽衣舞
さながら、かっての霓裳羽衣の舞を舞っているよう。
霓裳羽衣 : 玄宗皇帝が作曲した。
玉容寂寞涙闌干
玉のような美しい顔はとても寂しそうで、涙はとめどなく流れ
闌干 : とめどなく流れるさま
梨花一枝春帯雨
ちょうど、春の雨に濡れそぼった梨の花の一枝のように
このあたりの表現には、とても素晴らしく感じ入ります。
26 楊貴妃は語る
含情凝眸謝君王 情を含み 眸(ひとみ)を凝(こ)らして 君王(くんのう)に謝(しゃ)す
一別音容両渺茫 一別(いちべつ)音容(おんよう) 両(ふた)つながら渺茫(びょうぼう)
昭陽殿裏恩愛絶 昭陽殿裏(しょうようでんり) 恩愛(おんあい)絶え
蓬莱宮中日月長 蓬莱(ほうらい)宮中 日月(にちげつ)長し
回頭下望人寰處 頭(こうべ)を回(めぐ)らして 下(しも)人寰(じんかん)の處(ところ)を望めば
不見長安見塵霧 長安(ちょうあん)を見ず 塵霧(じんむ)を見る
(解釈等)
ここは、楊貴妃が使者に語している部分です。内容を見る限り、死を賜った恨みは感じられません。
含情凝眸謝君王
思いを込め、じっと見つめて君王に感謝した。陛下はお元気ですか、くらいは尋ねたでしょう。
ある本には、流し目で見て、とありましたが、私はじっと見つめて、とします。
一別音容両渺茫
一別以来、陛下のお声もお姿も、両方とも渺茫とした所に隔てられてしまいました。
音 : 声
容 : 姿
昭陽殿裏恩愛絶
昭陽殿での愛情が絶えて
昭陽殿 : 長安の宮殿
蓬莱宮中日月長
ここ蓬莱宮での日月は、長く思われます。
蓬莱宮 : 楊貴妃がいる死後の世界の宮殿。
回頭下望人寰處
頭を回らして、人間のいる所を見ても
不見長安見塵霧
陛下のいらっしゃる長安は見えず、ただ塵霧が見えるだけです。
27.陛下へ変わらぬ愛の確認
唯将旧物表深情 唯(ただ)旧物(きゅうぶつ)を将(も)って深情(しんじょう)を表す
鈿合金釵寄将去 鈿合(でんごう)金釵(きんさい)寄(よ)せ将(も)ちて去らしむ
釵留一股合一扇 釵(さい)は一股(いっこ)を留め合(ごう)は一扇(いっせん)
釵サキ黄金合分鈿 釵は黄金を裂き合は鈿(でん)を分かつ
但教心似金鈿堅 但(ただ)心を教(し)て金鈿(きんでん)の堅きに似せしめれば
天上人間會相見 天上(てんじょう)人間(じんかん)會(かな)らず相(あい)見ん
(解釈等)
唯将旧物表深情
旧物 : 古いもの、昔陛下からいただいたもの
昔いただいた物で、陛下への深い思いを表します。
鈿合金釵寄将去
鈿合 : 螺鈿(らでん)細工。合は箱。螺鈿細工の箱。
金釵 : 釵はかんざし。金のかんざし。
鈿合金釵を持って帰ってください。
釵留一股合一扇
かんざしは、二股のうち片方を残し、箱も箱の下とふたのどちらかを残します
扇は漢和辞典によると、「戸」と「羽」から成り立っています。それを合わせて鳥の羽のように左右に自由に開く戸とあります。
釵サキ黄金合分鈿
そう言って、二股のかんざしを裂き、箱も身とふたに分けた。サキは単語登録ができませんでした。
但教心似金鈿堅
お互いの心が、この黄金のかんざしや、螺鈿の箱のように堅く結ばれていれば
天上人間會相見
天上か人間社会で必ずお会いするひがあるでしょう。
長恨歌伝に、「復た下界に堕ち、且つ後園縁を結ばん。・後述の誓いがあるために私はもう一度人間社会に落ちなければならない」とあります。
28. 二人の愛の誓いの言葉・・・今も使われている。
臨別殷謹重寄詞 別れに臨んで殷謹(いんぎん)に詞(ことば)を寄す
詞中有誓両心知 詞中(しちゅう)誓あり両心のみ知る
七月七日長生殿 七月七日(しちがつなのか)長生殿(ちょうせいでん)
夜半無人私語時 夜半(やはん)人無く私語(しご)の時
在天願作比翼鳥 天に在りては願わくは比翼(ひよく)の鳥と作(な)り
在地願為連理枝 地に在りては願わくは連理(れんり)の枝と為(な)らん
(解釈等)
「比翼連理(ひよくれんり)」として結婚式で今でも使われる言葉が出てきました。
臨別殷謹重寄詞
別れに臨んでさらに丁寧に言葉を付け加えた。
長恨歌伝だと思いますが、修験者は、
「この2つのものを持ち帰っても、たしかに楊貴妃に会ったと、陛下が認めるかどうか分からない。二人しか知らない証拠を」
楊貴妃は、しばらく考えて後
「次のことを陛下に申し上げるがよい」
と言ったそうです。
詞中有誓両心知
その詞(ことば)には、玄宗皇帝と楊貴妃しか知らない誓いの言葉がありました。
両心 : 玄宗と楊貴妃
七月七日長生殿
七月七日、たなばたの夜、私たちは長生殿ですごしました。
夜半無人私語時
お付きの女官も警護の近衛兵も去らしめ、二人だけになった夜半の頃、私たちは次のように誓いました。
在天願作比翼鳥
大空にあっては、比翼の鳥となりましょう。
比翼の鳥 : 翼がくっつきあった雄雌2羽の鳥。
在地願為連理枝
地上にあっては、連理の枝になりましょう。
連理の枝 : 枝がくっつきあった2本の木。
29 完結
天長地久有時盡 天は長く地は久しく 時ありて盡(つ)きなんも
此恨綿綿無盡期 此の恨み綿綿(めんめん)として盡きる期(とき)無からん
(解釈等)
天長地久有時盡
天は長く地は久しく いつかは尽きるときがあるでしょうが
此恨綿綿無盡期
此の恨みは綿綿として 盡きる時が無いでしょう。
此の恨みとは何をさすのか。よく分かりにくいという本があります。私は、愛し合う玄宗皇帝と楊貴妃が、天と地に別れ別れになったことへの恨み、と単純に解釈します。
以上で、1句7字、120句、840字の長恨歌を終了します。
白楽天が35歳でこの詞を作って間もなく、歌姫が「私は白学士(白楽天のこと)の長恨歌の全部を覚えていますから、他の人と同じご祝儀では、お座敷に伺いかねます」という状況だったことが、白楽天の手紙に残っているそうです。
彼は、李白、杜甫の先輩詩人が政治的に不遇だったのとは異なり、若くして国家試験に合格して、最後は今の法務大臣にまで上り詰めたそうです。
わが国では平安期に、菅原道真、紫式部、清少納言が彼の愛読者、さらに以後の日本文学に大きな影響があったと聞いています。
全文の詩と読み
漢皇重色思傾国 漢皇(かんこう)色を重んじて傾国(けいこく)を思う
御宇多年求不得 御宇(ぎょう)多年求むれども得ず
揚家有女初長成 揚家(ようけ)に女(むすめ)有り 初めて長成(ちょうせい)す
養在深閨人未識 養われて深閨(しんけい)に在り 人未(いま)だ識(し)らず
天性麗質難自棄 天性の麗質(れいしつ)自(おの)ずから棄て難し
一朝選在君王側 一朝(いっちょう)選ばれて君王(くんのう)の側(かたわら)にあり
回眸一笑百媚生 眸(ひとみ)を回(めぐ)らして一笑すれば百媚(ひゃくび)生じ
六宮粉黛無顔色 六宮(りくきゅう)の粉黛(ふんたい)顔色(がんしょく)無し
春寒賜浴華清池 春寒うして浴(よく)を賜う華清(かせい)の池(ち)
温泉水滑洗凝脂 温泉水滑らかにして 凝脂(ぎょうし)を洗う
侍兒扶起嬌無力 侍兒(じじ)扶(たす)け起こすに嬌(きょう)として力無し
始是新承恩澤時 始めて是れ新たに恩澤(おんたく)を承(う)くるの時
雲鬢花顔金歩搖 雲鬢(うんぴん)花顔(かがん)金歩搖(きんぽよう)
芙蓉帳暖度春宵 芙蓉(ふよう)の帳(とばり)暖(あたたか)にして春宵(しゅんしょう)度(わた)る
春宵苦短日高起 春宵(しゅんしょう)短きを苦しんで日高くして起き
従是君王不早朝 是より君王(くんのう)早朝せず
承歓侍宴無間暇 歓を承(う)け宴(えん)に侍(じ)して間暇(かんか)なく
春従春遊夜專夜 春は春の遊びに従い 夜は夜を専(もっぱら)らにす
後宮華麗三千人 後宮(こうきゅう)の華麗(かれい)三千人
三千寵愛在一身 三千の寵愛(ちょうあい)一身にあり
金屋粧成嬌侍夜 金屋(きんおく)粧(よそおい)成りて嬌(きょう)として夜に侍し
玉楼宴罷酔和春 玉楼(ぎょくろう)宴(えん)罷(や)んで酔うて春に和す
姉妹弟兄皆列土 姉妹弟兄(しまいていけい)皆土(ど)に列す
可憐光彩生門戸 憐(あわれ)むべし光彩(こうさい)門戸(もんこ)に生ずるを
遂令天下父母心 遂に天下の父母の心をして
不重生男重生女 男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ
驪宮高處入青雲 驪宮(りきゅう)高き處(ところ)青雲に入り
仙樂風飄處處聞 仙樂(せんがく)風に飄(ひるが)えって處處(しょしょ)に聞(きこ)ゆ
緩歌謾舞凝絲竹 緩歌謾舞(かんかまんぶ)絲竹(しちく)を凝(こ)らし
盡日君王看不足 盡日(じんじつ)君王(くんのう)看れども足らず
漁陽へい鼓動地来 漁陽(ぎょよう)のへい鼓(へいこ)地を動かして来(きた)る
驚破霓裳羽衣曲 驚破(きょうは)す霓裳(げいしょう)羽衣(うい)の曲
九重城闕煙塵生 九重(きゅうちょう)の城闕(じょうけつ)煙塵(えんじん)生じ
千乗万騎西南行 千乗萬騎(せんじょうばんき)西南に行く
翆華搖搖行復止 翆華(すいか)搖搖(ようよう)として行きて復(ま)た止(とど)まる
西出都門百餘里 西の方(かた)都門(ともん)を出(い)ずること百餘里(ひゃくより)
六軍不發無奈何 六軍(りくぐん)發(はっ)せず奈何(いかん)ともする無く
宛轉蛾媚馬前死 宛轉(えんてん)たる蛾媚(がび)馬前(ばぜん)に死す
花鈿委地無人収 花鈿(かでん)地に委(い)して人の収(おさ)むる無く
翠翹金雀玉掻頭 翠翹(すいぎょう)金雀(きんじゃく)玉掻頭(ぎょくそうとう)
君王掩面救不得 君王(くんのう)面(おもて)を掩(おお)いて救い得ず
回看血涙相和流 回(かい)リ看(み)れば血涙(けつるい)相(あい)和(わ)して流がる
黄挨散漫風蕭索 黄挨(こうあい)散漫(さんまん)風蕭索(かぜしょうさく)
雲棧榮紆登剣閣 雲棧(うんさん)榮紆(えいう)剣閣(けんかく)に登る
蛾媚山下少人行 蛾媚山(がびさん)下(か)人の行くこと少(まれ)なり
旌旗無光日色薄 旌旗(せいき)光無く日色(にっしょく)薄し
蜀江水碧蜀山青 蜀江(しょっこう)は水碧(へき)にして蜀山(しょくさん)は青く
聖主朝朝暮暮情 聖主(せいしゅ)朝朝(ちょうちょう)暮暮(ぼぼ)の情(じょう)
行宮見月傷心色 行宮(あんぐう)に月を見れば心傷(いた)ましるの色あり
夜雨聞鈴腸断聲 夜雨(やう)に鈴を聞けば腸(はらわた)断(た)つの声あり
天旋地轉廻龍馭 天は廻(めぐ)り地は転じて龍馭(りゅうぎょ)を廻(かい)す
到此躊躇不能去 此(ここ)に到りて躊躇(ちゅうちょ)して去ること能(あた)わず
馬嵬坡下泥土中 馬嵬(ばかい)の坡下(はか)泥土(でいど)の中(うち)
不見玉顔空死處 玉顔(ぎょくがん)見ず空しく死せし處(ところ)
君臣相顧盡沾衣 君臣(くんしん)相(あい)顧(かえり)みて盡(ことごとく)衣を沾(うるお)す
東望都門信馬帰 東のかた都門を望み馬に信(まか)せて帰る
帰来池苑皆依旧 帰り来たれば池苑(ちえん)皆旧による
太液芙蓉未央柳 太液(たいえき)の芙蓉(ふよう)未央(びおう)の柳
芙蓉如面柳如眉 芙蓉は面(おもて)の如く柳は眉の如し
對此如何不涙垂 此れに対し如何(いかん)ぞ涙垂れざらん
春風桃李花開日 春風(しゅんぷう)桃李(とうり) 花開く日
秋雨梧桐葉落時 秋雨(しゅうう)梧桐(ごどう) 葉落つる時
西宮南台多秋草 西宮(せいきゅう)南台(なんだい) 秋草(しゅうそう)多し
落葉満階紅不掃 落葉(らくよう)階(きざはし)に満ちて 紅(くれない)掃(はら)わず
梨園弟子白髪新 梨園(りえん)の弟子(ていし) 白髪(白髪)新(あら)たに
椒房阿監青蛾老 椒房(しょうぼう)の阿監(あかん) 青蛾(せいが)老いたり
夕殿螢飛思悄然 夕殿(せきでん)螢飛んで 思い悄然(しょうぜん)
孤灯挑盡未成眠 孤灯(ことう)挑(かか)げ盡(つ)くして 未(いま)だ眠りをなさず
遅遅鐘鼓初長夜 遅遅(ちち)たる鐘鼓(しょうこ) 初めて長き夜
耿耿星河欲曙天 耿耿(こうこう)たる星河(せいが) 曙(あ)けなんと欲するの天
鴛鴦瓦冷霜華重 鴛鴦(えんおう)の瓦(かわら)冷ややかにして 霜華(そうか)重く
翡翠衾寒誰與共 翡翠(ひすい)の衾(ふすま)寒くして 誰と共にかせん
悠々生死別経年 悠々(ゆうゆう)たる生死 別れて年を経(へ)たり
魂魄不曾來入夢 魂魄(こんぱく) 曾(かつ)て来たりて夢に入(い)らず
臨叩道士鴻都客 臨叩(りんこう)の道士(どうし) 鴻都客(こうとかく)
能以精誠致魂魄 能(よ)く精誠(せいせい)を以って 魂魄(こんぱく)を致す
為感君王展輾思 君王(くんのう)展輾(てんてん)の思いに感ずるがために
遂教方士慇懃覓 遂に方士(ほうし)をして慇懃(いんぎん)に覓(もと)めしむ
排雲馭気奔如電 雲を排し 気を馭(ぎょ)して 奔(はし)ること電(いなづま)の如し
升天入地求之遍 天に升(のぼ)り 地に入りて 之を求めること遍(あまね)し
上窮碧落下黄泉 上(かみ)は 碧落(へきらく)を窮(きわ)め 下(しも)は黄泉(こうせん)
両處茫茫皆不見 両處(りょうしょ)茫茫(ぼうぼう)として 皆見えず
忽聞海上有仙山 忽(たちま)ち聞く 海上に仙山あり
山在虚無縹渺間 山は虚無縹渺(きょむひょうびょう)の間(かん)に在りと
樓閣玲瓏五雲起 樓閣(ろうかく)玲瓏(れいろう)として五雲起こり
其中綽約多仙子 其の中に綽約(しゃくやく)として仙子(せんし)多し
中有一人字太眞 中に一人(いちにん)あり 字(あざな)は太眞(たいしん)
雪膚花貌参差是 雪膚(せっぷ)花貌(かぼう) 参差(しんし)として是(これ)なり
金闕西廂叩玉けい 金闕(きんけつ)西廂(せいそう)玉けいを叩き
転教小玉報雙成 転じて小玉(しょうぎょく)をして雙成(そうせい)に報ぜしむ
聞道漢家天子使 聞くならく 漢家(かんけ)天子の使いなりと
九華帳裏夢魂驚 九華(きゅうか)の帳裏(ちょうり)夢魂(むこん)驚く
攬衣推枕起徘徊 衣(ころも)を攬(と)り 枕を推して 起(た)ちて徘徊(はいかい)す
珠箔銀鉤いり開 珠箔(しゅはく)銀鉤(ぎんこう)いりとして開く
雲髻半偏新眠覚 雲髻(うんけい)半(なか)ば偏(かたよ)りて 新たに眠りより覚め
花冠不整下堂來 花冠(かかん)整えず 堂より下りて来(きた)る
風吹仙袂飄よう擧 風は仙袂(せんべい)を吹いて 飄(ひょう)ようとして挙(あが)り
猶似霓裳羽衣舞 猶(なお)霓裳羽衣(げいしょううい)の舞に似たり
玉容寂寞涙闌干 玉容(ぎょくよう)寂寞(せきばく)涙(なみだ)闌干(らんかん)
梨花一枝春帯雨 梨花(りか)一枝(いっし)春 雨を帯(お)ぶ
含情凝眸謝君王 情を含み 眸(ひとみ)を凝(こ)らして 君王(くんのう)に謝(しゃ)す
一別音容両渺茫 一別(いちべつ)音容(おんよう) 両(ふた)つながら渺茫(びょうぼう)
昭陽殿裏恩愛絶 昭陽殿裏(しょうようでんり) 恩愛(おんあい)絶え
蓬莱宮中日月長 蓬莱(ほうらい)宮中 日月(にちげつ)長し
回頭下望人寰處 頭(こうべ)を回(めぐ)らして 下(しも)人寰(じんかん)の處(ところ)を望めば
不見長安見塵霧 長安(ちょうあん)を見ず 塵霧(じんむ)を見る
唯将旧物表深情 唯(ただ)旧物(きゅうぶつ)を将(も)って深情(しんじょう)を表す
鈿合金釵寄将去 鈿合(でんごう)金釵(きんさい)寄(よ)せ将(も)ちて去らしむ
釵留一股合一扇 釵(さい)は一股(いっこ)を留め合(ごう)は一扇(いっせん)
釵サキ黄金合分鈿 釵は黄金を裂き合は鈿(でん)を分かつ
但教心似金鈿堅 但(ただ)心を教(し)て金鈿(きんでん)の堅きに似せしめれば
天上人間會相見 天上(てんじょう)人間(じんかん)會(かな)らず相(あい)見ん
臨別殷謹重寄詞 別れに臨んで殷謹(いんぎん)に詞(ことば)を寄す
詞中有誓両心知 詞中(しちゅう)誓あり両心のみ知る
七月七日長生殿 七月七日(しちがつなのか)長生殿(ちょうせいでん)
夜半無人私語時 夜半(やはん)人無く私語(しご)の時
在天願作比翼鳥 天に在りては願わくは比翼(ひよく)の鳥と作(な)り
在地願為連理枝 地に在りては願わくは連理(れんり)の枝と為(な)らん
天長地久有時盡 天は長く地は久しく 時ありて盡(つ)きなんも
此恨綿綿無盡期 此の恨み綿綿(めんめん)として盡きる期(とき)無からん
完
6.頼山陽(1780〜1833)
はじめに
頼山陽といえば、詩吟の「鞭声粛粛夜渡河♪」を思い起こす人が結構いると思う。
では、彼はどのような人間だったのだろうか。
彼は、広島藩浅野家の儒学の教授の長男として生まれた。母も大坂の儒医の娘であり、いわゆる知識階層である。
幼少よりの英才教育もあり、5歳にして四書五経の大学の素読をしたという。
惜しむらくは、彼には持病があった。今のソウウツである。是が周囲に大きな影響を与えた。
7歳で発病、13歳で再発。父親は江戸勤番。家庭は母子家庭のようなものだった。母親の苦労は並大抵のものではなかったろう。14歳で広島に戻っていた父親は、彼の病中の素振りをだらしなく感じて、意見をしたことがきっかけで、父子の対立が始まった。転地療法などを試みたが、結局は中年期に至り、自分でソウウツをコントロール出来るようになった。
この病のせいだろうか、行状が甚だ宜しくなかった。遊蕩、借金、脱藩、座敷牢に3年幽閉、勘当、大言壮語癖、等々。是は広島のみならず、彼が住んでいた京でも鳴り響いていたようだ。
ただし、才能は才能である。座敷牢の頃から、鎌倉以降の武家の歴史「日本外史」の草稿を書き始めている。これは、幕末の勤皇の志士、昭和の軍国化への軍人の精神的支柱となったといわれる。
対立していた父との和解。そして死後に膨大な遺品整理をしていて、儒家、漢詩人としての父の偉大さを深く感じ取った。
(1)癸丑歳偶作 癸丑歳(みずのとうしのとし)偶作(ぐうさく)
十有三春秋 十有三(じゅうゆうさん)春秋(しゅんじゅう)
逝者已如水 逝(ゆ)く者は已に水の如し
天地無始終 天地に始終なく
人生有生死 人生に生死有り
安得類古人 安(いずく)んぞ得ん 古人に類して
千載列青史 千載(せんざい)青史(せいし)に列するを
(解釈等)
癸丑歳偶作
癸丑 : 年号の呼び方。12支を組み合わせている。計算しにくいことだったでしょうな。
偶作 : たまたま作った
十有三春秋
13年の歳月が過ぎ去った、
十有三 : 13 孔子の十有五にして立つ、と同じ表現。14歳の正月の作品である。
春秋 : 年月のこと。春秋に富むという言葉は、今でも使われる。死ぬまでの年月が多い若者のこと。
逝者已如水
行くものは川の流れのように過ぎ去った。
この句は、孔子の言葉である。すなわち、「子、川のほとりにありて曰く、逝くものはかくの如きかな。昼夜をおかず」つまり、昼夜をおかず時間の経過の一瞬もやむことのない姿を川の水を見て発した言葉といわれる。
逝 : ゆく、去る、死ぬ
安得類古人
安 : 語源は、ウ(家)と女から成り立ち、家の中に女が静かにいる様子を表している。
転じて、安らか、といずくにか、という反語の意味を持つようになった。
次ぎの句とあわせて「古人のように、千年も後まで歴史に名を残せるようになりたい」
千載列青史
千年の後まで歴史に名を残す
千載 : 中国の歴史で、年を載と呼ぶことがあった。その時の天子の気まぐれか。
列 : この場合、名を列(つら)ねる。
青史 : 昔、青竹をあぶって、油抜きをして記録した。ここから、歴史。
(2)題不識庵撃機山図
鞭声粛粛夜渡河 鞭声(べんせい)粛粛(しゅくしゅく)夜河を渡る
暁見千兵擁大牙 暁に見る千兵(せんぺい)の大牙(たいが)を擁するを
遺恨十年磨一剣 遺恨なり十年一剣を磨く
流星光底逸長蛇 流星(りゅうせい)光底(こうてい)長蛇(長蛇)を逸(えつ)す
(解釈等)
不識庵撃機山図
不識庵・上杉謙信(1530〜1578)と機山・武田信玄(1521〜1573)が長野市南の川中島で戦ったのは、前後5回である。そのうちの1561(永禄4年)の4回目が最も激しい戦いであったといわれる。往年、私は物見高さから妻女山、海津城祉、川中島を数回に渡り見てまわり、少し理解を深めた。歴史に残るこの戦いは、前半は上杉の優勢、後半は武田の優勢といわれる。このドラマは数多くの歴史家が取り上げている。この詩は、数回の戦いをまとめているとの説がある。不識庵撃機山図は、よく見かける座ったままの信玄に、馬上から撃ちかかる謙信の図と思う。

妻女山から川中島を望む 右奥が長野市街方向
鞭声粛粛夜渡河
謙信軍は馬に枚(ばい)を含ませて、静かに雨宮の渡しから千曲川を渡河した。その時の描写である。
鞭声 : 馬を鞭打つ音
粛粛 : つつしむ様子。敵信玄軍に悟られぬように、鞭の音さえつつしみながら。
渡河 : ここでは、千曲川を渡ること。語源は、黄河を渡ること。さらに敵地に侵入することのようだ。
暁見千兵擁大牙
夜が明けて、暁に千兵が、謙信の旗を擁しているのが見える。
大牙 : この場合は謙信の旗。本来は、天子または大将軍の旗。象牙の飾りがついていたようだ。
遺恨十年磨一剣
深い恨みに、この10年武技を、軍馬を訓練してきた。
遺恨 : 死んでも残る恨み
流星光底逸長蛇
しかしながら、宝剣の光の下で、邪悪な敵信玄を逃してしまった。
流星 : 三国志、呉の孫権の宝剣という。この場合は、謙信の刀。何故ここに孫権の宝剣がでるのか不明。
ちなみに、剣は両刃、刀は片刃。極東で刀を使用していたのは、蒙古と日本。
長蛇 : 他国を侵略する凶暴な国の例え。古文書に呉は長蛇なり。しきりに上国を食らう。とあるそうだ。
5. 陶淵明(とうえんめい)(365〜427) 目次に戻る
彼の時代と人間像
陶潜、字(あざな)は陶淵明。
彼の生きた時代は、日本人にはなじみの三国志の時代が終わり、約100年後の東晋の人です。わが国では、国内では大和朝廷の国土統一の時代です。国際的には、朝鮮半島に出兵して、新羅(しらぎ)を破り(369)、また新羅と任那の連合軍に勝ち(391)、高句麗(こうくり)に敗れ(404)などなどの時代でした。
彼の曽祖父は、東晋の名将でした。父はさほどでもなかったようです。」彼は、曽祖父を誇りに思い、自分も官について活躍したいと考えました。
29歳で江州の軍事担当の役人になり、以後13年間、役人になったり辞めたりを繰り返しておりました。当時の東晋王朝は、社会情勢がとても乱れ、賄賂が横行して、官職も金で売買される有様で、思うように昇進が出来なかったようです。
41歳で(405)役人を辞めて、気ままな生活をしようと考えました。そこで、その資金を稼ぐ為に、彭沢県の県令になりました。(中国では当時、郡の下に県がありました。現在は省の下)しかし、妹の死を理由にすぐに辞めております。これには、次のエピソードが残っています。彼のプライドの高さを物語っています。
都から行政査察官がやってきたとき、陶淵明は礼服で迎えることになっていました。しかし、やってきたのは自分より若い男であった。かれは
「我、五斗米(ごとべい)の為に腰を折って郷里の小人に向かう能(あた)わず」
つまり、わずかな給料の為に、こんな若造に頭を下げられるか、と言って辞めてしまったとか。
そして、飲んでは詩をつくり、飲んでは詩を作る生活が始まりました。

陶淵明
(1)飲酒序
自分の好きな部分だけメモしました。いずれ揃えば追加します。
余(よ)閑居(かんきょ)して歓び少なく兼ねてこの頃夜已に長し
偶々(たまたま)名酒あり夕べとして飲まざるはなし
顧みて独り尽くして忽焉(こつえん)として復(また)酔う
すでに酔えるの後はすなわち数句を題して自ら娯(たの)しむ
淵明退帰の後世変日に甚だし
酒にあらずんば憂いを掃う能(あた)わず
酒にあらずんば娯しみを求むる能(あた)わず
酒に託して以って焉(えん)を逃るるものなり
……
(2)飲酒五
結廬在人境 廬(いおり)を結んで人境に在り
而無車馬喧 而(しか)も車馬の喧(かしま)しき無し
問君何能爾 君に問う 何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと
心遠地自偏 心遠ければ 地自(おの)ずから偏(へん)なり
采菊東籬下 菊を東籬(とうり)の下に采(と)り
悠然見南山 悠然として南山を見る
山気日夕佳 山気 日夕(にっせき)に佳(よ)く
飛鳥相与還 飛鳥(ひちょう)相与(あいとも)に還(かえ)る
此中有真意 此の中に真意有り
欲弁已忘言 弁ぜんと欲して已(すで)に言を忘る
(解説など)
この詩に初めて出会ったのは、高校の漢文だった。当時は何のことやらさっぱり分からず。今は少し分かる気がする。
結廬在人境:廬:自宅を謙遜して。人境:人里。
而無車馬喧:車馬は通るが喧しくない
問君何能爾:どうしてそうなの。
心遠地自偏: 人里の中で隠遁生活を送っている。心が人間社会から離れているので、住んでいるところも辺鄙な場所なのだ。これは、甲州の恵林寺の快川国師が信長に攻められ、 「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」と言って焼死したことに相通ずる。これは6世紀の中国の詩人の作です。碧巌録にあるそうだ。
悠然見南山:南山は盧山。
山気日夕佳:気:氣。語源は米を炊く時の湯気。ここは霞
此中有真意: 霞たなびく秋の夕暮れ、山の中に鳥が連れ立って帰っていく。彼はこのようなことに人生の真意を見つけた。
欲弁已亡言: 酒の為に言葉を忘れたのか、自然と一体となり語る必要がないのか? それとも、さあて?
(3)帰去来の辞 帰りなんいざ 最後に全文掲載
(本文1) さあ、帰ろう 小見出しは私がかってにつけています
帰去来兮 帰りなんいざ
田園将蕪胡不帰 田園将(まさ)に蕪(あ)れんとす 胡(なん)ぞ帰らざる
既自以心為形役 既に自ら心を以って形の役と為す
奚惆悵而独悲 奚(なん)ぞ惆悵(ちゅうちょう)として独り悲しまん
(解釈等)
帰去来兮 さあ、帰ろう
田園将蕪胡不帰 わが田園が荒れようとしているのに、どうして帰らないのだ
自分の田園が休耕田になっていると思えないが、詮索すると詩が汚れる。帰心矢の如しが伝わってきます。高校の漢文の教科書で、この2句に出会ったとき、語調の素晴らしさに私は引き込まれました。詩全体の意味も解せぬままに、断片的に暗誦しては独り満足しておりました。今では少しわかったような気がします。
既自以心為形役 自分で心を形式の為に苦役させたのだ。
彼の心は本来自由で何者にも縛られたくはない。それなのに、立身出世という(形)のために、心の自由を抑圧してきたのだ。「すまじきものは宮仕え」という言葉がある。言わんとしていることは、通じます。
今も、サラリーマンに限らず、働く人々は、好むと好まざるを問わず、じっと耐えて勤めている人だらけですね。
奚惆悵而独悲 くよくよ独り悲しんでもしょうがない。
立身出世を追い求め、得られなかったことと、失われた時を悲しんで、を指している。
惆悵:嘆き悲しむこと。惆悵とも怨みの意味。
(本文2) 過去にはこだわるまい
悟已往之不諌 已往(いおう)の諌(いさ)められざるを悟り
知来者之可追 来者(らいしゃ)の追うべきを知る
実迷途其未遠 実に途(みち)に迷うこと其れ未だ遠からず
覚今是而昨非 今の是にして昨の非なるを覚る
(解釈等)
悟已往之不諌 過去は改められないことを悟り、 已往:過去
知来者之可追 未来こそ追い求めるべきだと悟った。 来者:未来
実迷途其未遠 人生の道に迷ったが、それも遠くそれてはいない
覚今是而昨非 今日の自分の判断は正しく、昨日までは誤りだと気付いた。
この4句は、官を辞したことへの心境です。
元来、彼の家は貧乏であった。官につき立身出世をはかったのも、一つには曽祖父の名誉もあるが、貧乏から抜け出すこともあったと思う。彭沢県の県令になったのも、収入が多かったからとの説もあります。
しかしながら、彼の性格は宮仕えには向かなかった。妹の死、そして
「……こんな若造に頭を下げられるか!」
のエピソード。彭沢県の県令も、たったの80日だったそうです。
(本文3) いざ、故郷へ
舟遥遥以軽○ 舟は遥遥(ようよう)として以って軽くあがり
風飄飄而吹衣 風は飄々(ひょうひょう)として衣を吹く
問征夫以前路 征夫に問うに前路を以ってし
恨晨光之熹微 晨光(しんこう)の熹微(きび)なるを恨む
○は偏が風 旁が易であがり
(解釈等)
舟遥遥以軽○ 舟はゆらゆらと軽やかに波に乗り
風飄飄而吹衣 風はそよそよと私の衣を吹く
この2句は私の好きな表現です。彼の故郷は、かの有名な盧山(詩では南山と表現しています)の東北地図の目測で20キロ弱の九江です。一方任地の彭沢は、揚子江下流で、目測で約100キロです。舟で帰郷したのでしょう。
問征夫以前路 船頭にこれからの道のりを尋ね。本によっては、征夫を旅人としています。
恨晨光之熹微 朝の光がおぼろげなのが、なんとも恨めしい。
(本文4) 我が家が見えた
乃瞻衡宇 乃(すなわ)ち衡宇(こうう)を瞻(み)
載欣載奔 載(すなわ)ち欣(よろこ)び載ち奔(はし)る
僮僕歓迎 僮僕(どうぼく)歓び迎え
稚子候門 稚子(ちし)門に候(ま)つ
(解釈等)
彼は単身赴任だったのですね。
乃瞻衡宇 ようやく我が家の門と屋根が見えた
衡は柱に横木を渡した程度の門。宇は屋根
僮僕歓迎 召使は喜んで迎え 僮僕:2字ともに召し仕えの意味がある
稚子候門 幼児は門で待っていた。
彼には5人の男の子がいました。「責子」という詩があります。今の親父と同じ、今の息子と同じで、どうしてこんなに出来が悪いんだ、と嘆いた詩です。もっとも、これも飲む為の口実だったともいわれています。詩は別の機会にのせます。
(本文5 垂ノは酒がいっぱいあった)
三逕就荒 三逕(さんけい)荒(こう)に就けども
松菊猶存 松菊(しょうぎく)猶(なお)存す
携幼入室 幼(よう)を携(たずさ)えて室に入れば
有酒盈吹@ 酒あり吹iたる)に盈(み)てり
(解釈等)
三逕就荒 3本の小道は荒れていたが 逕は小道
松菊猶存 松と菊は残っていた。彼は菊が好きだった。
携幼入室 子供を伴って部屋に入ると
有酒盈吹@ 酒が垂「っぱいに用意してあった。垂フ偏の缶は素焼きの蓋のある甕の意。
陶淵明の酒好きは有名です。間近な話題としては、80日しかいなかった彭沢県の県令には、結構多い「田畑」が支給されました。どのくらいかは知りませんが、彼はそれに全部酒米を植えようとしました。家族の大反対で、しぶしぶほんの一部に、うるち米を植えたそうです。
それから、当時有名な顔延之(がんえんし)という文人が彼を訪ね、おおいにノミュニケーションをし、したたかに酔い、帰りに大量の金(二万銭、現在に評価は?)をおいて帰ったそうです。彼はそれを酒屋に送り、つまり前払いをして、好きなときに行っては、酒を飲んでいたそうです。うらやましい。
(本文6 我が家は、いいなぁ)
引壷觴以自酌 壷觴(こしょう)を引きて以って自ら酌み
眄庭珂以怡顔 庭柯(ていか)を眄(かえ)りみて以って顔を怡(よろこ)ばす
椅南窓以寄傲 南窓に椅(よ)りて以って傲(ごう)を寄せ
審容膝之易安 膝(ひざ)を容るるの安んじ易きを審(つまびら)かにす
(解釈等)
引壷觴以自酌 壷とさかずきを引き寄手て酌で飲み。壷觴:觴はさかずき。
眄庭珂以怡顔 庭木の枝振りを眺めてニコニコする。珂は枝。
椅南窓以寄傲 南の窓に寄りかかっては楽しい気分になる。 傲:喜び楽しむ
審容膝之易安 狭い家だが安心した気分になる。審:はっきり悟る
ひざを入れる程度の小さな家、とはずいぶん謙遜したものですね
(本文7 隠遁生活のひとコマ)
園日渉以成趣 園は日に渉(わた)って趣(おもむき)をなし
門雖設而常関 門は設くと雖(いえど)も常に関(とざ)せり
策扶老以流憩 策(つえ)もて老いを扶(たす)けて以って流憩(りゅうけい)し
時嬌首而遐観 時に首(こうべ)を嬌(あ)げて遐観(かかん)す
(解釈等)
園日渉以成趣 庭は日ごとに趣が出てきた。
門雖設而常関 門はあるが、いつも閉めている。つまり世間との付き合いはないよ、ということ。
策扶老以流憩 41歳で官を辞した時のこととすると、老とは大げさですね。
時嬌首而遐観 時に頭をあげて遠くを見る。 嬌:真っ直ぐにする。遐:はるか遠く。
隠遁生活で来客がない。世間との付き合いをしない。ということだが、実際は隠遁したのでかえって有名になり、高級官僚の宴会などにも招かれ結構交遊があったそうです。「隠者とは、無位無官の文化人」と定義した人がいたそうですが……。
(本文8 遠くの景色に魅せられて)
雲無心以出岬 雲は無心にして岫(しゅう)を出(い)で
鳥倦飛而知還 鳥は飛ぶに倦(う)みて還(かえ)るを知る
景翳翳以将入 景(ひ)は翳翳(えいえい)として以って将(まさ)に入らんとす
撫孤松而盤桓 孤松(こしょう)を撫(ぶ)して盤桓(ばんかん)す
(解釈等)
雲無心以出岬 雲は無心にして山の峰からでて 岫:峰
鳥倦飛而知還 鳥は飛ぶことに疲れてねぐらに帰る。 面白い見かたですね。
景翳翳以将入 太陽は次第にかげり、沈もうとしている。 景:日の光。 翳:かげり
撫孤松而盤桓 庭の1本の松をなで、ぐずぐずと立ち止まっている。 盤桓:ぐずぐずする。徘徊する
素晴らしい景色の中で、家の中に入りにくい気持ちが伝わってきます。前2句は何かで見かける句ですね。
(本文9、辞めたときの心境にもどり)
帰去来兮 帰りなんいざ
請息交以絶游 請(こ)う 交わりを息(や)めて以って游(ゆう)を絶たん
世与我而相違 世と我と相違(あいたが)う
復駕言兮焉求 復(ま)た駕(が)して言(ここ)に焉(なに)をか求めん
悦親戚之情話 親戚の情話を悦(よろこ)び
楽琴書以消憂 琴書(きんしょ)を楽しみ以って憂いを消さん
農人告余以春及 農人(のうじん)余に告ぐるに春の及べるを以ってし
将有事於西疇 将(まさ)に西疇(せいちゅう)に事あらんとす
(解釈等)
帰去来兮 さあ帰ろう
請息交以絶游 そして、世間との付き合いをやめよう
世与我而相違 世間と私は相容れないのだ。 このような心境の人は今でもいるでしょうね。
復駕言兮焉求 また役人生活をしてなにを求めるというのか。 駕:役所からの迎えの車。
悦親戚之情話 親戚の人情のこもった話を悦び。 情話:人情のこもった話
楽琴書以消憂 琴や書物を読んで憂いを消そう
農人告余以春及 農民が私に春がきました、と教えてくれた。
将有事於西疇 さあ、西の畑で農作業が始まるのだ。疇:うね
(本文10、春の山野にでかけて)
或命巾車 或いは巾車を命じ
或棹孤舟 或いは孤舟(こしゅう)に棹(さお)さす
既窈窕以尋壑 既に窈窕(ようちょう)として以って壑(たに)を尋ね
亦崎嶇而経丘 亦(また)崎嶇(きく)として丘を経(ふ)
木欣欣以向栄 木は欣欣(きんきん)として栄に向かい
泉涓涓而始流 泉は涓涓(けんけん)として始めて流る
善万物之得時 万物の時を得たるを善(よ)みし
感吾生之行休 吾が生の行くゆく休するを感ず
(解釈等)
或命巾車 幌をかけた車を用意させたり
宮城野昌光氏の太公望を以前読みました。それによると、紀元前千年頃の中国には既
に車がありました。戦でも戦車が使われています。また、秦の始皇帝の遺跡からも立派
な車が発掘されていますね。日本は国土の18%しか平野がない山国です。車は発達し
ませんでしたね。
或棹孤舟 小舟に棹をさしたり
既窈窕以尋壑 奥深い谷を尋ねたり 窈窕:奥深い様子
亦崎嶇而経丘 険しい丘をこえて行くと 崎嶇:険しい
木欣欣以向栄 木は生き生きとして盛んに繁ろうとし 欣欣:喜ぶさま
泉涓涓而始流 泉はちょろちょろと流れ始めた。 涓涓:水が細く流れる様子
善万物之得時 万物が、さあこれからだ、という時を得たのを喜びながらも
感吾生之行休 吾が人生が終わりに近づいていくのを感ずる
さあ春だ。万物が生き生きする時期だ。季節のスタートを見て自分の生命の終わりを感
じたのですね。生者必滅を感じたのです。
(本文11は、またまたやんぬるかな)
已矣乎 やんぬるかな
寓形宇内復幾時 形を宇内に寓すること復幾時ぞ
曷不委心任去留 曷(なん)ぞ心を委(ゆだ)ねて去留(きょりゅう)に任ぜざる
胡為乎遑遑欲何之 胡為(なんす)れぞ遑遑(こうこう)として何(いず)くにか之(ゆ)かんと欲する。
(解釈等)
已矣乎 今となってはどうしようもない。(もうおしまいだ)
寓形宇内復幾時 わが身をこの世に置くことは、どれだけの時間が残されているのか。
寓:仮住まい。宇内:天下、この世。
曷不委心任去留 どうして、心をあずけて自然のなり行きに任せないのか。
胡為乎遑遑欲何之 どうして、慌ててどこへ行こうとしているのか。
心の片隅にある、これでいいのか、生きている間に何かやりたい、やらなければというあせり。
近い将来、この世から消滅するのだという寂寥を感じつつ、これでいいのだ、これでいいのだ、と我が心に言い聞かせる陶淵明の叫びを感じます。身につまされます。生への執着は、詩からは感じられませんね。
(本文12,、我が願いは)
富貴非吾願 富貴(ふうき)は吾が願いに非(あら)ず
帝郷不可期 帝郷は期すべからず
懐良辰以孤往 良辰(りょうしん)を懐(いだ)いて以って孤(ひと)り往き
或植杖而耘○ 或いは杖を植(た)てて耘し(うんし)す ○:偏は耒 旁は子
(解釈等)
富貴非吾願 富貴は私の願いではない
帝郷不可期 全てを支配する神の世界も期待できない。
帝:宇宙を支配する最高の神。現在では地上を支配するミカド。
帝郷を仙人世界と訳しているのもあります。
懐良辰以孤往 天気のよい日を待って独りで出かけ 辰:日がら
或植杖而耘○ 杖をつきたてて除草する。 植杖:面白い表現と思います。耘:草切る。し:つちかう
(最終回悟りしところ)
登東皐以○嘯 東皐(とうこう)に登りて以って○嘯(じょしょう)し ○:偏が舎、旁が予。
臨清流而賦詩 清流に臨みて詩を賦(ふ)す
聊乗化以帰尽 聊(いささ)か化に乗じて以って尽くるに帰(き)し
楽夫天命復奚疑 夫(か)の天命を楽しみて復(また)奚(なに)をか疑わん
(解釈等)
登東皐以○嘯 東の丘に登って嘯(うそぶ)いたり
臨清流而賦詩 清流に臨んで詩を作ったりする
聊乗化以帰尽 こうして自然の変化に乗じて死んでいこう。化は立っている人とひっくり返った人を合わせた文字。そこから、人の変化。この場合は死。仏教で「座化」と言う言葉があるそうです。座ったまま死ぬのが僧侶の作法とか?
楽夫天命復奚疑 与えられた天命を楽しめば何の疑いがあろうか
現状を打破し、苦悩しそして何のためらいもない境地に達したようです。
任運とうとうと生きた良寛和尚を思い起こします。ある人への手紙に
「病む時節には、病むがよろしく候。死ぬ時節には、死ぬがよろしく候」
つまり、覚悟なんていらないよ。といっておきながら、自分の辞世の一つに「死にたくない」とあるのは、高僧も生への執着を捨てきれない人間だったということですかね。それとも、庶民への救い、つまり高僧にして生への執着かくのごとし、まして衆生が執着するのは当たり前、ということですかね。
数学は、誰が解いても答えは一つ。文学は人それぞれが自分なりの答えを持つことが出来ます。私も、初歩のさらにまた初歩の知識ながら、物の本に同調したり、自分なりの解釈をしたりしました。従って、楽遼よ、少し変だぞ。と思うところがあると思います。
解釈や、珍妙な小見出しには、陶淵明先生が苦笑していることでしょうよ。
(全文通し)
帰去来兮 帰りなんいざ
田園将蕪胡不帰 田園将(まさ)に蕪(あ)れんとす 胡(なん)ぞ帰らざる
既自以心為形役 既に自ら心を以って形の役と為す
奚惆悵而独悲 奚(なん)ぞ惆悵(ちゅうちょう)として独り悲しまん
悟已往之不諌 已往(いおう)の諌(いさ)められざるを悟り
知来者之可追 来者(らいしゃ)の追うべきを知る
実迷途其未遠 実に途(みち)に迷うこと其れ未だ遠からず
覚今是而昨非 今の是にして昨の非なるを覚る
舟遥遥以軽○ 舟は遥遥(ようよう)として以って軽くあがり
風飄飄而吹衣 風は飄々(ひょうひょう)として衣を吹く
問征夫以前路 征夫に問うに前路を以ってし
恨晨光之熹微 晨光(しんこう)の熹微(きび)なるを恨む
乃瞻衡宇 乃(すなわ)ち衡宇(こうう)を瞻(み)
載欣載奔 載(すなわ)ち欣(よろこ)び載ち奔(はし)る
僮僕歓迎 僮僕(どうぼく)歓び迎え
稚子候門 稚子(ちし)門に候(ま)つ
三逕就荒 三逕(さんけい)荒(こう)に就けども
松菊猶存 松菊(しょうぎく)猶(なお)存す
携幼入室 幼(よう)を携(たずさ)えて室に入れば
有酒盈吹@ 酒あり吹iたる)に盈(み)てり
引壷觴以自酌 壷觴(こしょう)を引きて以って自ら酌み
眄庭珂以怡顔 庭柯(ていか)を眄(かえ)りみて以って顔を怡(よろこ)ばす
椅南窓以寄傲 南窓に椅(よ)りて以って傲(ごう)を寄せ
審容膝之易安 膝(ひざ)を容るるの安んじ易きを審(つまびら)かにす
園日渉以成趣 園は日に渉(わた)って趣(おもむき)をなし
門雖設而常関 門は設くと雖(いえど)も常に関(とざ)せり
策扶老以流憩 策(つえ)もて老いを扶(たす)けて以って流憩(りゅうけい)し
時嬌首而遐観 時に首(こうべ)を嬌(あ)げて遐観(かかん)す
雲無心以出岬 雲は無心にして岫(しゅう)を出(い)で
鳥倦飛而知還 鳥は飛ぶに倦(う)みて還(かえ)るを知る
景翳翳以将入 景(ひ)は翳翳(えいえい)として以って将(まさ)に入らんとす
撫孤松而盤桓 孤松(こしょう)を撫(ぶ)して盤桓(ばんかん)す
帰去来兮 帰りなんいざ
請息交以絶游 請(こ)う 交わりを息(や)めて以って游(ゆう)を絶たん
世与我而相違 世と我と相違(あいたが)う
復駕言兮焉求 復(ま)た駕(が)して言(ここ)に焉(なに)をか求めん
悦親戚之情話 親戚の情話を悦(よろこ)び
楽琴書以消憂 琴書(きんしょ)を楽しみ以って憂いを消さん
農人告余以春及 農人(のうじん)余に告ぐるに春の及べるを以ってし
将有事於西疇 将(まさ)に西疇(せいちゅう)に事あらんとす
或命巾車 或いは巾車を命じ
或棹孤舟 或いは孤舟(こしゅう)に棹(さお)さす
既窈窕以尋壑 既に窈窕(ようちょう)として以って壑(たに)を尋ね
亦崎嶇而経丘 亦(また)崎嶇(きく)として丘を経(ふ)
木欣欣以向栄 木は欣欣(きんきん)として栄に向かい
泉涓涓而始流 泉は涓涓(けんけん)として始めて流る
善万物之得時 万物の時を得たるを善(よ)みし
感吾生之行休 吾が生の行くゆく休するを感ず
已矣乎 やんぬるかな
寓形宇内復幾時 形を宇内に寓すること復幾時ぞ
曷不委心任去留 曷(なん)ぞ心を委(ゆだ)ねて去留(きょりゅう)に任ぜざる
胡為乎遑遑欲何之 胡為(なんす)れぞ遑遑(こうこう)として何(いず)くにか之(ゆ)かんと欲する。
富貴非吾願 富貴(ふうき)は吾が願いに非(あら)ず
帝郷不可期 帝郷は期すべからず
懐良辰以孤往 良辰(りょうしん)を懐(いだ)いて以って孤(ひと)り往き
或植杖而耘○ 或いは杖を植(た)てて耘し(うんし)す ○:偏は耒 旁は子
登東皐以○嘯 東皐(とうこう)に登りて以って○嘯(じょしょう)し ○:偏が舎、旁が予。
臨清流而賦詩 清流に臨みて詩を賦(ふ)す
聊乗化以帰尽 聊(いささ)か化に乗じて以って尽くるに帰(き)し
楽夫天命復奚疑 夫(か)の天命を楽しみて復(また)奚(なに)をか疑わん
4.王安石(おうあんせき) 目次へ戻る
(1)和題烏江亭 烏江亭(うこうてい)に題(だい)すに和す
百戦疲労壮士哀 百戦疲労し壮士哀しむ
中原一敗勢難廻 中原の一敗勢い廻(めぐ)らし難し
江東子弟今雖在 江東の子弟今在りと雖(いえど)も
肯与君王巻土来 肯(あ)えて君王(くんのう)の与(ため)に土を巻いて来たらんや
直訳
連戦に疲れ果てて兵士たちは哀しむ
中原での最後の敗戦は、もはや勢いを戻せない
江東に若者達が残っていたとしても
はたして君王(項羽)と土煙を上げて中原に攻め上るだろうか
解釈等
王安石(1021〜86)は,詩人、文章家としても著名な優れた北宋の政治家でした。彼は少年の頃から読

書を好み、一度読んだ部分は終生忘れなかった、という言い伝えがあるそうです。本当ですかねぇー。もっとも、昔の中国の難しい国家試験「科挙」に合格するには、約30万字の文章を記憶して、理解し、縦横に使いこなせないと合格しないと、物の本で読んだことがあります。このような秀才がいたとしてもおかしくはないですかね。
彼は、烏江亭(南京から車で2時間程度西方)で、晩唐の詩人杜牧が、項羽の死を惜しんで作った「烏江亭に題す」に対して、彼の思いを詠みました。中国でも、項羽に対しては日本の判官びいきのようなところがあったようです。彼は政治家らしい批判をしています。
題すとは、木や柱に書き記すことです。
3.杜牧(とぼく) 目次へ戻る
(1)題烏江亭 烏江亭(烏江亭)に題す 杜牧
勝敗兵家事不帰 勝敗は兵家(へいか)も事帰(き)せず
包羞忍恥是男児 羞じを包み恥を忍(しの)ぶはこれ男児
江東子弟多才俊 江東の子弟 才俊多し
捲土重来未可知 捲土重来(けんどちょうらい)未だ知るべからず
直訳
戦の勝敗は兵家でも予測がつかない
恥を忍び 肩身の狭い思いに耐えるのが男児である
江東の若者には優れた人物が多いから
力を蓄えて再び攻め上ったら、その結果はわからない
解釈等
恥:心に恥ずる。
羞:恥ずかしい思いをする。
江東:項羽の古里
捲土重来:力を蓄え土煙を巻き上げて、再びくること
項羽は、烏江亭の船頭から、長江を渡り、捲土重来を期して欲しいと勧められたが、大勢の若者を戦死させて両親に合わせる顔が無い、と自ら首をはねたという。
晩唐の詩人、杜牧は項羽の死を惜しんでいる。
杜牧
これに対して、「王安石」が違う見方の詩を作っています。
2.劉邦(前256、または249〜前195) 目次へ戻る
項羽のライバル、劉邦の詩も載せる。彼は、漢の高祖である。秦滅亡後、項羽と天下を争い勝利を得て、前後あわせて漢帝国400年を興した。背景は項羽の欄に記載。陳勝、呉広の乱に乗じて彼も挙兵した。この詩は、彼が晩年、故郷の沛(はい、江蘇省、)に立ち寄った時の詩。
(1)大風歌 大風(たいふう)の歌 高祖
大風起兮雲飛揚 大風起こりて雲 飛揚(ひよう)す
威加海内兮帰故郷 威(い)海内(かいだい)に加わりて故郷に帰る
安得猛士兮守四方 安(いずく)にか猛士(もうし)を得て四方を守らしめん
解釈等
大風起兮雲飛揚 風雲急を告げる、という言葉がある。昔の人は、風や雲の動きから戦乱を予想 した。この場合も、戦乱が起きたと解釈
威加海内兮帰故郷 項羽に勝って戦乱を平定した。そして、わが威光は国中におよび、故郷に帰っ てきた。
安得猛士兮守四方 さあ、どこで勇者を得て国を守ろうか
安はこの場合、疑問や反語
1.項羽と虞美人 目次へ戻る
(1)垓下歌 垓下(がいか)の歌 項羽(232〜202)
力抜山兮気蓋世 力(ちから) 山を抜き 気 世を蓋(おお)う
時不利下騅不逝 時に利あらず 騅(すい) 逝(ゆ)かず 騅:馬の名
騅不逝兮可奈何 騅の逝かざるを奈何(いかん)すべき
虞兮虞兮奈若何 虞(ぐ)や虞や 若(なんじ)を奈何(いかん)せん 虞:虞美人
直訳
我が力は山をも引き抜き 我が意気は天下を蓋う程である
だが、時勢は我に味方せず、 愛馬の騅も進まない
騅よ、お前が進まなければ、どうすればいいのだ そして
虞よ、虞よお前をどうすればいいのだ
背景
紀元前221年、秦(しん)が天下を統一した。始皇帝が死ぬと、世が乱れだした。平家物語の最初ににも登場する、宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が秦滅亡の原因の大半といわれる。また、直接的には、厳しすぎる法律が反乱の原因です。つまり、当時、秦の始皇帝陵をはじめ大掛かりな土木工事がありました。徴発された人民は、決められた日に着かなければ「死」と定められていました。事情で遅れた彼らは、行っても死、行かなくても死、でした。どうせ死ぬなら反乱して、となったわけです。それが全国に広がりました。
このとき、24歳で叔父とともに挙兵したのが、楚(そ。揚子江中流流域)の名族「項羽」でした。彼は天才的な軍事才能を発揮して、秦を滅ぼし、まさに天下の主になろうとしていました。
そこに立ちはだかったのが、漢の高祖「劉邦」でした。42歳で挙兵した彼は、貧農の子でごろつきだったといわれています。両者、戦えば必ず、項羽が勝っていました。劉邦は、負けていたとはいえ、決定的な敗北ではありませんでした。
洛陽(らくよう)近くの広武山(こうぶさん)で長期間対峙したあと、和平が成立したのですが、陣を解いて撤退する項羽軍に、協定を破棄して劉邦軍が襲い掛かりました。兵が一度壊走(かいそう)すると、止められるものではありません。垓下(安徽省)での戦力は、項羽軍が800、劉邦軍が数千といわれています。
劉邦軍から自国の楚の歌が聞こえるに及んで(四面楚歌)、味方までも敵に寝返ったかと、がく然としてこの詩となったというわけです。四面楚歌は劉邦軍の戦術といわれています。
項羽は、そのあと烏江亭(うこうてい、南京の西方、車で約2時間))まで遁れました。亭長(村長)が揚子江を渡り、捲土重来を期すべきと舟を用意しましたが、自決しました。
四面楚歌の場面は、京劇で見かけます。
分析(物の本からの私なりの総括)
項羽:押して押しておしまくり、勝利を得る強いリーダー。欠点は、部下の言うことを聞かなかった。つまり、ある意味で使いこなさなかった。戦利品も部下に与えなかったようです。対劉邦面では、鴻門(こうもん)の会で劉邦を殺さなかったこと。
劉邦:部下の言をよく採り上げた。戦利品は部下に与えた。
(注)鴻門の会:西安を最初に制圧した劉邦を項羽が討とうとしました。劉邦は鴻門にて服従の言い訳をして許されました。いろいろなドラマになっています。
酷評
誰か忘れましたが、この詩は自分の責任には触れていない。時勢の責任、馬の責任にしている。
(2)虞美人の返歌
漢兵已略地 漢の兵已に地を略し
四方楚歌声 四方楚歌の声
大王意気尽 大王意気尽く
賎妾何聊生 賎妾(せんしょう)何ぞ生を聊(ねが)わんや
虞美人は、31歳の若さで散った1代の英傑項羽、その陰に咲いた一輪の花であった。史記には簡潔に書かれているそうです。
「……項王すなわち夜起きて張中に飲す。美人あり名は虞。常に幸せられて従う。……(力は山を抜きの詩を)歌うこと数闕、美人これに和す。項王、涙数行下る。左右皆泣き、よく仰ぎ見る者なし。」
虞美人は、常に項羽と一緒にいたと思われる。そして「美人、これに和す」というのがこの詩です。虞美人は、このあと最後の歓を尽くしてから、いさぎよく自刃したといわれる。また1節に、逃げる装束に男装を希望し、持った剣で自刃したという。その鮮血から花が生じ、それを後世の人は「虞美人草」と呼んだ。これがひなげしです。
如何でしょうか。曲解して、負け戦で愛する人に「あなたも意気消沈した。私も生きる気がしないわ」なんて言われたら、あなたならドウ感じますか。ここはやはり、ひねらずに、最後を悟り、「……私もお供して一緒に死にます!」 というのがあってますかね。