直線上に配置


                   旅烏の道中日記   

行き先別にリンクを設定してあります

目次(掲載は新しい方が手前にきます)

1. 欧州路すっとび三度笠)

2.
 会津藩史跡訪ねて三度笠

3.
 西国の波乱訪ねて三度笠

4. 韓国ノンビリ一人旅


5.
 みちのく路走りまくって三度笠

6. 伊賀甲賀忍者求めて三度笠

7. 楊貴妃の影を慕いて唐土(もろこし)へ

8. 戦雲の跡を偲んで三度笠

   



トップページへもどる

              

        

                 
             
                       






  
         



















 














 











8  戦雲の跡を偲んで三度笠
 
         

                         関ヶ原合戦開戦の地
            日本戦乱史上最大の激突の開戦の地である。西軍8万有余東軍7万5千。
            関ヶ原の西端南天満山の麓に陣した宇喜田秀家17000に抜け駆けの
            井伊直政の3600が発砲したのが最初である。時に午前8時


1.旅立ち    平成10年5月1日
  戻り            5月3日

2.行き先


           
 @  亀岡城址
 A  愛宕山
 B  柳生の里
 C  伊賀上野
 D  長島城址 
 E  墨俣城
 F  岐阜城
 G  関ヶ原









3.はじめに
  戦国最大の大戦の関ヶ原が最終目的であるが、登場する人物、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・徳川家康の関連の足跡を見ることとした。その他は、道中のついでである。
 関ヶ原合戦は、西軍8万有余、東軍7万5千の数字は実数ではない。旧陸軍が国力から兵力は、1万石に付き250人と推定したものが計算根拠になっている。
 また、明治政府の軍事顧問、ドイツのクレメンス・メッケル少佐は、両軍の布陣を見て、即座に西軍の勝ちと断言したという。裏切りという思わぬ魔物がそれを狂わせてしまったのである。



いざ出発 丹波篠山から亀岡へ

5月1日(金) 7:30分 出発。
 この旅では、カーナビを借用してきた。妙齢のご婦人の声で、助手席から案内がある。
「あと700メートル右方向です」
「あと300メートル左方向です」
「この先右方向です。近くにガソリンスタンドがあります」
等と教えてくれる。時々忘れるのか、ご機嫌を損ねるのか、事前の案内なしに
「ルートからはずれています」
といわれることもある。
 私は、この声を旅の道連れとし、戦国の世のどこかのお姫様とした。

 丹波篠山城の南を東に向かって車は進む。南の山上に八上城址が見える。明智光秀に滅ぼされた羽多野兄弟の城である。光秀は実母を人質に差しだし、降伏をすすめた。そして安土に兄弟を連れていったが信長は許さず処刑した。怒った羽多野側は光秀の実母を処刑した。あのドラマの城である。光秀の当時の居城亀山城とは40キロ程度の距離にある。私は、3年前に登城ずみである。
昼頃亀岡市に到着。城の廻りを探索する。
周囲は低い山々に囲まれている。城は平城、攻められたらひとたまりもあるまい。
城跡の北に堀が残っている。


亀岡城の堀
光秀の当時は亀山城と称していた。
三重県の亀山と同じなので、亀岡と称したという。









城下町は少し雑然としている。一歩入れば道狭く、一方通行が多い。メーデーとあって、デモ行進にあった。警官に保護されながらの行進である。昔のメーデーを思い出す。
東に保津川の渓流くだりの乗り場が近くにあるそうだ。
 亀岡駅近くのそば屋で昼食だ。出てきたおばちゃんに愛宕山までの道をたずねたら、
「遠いよ、大変だよ、教えようがないよ」
これではどうにもならない。駅前の交番に入って聞くことにした。若い警官は、愛宕山の存在すら知らないらしい。
「ほら、明智光秀が反逆の決意を連歌に詠み込んだところですよ」 
ますます分からなくなって、どこかへ電話度問い合わせていた。


いざ愛宕山へ 
 
教えられたとおり狭い山道に入る。「落石注意」「関係者外通行禁止」の看板がある。どう気をつけれいいのか、などとぶつぶつ言いながら、それでも上の方に気をつけながら走る。確かに、路上に落石があった。
 三叉路に出た。案内の看板がない。カーナビにはこの山道はまだ登録されていない。右せんか、左せんか迷っていると、地元の人が通りかかった。助かった!
「水尾
の農協ののところから登るのが分かりやすい」
と教えてくれた。ほとんど人通りがないところだ、有り難かった。
 水尾の農協は、駐車場もなく、人もいない。100メートルほど離れたところに、スポーツウエアに白髪を短く刈り込んだ老人が閑そうに立っていた。
「愛宕山に登りたいのですが、登山口は何処でしょうか」
「農協の処、急な坂道だから1時間半はかかるよ」
どうやら、虚弱児と判断されたようだ。意地を張った。ときに、13寺20分。
「せっかく来たのでお参りしてきます」
清和天皇社を経て、清和・・老人ホームまでこの老人は付き合ってくれた。彼の言うとおりだと、頂上は15時50分だ。よし、少し早めに登ってやろう。
 鶯がのんびりと恋人を呼んでいる。道は、干上がった川底に砕石を敷いているようで、歩きにくい。
 30分も登ったろうか、汗で衣類はぐしょぐしょになり、息も切れだした。3人のおばちゃん達が降りてきたので、
「まだ、遠いですか」
と聞いたら
「まだ、序の口ですよ」
と笑い飛ばされてしまった。ショック。休み休み登り、どうにか清滝口との合流点に出た。大きな鳥居らしき物があったので、ほっとする。




登山道途中の建物














社殿にどうにかたどり着いた。階段に足はかかるのだが、体を踏ん張り上げる力がなくなっていた。太もも、ふくらはぎ、足首も痛い。当然弱点の腰痛も出た。まいったなぁー。
こんな体験は、生まれて初めてだ。日頃の運動不足を神が注意してくれているのだろう。
14:45 頂上到着。あの爺さんの時間の正確さに驚く。

歴史のあとはどこかいな
拝殿で二礼二拍一礼と作法通り礼拝する。願い事は何もない。だが、同じ場所に歴史に名を留めた武将が立って祈願したと思うと、変な気がする。明智光秀が、平家が、源氏がそして知っている限りの名前を思い出してみる。あまり思い出せない。神さんは「お前さん、何しに来たんや」とあきれているかも。
お札売り場の閑そうな神官を捕まえて、おしゃべりをまとめると次の通りであった。

1.愛宕山(あたごやま)は、比叡山とならび称される西の名山である。
2.愛宕神社は鎮火の神である。起源は八世紀。
3.全国800社の総本社である。
4.信仰のためには苦労はいとわない。(登山に苦労するではないか、といったので。水尾から1.5時間。清滝から2.5時間と言ったので)
5.古来、多くの武将が戦勝祈願に訪れた。
6.明智光秀も戦勝祈願に訪れた。この時、部下から反逆を強いられたと言っている。(本能寺の変は、  1582・6・2早朝)
7.連歌の場所は社務所のあたりだったらしい。
   時は今 天の下知る 五月かな
  (土岐はいま 天の下知る 五月かな・・光秀は土岐氏ので出、土岐が天下を治める)
8.光秀は、大軍が京都を目指しているのを信長の情報網に知られるのではないかと、心配していた。

下山時、社務所でのどの渇きをいやす。地べたの大きな囲炉裏は、薪をくべて盛んに火が燃え、煙がもうもうとしていた。廻りを囲った長いすに若者が1人休んでいた。昔の連歌の建物を想像すべくもないが、暫し想像してみる。これから、何かの本でこの場面が出てくるのが楽しみである。車の駐車場についたら
例のおっちゃんがいた。大阪への道聞いたら、嵐山経由で往け、という。登山時間の正確さですっかり信用したので、 帰りは嵐山経由で大阪に出た。
  江坂に宿を取り、ぶらぶらと歩いていたら、豆腐専門店の看板が目に付いた。一杯飲んで熟睡であった。もう一度行きたいが、道順も店の名前も覚えていない。

柳生の里
 朝風呂を浴びて、7:30 ホテル出発。足腰の痛みが一晩寝て更にひどくなった。それでも初志貫徹と一路伊賀上野城に向かう。カーナビのお嬢さん、まだ就寝中か案内が無く、千里の街中をうろうろと迷ってしまった。近畿自動車道の天理経由の予定を、奈良経由に変更して、柳生の里に立ち寄ることとした。
渋滞を心配したが、奈良まで快適な有料道路が続いていた。奈良市街に入る前に、赤を基調とした色鮮やかな朱雀門が左手に見えた。
 

幾多の剣豪達が歩いた坂道
 NHKの大河ドラマ「春の坂道」





 



 


朝食は、柳生の里の繁華街?で摂る。ヨモギうどんなり。茶屋の庭の池の側に設けられた屋外で、風情を楽しんだ。
正木道場下の駐車場から坂を登る。足が痛い。道場は大きい。年末のためか、道場は閉まっている。中に入れないため窓から中をのぞく。3つに仕切られているようだ。床はぴかぴかに磨かれていて気持がよい。
 外には、福田元総理の筆になる碑があり、正月を迎える為庭の手入れをする老若の作業員が忙しく働いていた。
宮本武蔵にかぶれた物の考え方をすると、この中の老作業員が剣の名人達人だったりするのだが……。

 

正木坂道場














柳生つづき
 
柳生新陰流について簡単に薀蓄を傾けてみる。
 創始者は上州大胡城主、上泉伊勢守秀綱である。陰流・念流・香取神道流の特徴を活かし創始したそうである。因みに、恁エ卜伝は兄弟子である。
 彼は、仕えていた上州箕輪の長野家が武田信玄に滅ぼされた。信玄は彼の武勇を惜しみ召し抱えたかったようだ。彼はそれを断り廻国修行に出た。その時彼は、信玄の信の字をもらい、それから秀綱改め信綱と改名した。
 当時、柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)は畿内(きだい)一の使い手として聞こえていた。

 


石舟斎が断ち割った石


正木坂道場から東へ、狭い畑道をしばらく歩くと
森の中に突然、巨石群が現れる。その中の一つである。高さも2メートルを超えており、私は後世の伝説と思う。






 たまたま、奈良の宝蔵院を訪れていた上泉伊勢守に、石舟斎は試合を申し込んだ。同行していた弟子が相手をしたが、向かい合った段階で「悪しゅうござる」といわれ、3度立ち会って3度とも簡単に敗れてしまった。
 それから、直ちに弟子入りし、伊勢守主従を柳生に招き辛酸艱苦修行をして、奥義を極め、新陰流2代目を許されたという。時代物に「無刀取り」という術がある。これは、伊勢守が旅に出る時、彼に与えた課題だったようだ。
 ついでに、「後の先」という剣術用語がある。これは、相手に先手をとらせ、その太刀筋をみて、先手を取る意味である。
 
 石舟斎の息子達
彼には5人の息子がいた。
 長男は戦場で負傷して半身不随となった。だが、息子の兵庫助は尾張柳生の祖となった。
 次男、3男は僧籍
 4男は米子の中村家のお家騒動で戦死。
 5男は有名な柳生又右衛門宗矩である。将軍家指南役として、また行政面でも手腕を振るうこととなった。息子に有名な柳生十兵衛がいる。



 沢庵和尚の寺
 城址の碑を左に見て、道場の西にある一段と高い城郭のような建物に入る。ご存じ沢庵和尚の開基になる「芳徳寺」である。初代和尚は、柳生宗矩の子「烈堂」。子連れ狼に登場する裏柳生の頭領だろうか。



芳徳寺
 沢庵和尚の開基になる寺である。
 宮本武蔵の小説に登場し、また漬け物の
 タクアンの発明者である

 (写真は以前訪れた時のもの)







 階段を上り山門を入ると、作務服の老僧が無心に雑草を抜いていた。
 伽藍にはいると、本堂の周囲には展示室があり、数々の資料が並んでいる。本堂には柳生宗矩と沢庵和尚の木像が鎮座している。
 参拝客が殆ど訪れない本堂の縁側に腰を掛け、禅寺らしく簡素な庭を眺めて、小鳥のさえずりを聞いていると、知らず知らず忘我の境地に溶け込んでしまった事が忘れられない。
 裏山にある剣豪達の墓に詣でる。若い白い作務服の坊さんが、近代的な長靴を履いて、掃除に余念がない。柳生宗矩を中心に、大小数々の墓石が並んでいる。霊感を特に強く感じる私は、掃除の坊さんが居なかったならば、豪傑笑い、啾々(しゅうしゅう)と哭(な)く声、裂帛の気合いなどが聞こえたに違いない。
 笑いを誘ったのは、酒ドックリに盃の笠をかぶった墓石である。余程酒好きだったのだろう。
 足の痛みもあり、月ヶ瀬経由で上野城下に向かう。


決闘鍵屋の辻
 時は寛永11年(1634)、十一月7日、まだ明けやらぬ頃、今は数馬茶屋となっている当時の「萬屋」で、荒木又右衛門側4人が、河合又五郎同勢11人が来るのを今や遅しと待っていた。
 河合側は、昨夜奈良街道の島ヶ原村の松屋なる旅籠に投宿、それを見届けた荒木側も馬借の家に投宿した。だが、不審に思われ村役に通報されそうになり、馬借の家を出て、野宿したようだ。
 旧暦11月は、今の12月である。彼らは、霜の痛さに耐えながら先行してきたのである。
 あとは、周知の通りの仇討ちが、午前8時から午後2時まで続いたのである。36人切りといわれたこの仇討ちの死者は、討った側が1人、討たれた側が4人、合計5人だったとか。
 剣術指南役だった又五郎の叔父の甚左衛門は、風邪でも引いたか動きが鈍く、綿入れを着ていて、寸秒の間に又右衛門に斬られた。槍の使い手の桜井半兵衛も、槍持ちとの間を裂かれ、あっさりと又右衛門に斬られた。すべて、荒木側の作戦勝ちである。一説によると、又右衛門は忍者の服部の出自とか、武士ならば名乗りをあげて、仇討ちをスタートするのだが、忍者はそんなことはしない。刀と槍の達人が2人、人数も3倍に近い。通常の戦いでは勝てないので、この作戦を取ったのであろう。
 先ず、又右衛門が剣の達人の甚左衛門に掛かる。その間2人の従者は、半兵衛と槍持ちの間を裂き、半兵衛に槍を持たせないようにする。甚左衛門を討ち取った又右衛門は、桜井半兵衛に掛かる。当然数馬は又五郎1人に目標を絞る。
 藤堂家では、黒山の見物人を整理して仇討ちを止めもせず、周囲を警護しただけだったそうな。今は民家が建ち並び、往時を偲ぶ物はないが、たったひとつ
   ひだり奈良屋 みぎいせ三ち
の碑があった。















 車を出そうとして、駐車場の入り口がふさがれている。茶屋の女将が公衆電話で話し中の持ち主を呼びに行ってくれた。中から、業者らしい60代の”おっちゃん”が電話帳を投げ捨て
 「分かっているわい」
と怒鳴りながら、車を除けていた。多分、行き先が分からず、電話で問い合わせていたと想像する。私はその時、3年前の「八上城」登城の時の出来事を思い出していた。
 登城口に案内の看板があったので、車を止めて見ていたら、突然大きな声で
 「こんな所に車を止めたら、通れんやないか!」
これも還暦を大分過ぎたと思える爺さまだ。
 「ちょっと止めただけや、そんなに怒らんでもええやんか」
この爺さまとは、その後仲良く登山したのだが、今回はその逆だ。

 上野城内の忍者屋敷
 上野城に登城する。この城は本来、家康の信任厚かった藤堂高虎が、大坂の陣に敗れた場合を想定して、基地として家康の命により築いたという。また、高虎も津(当時は安野津)の本城が平城なので、いざ、という場合この城によって戦わん!とした狙いもあった様だ。
 駐車場の近くに蛇谷堀がある。数人の団体さんの内誰かが「気持ち悪い」といっているのが聞こえる。
 先ず、城内の忍者屋敷に立ち寄る。精神年齢を問われそうだが、この種の事への興味は尽きない。登城して直ぐ右手に観光用の忍者屋敷があった。
 

最初は、忍者が忽然と消えるからくりの扉。くの一が器用に演技する。
 
中二階に監視用の隠し部屋がある。ここは明かりの関係で、外からは見えない。
 
仏壇脇から地下に抜ける隠し道。案内のすすめで私も入りたかったが……。

刀隠しはさりげない場所などなど。

重要な物の隠し場所は、屋外の縁側の下に巧みに造られていた。あった。
 




 忍者屋敷を出て、本丸へ向かう。アイスクリームを食べながらの移動だ。本丸には、何処の城にもある全国の有名な城の写真が飾られていた。さらに、明治以降の著名な人の、絵・書・詩歌・等が格子天上の一こま一こまに残されていた。
 この城は城主不在である。城代の屋敷跡が本丸の東の高台にあった。
 ぶらりぶらりと下城する。設備が整った小学校があった。ここは裕福な処らしい。経費の節減も徹底しているのか、パンフレットを取り寄せた時、切手代を負担して欲しいと書いてあった。


長島の虐殺、跡形もなし。近くには七里の渡しが……
 長島城は、木曽川の河口と揖斐川の河口の間にある。
 1574年(天正2年)、一向宗徒が信長の本願寺(今の大坂城にあった)攻撃に備えて、一揆の基地としていた
長島城を3ヶ月かけて皆殺しにした処である。蟻が出入りする隙もないほど包囲して、食糧が尽き、戦力が事実上無くなっていた2万有余の宗徒、老若男女を皆殺しにした。一斉射撃で、或いは柵を巡らし遁れぬ様にして火を付け焼き殺した。
 日本の歴史上、比叡山、越前の惨劇を上回るこの地を一度は訪ねてみたかった。カーナビは無反応である。仕方がないのでガソリンスタンドで聞くことにした。皆さんご存じない様だ。目的の川添の小学校の道ばたに駐車して探し回った。
 校庭で1人サッカーの練習に励む人。教員室を覗くが誰もいない。仮眠していたマイクロバスの運転手をおこして聞くが、知らない。ふと、5メートル前に案内板の様な者を見つけて読むと、ここが探し求めていた跡だった。
 今では整備された小川をはさんで、静かな住宅地となっていた。勿論当時を偲ぶ物は何も残っていない。合掌しようなどと言う気持ちも起こらなかった。

 近くに「七里の渡し」跡があるのを知っていたので寄ることにした。ここは、揖斐川と長良川が細い土手で仕切られ平行して流れている河口の西岸にあった。桑名城祉が南接してある。引き込み水路の石垣を右に見て、左側の塀に囲まれたなかに、当時の記念碑があった。

 七里の渡し跡













 ここは、熱田の宮から海上7里あったためにこの名が付いた様だ。旅人は尾張平野を流れる、木曽川、長良川、揖斐川を渡るのに苦労した様だ。それで海上の交通が発達したのであろう。
 1520年代に連歌師宗長が書いた手記に
 「港の広さが5〜6町(1町は60間、108メートル)。寺寺家々の数が数千軒、停泊する数千艘のの船の明かりが川に映って、星がきらめく様に見える」
と記してあるそうだから、相当なにぎわいだったことが分かる。弥次さん、喜多さんも船に乗って渡ったそうな。
 伊勢湾台風後、防潮堤が出来たため、当時の面影は大鳥居しかなかった。
 ここで、桑名の焼き蛤を買うのを忘れていた。

プレハブ工法の先駆者か、墨俣一夜城
今日の予定の最後は、墨俣一夜城である。明るい内に行きたい。長良川の土手沿いの道路を北上する。ゆったりと流れるこの川は、急流の多い日本には珍しく、西洋の風景画を見ている様な錯覚を覚えた。
 ようやくたどり着いた。既に夕闇が迫りつつあったが、城内には天守閣が一つあり、若い男女が5〜6人楽しそうに散歩していた。
 


墨俣一夜城祉











 信長は、美濃稲葉山(後の岐阜城)を攻める前線基地として、この地に城を築く計画を立てた。佐久間信盛、柴田勝家が失敗したあと、永禄9年(1566)9月、秀吉は築城に成功する。
 失敗した2者は、兵3000,人夫5000で取りかかった。秀吉は、足軽鉄砲隊75人で出発した。(ソンナアホナ!)
ここで彼は、アイデアと人脈の大切さを実証する。彼が実際に築城に動員した人数は、野武士の頭領「蜂須賀小六」と彼の人脈から、2400あまりである。その構成は、
  山林技術者集団・・・材木切り出し担当
  船頭衆      ・・・交通運輸の専門家
  大工       ・・・ 建築担当
  鍛冶師      ・・・ 大工道具
  野武士     ・・・ 護衛、後方攪乱、情報収集など
  その他
であった。人脈もさることながら、動員させた力は大変な物である。更に、僅か2ヶ月という短期間の内に、周到な準備をして、一気に完成させた。指揮するためには、優秀なスタッフと指揮官たる彼自身が、運輸から土木建築の知識が無くては出来ない。放浪中に人脈をつくり、学んだのであろう。
 画期的に思った事は、木曽川上流で加工した材木に、建築の位置符号を付けるなどして、墨俣で引き上げ組み立てたことである。 今のプレハブ工法そのものではないか。余談だが、日本にはこのような驚くべき技術がある。1600年後半、岡山県を流れる吉井川と旭川を結んで、農業用水の運河を造った男がいる。長さ20キロ、幅10数メートル。水位は、2つの水門で調節した。これはパナマ運河より早いという。
 一夜城の組み立ての工期は3日とも7日とも言われる。
完成した城の概要は、諸説有るが
 殿様御殿
 長屋
 馬柵
 堀
である。惜しむらくは、当時の荒削りの城がなかったことである。

天下布武の岐阜城
 


岐阜城
 天守閣のガラスケースの中にあった絵











20時ころ、岐阜駅前のホテルに空き室有りというので、泊まることにした。近くの焼鳥屋に入る。評判がいいのか満員である。路上にも椅子やテーブルを並べて1杯やっている客が多い。入り口近くレジのそばに1席空いたので座る。テーブルは、油と調味料でねばねばだ。キチャナイなぁと思いながら、ビールをよく飲んだ。翌日に酔いが残った。

 5月3日(日)雨のち晴
 頭が重い、気分も悪い。足腰の痛みもますますひどい。どうにか起きだして外を見ると、篠つく様な雨だ。雨の所為にして帰っちゃおうか、等と弱気の虫が頭を持ち上げる。どうにかそれを押さえつけ、岐阜公園の駐車場に車を止めた頃には、雨の勢いも収まり、杜牧の詩「江南の春」にあるような、……多少の楼台煙雨のうち……の風情になっていた。
 痛む足を励まして、まず、歴史博物館で知識を仕入れる。
 次に、信長の居館跡だ。
 
 
信長の居館跡
 金華山南麓にある
     









 信長はこの地で、天下統一へ心血を注いだのだろう。各地の戦闘の指揮をとり、武田・上杉対策に腐心し、武将達は信長の顔色を窺い、ひとり秀吉は叱られてもへらへらと……等々考えていると興味は尽きない。
 ケーブルカーで金華山に登る。斉藤道三の頃は、この山は稲葉山、町は井之口と呼ばれていた。信長が手中に収めて、金華山、岐阜と改めた。
 岐阜の名前の由来については、諸説がある。その内、私が気に入った説を挙げると、
 先ず岐であるが、中国の古代、周の文王が岐山より起こり天下を平定した。これは紀元前1100年頃のこと。
 次に阜は、孔子が生まれた曲阜からという。
つまり、天下を統一して平和な国を打ち立てた岐山と、学問の府にあやかろうということらしい。
因みに、「太公望」は周の文王の天下統一に活躍した人である。
 ケーブルカーの終点から更に徒歩でのぼる。途中に秀吉が攻め上った処があり、そこが千成瓢箪の最初の様だ。
 


天守閣から見た濃尾平野と長良川










 
  天守閣から南を望めば、長良川が蛇行して遠くで木曽川と近づくのが見える。昨日の墨俣はどのあたりか。この地からは築城の様子は見えなかったのか?等々遠い昔に思いをはせる。心ゆくまで?歴史に浸り下城した。
 板垣退助受難の地に立つ銅像を傍らに見て、次の目的地に向かう。

ああ関ヶ原
 決戦の前日、慶長5年(1600年)9月14日、大垣城に西軍の石田三成と指呼の間の西北約4キロ、勝山に陣を敷いた東軍の家康の陣の間を抜けて、14時ころ南宮大社に到着した。
 南宮大社に参拝。ぴかぴかの御輿が8基が印象的であった。


関ヶ原合戦
 東西両軍布陣図

関ヶ原の南に南宮山がある。
その東端に近くに南宮大社がある。

合戦は関ヶ原の西部、山を背にして待ち構える西軍に、東軍が突っ込む形で行われた。











 この辺りは、西軍にありながら傍観した毛利軍が布陣していたところだ。山上中腹には大将の毛利秀家、大社の辺りに西軍に味方する様に説いた安国寺恵瓊、そして徳川に裏切りの密約を交わした吉川広家が、毛利本軍が参戦できない様に、遮る形で布陣していた。
 この吉川広家の密約は、毛利父子の生命と領土の安泰であった。しかしながら結果は、裏切りの報酬は裏切りで大幅な領土の減少となった。
 家康最初の本陣桃配山を左手に見て、民俗資料館に向かう。知識の修正や仕入れをするためである。大勢の観光客がいる。ビデをを見ている私の前に立って、何も感じない人。家族に自分の知識を披露している人。陳列物を見ようともしないで通り過ぎる人。色々だ。
 


石田三成の本陣笹尾山











 石田三成の本陣笹尾山を北に見ながら、西に塞がる天満山麓、戦闘開始の地に向かう。ここに開戦の地の石碑があった。(冒頭の写真)霧が晴れた御前8時ころ、東軍の井伊直政と福島正則が、西軍の宇喜田秀家の陣地に突っ込んだところだ。しばし、状況を想像してみる。
 そして、更に南には、ライ(ハンセン氏病)に冒されながらも参戦していた大谷吉継の陣地がある。彼は、小早川の裏切りを感じ取って、監視も兼ねて布陣していた様だ。そこに、藤堂高虎と京極隊が掛かった。車両通行止めの看板に、よたよたと歩き出したが、足に激痛が走る。「ああ、なさけなや」 仕方がない、今回は取りやめだ。
 

関ヶ原合戦終焉の地
 石田三成の本陣から東南、さほど離れていな い  地にあった。相当な激戦だったようだ。









 終焉の地へ戻り、1時間ほど休んだ。次回は体調を整えて来ることを誓い、帰ることとした。

                            ー完ー











  7.楊貴妃の影を慕いてもろこしへ

  
                 

                   華清の池の楊貴妃像 背後の山は驪山(りざん)
                     長恨歌伝に
                        「既に水を出ずれば、体(たい)弱く力微(ちからかす)か
                         にして羅綺(らき)に任(た)えざるが若(ごと)し」
                     とあるが、どうしてどうして。


1. 旅立ち   平成11年9月10日
   帰国           9月14日


2. 行き先


@ 北京
   故宮博物院(こきゅうはくぶついん)
   明の十三陵(明の十三陵)
   万里の長城
   

A 西安
   華清池(かせいのち)
   兵馬俑(へいばよう)
   碑林(ひりん))
   大雁塔(だいがんとう)

B 上海
   外灘(がいたん)




3.はじめに
 長恨歌……。ときは西暦700年の半ば。ところは唐の都長安(現在の西安市)。皇帝玄宗と寵妃楊貴妃の、尽きることが無い愛情と悲恋の物語を、僅かに遅れて生まれた白楽天が、美しく歌い上げた詩絵巻である。
 私がこの作品に出会ったのは、高校の漢文の教科書であった。
 
 漢皇(かんこう) 色を重んじて 傾国(けいこく)を思う    (玄宗皇帝のこと。出来た時代が近いので漢皇とした)
 御宇(ぎょう)多年 求むれども得ず 
 ……
 七月七日長生殿 夜半人無く私語の時
 天に在りては 願わくは比翼(ひよく)の鳥となり
 地に在りては 願わくは連理(れんり)の枝とならん
 ……

等々。名句がたくさんあり、多感な年頃の私は、完全に虜になってしまった。通学の途中、歩いても、列車に乗っても1句7文字、120句840文字の詩を口ずさみ、この大ロマンの世界に酔い痴れたものである。
 定年退職後、ゆっくりと訪ねようと考えていたところ、ぴったりのツアーがあって、それを利用することとした。即ち
「三つの世界遺産を巡るいにしえの旅」
である。早速、図書館と自分の蔵書でポイントのみ知識を仕入れた。


胸を膨らませ先ずは北京へ出発
9月10日(金)曇
 集合は、岡山空港10時40分、出発は12時40分である。ターミナルビルに近い駐車場を確保する為、1時間前に到着した。この時間は、近くは既に満車で1番遠いところしか空いていなかった。幸先悪いな、いや厄払いかな、などと他愛も無いことを考えながらターミナルビルに到着した。
 この日の海外旅行は多いようだ。土日の休みを含めて出かけるのであろう。HISが中国5都市、近畿日本が江南、JTBが韓国・中国・グアム、そして阪急交通社が中国。客層は男性は中高年、女性は中年が多い。
 時間となり、わがパーティの集合だ。甲高い声が、挨拶している。添乗員は小柄なお嬢さんだ。40人の引率は大丈夫かいな。観察するうち、経験豊富、人扱いも合格と見た。さらに、個性の強すぎる人がいるかどうか、見回す。楽しい旅行になるかどうか、大事なことである。幸いにしていないようだ。ホッとする。
 12:53 離陸。飛行機は、中国東方航空MU528便で135席。機内放送は、中国語で、時々日本語の放送だ。
 程なく楽しみの機内食が出た。鮭蒸し、スパゲッティ、パン、瓜そして野菜サラダである。
 上空は晴、海も眼下に鮮やかに見える。中国大陸に接近すると、灰褐色のスモッグで視界が悪くなった。中国政府も大気汚染に悩んでいるときいたが、これはおおごとだ。
 13:48(日本時間14:48。以下中国時間)上海空港着陸。岡山空港からは、北京直行便がないので、上海で国内便に乗り継ぎである。予定は、17:15発の便、3時間あまりの待ちである。時間があるので、ウインドゥショッピングで時間をつぶそうと、歩き回っていたら、早い便に乗れることになったので集合してください、と添乗員が告げてまわっていた。40席もの空き便があったのか、ラッキーである。
 16:05 離陸
 17:40 北京空港着陸
 

天安門広場











現地契約旅行者の 「田 (でん)」さんの出迎えを受ける。流暢な日本語で中国人とは思えない。市内までの30分間北京の概略の案内があった。要約すると
1.面積  16,800ku 日本でいえば、四国に相当する。ただし、3/4 は山である。
2.人口  1,260万人 外に流動人口 300万人
3.歴史  ・都としては、明の永楽帝が定め、紫禁城は永楽18年、1420年に完成した。以後1924年溥儀
        が追われるまでの500余年に明・清を通じて24人の皇帝が住んだ。
       ・玄宗皇帝に背いた安祿山は、この地で軍事・政治の一切を掌握していた。
       ・城壁は1973年、毛沢東の命令で取り壊した。そのため、北京市は郊外に向けて、ドンドン発展
        している。
4.交通  ・北京の道路事情は、車が多く、一部を除いては道路が狭い。従って運転技術が相当上である。こ
        こで運転できれば、世界中で運転できる、と田さんは自慢している。さらに、狭い路上でも、駐車
        禁止になっていない。
       ・通勤の主体は、自転車である。市内には400万台はある。自転車にはライトがついていない。理
        由は、目がよいから、と言っていたが、さて……。
5.その他

 夕食は、ニューアークホテルで四川料理だそうだ。
 

夕食の風景
 








                               
 中国料理は円卓である。40人のパーテイは、8人、5人、3人、2人などなどの寄合いである為、席割を上手にしないと、仲良しが離れ離れになるのである。そこで、1人参加の私は調整要員として便利な存在となった。今回は、岡山県北部の勝山からの8人組と同席となった。
 飲み物としてビールを注文した。1本20元、日本円に換算して、270円程度だ。安いものである。同席の誰かが、前払いの積りで、1000円札を渡そうとして、添乗員に止められた。どうやら、前払いと前受けの習慣が無く、チップと思い込み、取られてしまうそうだ。支払は、キャッシュ オン デリバリー が原則だ。


北京の夜景そしてハプニング
 夕食を終えてバスにてホテルに向かう。ガイドの田さん、妙なことを言い出した。
「10月1日は建国記年日です。行進などの練習が、今夜天安門広場であります。そのためにその周辺は通行止めです。今朝、突然発表になりました。ただし、このバスは、ホテルの責任者が交渉して、通れると思います」
この報告に皆安心して、衣裳を着け練習に向かう並走するバスの少年少女に手を振っていたものだ。
 21時過ぎ 渋滞のバスの車窓からは、路上に涼を求めている人々の群れが見える。また、20人ほどの人だかりが歩道上でしている。よくみると、上半身裸体の10人ほどの男達がトランプに打ち興じ、その背後で10人ほどが見物している。それが方々にたくさんいる。
 目をタクシーに向けると、小型が多い。そして、助手席と後部座席の間が仕切られている。田さんによると、強盗から身を守るためで、この設備をしないと営業許可が下りないそうだ。
 余談だが、明治の初めに日本人は、中国人への挨拶に、
「孔子様の国にお生まれになってうらやましいですね」
と挨拶したとか。当時の中国は4億程度の人口だ。全てが善人と思っていたのだろうか。日本人は甘いな。
 更に目を転じると、自転車で引く2人乗りのタクシーがある。日本のリアカーを改造して自転車で引く方式だ。
 女性の服装も、ミニありロングありまちまちである。
 ある広い通りで交渉の結果を待つこととなった。勿論通行止めのところを通す為の官憲との交渉である。バスの中はクーラーががんがんと効いて寒い。風邪を引きそうだ。乗物にもエアコンの普及は低い。そこで、エアコンが付いているバスは、がんがんと効かすのだ。それがサービスなのである。
 23:15 交渉は不調に終わった。車だけでなく人も通さない、という。皆、裏通りを荷物を持って歩くことになった。街灯が少ない通りは薄暗い。それでも、灯りのあるところでは、トランプを楽しむ男達がいる。
 通りから横道を見ると、ここは住宅地で1階建ての煉瓦造りの長屋である。各家の入口に、2〜3段の階段があり、ドア1枚の玄関がある。TVや新聞雑誌で紹介される庶民の生活風景そのままだ。
 こんなところを、夜1人で歩いたら、どのくらい安全が保てることやら。今宵の宿は、首都大酒店である。約20分で着いてホッとする。
 部屋割り、翌日のスケジュールなどのミーティングの後散会。私の部屋は18階、冷蔵庫からワインを取り出し、ライトアップされている人民大会堂、瑠璃色の屋根の天安門、故旧博物館を肴に1杯。ああ、うまい!
 00:00 日本人の体格なら4人は寝れる広いベッドに、6尺大いに足らずの乃公(だいこう=おれ)ご就寝。
 


紫禁城の規模のおおきさにびっくり
9月11日(土)晴
 5時半頃だろうか、北京の朝が白々と明けはじめた。東の方向と思うが、人民大会堂、天安門そして紫禁城(今は故宮博物院とよぶ)が浮かび上がる。道路には人影が無い。北京全体が夢の中である。


早朝の北京市内
 ホテルの窓から故宮博物院方向
 を望む









 8:00 予定どうりホテルを出発。天安門広場を1周する。この広場は、東西500メートル、南北880メートル、総面積44万平方メートルで中国最大の広場といわれる。この広場があったればこそ、中華人民共和国の首都になったと田さんは言う。今を去る50年前の1949年10月1日、毛沢東主席は、100万人の人々の前で「中華人民共和国」の建国を宣言した。この広場は、国の内外で中国の観光名所になっている。毛沢東記念堂参拝の行列が延々と続いていた。今朝3:30まで記念行事があったそうな。


故宮博物院入口付近










 故宮博物院の西華門で下車、ここから故宮の正門である「午門」まで徒歩である。幅50mの堀、高さ10mの赤褐色の城壁に囲まれた故宮は、南北960メートル。東西750メートル、面積72万uの壮大な規模をもつ。そしてこの中には、大小60以上の殿閣が建ち、9,000以上の部屋があるといわれる。


故宮博物院  観光案内書から
←神武門
←これより乾西門まで内廷(生活エリア)

←乾西宮  皇帝の執務殿
  
←乾西門 これより北(上)内廷
←保和殿  科挙の殿試の会場
←中和殿  皇帝の控殿
←太和殿  重要な式典に使用
      (即位式、元旦、天子の誕生祝他)
←太和門


←午門







←天安門




紫禁城見聞録
写真でお馴染みの角楼をまわり、午門から入場する。

(太和殿)
 太和門の北には広大な広場があり、その向こうに壮麗な太和殿が姿をあらわす。


太和殿











(1)緑のない広場
  この広大な広場には、樹木がない。これは、暗殺者が身を隠すのを防止する為だそうな。

(2)巨大な大理石の彫刻
  太和殿の手前中央に大理石の彫刻がある。その左右に皇帝専用の階段、そして家臣の階段がある。この一枚岩の白い大理石は、重量は200トン、原石が推定300トン。長さが17.6mある。奥地からの運搬は、冬に道路を凍らせて、その上を滑らせた運んだそうだ。
 彫刻は9匹の龍である。何故9匹なのか。昔から中国では、奇数でしかも「9」が良いとされている。したがって、可能な限り階段、柱、彫刻の数等々、9匹、9個が多い。したがって、この龍の彫刻も9匹である。
 何故ここに龍が登場するのか。これは、私のかってな想像である。漢の高祖「劉邦」は顔が龍に似ていたそうな。父親も龍に似ていたとか。また、母親が農作業をしていたときに、龍が現われて、劉邦が生まれたという。この辺りは、皇帝を神格化するための、後世の作り話であろう。この頃から、皇帝の美称を龍顔(りょうがん)といわれるようになった。誤解かも知れないが、皇帝と龍との結びつきはこの辺にあったのではないか。
 


 白大理石の龍の彫刻
  左下が赤いのは、私の失敗で現物は白
  である














(3)多くの水がめ
 建物の周囲に多くの水がめが配置されていた。防火用水である。かつては、3kgの金箔が施されピカピカに輝いていたそうである。いまは、僅かに付着している程度だ。これは、清朝末期、列強が攻め込んで、将校下士官は、財宝をとり、取るものがない兵士は金を削り取ったそうだ。

(4)赤い柱
 建物の朱い柱は、楠の大木である。虫が入らず、防腐処理がなされている。現代ではそのような技術はない。さらに、その記録は無く、活用できないそうだ。惜しいことである。

(中和殿)
 内部を一巡して、中和殿に向かう。ここは、皇帝が大和殿にはいる前の控え室である。


宝座
 大和殿の宝座はもっと大きく、
 柱も金箔であった。










 殿内には各種の宝物が展示してあったが、大部分は台北の故宮博物館にあるという。

(珍妃の井戸)
 生活エリアのとある御殿の狭い中庭に、真中に大きな穴をあけた石臼のような井戸があった。ガイドの田さん、噂ですよ、と念を押しながらもこんなことを言い出した。(一部は私の調査)
 清朝末期の皇帝は光緒帝である。彼は急進改革派で、先進国と肩を並べる為に西太后路線を打破し始めた。西太后の意を汲む保守派は、陰に陽に妨害した。そして、光緒帝の相談相手でもある寵妃の「珍妃・ちんび」を抹殺した。
 自殺を強要したが拒否した為、殺され、ばらばらにしてこの井戸に投げ込んだという。この辺の経緯に付いては、浅田次郎氏が「蒼穹の昴」「珍妃の井戸」で述べている。


珍妃の井戸












 この国には残酷物語は結構あるみたいだ。因みに
(1) 漢の高祖の妻呂后(りょこう)
 呂后の残虐は有名だ。漢の高祖劉邦は、戚姫(せきき)を熱愛した。高祖の死後、彼女は仕返しをした。
 その方法は戚姫の手足を切り、目をえぐり、耳を焼いてただれさせ、薬で声を出させなくし、厠の下に置き人豚と呼ばせた。
 (注)当時、トイレの下に豚を置き、人糞の処理をさせた。

(2)唐の則天武后(そくてんぶこう)
 中国で唯1人の女性の皇帝である。この人も残酷だ。目的の為には手段を選ばず。
 まだ若い頃、時の皇后を陥れる機会を狙っていた。皇后が、皇帝と自分の間に出来た娘の出産を見舞いにきた機会を逃さず、自分で殺し、皇后の罪とした。さらに、皇后と皇帝の寵妃の二人の手足を切り落とし、酒がめに投げ込んで殺した。
 生々しい記述をこの辺で終える。

11:00 北の神武門から下城、民の十三陵ヘ向かう。紫禁城の見学には相当な日数が必要だ。我がパーティは2時間少々で走りすぎたというところか。
 
 
明の十三陵
 北京の街路樹は、えん樹の高木が多い。市内のうっそうと繁る間をしばらく走り抜け、高速道に入る。車窓からは、レンガを積んで新築中の家、周りに広がるとうもろこしの畑が限りなく広がる様子が通り過ぎる。
 途中の道の駅のようなところで昼食だ。1階が売り場、2階がレストランだ。私はここでも座席の調整要員となる。   レストランでは、PR用のずいぶんと強い酒を飲んで、いい気分となった。料理が何か覚えていない。
 1階の売り場では、娘2人に絹のネッカチーフを求めた。バスの中で、値切りの秘訣を添乗員が言っていたのを思い出して、試してみた。
 「半値にしたら、買うよ」
 「とんでもない、20%引きますよ」
 「40%引きなさいよ」
 「それでは減価以下になります」
結局、30%引きでまとまった。色と柄は年齢を言って、選んでもらったのだが……。
 


長陵(永楽帝)の遠望










 明16代(1368〜1644)の皇帝のうち13代の墓が、北京市内から西北に50km離れた、この地にあった。入口から最も近い3代永楽帝の長陵まで7kmある。途方も無い広さである。視野に映る方々の山腹の樓閣は、それぞれの皇帝の陵墓の所在地である。発掘が済んでいるのは、3代永楽帝の長陵と14代萬暦帝の定陵である。が、見学できるのは、萬暦帝の定陵だけである。(その後更に追加されている)



定陵の城壁
(14代萬暦帝の陵墓)








 

 ガイドから、組織的な集団スリ、押し売りが多いので気をつけるように注意があった。駐車場に入ると、物売りが早速寄ってくる。テントの売店から「千円、千円!」の声がかかる。一行、無視してガイドの後に続く。
 この定陵は歴代皇帝の墓の中で最も贅沢だという。白銀800万両(1000万人の1年分の食費)とか、当時の国家予算の2年分を費やしたとか、聞こえるが、いずれにしても莫大な金額である。
 工期は、10歳(1578)で即位して、58歳で死ぬまでの48年間にわたって建設した、とも。また21歳からの37年とも聞く。実際の建設期間は、7〜8年だったらしい。
 雲南省の大理(大理石の語源)に産する石を、現代のように輸送手段がない当時、山を越え川を越えて運ぶのである。相当な労力を費やしたに相違ない。コストの大半は輸送費だったかもしれない。
 この皇帝、本屋での立ち読みの知識では、国家財政の内情を無視した浪費家だったようだ。
 安置してある部屋は、地下27メートル、150段の階段を下りたところだ。設計では、皇帝と皇后の部屋は別なのだが、同じ部屋に安置された。皇后の部屋の入口が狭く、柩が入らなかったから、という。これが真因とすれば、金を使う割にはずいぶんとお粗末過ぎよう。ガイドの冗談か?
 安置されたミイラは、完全な生活反応を起こしそうな状態で発掘されたそうだ。エジプトにも劣らない、漢方の技術だ、と田さんは得意げだ。さらに、発掘して無酸素状態から、大気に触れて組織が破壊された、とも。漢方の技術とは、無酸素状態にする方法なのだろう。
 現在、皇帝の遺骸は色々と研究中で、解決されないと他の皇帝の陵は発掘されないそうだ。


万里の長城で感無量
娘たちが未だ幼い頃、ダンチョネ節の替え歌を借用して
「お父さんは、万里の長城に行ったら、立ちションをする。そして、ゴビの砂漠に虹を見るんだ」
などと、冗談を言っていたが、本当に立つことになった。(立ちションはしていない)
 

万里の長城











 月から肉眼で見える唯一の構築物と云われる万里の長城は、全長6700キロメートルである。東は、渤海湾(ぼっかいわん)の山海関から西は甘粛省の嘉峪関(かよくかん)まで延々と続くのである。
 漢民族は、北方民族の侵略に絶えず脅威を抱いてきた。その対策として、彼らが採った方策は、越境できなくする方法と、撃退する為の防御陣地として、長い長い城を築くことだった。
 紀元前7世紀、春秋時代の諸侯が築城したのが始めとされる。その後、補修新築が続けられて、大土木工事家でもあった秦の始皇帝が、今の原形にしたといわれる。30万人の軍兵、数百万の農民を徴用しての大工事であった。その後、歴代の王朝が増改築を重ねて、今の長城になったのである。
 今の日本円での金額評価は? 経済の波及効果は? 延べ人員は? その他疑問が湧くのだが、寡聞にしてその試算にお目にかかっていない。
 

望楼
 長城のところどころに設置されている。
 
余談
 下戸という言葉がある。酒を飲めない人のことである。語源は、この望楼である。
 上と下では寒さが違う。上の戸で見張る人は酒で暖を取った。下の戸で見張るのは飲めない人。ということのようだ。



 北京の近くでは、4箇所が観光客に開放されている。我々が見学するのは、北京市の北西70キロメートルの「八達嶺」である。
 バスが山間に入る頃、左右の山頂を連ねて美しい城壁が見え始めた。さあ、着いたと思ったらまだまだ北上する。
到着したのは、城壁から徒歩で15分の地点の駐車場である。
 ここでも、悪質なスリ、押し売りが多いので気をつけるよう次のレクチャーがあった。
  1.目を合わすな
  2.相手にするな
  3.財布を見せるな
  4.要らない場合、はっきりと「プーヤオ」と言え     不要とでも書くのかな?
駐車場から歩き出すと、早速のお出ましで、城壁の登城口までの間、しつこく売りつける。商品は、絹のハンカチ、コイン、絵はがき、果物などである。彼らは女性客にしつこいようだ。私にも、千円、千円と寄ってきたが
「プーヤオ」
きっぱりと言ったら、離れていった。
 登り口から緩やかな右方向に進む。数えて4つめの望楼まで、息も絶え絶え、太ももの筋肉痛を我慢しながら歩いた。平成天皇は3つめまで歩いたそうな。我がパーティには、80歳のお爺さんが2人いる。60歳の鼻たたれ小僧の私を元気に追い抜いていく。負けるものか!
 この城壁は、高さが平均7.8メートル、幅は6メートルだそうな。馬が5頭並んで歩けるそうだ。城壁の上は、敵が来る北側が少々高く、銃眼(当時は矢を射た)があり、南側は腰の高さまでであった。
 


望楼 頭の後ろから
1.登り口

3・・一番高いところ
4.左の端











北京ダッグに舌鼓?
 17:10 八達嶺を出発。ふくらはぎ、太ももが痛い。周りを見まわしても、痛そうな顔は見あたらない。運動不足かな、結構山歩きをして鍛えてきたんだがな。
 田さん、食事の前に漢方の病院に案内してくれた。買わなくてもよいので話だけ聞いて、という例の手である。体内の静電気で電灯を灯したり、肩こりのひどい人を、少し触るだけで軽くしたり、いろいろと演出して商売につなげようとしていた。私も、強肝剤を買ったが、はたして効くのか疑問である。どうも、うまく乗せられた気がする。
 ペキンダッグ。中国へ行ったことがない人でも、この名前は聞いたことがあると思う。丸々太ったアヒルの皮に飴を塗り、こんがりと焼いて皮を削り、ネギと特性の味噌とを小麦粉で作った餃子の皮のようなものに巻いて食べる。
          


ペキンダッグ調理のデモンストレーション
 客席の一角に設けられていた。














 では、ペキンダッグと他のアヒルとではどこが違うのか。食べ方が同じであれば、差がないではないか?
 このような疑問を先取りして、田さんは説明する。他のアヒルとの差は皮下脂肪にあるという。農場でなく工場でアヒルを飼育すると云っていた。むりやり餌を口から詰め込み、皮下脂肪を1cm位にするそうだ。だから、工場と表現したという。この皮下脂肪が焼いたときの味に、大きな役割をするそうだ。
 我々が行ったのは、北京で300年の歴史を持つ「全聚徳……」である。
 料理が運ばれてくるが、ペキンダッグではない。いつものような中華料理だ。私は紹興酒を注文した。1瓶(多分760ml)50元、日本円で760円程度だ。同テーブルの人のビールは運ばれてくるのだが、私の紹興酒はこない。右隣の90歳くらいの人が、気の毒がってビールを勧めてくれる。「もうじき来ると思うから」と丁寧にお断りしたものの、手持ちぶさたでもあり、食事が終わってから来るのではないか、と気がもめる。どこで見ていたか、添乗員が様子を聞いてくれた。いま、温めているそうだ。それからでも随分時間がかかった。やれやれ、中国人は動きがゆっくりしているとは聞いていたものの、私のせっかちさではついて行けない。やっときた。豪華な器とほどよいお燗だったので、それまでのやきもきは忘れて、機嫌が直った。
 肝心のペキンダッグは、これも時間がかかった。焼き上がった1羽だけ見えるところでさばきだした。味は、正直言ってよく分からない。世界の名料理も私にとっては猫に小判だ。
 21:00 ホテル着。例によって厳しいスケジュールのお達しだ。
   5:30 モーニングコール
   6:00 朝食
   6:30 出発
   8:30 北京空港離陸
 22:00 就寝したのだが、足の痛さで眠れない。うつらうつらとして、2:00頃眠ったと思うのだが、4:00頃起き出してしまった。睡眠時間2時間なり。


朝のホテル周辺そして空港へ
9月12日(日)晴
 さあ、今日はまだ見ぬ人「楊貴妃」に会える。年甲斐も無くうれしくなる。玄宗皇帝が、息子から楊貴妃を取
り上げたのが60歳ころだ。私も同じ年頃、いいではないか。
 ベッドから起きだす。足が痛い! そろりそろりと歩き出す。しばらくして慣れた。
 バス出発の時間までホテルの前を散歩する。中年のおばちゃんが笑顔で挨拶をくれる。「人懐っこいな」と思
いながら見回すと、日本人の母娘がホテルをバックに写真を撮り合っている。
「シャッターを押しましょうか」
と声をかけたら
「日本の方ですか、日本語を聞くと安心します。お願します」
と母娘に依頼された。
 定刻にバスに乗る。先ほどの人懐っこい中国のおばちゃんは扇子売りだった。愛想がいいわけだ。バスの乗客相手に扇子を売り出した。最初6本は1000円。そのうち当方の値切り方が上手になって、最後には10本1000円迄値引きしていた。買った人も結構いたが、すぐに壊れる粗悪品も結構あったようだ。私はプーヤオ。
 さあ、空港へ出発だ。道路は片道5車線が、40キロも続くそうだ。走るバスの窓から、街角の広場を利用して、女性たちが踊っていた。最初は太極拳かな、と思ってよく見ると、エアロビクスみたいだ。別の街角では、老人達が太極拳を緩やかに演じていた。私はこれをじっくりと見たかったのだ。10年以上も前に台北を訪れた時、暗いうちから公園に出かけたことがあった。「看太極拳」のメモをホテルのフロントに貰ってタクシーに渡した。行ったところは、台北駅近くの公園だった。確かに、人が集まり今にも始まりそうだったが、おしゃべりばかりで結局は散っていった。とても落胆した苦い記憶が甦った。それにしても太極拳をしていたのは、老人ばかりだ。若者はどうしたのだ。
 高速道路の沿線に豪華なマンションが3棟見える。松下の合弁工場に勤務する従業員のだそうだ。家賃無料。隣接の工場では、テレビの部品を作り、中国全土の工場に供給しているそうだ。



体験「中国トイレ事情」
上海・北京・西安と飛行機が到着すると、皆さんは一様にトイレに向かっていく。
 日本人は特別にトイレが近いのだろうか。ベネチアを散策していたとき、青くなってトイレを探していた老婦人がいた。公衆トイレは見かけない。どうやら、店で買い物をしてすませたようだが……。
 「洗手間」と書いてあるトイレット。入るとまた「小心地滑」の活字が目に入る。スリップにご注意とでも訳そうか。
 トイレは、男女別々は当然として、各個室のドアは、鍵が壊れているのが多かった。そして、ドアの下は、10〜15cm空いていているのだ。これはまだよい。
 西安の大雁塔のある大慈恩寺の公衆便所に入った。ここの個室にはドアがない。大と小の間には高さ1メール弱の衝立がある。私は小だ。振り返ると、 各個室でしゃがみ込んで用を足している人たちが、皆一様にこちらを見いる。目があって、思わず吹き出しそうになる。 後刻添乗員と話していたら、外国人専用を使ってください、ということだった。外国人専用は、土産店内にあるそうだ。
 トイレットペーパーは、各個室にはない。トイレの奥の壁に太い針金で釣ってあった。利用者は、使う分だけ取って行くのだ。私が入った個室の片隅には、使用済みの生々しいそれが流さずにおいてあった。どう理解しようか?
 10日の北京でのバスに缶詰された時のことだ。女性客の中から、トイレに行きたい、との声が上がり始めた。公衆便所は近くにはない。皆さん我慢をされて、裏通りをホテルに向かって歩いていた。すると、くみ取りの臭いがしだした。案の定公衆便所だ。電灯もない、汚い、治安が心配だ。「公衆便所がありますよ」と言いかけてやめた。無神経、とでも叱られるところだった。
 料金は、ホテル・レストラン等以外は有料だ。明の十三陵では、5角(7円程度)だった。添乗員がまとめて入場券を買っていた。
 (注)トイレは、「厠所」とも表示してある。



西安到着
「西安」 長安という名のもとに、洛陽と並んで著名な中国の古都である。土地肥沃にして水よし。四塞強固にして、守りやすく攻めにくい。シルクロードの起点。古代から国際都市。歴史の宝庫など。
 そして現在は陝西省の首都、人口は約300万人である。
 「西安に行かずに、中国に行ったと云うなかれ」と現代の思想家は云う。歴史と文化を云っているのであろう。私の情報は、小説、雑誌からのものだが、行ってみたいところが結構ある。
1.秦の始皇帝関係の、兵馬俑、咸陽、阿房宮ほか
2.項羽と劉邦の「鴻門の会」の場所
3.三国志の関係
4.玄奘法師関連、大雁塔
5.則天武后
6.玄宗皇帝と楊貴妃関連。華清の池、興慶宮そして馬嵬(ばかい)
などなどである。
                       

西安咸陽空港
 西安の西45キロの位置にある











 10:10 西安咸陽空港着陸。北京を離陸してから1時間40分の空の旅である。天候は曇天で、気温は26度。昨日は36度まで上がったそうだから、大分涼しい。
 出迎えのバスの周辺を、小学生低学年程度の裸足の少年2人、大きなポリ袋を持ってうろうろとしている。現地ガイドに問う。
「彼らはなんぞや」
「バス内のゴミ収集のアルバイトなり」
の返答があった。よく見ると、アルバイトの外に物乞いをしている。終戦後日本の子供たちも進駐軍の米兵に手を出して、チュウインガムなどをねだっていたのを思い出した。私も昭和21年が小学1年生だ。私の郷里には進駐軍が来ることはなかったので経験はない。が、来たとしても厳しく躾けられていたので、手を出すことはなかったと思う。
 年配の男性が、何かをあげようとして、バスの窓を開けようとしている。思いは、私と同じなのか。子供たちは、それを目敏く見つけて、走り出すバスを慕って必死に併走してくる。ついに窓は開かなかった。

 
田園の風景











 この空港は、西安の西45kmの位置にある。これからの行程は、秦の始皇帝の兵馬俑と華清の池を見て、西安に入ることになっている。
 街をでると一面にトウモロコシ畑が延々とどこまでも続く。この地区には米は出来ない。麦とトウモロコシの二毛作だそうだ。
 集落が所々にあり、道ばたに店を開いて何か売っている。大きなトマトかと思い、よく見ると、ザクロだった。兵馬俑に近づくに従い、沿線にザクロ園も多く、大きな籠に山盛りにして、農民が売っている。ここは、ザクロの産地だそうだ。


兵馬俑の風景

兵馬俑の入り口













 昼食をすまし兵馬俑に向かう。駐車場からは、土産物屋の中を突っ切り参道に出る。日本国内をドライブしていて、トイレを借りようとして、店内を通らなければ使えないようになっている。そのそこには、少しでも売りたい、の気持ちが読み取れる。ここも同じようだ。参道の両側にも土産店がいっぱいだ。のぞいてみると、土産で多いのは兵馬俑のレプリカだ。子供も一生懸命客引きをしていた。

 当時の寸描
秦の始皇帝(前259〜210)。当時の六国(韓、趙、魏、楚、燕、斉)を次々と攻め滅ぼし、天下を統一した。ちなみに合従連衡の言葉は、当時の対秦政策のことである。すなわち、合従は「六国連合して秦に抵抗せよ」であり、連衡は、「各国が独自に秦と条約を結べ」すなわち、投降して臣従せよ、であった。
 統一がすむと、彼は各地を巡幸して秦の勢いと彼の顔を見せて歩くこととなる。後に天下を争った2人の英雄は、始皇帝の姿を見て、こう叫んだという。項羽は
「彼取って代わるべきなり」
と言って、叔父を周章てさせた。「取って代わる」と今でも使われる言葉の語源は、ここにあった。
また、ライバルの劉邦(漢の高祖)は
「大丈夫、まさにかくの如く成るべきなり」  (男はこうなきゃだめだ)
と言って、無性にうらやましがったそうだ。

発掘された当時の4頭だて馬車









 5回目の夏の暑い盛りに、彼始皇帝は50年の生涯を終えた。余談だが、その死はは秘せられた。武田信玄も、その死を3年間は隠せ、と言ったのは有名だ。死臭を隠すために、鮑魚という臭いのきつい魚を積んだ馬車を併走させて誤魔化したそうだ。このあたりで、平家物語のはじめに、悪役の代表格で登場する「趙高」が活躍している。
 在位37年。この間に彼始皇帝は、万里の長城の増改、咸陽(かんよう)近辺の阿房宮の建設、などなどの事業を起こした。その威風が残されているのは、36年の歳月を要した「秦始皇帝陵」だけである(後述)。そして、1974年、西安市東30kmの畑で農民が井戸を掘っていて、2000年間地中に潜んでいた騎馬軍団が突如出現したのだ。



続兵馬俑の風景
 兵馬俑の内部は写真厳禁だ。警備が厳重で、違反して撮影している観光客がどんどん注意されている。従って私も、観光案内などの写真を借りている。
 兵馬俑は、3号抗に分かれる。

 
 

秦俑頭像
 観光案内から

頭部の彫刻が最も真に迫っているという


















 1号抗は、観光案内でもお馴染みの兵士達の傭(埴輪)だ。「科頭の鋭士」といって兜をかぶらない兵を指す。彼らは実に勇猛果敢で、敵方に恐れられたそうだ。顔かたち表情は、出土した数千点は皆違っているという。鼻高く、目は細長くそしてコールマンヒゲを蓄えている。首にネッカチーフを巻き、おしゃれだ。身の丈は6尺はありそうだ。戦袍(せんぽう)に鎧で身を固め、今にも動き出しそうだ。
 それに比べて、馬は現在と比べて小さい。河西馬といって、頭の高さ154cm、体の高さ130cm、身長200cm だそうだ。ちなみに、日本の馬も日露戦争までは小さかった。このままでは、とてもロシアの騎兵隊と戦えない、と時の秋山陸軍少将はヨーロッパの馬を急いで輸入したという。司馬遼の「坂の上の雲」で読んだ記憶がある。・・・2006年のNHK大河ドラマに予定されているとか・・・。
 
 

兵馬俑の入場券











 2号抗は発掘中であったが、矢を射る射手部隊や戦車からなっている。演出効果を狙ってか、照明は暗くしてある。参観通路には、士官や腹が突き出た将軍像(将軍腹というそうだ)が立っており、
 「2200年後の日本人よ、よくぞおいでなされた」
と、挨拶しているようだ。
 3号抗は司令部の人馬俑だ。


秦の始皇帝陵
 

秦の始皇帝陵












 兵馬俑を出てまもなく、秦の始皇帝陵がよく見える場所で写真タイムを取ってくれた。
正しくいうと、秦の始皇帝の規模は、全周囲2.6キロの内城と、それを更に包み込む全周囲6.3キロの外城全体である。写真の小高い丘はそのほんの一部である。そして騎馬軍団の兵馬俑抗もその一部である。
 司馬遷(しばせん、紀元前140〜 )の「史記、秦始皇本紀」には次の記述があるそうだ。

 まず、地面を地下水がわくところまで掘り下げ、そこに銅板を敷き詰めて墓室を作った。墓中には、地下宮殿が建設され、死語の始皇帝に仕える文武百官の居場所もそれぞれに定まっている。珠玉をはじめとする宝物類が満ちあふれ、人魚の脂をあかあかと燃やして照明とする。盗掘を防ぐために、墓中に侵入する者には機械仕掛けで矢が射かけられる様になっている。(つまり、今風に云えばセンサーが働いてオートマチックで矢が発射されるのである。すばらしい技術だ。)
 周囲には水銀を注いで、大河大海が取り巻く地形となっている。上方には日月星辰が輝き、下方には山あり河あり大自然をそのまま模してある、と。

 未発掘のこの墓園には、殉死・強殺された人達が多数眠っているという。子供を産んでない宮女一万人が殉死、工匠3千人が墓中の模様が外に漏れるのを防ぐために閉じこめられた、という。このほか夥しい犠牲者が居たと思われる。



いよいよ華清池(かせいのち・・主な歴史
 西安市の東25キロメートル、驪山(りざん)の北麓に温泉が湧き出る華清池がある。兵馬俑から20分ほどで到着した。

西安周辺マップ
 
西から
楊貴妃墓:馬嵬(ばかい)にあり
阿房宮:西安の西。始皇帝の新宮殿
西安:唐の時代は長安と称す
華清池:西安の東
始皇帝陵:更に東








 駐車場には、頭が1/4ほどがない元軍人らしき男が物乞いをしていた。よくも生きているものだと感心する。
 華清池には、3つの大きな歴史があるという。物の本を簡略にまとめてみる。

その1 周の幽王(紀元前782〜771)の事件
 褒似(ほうじ)という美女に迷って国政をおろそかにした。
 この美女は笑ったことがないらしい。笑ったのは、異民族が攻めてきて、軍兵が慌てふためいた時らしい。幽王は笑わせようとして、戯れに何度も驪山に狼煙(のろし)を上げさせた。駆けつけた諸侯は、虚報と知って、実際に犬戎が攻めてきたときも、虚報と思いこみ、兵馬の動員はなく、幽王は殺された。狼と少年という童話とそっくりだ。

その2 玄宗皇帝と楊貴妃のロマンス
 「漢皇色を重んじて傾国を思う」、と白楽天の長恨歌で紹介された物語のはじめの頃の舞台となったところだ。詳しくはあとで述べるとして、女にうつつを抜かし、政治をおろそかにして、亡国の瀬戸際に立ったのだ。女は恐ろしい、いや、のめり込む男が弱いのか。
「これより君王早朝せず」。昔は、政治は早朝になされた。従って早朝せずは政治をしない、という意味だ。我が国の朝廷の語源も、このあたりにありそうだ。玄宗皇帝殿は、楊貴妃に出会ってから政治をすっぽかしたのだ。

その3 西安事件
 1936年(昭和11年)、蒋介石は、毛沢東率いる共産軍と戦っていた。日本軍との戦いでは、逃げ回っていたらしい。西安地区の共産軍との戦いを督戦するためこの地を訪れた。ところが、配下の軍閥、張学良等によって監禁され、国共合作を約束させられたのである。彼が監禁されていた部屋が残っている。



長恨歌の世界へ
 

楊貴妃像・・冒頭と重複するが・・











 バスの駐車場と華清池の入り口との間には、交通量の多い、広い道路がある。みんなで渡れば怖くない、とばかりに横切る。入場して間もなく、左側に九龍湖なる池があり、朱色の建物を映して美しい(冒頭の写真)。
 人だかりがするあたり、楊貴妃の入浴前かあとの像をバックに中国人も日本人も写真を撮っている。私も角度を変えて2枚、中国人と日本人に撮ってもらった。帰国後現像したら、やんぬるかな、2枚とも写っていない。楊貴妃に嫌われたようだ。少なくとも、関心を持ってもらったことを喜ぼうか。彼女は、ふっくらとした豊満な美女である。皇帝殿が政治をほったらかすのも分かる気がする。


華清池の一部
 後方の山麓の建物が、蒋介石の幽閉されていた建物と記憶している。










 楊貴妃。幼名を楊玉環という。出身は成都ときく。玄宗の息子寿王の妃である。彼は、楊貴妃が現れる前の寵妃であった「武恵妃」の息子で一時太子であった。見初めて、息子から取り上げるのに、出家の為離婚させ、出家させそして還俗(げんぞく)させるという手続きを踏んだ。妃とは皇后の次の、女官では最高の位だったそうな。
 しばらくは、長恨歌の世界に遊ぶこととする。
 長恨歌はその出だしを次のように歌う。(長恨歌の詳細は、ホームページの私の好きな漢詩漢文をご覧ください
     
      漢皇(かんこう)色を重んじて傾国(けいこく)を思う          漢皇:漢の皇帝、実際は唐の玄宗皇帝
      御宇(ぎょう)多年求むれども得ず                    傾国:絶世の美人
      楊家(ようけ)に娘あり はじめて長成す                 御宇:御治政
      養われて深閨(しんけい)にあり 人未(いま)だ識(し)らず      深閨:屋敷の奥深く
      天性の麗質(れいしつ) 自(おの)ずから棄てがたく
      一朝選ばれて君王(くんのう)の側(かたわら)にあり         一朝:ある日
      
 そして、楊貴妃の魅力を次のように表現する。
      
      眸(ひとみ)を回(めぐら)らして一笑すれば百媚(ひゃくび)生じ   百媚:数々のなまめかしさ
      六宮(りくきゅう)の粉黛(ふんたい)顔色(がんしょく)なし       六宮:後宮。6つの宮殿があったそうです
                                           粉黛:おしろいとまゆずみ、転じて後宮の美人
 
 玄宗皇帝と楊貴妃が暮らすこと16年。その間一緒にいなかったのは、たった2日だそうな。1日は、楊貴妃のあまりの嫉妬の激しさに、辟易して里帰りさせた。つまり、時には他の女性に目がいったものであろう。そしてそれがばれてしまったと解釈した方がおもしろい。もう1日は、皇帝の意に逆らって不興を買ったものらしい。
 彼女はとても頭の切れる女性で、皇帝がなにを考え、なにを欲しているかを悟り、早め早めに立ち回ったらしい。そのためか、楊貴妃がいないと、皇帝は誰彼と無く当たり散らしたので、宦官の高力士が連れ戻しに行ったようだ。
60歳からの老いらくの恋、激しいものだ。2人の出会いは玄宗60歳、楊貴妃27歳と玄宗55歳、楊貴妃22歳の2説がある。


長恨歌の世界U
 池を回り、楊貴妃の浴場に入る。建物の2階部分に観覧通路があり、観光客は上から浴場を見る。浴槽は海棠の形に掘り下げられていた。約10平方メートルというところか。
 

海棠湯
 玄宗の浴室は別棟で蓮をかたどった浴室と記憶している






 



 春 寒うして浴を給う 華清池(かせいのち)
 温泉 水滑らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う                凝脂:楊貴妃の肉体。洗うはそそぐ程度の意
 侍児(じじ)(たす)け起こすに 矯(きょう)として力なし         侍児:お付きの女児。矯として:なよなよとして
 始めてこれ新たに恩沢(おんたく)を受くるのとき             恩沢:愛情

楊貴妃の絶頂ぶり、二人の遊びっぷりは
 
 歓(かん)を承(う)け宴に侍(じ)して間暇(かんか)なく
 春は春の遊びに従い
 夜は夜を専(もっぱ)らにす                          皇帝の夜の時間を独占する
 後宮の華麗3千人                              後宮には美しい宮女が3000人はいる
 3千の寵愛(ちょうあい)1身にあり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 驪宮(りきゅう)高き處(ところ)青雲に入り
 仙楽(せんがく)風に飄(ひるが)がえって處處に聞こゆ   
 
緩歌謾舞(かんかまんぶ)絲竹(しちく)を凝(こ)らし            緩歌謾舞:緩やかな歌と踊り
 盡日
(じんじつ)君王(くんのう)看れども足らず               絲竹:弦楽器と管楽器

こんな事は、何時までも続くわけがない。
 

楊貴妃の世界V、青天の霹靂

反乱の機会を狙っていた安禄山が、755年ついに蜂起したのだ。玄宗皇帝が楊貴妃に夢中になり、政治をおろそかにしている間に、楊貴妃のいとこである楊国柱が宰相になり、いい加減な政治をし、政治不信を招いていたのだ。
ちなみに、この従兄弟殿は大変な不良少年だったそうな。
 この安禄山は平家物語の冒頭にも登場しているのを、ご存じだろうか。
「おごれるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。遠く異朝を訪(とぶら)えば、秦の趙高……唐の禄山……」
とはかないものの代表格である。
この惰政を、白楽天の友人で、玄宗と楊貴妃の詩絵巻を作るように彼に勧めた陳鴻の長恨歌伝には、簡潔に表現されている。
 「天宝(てんぽう)の末、兄の国柱(こくちゅう)は丞相(じょうしょう)の位を盗み、国柄(こくへい)を愚弄(ぐろう)す。」
    兄となっているが、従兄弟の説が多いようだ。丞相は総理大臣。国柄は国の権力。

さあ、大変だ。安禄山の反乱軍が、陣太鼓を打ち鳴らして押し寄せてきたのだ。長恨歌は優雅な夢を破られた有様を語る。
 
 漁陽のへい鼓 地を動かして来たる          へい鼓:陣太鼓 漁陽は現在の北京市付近。安禄山はそこの
                                        軍政行政官だった

 驚破(きょうは)す 霓裳羽衣(げいしょううい)の曲   霓裳羽衣の曲は玄宗の作曲。つまり遊びに夢中になって反乱を
                                        予想せず驚いた


 これはまさに驚天動地、青天の霹靂と言わずになんと表現しようか。玄宗皇帝以下、平家の都落ちと同じく、慌ただしく取るものも取りあえず四川省の成都を目指して、長安を脱出した。
 兵は平和に慣れすぎて訓練も怠り、武器は錆びて棍棒のようなものだったという。
そして、長安の西50キロの馬嵬(ばかい)迄来たとき、近衛兵は動くのをやめてしまった。


長恨歌の世界W 楊貴妃の死
 兵達は、このような事態を招いた根源は楊貴妃にある、として処断を玄宗に迫った。玄宗皇帝は、楊貴妃は政治向きには無関係であるとして、必死にかばう。しかし、それも不可能と悟り、楊貴妃に「死」を給うこととなった。
このくだりを、長恨歌は歌う。

  六軍(りくぐん)発せず奈何(いかん)ともする無く   宛転(えんてん)たる蛾眉(がび)馬前に死す 
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
  君王面(おもて)を掩(おお)いて救い得ず  回り看て血涙相和して流る
      六軍:近衛兵六部隊
       蛾眉:楊貴妃のこと。当時眉を蛾の羽のように長く引くのが当時のモードだった。



馬嵬(ばかい)にある楊貴妃の墓
 煉瓦で掩ってあるのは、土を持ち去られるからとい う。
 土を顔に塗ると美人になるとか。女心は古今東西変 わらぬ物らしい。







このくだりでは、私は胸がいっぱいになる。詳しくはホームページの「私の好きな漢詩漢文・長恨歌」にあります。
このあと、一行は四川省の成都にたどり着き寂しい生活が始まる。

  行宮(あんぐう)に月を見れば心傷(いた)ましむるの色あり       行宮:仮の皇居
  夜雨に鈴を聞けば腸(はらわた)断つの声あり            


きりがないので、長恨歌の世界から抜け出す。


唐の王朝舞踊を満喫



西安の城壁
 明代のもの
 (長安は明代に西安と改名)
  観光案内から












 今宵は西安市内で唐の王朝舞踊が観られる。途中立ち寄った友誼商店で娘夫婦と孫達に気持ちだけの土産物を求めた。ホテルに荷物を置き出発。
 夕食の会場は、西安餃子宴飯店である。餃子は23種類。野菜、エビ、ココナッツ、海の幸、等々で次々と運び込まれる。老酒は酒器を売る業者がサービスとか、それをいいことに、ずいぶんと頂いた。ここは、正面に大きな舞台がある。そこでは、次々と唐王朝時代の舞踊が演じられて、観客は大満足であった。
 


王朝舞踊













食事出発前に、ホテルの売店に頼んでおいた長恨歌の拓本が届いていた。芳しい墨の香りが何ともいえない。日本語に堪能な売店の人達には、私の注文が分からなかった。が、メモで「白楽天、長恨歌、拓本」と書いて渡したら、すぐに通じた。これは嬉しかった。


西安の朝の風景
 9月13日(月)曇
 

宿泊した皇城賓館
 (HOTEL ROYAL XI`AN)
 私の部屋は10階の道路の反対側











 6:00 頃起床。痛む足を引きずりながら、のろのろと朝の支度をする。10階の部屋から見下ろすと、朝靄の中を走る人々がいる。目を上に移すと、アドバルーンが4個揚がっていた。ぼんやりと眺めていると、下の広場に続々と人が集まりだした。
 6:50 頃 「与作 ・長崎の雨 ・ 雪が降る」などの日本の歌謡曲やシャンソンのメロディが次々と聞こえる。この地で懐かしいメロディを聞くとは思いもよらなかった。
 7:00 集まった人々は整列している。ざっと数えてみると、1500人はいる。国旗掲揚が始まった。物珍しく見入っていると、手前の後ろに並んでいた婦人がばったりと倒れた。貧血か、数人の介抱を受けて歩き出したので、まずは安心した。
 朝食を済ませて、出発まで市内を散策することにした。
 


ホテル前の道路
 出勤時間なのか、自転車が増え始めた。

 







 ホテルの右方向に歩き出す。高い街路樹が鬱そうと茂っている。さすがに古い歴史を感ずる。道路の両端は自転車の洪水だ。また、車も、横切れない程多くなった。道路の向こう側に市場のような一角が見えたが、あきらめた。北京の田さんが、「中国人は悠々と横断する。外国人はせかせかと横断する」 といっていたが、中国人でも、ここでは悠々とは渡れまい。
 この国の交通ルールは少し違う。まず、車は左ハンドルで右側通行だ。前方信号が赤でも右折可能なのだ。日本だったら、青の矢印が在る。歩行者は、前の赤信号だけ見ていると、右折の車が近づいてくる。要注意である。
 

ある街角
 月餅の店があった。牛羊の下












 次にホテルの左側に歩き出した。街角に日本では長崎名物の月餅を売っている店があった。しばらく観察してホテルに戻ることとした。


碑林に「平成」の語源を探す
定刻に出発したバスは、程なく城壁の内側に近い碑林に到着した。



碑林入口付近

約1000基の石碑がある










 ここには、7つの建物が並び、漢代から清代に至る歴代の著名な書家の精華が並んでいるという。手も金釘流の私には所狭しと並ぶ石碑群に目を奪われるだけであった。書道家にとっては垂涎の地であろうな。一行の人達もあまり興味を示していない。ガイドが平成の語源はここですよ、といって知らせてくれた。そして拓本を全員に配ってくれた。





 どうやら、尚書巻第二・・孔子伝のようだ。右側の真ん中あたりに。「地平天成」の文字が見える。
見学ルートに従って移動していると、拓本作業に出会った。


拓本作業
















 人物像らしき物に丁寧にタンポンをたたいていた。珍しいので1枚撮らせていただいた。



大雁塔に玄奘(げんじょう)法師を偲ぶ
 僧玄奘(602〜664)とは 
  一般的に三蔵法師の名前で知られる。ちなみに、三蔵法師は大蔵経(だいぞうきょう)に精通した僧侶に贈られる称号で、玄奘だけのものではない。翻訳家。インドへの大旅行を敢行した。法相宗の祖。
 幼少より聡明で、修行すればするほど疑問が湧き、中国語に翻訳された書物での勉学に限界を感じた。玉門関(敦煌の西)より西への旅行は禁じられていたが、求法(ぐほう)の熱意止みがたく、国禁を犯してインドへ旅立った。
 27才で旅立ち、帰国するまでの17年間、インド各地で修行を重ね、馬20頭に将来品を積んで帰国したという。経綸だけでも、657点をかぞえたという。
 こんな小難しい説明よりは、西遊記の三蔵法師。家来に孫悟空、猪八戒、沙悟浄を連れて、途中様々な魔王と闘いながらインドへ行った坊さん、と言った方がわかりやすいね。

 碑林をあとにしたバスは、小雁塔に向かう。


大雁塔
 高さ64メートル
 観光客が多く、人影のない場所を探すのに苦労する















 外をぼんやり見ていると、テントがたくさん並び、洋服やカーテンの生地を売っている場所があった。朝が早いので店開きの準備中だ。観光客相手ではなく、どうやら、卸市、というところか。
 バスは、小雁塔で短時間の下車観光をして、大雁塔へ向かう。それでは、大、小雁塔の概略を簡単に紹介する。

 小雁塔
  故宮博物院の珍妃井のくだりで、則天武后を怖い女帝として触れた。政治では、まあまあだったようだ。この塔は亡夫高宗のために建てた。

 大雁塔
  今では西安市のシンボル的存在だ。その故事来歴を訪ねる。
  唐の高宗が母親の菩提を弔うために建てられたのが、広大な大慈恩寺である。敷地面積27町歩、10余の庭、1900弱の建物がある。玄奘はこの寺の住職を務め、翻訳に没頭した。その教典は1335巻になったそうな。そして、その教典を収納するために、高宗の援助でこの敷地内に建立したのが大雁塔だ。
 雁。なぜ雁なのか。仏教は鳩ではないのか。これには2つの説があるそうだ。
 その1  落ちてきた雁を食べたらおいしかったから。
 その2  鳩より優れた鳥だから
 どうもこじつけのようだが、詮索すまい。



玄奘像
  大雁塔入口にある
  石版に刻み込まれた人物像である。
  履き物が、現在のデザインのように感じた。



















 大慈恩寺の門を入り、ミーティングのあと、自由時間だ。高さ64メートルの大雁塔の石段を足の痛みをこらえて登る。
最上段からの視界は、スモッグのため見通しがきかない。



大雁塔からの西安市街
 スモッグで視界がきかないが、これも記念











 ここの観光客は、欧米人が多かった。



上海へ
 西安市を後にして一路空港へ。登机口(搭乗口)から飛行機に乗り込む。
 14:45 離陸。いつしか外は雨が降っていた。私は5席並んだ真ん中のシートの端。隣は西欧系のご婦人達だ。
話している言葉は、英語でないことは分かるのだが、どこの国の人達だろうか。日本人と違うのは、約2時間しゃべりっぱなし、ということだ。よくも話題があるものだ、と感心する。
16:40 上海空降着。とても暑い。31度なり。ガイドの夏(か)さんが待っていた。案内するところは、上海雑伎団と外灘(がいたん)の夜景なので、リップサービスで補おうと一生懸命だ。まとめてみると、

 1.人口  1300万人 + 330万人の流動人口

 2.面積  栃木県くらいの大きさ

 3.給料  旅行社で 2000元(約3万円) 本給+手当+ボーナスで構成される。
        一般の給料はもっと安い。

 4.家事  男性の仕事。ここは女尊男卑。退社後周章てて自転車をこいでいるのは、皆男性。
        早く帰って夕食の支度をするのだそうだ。
        男は働き者だ。女はカラオケやダンスで忙しいらしい。男は、鶏と共に起き、牛のよう
        に働き、豚のように何でも食べ、羊のようにおとなしく、犬のように命令に従う。
        以上は夏さんの話だが、どこまで信用していいやら。私は、上海に生まれなくてよかった。

 5.交通  タクシーはワーゲンが多い。北京や西安は小さな車が多かった。ここには合弁会社が
        あるためらしい。
        運賃は、10km 以上走ると往復の運賃を取られる。
        バスには、普通車と冷房車がある。運賃は普通車が1元(15円)だが冷房車は倍である。

 6.その他

 夕食は、例によって中華料理だ。店内では掛け軸などを安価に販売していた。レストランのメイドが頃合いをみて、売り子に変身して、各テーブルを回り始めた。このレストランには、もう一組の日本人団体客がいたが、どういう訳か、売り込みは我がパーティだけだ。くみしやすいと見られたかな? 皆さん、冷やかしながらもそれぞれ買い求めていた。最後の晩なので、財布を軽くするつもりかな? 私のマンションにはかけるべき床の間はない。私は「プーヤオ」である。



上海雑伎団の演技











 そのあと、渋滞の道路をかき分け、上海雑伎団の演技鑑賞だ。少年少女達が、ハッと驚くような技を演ずる。TV等で見てはいるが、実際に見ると迫力満点だ。

  


外灘(がいたん)にて
1人さんかなので、いろんな人がいろいろと気を遣ってくれた。













終戦時までの列強(欧米日本)の建物

 

 








ここ外灘(がいたん)は黄浦江の一角にある。夜景見物は、時間の都合で5分間だけの下車観光である。バスを降りて少し高い堤防にあがる。そこは、夕涼みや夜景を楽しむ人達でごった返していた。対岸の方には、世界第3位を誇るタワーとビルがかすかに見える。そして、後ろの照明で浮かび上がっているビル街は、日本を含めた列強が威張り散らした歴史の跡らしい。
 今宵の宿は、日航系のホテルだ。ディックミネの甘い歌声の中に……♪夢の四馬路(すまろ)♪……があるが、深夜の四馬路を通り、12時前にホテル到着。
 ホテルについて感じたことは、異国にいることが感じられなかったことだ。それは、各案内が日本語の表示であり、エレベーターでも最初が日本語、その後が中国語か英語だったからであろう。
 簡単なミーテイングをすませ、各人部屋へ引き上げる。明日は朝が早い。枕が3個並んだ大きなダブルベッドにもぐり込む。熟睡。(外灘の写真がありましたので入れ替えました)


さあ、帰国だ
9月14日(火) 晴
5:00 起床
5:20 外を見ると、乳白色の朝靄のなかに、ビルの輪郭が見えてくる。目の前はホテルホリディ・インだ。
5:30 モーニングコールが2度なる。西安のホテルではモーニングコールがなかったよ、と添乗員に注意を喚起したので、気を遣ってくれたかな。


上海中油日航大酒店
HOTEL NIKKO PUDONGS SHANGHAI















6:00 朝食。バイキング方式は変わりないが、和食があった。里心が付いたか、中華料理に飽きたか、多くの人が食べていた。
 出発までの間、ホテルの廻りを散歩した。1人で太極拳をしているご婦人がいた。撮ってもよいか、と身振り手振りで聞いたらやめてしまった。他でも2度同じことだった。
6:40 ホテル出発。空港までは約30分。その間現地ガイド夏(か)さんのリップサービスが続く。
8:55 離陸。10:50頃五島列島らしき島々が雲の合間から見える。なぜかほっとする。



五島列島











11:30 岡山空港着陸。1人体調を崩した人がいる。禁止されていた生水を飲んだのだろうか、それとも、料理があわなかったか。
 昼食は、中華料理は飽きたはずなのに、備中国分寺近くの「雪舟ラーメン」に立ち寄る。食べ慣れたのがよいなかな?

今回の旅行で中国旅行の雰囲気が分かった気がする。時間と金が出来たら、何度も行き歴史の一端を垣間見たいたいと思った。

                                〔完〕



        6.伊賀甲賀忍者求めて三度笠


                  

                          千賀地 服部半蔵砦遠景


1.旅立ち   平成9年5月4日(日)
  戻り          5月5日(月)


2.旅先
 

@ 喰代(ほおじろ)  百地砦
A 千賀地(ちがち) 服部半蔵砦
B 甲南町      忍者屋敷
C 水口(みなくち)町水口城祉
             山中屋敷址












はじめに
 時代小説。好きなのは、剣豪ものそして忍者ものである。読むと現地を訪ねたくなる。それで、愛車を駆って結構あちこちと行ったものである。そして、作者の想像力のたくましさに感心する。今回の旅もその一例である。
 戸部新十郎氏の「服部半蔵」、池波正太郎氏の「真田太平記」を読んで、一度は訪ねたいものだ、と機会を待っていた。たまたま、ゴールデンウイークの5月4日〜5日とチャンスがきた。事前に滋賀県と上野市から観光案内は入手しておいた。さあ、忍者に会いに出発だ。

百地三太夫(ももちさんだゆう)の百地砦へ
 忍者の流派は、北は青森から南は鹿児島まで結構多い。その中でもベスト2に数えられるのは、甲賀忍者と伊賀忍者であろう。山伏のいろいろな修行から生まれた技と切り離せないものがあるようである。日本で始めて登場するのは、聖徳太子が情報収集につかったとか、蘇我馬子が暗殺につかったとか記録があるようである。
 我らに親しみのある猿飛佐助、とか霧隠才蔵などは、戦国時代の登場である。ただし、彼らはフィクションの忍者である。真偽の程は知らないが、猿飛佐助は西遊記の孫悟空にヒントを得て創られ、霧隠才蔵は実在の霧隠鹿右衛門のこととされている。そして、真田幸村の真田十勇士として人間離れをした技を使い、痛快な活躍をするのである。どちらにしても、その存在が表面化するのは戦国末期である。
 
5月4日(日)晴  交通渋滞にうんざり
 6:50倉敷の自宅出発。連休のため高速道路は渋滞するであろうと、一般道を走る。これは当たった。大阪の大東鶴見ランプまでの約200キロを2時間30分で走破したのだから。それからがいけなかった。163号線に入ったとたん大渋滞に巻き込まれた。木津川の橋までの30キロを3時間、つまり、時速10キロだ。こんな状態で、上野市に着いたのは、14時をまわっていた。
 全国チェーンの「S……」なるレストランで遅い昼食を摂る。市内の地図を貰い百地屋敷への道を尋ねる。店長は知らないようで、地元出身の店員を呼ぶのでしばらくお待ちください、という。知らない言い訳をちゃんとしているのだ。私に言わせれば、出身の如何を問わず、ココに住んでいるならば、その程度はわきまえておけ!と言いたい。機嫌が少し悪いかな。地元出身者が来たが、城の方向を指差し
「あの中にありますよ」
と言ったものだ。こりゃーだめだ。あきらめて、「三重県の歴史散歩」の大ざっぱな地図を頼りに走ることとした。
 たぶん、この辺りと目星をつけたところで、トラクターを操る老農夫に問う。
「卒時ながら、ちと物をたずねたい。喰代(ほうじろ)の百地砦はいずこなりや」
「1里ほど東なり。そこできかれたい」
てな言葉ではなく、双方とも、丁寧な話し言葉だったが……。

百地砦 荒れ果てて今は野猿の遊び場所
 
上野城下を東南に走ること、約20キロメートル、低い山並みが左右に迫り、正面にも立ちはだかった所に「百地砦址」があった。
 野猿が群れを成して、農作業のお百姓さんの側を通り抜け、砦の中に消えた。猿もお百姓さんも知らん顔である。
 砦は、田畑から5メートルほどの高さの小山というか、丘の上である。北側から登ると、右側に百地家代々の墓、左には赤い屋根の禅寺「青雲寺」が、訪れる人もなく、静かに時の流れを見つづけ、ひっそりと建っていた。右手に堀(池)を見て南に進む。ここら辺りが百地砦の本丸だったんだろうか。敷地が1000uとある。たいした規模ではない。どのような配置だったんだろうか。


百地砦の堀(池)

 








 思い出されるのは、少年時代に読んだ忍者物語である。霧隠才蔵の父親は小谷城浅井家の侍大将、霧隠弾正左衛門であった。姉川の合戦で戦死した。どういう経路で百地三太夫の弟子になったかは、記憶にない。この師匠は、白髪の仙人風の老人であった。石川五右衛門の師匠でもあったらしい。因みに、猿飛佐助の師匠は、戸沢白雲斎である。
 小説では、百地三太夫は主人公としてではなく、脇役で悪役として描かれている。実態はドウだったんだろうか。史実では、信長の大規模な攻撃で敗れ去ったが……。
 何だかんだと思いに耽りながら、伊賀3役の1人、服部半蔵の館に向かうこととした。

 服部半蔵の千賀地・・地元の若者も知らない存在になろうとしている
 喰代(ほおじろ)の百地砦を西にとって返し、伊賀上野から名張方向に向かう。途中の「与野」に、服部半蔵の「千賀地砦」址があるのだ。途中から西に入った最初の集落が与野である。迷いながらも、与野の小高い山の南の集落にたどり着いた。(冒頭の写真)
 人影が見えたので、聞くことにした。
「卒時ながら、ちと物を尋ねたい。服部半蔵の千賀地砦はいずこなりや」
最初の人は、さあー、といったまま知らない様子。2人目で分かった。100メートルほど来過ぎたようで、鉄工所の前を登ればよい、とのことであった。そこへ、20歳くらいの息子がきて、母親の言いつけで案内してくれることになった。母子の話の内容では、この若者は千賀地城が在った事など、まったく知らないようであった。



道端にある千賀地城址を示す石碑
















 道路には高さ50cm程の石碑が建っていた。『千賀地城址入口』と読めた。車を道端に止めて登る。民家の犬がけたたましく吠えている。整備された石段を登ると、さほど広くはない広場があった。
 この山は高さも15〜20メートル程度のもので、さほどの規模ではない。防御の体制もあったと思われるが、小説では攻められて、自ら火を放って焼失させたとある。


千賀地城址にて










 服部家は、この他にも住いがあった。百地三太夫しかりである。
 伊賀忍者は、上忍3人衆が支配していた。服部、百地、藤林の3家である。彼らは信長に攻められて壊滅的な打撃を受けたが、服部家は、早くから徳川家に随身して、生き残った。信長が本能寺で光秀の為に横死したとき、堺にいた家康を逃すため、伊賀越えの道案内をしたことは知られている。
 その後、徳川家の為に働くが、徳川家の政権が確立するに従い、忍びを必用とすることがなくなった。また、忍者のストライキもあったようで、衰退していった。名残として、皇居の「半蔵門」がある。また、江戸で伊賀甲賀忍者が住んだ辺りを「コウガイ町」といっていたが、今もあるかどうか。
 案内してくれた若者には、小説の知識だよ、として思い出す限りの情報を話した。彼は熱心に聞いていた。
 時刻も17時、水口に今宵の宿を求めて出発。


甲賀忍者屋敷
5月5日(月)晴  望月出雲 後世自宅が観光名所になるのを想像したろうか
 昨夜は水口市内の「センチュリーホテル」に宿をとった。夕食はいつものとおり居酒屋を探して、カウンターにとまり、地酒を楽しむ。今日は疲労の為かすぐに酔いがまわった。

 

甲南町 忍者屋敷
 甲賀忍者筆頭の望月出雲守の屋敷










8:30 朝食もそこそこに甲南町の忍者屋敷に向かって出発。幹線道路から少し南に入ったところにあった。大きな駐車場があるので、観光客が多いのであろう。9時過ぎに到着した。
 伊賀忍者は、上忍三人衆が支配していたが、甲賀は53家があった。その筆頭が望月家であった。彼らは「惣」と呼ばれる組織で、案件は合議制で決定処理していたとか。
 華々しい活躍として代表的なものは、1487年(長享元年)室町幕府が近江守護佐々木六角氏を攻めたときである。これは、「鉤(まがり)の陣」といわれる。将軍義尚が陣中で没した為、終戦となったが、彼ら53家は、得意の術を駆使し、山岳戦、ゲリラ戦などで六角氏を守り通した。特に煙の術は今も語り継がれているようだ。
甲賀忍者も、徳川幕府の諜報網が整備され、政権も安定して伊賀忍者と同じように、活躍の場を失い、衰退していく。
 屋敷は、少々棟が高い茅葺である。中に入るとビデオを使い、来歴などの説明がある。次に屋敷内の案内である。主なものを挙げると
 @どんでん返し
   壁や襖がくるりと回転して、忍者があっという間に消える。
 A 隠しはしごと落とし穴
   深さ6メートルの落とし穴。ココに追い込んで、または誘い込んで落とすのである。
   隠しはしごは必要なときに天井から吊り下げる。そして途中の暗がりには、密かに刀が掛けてあった。
 B開かずの部屋
   重い扉で、中からは開けられない。敵を閉じ込めたのであろう。
 C武器道具類
時間があれば、じっくりと楽しみたい場所である。最初に出された忍者のお茶だろうか、「健保茶」が美味しかった。
 

水口城資料館と山中屋敷址
 目指す山中屋敷は、観光案内には載っていない。池波正太郎の「真田太平記」には「宇田ウッタ」の地名である。
探し回るのもまた一興であるが、効率を考えて、物知りを探すことにした。そこで、水口資料館を訪ねることにした。
 「たのもう!」
 「どうれ!」
 水口城資料館は、水口城の一角にあった。城跡の広場には、高校生であろうか、野球の練習に汗を流していた。この水口城は、戦国時代の水口城ではない。それの址は別にある。3代将軍家光が上洛する為の宿所として建設されたものである。それにしても、現代ならば、予算の無駄使い、として批判を浴びるだろう。この城について要約すると
 @ 3代将軍家光が上洛する時の宿所として建築された。
 A モデルは京都二条城である。
 B 作事奉行は小堀遠州公である。
 C 宿所から、その後水口藩の城となった。
 D 伏流水が多く、お堀の水は湧き水である。水口の名前の由来はここにある。
 E などなど。
 資料館の中村さんに山中屋敷を尋ねていく旨を話していたら、手持ちの史料を見せてくれた。以下はそれをもとにして書いてみた。
 
 
規模
 外堀:1町四方(60間=108m)
 内郭:30間四方(54m)

 小説では外堀は3町四方となっている










 忍者小説には、しばしば登場する山中屋敷であるが、今は竹薮があるだけのようだ。それでも訪ねてみた。農家の庭先、竹薮の南にそれはあった。昔をしのぶものは何も無い。女忍者が忍び込もうとした場面を思い出しながら、暫く八幡宮に佇んでいた。
 















                     完

 



                    

5.みちのく路走りまくって三度笠


                 


                      奥入瀬(おいらせ)渓流阿修羅(あしゅら)の流れ


1.旅立ち   平成11年8月11日
  戻り           8月21日


2.立ち寄り先


@ いわき市
A 盛岡市
B 角館(かくのだて)
C 田沢湖
D 乳頭(にゅうとう)温泉
E 八幡平(はちまんたい)
F 十和田湖
G 奥入瀬(おいらせ)渓流
H 八甲田山(はっこうださん)
I 青森市
J 弘前市
K 秋田市
L 岩城町







 ここ数年、奥入瀬(おいらせ)のすがすがしい渓流の写真に会う度に、一度は訪ねたいものだとその機会を待っていた。6月末で定年退職をして、7月は多忙を極め、8月にやっと出かけることになった。旧盆を故郷のいわき市で過ごし、その足で回ろうという寸法である。秘湯、歴史の後等々貪欲に見ることとした。


8月11日(水)
いざ、出発。ハプニング
 未明4:00 軽快なエンジン音の愛車に打ち乗り出発。
 今日のスケジュールは、名神大阪京都間の渋滞前に、つまり7:00前には抜けて、滋賀でゆっくり朝食をとる。福井あたりで早めの昼食。そして、一乗谷の朝倉一族の址を訪ね、永平寺に詣で、柏崎まで足を伸ばす、というものだ。
 ところがハプニング続きで計画倒になってしまった。
 ○ 岡山と和気の間でトラックがトンネル内火災をおこし、一般道に戻された。そしてのろのろ……。
 ○ 京都東IC手前でまたまたトラックの事故があり、34キロの大渋滞になった。天王山トンネルの出口では、立ちションのおじさんたちで一杯だ。「みんなですれば、恥ずかしくない。生理には我慢の限界があるのだ」というわけだ。
おかげで朝食兼昼食は、草津のPAで済ますこととなった。
 米原を過ぎるあたりから、ぽつりぽつり、と雨が降り始めた。天気予報によると、警報が出ているようだ。湖北の小谷城下を過ぎる頃には本降りとなった。
 「幸先悪いな。何かのたたりかいな」
今回の旅は、無理をせずに臨機応変にすることとした。朝倉一族の址や永平寺は今回省略した。
 金沢を過ぎるあたりから、雨脚が速くなった。富山市を通過する頃には、日中というのに暗くなり、3段切りかえのワイパーを最速にしても、前方が見難くなった。すべての車が、40〜50キロの徐行運転だ。ここから上杉謙信の春日山城までは26のトンネルがある。通常は短い周期で52回も明暗があるので目が疲れるが、今回はよい雨よけになった。
 今宵の宿は柏崎駅前のビジネスホテル。近くの居酒屋で一杯。疲労のせいかすぐに酔いがまわり熟睡。
 
8月12〜16日  いわき市の実家に滞在。

8月17日
盛岡城(別名不来方城・こずかたじょう)の風景そして韓国冷麺
 この地を訪ねようと思い立ったのは、石川啄木、宮沢賢治がこよなく愛した城址を散策することであり、さらに、岩手の美味しい冷麺に出会うことである。
 4:50 寝静まっている実家をそっと抜け出す。国道6号線を北上したのだが早朝のこととて行き交う車も稀である。
 7:30 仙台ICから東北自動車道にのり北上する。
 10:30 盛岡市内に入る。どんよりとして蒸し暑く、岩手山は垂れこめた雲で見えない。北上川沿いに走り、駅の前を左折して高い城壁に突き当たる。
 南部藩20万石の本拠地である盛岡城は、別名不来方(こずかた)城といわれ、現在の市街地がすっぽりと入るほどの威容を誇っていたようだ。

 


            城壁を見上げる                          城内の風景


 駐車場のおじさんと話をしていたら、
「城内は何も無いよ、下から城壁を見ていたほうが昔がしのばれるよ」
と言っていたが登城することとした。城内はさほど広くは無い。30数度の暑さのせいか人影はまばらで、木陰で屯している観光客が数組いるだけである。
 本丸に、日露戦争で戦死した殿様の遺影があった。戊辰戦争で南部藩は奥羽列藩同盟に加わり、朝敵の汚名を着せられていたが、殿様が戦死して名誉が回復されたとか。その後銅像が建てられたが、太平洋戦争で武器弾薬の材料として徴収されてしまった。従って今は遺影のみだ。
 城内西南のかどに石川啄木の詩碑があった。観光客が記念撮影をしていた。ここは、彼が15歳の頃寝そべって空を見ていたところだ。詩作に耽っていたのだろうか。
 
 

盛岡城内
石川啄木の詩碑
15歳ころ、ここでよく寝転んでいたという









 11時過ぎ、駐車場のおじさんに教えてもらった盛岡冷麺の元祖「食堂園」にいく。開店は11:30からとのことで、暑い市内を散歩する。クーラーのよく効いた店を何軒か回った。10分前に店にいくと驚いたことに、太陽を遮断するものがなにも無い路側の炎天下に長い行列ができていた。最後尾に並びどうにか中に入る。
 うまい! 太目の麺に辛目のたれ。ここは、味の選択ができるのだ。麺は勿論芋が原料である。従って、こんにゃくに似た舌触りである。私が住んでいる地区で時々食べにいくのだが、麺が小麦粉だったり、たれがただ辛かったりでなかなか本物に出会えなかったが、今日は満足した。

角館、タイムスリップして武家屋敷に
 46号線を雫石(しずくいし)経由で角館(かくのだて)に向かう。直線距離で約50キロである。途中、猛烈な睡魔が来る。ほっぺたをたたきながら走り、睡魔と闘う。木陰を見つけて車を停め、一眠りだ。
 13:30頃、角館に到着。深い木立と重厚な武家屋敷群に別世界に紛れ込んだようだ。武家屋敷は、5〜6軒観光客に開放している。私は、広い通りの散策を楽しみ、勘定方だった石黒家を見学することにした。
 自分より上の身分でないと通れない玄関。数多い部屋。ある部屋の欄間には亀が彫ってあり、ろうそく、ランプしかない当時は、燈影の揺れで隣室の天井を亀が泳いでいるようだったそうな。
 敷地面積1000坪、建築面積200坪以上、今も子孫がこの屋敷に住んでいる。


角館武家屋敷群











 角館歴史寸描
 角館の歴史を私は、米沢の伊達政宗 VS 会津の芦名氏、常陸の佐竹氏、岩城氏、相馬氏等々の抗争から述べることとする。

1589(天正17) 芦名氏、伊達政宗に敗れる
説1 会津地方は、芦名氏が治めていた。世子がなかったため、他家から養子を取ることとなった。候補は、常陸の佐竹氏と米沢の伊達氏であった。結果は佐竹氏から迎えた。怒った伊達政宗は、会津を攻めた。

説2 天下制覇を狙う伊達政宗は、当面の障害である芦名氏を葬る必要があった。6月、相馬氏・岩城氏の連合軍を東に攻めると見せかけて、反転して会津になだれ込んだ。そして、猪苗代湖畔の摺上原の戦いで芦名氏を葬り去った。芦名氏は兄、佐竹氏を頼って落ち延びた。因みに、めでたい席で謡われる「さんさしぐれ」は、戦勝の嬉しさに伊達政宗が作ったと伝えられる。

1600(慶長5) 時がたって関が原の戦い
 このときの佐竹氏の動きは、複雑であった。徳川に味方すると称しながら、石田三成にも味方している。当時の会津の領主で、石田三成側の上杉景勝に密かに援軍を差し向けている。(多分、私の祖先も従軍している)
 戦いが終わり、佐竹氏は常陸58万石から秋田20万石に移封された。このとき、会津からの弟芦名氏と家臣団を角館に封じて、東の守りとした。芦名氏は3代で絶えたので、角館は佐竹北家の支配下となった。因みに、この地の有名な枝垂桜は、京都から嫁入りした姫君が持参した3本の桜が増えたものだという。
 角館の武士達は、佐竹氏の家臣、そのまた家臣(芦名氏系)の混在で、禄高もすくなく貧乏を余儀なくされた。幕末の頃には、殖産を奨励して、結構な状態になったという。
 17時、宿着の予約なので、余裕を持って角館を離れた。

田沢湖畔の風景



           田沢湖からの駒が岳             西岸のたつこ像
           (観光案内)                    (観光案内)

 田沢湖は、秋田市と盛岡市のほぼ中間、奥羽山脈と出羽山地に挟まれた周囲約20kmのほぼ円形の湖である。水深が423mと日本一深い湖として知られている。目指す乳頭温泉は、東方約10kmにある。
 折角来たので、周囲を周ることにした。しかしながら、このときは雨が降り出していた。したがって写真のような景色は見られず、ただ、「きたよ」と走り回っただけになった。印象的だったのは、宮城県代表として全国大会の常連の高校「仙台育英高校」の男女生徒たちが、濡れねずみとなりながらも走っていたことである。夏季合宿訓練のようだ。ご苦労。

みちのくの秘湯「乳頭(にゅうとう)温泉」
 今宵の宿は、みちのくの秘湯といわれる「乳頭温泉」だ。5〜6軒のうちの孫六(まごろく)温泉である。一人旅の場合は、宿の予約なし出かけるのだが、ここは雪深い冬でも予約が取れにくいという情報があって予約したのだ。たしかに、ここの予約までに数軒電話したが、ハンで押したように
「申し訳ありませんが、満室でございます」
と断られ続きだ。この温泉だけは、電話の向こうから
「近代的なホテルの設備はないよ。駐車場はないから、5〜6分先の黒湯温泉の駐車場において、歩いてきなさい。夕食は5:30からだから、5:00までにきなさい。」
と言っている。
「結構です。お願します」
と渡りに船と予約したものだ。1室だけ空いていたようだ。
 乳頭温泉に近ずいた頃には、猛烈などしゃぶりになっていた。車のドアを少し開けて傘を差す瞬時に、全身がぬれてしまった。駐車場から谷底の孫六温泉まであるいて5分、どうにか着いた。


乳頭温泉の
孫六温泉(翌朝撮影)









 プレハブのような2階建て。とたん張りの屋根にたたきつける雨音がうるさい。部屋は4畳半で裸電球が天井からぶら下がっている。押入れはない。布団は、どこか布団部屋から運んでくるのだろう。テレビもコンセントもない。小さなテーブルにお茶のセットが置いてある。入口は引き戸で、簡単な鍵がついている。客が廊下を歩く音が、のしのし、と聞こえる。最初、なんだこりゃー、と驚いたが、「設備が整った宿よりも、この風情こそまさに秘湯なり」と感心もし、気に入ってしまった。
 早速、温泉に宿のタオルを持ってむかう。間近の小屋の温泉に入る、若い人がひとり湯につかっていた。ここも裸電球が1つで薄暗い。何か浮いていたが、薬草でも浮いているのだろう、と気にならない。翌朝見て驚いた。薬草ではなく、虫たちが一緒に入浴していたのだ。
 食事はよかった。1階の食堂で、山菜を主に川魚の塩焼き、牛肉を少しつかったきりたんぽ鍋など8種類の料理である。ビールも大瓶2本を空けて、贅沢な晩餐であった。
 満腹で部屋に戻ったら布団が敷いてあった。天井を虫が数匹旋回している。テレビもラジオもない。昔はランプかロウソクで、こんな状況だったんだろうな。最近の時代劇は明るすぎるかな。などと考えが堂々巡りをしている。
 何もすることがない。消灯、熟睡。

8月18日(水)晴
 夜明けと共に露天風呂を楽しむ。この孫六温泉は牛乳色ではない。無色透明だ。婦人病によいらしい。ノンビリと目をつむり、せせらぎの音を聞きながら、時の経つのを忘れる。女性の声で我に返る。おばちゃんが2人、入浴の支度中だ。「ムムッ!」 驚いて飛び出す。女性専用の露天風呂があるのに、なんでまたここに????

八幡平(はちまんたい)から十和田湖へ
 7:20 朝食を1番に済ませて宿をでる。天気は快晴。八幡平(はちまんたい)を目指して走る。
 9:00 田沢湖近くまで降りて北上。八幡平の一角に到着。
 ここは、岩手山北麓から秋田県にまたがって広がる高原状の火山台地だ。ここには高原植物、大小の湖沼、数多い温泉、雄大な景色等々あり、数えたらきりがない。松川地熱発電所もここにある。私の計画では、アスピーテラインを走り、東北自動車道松尾八幡平ICへ抜けるものである。何枚か写真を撮ったのだが、光が入り失敗した。

 
 
八幡平アスピーテラインからの景色
(失敗作)










雄大な景色を楽しみ、澄んだ空気を胸一杯に吸って、10時高速道に入る。

12:00 十和田湖畔に到着。
 ここ、十和田湖は、秋田県と青森県にまたがる、周囲44キロメートルのカルデラ湖である。深さも、田沢湖、支笏湖に次いで、最深327メートルと日本第3位である。四季折々のその装いを変化させ、観光客にとってたいへんな魅力で、日本でも屈指の観光地である。
 私の印象では、少年時代に見た映画、題名は忘れたがヒメマスの放流と成功に至る苦労の湖だったことである。

十和田湖
瞰湖台からの眺望
中央は中山半島










 ホテル街の駐車場に車を休め、湖畔を散策した。観光客は結構多く、景色に、観光船に楽しんでいた。
 歩き疲れた頃、湖畔のレストランで、ヒメマスの塩焼きとザルソバを楽しんだ。一杯呑みたかったなあ!。

奥入瀬渓流で心を洗う。
 十和田湖東岸から北へ流れ落ちる奥入瀬川は、焼山までの14キロが美しいという。明治の文人大町桂月が、こよなく愛し
 「住まば日の本 遊ばば十和田 歩けや奥入瀬三里半」
と称えたという。
 ここは、渓流添えに片道1車線の道路が走り、ポイントポイントには路肩に駐車できるようになっている。見所にはたくさんの車が駐車していた。紅葉のシーズンはさぞ、渋滞だろうな。

 



          



 写真を撮り出したらきりがないほど、すばらしい場所が多い。その中でも私は冒頭の写真がすきである。
 十和田湖は、生活廃水、工場廃水が流れ込まない為水がきれいである。したがって、奥入瀬渓流も清流である。林間を静かに流れていたと思うと、岩や倒木にぶつかり、白いしぶきを上げて怒り、また、滝となってそのエネルギーを見せつける。渓流は語りかける。
 「俗人達よ、どうだ、心が清められたか」
ここではずいぶんと時間をかけた。

八甲田山雪中行軍遭難現場で合掌
 奥入瀬渓流に別れを告げて、八甲田山に向かう。西に向かう102号線に巨木が覆い、昼なお暗く少々気持ちが悪い。ほどなく見通しのよい北麓にでた。
 八甲田山の雪中行軍悲話はあまりにも有名だ。練武と耐寒耐雪を兼ねて、何度も実施されてきたらしい。
 明治35年1月のこの訓練は、基地から八甲田山東北の田代台に向かい、八戸(はちのへ)に上陸したロシア軍を迎撃する、との想定でなされたようだ。(詳細は、IE画面で「八甲田山雪中行軍」で検索してください)
 基地を出発したが、3昼夜にわたる猛吹雪と零下20度を超える寒気に遭い、進路、現在地を見失った。指揮官神成大尉は、後藤伍長に救援を求めに出発させた。
 基地でも、予定の期限を過ぎても戻らない為、捜索隊を出した。彼らは、雪中にひとり仮死状態のまま直立している後藤伍長を発見した。



左 後藤伍長  遭難場所の近くにあり
   
上 寺内陸軍大臣の遭難の碑解説文


手当の結果蘇生した後藤伍長から、遭難の概要を知り、大規模な捜索の結果、現青森市横内に
  凍死するもの  大尉神成文吉以下    199名 (193とする本もある)
  生存するもの  大隊長山口少佐以下    11  ( 17)
が発見された。生存するものも、凍傷のため手足を失ったという。
 寺内陸軍大臣の碑文は、読んでいて目頭が熱くなる。合掌して青森市に向かう。


遭難の地
道路から後藤伍長へ向かう途中にあり











(碑文・・読みにくいので)
 軍隊の野外における演習は、主とするところ、岨嶮を跋し、もって戦術を講じ、寒暑を冒し、もって筋骨を練るにあり。
 この如くならざれば、戦時の用に給するに足らず。青森衛戍の如き毎冬雪中行軍の挙あるは、其の一なり。
 去歳一月二三日、第2大隊将卒二百余人田代に赴く。たまたま大風雪三昼夜に連なり、全隊路を失い飢餓して死者相つぐ。営中の将士その期を過るも還らざるを怪しみ、卒を発してこれを遂う。天地陰晦、漠として踪跡を知らず。一人積雪中に凝立し有るを見る。近づけば伍長後藤某なり、始めて、その隊の動静を詳らかにするを得たり。
 遂に大いに捜索を行い、堀て大尉神成文吉以下一九九人の屍を得たり。その幸いにして生を得る者、大隊長少佐、山口ユ等十有一人のみ、事、皇上に聞こす、震悼して、侍臣を特派せられ弔意優渥なり。また有司に勅して厚くその家恤まる。
 中外の官民亦質二〇余萬を捐て、もって賑恤の資となす。死者また瞑すべし。
 然りといえども均しく之の死するや、砲煙弾雨の下にたおれずして風○雪虐の間に殞す。あに悼まざらんや、是において有志の諸将校と相謀り碑を八甲田山麓馬立場の邱に建て、もってその事を紀し、且つ後日行軍する者の標識となすという。
                                明治二十六年 歳は葵卯に在り六月
                                 陸軍大臣陸軍中将 正四位勲一等功三級
                                           寺 内 正 毅  撰
 

余生を送る青函連絡船「八甲田丸」
 青森市内の細い路地に迷い込み、脱出に30分も時間を浪費してしまった。聞けばよいのに独り合点が多いようだ。どうにか青森駅にたどり着いた。今宵の宿を駅で紹介してもらうためである。
 駅近くのホテルでチェックインして、早速散策に出かけた。
 先ずは駅前の市場団地である。


青森駅前の市場団地
 平成15年12月現在存続しているかどう  かは確認していない









 青森駅に向かって左側に1階建ての大きな建物がある。この中に140軒のテナントが所狭しと店を出していた。これが市場団地だ。鮮魚、乾物、野菜、果物が陳列してある。値段は安いのか、高いのか分からない。これだけの店が営業しているのだから、多分安いに違いない。夕方5時半なので店じまいの準備をしていた。そして食堂を探す。あすの朝食に「うにいくら丼」の店を見つけた。そして、市場内を冷やかし半分に見てまわる。歩く度に店から声がかかる。
 「安くするよ」
 「いま来たばかりだから、明日買いに来るよ」
ある店に立ち寄り、今熱戦中の高校野球の話に夢中になる。岡山も、青森も勝ち進んでいるから、話が合う。帰りに、食べ歩きようのキャラメルと干物をくれた。明日の買い物を約束させられたようなものだ。
 「朝は、5時半からやってるよ!」
の声を背中に聞きながら、港に向かった。
 整備され、清潔な埠頭には適宜ベンチが置かれて、若いカップルの憩いの場所になっていた。なにを楽しそうに語らっているんだろうか。オジン独りの旅烏には関係ないか。西の方には八甲田丸が横たわっていた。もうじき日が暮れる。急いで向かう。



          青森駅から青函連絡船への連絡橋             夕陽に静かに横たわる八甲田丸
                                         

 青森駅の西端には、当時の駅と船との連絡橋が半分残されていた。よくぞ残してくれたと感心もし感謝もしてして眺める。明治大正昭和の歴史の証人だ。
 石川さゆりの「上野発の夜行列車着いたときには♪……」のメロディが自然に鼻歌となって出てくる。が、今は雪景色とは異なり30度を越す炎暑のなかだ、実感は湧かない。
 八甲田丸は、メモリアルシップとしての役目のほか、レストランとなっていた。既に18時を過ぎ、レストランは閉店だ。受付嬢の
「閉店でございます」
の声を聞きながら、タラップを降りる。130メートルもある長い船体に沿って、ノンビリと歩いてみた。少しこの歴史が分かっていたら感無量だったろう。機会があったら再度訪ねてみたいものだ。
 以下は、八甲田丸に教えていただいた概要とその他資料からの抜粋である。

青函連絡船
 明治41年(1908)3月 比羅夫丸で1日1往復の青函連絡船開業が始めである。
 昭和63年(1988)3月 青函トンネル使用開始とともに運航は廃止となった。
                 この日の時刻表を見ると
                  下り(青森発)定期 8便 臨時 2便 計10便
                  上り(函館発)定期 7便 臨時 2便 計 9便
                 となっている。青森と函館間113キロメートルを3時間50分で結んでいた。
  この間の主なことは
 大正13年(1924)   貨客船翔鳳丸就航。貨車(ワム)25両と乗客895人の積載可能となった。
                乗客は、係留岸壁から乗船可能となった。それまでは艀(はしけ)から本船へ
 昭和20年(1945)7月 空襲で10隻沈没、2隻損傷で青函連絡船全滅。
             8月 関釜フエリーから10隻代船運航。
    29年(1954)   台風15号で洞爺丸、第11青函丸、北見丸、十勝丸が沈没。死者1400余名。
    63年(1988)3月 運航廃止。上り羊蹄丸、下り八甲田丸。
 その後、八甲田丸は青森で、摩周丸は函館でメモリアルシップとして係留。羊蹄丸は東京台場で船の科学館別館と して、それぞれ第2の人生(船生?)をおくっている。
     
八甲田丸
 就航   昭和39年(1964) 
 終航      63年(1988) 就航期間23年7ヶ月
 規模   全長132メートル 巾17.9メートル 高さ32.8メートル(船底からマストトップまで)
 トン数  8313.75トン(5382.65・・車両甲板除く)
 積載   旅客定員 1286人 貨車48両 自動車12台
 速力   最大21.27ノット(39キロメートル) 航海18.20(34キロメートル)
 航海数 37,149航海(4,184,069キロメートル 地球104周)
 客扱数 12,267,000人
 現在は青森港でメモリアルシップとして係留。船内は展示室、多目的室そしてレストランがある。
 

 今宵の夕食は居酒屋である。観光案内のおすすめの店のひとつ、「にしむら」を探す。新鮮な海草、陸奥湾で取れたウニ、イクラ、刺身の盛り合わせ、ナスの田楽、鍋物などで青森の海の味を十分堪能した。それにしてもずいぶん食べたものだ。隣のおっちゃんは、旅行者らしいが、イカ刺しをうまそうに冷酒でゆっくりと楽しんでいた。がつがつ食べて呑んだのが恥ずかしい。
 ホテルは青森国際ホテル。新しく設備のよいホテルだ。今日はよく走ったな。酒の勢いで20時頃から泥のように眠った。


ねぶたの里で祭り気分を味わう
8月19日(木)晴
 早朝5時起床。身支度をして市場団地に向かう。各店ともトラックからの商品搬入、陳列に忙しい。
目標の食堂に行ったら満員である。しばし待って、3色なる丼を注文する。少なめのご飯を刻み海苔で覆い、その上にたっぷりと、ウニ、イクラ、そしてホタテの刺身が乗っていた。「うまい!」大満足である。お代わりをしたかったが、腹八分目で我慢した。
 ホテルから南に20分の位置にねぶたの里がある。山すその広い敷地にあり、この夏の祭りに使用されたねぶたが保存されているのだ。既に8時をまわり、道路は混みだした。
 広い駐車場には開場を待つ観光客がたくさん待っていた。中に入り、北に歩くこと5分、目的の建て家の中には、巨大な昔の豪傑達のねぶたが所狭しと並んでいた。これが青森市や弘前市の街に押し出すのだ。TVではよく見るのだが、目の前に現れたら、さぞ勇壮だろうな。ここでは、一日数回担ぎ出されるそうだ。スケジュールの都合でその時刻まで待てなかったが、機会があれば見たいものだ。青森では「ねぶた」、弘前では「ねぷた」というそうだ。




          「ラッセーラー、ラッセーラー、ラッセ、ラッセ、ラッセーラー」 囃子が聞こえてくるようだ。


炎暑の弘前城に登城
 青森から弘前までは、国道7号線で30キロメートル位である。10時頃ねぶたの里を出発して、古墳の案内看板を横目で見ながらノンビリと津軽平野を、美空ひばりのりんご追分を口ずさみながらドライブ。岩木山は薄曇で姿を見せてくれない。11時頃弘前市内に入った。弘前城の周囲を1周して東門近くの駐車場に愛車をつなぐ。本丸までの道筋を料金徴収の若者に訊くと、南の方を指差して
「あの信号の門から入ってください。弘前城は、江戸時代のまま残っているので相当広いですよ。本丸まで10分は見ておいてください」
との返事。因みに、敷地面積49.2ha。車の温度計では外気温が34℃だった。5分も歩くと上下の衣類が汗だくになりだした。

弘前城寸描
ここは、津軽藩10万石の居城である。広大な平山城。
元来津軽氏(大浦氏)は南部藩(本拠は盛岡)の家臣であるが、祖先が謀殺されたことなどあり、南部藩に心服しておらず、独立の機会を狙っていた。
1571年、九戸で謀反があり、そのどさくさ紛れに津軽3郡をとって独立。禄高4万5千石。
1590年、秀吉の小田原攻めで主家に先んじて参陣、本領を安堵された。津軽氏を名乗る。
江戸時代、蝦夷地警護の名目で、禄高10万石となる。津軽平野新田開墾などで、実際は26万石あったという。
弘前城は、藩祖津軽為信が計画して
1611年、2代目信枚が築城を開始した。以後1871年、廃藩置県まで260間南部藩の居城であった。
1964年、正仁親王殿下に津軽家から華子様が嫁ぎ、常陸宮家が創設されたことは周知の事実である。



           上 本丸の天守閣       右 二の丸


 城内は、古木がうっそうと繁り、いかにも古城のたたずまいである。何代にもわたり育てたのであろう、銘木といわれる松などが城内には多いようだ。
 二の丸を過ぎて本丸にたどり着く。天守閣は本丸の一角にあり、大きくはないが東北で唯一の天守閣だそうだ。
城内はよく管理されていて、今風に言えば4S(整理、整頓、清潔、清掃)が徹底していた。観光シーズンや桜の頃は賑わうであろう。(日本の3大桜の名所は、弘前城、伊那の高遠城、吉野山)
 外堀は手入れの省略か、浅くなり蓮の葉が繁っていた。
 あまりの暑さに、観光客もまばらで、城内の茶店で暑さを避ける客が散見された。わたしもその1人で、食したカキ氷が印象に残った。


佐竹氏の久保田城
 国道7号線を秋田に向かう。弘前から170キロメートルの距離である。途中から近道があるのだが見落としたらしく、能代、八郎潟経由である。夕方、市内に入る。秋田駅で例のとおりホテルを紹介してもらう。チェックイン後直ちに久保田城に向かう。ここも暑い。汗をかきかき、駅前大通を北に向かい、しばらく歩くと東北の一角にあった。

佐竹氏はどこから来たのか
  角館(かくのだて)のくだりで、佐竹氏の常陸から秋田への移封(いふう)については触れた。男の信念、友情を貫いて石田三成(いしだみつなり)に味方して、彼が敗れたため移封されたのだから、あきらめもつこう。解雇された家臣は気の毒だが……。
 余談だが、この移封に怒った家臣の「車丹波守義照」は、同志と決起し水戸城奪回を企てたが、事前に発覚して捕らえられ、刑死している。わが祖先のあるじである。墓碑はいわき市一山寺にある。(墓は水戸市吉田町にあり)
 一方、佐竹家からの養子、弟の岩城貞隆は、兄、佐竹義宣のアドバイスで「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」をきめこみ、石田にも徳川にも付かなかった。戦後、それを咎められて領地12万石(実質は20万石以上といわれた)を没収された。しばらくは江戸で浪人暮らしをすることになる。
 

佐竹氏の家紋 日の丸扇
 このデザインは195種あるそうだ。全部が佐竹一族かどうか?








 小説の知識ではあるが、朝鮮の役で石田三成は、前線の武将たちの功績や動向を秀吉に正しく報告せず、讒言(ざんげん)した。そのため、秀吉の死によって帰国した加藤清正ほかの武断派に彼は命を狙われた。逃げ場を失った彼を、対立相手の徳川家康の屋敷に密かに運び込んだのは、佐竹義宣といわれる。誰の発想か、敵方の親分の屋敷にかくまわせるとは意表をついたものであった。常陸統一の時点で、佐竹氏に従わない数十人を常陸太田城に招き、一挙に暗殺した彼である。やりかねない。

 久保田城は石垣も天守閣も無い城として有名だ。土留め程度の1〜2段の石積みがあるだけである。、石垣なし、堀、土塁、板塀で各曲輪(くるわ)を囲ったという。彼は徳川幕府への遠慮から、堅固な城としなかった。油断のならないヤツ、という風に思われていることを、わきまえていたのであろう。

 


             久保田城内は、千秋公園として市民の憩いの場となっていた。
             (秋田城は700年代に築かれた政庁と軍事施設で久保田城ではない。西北にある)

 いつものように資料館で知識を仕入れようと訪ねたが、改装中で休館だ。仕方が無いので城内を歩き回る。本丸下の大広場では、暑いのをものともせずに若者達が運動中だ。隣の公園をのぞくと、ここはまた若者たちの恋の語らいの場所。本丸には、最後の藩主佐竹義尭の銅象が立っていた。

 

久保田城最後の藩主佐竹義尭公の銅像

(詳細は久保田城または佐竹氏で検索するとたくさんの資料を見ることができます)












 誰そ彼(たそがれ)どきも過ぎ、町に灯りがともりだしたので居酒屋を探す。季節はずれだが、冷房の効いた部屋で、きりたんぽとビールで旅の疲れを癒した。少しのみ過ぎたようだが……。


領地召し上げ、そして僅かに復権した岩城氏の領地に立ち寄る
 岩城氏とは
 桓武平氏の出。治承・寿永の乱で源頼朝に従って奥州征伐に参加した。功をあげ好嶋(よしま)の庄(いわき市)の地頭に任命された。
 常陸佐竹氏の内乱に乗じて北茨城に侵攻、車城を攻め落とす。その後、内乱調停などで接近。小田原の陣で当主が死去するや佐竹氏から養子を迎えた。
 関が原の戦いで洞ヶ峠をきめ込み、戦後それをとがめられて12万石(実態は20万石以上)の領地を没収された。その後江戸で浪人暮らしをしていたが、大阪の陣に参加して川中島1万石に封ぜられた。さらに、秋田亀田藩2万石に転封され明治を迎えた。

岩城氏の家紋 岩城立て引き
 家紋はこれだけではない







著名な武将との血縁関係は、
佐竹氏との間に養子縁組も行われ佐竹氏の当主ともなっている。ただし、佐竹氏の干渉に反発、仲はよくなかったようだ。
 江戸初期には、真田幸村の娘「お田の方」を嫁に貰った。つまり、岩城氏には、真田の血も流れている。
 さらに、伊達政宗には岩城氏の血も流れている。岩城重隆には二人の娘があった。長女久保姫は、伊達政宗の曽祖父伊達晴宗に嫁ぎ、次女は佐竹氏の室となっている。(ー伊達晴宗ー晴宗ー輝宗ー政宗)
 
 当時の岩城氏の本拠地は、いわき市平の市街地の東南の白土城であった。城は南に低い山並み、北に夏井川支流の新川を控え、防御には万全を期している。
 岩城氏の石高から推定するに、山一帯が城域で、急峻な山頂には物見櫓(ものみやぐら)を設け、見張りは怠らなかったろう。山の中腹の広場には、城主の壮大な居館を始めとして、いくつかの曲輪(くるわ)とその中に武器庫、米蔵、馬場、武家屋敷、長屋などがあったことだろう。追手門(おいてもん)と搦め手門(からめでもん)は、山容から想像するに南と東であろう。
 そして、今は、寺院と数軒の民家があるが、往時を偲ぶものは、わずかに残る土塁のみである。長州山口で威勢を誇った大内家の址を訪ねたことがあったが、(NO3西国の波乱訪ねて三度笠に記載) ここも竹やぶの中に僅かな土塁があっただけである。両方とも何とか復元、保存はできないものか。


 

            白土城祉遠景                     城内の土塁
            (直井氏提供)                     (直井氏提供)
          

 わが妹はこの静かで自然豊かな白土城址の森の一角に嫁いでいる。時には、いろいろな動物や小鳥達が訪れるという。うらやましく、現状維持を願うと同時に、専門家または歴史愛好家による更なる探求をも望むものである。
 
8月20日(金) 晴
 秋田市の南約20kmに岩城町がある。ここは、我が故郷福島県東南部一帯を戦国時代まで治めていた岩城氏の江戸時代の領地である。日本で初めてロケットを打ち上げたのもここの海岸である。
 朝6時にホテルを出発した。早朝のこととて道路もすいていたので、30分少々で岩城町の役場に到着した。駐車場で待っていると、双葉のマークをつけた車が来た。
「すみませーん、岩城氏の城跡に行きたいのですが……」
「私の後についておいで。運転の練習中でこれから亀田に戻るから」
どうやら、亀田なる地にあるらしい。5kほど東に入ったところにその町なみが見えてきた。かの先導役のご仁とは、岩城氏の菩提寺である「禅勝山龍門寺」前で別れた。ちなみにこの寺は、今のいわき市平荒川にあったのを、移封後亀田に移したとか。

岩城氏菩提寺 龍門寺










 朝7時というのに、薬屋、衣料品店、電器屋などが店開きをしている。それにしては、朝食をとろうとそれらしき店を探したが見つからない。この地区には必要のないものか。国道7号線に戻り、ラーメンをすする。
 8:30頃、戻ってみるとここは町長選の真っ最中のようだ。加藤鉱一なる人の街宣運動に出会った。自民党前幹事長と一字違いだ。よけるのが当たり前、という顔つきで運動員が交通整理をしていた。
 古い城跡の天鷺山にドライブ、亀田の城下町を見下ろす。その昔、坂上田村麻呂と戦って滅ぼされた人の城跡らしい。本丸址に岩城氏現当主岩城隆宣氏(練馬区在住)の筆になる碑が立っていた。
  陰高し 霞の上に 峰の松      (だったと思う)

亀田の町なみ


 







 9時オープンの天鷺村に入村する。ここは、岩城氏の歴史が分かる資料館を始め、武家屋敷、産業関係が配置されている。

亀田武家屋敷










 資料館の窓口に
「いわき市から来ました。いろいろと教えてください」
と言ったら
「中学校同士で交流していて、昨日いわき市の好間(よしま)中学校が帰ったばかりです。いわき市の方(かた)
のほうが詳しいと思いますので、逆に教えてください。また、ここへ来て、祖先のルーツが分かったと喜んでお帰りなる方もいますよ」
の返事が返ってきた。資料館をゆっくり観察して、武家屋敷に廻る。かや葺の武家屋敷数軒の中に「鵜沼家」があった。たしか、中学時代に同姓の友人がいたが……などと考えながら外に出た。
  岩城氏とは、の欄でもふれたが、かの真田幸村の娘「お田(でん)の方」は大阪に陣で父幸村が豊臣方だった為、罪をえて江戸城大奥に仕えていた。許されて京都に戻り、薙刀の稽古姿を見初められたと、何かで読んだ。
 岩城氏は、城を構えず小藩らしく陣屋とした。維新戦争で焼失したが、今は立派に復元されて美術館となっていた。

亀田2万石 岩城氏の堂々たる陣屋

維新戦争で官軍に焼かれた
亀田藩は朝廷方につき更にまた奥羽列藩同盟にも加盟している。藩の存続のためにずいぶんと苦労したようだ。
 




 岩城町も、現在(2003)は市町村合併の波が押し寄せて、岩城町の名前が消えるかも知れない……。
 11時頃亀田を発つ。懐中もずいぶんと寂しがっているので、夜通し倉敷まで走るか? と強がったが、夜11時頃体力の限界を感じ、SAで朝まで休憩。21日13時頃無事帰宅した。
 今回の走行距離  3,250km
                           おわり
 
 




           

   4.韓国のんびり一人旅




            
農楽団
  豊作を願う為、楽団が
  家々を巡り歩いたという
          民族村にて
       


1.時期       H 8・12・27〜12・31

2.旅先        韓国 ソウルーキョンジュ(慶州)−プサン(釜山)

      



利用便
 岡山−ソウル 飛行機
 
 ソウルー慶州 特急セマウル号

 慶州−プサン 高速バス

 プサンー博多 水中翼船

昨年、仕事でソウル、テジョン(太田)を訪れたことがある。記憶には、道路狭しとあふれる車の洪水、美味しい鍋料理そしてお代わり自由のキムチであった。
 今年は旅行関係の勉強をしていた関係もあって、史跡を訪ねてみたい思いが募り、年末年始の連休を利用して行く事にした。
 旅行会社の主催旅行や企画旅行を利用することも考えたが、この国の治安が良いことと勉強の延長と考えて、自分で企画することとした。
 旅行会社には、
 @岡山ーソウル間の航空券、
 A日韓共同切符(ソウル−慶州間のセマウル号特急券、プサンー博多間の水中翼船、博多−岡山間の新幹線)
とホテルの手配を依頼した。
 韓国情報収集には、
 @韓国観光光社から資料取り寄せ
 A観光案内
 Bその他文献
を利用した。
 

3.道中日記

12月27日(木)晴  
(いざ、ソウルへ)
12:10 岡山空港発ソウル行きKE725便である。 搭乗手続を済ませ、EDカードを日本用と韓国用と2通作成する★1。搭乗待合室入口で手荷物、身体検査、税関、出入国手続を経て待合室に入る。
 待合室は、ゴルフバッグを持ったグループ、親子連れ、若い女性のグループ、ネクタイにスーツスタイルのビジネスマンなどで一杯だ。
 12時少し前に搭乗開始。定刻に出発した。座席は、30B席だ。窓際の隣席はおおきな荷物を足元に置いた、たくましいおばちゃんだ。がっかり。少ししたら機内食が出た。ハム、巻き寿司、パンとウーロン茶だ。特に美味しくもなし、不味くもなし。ビールの提供があったが、飲みたくもなし。満腹になってまどろんでいると、ソウルの空の玄関、金浦(きんぽ)空港に着いた。★2

(空港にて)
13:45 金浦空港着陸。手荷物の安全検査をすませ、入国審査だ。次は税関だ。申告するものなし、と口頭で言ったら、用紙がある場所を指差し、書類に記入して提出せよ、という★3。丁寧に記入して、これでよいか、と日本語で聞きながら提出したら、一瞥した程度で宜しいとのこと。
 次は両替だ。2万円を次のようにメモを渡した。
  10,000 ウオン × 10枚
   5,000      × 10
   1,000      ×  α
 然しながら、当方の希望は無視されて、銀行側の準備した紙幣と硬貨だった。
 次は、市内までの交通便の確保である。出口近くのカウンターで、KALのリムジンバスでホテルロッテに立ち寄るバスの乗り場を問う。私は近くのミョンドンのソウルロイヤルホテルを予約したのだ。日本語が分かるのか切符を買えという。そして乗り場の番号を教えてくれた。代金は、3800ウオン。日本円で500円程度である。昨年仕事で訪ねた時は、タクシー代は日本円で4〜5000円だった。従ってバス代は10分の1である。
 指定の乗り場で、ここから出るバスはホテルロッテによるか? と並んでいる客に聞いたら、日本語が分からない。そのうち日本語が分かる客がきて、「よりますよ」と教えてくれた。「カムサンニダ」
★1 現在は日本のは書かなくてもよくなっている。
★2 現在の国際線は仁川(インチョン)空港で、金浦(きんぽ)空港は国内線用となっている。
★3 現在は申告するものが無ければ、何も書かずに緑のランプの所を通過する。


市内へそしてミョンドン(明洞)の夕景色
 14:20 リムジン出発。韓国は車が多い。ソウル市民は1300万人、朝の出勤時間には800万台が走るといわれる。従って渋滞はすごいそうだ。
 空港から市内までは車は多いが順調に走る。市内に入り少々の渋滞があったが20kmの距離を60分で中心部に着いた。リムジンは著名なホテルで客を降ろしながら走る。
 15:30 ホテルロッテ到着。玄関にいる制服を来た大男に、「ロイヤルホテルの方向は?」と聞くと、
かの大男、真っ直ぐ指をさして「ミョンドン・明洞」と答えたものだ。「カムサンニダ」

           
 
              ミョンドン 宿はロイヤルホテル        

 出発前にホテルロッテとロイヤルホテルの距離を、地図で数百メートルと見当をつけていたので、その方向に向かい歩き出す。
 道端にはいろいろな物を売っている。スルメを焼いて打っている店もあった。それらを眺めながら、大通りを越えるのに地下に潜る。地上に出ると、そこは明洞という繁華街の入口である。そこで、ものものしい機動隊の一団がいた。やましいものは何も無いが、よい感じはしない。何ごとかいな? とごった返す人ごみと機動隊を横切りホテルに入る。ちなみに、大きなデモがありその対応だったそうだ。大きな団体の叫び声で夜中に目を覚ました。時計は午前2時だった。まだにらみ合っているようだ。
 ホテルの一室で一服したあと、見物と夕食の明洞に出かけた。ここは不夜城である。ネオンサインも多く明るい。寒空に機動隊が待機している。若者達が闊歩している。
 男の髪型は、おかっぱスタイルというか、囲碁の趙治勲9段を思い浮かべればよい。服装はラフである。女性は、皆背が高く、髪は長くたらしている。コートは足首までのもの、または革のコートに革のブーツである。口紅は、ブドウのような濃紺の色が多く見受けられた。
 道端には、夜店が並んでいる。ストーブにスカートの下から温めている30歳くらいの女性がいた。目が合ったらいたずらっぽい笑みを浮かべたが、止めようとはしなかった。
 さて、昨年4人で食べた食堂はどこだったかいな、うまかったなと探し回る。横丁で、店頭に見本があったのですぐに分かった。店内は満員らしい。待とうとしたが、寒いので向かいの空いている店に入る。
 テーブルが10卓、客は2組いた。
 「チゲなべ1人前下さい」
と日本語で注文したら。店のおばちゃん、壁のメニューを指差し韓国語で何か言っている。向かいの店は日本語で注文して通じたのにな。仕方が無い、適当に指をさしてオーダーする。何が来るか分からない。俺も結構いい加減だな、と感心する。
 キムチ2種類、鍋に具を入れて卓上コンロに火をつける。出来るまでキムチを肴に一杯やる事にした。
 「眞露1本」  (注 ジンロ・・韓国の焼酎)
キムチはさらに2種類追加して持ってきた。白菜、大根、もやし、うり? の4種類となった。もやしはあまり辛くは無い。食べてしまったらお代わりをもってきた。額から汗が流れ出した。
「ああ、からい!」
と呟いたら、先ほどから私をチラチラと見ていた、カップルの男性が、
「辛いですか?」
と声をかけてきた。なーんだ、日本人がいたのか、最初に声をかけてくれたら、苦労をしないで済んだのに、と思ったときは立ち上がり、ご帰還の様子だ。
 チゲ鍋も相当からかったが、欲が深いせいか、みな平らげた。この欲の深さが、2日たたった。すなわち、当日の夜のどが渇き冷蔵庫のビールを3缶(1本1000円・・たかいなー)飲み・2日ほど胃の調子が悪かったのだ。


次は日本語観光バスで観光
 2月28日(金)晴
前夜、食事の後で1階のサービスカウンターで日本語観光バスを申し込む。1日8000円と言う。9時20分頃迎えに来るというので9時過ぎからフロント前で待機していた。なかなか来ない。外に出たり入ったり落ち着かない。
9時40分頃ボーイに申込は受け付けてくれたかどうか確認したら、携帯で問い合わせてくれた。そしたら近くまで来ていたらしくて、すぐにきた。なれない土地だ、疑いもやむを得ない。
 バスは、25人の中型の観光バスである。大きなホテルに立ち寄って、申込者を拾っていく。先客が10人くらい乗っていた。後方に席を取ると、中年の眼鏡をかけたガイドのおばちゃんが、もっと前に座れと言う。上手な日本語を話す。
 そのうち、西洋人と中国人が5〜6人ほど乗り込んで来て私の後ろに座る。。日本語が分かるのかいな? と思っていたら、このバスは日本語のグループとと英語グループの共同使用であった。日本語の説明の後、別なガイドが英語で説明していた。日本語から英語に通訳しているみたいな感じだと思った。
 さらに、半日コースと1日コースの混在だ。
 コースは
  青瓦台(車窓観光)⇒景福宮・キョンボックン(下車観光)⇒曹渓寺・チョゲサ⇒紫水晶工場⇒昼食⇒民族村.ミンソクチョン
 である。


青瓦台(せいがだい)と景福宮(きょんぼっくん)
 大統領府である。青い瓦なので青瓦台、英語でブルーハウスと呼ばれる。以前は近づく事も出来なかったが、金泳三大統領になって通過する事は出来るようになった。写真などはとんでもないことと、遠慮した。周囲の道路は、半分は通行止めだ。警備の為に空けてあるそうだ。
 近づくにつれて、警備がものものしい。路上には機動隊の車が多く待機している。歩道上には携帯電話を持った警官があちこちパトロールしている。門前には5〜6人が配置に着いていて、門の中には数名がいるようだ。門が幾つあるのか知らないが、大変な人数だ。北との関係を考えれば当然のことかもしれない。当時、こんな事を記録しているのが分かったら、誤解を生んだかもしれない。ちなみに、青瓦台は手持ちの観光地図には載っていない。

   
    景福宮(キョンボックン)
     1392 高麗王朝を滅ぼした李成桂が造営した王宮。
     1592 秀吉の朝鮮侵攻により大半が焼失した。
     12万6千坪の敷地に200を越す殿閣が並んでいた。
     写真は謹政殿。規模を縮小して再建された     


 


 


 青瓦台に道路を隔てて、景福宮(キョンボックン)がある。駐車場にはたくさんの観光バスが待機していた。李王朝(1392〜1910)の正宮である。かつての悪評高き朝鮮総督府もこの一角にあった。しかし、私が訪問した時は取り壊されて跡形も無かった。
 謹政殿は現存する韓国最大の木造建築物である。そのかみ、王が屋外の階段下にきら星の如く居並ぶ文武百官を見下ろした事であろう。往時の栄華が偲ばれる。終戦後は国会として使用されたそうだ。いまは、観光客に歴史を語りかけ、また、結婚式を挙げたカップルの記念撮影の場となっていた。コートを着ていても寒いのに、白いウェディングドレスの花嫁と花婿が数組撮影中であった。


   花嫁が寒空に記念撮影
   右側一帯の広場に文武百官が居並んだ











慶会楼は謹政殿の近くにあった。池が取り囲み、観光案内にも掲載されている。今でも政府主催のパーティに使われる事があるという。観光客はしきりにシャッターを切り、またここでも新婚さんが記念写真を撮っていた。



    慶会楼











 千秋殿。ここはハングル文字を生んだ所である。15世紀半ば、李朝第4台国王「世宗:セジョン」が中心になってハングル文字を研究した建物である。
 もともとこの国は漢字の国であったが、漢字では微妙な感情の表現が出来ないとして考案されたのである。基本母音10と基本子音14の組み合わせで出来ている。従ってこれさえ覚えれば、だいたいの文字は読める。ただし、意味はわからない。別の問題である。
 長い塀があり、中に入ると棟の無い建物があった。お妃のお住いである。ガイドの説明があまり理解できなかったが、棟は龍に通ずるらしい。龍は王である。従って、お妃の上に龍が乗り、さらにその上に棟である龍があるのは宜しくない。と言うような説明をしていた。



 棟が無いお妃の住い











建物を抜け、同じ敷地内の民族博物館に入る。時間があればじっくりと見たいところである。



   国立民族博物館                    中の一部


曹渓寺(チョゲサ)で慌てる
 景福宮の前に片道8車線の大通りがある。世宗路と名付けられている。前述のハングル考案の中心の王である。今もその人気は衰えず1万ウォンの人物像になっている。この辺りには政府関係の建物や大使館などがある。
 少し走り、郵政局路に入り、曹渓宗本山「曹渓寺:ちょげさ」に立ち寄る。門前には仏具の販売店が建ち並び仏教寺院が近くにあることを思わせる。韓国の寺院は山奥にあり、市内にある寺は珍しいそうだ。
 

曹渓寺(チョゲサ)
 周囲の提灯は信徒が奉納するもので
 どこの誰かが記されている。
 日本で絵馬に住所氏名を書き込むのと同じだ。
 





 
 
 寺の一角に大きな太鼓があった。この寺がやっているかどうかは知らないが、山奥の寺では早朝に太鼓をドンドン叩くそうだ。「草も木も皆起きろ」という一種の目覚ましだ。全く話が違うが、韓国の除夜の鐘は、33と、かのガイドのおばさんは教えてくれた。つまり
 四方八方に鳴り響けで   4×8=32
 そしてその中心が            1
    合計                33

 本堂内は善男善女が腹ばいになるほどひれ伏して、礼拝していた。坊さんが何か話している。俺もせないかんのかいな、弱ったなぁ、と思っていたら、時間が無いから入るな、といわれてホッとした。
 ここで中国人らしき人たちが離団した。


 ビビンパ
下町のような町を通り過ぎる。歩道にはたくさんの衣類、その他の商品が山のように台のうえに乗せてある。上手な買い物をする人はここに来るそうだ。若いカップルが一組下車した。夜は飲み屋街になるそうだ。
 観光バスは契約レストランに到着。欧米の若い娘と思しき5人程度がワイワイやっていた。我が団体は、日本人6人、韓国人1人、欧米のカップル1組の9人である。焼肉かビビンパが観光料金に含まれているとのことで、内容は知らないがビビンパを注文した。



ビビンパ
 観光写真から

私が食べたのは「トルソビビムパブ」
のようだ














となりの夫婦は、ビビンパと麺に分かれている。
 キムチが運ばれ、ビビンパがきた。大きなアルミの鍋で、内側が石の2重になっている。ご飯の上に薬味、ホウレンソウ、モヤシ、イカ、牛肉、生卵が乗っている。同じパーティでビビンパを注文した人は素早くかき混ぜている。私は、鍋が火傷するほど熱いので、冷めてからかき混ぜようとノンビリとしていたら、誰かが、早くかき混ぜないとご飯が焦げるよと声をかけてくれた。慌ててかき混ぜたら、やっぱり焦げていた。隣の70歳くらいの爺様も焦がしていた。前に座った65歳くらいの姉妹はゆうゆうとビールを飲んでいた。我輩は、昨夜のチゲ鍋がたたり飲み欲なし。ビビンパはおいしかった。

紫水晶の工場見学
 半日コースはここまでである。私は1日コースを申し込んでいるので後がある。工場はチースントいうホテルの1階にあった。変な組み合わせであるが、入口は裏にあった。
 製造工程は型どおりみせて、買ってもらうのが主目的で、そちらの方に多く時間を割いていた。売り場で黙ってみていたら、上手な日本語で勧めてくる。表示値からドンドン下げてくる。一行の面々、適当に冷やかして外に出る。

民族村(ミンソクチョン)



韓国民族村
 ソウルの南40キロ、水原の近郊にある
 服装を考えなければ、昔の時代にタイムスリッ プしたようになる




 漢江(はんがん)という韓国3大河川の一つがソウル市内を東西に流れている。オリンピックの映像でお馴染みである。南に渡ると高層アパートが延々と続く。北朝鮮との関係で川の南に集まっている。
 バスは高速道路を突っ走る。片道3車線の内側はバス専用レーンである。残りの2車線はマイカーで渋滞していたが、こちらは猛スピードである。ソウルの南方40kmの水原の近郊にある「民族村」に向かう。



民族村の一部








 約40分で到着した。30万坪の敷地に、当時の豪族の家、役所、牢獄、民家が集められている。18世紀の李朝にタイムスリップである。
 見学は14:20〜15:40の予定である。全部見るとなると1日かかるので、ピンポイント観光だ。
 村の入口に両班(ヤンバン、特権階級)の豪邸がある。それを横目で見て中に入る。


機織姫?
一所懸命に織っている。
カメラを向ける観光客が多かった。






 
中はわら屋根の民家農家が多い。また、当時の衣裳や道具で物を作っている。鍛冶屋、竹細工、木細工、漢方薬などである。

 

韓国の時代劇を撮影していた








 ワイワイやっていると、民族衣装を着た人が静かにしてくれ、という。ガイドのおばさんによると時代物の映画の撮影をしているそうだ。その人に撮影してよいかとカメラを向けたら、女優さんを呼んでポーズをとってくれた。カムサンニダ。後で考えたら、一緒に撮るんだった。残念!
 藁葺きの民家の間を歩いていると、1メートルほどの高さの居間があった。夏の暑いときに老人達が集まって囲碁等を楽しむ所らしい。
 さらに、竹で編んだ長さ1メートル、直径20センチほどの筒が置いてあった。「あれは何ぞや?」と聞くと、竹婦人ということだ。つまり、夫は妻を抱いて寝るが、夏の暑いときは生身の奥さんは熱い。そこでこの竹婦人が代わりを務めたそうだ。……反対は竹主人か? 無かったが……。


当時の役所兼裁判所








罪人の責め台








 。いかめしい門構えだ。上のほうに大きな太鼓が吊るしてあった。裁判の時はこれを打ち鳴らし、人々を集める。そして公衆の面前で裁判をして、十字の責め台に乗せて叩きながら白状をせまったという。
 裁判所の裏に牢屋があった。一番奥に女囚の部屋があって、女囚がうつむいていた。たくさんのコインが投げ込まれて、肩の上に積もっていた。やはり、女性は哀れを誘うものらしい。



豊作を祈る少年たちの踊り








 15:00頃から円形野外劇場で舞踊があった。豊作を祈る踊りで、若い少年達だ。大太鼓、小太鼓、大鉦(おおかね)、小鉦、白い衣裳に赤い帯、帽子のてっぺんに白い布テープをつけて、ぐるぐると首で調子を取りながら踊りまくる。総勢17人、昔は村村を回り踊って豊作を祈ったそうだ。……冒頭の写真。


本日の夕食は参鶏湯(サンゲタン)

 17時頃ホテルの近くで降ろされた。ホテル玄関前まで行くのではなかったか、約束勝ちがうよ。と思ったが、200メートル程の近さなので歩く事とした。横断歩道は車が多い。地下鉄がストライキの為らしい。歩道を渡ると、ものものしい機動隊の出迎えを受けた。そしてその先はデモ隊が歌を歌い気勢を上げて意気盛んである。何のデモかは知らないが、間を通り抜けるのに苦労した。まるで満員電車の中を移動するかのようである。これではバスはホテルの玄関先に横付けできないわけだ。納得。
 1時間ほどベッドで横になりくつろぎ、夕食に出かける。昨夜の食事がたたり、食欲は無い。ホテル前の通りは、機動隊とデモ隊で一杯だ。すり抜けて、観光案内に紹介されている「百済参鶏湯:クダラサムゲタン」の店を探す事とした。有名な店なのですぐに分かった。参鶏湯の元祖だそうな。



観光案内から                 









 参鶏湯(サムゲタン)は生後数ヶ月の鶏の腹に、栗や高麗人参、ニンニク、もち米などを詰め、薄塩味のスープで煮込んだものである。本来は夏ばて防止の栄養食だそうな。
 正面左側の階段を上り、2階が食堂だ。
「参鶏湯1人分」
と言ったら、先ずキムチが運ばれた。今日は飲み欲が無い。手持ち無沙汰に店内を観察する。時間が早いのか窓際に数組いるだけである。
 しばらくして、沸騰した参鶏湯の鍋が到着した。ゆっくりと味わう事とした。ご飯は金属の椀に入っている。箸も金属である。いわゆる、日本の古いメロディの「カネの茶わんにカネの箸……♪」を思い起こす。資源保護のための国策らしい。

 

観光案内から








 食べ始める。人参の香りがするが、うまい!。ニンニクの味も人参の味も気にならない。体全体が熱くなって汗が出てきた。アルコールなしで夕食を楽しんだのは久しぶりだ。
 ホテルのサービスカウンターで、明日の行程の相談にのってもらう。
 体調が悪いせいか、今日は疲れた。着替えもせずにベッドに横になり、NHKのテレビをつけっぱなしで寝てしまった。
 (注)NHKの放送は受信できた。


12月29日「セマウル号」で慶州(きょんじゅ)へ
 朝食は昨日と同じく2階の和食堂へ出向く。大阪の得意先にホテルの予約を頼んだら、朝食付きで宿泊費は半額だった。定食のメニューは、みそ汁、漬物、卵、焼き魚は肴の粕漬け、海苔で日本国内にいるような錯覚を覚える。客も日本人ばかりだ。箸も木製だ。
 チェックアウトして、制服の大男にタクシーを呼んでもらう。約10分の距離だ。

 


            ソウル駅(観光案内)
           旧東京駅がモデルとか

 駅の外観は東京駅に似ている。東京駅はオランダのアムステルダム中央駅がモデルだそうな。違いはブロック積みのような粗けずりが力強さを感じさせることだ。
 ここは橋上駅だ。コンコースはごった返している。その中に民族衣装の女性と老人を見つけて、韓国を実感する。殆どは洋服とジャンパーだ。ネクタイ姿は殆ど無い。

  
 


 駅の案内で、乗車ホーム、出発時間、慶州(キョンジュ)到着時間を確認する。ここでは日本語が分かる駅員を探すのに苦労した。
 9:15 我が乗るセマウル号の改札開始だ。9:30発、4号車31番席、進行方向右の窓際である。ゆったりした豪華な車内である。靴を脱いで足を前の足置きに乗せる。ひざから下を上げる装置もついている。
 隣席にいかなる人物が乗るか楽しみに待っている。30歳ほどのジャンパー、ポーチを持ったお兄さんが乗り込んできた。「こんにちは」と日本語で話しかけてみた。通じない。また彼は、外国人との付き合いが面倒くさいのか居眠りを始めた。親しくなるのは諦めた。
 9:30 発車。日本のように出発のベルはならない。静かに動き出す。
 11時過ぎ、太田(てじょん)到着。ここも大都会だ。発車してから隣席のお兄さん、慌てて席を立った。居眠りして乗り越したようだ。知っていれば起こしてやったのに。
 太田から紺のスーツにネクタイ姿の紳士が乗り込んできた。今度は日本語が通じるのか、と期待したがこれも駄目だった。この紳士殿、私と並んで座るのが嫌なのか、居眠りの変わりに立ったり座ったりかつまた通路を歩き回る。なんだ、こいつは。
 親しくなるのは諦めて、少し早いが食堂車に向かった。見知らぬ外国だ、網棚の荷物は大丈夫か、貴重品は身につけたが、少し不安が残る。
 食堂車はまだ早いせいか客は誰もいない。ボーイが注文聞きにきた。注文したいが言葉が通じない。ボーイが調理室に戻り絵入りのメニューを持ってきた。


 特急セマウル号と鉄道網

 赤線のソウルー太田ー邸丘−慶州
 と乗車した
    
 
 
 


 私はランチボックスを指差して注文した。日本の幕の内弁当というところか。8400ウオン。日本円で1200円だ(03年7月現在、1円は約10ウオン。この頃は、7ウオン)。少し高い気がしたが、おいしいたくさんのおかずで満足した。ちなみに内容は、白菜キムチ、野菜サラダ、卵焼き、ハンペン、焼肉、ミンチ、タコの煮物、他であった。キムチがとても美味しかった。
 12:40頃、東邸丘到着。かの動き回る紳士殿下車。替わりに60歳くらいの白髪の紳士が乗り込んできた。しばらくして、日本語で話しかけてきた。彼は日本の事情に相当詳しそうだ。分かったことだが、住いは蔚山(うるさん)、新潟に47年住んでいる。年20回くらい韓国にくる。名刺をいただいた。慶州に行くならば、天馬塚(てんまちょん)は是非見るべき、と勧められた。


慶州
ーホテルは普門リゾート地
 
  



             慶州                             慶州中心部


 13:44 慶州着。駅は1階建てのこじんまりしたもの。改札をでると、タクシーの客引きがたくさんいた。金持ちと言われる日本人にはアプローチがある。私も金持ちと見られている。この点彼らには見る目がないようだ。シャトルバスでホテルへ行くだけだから、と断る。

   


           普門湖(観光案内)             東岸の豪華なホテル群
                                     (観光案内)

 ホテルは慶州朝鮮(キョンジュチョースン)、普門湖畔にあった。5星だ。ヒルトン、コンコード、チョウスン、東急など豪華なホテルが立ち並ぶ。
 部屋は韓国を思わせる障子、家具調度品がある。予約はシングルだったがツインを使わせてくれた。シーズンオフで空いていたのであろう。
 汽車の疲れを部屋でとって、フロントで観光の相談を始めた。タクシーの借切りの値段を聞いたら今日の午後と明日の午前で1万5千円という。高いので、観光バスを探すこととした。しかし、これも日本語の観光バスはないという。 何だかんだとやり取りをしていたら、日本語が分かるチーフが現れて、彼と相談することとした。結局、タクシーの借切りで10,000円で決着した。そして早速出かけることとした。


慶州ー国立慶州博物館
 慶州は新羅王朝1000年(前57〜935)の首都である。慶州を訪れることなくして韓国を語るなかれ、といわれるほどの歴史の宝庫である。私は観光の前に少しでも知るために、最初に「国立慶州博物館」を訪ねることとした。
      



           慶州博物館入口                      慶州博物館一景
               (観光案内)

 今日29日は日曜日、月曜日は休館日なので今日中に見ておかなければならない。駐車場はいっぱいである。空き待ちはタクシーに任せて中に入る。
 博物館の中の案内は、ハングルと英語で書かれている。ハングルはさっぱり分からない。英語はところどころに分かる単語がある程度なので、これまた分からない。仕方がない、日本人観光客が来るのを待とう、と入口でぶらぶらする。程なく、母娘の2人がガイと共に入ってきた。
 「一緒に聞かせてもらってよいですか?」
 「どうぞ」
と、快諾を得てルートに沿って歩き始めた。
 前述のとおり、慶州は新羅王朝1000年の都である。紀元前に都と定めてから一度も遷都したことがない。町中王の墓、古墳だらけである。王が死ぬと、人々は川原から石を一個ずつ持ち寄る。往時は人口が80〜100万人(今は12〜15万人)であるから相当な数になる。そして、王の遺体と財宝の上に積み重ねるのである。従って盗掘しようとすると崩れ落ちる。その意味でも保存はよいそうだ。
 この博物館には数万点の展示品がある。その中でも、天馬塚の墓からの発掘品が目をひいた。金銀翡翠の装飾品、王冠などである。細工も緻密でただ驚くばかりである。このとき、翡翠のマガタマがあったが胎児を表しているのを初めて知った。医学も発達していたのではなかろうか。
 その他、武具や農耕品などなど、見ていて飽きがこず時間が経つのを忘れるほどであった。


慶州天馬塚(テンマチョン)
 天馬塚の隣にある、東洋最古の天文台瞻星台(チョムソンデ)に立ち寄る。7世紀の建造である。地震、日食、月食、気象、星の移動による吉凶の判断等を行ったという。

 
東洋最古の天文台
瞻星台(チョムソンデ)

高さ約9メートル
花崗岩を積み上げた






 15万平方米ある古墳公園の入口はマイカーやらタクシーでいっぱいである。私が入場券を買っている間、タクシーの運転手は知り合いだろうか、中年のおじさんと話していた。私が中に入って歩き出すと、彼の中年のおじさん、並んで話し掛けてきた。
 「ガイド料は要りません、門前で土産物屋をしているので帰りによってもらえませんか。気に入ったものがなければ、買わなくても結構です」
 というので、軽い気持ちでガイドをお願いした。上手な客寄せだ。彼は結構詳しく説明してくれた。

 
天馬塚
この公園に23基がある









 古墳群の中を通って天馬塚に向かう。国立博物館での予備知識があるので、理解は早かった。
 天馬塚の中に入ると、崩れないように中を空洞にして、出土した宝物を陳列してあった。本物は国立博物館にあり、ここのはコピーである。
 外に出て、約束の土産物店に向かった。日本語の上手な30台の女性が店番をしていた。ガイドをしてくれたおっちゃんの奥さんかもしれない。彼は次のカモを探して元へ戻ったようだ。
 特に買いたいものはなかったが、青磁器のぐい飲みを買った。
 日が暮れたので、タクシーに明日9時の出迎えを約束した。
「9(きゅう)時ですか」
「いや、9(く)時だ」
「はい、9(きゅう)時にきます」
「……」
 日本ほど漢字の読み方がたくさんある国はない。音と訓と2つならよい。その中でもさらにあるのである。たとえば幸福の幸は、コウ、さいわ(い)、さち、しあわ(せ)とある。中国も韓国も字の読みは1方法である。彼は9を「きゅう」としか読まず、「く」と読む私をいぶかしがったかもしれない。


慶州夕食のプルコギの風景
 部屋で一服、シャワーを浴びさっぱりしてフロントへ出向く。


韓国風の窓

シングルを予約したがツインだった







 プルコギを食べたいのでレストランを紹介して欲しい、といったら、車で5分の所に直営店があるのでそこを利用して欲しいと勧められた。
 5分ほどしてマイクロバスが迎えに来てくれた。見知らぬ土地、妙な所へ連れて行かれたらどうすべきか、などと考える。なるほど5分くらいで、街外れのレストランに着いた。
 店の名前は覚えていない。階段を上り2階がレストランになっている。大きな部屋の真中の部分がテーブルをたくさん並べた座敷である。周囲が椅子席となっている。客は、10人程度の団体と家族連れ、それに男性3人と美しいチマチョゴリの民族衣装の女性の3組である。
 1人です、と指を1本出したらレジにすぐ後ろの椅子席に案内された。


プルコギ
(韓国風すき焼き)
観光案内から







 メイドに
「プルコギ1人前」、
と言ったら
「2人前ですか」
という。
「2人前も食べれないよ、1人前でよい」
そこへ責任者がきて日本語で
「御注文は2人前からとなっております」
納得。すべてたどたどしい日本語でのやり取りであった。
 まず、キムチが配られた。モヤシ、大根、白菜、ともう一品の4種類である。次に、スライスのニンニク、味噌、青唐辛子とごまの葉、野菜を持ってきた。最後にすき焼き鍋のようなものに肉と野菜をたっぷり入れて、テーブルコンロの上に乗せ、火をつける。味はついている。「なーんだ、日本のすき焼きではないか」
 キムチとニンニクを肴にビールを飲み始める。鍋の中が煮立ってくる。先ほどのメイド、どこで見ていたのか、はさみを持ってきて肉を適当な長さに切ってくれた。そして、ごまの葉に、肉と味噌をつけたニンニクをくるんで食べよ、という。最初のうちは素直にそのとおりにして食べたが、汁がこぼれ、また、面倒くさくなり、我流で済ませた。ボリュームがたくさんあって半分は残った。
 ビール3本、疲れもあってか、9時頃眠ってしまった。


慶州ー石屈庵(ソックラム)と仏国寺(プルクッサ)
仏国寺は、ホテルから東南に約10キロメートルに位置する。さらにその東約2キロメートルに石窟庵(ソックラム)がある。仏国寺は秀吉の朝鮮侵入で焼失、現在のはその後規模10分の一で再建された。石窟庵は、秀吉軍に発見されず、往古のままと聞く。

                     

        慶州位地図                       中央上部がホテル 右下に仏国寺、石窟庵

 きゅうじ(9時)にかのタクシーが迎にきた。慶州民族工芸村を通過して石窟庵に向かう。ずいぶんと曲がりくねった山道を登ると山門のある広場に出た。ここはバスや乗用車の駐車場だ。きゅう時の運転手殿、ここから歩いていってください、と言う。ここから600メートルの距離である。
 参詣客は、家族連れが多い。日本人観光客もいる。





            質素なただ住まいの石窟庵                        韓国仏教美術の最高峰
               この中に釈迦如来像がある 
                   白花崗岩の丸彫り釈迦如来
                                               (観光案内)

 この純白の花崗岩を丸彫りした釈迦如来像は、早朝に訪れると、朝日が差し込んでとても神々しいという。
 1時間ほどで仏国寺へむかう。山門前は駐車場と土産物店で賑わっている。
 


          山門                                       山門の仁王像
             韓国の建築には丹青色が多く使われている
           左右2人づついる
           

山門に入ると、中年の婦人が近寄ってきて観光案内を日本語で始めた。
「なぜ、依頼もしていないのにガイドをするのですか?」
ととがめる調子で言うと
「ガイド料はいただきません。出口で土産物屋をやっています、買わなくても結構ですので、寄って下さい」
と言う。ははーん、天馬塚の例の方法だな、と分かったので、
「折角だが、私は土産物は買いそろえた。私に関わっても時間の無駄ですよ」
おばちゃんは、寂しそうに離れていった。

 


           観光案内で見かける                          本堂と離れた建物で立って経を読む僧
         
         
 華麗で雄大な本堂下に佇み、しばし眺める。観光写真の位置に立って、観光客にシャッターをきってもらう。
 本堂へは正面からで無く右のほうから登る。本堂は「大雄殿」という。私には何の感激もわかない。
 右手の法から別の建物に移動する。分厚い座布団に座って、また立って経をあげる僧侶、堂によりいろいろあった。
 韓国の建物は青をかなり使う。この色が無かったら、日本の建物と区別がつかないかも知れない。目の保養をして外に出ることにした。外の公園のベンチには、若者が人目を気にせず、肩を寄せ合って話し込んでいるのが微笑ましい。


慶州ーバスの切符売り場にて
 見所が済み、少々疲れたので早めに釜山に移動することとした。切符は電車で買ってあるし、分かりやすいのだが、経験のために高速バスを利用することとした。
 11:40 高速バスターミナル着。時刻表で直近の釜山行きは12時10分と12時40分があることが分かった。昼食に時間を1時間取ることとして、12時40分に乗ることとした。
 切符売り場で
メモで、12時40分と書き、「プサン1枚」と言うと、髪を後ろに1本に束ねたチョンマゲスタイルの売り場のお姉ちゃんが中で何か言っている。通じないのかな?と思い、メモを指差して、
「12時40分、釜山行き1枚」
と言ったら、今度は大きな声で叫んでいる。そして、12時10分の切符を出してきた。
「時間が違う。12時40分だ」
と日本語で話す。周囲の韓国の客達は、このやり取りを見ている。その中の初老の眼鏡をかけた上品そうな婦人が寄ってきて
「12時40分は無いので、12時10分に乗ったら」
と言ってくれた。そうか、あのお姉ちゃんはそんなことを言っていたのか。そして、さらにその婦人に指差しながら何か言っている。どうやら、バス乗り場まで案内してやってと、言っていたようだ。
 かの婦人は気持ちよく引き受けてくれて、乗り場まで案内してくれた。丁重に御礼を言ってバスに乗り込んだ。


釜山のバスターミナルから地下鉄へ
 12:40 定刻出発。混んでいたので荷物を足元とひざの上に置く。外の景色を眺める。市内はなるほど、古都に似つかわしく古い建物を時々見かける。高速道路では、田園地帯はハングルさえなければ日本にいるような景色だ。釜山の高速出口で、銃を持った兵士が立っているのを見て、身が引き締まる。そうだ、ここは準戦時体制化にあったのだと思い出した。
 13:30 釜山のバスターミナルに到着。約50分の行程だった。ここは大きなデパートの1階らしい。空腹を覚えたので1階をまわると、日本でもあるような大衆食堂、ハンバーガー、コーヒーショップなどがある。大衆食堂で韓国麺を食べることとした。
 「韓国麺を1人前ください」
日本語でのオーダーである。寄ってきたウエートレス、言葉が分からず仲間を呼びにいく。仲間は絵入りのメニューを持ってきた。韓国麺らしきものを指差す。どうもないらしい。仕方がないから隣席で食べているうどんと海苔巻を指差した。これにもキムチがついていた。
 次に地図を出して、現在地を確認すべくウエートレスを呼ぶ。
「ここはどこですか?」
またまた、仲間を呼びにいく.。その仲間は自身なさそうに釜山駅近くを指差す。
「カムサンニダ」
信用しないまま歩き出す。道路標識に地下鉄1.3km とあったのでその方向に歩くことにした。途中にパトロール中の若い警官がいたので確認することにした。
「地下鉄の駅はどこですか」
「……?」
警官は日本語が分からない。仕方が無いので、知っている英語の単語を並べてみた。
"Where is the subuway station ?"
今度は分かったらしく、指を指し
「クロス」
と教えてくれた。指差すかなたの交差点を見れば、高架の上を走る電車が見えた。
「カムサンニダ」
 釜山の地下鉄は分かりやすい。1本しかない。それに、駅に番号がついているのである。ちなみに、私が乗車したのは、東莱(とんね)駅で24番、降りるのは南浦洞(なんぽどん)駅で11番である。従って時々停車している駅の番号を見れば、降りる駅を間違うことはない。
 それにしても、大衆食堂のウエートレス嬢、いい加減な場所を教えてくれたものだ。
 南浦洞で降りて、ホテルの方向を通行人に聞く。
「ホテル フェニックス?」
「ホテル ピニックス」
といって、階段を上がれ、と教えてくれた。どうやら、この国ではピニックスと発音するらしい。因みに、バスはポス。海岸近くなのか、潮の香りがした。

夜のチャガルチ市場



 釜山港(観光案内)









 大通りに面した部屋から下を見ると、車道は車の洪水で、幅の広い歩道は人、人、人で一杯だ。歩道には小物やイカ焼きなどのほか子犬まで売っている。なんというエネルギッシな町なのだ。先ほど歩道で売っていたスルメをつまみにビールを飲み始めた。夕飯にはまだ時間があるので、一眠りすることとした。
 暮れかけた頃目が覚めた。食欲もあまりない。だが、せっかく来たのだ、部屋でだけ過ごすのは勿体無い、と思いでかけることにした。


釜山中心部(観光案内)
右、黒で囲ってあるのが釜山港

下、黒で囲ってあるのがチャガルチ市場

左、赤字を囲ってあるのが国際市場



 











 私のホテルは、ホテルフェニックス。道路を南に渡ると(地下をくぐり)有名なチャガルチ市場だ。道の両側に、1〜2間の幅で模擬店が海までの間に西方に広がる。売り物は魚類が主である。売り手はたくましいおばちゃんたちだ。どこまでも続く。大きな皿に鯛やヒラメが無造作に積んである。鮮魚、乾物なんでもある。子豚の頭を3個並べている店もあった。そのほかに、スルメを焼いている店、海苔の巻き寿しを高く盛り付けている店、韓国風お好み焼などたくさんある。海苔巻について少し付け加えるならば、具は日本と同じように思う。日本と同じような太さに勧告海苔を巻いている、そして表面にはゴマのようなものが振りかけてあった。
 歩き疲れた頃、横道からうまそうな臭いがしてきた。1階立ての大きな古い建物だ。のぞいてみると、かぎ型や「コ」の字型のテーブルに10人程度の椅子が並んでいる。このような店がたくさん入っているのだ。つまり、焼肉屋の集団だ。日本と違うのは、ホルモンが多いようだ。ツマには、ニンニク、青唐辛子、キャベツ、その他の野菜が多いことだ。客は焼酎を飲み、歓談しながら食べていた。
 心細さがあったが、すいている店の椅子に掛けた。一目で日本人とわかるらしく、「いらっしゃい」と中年のおばちゃんが声をかけてくる。隣席の人たちが食べているものを指差す。白い肉に塩を振りかけて、練炭の上で網焼きにする。それを、ニンニクを微塵きりにしてタレをかけた小皿につけて食べるのだ。「うまい!」と思わず叫ぶ。焼肉の合間に、青唐辛子やスライスのニンニクを食べる。肉の正体はさっぱり分からないが、ビールを飲みながら美味しくいただいた。ビールも3本のみ出ようとすると、焼飯も作ってくれた。これはうまかった。支払は1500円程度だった。
 満腹である。大通りのほうに歩いて、無事にホテルに戻ったが、翌朝の散歩でどのあたりだったか探したが分からなかった。
 熟睡。

 国際市場
 博多行きの水中翼船は14:00である。12:00までに港に行けばよい。私はチャガルチ市場の昼の顔と、もう一つ釜山で有名な国際市場を見ることにした。
 朝食は、ホテルでみそしる定食をとった。どんぶりより少し大きめのお椀に、エビ2尾、カニが入っており、たくさんの具があっておいしかった。味噌は勿論韓国のものである。ただし、お椀は日本みたいにを持たずスプーンで汁を飲み、箸で具を食べるのである。
 荷物を預け、フロント課長にだいたいの場所を聞いて、歩き出す。何の事はない、国際市場はホテルを出て右折、映画館街を通り抜けた處一帯であった。路上では、真中に少しの広さがあると、露天が所狭しと立ち並ぶ。装飾品、財布、雑貨のほかに食べ物ではスルメを焼いて売る店、韓国風のお好み焼、巻き寿司などなどである。車はごった返す人と店の間を、そろりそろりと通り抜ける。
 国際市場は、朝鮮戦争で米軍がたくさんいた頃の闇市場の名残だそうだ。観光案内にも安いと紹介してある。
 とある店に入った。店には誰も客がいない。ウナギの革の財布を見せてほしい、というとこちらへと言って小さな入口から地下に案内された。そこにはもう一つの店があった。客はいない。店主らしき大男がいた。映画やドラマで見るヤクザが、かしこまって正装している感じだ。小さな入り口といい、隠し店といい、不気味である。どうやら卸の商談の場所らしい。腕力には自信なし、逃げ足遅し。ここは逆らわずにおこうと、婿殿2人にウナギの革の財布を言い値で買い求め、そそくさと立ち去った。


国際市場から光復路にかけて
ごった返す人の群(観光案内)







祖国への水中翼船

 11時過ぎ、ホテルの裏通りの食堂に入る。昼食にビビンパッを食べようと言うわけだ。出てきたウェイトレスに「ビビンパツを下さい」と言ったら、発音が悪いのか、他のことを聞いているのか、何度かのやり取りの末に運んできた。
 食べ方は、出てきたものをご飯に混ぜればいいんだろうと、全部ご飯にかけた。どこかで見ていた先ほどのウェイトレス、あわてて飛んできた。どうやら、全部かけてはいけない、と言っているようだ。辛すぎるんだろうな。「ネー」と韓国語でハイと言ったら、どんぶりを持ち帰り、ご飯を倍ほどに増やして持ってきた。辛さを薄めたから、どうぞ、ということらしい。軽い笑顔の中に、手間のかかる日本のおじさんだ、と言っているようだ。とてもうまかったが、だんだんと辛さが増してきた。胃はもつんだろうか。水を何べんもお代わりして、胃の中で薄めた。

 
ビートル号
九州旅客鉄道のホームページから











 ホテルに預けた荷物をとり、12時少し前に釜山の国際港に着いた。2時間前と言うのできちんと守ってきたのだが、他の客は未だのようだ。真面目すぎたかな?
 1階のロビーでチェックイン、港利用税などを支払い、2階の乗船待合室の前へ。広いロビーの真中に売店がある。買わなくてもいいから、荷物を置いておけばみておく、と言う。ありがとう、と言って置かしてもらったが、しっかりと売り込みをうけた。今回は土産は買ったあとなので、次回に買うよ、といったら売り込みは止んだ。
 いよいよ出国だ。ここは身体検査が厳しかった。何度も両手を上げさせて、服の上から検査している。勿論女性はカーテンの中だ。
 釜山から博多までは、213キロメートル。これを2時間55分でつなぐ。平均時速は70キロだ。ジェットホイルと呼ばれるこの水中翼船は、1、2階に分かれ約220人のりである。揺れは新幹線程度で、音もうるさくない。1日1往復である。
 この船に乗り、ホッとした。街じゅうにあふれるハングル文字もなく、船長も乗務員も日本人で放送も日本語のせいだと思う。やはり、日本はエエか。はやく日本酒で刺身を食べたい。
 博多で、久しぶりの友人を誘い、一杯やった。「くさいなー」と言いながら付き合ってくれた。ニンニクの臭いがプンプンだったようだ。日本の味を満喫したが、友人には散財をかけてしまった。新幹線の中では熟睡した。

機会があれば、今度は食べあるきに訪問したいと思う。

                        {完}





            3.西国の波瀾訪ねて三度笠




             

                島原城の威容

1.時期        H 10・12・26〜12・28

2.
旅先        島原−伊万里−唐津−名護屋ー下関ー湯田温泉−山口

 
              
 
 
 以前から、島原の乱の原因となった島原城、秀吉の朝鮮出兵の基地となった名護屋城を訪ねたい、と思っていた。たまたま、年末に連休があるので出かけることとした。そして、通り道の史跡にも寄る事とした。

(1)島原へ
 12月26日(土) 晴 
 午前2時起床、2時半出発。愛車のエンジンの音が軽快である。暗い星空を見て走り出す。距離と到着時間の計算をして、ふっと気がついた。通勤のルートを走っていたのだ。「なんばしよっとか!」と自分に気合を入れて、最寄のインターから高速に乗る。時に午前3時。
 ハイウェイは、車も少なく、走行車線が時速100〜110キロ、追い越し車線が100〜130キロで走っている。私も流れに乗ってスピード違反だ。
 7時前、下関サービスエリアで休憩。東のほうが心持明るくなってきた。車と船の灯りが尾を引いて光の芸術を演じている。美しさにしばし見とれる。それをバックに記念写真を撮るカップルが数組いた。
 博多の手前で朝食にとんこつラーメンをとる。
 10時頃諫早インターを降りる。一般道は渋滞だ。「あせらない、あせらない」と自分に言い聞かせ、進路を島原方向にとる。アグリ担当時代の特約店の前を通る。
 11頃、目的の島原城に到着。早速登城することにした。

             

               島原城の石垣 本丸は松ノ木の蔭

 城内には、どこの城にもあるような歴史、銃砲刀剣類、郷土の民族資料、日本各地の城の写真であるが、少し違うのはキリシタン資料の展示であった。さらに、ウオークマンのような案内の受信機を貸し出していることであった。展示物の前に行くと、その場所場所での説明を聞くことが出来た。
 城内に流れる「島原の子守唄」の哀しい調べの中、丹念に見てまわることが出来た。

島原の乱概略
 折角であるので、資料の助けを借りながら概略を示す。
 寛永14年(1637)11月、領主松倉氏の過酷な年貢取り立て、労役に対して、島原の農民が蜂起し島原城を攻めた。次いで天草の農民が幕府の厳しいキリシタン弾圧に抗して立ち上がった。
 当時島原の藩主松倉氏は江戸出府中で不在。佐賀鍋島氏、熊本細川氏に援軍を依頼したが、他領への出兵を禁じた「武家諸法度(ぶけしょはっと)」のためそれもならず。幕府の鎮圧軍が島原に到着するおよび、一揆勢は、島原城の南約20キロにある当時廃城だった「原城」を修復して立てこもった。
             

勢力は一揆勢37000(家族含め。戦闘要員は5000といわれる)。幕府側は10万を超えたといわれる。
 総大将は、一揆側は通称「天草四郎」の16歳の益田四郎時貞。幕府側は、最初、板倉重昌、後に知恵伊豆といわれた、松平伊豆守信綱であった。ちなみに、板倉重昌は、上使変更を聞いて作戦を変更し総攻撃をかけて失敗した。板倉自身も戦死した。
 戦いは、松平信綱が着任して、干殺(ひごろ)しといわれる兵糧(ひょうりょう)攻めとなり、2月末原城は陥落した。
 
乱の背景
@ 過酷な年貢と労役
 以前の領主だった有馬氏が慶長19年(1614)、延岡に移され、この時点での領主は奈良の五条から移された松倉氏であった。彼は当時城造りの名人といわれた。彼は島原の地に自分の城を築くのだが、それが分不相応であったので、しわ寄せが皆農民にいった。

            

                   島原城大手

 つまり、彼は4万石の大名であったが、城の規模は10万石の威容であった。それだけ物入りなのである。現代のサラリーマンに例えるならば、年収400万円のサラリーマンが、年収1000万円の人と同じローンを組んだようなものだ。
 経済の算盤勘定が虚栄心に負けたのか、夢や想像の段階ならば許せようが、権力をもって実行に移したのである。
 さらに、当時は幕府による改易(お家取り潰し)が多かったらしい。それの防御策として、諸大名は、幕府の関心を買う必用から、無理な支出があったようだ。 従って、財政支出を補う方法は当時としては農民への徴税増額である。
 生きて死を待つか、反抗するか。農民が後者を選んだのは当然のなりゆきである。

A キリシタン弾圧
 キリシタン大名といえば、有馬、小西、高山氏などが思い起こされる。この地は、原城にあって14代続いた有馬氏の領地であった。従ってキリシタンも多かったのである。
 厳しい弾圧下、彼らは聖母マリア像を菩薩像に似せて作り、目立たぬようにだんだんと小さいものにして信仰したという。松倉氏も当然取り締まった。
 厳しい年貢とキリシタン弾圧に対する反抗が同時に爆発したのである。

B 適切な盟主。
 天草四郎。正しくは益田四郎時貞。キリシタン大名の小西行長の高級家臣の息子との説がある。
 小西行長は、熊本県南部を支配し、北部の加藤清正とは対立関係にあったことは、よく知られている。彼は、関が原の戦いで西軍に味方して挙兵、敗れて、三成、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らと六条河原で斬首され、歴史の舞台から消える。
 反徳川、キリシタン、高級家臣の家来の3拍子揃った適切な盟主がいた。

             
             
                   写真は teranishi kenichi 氏のHP から(了解済み)
                    「お城の健ちゃん」でアクセスすると各地の城が楽しめます

 そして敗因

敗因@ 総合力に差がありすぎ
 孫子に「勝算なきは戦わず」という言葉がある。つまり、勝つ為には自分より強い相手と戦わないことである。なおかつ、戦いを避けられない時は、相手よりも強くなる努力が必要である。
 一揆側には政治、経済、武力、世論などなど、どれをとっても幕府に勝るものがなかった。精神力だけでは勝てない。300年後の太平洋戦争は、勝算があって仕掛けたのだろうか?
 日本語に、「当たって砕けろ」という言葉がある。結果責任をどのように考えた言葉だろうか?
 この一揆は、勝つことよりも負けることを知り尽くした上で、弾圧で死するよりも、戦って死のう、という止むに止まれぬことから出発しているので、勝つ為の分析は当たらない。
 (注)孫子:およそ2500年前の中国の将軍で孫武とその孫(?)孫ひんの兵法をまためたもの。


            

敗因A 準備不足
 烏合の衆的な蜂起なので、準備不足である。作戦家、兵の訓練(相手は武士、戦闘集団)指揮官、武器弾薬、食料飲料水。医師医薬、燃料などなど。
 彼らの中には、元武士といわれる人たちはいた。しかし、実際の指揮は庄屋クラスがとっていたようだ。村ごとに持ち場を決めて。
 武器弾薬は鉄砲が600丁、島原、唐津藩から奪ったもので、弾薬は少ない。そのために節約し、投石が飛び道具として活躍したらしい。ちなみに、剣豪宮本武蔵も参戦していて、投石に当たり、歩行もままならず、という書簡が残されているという。
 槍薙刀も棒の先に脇差を結わえたものが多かった。
 食料は1月中に尽きてしまった。2月末の終戦までは飢餓状態であった。

敗因B 孤立無援
 ろう城は、味方が来ることが前提とすることが多い。哀しいかな、彼らには他のキリシタンの援軍がなかったのである。当時の絵図にオランダの艦船が見えるが、幕府側についていたのであろう。

 以上の背景やら、敗因を考えて少し分かったような気がした。
 
      
名物の具雑煮
 島原での昼食は名物の「具雑煮」と決めていた。名前は忘れたが、城の入口近くにあったので入り舌鼓をうつ。豊富な具をメモしたので書き加えることとした。
  ごぼう、レンコン、白菜、凍り豆腐、椎茸、鶏肉、蒲鉾、焼き穴子、卵焼き、春菊
そして、モチが5〜6個のっていた。味は薄い塩味だった。
 ちなみに、私が食べたのは並で、980円だった。

             
  
                 具雑煮(観光案内)

武家屋敷風景
 満腹の腹を抱えて武家屋敷を散策することとした。武家屋敷は城の西南にあった。石畳の道と両側の石垣が整然と続いていた。道の真中に清水が流れていた。生活用水に使われていたようだ。
 2軒の屋敷が観光に開放されていた。下級武士の屋敷らしく、こじんまりとして、庭のみかんの木が印象的だった。

             

                 島原の武家屋敷


(2) 伊万里焼の里を散策
 今宵の宿は唐津シティホテル。途中で伊万里焼きの里に立ち寄ることにした。
 諫早インターから長崎自動車道、そして西九州自動車道を経由して、三河内インターから202号線を北上する。面白かったのは、このインターの料金徴収方法であった。表示された金額を容器に入れると、遮断機が上がり通れる仕組みである。自動販売機の仕組みの応用だろう。以前に釜山の友人の案内で慶州に行ったことがあった。その時に、かの地の有料道路は硬貨投げ入れ方式だった。そんなことを思い出しながら、伊万里市に着いた。
 愛車を預けて市内をぶらぶらと散策する。

             

                  伊万里焼のモニュメント(観光案内から)

 駅近く、道の両側に色彩鮮やかな婦人像が立っている。褄を軽く持ち上げ、今にも歩き出しそうである。また、橋の袂の闌干にも、色鮮やかな壷が飾られていた。
 駅の観光案内のお姉さんとおしゃべりを楽しんで、秘窯の里「大川内山」へ向かった。市内から約10分、3方を山に囲まれたこの地には約30軒の窯元があるという。入口近くの駐車場に愛車を止めてウインドウショッピングに出発。

             

                  伊万里焼の里 大川内山の一風景

 ここには、佐賀鍋島藩の御用窯がおかれて、朝廷、将軍家、諸大名向けの高品位のものが焼かれて、世界の至宝「鍋島」と呼ばれるようになったそうである。
 そして特色は観光案内によると次ぎの3つである。
 @ 色鍋島  白磁の肌に渋い染付けと、赤・緑・黄の3色を基調とした美しい上絵が描かれている。
 A 鍋島染付 呉須(顔料)の藍色で描かれており、落ち着いた雰囲気の色合い。
 B 鍋島青磁 青磁原石を細かく砕いた釉薬をかけて焼き上げたもの。自然の青翆色が神秘的な美を表現する。
数軒の店に入る。
「見せてください」
「どうぞ」
……
「ありがとうございました」
いいなあ、と思うのは、しがないサラリーマンの旅烏には、ケタが1〜?上だった。それでも、曲がりくねった坂道の両側に並ぶ窯元で、目の保養は十分にさせてもらった。
 加藤清正公堂を通りの裏のほうで見つけた。何の謂ぞや、と市の商工観光課に尋ねたら、文禄.慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)のとき、清正が伊万里の生島に立ち寄ることがあった。そこで、水の神様といわれる成富兵庫茂安と会い、とても可愛がったそうである。孫の代になり、清正公を懐かしみ生島に「清正公堂」を建立した。加藤清正は熱心な日蓮宗徒で、九州内に5寺を建立した程である。大川内山には日蓮宗妙顕寺の檀家が多かったので、同じように清正公堂が建立された。などと教えていただいた。


(唐津の居酒屋)
 日が暮れて唐津市内に到着した。唐津シティホテルは駅の近くにあって、1階のレストランは市民が夕食を楽しみに集まり、満席のようであった。
 私は5階の大浴場と露天風呂にノンビリとつかり、旅の疲れを取る。少しぬるめのお湯は眠気を誘う。
 フロントで、「イカの活き作りを食べたい、居酒屋を紹介してちょうだい」とおすすめの店に、いそいそと出かけた。目的の店では、イカの余裕がない、という。唐津へ行ったら、イカの活き作りをたべなよ、と当地出身の同僚がいっていたので、目的貫徹と他の店を紹介してもらう。
 店員に、イカの活き作りの有無を確かめて、「鯨の湯かけ酢味噌」を肴に飲みだした。そこへ板前からがっかりする話がでた。
 「イカは、1人前分は出てしまってない。2〜3人ものならあるよ。それでよかったら料理するが……」
そばから、店のおばあちゃんが
 「そんなに食べたら腹を壊すよ」
仕方がないので、刺身の盛り合わせで我慢することとした。それでも、おいしかった。カンナで削ったようなイカ、甘味が口の中いっぱいに広がって大満足だった。おかげで酒が随分とすすんでしまった。夜中にのどが渇き、何度もミネラルウォーターの世話になった。

 
(唐津城)
12月27日(日)晴
 この地は古くから文化文明が発達したところときく。旧石器時代、というとBC3万年頃であるが、遺跡が発見されている。その後縄文時代(BC7千年)弥生のころの遺跡もあると聞く。現在の華麗な唐津城は江戸初期の寺沢氏によるものである。以後江戸時代260年は6代の大名の治めるところとなった。
 
             
 

              
唐津城本丸

 8時頃チェックアウトする。唐津城に向かう。エレベーターも本丸も9時からなので、人影もない。静かな散策となった。城は華麗である。東に見える虹ノ松原を翼に見立てて、別名は「舞鶴城」というのだそうだ。
 
             

                本丸近くから虹ノ松原方面を望む

 城の従業員であろうか、行き交うたびに
「おはようございます」
の挨拶は、とても気持ちの良いものであった。
 唐津ビギナーは、唐津駅北口の「アルピノ」へ行け、との観光案内にしたがって、9時オープンを待ちかねて訪ねた。駐車場の一角では、朝市が開かれていて賑わしい。目的は、2階の唐津焼協同組合運営の総合展示場である。広い展示場には、窯元別に作品が展示されている。掃除中の店員を捕まえて話を聞き、土産に夫婦湯飲みを3セット求めた。


(名護屋城)
 唐津市の西方約20キロ、30分程度で着いた。先ず知識を仕入れなければならない。大手門近くの名古屋城博物館に飛び込む。
             

                名護屋城大手から西方向

 文禄元年(1592)、全国を平定した秀吉は、朝鮮半島、明国へ出兵する為その前線基地として築かせた城である。正しくは、松浦党波多三河守親の家臣、名護屋越前守経述の垣添城を大きく改造したものである。城の総面積は17万uで当時としては、大阪城に次ぐ規模であった。
 2階の展示室には、模型の城、日韓の交流史、侵略の日韓相互の立場からの解説、慶州の王墓から出土した装飾品等が展示されていた。何よりも有り難かったのは、随所にVTRの説明があったことである。
 余談だが、以前に韓国を旅行していて、ソウルや慶州の歴史的財産を秀吉軍が焼いてしまい、秀吉が相当な悪人として浸透していたことを思い出していた。
 1階のVTRルームで再度見て登城する。追手門から左右に延々と伸びる石垣。向かって右に上ると、絶景ともいえる見晴しの良い場所があった。そこには、解説の円盤があり、どこに、どの大名が陣を張ったか、絵入りで説明してある。100を超す大名が終結したのである。秀吉は、高台から眺めて、さぞかし気分が良かったであろうヨ。

             

                 名護屋城内

 人間は、目標に向かって努力している時が、目が輝き体も生き生きしているものである。秀吉も天下を取るまでは良かった。登りつめてからは良い話は残っていない。やることが陽から陰に変わり、陰湿な陰謀すら用いるようになる。
 天真爛漫に、淀の方や秀頼を溺愛するのはよい。あれほど血を流さずに、無血開城に腐心した気持ちはどこへ行ったのか? この無謀な侵略が、彼我ともにどれだけの犠牲がでるのか、読めなかったとは言わせない。などと、いっぱしの義侠心で考えながら、本丸目指して歩く。結構観光客が多い。

             

                名護城本丸からの日本海

 程なく本丸だ。風が強い。少ない髪の毛だがセットが乱れるのが気になる。しかし、ここにも絶景があった。北に2つの島。天気のよい日はその北の対馬、そして朝鮮半島が見えるそうだ。早々とシャッターを切り退散する。


(呼子の海中レストラン)
観光案内が呼子(よぶこ)大橋の南の袂の海中レストランを紹介していた。「萬坊」という。昼時なので立ち寄ることにした。
 海上と水深3メートルの海中にもレストランがあった。内側に生簀の魚。外側に自然の魚が泳いでいるのが見える。客の殆どは海中に行く。

  

      観光案内から

 観光案内の勧めに従い、イカコースを注文する。上がり座敷を小さな衝立で仕切ってあり、満員の盛況だ。1人で1座敷を占拠しているのは我輩だけのようだ。
 最初にモズク。一杯やりたいね。次にイカシュウマイ。これはうまかった。我が家に土産にと思い、持ち帰りを頼んだら、翌日の夜までもたないから、と断られた。次のイカの活き作り。まだ足が動いている。口一杯に広がるなんともいえない甘味。動いていた足や頭は天ぷらにされる。うまかった〜。心残りは酒が飲めなかったことだ。次にくるとき(必ず)は、飲めなくて運転できる相棒を連れてくることを誓って、呼子を離れた。


(安徳天王入水の地、赤間が関)
 唐津から虹ノ松原を抜け、年末で渋滞の博多市内に車を乗り入れる。16時前に下関インターを降りると、そこは「壇ノ浦」だった。海岸沿いに1キロも走ると、朱塗りの水天門があった。平家物語の先帝身投げのくだり、わずか数行だが、涙を誘うところだ。8歳の安徳天皇が祖母に抱かれ入水した。
 
 …御涙(おんなみだ)におぼれ、ちいさくうつくしき御手(おんて)をあわせ、まず東(ひんがし)をふしお
がみ、伊勢大神宮に御(おん)いとま申(まう)させ給ひ、其後西にむかわせ給ひて、お念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪のしたにも都のさぶろうぞ」となぐさめたてまって(奉って)、ちいろ(千尋)のそこヘぞ入り給ふ。悲哉(かなしいかな)、無常の春の風、忽(たちま)ちに花の御すがたをちらし…
 
幼帝の御霊を慰める為、龍宮城をイメージして造られたのが水天門だそうだ。
 8歳の幼児、「死」がいかなるものかは、はっきり認識していないものの、言えようのない不安と恐怖に全身がおののいたに違いない。この際、一般的であっても、祖母の慰めは、最も適切であったに違いない。

             

                  
赤間神宮の水天門

 境内の裏、西北に平家一門の墓所があった。小さな墓石が肩を寄せ合うようにして並んでいた。入口は鎖で閉鎖されて中には入れない。その横に小さなお堂があった。小泉八雲の怪談「耳なし芳一」の木造があるところだ。さすがに、墓地は撮影できなかったが、このお堂はシャッターを切った。だが、現像してみると何も写っていない。記憶違いかな?操作がおかしかったかな?それとも怪談か? 以前にも会津若松市で似たようなことがあった。撮ったはずのものが写っていない。こちらは明治維新のときの犠牲者だった。
 境内の国道沿いにこんな句を見つけた。
  
   ふく食わぬ ものは通さぬ ふくの関

 なんでも、明治初期までフグを食べることは禁止されていたのを、伊藤博文が禁止を解いたので、下関が有名になったそうだ。
 武蔵と小次郎のの決闘の島「舟島」を見たかったが、時間切れで、次回の楽しみにとっておく。


(湯田温泉のひれ酒)
 山口市西部に位置する湯田温泉は、山陽路でも豊富な湯量を誇ることで有名だ。史跡でも西郷隆盛や大久保利通など、維新の志士たちが密会した、松田屋ホテルがある。当時の志士たちが入った風呂や密会した東屋が残る。
 私は山口出身の職場の同僚の勧めで、ホテルニュー田中に予約を入れてある。
 18時頃到着。早速屋上の露天風呂に飛び込み、旅の疲れを取る。外気は冷たいが、そのうち体全体が熱くなってきた。客は誰もいない。年末の日曜日、あわただしい時期だ。ノンビリと温泉をつかるのは、我輩くらいのものか。
 地下のレストラン街には、和食、中華、洋食、居酒屋などが並んでいる。なにを食べようかと見て歩いた後に、居酒屋に入った。
 寿司定食を取ったのだが、寿司以外にも料理が一杯で食べきれないくらいだ。途中で気がついた。テッサを忘れていることに。それから、ヒレ酒を何倍追加注文したことか。またまた、年甲斐もなく飲みすぎだ。
 20時頃、酒の勢いと旅の疲れで就寝。熟睡だ。
 翌28日、6時頃露天風呂の屋上にでる。脱衣場に先客がいた。若い(40位)人懐っこい人で、しきりに「寒いですよ」とか何とか話し掛けてくる。以前、博多の共同浴場で、部屋の鍵を盗られ、盗難に遭った経験から、用心する。
 浴場に出ると、さすがに寒く、首までつかる。空には星も見えない。曇天か、と思っていると、次第に明るみがまして白い霧が流れているのが分かる。体が温まり、足だけ温泉につかり、出たり入ったりして、ぼんやりと時を過ごす。
 誰もいない。浴場は広い。静かに時が流れる。
「こんなのが、命の洗濯というのか」
と満足して、部屋に戻る。


(西京の山口の歴史に浸る)
 12月28日(月)晴
 広大な香山公園で時を過ごす。ここには、西の京のシンボル「瑠璃光寺」がある。陶晴賢(すえはるかた)の菩提寺である。彼は、NHK の大河ドラマを見た人ならば思い起こすに違いない。大内家の家老で、主家を滅ぼし、毛利元就の計略にひっかかり滅ぼされた人物である。ドラマでも小説でも、大内家と毛利の引き立て役にされている。本人は、あの世で憤慨しているに違いない。ここは、禅宗のなかの曹洞宗で、我が家と同じだ。

             
 
                瑠璃光寺五重塔

 桧皮ぶきの五重塔は美しく散策する人が多い。若山牧水の歌碑があったので、メモをした。
    初夏の 山の中なる ふる寺の 古搭のもとに 立てる旅人

 公園の一角に、「露山堂」と「沈流亭」があった。
 露山堂は茶室であるが、藩主毛利敬親が家臣の身分を問わずここに招き、倒幕の策を練った場所らしい。そして
 沈流亭は薩長連合、倒幕の密議を凝らしたことで有名だ。

             

                沈流亭2階

 ここは、幕末の裕福な町人の「離れ」で、1階の土間には、会議に出席した人たちの写真が額縁入りで飾られ、13段ほどの階段を上ると、2畳の前室、4畳と6畳の和室がある。密議は、この6畳の間で行われた。出席者をメモしてきたので列挙すると
 薩摩 西郷吉之助     長州 木戸準一郎
     大久保一蔵         広沢眞臣
     小松帯刀           伊藤俊輔
     大山格之介         品川弥次郎
まさに、堂々たるメンバーで、往時を考えると、とても狭く感じられた。

 9号線を萩、津和野方向にしばらく走ると、常栄寺がある。ここは、画聖雪舟が庭を作ったところだ。彼は、今の岡山県総社市出身なので懐かしさを感じて訪ねる気になったのだ。寺と北面の山の間に石を散らしてある。富士山の形の石、その周りは中国五山の意味とか、私には分からない。
 
             

                常栄寺雪舟庭

 私が知りたかったことがひとつ。何故雪舟は京都に住まず山口に住んだのか、ということである。知ってみれば、なーんだ、である。大事にしてくれるスポンサーがいたからである。それは大内家である。中国に留学させてくれ、帰国しても大事にしてくれた。そういえば、ヨーロッパの大画家たちも、スポンサーのもとで大きな仕事をしたのであった。

 最後の大場として是非見たかったのは、大内家の住居址である。
 山口は、一の坂川を加茂川に見立てて町割をしたという。住居跡はその東側にあった。名を龍福寺という。ここには、京都から呼んだ文化人が多く出入りし、毛利親子も訪ねた。
 門の東の竹やぶに当時の土塀の址があると聞いたので、探しに出かけた。分からない。軽トラックの運転席で食事中のおばちゃん2人に聞いたら、あれだ、と指差してくれた。孟宗竹の間にあるこんもりとした土の塊である。何の案内もない。
           
             

                 竹の間に残る大内家栄華のあと

 昔の表現に、「苔むし、朽ち果て」という表現がある。これはなんといおうか。栄華を極めても、衰えればこのようになるのか。いつしか、平家物語の冒頭を思い出していた。
 祇園精舎の鐘の声 諸行無常のひびきあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらわす ……

            

               一の坂川

 一の坂川をノンビリと散策して、家路についた。
 この旅は満足のいくものであった。史跡を訪ね、温泉につかりそして土地のうまいものを楽しんだ。こんな贅沢をまたしてみたいものだ。
                
                            完




      2.会津藩史跡訪ねて三度笠

             
        
                  再建された鶴が城

1.時期        92〜96年

2.訪問ルート   @新潟市から越後街道
            A長岡方面から只見越え (92年夏)  
            B本宮から母成峠越え                    (西軍主力
            C日光から西会津街道越え(94年夏)

             

3.序
 私は福島県の生まれでありながら、会津を訪ねたことがなかった。たまたま、早乙女貢(さおとめみつぐ)氏の「会津士魂」を読んだことがきっかけで、訪ねてみようという気になった。
 根っからの会津武士の流れを汲む早乙女家は、明治維新後の薩長の支配下の日本に住むを嫌い、満州に居を移したと聞いたことがある。そのためだろうか、小説内での薩長に対する表現に厳しいものを感ずる。
 私の祖先も戦国末期以降、奥羽列藩同盟の1員として、維新戦争に短期間で敗れ去った岩城平藩の領地内に住んできた。当時の記録がないのが惜しいが、私自身は会津びいきである。しかし、激しい感情は持っていない。
 余談であるが、平藩のこの戦いで一家離散した武家の男子が短期間であるが、山本長五郎の養子となり、後に「次郎長傳」を著したことにより、清水次郎長は広く世に知られるようになった。
 会津に入るには、16のルートがあるそうだ。西軍が会津を侵略したのは、そのうちの5ルートである。
 私は、白河口からをのぞき、上気ルートから会津入りをした。ちなみに、会津を攻めた西軍の主力は、本宮(もとみや)から母成(ぼなり)峠越えであった。
 

4.日記

(1)92年、長岡方面から
 前の晩は柏崎市に宿をとった。朝早く目的に向かって走る。まったく土地感がないので、道を何度も尋ねながら。
 私がこの道を選んだのは、最後の武士といわれた、長岡藩家老、河合継之介の終焉の地がある、と聞いたからである。後年、長岡戦争の跡を訪ねて彼の墓もお参りしたが、それは別の機会に書こうと思う。
 小出というところから60里越えである。くねくねとした山道を登る。大きくカーブしたトンネルに入る。一般的にトンネルは直線が多い。それが、中で直角に近く曲がるところがあった。私は結構あちこちドライブしているが、90度近いカーブにお目にかかったのは初めてだ。事故は起きないのだろうか?
 しばらく走ると、目の前に大きな屏風が現われた、と錯覚した。

             

                   山上からの田子倉湖

 このような経験は、小学6年生の修学旅行で塩釜神社から松島湾をみて・目の前に大きな絵があると錯覚して以来である。地図で確認すると、田子倉湖のようだ。ここは、只見川をせき止めた人造湖である。素晴らしい景色に、しばし時が過ぎるのを忘れた。

             

                  只見川ダム

 下り坂を走って、落差の大きいダムに着いた。只見川ダムである。これを右手に見て、少し走ったところに、長岡藩家老、河合継之介終焉の地があった。西軍との和平交渉に失敗し、やむを得ず開戦した。当時では珍しい機関銃を入手して、西軍をさんざん悩ました。市街戦で受弾し、そして会津に遁れる途中、傷が悪化して命が尽きたのである。
 彼の最大の失敗は、「最高指揮官は、絶対に最前線にでてはならない」という鉄則を犯したことだといわれている。彼が受弾して、彼に代わる指導者がおらず、敗戦となったのだ。
 私は後年、長岡市内の彼の墓にお参りした。少し高めの墓石が1基で寂しい思いをした。維新政府下で遠慮があったのだろうか。近くの山本五十六(やまもといそろく)の墓もお参りした。こちらは山本家の数ある堂々たる墓石群の中にあった。立派だった。
 余談だが、河合継之介は、若き日備中松山藩の家老、山田方谷(やまだほうこく)に師事したことがある。陽明学の大家であり、農家から家老に出世した人である。藩の膨大な赤字を解消したことは、今でも語り継がれている。また、JRの駅名は、地名を使用することになっているようだ。しかし、人名を使用している駅名が全国で1ヶ所ある。それは、伯備線高梁駅の北にある方谷駅である。命名時に、随分と揉めたようだが押し通した。余談が長くなった。
 会津は、四方山に囲まれた盆地である。攻めるに難く、守るに易いといったところだが、この山越えは、重装備の軍隊には、苦労が多かったと実感した。



(2)94年夏、日光から西会津街道を通り

( 沼田で一杯)
真田一族の軍用道路ともいわれる、日本ロマンチック街道を通り、昨夜は沼田市に宿を取る。日曜日とあって夜の市内は閑散としていた。とある家族的な1軒の居酒屋に入り込み、秀吉の小田原攻めの直接の口実として利用された「鈴木主水(もんど)」なる侍のことを聞き出していた。いずれ旅日記に載せる積りなので、民謡の「八木節」に「……鈴木主水というさむらいは……」と登場するとだけ記載するにとどめる。
 そこへ、酒好きの爺様が入ってきた。顔なじみらしく店の主人から声がかかる。話の内容では、持ってくる金が決められているようだ。たしか500円だったかな。私も話の中に入る。どうもこの爺様、家に酒を置いていると、全部飲んでしまう。金を多く渡すと其れも飲んでしまう。お酒と大変な仲良しの酒豪のようだ。一生働いてきて、今一息をついて、晩酌の一杯が最高の幸せなのだろう。彼のこし方と、家族の暖かい思いやりを考えながらホテルに戻る。

(ヤマメの串焼きに舌鼓)
 朝早く宿を出立。今日は赤城山の北を走り、金精峠(こんせいとうげ)を抜け、戦場ヶ原を通り日光、鬼怒川を経て会津までの強行軍だ。
 尾瀬の入口を左に見、後年、NHKの大河ドラマ「徳川3代」で冒頭に毎回放映された「滝」で休憩。金精峠近くの茶屋では、ヤマメや鮎の熱い串焼きにかぶりつく。うまい!。今度は酒が飲めない仲間を連れてきて、一杯やらなければ、と思った。機会があればもう一度食べたい。

             

               戦場ヶ原(桟敷から)

 戦場ヶ原で一休み、中禅寺湖、日光.鬼怒川は素通りして先を急ぐ。
しばらく走ってから気がついた。維新戦争で日光を戦火から守った「板垣退助」像にお参りするんだった、と。


(奇抜な包囲網突破)
 鬼怒川温泉を通り西会津街道を北上する。途中、工事の為に迂回したことはあったが、ほぼ快適なドライブであった。田島を過ぎ会津若松の奥座敷「芦ノ牧温泉」を過ぎれば、20〜30キロで市内に入る。
 芦の牧の南方に旧道がある。ここに大川宿があるので立ち寄ることにした。参勤交代の折には、会津の殿様も利用した。道の両側に清水が流れ、茅葺の家に入れば、昔の駄菓子屋風に、菓子、雑貨、民芸品が売られていた。時刻は丁度昼、会津も蕎麦の産地である。1軒の蕎麦屋に入り込み、うちたての蕎麦を味わった。余談だが、島原の武家屋敷の通りには、真中に清水が流れていた。別の旅日記に掲載します。

             
 
                  大川宿

 この街道の守備は、かって、幕府の歩兵奉行だった大鳥圭介を長官に、家老の1人、山川大蔵が副官として担当した。山川は、智謀湧くが如しの戦略、戦術家であったという。旧幕府への、あるいは大鳥圭介への遠慮がなければ、彼を長官としていたら、戦局は動いていたかもしれないといわれる。
 西軍は、守備が堅いこのルートからの強行突破は断念している。
 全体の戦況から、会津軍は鶴が城へ撤収せざるを得なくなったが、その入城の仕方が面白い。十重二十重に包囲した敵陣を突破するのである。無策に、ただ戦いながらでは、味方の損害が多くなる。そこで彼は、いにしえの軍師のような奇抜な策で無血入城してしまった。つまり、地元の民衆と祭りの行列を仕立て、早朝に笛を吹き太鼓を打ち鳴らして、西軍の虚をついたのである。私見だが、西軍にもなんらかの計算があり、また遊び心?があったのかもしれない。



(3)本宮方面から母成峠越

(母成峠の激戦)
 磐越自動車道の磐梯熱海インターで降りて一般道を北上する。しばらく走ると、屏風のような安達太良山(あだたらやま)が立ちはだかる。山道を登ると、母成峠(ぼなりとうげ)である。戦跡は、西北に磐梯山、南に猪苗代湖が望める見晴らしのよい位置にあった。昔の激戦はどこ吹く風とのどかである。

             

                     母成峠

 福島県の東部を席捲した西軍主力は、本宮(もとみや)から会津盆地に向かって進軍する。西軍の名参謀、大村益次郎は「枝葉を刈って根本を枯らす」として、周辺を叩いた。そして、根である会津に向かったのである。
 防衛線を母成峠と設定した会津及び同盟軍は、幕府で歩兵奉行だった大鳥圭介を指揮官として待ち構える。西軍3000に対して会津同盟軍は800である。多勢に無勢、もろくも敗走する。撤退指示も届かないほどの混乱だったらしい。会津の為にいささか弁明すると、火力の差は大砲で、西軍20、会津5であった。
 大鳥圭介も、会津本陣と連絡がとれず、米沢藩に食料、弾薬の支援を求めたが、にべもなく断られ、やむなく仙台方面に逃れたということである。


(十六橋争奪戦)
 猪苗代湖に飛び込むような坂道を降りて、十六橋に向かう。細い田舎道を探しながらたどり着いた。石製のこの橋は、猪苗代の水を流す日橋川(にっぱしがわ)にかかっていた。彼我にとって相当な日数を稼げる重要な戦略上の橋だった。会津藩は、西軍の早急な侵入を防ぐ為、橋の取り壊し作業を急いでいた。西軍は、そうはさせじと急ぐ。しかし、会津藩が爆破に手間取り、西軍の手に落ちた。母成峠敗戦後の対策不十分説が通説のようだ。
 蟄居中の家老、西郷頼母が、作戦を指導していた重役達に「全員腹を切れ!」 と激怒したのは当然である。彼はそのため城外追放となったが……。
             

             
       
                  現在の十六橋



(新潟方面から越後街道)
 私がこの歴史探訪で会津入りをした頃は、磐越自動車道は未開通で、新潟から阿賀野川沿いに49号線を走ったものである。川、山、舟、民家と景色がとてもよい。しかし、日本海と太平洋を結ぶ幹線のため交通量が多い。さらに山越えの為、道は蛇行している。したがってノンビリと周囲に景色を楽しむゆとりはない。新潟〜会津100キロを3時間かけて走ったのである。今は1時間強、新潟〜いわき間120キロは3時間と短縮された。
 西軍は、佐渡に艦船を終結させて、一気に新潟を落とした。新潟は、長岡、会津両藩にとって重要な海の補給窓口であった。これは、西軍にとって、越後街道からの会津進撃を容易ならしめた。越後街道では、3箇所で戦闘があった。




(会津支配者の変遷)

 
理解を深めてもらう為に概略を載せると
 
 芦名氏    
  400年間支配した。嗣子なく常陸の佐竹氏から養子を迎えた。1589猪苗代湖畔の摺上原で伊達政宗に敗れる、佐竹氏を頼って遁れる。後年、秋田角館で佐竹氏に臣従。後年嗣子なく断絶。

 伊達政宗    
  1590 小田原参陣が遅れ、秀吉から会津を取り上げられる。

 蒲生氏郷    
  藤原秀郷の子孫。出自は滋賀日野城。信長の愛弟子。思ったことをずばずば言った。伊達政宗の押さえとして、会津に赴任。短命。わが祖先の主、車丹波も客将として九戸城(岩手)攻撃に参加したが、喧嘩して暇を出された記録があるそうだ。

 上杉景勝   
  謙信の子(養子。甥)氏郷の後、伊達の押さえとして越後から会津に移封。関が原のあと米沢へ移封。禄高は120万石から30万石へ。関が原のとき、車丹波は佐竹の命で上杉軍に参加した。

 加藤嘉明    
  鶴が城は、加藤明成の時代に現在の形に整った。

 松平氏(保科) 
  2代将軍秀忠の庶子、保科正之が藩祖。信州伊那高遠の保科家の養子になっていたのを家光が取り立てた。(12年、NHK の大河ドラマで放映あり)幕末の藩主 松平容保(かたもり)は美濃高須藩(現岐阜県南部海津町)からの養子。藩祖遺訓に「将軍家と存亡をともにすべし」がある。京都守護職就任が会津藩の命取りになったのだ。強い就任養成に対し、容保公は遺訓と情勢の間で多いに悩み、君臣一致がなければ難しい、と家老たちに諮ったという。家老の西郷頼母は大反対した。しかしながら応諾して、結局1000名の兵士を率いて上洛するのだが……。
 会津藩は徳川家に忠誠を尽くして、最後には江戸払いになって、そして会津戦争へ突入することになる。
(注)美濃高須藩は、尾張徳川家に嫡子がない場合、高須藩から出ることになっていた。幕末の尾張藩主しかり。京都守護職会津松平氏、京都所司代桑名松平氏も高須藩からの養子である。つまり、この3兄弟は敵味方に分かれた。



(会津武士を育てた学校、日新館)

             

                復元された壮大な藩校,日新館 正面から右半分

 質実剛健、尚武の気風はどのようなところで育成されたのか。全国でもトップクラスの藩校が城の西にあったというので行ってみた。今は小高い天文台跡のみが残って、近所の子供たちの遊び場になっていた。当時、西軍が占拠したので、城中から堀越えに火矢を射て焼失させたという。
 市内の北方,河東町に再建されているので足を伸ばす。焼失前の建物に忠実というが、広壮なものである。
 幕末当時の著名な藩校を分かる範囲で比較してみる。

 藩校       敷地(坪)  生徒数   経費(石)    教育内容

日新館(会津)   7000    1000    5000   孝悌を本とし、各々の徳を伸ばし、材を
                                   達して国家有用の人物を作る。

造士館(薩摩)   4000     800           修身斎家治国平天下を目的とし、日本
                                   国の本義を明らかにし、国威を海外に
                                   発展させる

明倫館(毛利)  15000                   あらゆる方面に亘り教育した。西日本
                                   最大の規模 

 幕末当時、上記以外で著名な藩校は、岡山の閑谷学校、熊本の時習館、佐賀の弘道館、水戸の弘道館、米沢の興譲館、仙台の養賢館などが挙げられる。なかでも、武士的陶冶が行われていたのは、会津の日新館と、鹿児島の造士館だったといわれる。
 
             

               教室の1風景

 正面玄関から入る。見学順路に従って歩くと、年少者対象の教室があった。切腹の作法も、ここで教えたという。いくつもの教室を通過して、孔子を祀る大きな大成殿で正座、説明を聞く。大きな剣道場や柔道場が5〜6室あった。弓道場では試射をさせていた。しからば私も、と思い順番を待つのだがなかなかまわってこない。敷地内に池があった。聞いてみると、プールだという。日本ではじめての水練場だそうだ。武具を着けての水練もした。

             
 
               日新館の水練場

 資料館に、それぞれのドラマのロウ人形が陳列してあった。ここで不思議なことが起こった。男装して武器を城内に運んだ勇敢な女性を撮ったのだが、現像してみると写っていない。それと、戦後大分に留学した少年が、母への手紙に空腹を訴えたが為に、「泣き言を言うべからず」と叱られて自殺した少年の写真。育ち盛りで、母へ甘えの積りで書いた手紙が、このような悲惨な結果を招こうとは……。




 (白虎隊の最後)
 「白虎隊とは何ぞや」 「維新戦争で集団自決した会津藩の少年武士である」というと、「ああ、そう」と言って後が続かなくなる。そこで、理解を深める為に、少し紙面を割く。

             
 
                 白虎隊自刃図

            

幕末の維新戦争前に会津藩は軍制改革をした。大まかに書くと次のようになる。隊名の由来は京都の四神の名を使用している。朱雀は南。青竜は東、西は白虎そして北が玄武である。
 
  朱雀隊  18〜35歳  12中隊  1200人   1個中隊100人
  青竜隊  36〜49     9      900       〃
  玄武隊  50以上     4      400        〃
  白虎隊  16〜17     6      300          50人
     小計          31中隊  2800人

 第1、第2砲兵隊、築城兵、遊撃隊、その他多数
     合計                3000人+アルファ

 農兵(20〜40歳の頑健な者)    3000
 猟師、修験隊、力士隊             α
    総合計               7000人
 
  
話を白虎隊に戻す。
 上記のように、白虎隊は少年によって編成された部隊である。身分によって次ぎのように分かれている。
  士中白虎隊(上級藩士子弟)  2中隊  定員72名  計144名    実態   37名
  寄合白虎隊(中級藩士子弟)   同上                         149
  足軽白虎隊(下級藩士子弟)   同上                          65
 自刃で有名なのは、士中白虎隊の2番隊である。前述の通り、母成峠敗戦の報で藩主容保(かたもり)は前線督励の為に滝沢本陣(市東北方面)に赴いた。ここで、1番隊が君側護衛、2番隊が戸の口の前線に出陣した。
             

              旧滝沢本陣  柱には弾痕、刀傷が生々しく残っていた

 ここの戦いは、会津軍に多数の死傷者を出して短時間で終わった。近代兵器を装備した2600の西軍と、少年と年寄りを主体にした200余名の会津軍である。勝負にならない。この時点で、会津の青壮年藩士は国境にあり、国内には老人と婦女子しかいなかったのである。
 2番隊は、食料探しに出た隊長日向内記を除き、負傷者を連れて撤退した。洞門を抜け、飯盛山にたどり着いた彼らは、紅蓮の炎をあげ、黒煙に包まれて燃える鶴が城を見たのである。(実際は燃えていたのは城ではなかった)。君公のいる城の炎上を見て、
 「君公のいます鶴が城が已に猛火に包まれ、我々の進むべき道また敵に扼されている。我々一同潔く自刃して、同僚の士と黄泉(よみ)において再会しようと、山腹に整列し、はるかに鶴が城に向かって訣別の礼をなし、銃を捨てて刀を抜き、あるいは腹を切り、あるいは喉をついた」
と、20名が自刃した。上記の記述はただ1名助け出された飯沼貞吉の遺談である。

            
 
               飯盛山から鶴が城を望む  直線距離で4キロ程度

 飯盛山を訪れる人は多く、私もゆっくり石段を登る。動く坂道もあったが、運動の為歩くこととした。




(なよたけの……。家老西郷頼母家族の集団自決)
 城から東に約2キロ、東山温泉の近くに西郷頼母(たのも)邸が
再建されて、武家屋敷として観光客を集めているので訪問した。

            
 
                 西郷頼母邸

 もともとは、城の北出丸側の家老屋敷群の一角にあった。今は、大きな駐車場に隣接して一段と高い上に再建されていた。屋敷の門では武士に出迎えを受けた。広大な屋敷の庭先沿いに回ると、いくつもある部屋の一角に、「一族自刃の間」の案内があった。

           

              自刃の間  会津士魂によると、辞世は和やかな
                      雰囲気の中で作られたとか

 何故このような悲劇が起こったのか。一般にはあるじ、頼母の足手まといにならないように、といわれている。また、和議を唱える頼母が「臆病者」と言われていることに対する、無言の抵抗とも言われている。
 まず、悲劇の人たちを挙げる。
  
  祖母             77歳
  母 律子           58
  妻 千恵子         34
  妹  2人          26,23
  娘  5人          16,13,9,4,2
  親戚12人
    計 22人

 1868年8月23日(閏年の為4月が2度あった、今の10月下旬)、妻千恵子は夫頼母と長子吉十郎を城に送り出した後、壮烈な殉難の儀式を行った。
「今日は、実に汝らの死すべき時なり。いたずらに生を愉しみて恥を残すことなかれ」
と、3人の娘を刺し、自らも喉を突いた。後日談としてこんな話が残っている。
 自決の後刻、西軍の土佐藩士、中島信行(初代衆議院議長)が入ってきた。急所を外し死に切れずにいた娘、視力が落ちて見えず、かの藩士に「敵か、味方か」と問うた。彼、事情を察し「味方なり」と答えたところ、持っていた短刀で介錯を頼まれたという。
 辞世が残されている。妻千恵子の辞世が有名なので紹介する。
   
   なよたけの 風にまかする身なれども たわまぬ節も ありとこそ聞け

会津婦道の生き方といわれている。激しくさらに芯の強さを感ずる。同じような悲劇は、方々であり、なよたけの碑には233名の婦女子の名前がある。したがって、この一族の悲劇はほんの一例で、調べたら(已にあると思うが)いつ終わるのか、涙もかれてしまうかもしれない。
 このような悲劇のあるじ、頼母はどんな人物なのか。簡単に記す。

西郷頼母について
 彼は、藩主が留守中に政務を代行する重要な役職の国家老であった。彼は、容保が京都守護職就任に際しては、徹頭徹尾反対している。さらに、就任1年時に上洛して、辞任を要請している。容保の怒りに触れて蟄居となるのだが、時代の流れを彼なりに自信を持って掴んでいたのではなかろうか。
 維新戦争時、運は彼を見放した。風雲急を告げ復職した彼は総督として白河口の攻防戦を指揮して、敗退した。この一戦は非常に大事な戦いだったといわれる。奥羽列藩同盟の各藩が注目して、勝てば会津強しとして、その同盟はますます強くなったに違いない。また、西軍に対する外交交渉も有利に展開したに違いない。
 しかし、である。会津、仙台、棚倉、旧幕府軍などの連合軍2500が、西軍の700に敗れたのだ。しかも、攻める側とほぼ同数の680戦死者を出してである。彼はまたもや役職を取り上げられ、謹慎となる。そして、戦線が城外におよび、事態が緊迫し、彼が登城中に悲劇が起こったのであった。時に彼は38歳、74歳で生涯を閉じるが、自叙伝の半分は、家族に対する愛情が切々と記されているという。
 いま、彼に対する見かたが変わりつつあると聞く。余談だが、姿三四郎のモデル、西郷四郎は彼の養子である。

 西郷一族の墓前で合掌
 城の東南、小田山のふもとに善龍寺がある。小田山は西軍の砲兵隊が城内へ砲弾を打ち込んだ所だ。(別の旅日記に記す) 私は、西郷一族と、なよたけの碑があるので訪ねた。住宅地の狭い道を抜けて畑の道端に車をとめる。向かって本堂左になよたけの碑があった。わたしは裏の墓地へ足を運んだ。暗い林の中に、小さな墓石が肩を寄せ合うように並んでいた。
「悔しかったろうね」
と語りかけ、冥福を祈り合掌。静かに離れた。


 

             

               なよたけの碑
 



(娘子隊、無念の竹子像に合掌)
西軍の参謀板垣退助は、戦後第3者の評論の如く語ったという。
「会津は屈指の強国なのに、国滅ぶ時殉職するのは5000人の士族のみにて、農商人は似を背負って逃げるだけ、上下力を合わせれば官軍は難儀しただろう」と。
 実際は前述の通り、士族3000人強、農ほか3000人強で計7000人で構成されていた。惜しむらくは、挙国一致の体制になっていなかったのではないか。そんな中で、果敢に戦った娘たちがいたので、その跡を訪ねた。その名を娘子(じょうし)隊という。
 娘子隊は、会津藩が正式に編成した部隊ではない。自然発生的に出来て名前も後世付けられたと聞く。
 幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れて、将軍慶喜以下の主だった人たちが、船で大阪を脱出した。慶喜が官軍に恭順の意を示し、会津藩江戸詰全員が退去を命ぜられた。会津に戻った武士の中に、勘定方の中野平内という人がいた。娘子隊は、その妻こう子、長女竹子、次女優子が中心になって生まれたという。
 特に竹子は、藩内外に聞こえた薙刀(なぎなた)の名手であったという。会津に戻った有名人を見ようと、若侍か町人か覗き見して、薙刀で追いかけられたような話を聞いたことがある。
 かねて20余人と、いざとなった場合の打合せは済んでいたが、戸の口の戦いの2時間後に敵が押し寄せる急な状況で、現在のように電話があるわけでなく、連絡が取れなかった。3人は、髪を切り、身支度を整え、薙刀を抱えて飛び出した。
 已に城門は閉ざされて入城も出来ず、途中で出会った同志と会津坂下に避難した藩主の義姉、照姫を護衛しようと向かう。結局照姫不在で、会津に戻る途中で、衝鋒隊(しょうほうたい)に編入された。そして、湯川に掛かる柳橋(通称涙橋)で、長州、大垣兵と銃撃戦となった。
 銃撃戦がこう着状態となって、隊長古谷作左衛門は突撃を命じた。兵士たちは白刃をかざして突進した。竹子ら女達も、遅れじとばかり薙刀を振るって突進した。
 銃弾に倒れた竹子の薙刀には、辞世が結び付けられていた。

  武士(もののふ)の 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ わが身ながらも

 道を尋ねながら涙橋に到着。工場と住宅が入り混じったなかに小さな公園があり、その一角に竹子像があった。竹子像の前で合掌。

             

                 中野竹子像   薙刀の名手 22歳





(会津藩降参す)
 西軍の約1月の攻撃に耐えたが、米沢藩の仲介によっ容保は降伏を決意した。降伏式は、北出丸を出た家老屋敷が立ち並ぶ路上であった。

         


              降伏の儀式  (会津軍記)
                裃姿の容保と椅子に掛ける板垣退助、中村半次郎、
                後方に西郷吉之助の姿が見える

 勝てば官軍、負ければ賊軍。勝ち誇った者の姿がよく分かる。椅子に掛けてふんぞり返っている。
 降伏の後、藩主松平容保は、護送されて会津から出ることになるのだが、その光景を、英人医師ウイリアム・ウイリスが次のように書き残している。
 「護衛隊(約300名の肥前藩士)の者を除けば、先の領主である会津候の出発を見送りに集まったのは十数名もいなかった。
 いたるところで、人々は冷淡な無関心をよそおい、……農夫達でさえ往年の誉れ高い会津候が国を出て行くところを、ふり返って見ようともしないのである」
 私は、この記録を表面どおりに納得できない。その裏にある理由を考えてみた。西軍がじわりじわり会津兵を城内に追い詰めていた頃、戦死した会津藩士の死体は埋葬することを許されず放置されていたという。つまり、その辺のことを考えると、降伏した会津候は逆賊である。うっかり見送っては後難があるのでは、と考えたに違いない。心の中では手を合わせて泣いていたに違いない。と、思いながらも寂しさを消すことは出来ない。私はこのように思いを致し、会津の歴史探訪記を閉じることにする。
 なお、会津候は晩年に日光東照宮の宮司として生涯を閉じた。享年59歳。







        

      1. 欧州路すっとび三度笠


         
   
         スペイン コルドバの城塞



旅先      スペイン・イタリア

行程      成田→マドリッド→グラナダ→セビーリア→コルドバ→マドリッド→
         
         ミラノ→ベネツィア→フィレンツェ→ローマ→

         バルセロナ→マドリッド→成田   
                   

          

期間     H7・11・16〜11・27



1.はじめに
   定満旅行……。会社が定年退職を迎える社員に対して、その労をねぎらう制度の一つである。
   小生も会社人間として、37年間懸命に働いてきた。今年6月、56歳で関係会社に移籍退職することに
  なった。
   ふり返ってみて、会社に対する貢献度はいかほどかは不明である。が、自分でも己の心身を慰めてや
  っても良いのではないか、と考えた。
   かねてより、ヨーロッパ旅行を温めていたので、日本旅行の
   「イタリア・スペイン魅力の全てを満喫11日間」
  を利用することとした。
   妻は都合で同行できないため、一人旅となった。


2.準備
   外国旅行は初めてではない。数年前に台湾と香港に行ったことはある。しかしながら、全て忘れてしまい、本を買い、 旅行会社に問い合わせて、どうにか準備が出来た。そして準備完了。ちなみに
    T/C               100,000円         市内の銀行で
    スペインペセタ          80,000ペセタ      大阪の東京銀行
    イタリアリラ            80,000リラ        同上
   つまり、いろいろ心配して準備したのは通貨だけだった。


3.日記

11月16日(木)晴
 (いざ、集合地へ)
  成田から飛ぶのであるが、関西からの参加者は伊丹から空路成田に移動する。
  私は、淀屋橋の東京銀行で換金し、梅田の丸ビルへ向かった。ここから伊丹までリムジンバスで向か
 うのである。翌日の集合時間が、伊丹空港 AM 7:00 なので空港近くにホテルを取ったのだ。
  丸ビル周辺がものものしい。警官が多い。警察犬もいる。これは、APEC 出席の外国要人がヒルトン
 ホテルで夕食会があるためらしい。
  交通規制のおかげで、道路がすいていて空港まで15分でついてしまった。いつもの半分だ。
  夕食は、ホテル近くの居酒屋で一杯やり、思いは已に西の空だ。早めに就寝して熟睡。


11月17日(金)晴
 (離陸までの風景)
   5:30  モーニングコールセット
   6:30  ホテルから送迎バス出発
   7:00  空港集合
  以上の予定だが、4:00に目を覚ましてしまった。常日頃旅には慣れている筈なのに、意識の底ではや
 はり嬉しかったのか、小学生の遠足の如く緊張していたようだ。もう一眠りと思うのだが、睡魔は知らん顔だ。仕方が無いので、朝風呂に入り、旅行案内に目を通す。しかし、頭がぼんやりしていて、何を読んでいるのか分からない。
  どうにか時間を急かして(そんな事できんよ)集合場所に到着。
  この一帯は各種ツアーの集合場所のようで、たくさんの旅行客で一杯だ。私の参加ツアーの場所は直ぐ
 にわかった。
  手荷物検査を済ませて搭乗。
  8:00  伊丹離陸
  9:00  成田着陸
  東京からの参加者を含めて全員集合。出国手続、手荷物検査を経てバスで航空機まで移動する。搭乗
 するのは、イベリア航空のボーイング747である。
  一行は、29人の参加者とツアコンの合計30人の大パーテイだ。ちなみに、おいおい分かった一行の内
 訳は
  夫婦  中高年   4組   8人   大阪、京都、広島、?
       若年     2    4     伊勢、埼玉
  母娘          2    4     栃木、?
  姉妹          1    2     埼玉
  友人          2   10     神戸、横浜、福岡、岡山
  単独(私)       1    1     倉敷
  合計         12   29

(ナターシャが待つモスクワへ、機内の風景)
  11:00離陸。座席は32J 。進行方向に向かって右側のアイルシートだ。隣は同じパーテイのご夫婦。
 後部座席がモスクワまで空いているというので、窓を見たい昔の子供は早速移動する。見渡すと、乗客
 の大半が日本人である。それなのに、機内放送はスペイン語である。サービスより社内規定優先らしい。
 何を言っているのかさっぱり分からない。私のエリアに廻ってくるスチュワーデスは、年輩のスペインであ
 る。若いときはさ ぞかし美人であったろうと思う。遠くのほうに日本人のスチュワーデスが1人見える。
  筑波嶺を右手に見て北上する。
  11:20 かのスチュワーデス殿、ものも言わず事務的に新聞を配って歩く。次はエアホンとソックスだ。
 これは、靴を脱いで機内でくつろぐためのものだ。
  11:50 寒い。大阪〜成田の機内は快適だったが……。急性肺炎と仲良しの小生だが、今は絶対に
 親しくなりたくない。急いでセーターを着込む。
  12:00 2名の搭乗員が大きなワゴンを押してくる。ワイン? ウイスキー?ジュース?ときかれたので
 「オレンジジュース」と注文した。そしたら1合程度のワインを置いていった。よほど発音が悪いのか。私の
 日本語は、少なくとも日本では通用する。どちらでもよいので、それを頂くことにした。うまい! ものの1分 
もたたないうちに空になった。聞き違いさまさまだ。
  そのうち、弁当を配って歩く。メニューは
   エビと鉄火巻の寿司 各1個
   鮭に黄色いソースをかけたもの。その周りはご飯と山菜の煮物。
   デザート
  である。鮭がおいしかった。
  機体が大きく揺れる。TVの画面表示時をみると、北海道の西、オホーツク海を北上している。
  「グリーンティ」といって大きな土瓶を持ってきた。これは、ノ―サンキュウ。コーヒーを頂くことにした。
  12:40  膳を下げにきた。片づけを手伝いながら、覚えたばかりのスペイン語で「グラシャス」といった
 ら、「サンキュウ 」の返事が返ってきた。
   軍事関係なのか、窓を閉めるように注意があったが、時々そっと開けて外を見る。樺太上空か、下の
 山々がまばらに冠雪している。北上するに従い白さが増す。
  機内では、トイレを探してうろうろする日本人が多い。[LAVABO][LAVATORY] と2段に表示してある。
 日本語の案内は無い。 トイレらしいと立ち止まるのだが、よう開けない。トイレと分かっていても、おずお
 ずと遠慮しながらやっているから、これまた開かない。席は離れているし、聞かれもしないのに行って教え
 るわけにもいかない。考えてみれば、旅になれていないということだ。しかし、私も暇だな。
  19:25(モスクワ時間13:25) 軽食が出た。メニューは、サラミ2枚、ハム2枚、ジャガサラダ、パン一個
 とコーヒーである。勿論食前酒としてワイン。モスクワまであと1時間だ。いい加減飽きてきた。高度30,000
 feet ,外 気温が -65℃

 (モスクワ空港寸描)
  20:40(モスクワ時間14:40) モスクワ空港着陸。雲が低く垂れ込めていて暗い。地上は薄い雪景
 色である。ここが 「戦争と平和」にでてくるロシアなのか。映画のような美男美女に会えるのか。少し胸
 が躍る。
  給油、乗務員交替そして清掃のため、一時トランジットルームで待機することになった。ツアコンから、手
 荷物をもって出るように、とアドバイスがあった。盗難予防の為だった。
  機の出口で軍人を含めた3人のロシア人の観察を受けて、係員からトランジット カードを受け取る。空
 港ビルに入り集合時間などの説明を受け、三々五々と散る。狭い範囲であるが、見たままを記すと、
  窓の外  泥だらけの作業車  降雪の為常に地面が濡れていて仕方が無いのだろうか
  ビル    節電の為か間引き消灯で暗い
  人     まばらで活気が無い
  免税店  商品は豊富であった。市内の店は、並んで買い物をしている光景をTVで見かけるが、やはり
 ここは違う。店員はよく訓練されており、違和感は無い。美人も多かった。私が見たナタ―シャは、オード
 リーヘップバーンだったかな。そこまでは距離があったが……。
  約1時間後離陸。

 (さあ、スペインだ)
  今日の夕食は機内である。またまたワインを楽しむ。美味である。こんなワインが自宅にあったら、止ま
 るところを知らず へべれけになるかも知れない。食事の献立は肉とご飯で、その他は変りばえせず。
  19:30 (日本時間 18日3:30)マドリッド空港着陸。
  成田を出てから16時間あまり経った。やれやれだ。気温はモスクワでは想像できないほど暖かい。
  出口は、EC内とEC外に分かれている。手続を済ませて外に出ると、翌日のガイドをしていただく深浦
 さん?が出迎えていた。私と同じくらい額が広い好中年だ。簡単な説明を受けてバスに乗り込む。ホテル
 まで20分の距離だ。
  20:30(日本時間18日4:30(以降現地時間に統一) GRAN HOTEL COLON 到着。皆さんお疲れ様。

               
 
                マドリッド ホテルコロン


  ミーティングで翌日のスケジュールを聞き散会。ちなみにそのスケジュールは
   7:45  モーニングコール
   8:00  室外にスーツケースを出す
   8:30  朝食
   9:40  ロビーに集合
 
  私の部屋は506号室。つまり、日本では5階の6号室となるのだが、ここは日本と違いフロントのある階
 でなく、2階から 数える。したがって、日本流にいうと606号室である。
  エレベーターは、ホテルの規模に比べて少ない。観音開きのドアで、入ると、建物とエレベーターの間の
 仕切りが無い。したがって、入口近くは挟まれ、こすられて危険である。日本の企業ならば、KY(危険予
 知)で指摘されること確実である。
  部屋はツアーの料金にしては上等だ。ちなみに気がついたことを列挙すると
   1.浴室内は大理石
   2.タオルは湯上りと洗いと2種類あるが、その大きさに驚く。洗う分はスポーツタオル。もう一つはタオ
 ルケットくらいの大きさだ
   3.石鹸はあるが、歯磨きと髭剃りは無い。日本はサービス過剰かも知れん。
   4.便器ともう一つ煮た物が並んであった。男には無用のもの。
   5.冷蔵庫の中にビールその他飲み物があった。しかし、殆ど冷えていない。節電か、従業員の付け
 忘れか。
   6.洋服ダンスには鍵がついている。
   7・ダブルベッドは大きい。快適だが1人ではもったいない。
  いま、スペインは22:30 日本時間で18日の6:30。今朝4:00に目を覚ましたので26時間あまり起
 きていたことになる。また、1日は時差の8時間を加えて32時間であった。


 

 11月18日(土)晴
 (感極まったりプラド美術館)
           
                  
                             マドリッドにあるプラド美術館(観光案内)

  夜来、風の音が激しく何度となく目を覚ます。早めに起きだして外を見ると、夜明け前である。
  空を見上げると、黒雲がちぎられたように、右から左へ次から次へと激しく飛んでいく。一方下に目を移 す
 と、片側4車線の道路は、車の往来が多い。歩道は、コートやジャンパー姿で結構歩いている。路側帯は
 路上駐車が多い。カローラかサニークラスが殆どである。
  8:50 朝食。大阪のご夫婦と同じテーブルにつき軽い会話を交わす。食事はバイキング方式だ。卵、パ
 ンそしてオレンジジュースで済ます。食欲が無い。コーヒーカップがとても大きい。
  ヨーロッパのホテルの朝食は2種類ある。コンチネンタルといって、コーヒーとパン程度の簡単なもの。ア
 メリカンスタイルは盛りだくさんなもの。ここはアメリカンに属するのか、それとも第3の朝食スタイルか。
  枕チップを100PTS(ペセタ)、日本円にして70〜80円をだすようにアドバイスがあったが、着いたばかり
 で小銭なし。失礼する。
  9:40 深浦氏と現地美人ガイドが添乗するバスで出発。なぜガイドが2人も乗るのか。ガイド料が2人分要るではないか、と疑問をもつ。胸のうちを見透かしたように、ツアコンが説明をしだした。いつも同じよ うな疑問が出るのであろう。これは雇用対策でスペイン人でないと観光案内のライセンスが取れないそう だ。
 彼は通訳である。実際はガイドも引き受けているのである。ちなみに、かの美人ガイド嬢の声を聞いたのは、最初と最後の挨拶だけであった。
  バスは一路プラド美術館を目指して走る。高いビルは殆どない。道路に面した所は、1階がストアで2階以上がアパートだ。「BAR]と書いた店を散見する。朝から大勢の人が入っている。なんじゃ、朝から酒を食らうとは!とあきれたが、違っていた。朝食をとっているのだ。この国の(イタリアも) BAR は大衆食堂 というところか。バルまたはバールと発音する。
  120ha もあるレティーロ公園沿いにバスは進む。木々は美しく紅葉している。日本の深紅に染まるドウダンツツジを思い出す。
  独立広場を経てプラド美術館に到着。エントランスに名前を忘れたが○○王が敵を踏みつけている像が
 あった。桃太郎が鬼を踏みつけているのを思い出しながら注意を聞く。この中はフラッシュ撮影は禁止だ
 そうな。私のバカチョンでは無理だな、とあきらめた。
  鑑賞にうつる。私は説明をよく聞く為に深浦氏の側を離れないように移動した。白地の壁に色彩豊かな
 宗教画が迫ってくる。豊かな表情、スケールの大きさなどなど、絵画には知識も興味も無かったが圧倒さ
 れた。ゆっくり見たいが移動するのが速すぎる。入館者が多いので歩くペースがあるようだ。
  特に記すとすれば、やはりスペインの3大画家であろう。
    エル・グレコ   16〜17世紀   特徴は、人物の中指と人指し指がくっついている。
    ベラスケス    17         写実主義
    ゴヤ        18         黒い絵が特に有名。絵の中に隠されたドラマに感銘。
                         ・ ナポレオン軍に銃殺される兵士と民衆の表情。兵士がうなだれ                           民衆が堂々としている。
                         ・ 残酷な王女のスカートに肖像画。絵の中に密かに描かれた悪                            魔の絵。などなど。
  機会があればまた訪ねたいと思う。

  遠く離れた場所に駐車しているバスまで歩く道々、扇子売りがうるさく付きまとう。言ってる内容にユーモ アがある。曰く「私、貧乏。働けど働けどわが暮らし楽にならず……」どこかで聞いた文句である。勉強したんだろうな。扇子の値段は、最初4本1000円、そのうち5本で、バスが近づくと、6本で、というようにどんどん下がった。言うことが面白いので、私も含めて買った人が結構いた。
  バスの近くでアラブ系の3人と口論を始め、追い払った。深浦氏の説明ではスリの一団で、わがパーティが狙われていたようだ。かの扇子売りが追い払ってくれたとのこと。グラシャス。
  

             

                 ドン・キホーテ主従を従えて
                   マドリッドのスペイン広場で
 
(スペイン広場)
  グランビア通りというマドリッドの目抜き通りを経由してスペイン広場に向かった。途中三越を見かけた。
 ここもスリが多いという。みな気を引き締める。見渡せば、日本人観光客が多い。同じパーティの人から
 写真の撮影を頼まれた。そしてさらに頼まれたのは、
 「バックに日本人を入れないで」
 ということだった。なかなか時間のかかることだった。


             

                  スペイン王宮(現在は迎賓館)
(土産物店と食事)
  スペイン王宮近くのみやげ物店に寄る。革製品主体の店だ。日本の観光会社と提携して、観光ルートに
 入っているのであろう。店員は日本語が上手だ。自分のポーチを求めた。のどが渇いていたためか、入口
 で飲んだミネラルウオーターがとてもおいしかった。
  落ち着いた雰囲気の王宮の側を通り抜けて、下町風のレストランで昼食をとる。スペインバレンシアの名
 物料理の「パエーリャ」だ。つまり、肉、魚介類がふんだんに入った炊き込み御飯だ。オリーブ油がたくさん
 使われているのか、私には脂っこすぎた。見渡せば、皆さんおいしそうに食べていた。ワインはうまかった。
 値段は、グラスワインが200PTS。生ジュースが300PTSだから安いものだ。(100PTSは70〜80円)


             
                    ドン・キホーテのふるさとラ・マンチャの町 
                    右手前は教会

(ラ・マンチャの町)
  ここで深浦氏と別れ、次の目的地「グラナダ」へ向かう。途中、「ラ・マンチャ」でトイレ休憩をとる。
  ここは、ドン・キホーテが活躍したところである。高速道路から少し離れたこの町は、静かなたたずまいで ある。
  添乗員から、トイレおばさんがいたら、25PTS程度のチップを渡すようにいわれた。トイレおばさんとは、
 トイレの清掃をして、チップで生計を立てているのだそうだ。
  バスを降りると教会があった。道路を隔てたところにBAR、みやげ物売り場がある。その一角にトイレ
 があった。朝顔の位置が随分と高い。小生、自慢じゃないが背丈は6尺大いに足らずである。背伸びを
 しないと用がたせない。想像してくれるなよ。トイレおばさんはいなかった。
  土産物店ではさすがに土地柄だけあって、ドン・キホーテのブロンズや剣が多かった。ブロンズが欲し
 かったがまだ旅のはじめ、荷物になると思って、最後のマドリッド空港で買い求めることにした。しかし、
 私の勝手な思い込みで、空港には売っていなかった。残念。

             

                コンスエーグラの風車(観光案内)

(高速からの風景)
  休憩を終えて、バスは高速道路をグラナダ目指して突っ走る。途中で風車を見つけて撮ったのだが
 失敗。またまた観光案内の写真のお世話になる。
  なだらかな丘陵が折り重なり、ブドウ畑らしき景色が延々と続く。さらに南に進むと、今度はオリーブ園が
 広がる。ふと気がついたのだが、隣との境界線が無い。揉め事は起こらんのじゃろうか、と岡山弁で考え
 る。
  沿道には「RESTAURANTE(リストランテ)」の看板が目立つ。日本語のレストランである。たいていは1階
 建てであるが、2〜3階建てもある。その場合は2階以上はホテルだ。
  家々は、南国らしく茶色の屋根と白い壁だ。
  暗く切立った崖の峠を越える。なんとなく地獄に向かっているような感じだ。バスの中は、シーンとしている。
 前を遅い車がのろのろと走っている。よく見る日本の高速では、「どけどけ」とクラクションを鳴らし、ライトで
 脅かし、間髪を入れずに追い越す。
このバスは辛抱強くゆっくりと着いては知る。大陸的なのだろうか、と
 妙なことに感心する。

(やっとグラナダ)
  やがて、町の灯りが見え始め、ホッとする。
  19:40頃 グラナダのホテル・フアン・ミグェルに到着。早速翌日のスケジュールのミーティングだ。
   今日 20:15  夕食
   明日  6:45  モーニングコール
        7:30  スーツケースを廊下に出す。朝食
        8:30  集合出発
 夕食の5分前にレストランに行ったら、満員だった。伊勢から参加の若夫婦と同席になる。若主人とワインを楽しんでいると、学生アルバイトであろうか、3人組の流しがきて歌い出した。リズムはラテン音楽だ。中  南米のリズムと思い込んでいたが、ここもラテン音楽だったと気がついた。
  3人組は、表情、仕草とも楽しくて楽しくて仕方が無いと、体全体で表現して歌う。曲と溶け込み、聞く人をして忘我の境地に引きずり込んでいた。ほめ過ぎかな?
  いずれにしても、今宵は酒と女、じゃない音楽に酔った素晴らしいひと時であった。ここで、3人組のテープを一個購入した。

  


11月19日(日)晴

(ああ、アラブの華今は昔)

  
             
                     グラナダ アルハンブラ宮殿
 

 8世紀の初め、イスラム教徒がイベリア半島に侵入して、スペイン全土を制圧した。キリスト教徒が反撃して、国土回復の戦い「レコンキスタ」が終結するのは1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した年である。それまでの間、イスラム勢力は分裂して、ここグラナダは1238年に1候国となった。
 アルハンブラ宮殿(赤い城)は、1492年の降伏まで、21人の歴代王が各部をつくり上げ完成させた。
 戦略的にアラビアの軍事建築の見本と言われるこの城は、投石穴、跳ね橋、擬似門、迷路等々に技術を凝らし、不滅の要塞として知られる。
 一方、イスラム芸術の粋を集めた建築は、理解力の乏しい小生にも感動を与えた。すなわち、「ライオンの中庭」「アラヤネスの中庭」「夏の離宮」「庭園ヘラクレス」など。

 

アラヤネスの中庭
 周囲は4人の妻の部屋という












ライオンの中庭
 12頭のライオンが時刻が来ると水を噴き上げて時を告げる









 さらに、ハーレムに興味をそそるものがある。王の正妻は4人、妾が200人いた。妻には贈り物はしないが、妾には惜しみなく与えたという。妾の年は12歳から14歳であった。イスラムの王は少女好みなんだろうか、それとも十分成熟していたのだろうか。婦人たちの複雑極まりない人間関係は、時として血なまぐさい殺戮にまで及んだという。小さい時に読んだ本や映画が目の前に甦るようだ。

 3:00 目が覚める。ゴソゴソしながらもスケジュールをこなす。集合時間前にエントランスに行くと、ジプシーのおっさんが汚い靴磨きの道具を抱えて、「磨かせろ」と言う。手で断り、道路を隔てた公園に向かう。また、ジプシーのおばさんが、レースを抱えて「買って」と女性たちに売りこんでいる。それを横目で見て公園を散歩する。
 若い女性がぼんやりとベンチに腰をかけて誰かを待っている様子。5〜6人の若者達が横切る。どこにでもある風景だ。
 出発の時間が着たのでバスに乗り込む。靴磨きのおっさんは諦めたのか姿が見えない。おばさんはまだ粘っていた。そのうち皆がカメラを向けたので、おばさんは恥ずかしいのかレースで顔を隠し始めた。私もパチリ。これはうまく撮れなかった。
 今日のガイドは川崎氏という。50歳台。頭が禿げ上がった貫禄のあるおっさんだ。日本人の血が4分の1混ざっていると本人が言っていた。日本語がぺらぺらな上相当な日本通だ。グラナダだの日本人観光客案内のボス的な存在で、通常は特別な案内(専門的な案内)を担当しているという。従って我々はラッキーだと添乗員がいっていた。
 「スミマセーン」が注意を自分に向けさせる第1声である。ユーモアを交えて語り、注意を自分からそらさせない。次は記憶している部分である。
@ 「アルハンブラ宮殿は数百年かかって建てられました。奈良の大仏はいつ建ちましたか?」
 誰も返事をしない。
  「いつも座っていて、タチマセーン」
A 「王様の妾の歳は12歳から14歳です。ご婦人の皆さんは何歳ですか?」
 今度はすかさず
  「13歳でーす」
 と答える。
  「ああ、オバタリアーン」
B 通りかかった作業服の管理人を捕まえ
  「この男、醜いねー」
 一行の面々、ドキッ。つかみ合いの喧嘩が始まると思った。言葉が通じないのが分かって爆笑。
 川崎氏が最後に案内したのは土産物屋である。そこで購入した本「アルハンブラの秘密」は彼の著作だった。
 
 
グラナダ市街
アルハンブラ宮殿から

右の山上にジプシーがたくさん住んでいる。








まだ昼前だがグラナダを後にする。セビーリアを今日中に見学する為だ。忙しいスケジュールはすっとび三度笠の現代版だ。なだらかな丘陵とオリーブ園の間を縫って、高速道路は突っ走る。

            
 
                  グラナダからセビーリアまでこのような景色が
                  延々と続く

 途中、ロハの町で昼食をとる。そら豆の煮物、イカの煮物が日本の味に似て美味しかった。又、野菜サラダにオリーブ油と酢をかけると美味しいよ、と同席の大阪からのご夫婦が教えてくれた。これも美味しかった。



(セビーリア市内、バスの窓から)
  16:00前にセビーリアに到着した。
  ここは、「セビリアの理髪師」で名前だけは、知っていた。窓から市街を眺めていると、自動販売機が鎖で ぐるぐると縛られているのを発見した。なんだこりゃー。思ってもいなかったことで、不意を付かれた。自動  販売機が悪さをしたのか? 一休さんを思い出す、まさにとんちの世界だ。後で聞いたのだが、治安が悪  い為とか。すなわち、自動販売機が壊されて、商品や売上金が盗まれる。そのための対策だった。

            

               カルメンが働いていたタバコ工場
                今は大学の法学部になっていた

 街路樹はミカンらしきものである。まずいので、ママレードの原料になるそうだ。
 途中で案内人を拾った。カテドラル(大聖堂)の入館時間に間に合うようにすぐに走り出した。


(セビーリアのカテドラル)
            
               
               右カテドラル、左ヒラルダの搭

   オレンジの中庭からヒラルダの搭を仰ぎ見る。ガイドが英語で説明して、添乗員が日本語に通訳する。 まだるっこい。英会話を少しは勉強しておくのだったと悔まれる。このガイド殿、日本語が分かるらしく、添乗員の通訳に、舌足らずを発見すると、訂正、追加をしていた。こんなことなら、最初から日本語で説明してくれたらと思う。
  このカテドラルは、世界で3番目に大きいそうだ。1番はローマのサン・ピエトロ寺院。2番目がロンドンの サン・ポール寺院。ここまでは異論が無い。つまり、3番と称する寺院が方々にあるそうだ。したがって、ここが本当の3番かどうか疑わしい。1401年から100年かけて建設された。ゴシックからロマネスクへの移行期で、双方の混合様式といっていた。また、イスラム様式も入っている。ちなみに、ヒラルドの搭は回教寺院の尖塔だった。
  この尖塔は、高さ98メートル12世紀に建造された。16世紀、頂上にヒラルド(風見女性像)を載せたので、ヒラルダの搭と呼ばれる。塔内の螺旋階段を登り市内を一望する。


            

                 セビーリア市内

  カテドラルは、当時の市議会が「世界から気違い沙汰といわれるような建物を作ろう」と議決してして建造された。奥行き116、幅76、高さ56メートルの規模である。
 中は広い、いろんな装飾が施されていた。芸術の心がないので記述できないのが残念である。記憶に残ったのは、コロンブスの柩を4人の王が担いでいたこと。さらに、王たちの剣、槍がなぜか地に向けられていたことである。
  1929年、博覧会が開かれたスペイン広場で暫時休息してホテルに向かった。ただし、これで今日のス ケジュールが終わったわけではない。夕食後、フラメンコ鑑賞があるのだ。


                                             
                                                          
  
(フラメンコ鑑賞)

 フラメンコ鑑賞は、バスで出かけた。22:00開演で23:40頃終了した。
 華やかな衣裳で、情熱的に激しく、ときに物悲しく、そしてクライマックスには切々とした叫びにも似た歌と踊りであった。足を踏み、カスタネットを持って狂舞する踊り子達は、不思議な妖気をまき散らして見る人に大きな感動を与えて、目をそらす人はないと思っていた。(が、寝ている人がいた??)
 サングリアなる飲み物が提供された。甘く雰囲気に合った飲み物だった。

  ホテルは、GRAN HOTEL LAR 514号室。今日は疲れた。気温も30度まで上がったとか。
 1614年、伊達政宗の家臣支倉常長(はせくらつねなが)は、宣教師のソテロと彼の故郷であるセビーリアに到着した。異文化に接してさぞかし驚いただろうな、などと考えて眠りに落ちた。
 (注)支倉常長派遣には、天下を狙う為に、エスパニア王に軍艦での応援を求めに行った、とする説がある。事ならず帰国。帰国後数年で病死した。

                                             
                                                


11月20日(月)晴 
 カルロス5世の怒り「どこにも無いものを破壊して、どこにでもある教会を造るとは何ごとか!」
  (イスラムの教会を破壊して、キリストの教会に造り替えたことへの怒り・・文化財保護の思想があったのでしょう)
 
(さあ、イスラムスペインの首都、コルドバへ)
 7:30  朝食 
  8:30 出発
 10:20 コルドバ到着
  ここコルドバは、スペイン南部アンダルシア地方の中心都市である。バスの運転手が気を利かせてローマ橋の手前で撮影タイムを取ってくれた。ローマ時代に築かれた橋と、メスキータ(イスラム寺院)を一望 にできる絶好の場所である。一行の面々、それぞれパチリパチリと写真を撮る。

 
             
   
               コルドバ ローマ橋とメスキータ

(メスキータ)
  今日の案内人は、おじいさんである。英語で説明して添乗員が通訳する例の方式だ。メスキータに入る。 オレンジの中庭というところで説明を受ける。中に入ると、やけに柱が多い建物でだ。25000人も収容できるとか、規模の大きさに感心する。修学旅行みたいに「また、お寺か?」の感じが強い。


              

                メスキータ内部  柱が多い

(コルドバの市内風景)

 
             

               花の小道  観光場所のひとつ

  集合時間と場所を決めて、三々五々とコルドバの街を散策する。狭い路地に白い3階建ての家々が並び、2階のベランダに花が一杯の「花の小道」を通り抜ける。また、個人の家に入り込み、パティオ(中庭)を見 学する。この地区の夏は酷暑で、各家は、パティオを造り、木や花も植え、風通しをよくして暑さをしのぐそうだ。


             

               民家のパティオを通り抜ける

  土産物屋をのぞく。こじんまりとした店が続く。金属、革製品が多い。客は日本人が殆どだ。成田で見かけた別のパーテイの顔もいる。民族の物見高さか、経済的に余裕があるのか、わんさと押しかけている。 そのためだろうか、各店の店員は結構日本語がうまい。ついつい、私も冷やかしていた積りが、剣の形のペーパーナイフを買うこととなった。
  13:00頃だったろうか、BAR が店を閉め始めた。客がまだ中にいるのに、である。お昼寝の時間「シェスタ」がきたのだ。日本だったら、どうだろうか? 利益優先で、徐々に閉店するとか、交替勤務を取り入れて、閉店はしないのではなかろうか。こんなことを考えながら、集合場所に向かった。
  昼食は、長いアルカサール(城塞)の下を通り、街外れの落ち着いた雰囲気のレストランで済ませた。相変わらず、あきもせずワインを飲む。朝食以外はワイン漬けだ。

            

                長いアルカサール(城塞)の側を通りレストランへ
                   1300年代の建造

(マドリッドへ)
  14:00頃コルドバを出発。マドリッドまで400キロメートルの道のりである。景色は、赤茶けた土、白い壁に瑠璃色の屋根、なだらかな丘陵とオリーブ園だ。
  トイレ休憩は、先日立ち寄ったラ・マンチャの町、同じドライブインである。のどが渇いていたので「ジュー ス」とオーダーしたが、相手にしてくれない。見るに見かねて添乗員が寄って来て、ジュースの種類を聞き 、「オレンジジュース」とオーダーしたら、直ぐにくれた。
  車窓から見て、野菜畑が見えない。ハウス園芸で、この分野に進出すれば成功するかも知れない、などと考えているうちに、マドリッドの街に入った。少しひんやりする。
  18:45 ホテル到着。前回宿泊したホテルである。但し、冷蔵庫の無い違う部屋だった。
  翌日は、飛行機の時間の都合で忙しい朝のスケジュールだ。
  スケジュールは、
           20:00   夕食  バイキングスタイル
  翌日      06:00   モーニングコール
           07:10   朝食    出発の時間の都合で、料理人たちに早出してもらっている。
           07:30   出発
  である。随分と過激スケジュールだ。が、たくさん見れるから、よしとするか。
  



11月21日(火)晴

(スペインよ、しばしさらば。ミラノへ)
  5:00 目を覚ます。横になっているのが胸苦しい。起きだしてゴソゴソと準備する。
  6:10 モーニングコール。 「グラシャス」
  7:35 朝食。20分しか取れない
 空はまだ明けきっていない。寒い。ミラノの天気が悪いとの情報で、コートを引っ張り出す。
 マドリッドを案内してくれた深浦氏が、ホテルから空港まで同行し見送りしてくれた。仕事とはいえご苦労なことだ。
  外は、通勤バスや車の交通量も多く、人々は活動している。BARで食事している人が車窓から見える。
 まだ暗いのに、路上でおしゃべりするご婦人達。
  路上に縦列駐車の車が、間隔少なく並んでいる。質問したら、出る時には、前後の車を押して出るので
 心配は無い、ということだった。日本人だったら、バンパーに傷がつくからやらないことだ。価値観の違いを感じた。
  気温19度
  10:20 離陸
  12:05 ミラノ着陸


             
             

                  ミラノのドゥーモ

  12:45 バス出発
  イタリア人女性がガイドとして同乗した。昼食のレストランまでのガイドだそうな。.要るんかいな。ちなみにこのガイド嬢、挨拶以外は無言であった。
  ミラノ市内に入る。おのぼりさんよろしくきょろきょろと見回す。でん、と落ち着いた都会にきた感じだ。(スペインが田舎というわけではない)
  
(ミラノのレストラン)

  昼食予定のレストランに入る。

             
  
              昼食のレストラン  歩道のテーブルと椅子はよく見かける

  地階に降りる。結構広く、中には同じ規模の日本の団体さんがいた。そして、我々を日本人のガイドが待っていた。年のころは、鉛筆をなめて30歳。眼鏡をかけた貫禄のある婦人だ。後で知ったことだが、声楽家でもあるそうだ。
  イタリア最初の食事は、パン、ピザ、スパゲッテイ、子羊のカツそしてワイン。すごいボリュームに驚いた。
 私の腹のキャパシティからいうと、2日分くらいだ。

  
(ドゥーモ)
 ミラノは、人口130万人。イタリア第2の都市である。歴史の遺産と近代化とが並存した商業都市として知られる。超高層ビルは見当たらず、7〜8階程度のビルばかりだ。勝手な想像だが、大阪が、太閤さんに遠慮して大阪城よりも高いビルを建てなかったように、ドゥーモ(大聖堂)の108メートルの尖塔の聖母マリア様に遠慮したのではなかろうか。道路は広くゆったりしている。

  
             

              スカラ座とレオナルド・ダ・ビンチ像

  かのオペラのメッカ、スカラ座を右に見て、ドゥーモ(Duomo)広場に到着。イタリアを統一したエマヌエルU世像に挨拶して、巨大なドゥーモを見上げる。世界第2の規模とか。他にも第2位があったが……。1386 年、ビスコンテイによる着工から450年の歳月をかけて建てられた。日本にはこのような長い年月をかけて建てられた建造物があるだろうか。思い起こせない。日本人のせっかちさ、建築様式の差(石の建物 と木の建物)、俺1代で、とかなどなどがあり、比較すると世界観の違いが感じられる。
  たくさんの尖塔(135本)をいただくこの建物は、イタリアゴシック建築の代表だそうな。
  中に入ると、ステンドグラスが多い。各々は、宗教についての絵である。昔は、洋の東西を問わず文盲が多かった。ここイタリアも例に漏れずだ。そこで、絵で分かりやすく示したのだという。内容は、キリストの誕生から、さまざまだ。ステンドグラスの製法もいろいろあるとか。説明を聞いたことは覚えているのだが、 内容は全く記憶に無い。ナポレオンの戴冠式の祝砲で一部が割れてしまったということと、中が暗かったことは覚えているのだが。
  世界最初のアーケードを通り抜けて、スカラ座広場に出る。最初の発案者は墜落死したそうだ。広場には、レオナルド・ダ・ビンチが4人の弟子達とともに寒空に立っていた。
 
 (スフォレツェスコ城)
             


                スフォレツェスコ城 現在は考古美術館

  スフォレツェスコ城に向かう。城門前の路上には、黒人の小物売りが閑そうに屯していた。買う人も冷かしも見かけない。寒い。空港の温度計は10度だった。
  城壁の窓の形で兵舎と牢獄の見分けがつくそうだ。さらに、乗馬のままで、上の階へ上がり降りしたそうだ。
 中には、ビスコンテイの墓があった。城の内部は豪華なルネッサンス調だそうな。ミケランジェロの傑作も幾つかあったが、私には「猫に小判」なり。
  バスでベネツィア(VENEZIA)にむかう。

(ベネツィアのコックさん)
             

                円形に延ばしたピザ用の小麦粉を空中に揚げてサービス

  20:30 ベネツィア到着。バスでホテルのある島に向かう。ここでは、バスもタクシーも舟である。
  21:00 レストランで夕食。料理はピザ、イカの味噌と米の煮物(これがおいしかった)。そして魚のフライ。ここでも同 席の人とワインを1本あけた。
コックがフライパンのピザを空中に揚げてサービスにつとめていた。打ち解けておばさんたちがいろいろと聞き出すやら、冷やかすやら。テレホンカードの収集が趣味とかで、残り度数の少ないカードを、何人かが出していた。
  22:30 ホテル着。HOTEL MONTECARLO
 このホテルは、サン・マルコ寺院に近い、細い路地裏にあった。私の部屋は4階の314号室。エレベーターが混んでいたので徒歩で上がる。廊下が小さく曲がりくねって個人の家みたいだ。ベネツイアのホテルは、既建造物の改築が多く、整然とした配置や間取りが取れないそうな。
 鍵には大きな重りがついていた。鍵穴に差し込んで、開けようとしてもなかなか開かない。古いのか、それとも私が不器用なのか。2〜3分でやっと開いた。私にはドロちゃんななるのは無理らしい。
 遅いからシャワーで済まそうとしたら、カーテンが無い。仕方が無いから浴槽にお湯を落とし始めたら、10cm 足らずで止まってしまった。やれやれ。
 1日の出来事を思い出したり、ぐずぐずしていたら0時近くなった。就寝。


11月22日(水)晴

             
      
               サン・マルコ広場に近い通りから
                 対岸の修道院はサミットの会場となったとか

(暁のベネチア)
  4:30 目が覚める。さらに眠ろうとしても、睡魔は知らん顔だ。仕方が無いので起きだして、ゴソゴソと荷物の整理をする。このところ睡眠時間は、4〜5時間である。よくも体がもっていると感心する。たぶん、移動のバスの中で不足分をとっているのだろう。
  5:00 教会の時を告げる鐘の声が聞こえる。サン・マルコ教会とその近くの教会か、5ずつ鳴った。
  6:40 防寒装備でフロントへ降りる。男2名、女1名の従業員がいた。
 「散歩してくる」
 と、日本語で言ったら、怪訝そうな顔をしている。やむを得ず、知っている英語の単語を並べた。
 "MORNINNG WALK"
どうやら通じたらしい。ついでに、
 “MORNING CALL NO THANK YOU”
これも分かったらしく、うなずいていた。ちなみに、モーニングコールは6:45分の予定だった。
 外に出た。寒い。骨の隋まで冷えそうだ。しかし一方で気持ちがよい。
 サン・マルコ広場を横切り、大運河に出た。朝焼けの中にサミットの会場となった修道院が浮かび上がって見えた。幻想的だ。
 岸壁では、タクシーやバスの舟たちが、仕事の準備で忙しい。係留中のゴンドラたちは、眠りを楽しんでいる。映画に出てきそうな風景だ。来てよかった! と思った。運河沿いに随分と歩いた。まだ夜明けの途中なのに、出勤者が結構歩いている。
   
             

                路地ならぬ路河?

                朝早いので暗くて見えないが、1階が水の中

  7:30 朝食。コンチネンタルスタイルか、パン、コーヒー、ミルクだけだ。ただし、驚く無かれ、コーヒーとミルク、各々400cc ほどの器にたっぷり入れて各人に配るではないか。自慢じゃないが、6尺大いに足らずの我輩、そんなに飲めるわきゃー無いよ。

   
             

                サン・マルコ広場
                右手がサン・マルコ寺院。ナポレオンが戴冠式で
                「世界で一番美しいサロン」と称えたそうだ

(さあ、ベネチア観光に出発)
  8:30 出発。ガイドは日本語ぺらぺらのイタリア人。日本の歴史を勉強しているらしく、案内の時点で、日本の歴史上の出来事と対比しながら説明していた。大変分かりやすかった。曰く「鎌倉時代の……」「室町時代の……」等々。見習の若い女性が、テープレコーダーを持って付いてきていた。


             
           
                  大運河を行くゴンドラ

 ベネチアは水の都である。大小120の島々と180の運河、そしてそれを結ぶ400の橋。人口30万人。観光客が年間180万人とか。
 地盤は柔らかく、赤松、樫などの水に強い木を埋め込み、固めてその上に建物がある。建築物も、木をふんだんに使って軽くしている。それでも地盤沈下が進み、重いサン・マルコ寺院が一番沈んでいるとか。
 広場や路側に、長いすにしては広い台がたくさんあった。雨量が多いときや満潮の時に、広場も道路も冠水する為に、木の台がつながって歩道になるのだ。
 地盤沈下が進み、ベネチアは200〜300年で水没するといわれている。あとで、ゴンドラで運河をまわったが、1階部分は使われていなかった。満潮時に水面下になるからである。

 観光は、サンマルコ広場から始まった。世界で一番美しい広場の建物は、すすで汚れている。石炭暖房の痕だそうだ。落としてきれいにしようなどとは、考えないのかねぇー。大きなお世話、と言われるかな。
 この広場に面した、ドゥカーレ宮殿に入る。サンマルコ寺院の向かって右隣である。この建物は、共和国の太守の政庁兼宮殿であった。ベネチアゴシックの代表とか。この辺は知識が無いので説明されても理解できない。私の目を奪ったのは、白とピンクの大理石、黄金の階段、大委員会の間の天井の絵と壁画だった。

  
             

               嘆きの橋 宮殿からこの橋を渡ると牢獄があった
               早朝の撮影なのでよく撮れていない

 そして法廷。名作「ベニスの商人」の作者シェークスピアは、この地を訪れたことは無く、フィクションの世界だ。が、映画で見た場面そのままだ。かの筋書きをつぶさに再現して、じっくりと味わいたかったが見学のスピードに乗って動かざるをえない。再び訪れることがあれば、ゆっくりとゆっくりと見たいものだ。
 大岡越前の名裁きを思い起こすが、こちらのほうがはるかに先輩だ。ちなみに、大岡裁きの筋書きは、板倉裁き(京都所司代)と酷似しているらしいし、さらにそれは、中国大陸の話にあるそうだ。さらにその先は?
 隣の部屋は武器庫だった。日本の武器を見る機会は多いが、西洋のは初めてだ。剣、鑓そして鉄砲。大きくて重そうだ。ここももっと時間が欲しかった。
 嘆きの橋を渡る。建物から建物に運河越しに架けられ、渡るとそこは牢獄だ。罪人たちは、生きてこの橋を渡って戻ることは無かったという。病気か処刑されて死ぬのだ。それで彼ら罪人たちは、渡る時にここで嘆き悲しんだという。寒々とした小さな部屋の牢獄が連なっている。罪人がいた頃の有様を想像していると、「そろそろ脱獄しようか」 というガイドの声で我に返る。


             

               水位が上がり水浸しのサン・マルコ寺院の入口
               
 サン・マルコ寺院は水位が上がり、仮設の橋で中に入る。説明も写真撮影も禁止。ただ、暗い中を歩いただけだった。


             

               ゴンドラで水の都を楽しむ

 ゴンドラに乗る。6人のりだ。映画のような歌のサービスは無かった。真に受けて期待していたのだから、おめでたい。若い船頭がかいを握る。狭い路地裏(?)から大運河をまわるコースだ。大運河には、水上バス、荷物の運搬船、パトカー?が行き交い、波による舟の揺れも記憶に残し、十分に目の保養をした。
 ゴンドラはみな黒い。これは昔、贅沢に飾り立てる競争が激しくなったので、戒める為に黒に統一したそうな。


(ないっ! クレジットカードが無い)
 昼食のスパゲッティはとてもおいしかった。場所は、映画「慕情?」で女優のキャサリン・ヘップバーン? が落ちた運河の側と記憶している。機会があればまた食べたいものだ。わざわざ行けば、随分と高いスパゲッテイだな。財布が軽すぎる私には縁がなさそうだ。
 ムラノのガラス工房では、記念にワイングラスを求めた。日本で買えば2倍以上の○○円はする、と上手にいわれて買ったのだ。問題はここから起こった。クレジットカードで支払おうと思って、胸から財布を取り出した。が、ない。「ムム!」 隅のほうに行って、腹巻を探る。やはり無い。必死になってあるべき場所を思い起こそうとする。分からない。掏られたのだろうか。落としたのだろうか。とりあえず支払いはTCで済ませたが、それからあとは、気になって観光は覚えていない。添乗員に知らせようか、いやまてよ、今朝のゴソゴソのときにスーツケースに入れたのかもしれない。しかし、それはフィレンツエ行きのバスに移動している。ままよ、宿に着いてから、無かったら添乗員に知らせう。ということにした。
 時間まで、裏通りを散策した。血相を変えて走っているご婦人がいる。何ごとかと問えば、公衆便所が無くて困っているということだった。そういえば、公衆便所は見かけなかった。この地には無いのだろうか。日本人は近いのだろうか。

 大運河の広場には、画家達がたくさんいて、風景画を描く人、人物像を描いて稼ぐ人、それぞれであった。

 それにしても、ベネチアは落ち着いた雰囲気があった。車が1台も走ってないからと見た。
さらば、ベネチア。

 
(フィレンツェへ)
 水上バスそして陸上のバスに乗り換えて、一路フィレンツェヘ向かう。
高速道路途中でトイレ休憩があった。サービスエリアにはスーパーマーケットがあった。そしてトイレは、中の奥のほうにあった。トイレおばさんが管理していて、使用料は200〜500リラだそうだ。日本円で15〜35円といったところだ。小銭が無いので、要らん物を買って準備した。最近東京へ行かないが、新橋駅にもあったように記憶しているが今はどうだろうか?。

 
 

             

               フィレンツェの街並み(観光案内)

 18:10 ホテルコロンブスに到着。さっそくクレジットカードを探す。「あったー!」
 19:15 夕食の為市内のレストランにバスで出発。ところが、随分離れたところで降ろされた。ここでは旧市内に入るのには、規制があったのだ。乗り入れできるのは、マイカーとフイレンツエ番号の車だけなのである。したがってわがバスはよそナンバーなので、できるだけ目的に近いところまで来た訳だ。
 夕食は、大変おいしかった。太くニンニクの利いたマカロニ、野菜サラダそして骨付きの鳥の煮物。京都のご夫婦と同席して歓談。赤ワインもおいしかった。
 今回の旅行を通じて、このホテルは問題が多かった。少しくらいのことは、旅行代金と相殺して目をつぶるのだが……。すなわち
 1、床面にガラスの破片が散乱していた。
 2、洋服ダンスが開かない。
 3、トイレでは、水がちょろちょろと流れて、止まらない。
 4、湯が出ない。風呂もシャワーも使えない。
添乗員と部屋がえを強硬に申し込んだが聞き入れてもらえなかった。ていねいに掃除して終わりだ。クレジットカードがあったこともあり、我慢するか。……おれも、あまいな……。
 翌日の見学コースのひとつ、ウフイッツイ美術館は、見学者が殺到して並んでいても見れないことがあるそうだ。そこで、早めに出発して並ぶことになった。したがって、当然スケジュールはきつくなった。
 6:15 モーニングコール
 7:00 朝食 
 7:40 出発
何時頃か眠りにつく。




11月23日(木)曇
(筋骨隆々のマリア様にびっくり)
 7:50 ホテル出発。
 8:00 ウフィツィ美術館到着
 9時開館であるが已に2組並んでいた。勿論日本人の団体さんだ。寒い中、足踏みやおしゃべりで開館を待つ。そのうち、ガイドと通訳の小柄な日本女性が到着した。後ろを見ると、相当な行列が出来ていた。これ全て日本人である。なんと、どこへ行っても同胞の多いことか。

             

              ウフィツィの建物と風景。 フィレンツィの博物館保存の古い版画
               左側下に並んだ。

 世界でも有数の美術館を見学できるのは光栄だが、私のように、猫に小判的に価値の認識、理解力の無い者には勿体無く、作者にも失礼なことである。などとぶつぶつ言いながら入館。とはいっても、出来るだけ説明者の側で聞くことにした。
 
             

               ミケランジェロ「ドーニのトンド」筋骨隆々のマリア様
                (観光案内)

 聖母マリア、初期の無表情から、優しいまなざしのマリア様まで時代とともに変化した数々。
 @ミケランジェロ描く、キリストを両手で持ち上げる、筋骨隆々のマリア様。レオナルド・ダ・ビンチに痛烈に批判されたらしい。
 Aレオナルド・ダ・ビンチの受胎告知
 Bサンドロ・ボッテチェリの「春」は1枚の絵の中に時の移り変わりが描いてある。

             

       
 悪魔に追われる若い女性。嫌よ嫌よ、といいながら逃げるが、目はそれほど嫌がっていない。その隣では已に妊娠している。さらにその隣は、説明を聞いたが覚えていない。
 歴史上に名を残す名人上手は、絵の素養のあるなしを問わず、何かを語りかけるものらしい。かく言う乃公も分かったような気がして退館した。
 この美術館は、フィレンツェの支配者「メディチ家」の寄贈だそうである。その名は、塩野七生著「チェーザレ、その……」の中に登場しており、わずかながら親しみを覚えた。
 余談だが、世界に冠たるフランス料理の作法は、メディチ家からからフランスへ嫁いだ娘に同行したコック(200人も)によって伝えられたようだ。それまでは、フランスではナイフ、フォークを使っていなかったのだろうか。

(花のサンタマリア大聖堂)
             
             花のサンタマリア大聖堂

 (花のサンタマリア大聖堂)
 シニョーリア広場のヘラクレス像をみて、花のサンタマリア大聖堂まで歩く。このドゥーモは、白、ピンク、緑の大理石をふんだんに使っている。外観は荘厳で美しい。ここも世界第3位の規模とか。望遠なしの○○カメラ。アングルに苦労する。中をとおり、サン・ジョバンニ礼拝堂の前に立つ。3つのブロンズの扉がある。ミケランジェロは「天国の門」と絶賛したらしい。私には理解するには程遠い。「さーてな?」
    
             

               ベッキオ橋(屋根のある橋)
(いざ、ローマへ)
 ミケランジェロ広場からフィレンツェ市内を一望して、一路ローマへ向かう。うっすらとした雪化粧の山越えである。
 しばらく南に走ると、小高い丘全体が城かと思われる地点に出た。「オルビエート」の村だ。近づけば、切立った断崖の上に城郭が見える。中世に迷い込んだようだ。難攻不落の地点として選ばれたのであろう。いつだったか、後日TVの観光案内で紹介していた。機会があれば覗いてみたいものだ。付近はワインの産地でもある。転居するまでは近くの酒屋がオルビエートの白ワインを直輸入していたので、ズーっと飲みつづけていたが。
 夕方、ローマ着。ホテルは、映画終着駅の舞台となったテルミニ駅の近く「マディソン」。スーツケースはしっかりと持って、ホテルに入るまで油断をしないように、と注意があった。周囲がみなどろボーのような気がして、みなさん緊張した面持ちだ。
 夕食は近くというので歩き出した。随分と歩いたがなかなか着かない。落語の世界で「田舎の直ぐそこ」は1〜2里の距離というのがあるが、そのまんまだ。ローマは田舎らしい。歩いているのは皆田舎っぺいか?。やっとついた。レストランの室内をきょろきょろと見回す。壁面の照明台が素晴らしい。天使がライトを片手でかかげている。さすが芸術の国と感心する。
 オーダーの食事がなかなかこない。嘘か本当か、われわれの分が、よその日本人の団体に運ばれちゃったようだ。誰もがあっけにとられ、怒る気もせず、あとから料理された分で済ませた。
 ホテルの部屋は514号室。エレベーターが少ないので歩いて上がった。階でいえば6階。運動不足なので丁度よい。部屋に入り荷物を整理していると、廊下で長い間話し声がする。何ごとならん、と様子を見ると、他のパーティの日本のご婦人二人、ドアが開かなくて困っている。ここはカード式なのだ。開け方を教える。この2人、翌日も開けてあげることになった。


 11月24日(金)晴
(朝のテルミニ駅周辺)
 朝食をそそくさと済ませ、集合の時間までテルミニ駅周辺を散歩した。治安に問題ありというので、用心しながらだ。
 7:30 駅の構内に入る。映画「終着駅」の舞台だが、映画のあとで改修されて、面影は無いそうだ。構内は通勤の人で一杯だ。BAR には朝食をとる人たちが詰めかけている。
 雑貨店でコダックのフイルムを買う。36枚2本で16,000リラ。日本円で1,100円程度だ。金額も言葉も通じないので、手持ちのリラをカウンターに置いたら、売り場の女の子が微笑しながら、必用な金額を引き抜いた。
             
      
                 ホテル側からのテルミニ駅

 バスターミナルに出る。通勤時間帯は、洋の東西を問わず忙しそうだ。さらに駅から遠ざかると、広い歩道にテントを組み立てて店開きの準備をする人がいる。精悍な感じで、映画「道」でアンソニー・クインが演ずる「ザンパーノ」 を思い出した。

             

               バスターミナル  左の建物がテルミニ駅?

  ビルの陰から起きだす浮浪者がいる。結構明るい顔をしている。道行く人の服装に目を移す。皆さん、着こなしがスマートだ。感心する。男性も女性も、老いも若きもぴったりと決まっている。うらやましい限りだ。

 (トレビの泉)
 9:10 バスで出発。車窓から見ていると、若者が大勢屯して騒いでいる。これからデモが始まるらしい。
トレビ泉は、トレビ(山叉路)の一角の建物の前にあった。周囲の建物の1階は高級土産物店である。泉は海神ネプチューンを中心に関係の彫刻がずらりと並び、規模が壮大で見ていて飽きがこない。黒山の人だかりの殆どは日本人である。泉の底は、たくさんのコインがあった。再来を念じてのことである。私も肩越しにコインを投げて、再び訪れることがあるように祈った。

             

                    トレビの泉

 バスが待機している所までの間に、青空市があった。一行のご婦人たちは歓声を上げて走り寄る。恋人か懐かしい人にあったようだ。ご一緒の旦那方は無関心だ。新鮮で豊富な野菜果物が並んでいる。市場はどこも一緒かな

 
             

 
(コロッセオ)
 ビットリオ・エマヌエル2世記念堂を経て、コロッセオに行くまでの間に、騎馬警官を見かけた。とてもかっこよかったので、バスの窓から撮影したのだがうまくいかない。残念。
 コロッセオは、西暦80年から、523年の閉鎖まで443年間、幾多の人と動物が戦わされ、殺されたことだろうか。周囲527メートル、高さ57メートル、4階建ての規模である。収容能力は5〜8万人。この巨大な競技場は、今は廃墟として観光名所になっている。外部は穴だらけ、内部は全くの廃墟である。


              

              穴だらけの痕跡は、戦時中の銃弾の痕ではない。金属は
              戦時中に武器弾薬の原料として抜き取られたのだ

            

             現在の内部の様子            同じ場所の当時の想像図(観光案内)
                                      下は猛獣の通路だったのだろうか

 近くにパリの凱旋門のモデルとなった、コンスタンチヌス帝の凱旋門があった。この一帯は、アラブ系の物売りが多い。
 「安い、安い。1個千円」
と、日本語で馬の彫刻を売っていた。高さcm 程度の大きさだから確かに安い。買ってから荷物になったと苦笑している人がいた。
 映画、ベンハ―にもあった競技場が川沿いにあった。広い運動場のような競技場だ。映画では随分と整備された競技場だったが、この方が真実味がある。
 有名な真実の口は、駐車場の関係でバスの窓からの見学となった。
 
(サンピエトロ寺院とシステ―ナ礼拝堂)
 一行のスケジュールでは、
 バチカン→昼食→フリー
 であった。私もその予定でいたが、システィーナ礼拝堂は入場時間に制約があるので、別行動が必要との事であった。4人のお姉さまから、同行して欲しい、と頼まれた。目的が用心棒と察したので、
「私は、腕力もないし、逃げ足も遅いよ」
といったら、
「それでも結構です、男であればよい」
との返事が返ってきた。ナヌ! ならぬ堪忍、するがこれ男児、と同行することとした。
 システィーナ礼拝堂は、ミケランジェロの「最後の審判」が有名だ。4年で仕上げた晩年の力作だそうだ。入口で案内のテープを借りたが、観光客の歩くスピードにあわせながら調節しているうち、礼拝堂に着いてしまった。

 
ここは、皆さん立ち止まっているので、満員電車なみだ。私も天井を見回して、首の疲れに耐えかねて退出した。
 昼食の為に近くのレストランに入る。日本語を上手に話す若いボーイの案内で奥のほうに席を取る。そして、15000リラのセットを注文した。料理ができるまでの間、お姉さまたちは、若いボーイを呼んでは、何かと話し掛けている。また、日本から持参の味噌汁を飲んでいる人もいた。
 支払いを済ませしばらく歩いてから、計算が合わないと誰かが言い出した。注文の倍の30,000リラを払ったのだ。かの地では、同じ店でも席によって値段が違うこともあるし、飲み物も取ったし、税がどうなっているのかも分からない。ひととおり騒いだのち、日本円にして、1000円程度なので、ま、ええか。ということになった。
 両替所で5人分を1人がまとめて換えたので、手数料を得したと喜んでいる。先ほどの損までは差があるのに……。
私は、5000円を70000リラに換えた。

 
             

                サン・ピエトロ寺院にて  お姉さまたちに囲まれてご機嫌

 サン・ピエトロ寺院は、世界一の大寺院である。世界一を名乗るのは、ここしかない。5人組は集合時間を決めて各々見学する。巨大な内部を見て外に出ると、カッコいい衛兵が立っていた。バチカンは、中立国である。従って衛兵も中立国のスイスの傭兵だそうな。驚いたことに、彼らの制服のデザインは、ミケランジェロのものだった。



(スペイン広場界隈)
 時間厳守で5人組は勢ぞろいした。これから2台のタクシーに分乗してスペイン広場に向かう。ここで、2台目のタクシー料金をちょろまかされた。1台目に比べて随分と高かった。
 スペイン広場に到着。ここも、スリなど多いという。来るなら来てみよ、と用心する。最近は、ただ掏るだけでなく、足掛けなどで転ばせて、注意が懐から離れた隙に、掏るという。随分と手が込んだことをする。
 映画「ローマの休日」でオードリーヘップバーンがアイスクリームを食べた、あの石段は工事中で近寄れなかった。遠くからパチリ。

             

                 スペイン広場

 この石段からの通りは、ローマ一の繁華街といわれる。イタリアブランドのほかヨーロッパの一流ブランド店が軒を連ねる。次女から土産物の注文があり、マリオ・バレンチノの財布だ。同行者に教わり、店を探したが分からない。地図を広げてみたが分からない。通りかかる日本人に質問してもわからない。たまたま、同じパーティの買い物目的の人たちが通ったので、聞いたら知っていた。ただし、
「客は居ないよ、物は日本人が買いあさって今はないよ」
と言っていた。それでも、もしかして、と思っていってみた。やはり、革物はなく、衣類が並んでいた。客も居なかった。仕方がないので、近くの「カメオ」の店に入った。日本語の上手なイタリア娘に、「24歳と20歳の娘への土産だが、相談にのって」と頼んだら、「私21歳」という。「あなたの歳は聞いていないよ」と、笑いながら探す。
彼女、2〜3種類づつ持って来ては薦める。気に入ったのがあったので買うことにした。そしたら彼女、「自分のは、自分のは」と私自身の分も買わそうと、一生懸命だ。気に入ったのがあったので買うことにした。先ほどから、責任者とおぼしき中年の日本女性が、ニコニコしながらやり取りを見ていた。
 スペイン広場から、タクシーでホテルに向かう。メーターは、11500リラだったので、チップ込みで13000リラを渡した。後で気が付いたのだが、バチカン近くで受け取った5万リラ札がない。使った覚えもない。どうやら、タクシーに間違えて渡したらしい。運ちゃんは「日本人の間抜け!」と言って喜んだに違いない。とんだ MANUKE  だった。

 夕食は、フリータイムなので旅費に含まれていない。自分で好き勝手に食べるのだ。朝の散歩で目をつけていたホテル近くの中華料理店「復興酒家」に入った。
 注文は、餃子、チンジャオロースは通じた。ビールは青島(ちんたお)ビールだ。日本では知らない味だ。紹興酒も頼んだ。鳥のからあげが食べたくなったので、メニューを見たが分からない。身ぶり手振りで説明するのだが通じない。面倒になり、適当に指差し注文したら、鳥と野菜の煮物が出てきた。後で考えたら、フライドチキンと言えばよかったかな。
 そのうち、マリオ・バレンチノの店を教えてくれた4人組が、添乗員と入ってきた。隣に席を取り歓談することしばし。そのうち、ラーメンを取っておすそ分けがきた。「もう入りませんよ」と言いながら箸をつけた。彼らは、「麺はスパゲッティ」「いや、小麦粉の麺だ」と議論が分かれて、私に判定させようとしたものらしい。
 「そんな気もするが違う気もする。」とどちらにも味方せず、一足先に店を出る。
 酔いを覚ましにテルミニ駅構内を歩く。店から店にのぞき専門だ。歩きつかれて、シャワーを浴び熟睡。
  
             

                テルミニ駅構内


  11月25日(土)晴
(永遠の都ローマよ、さらば)
 6:00 起床。今日は暖かそうだ。
 7:30 モーニングコール。
 食事に出かける。このホテルの廊下は、消灯していて暗い。ただし、人がいるとセンサーが働き点灯する仕掛けだ。レストランでは一行の人々が食事中である。「おはようございます」と笑顔で声をかけてくれる。個性の強い人がいないこの一行はよかったと思っている。食事の内容はバイキング方式である。パン1個、ハム2枚、ジュース2杯ですぐに済む。
 9:00 集合時間が近づいたのでエレベーターに乗ると、伊勢からの若夫婦の奥さんが興奮している。どうしました?と声をかけると、昨日盗難に遭ったとか。バッグを2つ買って、シューズに手を伸ばしたわずかな隙に、バッグを盗られた。まさか自分には、という日本人の甘さが衝かれたのだろうか。それとも、高度のテクニックの彼らににらまれたのが、不運だったのだろうか。警察に届けたりで、添乗員に迷惑をかけた、とも恐縮していた。
 レオナルド・ダ・ビンチ空港に向けてバスは走る。イタリアの空港名は、歴史上の有名人の名前がついている。ピサは、ガリレオ・ガリレイ空港。ベネチアは、マルコ・ポーロ空港などだ。
 車窓から眺めると、大きな車はなく、カローラ、サニークラスだ。大きなイタリア人が小さな車を洗っていた。微笑ましい。
 空港に近づくと、NISSAN の看板が見えた。堂々と、ここでも活躍しているんだ、と嬉しくなる。隣接した牧場では、羊やヤギがノンビリと草を食んでいた。
 添乗員が搭乗手続をしている。1か所に固まって待っていると、誰かが床面の小さな荷物を指差す。よく見ると、生まれて間もない赤ん坊が入っていた。若い両親がいて、父親が我々に気がついて、ウインクしている。「どうだ、可愛いだろう」と言っているように。
 リラが余ったので、免税店で買い物をした。不足分を円で支払う。物は勿論ワイン。空港内で、ホテルが準備した弁当を食べる。水、パン、豚肉そしてメロンに生ハムを巻いたものだ。これはうまかった。
 12:40 定刻に離陸して間もなく、飛行機内で軽食が出た。今日は何回食べることやら。結構ボリュームがあった。帰国後、ダイエット開始だ。

  
(スペイン美人がオタンコナス!)
 14:20 バルセロナ空港着陸。1時間40分の飛行時間だ。天候は曇。気温18度。日本人のお年寄りが待っていた。当然のことながら、ガイドの資格がないので通訳としてである。途中で、正規のガイド殿が乗り込む。真偽の程は定かではないが、旅費、生活費込みで100万円あれば、1年間の留学が可能だそうだ。言葉さえ覚えれば、観光案内(表面は通訳)はさほど難しいと思えない。スペインでは若い大和なでしここそ見かけなかったが、イタリアも含めて日本人のガイドがいるのもうなずける

             

                カタルーニャ美術館

 途中で若いスペイン女性が乗り込んだ。日本語の片言程度は分かるそうだ。ただし、乗っているだけで、案内は例の日本人のお爺さんだ。
 まず、オリンピックがあった、モン・ジュイックの丘に向かう。モンは山、ジュイックはユダヤを意味している。むかし、この山にユダヤ人が住んでいたのでこの名前がついたようだ。
 立派な宮殿を思わせる建物の側を通る。カタッルーニャ美術館だ。そしてオリンピックのメイン会場で寸時降りて走り出す。オリンピックのマラソンの景色を思い出そうとする。有森ゆうこが力走した辺りはどのあたりか?坂道があった。似ているような気がする。
 次の目的地は、グエル公園だ。ここは天才建築家アントニオ・ガウディによるものだ。途中で、フランスナンバーのバスが、渋滞でもないのにのろのろと走っている。道を譲ろうともしない。機会を見て追い越したが、例の美人ガイド殿が窓を開けてフランスバスに向かって何か叫んだ。ガイドの日本人が、通訳して曰く
「おたんこなす!」
まさか、あんな可愛い顔をして。と誰も信じない。本人は涼しい顔だ。

             

                グエル公園


(グエル公園とサグラダファミリア)
 グエル公園は、天才建築家アントニオ・ガウディの設計によるメルヘンチックな公園である。園内をゆっくりと散策していると、子供達が輪になって歌っている場面にぶつかった。10歳前後であろうか、とても可愛らしく、一行の人々、我も我もとシャッターを切る。私は、映画「穢れ無き悪戯」のマルセリーノという少年を思い出していた。同じ年輩であろうか、そのメロデイを口ずさんでいる人がいた。
  
              


                 輪になって歌う子供達

 サグラダ・フアミリアを間近に見る。1882年着工、1891年にガウディに引き継いで100年有余たって経って、いまだ未完成である。内部に入ると何もない。建物の土地買収も済んでいないとか。この建物のテーマは「キリストの誕生」である。彫刻の意味を解説してもらって、少し分かったような気がした。正面の天使たちの視線を変更するか否か長い間議論して、まだ結論が出ていないとか。悠長なことだ。

              
     
                サグラダ・フアミリア
               私のカメラでは全体を撮れなかった。
               彼の作品は、煙突、アパートなど多く見かける。

 また、磔のキリストの足元に、ドクロが一つあった。何のことか? と問うと、通訳のご老人は「死」を意味しているという。一方、オタンコナスの美人ガイド嬢は、違うことを言っているようだ。スペイン語で言われても何のことやら。
 ユダの裏切り、十字架を背負うキリスト、その重さに耐えかねて倒れるキリスト。磔、埋葬等々、強烈な印象を受けた。

             

               彫刻の一部

 とにかく、オリンピックのマラソンの中継で見た作品を、目の当たりに出来てよかった。上ばかり見ていて、首が随分と疲れた。
 ホテルへの途中、「そごう」立ち寄る。高層ビルの1階にあった。職場の仲間に気持ちだけの土産を探した。日本人の店員がいて、相談に乗ってくれた。
 ホテルは「オリエンテ」、観光案内にも掲載されている一流である。廊下が広く3〜4メートルはありそうだ。部屋もきれいで、旅の最後に満足する。
 夕食は20:00からである。土曜日で街は賑わっていて、食事をキャンセルして出かけた人もいたようだ。料理は、さらに山盛りのマカロニ、大きな骨付きのチキンのフライ、それにアイスクリーム。ワインは1本400ペセタ。持ち合わせがないので、同席した埼玉からの女子大生姉妹にチップ込みで両替してもらった。
 最後の晩餐だ。乾杯。

             

               グエル公園からのバルセロナ市街

(さあ、帰国だ)
11月26日(日)雨後晴
 5:30 雷で目が覚める。当地は、台風がなく冬暖かく夏は涼しい。雷は多いようだ。
 6:45 集合。とても寒い。ホテルマンが半袖なのに風邪でも引いたかな。
 7:30 夜が明けてきた。空港で出国手続を済ます。マドリッド経由で成田へ向かうのだ。時間があるので、土産
      にワインを買うことにした。3本買って、搭乗直前に1本割ってしまった。一行に人々が後始末を手伝って
      くれた。
 9:40 離陸。晴れてきた。
10:35 マドリッド着。出口でスチュワーデスと「アデオス」と挨拶を交わす。
11:00 TOKIO 行きのイベリア航空の大型機に乗り込む。離陸は11:30 の予定だ。予定時刻がきても出発の
      兆しがない。聞いてみると、他のツアーの3人が乗っていないそうだ。1人は飛び込み乗機で間に合った
      が、二人は積み残しで出発した。罰金18万円とか。さらに手続の為に2〜3日滞在とか。添乗員も残っ
      たようだ。
       何が原因なのか。決められたことを守る習慣は、いつ、いかなる時も必用だ。
11:40 離陸。モスクワまで4時間。狭い中での忍耐が始まる。臨席の榊さんという九州からの参加者と、とりとめ
      のない会話も長くは続かない。
12:00 昼食。何を食べてか記憶にない。酒の勢いで眠ろうと、ワインはしっかり飲んだ。
15:40 (日本時間23:40) モスクワ空港到着.気温2度。雪はない。
17:15 (同上27日 1:15) 離陸
20:30 (       2:30) 夕食にワインをお代わり。さあ、眠るぞ。
 8:40 (以下日本時間) 朝食。
 9:55 成田到着。ここで、東京組と別れる。関西組は、リムジンバスで羽田へ移動する。
13:00 羽田着。久しぶりに食べたてんぷらうどんが、たまらなく旨かった。
14:25 羽田離陸。
15:30 関空着。散会。
      江坂のスナックへ立ち寄る。飲み友達への土産を預けるためだ。軽く飲んで帰る積りが、客がいないこ
      とを幸いマスターと碁を打ち、自宅へ戻ったのは、22:00をまわっていた。

 (注)カメラの日付は日本時間に設定したままである。時差が8時間あるので、1日の内に日付が変わる。
    現地16:00が日本時間24:00である。

                                                                   完

 

 
 



直線上に配置