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行き先別にリンクを設定してあります
目次(掲載は新しい方が手前にきます)
9. 良寛のあとを慕いて三度笠
10.楊貴妃の墓を訪ねて三度笠
11.野馬追いに古武士求めて三度笠(完)
12. 江島の囲み屋敷そして神話の戸隠へ(掲載開始)
1.訪問先

@ 高遠(たかとう)
A 善光寺
B 戸隠(とがくし)・一茶(いっさ)の古里
C 会津
D 称名滝(しょうみょうだき)
2.行程
平成15年8月13日 伊那高遠 ⇒ 善光寺 ⇒ 戸隠地区 ⇒ 柏島(泊)
14日 会津 ⇒ 郷里
15日 滞在
16日 立山称名滝 ⇒ 大阪
3.日記
8月13日(水)曇
昨夜は20時ころ就寝した。これで3時の起きれば7時間の睡眠時間は確保できる。しかし、12時ころ目覚めてしま った。眠れず途中で眠ればいいか、と出発。軽快なエンジンの音で走り出す。ときに午前2時。
3:40 中国自動車道宝塚名塩SA。お茶を飲んで一服。
4:30 京都通過。静かに眠っていた古都は夜明けを迎えようとしている。
4:50 草津PAで1時間仮眠。駐車場は路側帯まで仮眠の車でいっぱいだ。
6:50 多賀SAで朝食。
10:40 駒ヶ根インターで降りる。たしか、途中にうまいカツ丼やがあったはず。
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絵島囲み屋敷(高遠町地図)
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12:00 最初の目的地高遠町の絵島の囲み屋敷囲み屋敷に到着。ここは、日本3大桜の名所として知られる高遠 城の南にあり、三峰川を眼下に見下ろす歴史博物館の一角にあった。
私は、愛車を駐車場で休ませ、大きく背伸びをして歩き出した。
高遠町を知ったのは、池波正太郎氏の「真田太平記」を読んだからである。この小説のスタートは、ここ高遠城である。
この城は武田信玄の名軍師山本勘助の設計変更によるらしい。また、徳川2代将軍秀忠公の庶子で徳川初期3名君の一人、また会津松平家の藩祖である保科(ほしな)正之公の養子先でもあった。
そして、真田太平記では、武田武田家滅亡直前、信玄の五男仁科五郎信盛(にしなごろうのぶもり)が、織田信長の長男信忠に包囲され落城寸前、足軽の向井佐平が女忍者「お江」に救出される場面から始まる。
その記憶がありまた絵島の永永遠流先の屋敷を見たく、帰省するルートを中央自動車道から北陸道経由を選んだのである。
ここで、絵島についての理解を深めるためその概略を記すこととする。内容は高遠町歴史博物館資料叢書5からの引用である。(高遠町教育委員会了解済み)
絵島囲み屋敷
8畳の間と浴室、トイレが移動を許された空間で彼女は30年間の幽閉生活を送った。
写真の転送が出来ません。申し訳ありません
(1)年号と主な出来事
1600 慶長5
1603 8 初代将軍 家康 江戸幕府を開く
1605 10 2代 秀忠
1615 元和 1 大阪夏の陣。豊臣氏滅亡。
1623 9 3代 家光
1637 寛永14 島原の乱
1651 慶安 4 4 家綱 由井正雪の乱
1682 天和 1 5 綱吉 八百屋お七の火事
1702 元禄15 赤穂浪士討ち入り
1709 宝永 6 6 家宣 間部詮房・新井白石を登用
1710 正徳 1 7 家継 側用人政治始まる
1714 絵島事件
1716 享保 1 8 吉宗 家継8歳で死去
(2)その時代概要
文化的には5代将軍綱吉が学問を好み、生活に京風を取り入れたことや、政治も元禄から正徳に変わり礼文主
義となったことから、絢爛たる文化が起こり、一方驕奢逸楽し綱紀ががゆるみ、風俗が退廃した。
1615年、大阪夏の陣で徳川政権がほぼ安定した。その前後、加藤・福島などの秀吉子飼いの有力大名を排し、 さらに島原の乱、由井正雪事件なども終息し戦国の名残もなくなった。
政治面では、6代将軍家宣に側用人として起用されていた新井白石・間部詮房が、4歳で将軍となった家継を補 佐することとなった。ここに正徳の治と云われる側用人政治が始まった。老中以下は本来の政治機構による政治を 取り戻そうと機会をうかがっていた。
一方大奥では、上下1000人の女官達が、着物や装飾品さらに男を求める様になった。その規模から莫大な利 益になることに目を付けた御用商人が介在するようになった。家継生母月光院以下風紀は大いに乱れていたよう である。
(3)絵島の生涯(大奥時代は江島、罪を受けてからは絵島)
誕生 1682(天和2)、生地、生年月日諸説あり。
23歳 紀伊公綱教(つなのり)の奥方鶴姫(綱吉の娘)の女中となる。
24 鶴姫が死ぬと甲府宰相家宣の愛妾「おきよの方」に仕えた。おきよの方は、播州赤穂浅野内匠頭長矩の
奥方に仕えた経歴をもつ。家宣が将軍になると、おきよの方は、左京の方(家宣死去後は月光院)として大
奥に入った。当然江島も大奥に入った。彼女は左京の方の信任が厚かった。
29 400石の年寄りに登用された。
32 遊興乱行発覚。高遠に永々遠流(えいえいおんる。決して戻れぬ遠島)となる。
61 幽閉30年、高遠で死去。

幽閉の家の平面図
最初の囲み屋敷。その後城に近い場所に移る
浴室と便所以外は移動出来なかった。書くに紙 もなく、読むに書物も与えられなかった。
女中は江戸の話を聞きたがったが、余り語らな かったとか。
次回は絵島事件始末

毎年7月に福島県原町市の
雲雀ヶ原で開かれる甲冑競馬。
(観光パンフ)
1.行き先

@ 諏訪市高島城
A 会津若松市
B 二本松市
C 本宮市
D 原町市
E 常陸太田市
F 瓜連町
G 高萩市
H 塩山市
2.行程 平成13年7月22日〜7月28日
3.旅烏 備中国倉敷の里 篠崎泰雄
はじめに
今回の旅烏は、祖先のルーツ調査・相馬野馬追い見学・墓参・快川和尚焼死の寺など相当欲深いものであった。
従って、スケジールも六十路を超えた私にとって、きびしいものであった。この身体をいじめ抜いた旅は、不眠症に悩んできた私には、思わぬ解決をもたらしてくれた。以来、精神安定剤の力を借りずに安眠できるようになった。
諏訪高島城寸描
7月22日(日)晴
早朝4:30、我が愛車は静かにマンションを後にした。昨夜は早めに安定剤をのんだので寝不足はない。車の少ない山陽自動車道を時速90キロでゆっくりと東進する。
途中、宝塚・養老等々で休憩して、小牧から中央自動車道にはいる。諏訪湖東岸の高島城に着いたのは
、12時を大分まわった頃だった。ここで通り雨に遭ったが空気がきれいなためか、車に汚れが付かなかった。さすがに精密企業が集まるだけあるわい!と感心する。
高島城は、上諏訪神社に近く、市役所に隣接したところにあった。早速4階の観光担当課に行き資料を手に入れる。
詳しいものがないので、城内で買ってくださいとのことだった。
猛暑の季節のためか、観光客は少ない。本丸だけ再建されたが、よく整備されていた。

高島城本丸
明治維新で取り壊されたが、1970年再建された。諏訪氏3万石、270年の居城である。
この城は、戦国末期小田原の役で功績があった日根野氏によって築城された。関ヶ原の戦いの1月後、家康から名族諏訪(すわ)氏に諏訪郡(すわごおり)が与えられ、以後270年明治維新まで一揆(いっき)もなく続いた。
諏訪氏は開墾などを奨励した結果、実質5万石あった。幕府は、知ってか知らずか、3万石で取り扱ったという。
ここに流された著名な流人(るにん)
私がこの城に興味をもったのは、松平忠輝・吉良吉周(きらよしかね)が流された土地と物の本で知ったからである。そこは城内でも湿地の南方(現在は中学校)ということである。
松平忠輝は家康の六男で、高田六〇万石の領主であった。山岡荘八氏の「伊達政宗」にその人となりや流された原因が書かれている。曰く
静岡県金川の農民の子
覇気に満ちた人物
伊達政宗の娘イロハ姫の夫
クリスチャン
将軍秀忠のライバル
大阪の陣で働かず
家康との宮中参内をすっぽかす
……
家康は自分の死後、法度(はっと=法律)で国内を安定ならしめようとした。世間へは立場上身内に厳しくした。家康の死後、遺命として彼は改易された。罪状はなんだったのか。謀反を企てたとか、クリスチャン禁止令に反したこととか、いろいろ取りざたされている。
忠輝は伊勢→高山に流され、93歳で死去するまでの58年間、諏訪で過ごした。
一方、吉良吉周である。彼は吉良上野介の孫であるが、実子が上杉家の養子になったため(上杉綱憲)、その子を養子縁組して後継ぎとした。では、何故流されたのか。
元禄15年(1702)赤穂浪士が討ち入り、上野介の首を挙げた。その際、吉周は屋敷内におり、必死に戦い重傷を負った。なのに「浅野内匠頭家来共、上野介を討ち候節、その方仕方不届きにつき、領地召し上げられ、諏訪安芸守へお預けられ候なり」と、評定所の判決に一言の抗弁も許されずに流されたという。時に17歳であった。
問題は「仕方不届き」とは何をさすのか。舟橋聖一氏の「新忠臣蔵」では、いろいろ推測が述べられている。
その1 義士の行動を阻止した。これが不届き
その2 実質は軽傷で、獅子奮迅の働きで上野介を守ったわけではない。これが不届き
等々あり、どうも2の見方が強い。彼は流されて3年で世を去る。高島城には、その外にも流人がいたが、諏訪藩では誠実に尽くしたので、流人からは不平がなかったという。が一説に夏に蚊帳も与えられず、病死したという。
往時を偲び、城内をそぞろ歩き諏訪城をあとにした。
柏崎の貞心尼の歌碑
今宵の宿は柏崎駅前だある。例によって居酒屋に出掛ける。昨年の拙文「道中日記」が店に備え付けられていて、常連客が読んでいたのには、おもはゆく穴があったら入りたい気分であった。カウンターで隣り合わせた長野県からのカップルの中と親しくなり、多いに話し、美味い料理に舌鼓を打ち、多いに呑んで、年甲斐もなくしたたかに酔った。
7月23日(月) 貞心尼のすがすがしい歌に心が洗われる
6時ころ目が覚める。酔いが大分残っている。酔い覚ましの水をのみながら、居酒屋の女将が、「貞心尼の歌碑が駅前通りにあるよ」と云っていたのを思い出した。朝の散歩で酔いを吹き飛ばそうと云う気もあって、カメラを抱えて出掛けた。

駅前通りの歌碑
柏崎からのびる通りは、朝の散歩を楽しむ年配の夫婦、開店準備の商店、おしゃべりのおばさん達で、すこしずつ活気が出始めていた。そして大通りには、100b間隔であろうか、大通りの両側に写真のような歌碑があった。行けども行けども尽きないので途中で引き返したが、心の残る2首書きとどめた。
いつまでも たへぬかたみと おくるなり
わが法の師の みずくきの跡
貞心尼が良寛の書いたものを人から所望されて、さし上げるときこの歌を書き留めた手紙を添えてやったという。
良寛の遺品に対するいとおしさが、胸を打つ。
あとは人 先は仏に まかせおく
おのが心の うちは極楽
貞心尼75歳、辞世の心境であろう。人生を精一杯生きた人の、さわやかな悟りきったものを感ずる。
会津小田山に鶴が城攻防を思う。
本の名前は忘れたが、維新戦争の場面で気になる場所があった。一度は訪ねなければ、と思いながら果たさなかった場所がある。それは小田山といい、会津若松城から東南に直線距離で1600bにある小高い山である。
何故気になったかというと、「城を砲撃するのにベストの地がある」と西軍に通報した者がいたのである。この国難のなか、挙国一致して応戦すべきときに、味方を敵に売るとは何事か。私の正義感は甘すぎるのか。悲惨な状況のほんの一部しか知らないわたしにも、130年あまり経った今、憤りが湧き許せないのである。
山の東側の駐車場に愛車を止め、歩き出す。汗で衣類が体にまとわりつき気持ちが悪いが、運転ばかりで運動不足の私にはちょうどよい。ものの10分程で目的の場所に着いた。

小田山の西軍砲陣地から鶴が城を望む
読みにくいので転記する。
西軍この地より 鶴が城を砲撃する
慶應年(1868年)8月23日、会津軍は城門を閉じ籠城に入りました。翌24日東部戦線にあった会津藩兵も漸次退き、ひとまず城内に入りました。翌25日に侵攻してきた西軍に、地形上すぐれていることを内通する者がいて、西軍は小田山上に堡塁を築きました。薩摩・鍋島・松代・大村・土佐・岡山・加賀の諸藩は城を眼下に見下ろしながら、一斉に砲門を開きました。小田山と城まで直線距離で約1600b、鍋島藩のアームストロング砲は、2千数百bの射程距離があり威力を発揮しました。……。
城が眼下に見通せ、高低差を利用するので、西軍の砲弾は城に届くが会津の砲弾はここには届かない。しかも鍋島藩のアームストロング砲は、飛距離が2200bだったという。会津側も近くに大砲陣地を移動し、一時は西軍の大砲を黙らせたようだ。その後、数カ所に構築した西軍の大砲陣地からの砲撃で、かなりの死傷者が出たという。
その間、米沢藩に応援を求めたが、既に西軍に付いていたため果たせず、逆に米沢藩の仲介で降伏へと、事態は進んでいった。
売国的な考え・行為は許せないとしても、兵器の性能、物量、戦術、等々ではやむを得ないかと納得して山を下りた。
二本松城本丸址でいにしえを思う。
東北自動車道二本松ICを出て北上、少し左には入った山上に二本松城(霞が城)本城址があった。この城は数々の歴史を残し、今は公園として市民の憩いの場となっている。また、麓の二の丸では日本最大の菊人形展が秋に開催されている。
二本松城……は以前読んだ本で、戊辰戦争の「二本松少年隊」の悲劇が強く印象に残っていて是非一目みたい、と訪ねたのである。数日後、姉の嫁ぎ先のお江戸は向島の「唐変木庵」を訪ね、祖先が城主丹羽氏の一族と知って驚いた。帰宅後おさらいをしたので、紙面を少し割く。
本丸の下の空き地には、昼食と休憩を兼ねた業務用の車が5〜6台、木陰を選んで休んでいた。私は、本丸址に登り、歴史の一部を思い起こしていた。

二本松城本丸から市街を望む
人取橋合戦は
@ 背景
伊達政宗は仙道(福島県の中通り)を手中に入れる野心を持っていた。
1584暮 小浜城主(岩代町)大内定綱は、政宗の家督相続を祝って米沢を訪ね、伊達家に恭順を誓
った。
1585春 大内定綱翻意し、会津の芦名氏、二本松の畠山氏と好(よしみ)を通ずる。
(何らかの圧力があったか)
9月 政宗は威信を保てないと怒り、その居城をことごとく攻め滅ぼした。
殊に、小浜城の支城小手森城では、籠城の兵はもとより、女子供まで800名を斬殺した。
これは、なで斬りといわれ、南奥州の戦国大名は震撼した。それまでは、遠近を問わず
親戚関係にあり、適当なところで手を打っていたようだ。
大内氏は二本松城そして会津に走った。
危険を感じた二本松城主畠山善継は、服従を申し入れるが政宗は許さなかった。畠山義
継は父輝宗に泣きつき、輝宗の説得で政宗は厳しい条件を提示した。
10月 8日義継は宮ノ森城(小浜城の数`南)の輝宗にお礼に訪れ、帰り際玄関まで見送りに
出た輝宗を取り囲み拉致した。
急を聞いた政宗は追跡し栗野原(二本松市、阿武隈川東岸)で追いついた。義継は輝宗
を刺し殺し自らも割腹自殺、家臣達も全員討ち死にした。この時に抱きすくめられていた
輝宗が「我もろともに撃て」と云ったというのが、ドラマで有名な場面である。
父の初七日を済ませ、政宗は13000の軍勢で二本松城を囲むが、城方は12歳の遺児
国王丸を擁し抗戦、なかなか落城しない。おりしも閏年だったので季節は今の1月に相当
する。降雪で城攻めも思うようにいかない。
A 人取橋合戦
11月 10日頃、二本松城の急を聞いた佐竹を総帥とする芦名・岩城・相馬・白川など3万の連合
軍が押し寄せた。
17日、政宗は7000の軍勢で本宮町の人取橋で迎え撃った。
B 結果 連合軍優勢の内に日が暮れ双方軍を退く。連合軍は翌日勝利確実だったが、異変が起き
た。
佐竹の1将が馬の手入れのことで下僕に刺殺されたり、常陸本国が、里見・水戸氏に留
守を狙われたとの情報が入り、他日を期して引き上げた。
二本松城は翌年7月落城し、国王丸は会津に逃れた。

人取橋合戦跡
元宮町国道4号線に面している。
付近一帯は激闘を忘れたように
のどかな水田が広がる
幕末の二本松城
幕末の二本松藩も、白河・棚倉の落城・三春藩の寝返りで敗退した。これで話を次に進めると、「ああ、そう」と終わってしまうので、少し書き加える。
奥羽列藩同盟25藩で必死に戦ったのは、次の4藩と云われる。則ち、会津・長岡・庄内・二本松の4藩である。あとは各藩内の抗戦派と和平派との勢力争いがあり、それが同盟瓦解となってあらわれている。
12歳から17歳の62名の二本松少年隊は、古畳で胸壁を築き、2時間あまりにわたり、激しい銃撃戦を展開した。隊長鈴木銃太郎が戦死するにおよび、撤退のやむなきに至った。その勇敢さ、健気(けなげ)さは多くの西軍将兵も讃えたという。
維新の夜明けを待たずに散った16名は、丹羽家代々の菩提寺「大隣寺」で静かに眠っている。白虎隊と
並ぶ悲劇の少年達である。
仙台藩士細谷十太夫が、退却しながら当藩の悲惨な様相を書き残しているので記述する(学研歴史群像会津戦争より)
「飢えに泣く者、病んで哭する者、中には昨夜分娩したという若い女が、人の肩に寄りかかったり、生色もなくとぼとぼと歩いている。このような姿を見ながら仙台藩が退却するのは、盟主としてあるまじき事だが、前後に敵を受け糧食・弾薬を絶たれたため、再挙をはかる必要があり、会津に退いて米沢を経て、桑折に出て仙台国境を固める事にした」
野馬追い来歴
今回の旅の主目的の一つは、「野馬追い」見学である。500騎以上の騎馬武者が先祖伝来の甲冑に身を固め、旗指物を付け、堂々と行軍をし、神旗を奪い合い、競馬をするというのだ。私の古里から北へ60キロ、原町市の雲雀が原(ひばりがはら)にその会場がある。午前6時ころ着いたのだが、会場に近い駐車場は既に半分以上埋まり、どんどん車が入ってくる。練馬・品川・栃木・習志野・水戸などなど関東一円から東北まで、広範囲から集まってくる。そして皆エアコンを付けて車内で眠っている。夜通し走ってきたのであろう。
ここで、相馬野馬追いの予備知識として、7月22日福島民報の記事をそのまま載せる。

古来、相馬氏と伊達氏との抗争は数百年に亘ったという。6万石の相馬氏が、隣国の強国に対抗し一歩も退かなかった背景には、常日頃の強兵対策が必要であったろう。恐れず、ひるまず……。とは、小泉首相の言だが、その通り守り抜いた。
みちのくの各氏族は、鎌倉以来の名族が多い。政略結婚で次第に血縁関係が出来た。遠近を問わず皆親戚なのである。従って、戦いと云っても適当なところで常であったという。
ところが、戦いの様相が一変した。前述の政宗の大内攻めでは、支城の小手森城で、籠城の将兵はもとより、女子供まで800名を、さらに生けるものは動物まで殺したという。これが「なで斬り」として南奥州の豪族を震撼させた。相馬側もいっそう気を引き締めた事であろう。
9:00 北の小川橋に集結した騎馬軍団は、花火の合図と共に進軍を開始した。場内は、陣羽織を着けた女学生・婦人会40〜50名が舞踊を披露している。相馬藩の国歌「相馬流山」その他ご当地民謡だ。在りし日の父庄左衛門が「イッサイコレワイパレットサ♪♪」と歌っていた相馬二遍返しもあり、懐かしく見物した。
騎馬軍団の入場風景
9:45 先頭が入場してきた。雲雀ヶ原(ひばりがはら)のイメージは写真の入場行軍の写真で分かるが、広さを追記すると、広さは東京ドームの10倍、13fある。外周が1000bの競馬の為の疾走路があり、中は草地だ。
東の小高い丘の頂上には、総大将相馬中村藩33代当主相馬和胤(かずたね)氏長男行胤(みちたね)の本陣がある。
山肌は15〜20段の自然の観覧席が設けられている。
騎馬軍団は、昔ながらの郷別に編成されている。到着すると、大音声でその旨を告げている。騎馬武者552騎他に神輿・徒武者合わせて1000余名が威風堂々と入場するさまは、言えようのない感激を覚える。行進は11時頃まで続いた。この軍の編成役付は次のとおり。
総大将 相馬行胤公。27歳。米国で仕事をしているが、野馬追いの為に帰国。
副大将 明治初め野馬追いを復活させた元士族海老原氏。
軍師 総大将ののもとで出陣から帰還まで全てを仕切る最高指揮官小林氏
副軍師 5郷からそれぞれ選ばれる。軍師を助け郷全体を統括。
郷大将 侍大将、軍者、螺役長(かいやくちょう)、勘定奉行、組頭、中頭、お使い番など。

入場行軍風景
甲冑競馬ほか
11:00 甲冑競馬が始まった。12頭単位で10回行われる。兜だけ脱ぎ鉢巻姿の若武者達が疾走する。女武者も居た。彼女たちの目印は、旗指物に「義」と書かれていると放送があり、応援する人が多かった。結果は後ろから一番だった。一騎は落馬していた。
スタートはゲートがないので、全頭気合いが一致した段階で走り出す。中々合わないと、役員同志でもめている。マイクが入ったままなので、まる聞こえだ。
競技を終えた若武者達は、審判から順位の証明を貰い、総大将のいる本陣に一気に坂を駆け上がり、総大将からお褒めに詞を頂く。

観光パンフ
12:00 いよいよクライマックスの神旗の争奪戦だ。花火で150bの高さに打ち上げられた神旗2枚、武者達は風の流れを読んで、落下地点に集まる。ルールは騎乗のまま取ることだ。取ったものは山上の本陣に控える総大将からお褒めの言葉を頂く。敵の首を取ったことになるのであろう。これが20回繰り返される。
私は、松の木の下に席を確保したのだが、日に焼けた。サングラスも忘れ、疲れを感じたので帰る事とした。このような規模は他に類を見ない。人は一度みればいいというが、私は何度でも見たいと思う。
旧友との再会
夕食は、少年時代の親友高岡芳勝君の家だ。奥さんの心のこもった料理で昔話に花が咲く。
曰く、横川で休むことなく数`泳いだ。曰く、一緒に夜遅くまで勉強した。曰く、私は身長の割には歩くのが速かった。などなど尽きるときがない。また、最近中学時代の友達と佐渡へ旅行したそうで、その写真も見せて貰った。懐かしい顔が次々と少年時代の昔を思い出させる。なかなか名前と顔が一致しなかった。
驚いたのは、芳勝君の容貌がすっかり変わってしまったことだ。たしか、最後のあったのは、3年前の来迎寺だったと思うのだが、すっかりやせてしまった。昼に彼の家を訪ね、庭で作業していた彼に「芳勝君の家はどこでしょうか」とやったものだ。当人は「俺だ! 俺だ!」と笑いながら云ったのだが、すぐには飲み込めなかった。今年の春、通勤途上げで交通事故に遭った。手当が早く、助かったのだ。恰幅の良い彼が頭にあったので、すぐにはスリムな彼が当人と気がつかなかったのだ。
ご夫婦で、帰りは実家まで送ってもらい恐した。
祖先のルーツ訪ねて常陸の国へ
7月25日(水)晴
祖先のルーツについては、兄が戦国時代以降は調査していたので、私はそれ以前について、少しずつ資料を集めていた。今回は、関連のある場所と水戸の図書館に立ち寄ることとした。
祖先の主君、車丹波守が仕えていた佐竹氏の本拠地「常陸太田」と瓜連町をを先ず訪問した。
常陸太田城址
常陸太田市は、佐竹氏が水戸に移るまでの470年間(1121年〜1591)の居城だった。佐竹氏の重臣だった車氏も知行地の北茨城市の車城のほか、この地にも屋敷を持っていたことが容易に想像できるので、我が祖先も住んでいたであろう、と思い、一目見たくなったのである。
高速常磐道日立南太田インターチェンジで下り、約10分程で、常陸太田駅にでた。右折したところに小高い丘があり
この一帯が城だったのだろう。郷土資料館で知識を入れることとした。偶々入れ替え中で入館出来なかったが、駐車場のおじさんが本丸址を教えてくれた。「今は学校で何もないよ」と云ってくれたが、訪ねることとした。さらに、学校近くで庭いじりをしていた古老に城跡の確認をした。
彼は、三の丸跡にある若宮八幡宮の総代だという。そこの宮司は詳しいので、私の名前を云えば教えてくれるよ、と云うので早速訪ねた。社務所の窓を開けていた宮司は、快く応じてくれた。ただし、私の知りたい事までは、ご存じでなく、やむを得ない、と諦めた。
太田城跡は、今は小学校、昔を偲ぶ物は何も残っていなかった。
瓜連城址今は寺院
常陸太田城を後にして、西南に9`、久慈川を渡った小高い台地の上に瓜連城址があった。私の祖先が楠一族の説もあるので、ゆかりの地であるこの地を見たくなったのである。(河内赤坂は昨平成12年調査に出向いた)
1333年は、建武の中興の年。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が隠岐から脱出し、親政を始めた。そして、この前後から足利尊氏・新田義貞・楠正成などの沢山の英雄が、南朝、北朝に別れて活躍した大ロマンの時代である。この頃
楠正成はこの瓜連に荘園を持っていた。その代官として、楠正家が赴任してきて、この地を南朝方の拠点として大いに働いた。
私の祖先は、彼の子孫か家臣か?と考えたが否定的な材料が出始め、この節には消極的になっていた。それでも
現地だけは見ておきたかった。
この辺り、と云うところに大きな寺があった。浄土真宗浄福寺である。山門を抜けしばらく云ったところに、本堂がある。その右手の住まいに人声がしたので案内を請うと、ここが瓜連城跡と、奥の方から無愛想な声がした。しばらく周辺をぶらぶら歩き、水戸に向け出発した。
水戸市茨城県立図書館について
カーナビの案内で到着した。が少し様子が変だ。小さな駐車場は満車に近かったが、建物の照明はなく、人通りもない。休館日を確認してこの日に設定したのだ。建築技師らしき2人がいたので、聞いてみた。図書館は、新築移転し、彼らは、取り壊しの打合せをしていたのだ。私のカーナビは、データが古く、この情報はのっていなかった。
すぐ近くの合同庁舎西隣に白亜のビルがそれだある。中にはいると吹きぬけの天井が気分をゆったりとさせる。私は早速郷土史のコーナーで調査開始だ。
新編常陸国史ほか多くの文書を漁ったが、我等の祖先は歴史に登場する事は無かったようだ。僅かに主君の車丹波守の記事を見つけた。それはルーツ研究に記載した。時刻も17時を大分過ぎた。そろそれ引き上げるか。
「心頭滅却すれば……」の地に思う・・・凡人の私にはどうしてどうして。
7月27日(金)晴
早朝にいわき出発。途中高萩図書館で調査。ここの阿良川(あらかわ)は岩城の国と常陸の国境だったようだ。図書を漁ること1時間、収穫なく向島に向かう。ここで名物の蕎麦をゴチになり、甲州の得林寺に向かう。
17時ころ勝沼ICを降りた。暫くぶどう園のなかを走る。路傍にピオーネの看板が目につく。マスカットと巨峰を掛け合わせて出来たと聞く。中国地方の特産もここまできたか。
17:30塩山市の恵林寺に到着。ここは1里四方、境内16千余坪、七堂伽藍、72門の回廊、三門、草門、鼓楼、5重の塔など甲州一の名刹だった。そして武田家の菩提寺でもあった。
武田家の末期、信長に攻められ、快川和尚主だった僧侶と三門に登り、
安禅必ずしも山水を須(もちい)ず 心頭をを滅却すれば火も自ずから涼し
といって焼死した。これは碧巌録にある6世紀の中国の詩人杜荀鶴(とじゅんかく)の「夏日悟空上人の院に題す」からの引用である。暑いものは暑い。暑くなかったら生物として異常である。心の持ち方の問題であろう。ここから先は凡人の考えが及ぶ世界ではなさそうだ。とにかく片手で拍手したらどんな音が出るか真剣に考える世界だ。ちなみに、
伊達政宗の師、虎哉禅師はこの寺の出身である。
暮れかかった境内には人影もまばらで、ベンチに腰を掛け蚊に刺されて膨れあがり、ずいぶんと痒かった。俺は凡人なり。
再建された恵林寺三門
諏訪湖サービスエリアで夕食を摂り、大垣の予約してあるホテルに着いたのは23時近かった。
翌28日昼に倉敷着。今回の走行きょり2500きろなり。

山口県油谷町(ゆやちょう)向津具(むかつく)半島
の二尊院にある楊貴妃像
この像は中国西安市にて制作されたものという
1.行き先

@ 山口県油谷町 楊貴妃の墓
A 門司港 大正時代の建物
B 菊池市 菊池一族の盛衰のあと
C 熊本市 熊本城・細川邸
D 人吉市 相良城・幽霊寺
2.行程 平成12年3月4日〜3月6日
3.旅烏 備中の国倉敷のさと 楽遼
はじめに
昨年9月、中国西安市の華清池(かせいのち)を訪ねてから、楊貴妃に関する文献があると目を通すことが習慣になった。倉敷市の図書館で「楊貴妃の墓の謎」なる本を見つけ、読んでいる内に現地を訪ねてみたくなった。また、訪問するなら以前から見たかった門司港のレトロ建物群・菊池一族の盛衰のあと・加藤清正の城・そして人吉をまわることとした。
3月4日(土)雨 楊貴妃の墓の謎を思う
久しぶりのドライブに興奮したのか、昨夜は睡眠が浅く3時半頃起き出す。4時出発、4時半頃鴨方インターから高速に乗る。私が通過したあと、タンクローリーによる交通事故が発生して数時間の通行止めがあった。直前に通過できて、この旅は運がいい。
山口県美祢(みね)インターで降り一般道で長門経由油谷に向かう。向津具(むかつく)半島の丘陵南面を開墾した、能登半島の千枚田を思わせる小さな田んぼ群を縫って、二尊院近くの駐車場に愛車を駐めたのは11時を少しまわった頃だった。
石段を登ると、そこに高さ150cm程の五輪の塔が石塔群に囲まれる様に立っていた。ここが楊貴妃の墓という。
楊貴妃が亡くなったのは、756年。安録山の乱で皇帝以下が成都目指して都落ちする途中、西安の西方50〜60キロの馬嵬(ばかい)で絞殺された。この地の古文書は、絞殺されたのは替え玉で、当人はこの地に遁れ絶命したとあるようだ。小生も判官(ほうがん)びいきで、悲劇の主人公は生かしておきたい方だ。だがしかし、このことについては全くその気にならない。その理由は、次の記述にその信憑性を見るからである。ただし、長恨歌には楊貴妃が死後に住んでいたのは、日本と解釈可能の一節があることも見逃せない。
……忽ち聞く海上に仙山有り 山は虚無縹渺の間に在りと……
これは、楊貴妃の在りかを捜しているくだりである。ただし、楊貴妃の発言に「蓬来山中日月長し」の文言がある。蓬来山とは、広辞苑によれば、台湾の異称とか東海中の仙人の住む島とかあり、やはり日本と結びにくいか。

二尊院の楊貴妃の墓
長恨歌はもとより、中国の歴史書「資治通鑑」に縊死(いし)。陳舜臣の「小説十八史略」では、楊貴妃が自ら死に場所を仏堂の前の梨の木を選び、腰の帯で首つり自殺。井上靖の「楊貴妃伝」では次の様に描写している。
……自分の腕に全部の重みを託されているこの世のものとは思われぬ贅沢な女体が、決して蘇生することがない様に、高力士(こうりきし)は何回も念を入れて布片を絞った。(高力士・・玄宗皇帝の信任厚い宦官)
この墓に眠る人は誰
それでは、この墓に眠る人は一体誰なのか。前述の「楊貴妃墓の謎」なる本では、宇佐神宮祭神の一人比売神(ひめかみ)であるという。一方渡辺澄夫氏の「大分県の歴史」で確認すると、754年大神田麻呂は薬師寺の僧行信と妖術で人を呪ったということで、多ね島(たねがしま)に流され、大神社女は日向(ひゅうが)に流されたと記載されている。楊貴妃墓の謎では、この大神社女が比売神として考察したのであろう。彼女は難を逃れてこの地に流れ着き、程なく亡くなった。
いずれにしても、我が日本には歴史書が少なく確証が得られない。眠る人は多分当時の貴婦人なのであろう。
謎解きは考古学者に任せるとして、楊貴妃像の方に歩み寄り、暫しご対面。

後世描かれた肖像画
前掲の写真とは似ていない。

また、皇室の菩提寺京都の泉涌寺(せんゆうじ)には楊貴妃観音がある。(後年訪問、写真は観光案内から)
玄宗皇帝が、楊貴妃に似せて作らせたという。1225年に僧湛海が持ち帰ったという。普通に見かける観音様と同じに見えた。
そぼ降る雨の中、長恨歌の一節を思い浮かべる。
玉容寂寞涙欄干 梨花一枝帯春雨
ぎょくようせきばく涙らんかん りかいっしはる雨をおぶ
死後の世界の蓬来宮に、玄宗皇帝の使者が訪れた時の、楊貴妃が泣いた様子を白楽天はこのように表現した。
玉容:玉の様なかんばせ。欄干:とめどなく流れる。
美しい楊貴妃の顔が、春の雨に濡れそぼった梨の花の様に
観光案内は、もの憂げな微笑を湛えていると紹介する。私には、否応なく「死」に向かわせられる生への執着。最高権力者で天子玄宗皇帝ですら救い得ない事に対する諦め。とうとうの複雑な胸中がかすかな微笑となっている様に見えた。また、若干の険をも感じられた。
二尊院を後にして楊貴妃舘なるホテルで昼食だ。油谷湾が見渡せる絶景の地で海鮮料理で舌鼓。絶世の美女と料理に満足満足。
雨の門司
15時半頃雨の門司港に到着。雨足の強い中観光客が多い。ネオ・ルネッサンス様式の門司港駅の観光案内所で概略の観光案内を手に入れる。雨のためすぐぐしょぐしょになる。ここは明治から大正にかけて建設された洋館群が美しく保存されていて、訪れる人をして当時にタイムスリップさせてくれる。
道路を隔てて三井クラブがある。かつてアインシュタイン夫妻も宿泊したというのでのぞいてみた。古い形式の喫茶店のまだ雛飾りが残ってる前のせきでしばしコーヒーを楽しむ。ひょっとしたら、この席にかの夫妻も座ったかも知れない。比較して不足しているのは、こちらには道連れがないことか。
旧大坂商船は外観だけを楽しみ、国際友好記念図書館にはいる。この建物は、帝政ロシアが大連市に建てたドイツ風建物の複製だ。しーんとした静寂のなかで5〜6人が読書に没頭している。うらやましい限りだ。有閑な私は毎日と云うほど倉敷市の図書館に出向く。が、ここの雰囲気には及ばない。近かったら入り浸りになるかな、等と考えながら後にした。
門司税関は、大陸貿易の拠点だった当時の門司の中心的役所だ。赤煉瓦造り、目下補修中で入館できず、むき出しで風化して角が取れた煉瓦が印象的だ。
この町並みは、彼と彼女に薦める異国情緒たっぷりのデートスポットである。

三井クラブ
今宵の宿は博多。山鉾(やまぼこ)のある神社の近くの居酒屋ででいっぱいやることにした。土曜日なのにいっぱいだ。美味い酒、隣り合わせた人との談笑。これも旅の楽しみである。ほろ酔い機嫌でそぞろ歩くほほに吹く冷たい夜風は、最高のご馳走だ。時間よ、とまれ。まさに「春宵一刻直千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)」なり。機会があれば又寄ろう。昨夜の不眠も手伝って熟睡。
菊池一族栄枯盛衰の跡に立つ
3月5日(日)晴 8時ホテル発。都市高速を経て太宰府JCで九州自動車道に入る。日曜とあってかトラックが少なく、大きな目障りが無く走りやすい。ドライブにとっては最高だ。
植木インターを降りる頃から目がかゆくなりくしゃみが出始めた。花粉症だ。まいったなあ。
菊池市に入る前に、菊池一族の予習が必要だ。命がけのドラマが多すぎて全部を述べる事は出来ない。概略の一部を紹介する。24代、462年の盛衰記だ。
1070年 太宰府の府官藤原則隆が菊池市深川に居を構え、地名をとり菊池と称す。
1180 6代隆直公、平家反抗の挙兵
1182 同上 平家に降伏
1185 同上 壇ノ浦合戦 平家側で戦う
1274 10代武房公、蒙古襲来(文永の役)に出陣。弟赤星有隆公と有名を馳せる。
1281 同上 蒙古襲来(弘安の役)に出陣 同上
1333 12代武時公、後醍醐天皇の詔勅で倒幕の挙兵。探題館に攻め入るも味方に裏切られ
200人前後討死。福岡の地下鉄工事で刀傷のある頭蓋骨が出土、彼らの遺骨との説あり。
同じ頃楠正成の赤坂城落城。嫡子13代武重公との有名な「袖ヶ浦の別れ」もこの頃の事。
正成・正行親子の桜井の別れとそっくりだ。
1335 13代武重公、新田義貞に随い箱根で足利勢と戦う。千本鎗の考案あり。
1532 24代武包公、大友宗麟の謀略で追放さる。攻められて島原で死去。菊池正統絶える。
菊池市は、数多い古代遺跡から無土器時代、縄文の世から栄えていた事が知られている。また、大陸との交易があった事も、貨泉(かせん。前漢と後漢の間の新の貨幣)の出土で推定される。ここは、文化経済の中心地だったのではないか。卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国(やまたいこく)も菊池だという説も存在する様だ。
今は往年を忘れたかの様なたたずまいだ。
菊池神社の長い参道の脇に愛車を駐め、くしゃみと鼻水に苦しみながら小高い城址にある菊池神社に参詣する。
足の不自由な人がゆっくり登っているのを追い越した。あとで「病気を治してください」と祈っていたのが印象的だ。
菊池氏と西郷隆盛が親戚だと、何かの本で読んだ。西郷も菊池の流れを汲み関係はありそうだ。菊池氏は正統が絶えた時全国に散らばった。長野県に一番多いとか。
この菊池氏はいま温泉と渓谷で観光客に人気があるそうだ。旅烏の私は次の目的地に向かう。

蒙古襲来図 観光パンフ
熊本城で清正公に挨拶
西南の役の「激戦地『田原坂』を見て熊本に向かう予定だったが、花粉症に悩みすっかり忘れ、思い出したのは熊本城の駐車場についてからだった。ま、ええか。次回にまわす。
三の丸の駐車場の近くに『細川刑部邸』があった。建坪300坪のこの屋敷は、肥後藩初代藩主忠利公(ただとしこう)の弟興孝公を祖とする刑部少輔家の屋敷である。禄高は、当初2万5千石だったが、藩財政困窮のため。1万石に減らされたそうな。
良く整備された塀の正面の長屋門を入る。左斜めに唐破風(からはふ)屋根に式台付きの表玄関と左側に御次玄関がある。表玄関は、当主と藩主・藩重臣以外は使えない。99年夏に角館の武家屋敷でも見た。格式が重んぜられ始め、差別化が進んでこのような様式になったのだろう。
室内に入ると廊下の鴨居が低い。刀を振り回せない様に配慮されたとか。御客間・表御書院・等々の数多い部屋と別棟に、執務および台所を含めた家令や使用人が起居する建物があった。1階が執務作業部屋で、2階が今風に云えば寮である。責任者の部屋は畳敷き、その他は板張りか畳表だけにいわゆる薄べり敷きだった。家令お部屋からは
玄関や客間が手に取る様に見る事が出来、状況の変化に応じて早く対応出来る様になっていた。管理のよさに感心して後にする。

熊本城
観光パンフ
加藤清正が7年の歳月をかけて築城したこの城は、一説によると対家康戦を想定して、心血を注ぎ難攻不落にしたと聞いた事がある。明治10年の西南の役で、攻めあぐねる西郷隆盛をして「清正公と戦をしている様だ」と言わしめたとか。
築城当時の規模は、主な物を挙げると
面積 98万平方メートル
周囲 9キロメートル
建物 天守3、櫓(やぐら)49、櫓門18、 城門29
という豪壮雄大な構えであった。今の建物は熊本市が復元した物で、まだ工事が続いている。
広大な二の丸公園は、数多くの観光客でにぎわっている。名前は忘れたが、小倉から移封された細川候が下馬して
、ひざまづいて故清正公に挨拶したと云う門から乃公(だいこう・俺)も登城だ。
本丸近くには忍者・武士・姫君など当時の装束の若者達が観光客の写真に興をを添えている。
私の花粉症は段々ひどくなる。ひっきりなしのクサメ、鼻水。周囲の人達が気の毒そうに通り過ぎていく。せっかく来たので天守閣にあがる事にした。ここは、熊本市内はもとより、周囲の山並みが見通せる素晴らしい位置にある。途中の階には何処の城にもある様な物が展示されていた。
熊本には見たいところが数多くあり予定も組んでいた。しかしながら、このような状態では断念せざるを得ない。しばし車の中で休息して出発する事にした。
城内の茶店で食べたサツマイモの「いきなり団子」の甘さが記憶に残る。
人吉温泉の旅情
今宵の宿は、人吉市のグランドホテル鮎里である。17時ころ到着。早速温泉に浸る。ここの温泉は薬木が特徴だ。
桧の香りを身体に付けて、花粉症もすっかり忘れてしまったようだ。
部屋に戻ると、山海の珍味が待っていた。地元の美味い米焼酎で仲居さん相手にちびりちびりと時の過ぎるのもわからない。気が付いた時は真夜中である。椅子にかけたまま寝込んでしまったようだ。ビール大1本、焼酎2合だ。私の酒量からすれば、こんなことはないのだが、花粉症で体力を消耗した様だ。
3月6日(月) 晴 人吉の歴史に浸り、幽霊寺で肝を冷やす。
夜明けと共に目を覚ます。酔いがまだ残っている。窓を開けると冷気が入ってきた。とても気持ちがよい。眼下には
球磨川が流れている。急流とは聞いていたが、水量は少ない。上流のせいだろうか。
霧が立ち込んでいて視界は悪いが、上流の対岸に相良藩の人吉城がかすかに見える。ここからは、こんもりとした小さな山だ。

ホテルの窓から
球磨川と人吉城祉を望む
朝食を1階の大広間で済ませ、いざ出発。相良藩700年の城跡は今は石垣が残るだけだ。建物は明治維新で取り壊された。残念な事だ。本丸は天守は作らず祭壇があったらしい。城の規模は小さい。静かだ。時折鳥のさえずりがある程度で、訪れる者はない。

静かな人吉城内
下城して西に向かうと、武家屋敷・酒蔵が建ち並び突き当たりに寺があった。今回の目的地の一つ曹洞宗永国寺である。別名幽霊寺という。この寺が有名になったのは二つの理由がある。
その一 幽霊の掛け軸
後述の因縁にあるように、1400年の初め実底超真和尚が、現れた幽霊を描いたものである。西南の役でこの寺は焼け落ちたが、この掛け軸だけは残ったという。現在本堂にかかっているのはレプリカで、本物は8月の幽霊祭に見れるそうだ。
今まで見た幽霊の絵は、陰に籠もり怨恨を全面に出し、恐ろしい顔かたちで背筋が寒くなる。いわゆる消極的心理攻撃とでも云おうか。ところがこの掛け軸は、身体で描かれているのは上半身で下は透明だ。掲載の絵では分からないが、眼がすさまじい。目を合わせればそらす事が出来なくなり、金縛りにあって身動きが出来なくなる。その目で心臓もこころも射殺さずにはおくものか、と凄まじい迫力で迫ってくる。私はこれを積極的心理攻撃と区分した。
本堂には誰もいない。カメラを向ける事もなく「南無阿弥陀仏」と唱えて早々に移動した。
池のほとりの座敷でホッとした。目を閉じると実に静かで自然と溶け合う無我の境地を味わった。この経験はたしか、柳生の芳徳寺で味わったものと同じだ。それにしてもこわかったなぁと、近くの机の上にあったパンフレットをとって、背筋がゾウーっとした。なんと、幽霊は目の前の池から出たというのだ。
その二 西南の役 西郷隆盛の本陣
田原坂(たばるざか)で敗れた西郷隆盛は、ここに本陣を置き官軍を迎え撃った。33日間の激闘の末敗れて小林方面に退却していったという。その時の市街戦で当寺も炎上した。明治24年に現在の本堂が再建された。本来本陣は人吉城が最適と思うのだが、何故か分からないが、石垣だけの城よりは、市街が見渡せるこの寺になったのかも知れない。

幽霊の掛け軸とその説明
市内には観光用に武家屋敷・焼酎工場・神社等々があるようだ。興味が湧かず帰る事とした。ときに11時。
帰路で聞いたカーラジオでは、昨日太宰府の天満宮では曲水の宴があったらしい。見れなくて残念。
次回は、野馬追いに古武士求めて三度笠

五 合 庵
倉敷市玉島の円通寺を去った良寛は、郷里に近い分水町
の国分寺境内にある五合庵で20年修行した
1.旅立ち 平成12年8月11日
戻り 8月19日
2.旅先

@彦根城
A妻籠
B善光寺
CDEF良寛堂、良寛記念館、良寛の里、五合庵
Gいわき
Hロックハート城
I岩櫃城祉
J奥飛騨温泉
K乗鞍スカイライン
L古川町
M飛騨高山
N郡上八幡
3.はじめに
母がこの世を去ってはや6年。今年は7回忌が執り行われる。法要は8月15日である。また、7月19日は父の祥月命日に当たる。
私はこの日、倉敷市玉島にある円通寺に参詣した。我が家と同じ曹洞宗永平寺派に属する。この寺は、江戸時代の良寛和尚が18年の永きにわたり修行した寺として知られる。
作務服姿の住職を捕まえて、その後の良寛和尚の行方を聞いた。予備知識がないままの質問なので、返ってくる答がピント来ない。現地で聞きます、と丁重に礼を述べて、その足で倉敷市の図書館に向かった。
私のそれまでの良寛に関する知識は大変お粗末なものであった。
@子供とよく遊んだ
A数十年前に読んだ本の記憶で、里人に死ぬ時の覚悟を問われ、
「病むときは、病むが宜しく候。死ぬ時は、死ぬが宜しく候」
と答えたと。・・これも少し違っていた。詳しくは後述。
若干の予備知識を詰め込み、法事の行きがけに訪ねることとした。
いざ出発。
8月11日(金)晴 突然の思いつき出発。 彦根〜関ヶ原に遊ぶ
当初の出発日は12日であった。この日、毎朝の散歩をすませ、読書に疲れを感じた頃、突然、彦根城と埋木舎(うもれぎのや)を訪ねてみようと言う気になった。早速支度を調え、マンションを飛び出す。時に、12時過ぎ。これも、独り身の無職の気楽さの為せるところである。
16時過ぎ、彦根インターを出る。今回は、カーナビを取り付けたので、道に迷うことはない。
二の丸の駐車場に愛車を休め、係員に案内を問うと、「埋木舎は閉館時間を過ぎたので、又の機会にお訪ね下さい。城は、登城できます」と言うことだった。なんたる不運か。舟橋聖一著すところの「花の生涯」で、若き日の井伊直弼(いいなおすけ)の住まいであり、奥方も女中として仕えていたところ。更に大老就任中、手足となって働いた「長野主膳」や「たか女」と知り合ったところでもある。是非共見たい処であった。次に取っておこう。
表門にある博物館は、かろうじて制限時間すれすれに入館できた。いろいろな陳列の中に、朱色の具足が目に入る。その昔、武田家滅亡後、家康は、兵法は勿論遺臣も召し抱えた。此の朱色の具足は、「赤備え(あかぞなえ)」といって、武田の名将で甲山の虎と恐れられた飯富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶしょうゆうとらまさ)の軍団のものである。因みに、この虎昌は800の手勢で8000の上杉軍(多分関東の)蹴散らしたと記録にあるらしい。家康の斡旋で、井伊直政はこの精鋭部隊をそっくり仕官させ、再編成した。関ヶ原の合戦では、この井伊の赤備え部隊は勇名を馳せた。

玄宮園からの彦根城本丸
(後日撮影)
唐の玄宗皇帝の離宮名から、この名が付けられたようだ
、
博物館から通ずる門から登城する。観光客はまだまだ多い。暑いさなか汗だくになりながら、廊下橋の下にたどり着く。何でも、秀吉の長浜城から移築したらしい。
迂回して廊下橋を渡ると、そこは本丸だ。欧米系の観光客の姿が多かった。猛暑で脱水気味だ。本丸の茶店で飲んだミネラルウォーターの旨さが忘れられない。
本丸の後ろに回り、北方の北門に向かう。鬱蒼と茂った木々は、深山の中を歩いている様だ。
堀の東側を南下、名園の楽々園、玄宮園を左手に見て通り過ぎると、花の生涯の放送の記念碑と井伊直弼公の銅像があった。ぱちりとカメラに納め先を急ぐこととした。明るい内に関ヶ原をゆっくり走ろうという寸法だ。
関ヶ原を走り抜ける
関ヶ原には何度か訪れた。北は伊吹山、南は南宮山に挟まれた狭隘の地で、慶長5年(1600)9月15日、西軍(石田三成)8万2千、東軍(徳川家康)の軍兵(ぐんぴょう)が激突し、天下分け目の合戦が繰り広げられた有名な場所である。

笹尾山
石田三成が本陣を置いた。
関ヶ原の西北部に位置する
向かって左に島津、右に島左近の 陣があった。

桃配り山
徳川家康開戦時の本陣
関ヶ原の東南、南宮山の北麓である
開戦当初、戦況思わしくなく、移動した
結果は西軍の敗北に終わった。数多い作家がこの歴史的な大戦をテーマにして、いろいろな角度からドラマを書いている。いろいろと分析も有ろうが、石田三成の器量不足が敗戦の大きな要因と思う。裏切りと日和見で、実際に戦ったのは、石田・大谷・宇喜田・その他の軍勢であった。
誰そ彼時どき、最後の激戦地であり、家康の本陣後には、未だ人影が多い。石田三成、島津、宇喜田の陣地後をぐるりと見渡す。裏切った小早川の松尾山が何処か確認できなかった。これも次にしよう。
私は、この地を訪れるたびに、往時を思い起こし、血が騒ぎ、飽きることを知らない。
さて、今宵は大垣当たりで宿を探そう。
タイムスリップ妻籠宿
8月12日(土)晴
帰省ラッシュを避けるため、8時前にホテルを出発。しかし、ハイウェイは渋滞が始まっていた。大垣インターから乗ったのだが、一宮から小牧ジャンクション、更に断続的に中央自動車道では中津川インターまで続いたのだ。更に追い打ちをかけて、妻籠(つまご)に向かう一般道でものろのろと続いたのだ。全く精神衛生に好くない。
妻籠宿。思い起こされるのは、江戸時代のはじめに制定された中山道の宿場町であり、島崎藤村である。

妻籠宿
(観光パンフ)
本陣は、島崎藤村の母親の生家であり、最後の当主は、ここに養子に来た藤村の兄だそうな。位置的には、木曽川の支流、あららぎ川沿いにある。江戸時代は相当ににぎわった様だが、明治になり中央本線が離れたところを通る様になり、寂(さび)れてしまった。昭和43年の修復保全運動で脚光を浴びだした。
愛車を東端の駐車場に休め、ぶらりぶらりと歩き出す。盆と夏休みで観光客が多い。人がいないところを撮りたいのだが、まるで人の洪水でそのシャッターチャンスが来ない。人がいなければ、建物は江戸の昔の物なので、タイムスリップしたところだ。その人達のちょんまげ姿や、高島田姿を想像して、侍、やくざ、町人などと人相で色分けして、楽しんだ。
ナビに引かれて善光寺参り
14時ころ長野インターに到着、川中島の合戦場を右手に見て長野市内に入る。善光寺東南の喫茶店の駐車場に車を止めて歩き出す。「暑い!」5分ほどで境内に入ったが汗が吹き出してくる。この暑さもなんのその、信仰の力は強い。善男善女の参詣客でいっぱいだ。かくいう私も「ナビに引かれて善光寺参りなり」。言い伝えでは、引いた牛は観音様の化身とか、私の愛車は観音様の化身か?
時に、15時。暑い盛りである。昨夜冷房を効かせすぎて風邪を引いた様だ。 くしゃみと鼻水が止まらない。ご先祖様の冥福を祈り、車を止めた駐車場で体を休めることとした。

善光寺
車で帰郷する時は、永平寺または善光寺 にお参りしている。
柏崎の居酒屋で舌鼓
新潟県柏崎の駅前に宿を取る。夕食は、自称常連客の駅前の居酒屋である。屋号は、ご当地民謡(三階節」にある
「よね山」である。常連客というとかっこいいが、1〜2年に1度立ち寄る程度で、出勤簿があると隅の方にすごすごと移動することになる。ここの女将は、私と同年代とみた。最初に立ち寄った時に、支払金額のことでもめたことがある。
「高いじゃないか」と私がけちを付けたのではない。逆に「安いではないか、何か漏れているのでは?」とけちを付けたのである。私は大坂や、倉敷の感覚で計算したのだが、違っていた。実際安いのである。それ以降、車で帰省する時に立ち寄ることにしている.
女将は、いわゆる「肝っ玉母さん」で客に慕われている様だ。何気ない客とのやりとりを聞いていると、それが伝わってくる。
雰囲気も、堅苦しくなく、雑然としている訳でもなく、居心地がいいところだ。それに、料理も新鮮でボリュームがある。味加減も、寒い地方ににず塩辛くなく、むしろ関西風だ。こんなに誉めると袖の下を疑われそうだが、さて。
近くに住んでいたら、ほんものの常連客になりそうだ。
うまい地酒を飲み過ぎてあまり覚えていないが、貝の煮物と、柔らかい茄子(十全なす?)の浅漬けが忘れられない。
隣席のカップルの中に割り込んで、物知り顔で何か話していたことまでは覚えているのだが……。
良寛和尚の地に感無量
出雲崎良寛和尚生誕の地
背後に日本海が広がり、琵琶湖の浮御堂
を思わせる
8月13日(土)晴
8時ホテル出発。海岸添えに出雲崎に向かう。朝も早いのに、海岸は海水浴客でいっぱいだ。赤・白・青・・のカラフルな水着とパラソルの群がきれいだ。青い海、そしてその先にうっすらと横たわる佐渡島。そして陸地は、目が覚める様な緑の山々である。ドライブ冥利だ。
出雲崎の生誕の地に到着。生家橘屋の跡地には、海岸近くのためか浮御堂を思わせる良寛堂がある。しばしきょろきょろと辺りを見まわす。どこかの老夫婦が何かを語らいながら散策していた。
ついで、近くの良寛記念館にむかう。受付で
「玉島円通寺のある倉敷から来ました」
というと
「遠いところをご苦労様、ゆっくり見ていって下さい」
と人情深そう。遺品、遺墨等を丁寧に拝観する。ここも結構訪問客が多い。
和島に良寛の里がある。晩年をここ木村家敷地内の庵で過ごし、墓地は隣接の隆泉寺にある。
文政11年(1828)、良寛71歳のとき、三条に大地震があった。
家屋全壊12,900戸、全焼1,200戸、死亡1,600人、怪我人2,700人と記録にあるそうだ。(恒文社、良寛の生涯) この時の良寛の見舞い状に
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこの災難をのがるる妙法にて候」
とあるそうだ。冒頭に「病む時は、病むが宜しく候。死ぬ時は、死ぬが宜しく候」と書いたが、本質は同じ事だ。この頃の手紙に似た文言があるので、記述した。
貞心尼との交流
私は、ここで貞心尼との交流について紙面を割きたい。二人の出会いは、良寛70歳、貞心尼30歳の時である。彼女は長岡藩の武士の娘である。医師に嫁いだが故有って離婚、実家に戻り23歳の頃に仏門に入った。良寛が74歳で死去するまでの愛弟子で、仏道に、文学にそして人の道について語り合い、若い貞心尼には飽きることを知らなかったという。
良寛が木村家の庵に移った頃には、良寛和尚の名も知れ渡り、その徳を慕って貞心尼が訪れたのが最初である。
最初は留守で逢えなかったが、残した和歌へ良寛からの返歌があり、貞心尼は胸躍らせて会いに行った事が想像できる。(以下良寛の生涯から)
貞心尼の歌
これぞこの 仏の道にあそびつつ
つくや尽きせぬみ法(のり)なるらむ
(返歌)
つきてみよ 一二三四五六七八九(ひふみよいむなやここ)の十(とを)
十(とを)とおさめてまたはじまるを
つきてみよは貞心尼へ訪問を促したと解釈される。あとは、一から始まり十で又最初に戻る。つまり仏の道は無限だと云うことである。
和島の良寛の里に残る歌碑
貞心尼の「はちすの露」に逢った時の贈答歌が残されている。
はじめてあひ見奉りて
貞 君にかくあひ見ることのうれしさも
まだ覚めやらぬ夢かとぞ思ふ
師 御かへし
夢の世にかつまどろみて夢もまた
語るも夢もそれがまにまに
・・・・・・・・・
病床にあった良寛を献身的に看病したことは言うまでもない。二人は語らずとも心が通い合う「拈華微笑の恋(ねんげみしょうのこい)」の間柄になっていた。が、清い聖職者にも人間くさい歌があり、思わず知らず微笑が浮かぶのは、私だけであろうか。はちすの露から一部を紹介する。
君は色黒く、衣も黒ければ、今より烏とこそ申さめと言いければ、 良寛が出発する前日の問答
げによく我にふさひたる名こそと、打ち笑ひながら
良寛 いずこへも 発(た)ちてを行かむ 明日よりは
烏てふ名を 人の付くれば
とのたまひければ
貞心 山烏(やまがらす) 里にい行けば 子烏も 私も一緒に連れて行けと貞心がねだる
誘(いざな)ひて行け 羽よわくとも
良寛 誘(いざな)ひて 行かばゆかめど 人のみて 当惑気味にたしなめる
怪しみ見らば いかにしてまし
貞心 鳶(とび)はとび 雀はすずめ 鷺(さぎ)はさぎ 貞心の一途な気持が出ている
烏はからす 何かあやしき 良寛さん、あわてたでしょうね
この後の結末は知らない
良寛と貞心尼が語り明かした庵
現物は戊辰戦争で焼失した。
急な引っ越しで庵の新設も間に
合わず、取りあえず3間四方の
薪小屋を整理して入って貰った
という
臨終と辞世
ここは臨終の地であり、その関連を記述する。死の前年の夏は記録的な猛暑であったらしい。
7月5日発病。胃腸が弱り、しぶり便、下痢、腹痛などの他ガンの様な腫れ物もあった。翌天保2年(1831)1月6日、仏家の作法通り、坐したまま成仏。享年74歳だった。葬式は曹洞宗5か寺で執り行われた。また、真言宗、日蓮宗、浄土真宗本願寺派、同大谷派など11か寺の住職も読経したという。良寛が宗派を超越したことの証左でもある。
遺言について、2冊の本を引用するが、どれが本当やら。
1.散る桜、残る桜も散る桜
2.良寛の辞世を何と人問わば、死にたくないといふたとしてくれ
3.良寛の辞世を何と人問わば、南無阿弥陀仏といふと答えよ
4.師則ち口を開きて、「阿」1声する耳(のみ) 端然として座化す 弟子の證聴の記録 阿と云ったが深い意味か単なる嘆息か不明
5.源信僧都の「往生要集」の読後感なのか、辞世なのか?
我ながら うれしくもあるか 弥陀仏の
います御国に 行くと思えば
(前後するが )朗々たる吟声五合庵に響き渡る
良寛の里を後にして、五合庵に向かう。操作の誤りか、見たりないぞと云う神仏の信号か、カーナビの通り走っていたら元の良寛の里に戻ってしまった。カーナビの支持を無視して走る。
五合庵は、真言宗国上寺の本堂の崖下にある住職の隠居所である。たまたま空いていたから良寛が入ったと云う説がある。また、近くに妹が嫁いできているから、と云うのも理由にあるらしい。
良寛和尚は、庶民に親しまれること、一休禅師と並び称されているが、当人の著書がないので詳しいことは分からない。ここに定住したのも、40歳から12年とも、20年とも言われる。8畳一間の小さな庵である。(冒頭の写真)
五合庵遠景
正面に御仏の像が安置され、毎日修行に励んだのであろう。茅葺きの屋根には草がぼうぼうと生え、昔の様子が偲ばれる。
心の優しさを語る逸話としてこんな話がある。
五合庵の便所は、高さが低く別棟にある。ある時、タケノコが天上につかえて伸びきれないのを見て、良寛は穴を開けてやろうとした。ここまではよろしい。穴を開けるのに、ロウソクの火を使ったからたまらない。便所が全焼したと。
今風に言うと、KY(危険予知)が足りない。また、延焼するのは常識ではないか。さらに、現代だったら、ぼけたのではないか、と云われても仕方がない。・・・良寛さん、ごめん・・・
五合庵を出て、近くの乙子神社の社務所に移り住んだ理由は、この辺にあったのかも知れない。
先ほどから、私が立ち去るのを待っていた中年のカップルがいた。少し歩き出したところで、朗々と詩を吟じだした。
この前で吟ずるために良寛の漢詩を練習してきたのだろう。私の耳が喜んだのは、言うまでもない。ついでに、良寛自身が、五合庵をどのように見ていたのか、彼の詩で概略を知ることとする。
索々五合庵 索々(さくさく)たり五合庵 庵は物寂(さび)しく
實如懸磬然 実に懸磬(けんけい)の如く然り 梁に磬を懸けた様に見える
戸外竹一叢 戸外には竹一叢(ひとむら) 屋外には竹が一叢生え
壁上偈若干 壁上には偈(げ)若干 室内には詩を書いた紙数枚
釜中時有塵 釜中(ふちゅう)時には塵あり 食物なく釜には塵がたまり
竃裏更無烟 竃裏(そうり)更に烟(けむり)なし 竃(かまど)も使わないから烟りはない
唯有隣寺僧 唯(ただ)隣寺の僧有りて 隣寺の僧は良寛を心配して
仍敲く月下門 仍(しきり)に敲(たた)く月下の門 月光の中 門を敲く
良寛和尚に関する出版物は多く、良寛ゆかりの地には良寛会が結成されている。そうとうに深い研究が成されていると思う。私の紀行など、上っ面の上っ面で、本も2〜3冊読んで引用したに過ぎない。それでも私は、現地を訪ね目で確認して大いに満足した。
名胡蝶哀史
8月16日(火)
朝5時ころ、いわき市の実家を出発。長岡ジャンクションから進路を関越自動車道に取る。長い関越トンネルを抜けると、そこは水上である。私は月夜野インターで一般道におりる。
ここは、以前に史跡探訪でうろうろしたことがある。ここに「名胡桃城址(なぐるみじょうし)」がある。物の本の受け売りだが、秀吉の小田原攻めのきっかけとなった城である。南指呼の間に沼田城がある。当時、この両城は、真田一族が統治していた。小田原方はこの2つの城を欲しがっていた。秀吉としては、戦火を交えずに臣下の礼を取らせる意味を含んで、沼田城を与えることとした。名胡桃城は真田昌幸の強い希望を入れて、真田に残した。ところが、小田原北条は策略をめぐらせて名胡桃城を奪い取ったのである。方法は次の通り。
この城は、鈴木主水が城代をしていた。八木節の一節に「鈴木主水というさむらいは♪……」と言うのがある。まさにそれである。小田原方は、鈴木主水に宛てた、真田昌幸の偽手紙で上田城へ出かけさせた。鈴木主水は、途中立ち寄った岩櫃城(いわびつじょう)で偽手紙であることを指摘された。彼は急ぎ取って返したが、城内に裏切りもあり、城は北条方に乗っ取られた後だった。彼は責任を取って切腹した。秀吉が怒ったのは言うまでもない。これが小田原征伐の大義名分になった。
沼田城の址を歩き、名胡桃城を散策したことが思い出され、紙面を割いた次第である。
日本にある西洋の城「ロックハート城」
沼田から中之条・吾妻(あがつま)・長野原・嬬恋(つまごい)真田を経て上田に至る国道145−144号線は、戦国時代に真田一族の軍用道路であった。今はロマンチック街道として観光客のドライブルートでもある。前述の様に私は真田一族の史跡を訪ね廻り、この街道は何度も通っている。そして、その都度気になっていた事があった。それは、沼田の西方10キロ足らずの街道沿いに西洋の城を見かけたことである。商魂たくましい日本人のことである。倉敷のチボリ公園のように、西洋のそれを模して建設したのであろう、と思っていた。

ロックハート城
俳優の津川雅彦氏がイギリスの城を
買い取り、シベリア鉄道経由で日本に持ち込 み、この地に組み立てたという。
ところが、本物を移設したと解り寄る気になったのである。所在地は大理石村である。

城内の風景

見せしめ台
なんでも、不倫がばれると、このように
見せしめになったとか。
以前にイタリアとスペインで城は見学した。私は、古城に郷愁に似たものを感ずる。しかしながら、期待は随分と裏切られた。私が見たところは、観光客を除いては古い雰囲気がそのまま保たれていた。ところが、ここは土産物屋が城内にもあり、折角の雰囲気を壊していたのである。英国のものだけでなく、フランス、ドイツ等の土産もあった。
それでも、私は美しい母子の姿を目撃して、満足したのである。
私は、胸躍らせて入り口に向かった。数多い観光客がひしめき合いながら入城券を買っている。ふと見ると、男女の小中学生を連れた母親が財布をのぞき込み、そして引き返していく姿をがあった。見せてやりたい親心。ノー、と拒否する財布。親の心を汲んで素直に従う子供達。一瞬胸が詰まった。因みに、入場料は大人1000円、中学生700円……。
岩櫃城に戦国の思いを馳せる
岩櫃城は、渋川駅からの吾妻線郷原駅の北方にある。屏風の様に屹立した岸壁がそそり立つ岩櫃山の南麓に築城された。沼田城を中心にしたこの辺り一帯は、越後上杉勢と甲斐武田、小田原北条が手に入れたい戦略上の要点であった。上杉謙信にしては、関東進出の要路であり、是非とも確保したい。武田信玄にしても、小田原北条にしても。謙信の関東進出を阻止する為には、譲れない地区であった。

登山口にある岩櫃城案内図
両者の代表選手として戦ったのが、上杉勢では斉藤氏、武田勢では真田しであった。奪りつ奪られつが繰り返され、真田昌幸の頃には、ほぼ真田氏が手中に収めていた。一時真田氏の本拠地を置いた頃があるが、上田城が完成してからは、最も信頼できる叔父、矢沢頼綱(やざわよりつな)を沼田城代に、従兄弟の頼康を岩櫃城代に据えていたのである。前述の名胡桃城の鈴木主水が、真田氏重鎮の矢沢氏にたいし挨拶に立ち寄ったのもうなずけるではないか。
ちなみに、信幸・幸村の兄弟は少年時代をこの地で過ごした。

忍者屋敷があったとされる辺りから岩櫃城方向
を望む。この一帯は静かな農村地帯である。
屏風の様な屹立した岩櫃やまは見れなかった。
私が、岩櫃城址にしつこいほどこだわり、何度も訪ねたのには理由がある。池波正太郎氏の「真田太平記」を読み、数々の現地の確認の他、武田家滅亡の直前、昌幸が勝頼を迎え入れ、織田の大軍を向こうに回し、3〜5年は持ちこたえてみせる、と豪語した地形を、自分なりに納得したかったのである。
水と食料があれば、狭隘の地形である。常に交代する新手と闘う不利があるが、如何に織田の大軍といえども、対戦するのは各々同人数程度である。極論すれば細い道で、1:1で闘う様なものである。しかも、真田昌幸は秀吉ですら「表裏の者」と呼んだ謀略に富んだ男である。単純な戦をする訳がない。その証左に、後年徳川の大軍と上田城で2度戦い、様々な戦略を用い、翻弄し撃退している。素人なりに分かった様な気がした。
因みに、武田勝頼は真田昌幸の誘いに乗り岩櫃に来ず、裏切られ天目山の露と消えたのである。
奥飛騨慕情の地へ
吾妻から406号線で上越自動車道の松井田インターに向かう。途中の食堂で昼食に蕎麦をとる。しこしことした舌触りで、思わず「美味い!」と口走る。
今宵の宿は、奥飛騨の新平湯温泉の上宝ホテルである。奥飛騨慕情! 歌にある。早く訪ねたい。詩は事実の描写ではない。作者がどう感じ、どの言葉を使ってどう表現するかである。しかし、詩が現実と思いこみ、未だ見ぬ土地にあこがれるのも人情である。かくいう私もその一人である。
期待しながら、長野自動車道を松本インターで降り、通称「野麦街道」という158線を西に向かう。次第に屹立(きつりつ)した山々が両側に迫り、谷も深くなる。
沢渡(さわんど)なるところを通過する。ここは上高地への入り口である。彼の地はマイカー乗り入れ禁止となっているため、旅人はここでタクシーかバスに乗り換えて向かうのだそうだ。
トンネルがやたらに多い。渋滞の天王山トンネルを思わせるほど車が多い。昔の建設のためか、狭くて暗い。そのため、スピードは出せないが、接触事故になりかねない様な、ひやり!、とすることが度々あった。排気ガスが社内に充満する。これが深山幽谷の空気かいな、都会の空気と同じやないか。とついついこぼす。阿房トンネルが出来るまでは、渋滞がひどかったそうだ。それが解決されたんだ、まっ、ええとするか。車が多いのは、盆と夏休みが重なった時期のこともあろう、と自分に言い聞かせる。
平湯温泉街を抜け、夕方17時半頃ホテル着。部屋は1階の和室。スウェートルームである。街道沿いのためか、車馬のかしましきがある。物音一つしない雰囲気を考えていたのは、期待のしすぎだ。
早速、大浴場に飛び込む。

ホテルの露天風呂(刊行パンフ)
翌朝、夜明けと共に入る。白々と明け行く東の空、爽やかな空気、気温。山々を長めなららの露天風呂は、最高のご馳走であった。
夕食は1階の和室の大食堂だ。入浴の身体の火照りもそこそこに出向く。低い衝立でテーブルは仕切られているが見渡せば、老夫婦・家族連れ・女性グループ等々で、賑やかにやっている。一人寂しくビールを飲むのは、乃公(だいこう:おれさま)だけか。
山菜料理をふんだんに使った料理はよかった。疲労と酔いが手伝って詳しくは覚えていないが、朴葉の上で焼き上げ、独特の味噌で食べる飛騨牛は忘れられない。
奥飛騨旅情は、筆者の感受性が乏しいためご勘弁を……。
乗鞍山頂も渋滞だった。


スカイラインからの眺望
朝食を早めに取り出発。カーナビがあるので道筋の心配はない。快適にぐんぐん登る。天気はほぼ快晴。
登るに従って視野が広がり気分爽快となる。
前を走っていた車が、話に気を取られたか、わき見運転の所為か、対向車線に入り更に草むらに乗り入
れた。あわてて元へ戻る。車が少なく事故にはならなかった。中にはおばちゃん達がたくさん乗っていた。話に花を咲かせるのは結構だが、巻き添えは御免だよ、小母ちゃんたち。
桔梗ヶ原なるところで渋滞し始めた。終点は畳平、あと2キロの地点だ。見晴らしがよいので駐車場に車を止めて、しばし一服。のんびりと周囲を見渡す。気温が低く、むしろ寒いくらいだ。因みに海抜と気温をメモしておいたので載せる。(気温は車の温度計)
ホテル 海抜 1000m 気温 21℃
桔梗ヶ原 2500 15
である。下界の炎熱地獄で働いている人達に、爽やかな空気と気温を送ってやりたいものだ。
車の列は、殆ど動かない。駐車している中に情報通がおり、ここから頂上まで2時間以上かかるといっていた。私はあとのスケジュールを考えて、引き返すこととした。下の料金所でも同じような放送をしていたので、結果オーライである。
乗鞍スカイラインは、近々マイカー乗り入れが禁止され、バスで登る事になりそうだ。妥当なところだ。

渋滞の乗鞍スカイライン
飛騨の古川で、鯉の歓迎を受ける
ここ古川町は高山市の北約20キロに位置する。周囲を山で囲まれ、宮川が流れている。
昔から森林資源が豊富な地域で、木こりが建築技術を身につけ、発展させ「飛騨の匠(ひだのたくみ)」として知られる様になった。
昼頃到着。観光客に開放している町役場の駐車場に愛車を休ませる。エンジンを止めると、汗が吹き出す。車の温度計で35℃を示している。暑い訳だ。昼食を摂るのに駐車場の管理人に問う。
「この町で自慢できる料理はなんぞや?」
「飛騨牛なり。店はAとB」
昨夜飛騨牛は食べた。だが、この暑さで体力も大分消耗しているし、これから倉敷まで走るので精をつけるか、と食べるのに都合のよい理屈を考える。塩味がほどよく効いたテキを味わい、満足する。
町内を散策する。古い町並みはよく保存されている、白壁と土蔵が目立つ。家の改修、新築では、町並み保存の方向で進められている。造り酒屋が点在する。勿論白壁に土蔵である。
町内には宮川の支流であろう、清流があり、緋鯉に真鯉がたくさん泳いでいる。エサには不自由しないのであろう。皮が邪魔してこれ以上太れない程である。

古川町の武家屋敷
川を堀に見立てている。
津和野に似ている

静かな町並みにこのような景色が続く
この暑さをものともせず観光客は多い。ゆっくりと景観を楽しみながら散策している。
いろいろと展示館もあったが、家路が心配になり出しそれは次回に回す。気候の好い時分にまたくるよ、と鯉に挨拶して古川をはなれた。
過去何度も訪れた高山を素通りして、郡上八幡を見たいと先を急ぐ。高山市からせせらぎ街道を通り、郡上八幡に近ずく頃、雷を伴う豪雨となった。ワイパーを最速にしても前が見えず、路傍で止むのを待つ。郡上八幡を素通りして、岐阜に近ずく頃雨はあがっていた。
埋木舎(うもれぎのや)、乗鞍、郡上八幡と今回はついていないことが多かった。
今回の走行距離 2500kmなり。
終