鬼太郎小説vol.1
狂剣の記憶(1)
「...へえ、そりゃまた大変だねえ。」
「大変というより不愉快だ。」
「そんな事言っちゃっていいのかい?君んとこには...。」
「そういう意味じゃない。分からんか?相手はあれだぞ。」
「ははは、悪い悪い。で?それで僕には何の用なんだい?」
「ああ...。」
あたりはすっかり暗くなっていたが、裏手にでも入り込まない限り
は、都会に明かりの差さない所はほとんど無い。
街灯に照らされた歩道に、さほど大きくもない建物から、カバンを
抱えたスーツ姿の男がすっと現れた。
「あ、はい。そちらは今週中にでも...。
分かりました。ありがとうございます。じゃ...。」
事務所風のその建物の玄関に向かい軽く会釈すると、男はそのまま
歩きだした。
年は30代半ばぐらいと思われるその風貌は、どう見ても「何処に
でもいるサラリーマン」にしか見えない。それどころか、少々細身な
上、人よりちょっとトロそうというか、どこか頼りなさそうな印象す
ら受ける。
180cmはありそうな身長がなければ、おやじ狩りの格好の的だっ
ただろう。
少しくせの付いた短い髪に、垂れ気味だが大きめの眼。それに対し
て少し小さめの瞳。身長以外は特に目立つ要素は何も無い。
家路についているのか、これから一杯やる予定なのか、彼は鼻歌混
じりに、ゆったりした調子で歩いていた。
すると、
「キャン、キャン!!」
と、突然、通りかかろうとした脇の路地裏から、悲鳴にも似た声を
上げながら、一匹の薄汚れた子犬が飛び出してきた。
「うわっ!!」
思わず一歩後ずさったが、子犬はそのままどこかへ走り去ってしま
った。
すると、今度は路地裏から人の声が聞こえてきた。
「けっ!ここいらはオレ様のナワバリなんだよ!犬の子一匹にだっ
てめぐんじゃやんねーよ!!
...ってなんだよ、オイ。今日はろくなもんがね〜じゃね〜かよぉ
〜〜...。」
「・・・・・・。」
男は、妙に納得したような表情を浮かべると、ひょこっと路地裏に
顔を出し、中の人物に声を掛けた。
「お〜い...、ねずみ男君かい?」
その声に振り向いた男の顔は、生ゴミまみれになっていた。
「いや〜〜、まさかあ〜んな所で二宮のダンナに会えるなんてね〜
〜え。
おまけにま〜たごちそ〜になっちまったりして、ホントすいませ
んねえ!いやいやマジで。」
ねずみ男と、二宮と呼ばれた男は、横道の年期の入っていそうなラ
ーメン屋に来ていた。
積み上げられたドンブリを目の前にしながら、ねずみ男は満足そう
に頭を下げた。
「気にするような事じゃないよ。子犬にもちょっと分けてあげられ
るくらいの余裕は欲しいと思ってさ。」
長身をもてあますかのように、椅子に寄り掛かる様に座っていた二
宮は、軽く微笑みながら返した。
「あっりゃ〜、こりゃまた恥ずかしいトコ見せちまいましたかねえ
〜、面目ねえなあ。」
「それは別にいいけど...、最近は収入無いのかい?ほら、この前の
仕事はいくら入ったんだい?そういえば。」
その言葉を聞くと、ねずみ男の表情はすっと曇ってしまった。
「あ〜...、まああっしも、世話んなってるダンナの紹介でしたから
...あんまりこういう事は言いたかねえんすけどねえ...。」
「...何、どうしたの?言ってもいいよ、別に。」
さっきまで椅子に背中を預けていた二宮も、ひょいと身を乗り出し
てきた。
「...っつ〜か......、なんすかあのダンナぁ!!オレだってちゃ〜ん
とやる事やったって〜のに!!
『今回は私もただ働きだ。君に渡す報酬はない。』
とかなんとかぬかしちゃって〜〜!!
挙げ句の果てにゃあ、オレがなんか言おうとしたら、オレまで消
しちまおうとしたんすよおお〜〜!!!」
ねずみ男は涙ながらに訴えてきた。
「...あっちゃ〜〜......。」
話を聞いた二宮は、右手で頭を抱えるようにしてうつむいてしまっ
た。
「...ったく、彼もケチな事するなあ...。それぐらい払ってあげれば
いいのに...。」
言いながら頭を起こした二宮は、そのままどさっと背もたれにもた
れかかった。
「でげしょ!?ダンナの方からなんとか言っといてやってください
よ!おかげで俺ぁ、今日もせっせとゴミ漁りでさぁあ!!」
その一件のせいだけでは無かったが、ねずみ男はとりあえずそうい
う事にしておいた。
「ふぅん...。」
「まったく...あの人ぁほんっとにダンナのお友達なんすかい!?
信じられねえっすよお。」
「...お友達...?」
組んだ手の平を前に向けて、軽く伸びのポーズをしていた二宮は、
そのまま固まってしまった。
片眉は少しつり上がって、目線は上部をとらえたまま動かない。
「だ...ダンナ?そんな悩まなくても...。」
ねずみ男も、おもわず口を入れてしまった。
「...お友達...っていうのかなあ、やっぱり。ん〜あんまり実感ない
けど...。」
ようやく姿勢をといた二宮も、ぽつりと呟いた。
「...は〜〜.....、んじゃあ、ダンナはいままでどんな風に?」
「...幼なじみのくされ縁...ってとこかな?向こうもそんなもんだと
思うけど?」
「あ〜...、なるほどねえ、なんとなく分かりますわそれだったら!
いや、なにオレにもそんな感じのヤツがいましてねえ。まあそい
つときたら、オレがいなきゃあな〜んにも出来ねえ様なヤツでして
...。」
ねずみ男のハッタリは、しばらく続いた。
「いやいや、ほんとにど〜もゴチソウさんでしたあ!!
このねずみ男、このご恩はいっしょ〜お忘れやしません!!いや
いやマジで!」
いつもの台詞を口にしながら、ねずみ男はいそいそとのれんをくぐ
った。少し遅れて、二宮も顔を出す。
「別にいいって。こっちも迷惑かけちゃったみたいだしね。」
「あ、いやいやそんな!ダンナのせいじゃないっすよお!悪いのは
あ〜の黒ずくめのダンナですって!っとにねえ。」
「そうだねえ...、今度会ったら一言いっておくよ。」
「いや〜、ありがとうごさいやす!どもども!」
そんな会話をしていると、
「...ん...?」
二宮は、ふとねずみ男の背後のほうを見やった。
「ん?どうしやした?ダンナ。」
「...くっくっく...、人間にめぐんでもらうとは、相変わらず惨めな
生活だな、ねずみ男?」
「...ああ!?」
聞き覚えのある声に、ねずみ男も振り返る。
すると、背後の暗闇から、足音もなくぬっと和服姿の老人が姿を表
した。
「てっ、てめえ!ぬらりひょんじゃねえか!!おめーに言われる程
俺ぁ落ちぶれちゃいねーよ!!」
相手の姿を確認すると、ねずみ男は猛然と反論を始めた。
「ぬらりひょん...?」
「ふん...そんな事はどうでもいい。どうだ?お前にぴったりの仕事
があるんだが...。」
「けっ!今までおめーの言う通りにやって、ろくな事なんざひとっ
つも無かったっつーの!!
行きやしょうぜダンナ!」
二宮を伴ってその場を去ろうとするねずみ男。だが、
「へえ〜、この人がぬらりひょん?なんか見た目はあんまり人間と
変わんないねえ。」
二宮は、興味深そうにぬらりひょんを眺め始めてしまった。
「だ、ダンナ!!何やってんすか!!こんなのと関わっちゃいけや
せんぜ!!」
「ふん...、お前達の話も少し聞いていたぞ。その男は...あのいまい
ましい陰陽師の知り合いらしいな。」
「げ...!!」
思わず青ざめるねずみ男。
「ちっ、ちげーよ!さっきだって友達じゃねえって言ってたんだか
らな!!」
「何でもいい。ちょうどいいな...その男も使えそうだ。」
二宮に視線を移し、ほくそ笑むぬらりひょん。
その言葉を聞くと、二宮が口を開いた。
「へ?何、僕を人質にでもするつもり?...いや〜、やるだけムダだ
と思うけど?
彼は、僕の心配なんかしないよ?」
「ふん、やってみて損はなかろう。どのみち人間一人くらい捕まえ
るなど造作もない事だ。」
そう言うと、ぬらりひょんはすっと一歩近づいてきた。
「だ、ダンナ!早く逃げやしょう!!
おりゃ、これでもくらいやがれ!!」
そう言って、ねずみ男はさっとぬらりひょんに向けて尻を突き出す
と、渾身の力を込めて思いきり屁をぶちかました。
その瞬間、半径5mほどが一瞬にして黄色い悪臭に包まれた。
「ぶはあっ!!貴様なにを...げっげほっ!!」
ぬらりひょんの咳き込む声を聞いたねずみ男は、二宮の方に向き直
り、声をかけた。
「さ!今のうちに...ってダンナあ!?」
...風も無いのに、屁がうまく一方向にだけ流れてくれる筈もない。
すぐ近くにいた二宮は、白目をむいてぶっ倒れてしまっていた。
「だ、ダンナあ!!しっかりしてくださいよお!!」
あわてて二宮をゆすり起こそうとするねずみ男。
そんなねずみ男の頬に、ぴたっと冷たい物が当てられた。
「なめた真似をしおって...、逆らえばただでは済まさんぞ...?」
完全に怒ってしまったぬらりひょんの刀が、ねずみ男の目の下で、
ぎらりと光った。
「ひ...いいいっっ!!」
東京も郊外になると、さほど狭苦しさも感じられない地域も多い。
住宅街を少し離れた小高い坂の上に、年期の中に風格すら漂わせた
一件の純和風造りの屋敷が建っていた。
屋敷の大きさよりもだいぶゆとりを持って建てられた塀が、敷地の
広さを伺わせる。
その屋敷の方に向かって、一人分の下駄の音が近づいてきた。
その音の出所である一人の男は、都会の街中ではさぞかし目立ちそ
うな、しかしこの屋敷の周りの風景にはなんともしっくり溶けこんだ、
黒ずくめの和装をさっそうと着こなしていた。
年は30代半ばくらいだろうか。年の割にはだいぶ着慣れている様
子である。
客人として出向いたのであれば、少々アバウトにも見える黒の着流
しの上には黒羽織、その胸元と背中には、家紋ではあろうが、何か別
のいわれもありそうな、五芒星を型どった紋が印されている。
黒足袋に、履いている下駄もまた黒塗りだが、鼻緒は何故か女物の
ような赤い色をしている。
ほかに黒くないのは、帯と中に着込んだじゅばんぐらいだが、多少
なりとも和装に通じた人間ならば、少なからず違和感を覚えたであろ
う。
何故なら、彼の着ている赤いじゅばんは、本来ならばこれまた女性
用のはずなのだ。
ちなみに、じゅばんとは和服の下着のようなものである...。
そんな服装の不思議さとはうらはらに、当人はどこからどう見ても
女っぽくは見えない。
全体的に多少細身ではあるが、きゃしゃと言うより骨張った印象を
うける。
だが、何故か決してひ弱そうには見えない。それどころか、うかつ
に近寄る事すらためらってしまいそうな、出所の分からない奇妙な威
圧感を常に放っているようだった。
彼の眼が開かれたら、その感覚はさらに強くなるだろう。
眼が弱い方なのか、彼は眼を閉じたまま歩いている。
だが、それもまた彼の発する、神秘的とも似た不思議な存在感、そ
してどこか得体の知れない、未知の恐怖にも似た独特の迫力を更に引
き立てていた。
目下まで伸ばされた前髪の下の眉は、常に一定の高い角度を保って
おり、それとつながるように深く刻み込まれた眉間の雛、そして口の
角度といい、なんとも機嫌の悪そうなしかめっ面は、まるで顔の筋肉
が硬直してしまっているかの様に堅く留まっている。
威圧感の一部は、そこから出ているのは間違い無い。
虫の居所の悪そうな顔をしたまま、彼は屋敷の正門とおぼしき場所
までたどり着いた。
屋敷の大きさや塀の長さに対して、高さは塀より頭一つ出る程度の
門は少々小ぶりにも見える。
そんな事は気にもせず、男は着流しの中に収めていた腕を羽織の袖
にすっと通すと、軽く扉を押してみた。
その手には、昔の人の旅支度か、もしくは忍者のような黒い布製の
手甲が着けられている。
かんぬきなどは掛けられていないらしく、手に少しの重みを感じさ
せながら、きしむ様な音と共に門は僅かに開いた。
開いている事を確認すると、男はそのまま扉を押し開いた。
ぎぎいーっと少し気になる位の音をたて、開いた扉を潜ると、閑静
な情緒を漂わせた和風庭園と、その中心を横切る様に埋められた飛び
石、その先に建つ大きな口を開けた玄関が目に入る。
そのまま一、二歩進んだあたりだろうか、
「あ......どちらさまでしょうか?」
玄関から、家の者とおぼしい中年くらいの女性が姿を現した。
門の音でも聞きつけたのだろうか。
その姿を確認すると、男はゆっくりと眼を開いた。
その虹彩は、まるで血の様な紅い色に染まっていた。
開かれた眼もまた、威圧感を覚えさせる鋭さをもっている。
「こちらに依頼を受けた者です。なんでも骨董のことで...。」
「あ...!そちらの方でしたの、これは失礼致しました...!」
男の言葉を聞くと、女性は少しあわてた様に、うやうやしく頭を下
げた。
「こんなに早く来て頂けるなんて思ってもおりませんでしたわ。
さ、どうぞお上がりになってください。主人はこちらにおります
ので...。」
奥方らしい女性は、先ほどとはうって変わった明るい表情を見せる
と、そのまま男を屋敷内へ招き入れた。
奥の間まで案内される途中、いやもっと早いうちからだったのかも
しれない。男は、屋敷内に何か奇妙な空気を感じていた。
重苦しさとはまた違う、例えるなら、寒気と熱気が、互いの存在感
を相殺しあう事なく共存している、とでもいうのだろうか。
それに加え、時折背筋に響く様な緊張感と、じれったさにも似た、
出所の分からない奇妙な焦燥感。そんな空気の様な気配が、どれくら
いの範囲かはまだ分からないが、屋敷を覆っているようだった。
常人にはここまでは感じとれないかもしれないが、こんな中に住ん
でいるというのなら、住人に何らかの影響がでない方がおかしい。
男は、閉じられていた眼を再び開かせた。
そうしていると、
「こちらです...。」
と、女性が一つの障子戸の前で足を止めた。
その前で、女性はかかとを立てて腰を下ろすと、
「あなた...お呼びしていた拝み屋の方がいらっしゃいました。」
と、中に向かって声を掛けた。
「お...おお、そうか!早速お通ししなさい。」
少々年期の入った男性の声が中から聞こえた。少し力が抜けている
ようにも感じられた。
女性はそのまま戸に手を掛け、ゆっくりと引き開けた。
「どうぞ、お入りください...。」
女性に促され、男はそのまま部屋へと足を踏み入れた。
中では、一人の初老の男性が、床の間の前に腰を降ろそうとしてい
た。その目の前には、もう一つ座布団が敷かれている。ついさっき用
意してくれていたのかもしれない。
「さ...どうぞこちらへ!いやいやこんな所までわざわざご足労願っ
てしまいまして...しかもこんな早く来ていただけますとは、本当に
有難うございます!」
男性に言われると、男はそのまま座布団に腰を降ろした。
男性は、心なしか顔色がすぐれないようだった。
そういえば、色白かとも思っていたあの女性も、思えば同じような
顔色だったかもしれない。
「私が、ご連絡致しました、当家の主であります九条です。
陰陽道いかるが流の一刻堂さん...ご評判は聞いておりますよ。
なんでも、国内でも有数の術者さんだとか...!
いやそれにしても、思っていたよりお若い方ですな。私はてっき
り...。」
「まずは...詳しいお話をお聞かせ願えますか?
正直に言いますと、いつもご依頼を受けるか否かはそれから決め
ておりますのでね...。」
一刻堂と呼ばれた男は、九条の言葉を淡々とした口調で遮った。
「そ...そうですか...、それでは...。
おい、あれを...。」
障子の向こうにいた女性に、九条は何かを促した。
「あ...あれをですか...!?......分かりました......。」
女性は、「あれ」とよばれたものに、何らかの恐れを抱いている様
子ではあったが、そのまま下がると、どこかへ行ってしまった。
九条は、そのままゆっくりと話しだした。
「お手紙にも書いたと思いましたが...私は趣味で骨董を集めており
まして...、とは言っても、値打ちがどうとかいうのはあまり気にし
ませんで...よく分からないとも言いますがね...。
...それで...今から二ヶ月ほど前でしょうか...。」
そこまで話すと、すっと九条の表情は曇り始めた。
「私が...なんだか無性に気に入ってしまった物がありましてね、よ
うやくそれを、二ヶ月前に手に入れる事が出来たんですが...。」
そこまで聞き終わった瞬間、一刻堂は、異様な気配を背後に感じと
った。
そのまま振り返るが、後ろには何もない。
だが、その気配は、障子の向こうの廊下の、自分から見て後部の方
向から漂ってきているのだという事に、一刻堂はすぐ気がついた。
それは、先ほどから感じていた、奇妙な気配の中心であることには
間違いなかった。
そこらに漂っているものよりも、ずっとはっきりしたものを感じと
ると、一刻堂は、”それ”が何なのかを確信した。
( ーーー妖気かーーー )
それから間もなく、一刻堂の見ている方向の廊下から、一人分の足
音が聞こえてきた。
「...分かりますか...!?いやはやさすがですな...。」
九条も感心したようにつぶやく。
そうしている間に、またゆっくりと障子が開かれた。
先ほどの女性が、1mより少し短いくらいの、細長く、だいぶ古び
た木箱を、重そうに抱えて現れた。
それは、一刻堂と九条のちょうど真ん中あたりに置かれた。
「...これなんです...正確には、この中身ですが...。」
「拝見してよろしいですか?」
「...どうぞ...。」
間近に置かれたその箱の中からは、奇妙な存在感と、抑えようとし
てもなお漏れ出してくるような、あくの強い妖気がひしひしと感じら
れた。
近くに在るだけで疲労しそうになるその箱の蓋に手をかけ、一刻堂
はゆっくりと引き開けた。
中には......一振りの古い日本刀が収められていた。
「...それを手に入れてから...なんと言いますか...家の雰囲気が暗く
なったようにも思えたんですが...それだけでなく...。」
「...持ってみてよろしいですか?」
「あ...どうぞ...。」
その刀はだいぶ古いもののようだった。おそらく江戸時代以前に造
られたものだろう。
その刀を、二度と抜かせんとする様に、これまただいぶ古びた縄が
ぐるぐる巻きに柄と鞘とを縛り付けている。
そして、その上には、おそらく縄と共に長い間役目を果たさんと頑
張ってきたのであろう、端にあちこち細かい破れを持ち、色もすっか
りくすんでしまった一枚の札が貼られていた。
一刻堂は、その札に目を止めていた。
すっと手を伸ばし、刀を掴む。
と、その瞬間、一刻堂は刺すような視線を感じた。
その出所は、自分の手元からだという事は明らかだった。
強烈、というより、他に見えるものが無い、といった感じの一直線
で、まるで空虚な視線。
それは一瞬だけのものだったが、刀から漂う妙な気配は、直接触れ
る事でよりいっそう生々しく感じられる。
「その刀が来てから...家の者が、みな同じような...妙な夢を見るよ
うになったんです...。」
「...どのような夢ですか?」
「はい...。あれは...江戸時代かそのあたりのような光景で...。どこ
からともなく...けたたましい悲鳴...いや、叫び声と言った方がいい
...。おそらく...ああいうのを”断末魔”と言うのだろうと思う様な
声があちこちで響いて...。
気がつくと...辺りが真っ赤になっていて...!それが...血だと気づ
くのに時間がかかるくらい...本当に辺り一面真っ赤に染まってしまっ
ているんですよ...!!」
九条の顔がみるみる青ざめていく。
「そして...その中で......、町の人たちかと思われる連中が...!
どんどん...どんどん次から次へと......!!”切り刻まれて”いく
んです......!!
”斬る”とは明らかに違います...。めちゃくちゃに”切り刻まれ
る”んですよ...!! う...っ!!」
九条は、その光景を思い出しただけで、吐き気をもよおした様だっ
た。
「大丈夫ですか...?大体分かりました。その位で結構ですよ。」
「は...はあ...。
...とにかく...夢にしても、妙にリアルというか...生々しいものな
んです...!
おかげで使用人達はほとんど辞めてしまい、我々も...眠るのが恐
ろしくて......!!」
九条は憔悴しきった様に吐き漏らした。
「......なるほど。お話は分かりました。」
「もし...その刀に何かが取り憑いているのでしたら...なんとか祓っ
ていただきたいのです...!!」
「・・・・・・。」
一刻堂は、少しの間の後に口を開いた。
「...結論から申しましょう。」
「は...?...はい......。」
九条に少しの緊張が走る。
「これは...すぐに元の持ち主に返すべきです。」
「......は......!?」
九条は面食らってしまったが、すぐに聞き返した。
「な...何故です!?祓ってはいただけないんですか!?
まさか...そんなに強力なものだと!?」
「...返すには、何か不都合でも?」
「は...!?い、いや、なにせせっかく高い金を出して買ったもので
すよ!?それをそんな簡単には...!」
「...これは...確かにかなり強力な妖気を持ったものです。置いてあ
るだけで、家の中にここまでの影響を及ぼすのですから...。
ここに置いておくのは...大変危険です。」
一刻堂は続けたが、それでも九条は納得できない様子で食い下がっ
た。
「ですから!!それであなたをお呼びしたんじゃないですか!!な
んとかできないんですか!?せめてもう少し何かしていただくこと
は...!?」
一刻堂は一つため息をつくと、すっと顔を上げ、まっすぐ九条の顔
を見据えると、そのまま口を開いた。
「これは...盗品でしょう。」
「な......!!?」
一瞬九条の顔が凍り付く。
「な...なにを根拠にそんな事を...!!どこにそんな証拠があるって
いうんですか!?」
突然、堰を切ったように怒鳴りだす九条。
一刻堂は、身じろぎもせず九条に答えた。
「この札ですよ。」
言いながら、一刻堂は九条の方に、刀に貼られた札を向ける。
「...札...!?...その札が...いったい何だっていうんですか!?」
「この札は...おそらく、当時の寺院の大僧正あたりの、かなりの高
僧の手によって作られた、相当強力なものです。
にも関わらず...その妖気を完全には抑える事ができずにいる。近
くにいるだけで、その影響をうけてしまう程に。」
「そ...それが一体なんだと...!?」
「おそらく、元もとはどこかの寺院にでも保管されていたのでしょ
う。ちゃんとした封印場所が造られなければ、影響を抑えて、こん
なものを何百年も保存しておく事など、出来る訳がない。
......そして...、そんなものを、寺院の人間がそう簡単に譲り渡す
訳は......無い。」
言い終わると、一刻堂は刀を箱に戻した。
「......!!?
そ...そんなのはあんたの推測でしかないじゃないか!!そんな事
で人を泥棒呼ばわりするなど...!!」
「少なくとも...あなたはこれが盗品である事は知っている筈だ。
事を荒だてるつもりはありません。悪い事は言わない、返した方
がよろしいでしょう。」
言いながら、一刻堂は箱の蓋を閉じた。
「......ふ...ふざけるな!!そんなのが証拠と言えるのか!?
あんたは黙って、自分の仕事をこなせばいいんだ!!余計な事に
口を挟まんでもらおうか!!」
逆上してしまった九条の言葉を聞くと、一刻堂はすっと立ち上がっ
た。
そして、そのまま障子の方へくるりと身を向け、すたすた歩き出し
てしまった。
「な...!!どこへ...!?」
「私は祓う気はありません。何が最善の方法か...よく考えてみるん
ですな。」
それだけ言うと、一刻堂はさっさと部屋を出ていってしまった。
「な...ちょっ...ちょっと待ってください!!」
「あ...どちらへ!?」
途中で擦れ違った女性も気に止めず、一刻堂は屋敷を後にした。
自分の屋敷に着く頃には、もう日は沈みかけていた。
夕焼け空が見えているにも関わらず、左右を竹薮に囲まれた、門へ
と続く登り坂は妙に薄暗い。
さして高くない、長い塀に挟まれた坂道を登っていくと、その先に
は、幅は無いものの、屋根が付けられ、その下に古びた偏額がかかげ
られた、なんとも静かな空気を思わせる、和風造りの古い門構えが目
に入る。
偏額には、横書きで、向かって右から『一刻堂』と書かれている。
門柱二つには、それぞれ一つずつ提灯が掲げられていて、それには
大きく五芒星が描かれている。
まだ明かりは灯ってはいない。
引き戸になっている玄関を開け、一刻堂は中に入る。
少し歩くと、平屋造りの日本家屋に着く。そして、その入り口には
巫女装束の一人の女性が、主の帰りを待つ様に正座していた。
年は20代前半位に見える。が、何故か彼女の長い髪は、白と銀の
中間ぐらいの透けるような色をしている。
本来なら違和感を感じるだろうが、彼女の美しさはそれすら魅力の
一つにしてしまっている。
『美しい』、というよりは『可愛らしい』と言ったほうが合ってい
るかもしれない。凜と控えたその姿ですら、甘いものが感じられる。
『キュートな色気』という表現が、彼女には一番似合っているかも
しれない。
髪同様、肌も透けるように白く、美しい。
こんな禁欲的な姿でも、彼女と擦れ違って振り返らない男は皆無だ
ろう。
長い髪は、普通の巫女の結び方とは違い、根元だけで、幅の少しあ
る、白く細い、湾曲したリボンの様な布で一本にまとめられている。
「お帰りなさいませ。」
澄んだ声で出迎えた彼女は、両手を少し前に出し、すっと頭を下げ
た。
「......? 御主人様...?どうかなさいましたか...?」
頭を上げると、付き合いの長い者しか分からないような、このしか
めっ面の男の微妙な表情の違いに気づいた彼女は、なにげに主人に質
問した。
「どうもこうもない。依頼は断った。」
それだけ言うと、一刻堂はすっと家の中へ入っていった。
「え......!?まさか、嘘だったとか...?」
後を追いながら、彼女は再び質問を投げかける。
「いや、相手はおそらくかなりやっかいな奴だ。
だが、だからといって盗品を祓うなどできん。」
「と、盗品!? ...そうだったんですか...。」
「ああ。だがあのままほおっておく訳にもいかん。とりあえず明日
もう一度様子を見てくる。」
「あ...明日...!?...ですか...?」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は目を見開いてその場に立ち止まって
しまった。
「・・・・・・。」
後ろに少し振り返りながら、一刻堂も立ち止まる。
「あ...す...すいません...。」
それから、ほんの少しの間の後、前に向き直りながら彼は口を開い
た。
「...琥珀(こはく)。」
「は、はい!」
琥珀(アクセントは頭)と呼ばれた女性は、あわてる様に返事を返
した。
「留守番ぐらいホリンにでもやらせる。お前は約束を破るような事
はするな。」
「え......?」
それを聞いた琥珀は、少々戸惑ったような、だが先ほどより少し和
らいだような驚きの表情を見せた。
「私のせいで約束が駄目になったとでも言うつもりか?留守番くら
いならお前でなくともできる。」
それだけ言うと、彼はそのまま歩きだした。
「あ...ありがとうございます!!」
琥珀は、そう言いながら大きくぺこりと頭を下げた。
そのまま主人とは逆方向に去っていった彼女の足取りは、心なしか
弾んで見えた。
一刻堂は、そのまま屋敷の奥の方へと歩いていた。すると、
「おいおいおい、ずいぶん優しいもんだなぁ、ご主人サマぁ?」
と、どこからか声がしたかと思うと、突然、一刻堂の目の前にぶら
ん!!と一人の少年の顔が落ちてくるように立ちふさがった。
「・・・・・・。」
よく見ると、逆さにぶら下がっているように見えるその少年は、膝
を棒か何かに引っかけるように曲げてはいるものの、その脚には何の
支えも無い。
「・・・・・・。」
一刻堂は、目の前の顔の横を通り過ぎると、そのまますたすた行っ
てしまった。
「...って、おいおいおい、ちょっと待てよ。」
少年は、そのままくるっと器用に身体を回転させると、仰向けに寝
転がるような姿勢をとり、そのままぷかぷかと浮かびながら男の後を
ついていった。
12、3才位のその少年は、実に変わった出で立ちをしている。
布を何枚も身体に結び付けて服の様にしているらしく、見えている
だけで、頭に巻いているものも含めて6枚は身につけている。
上半身には、左脇から右肩にと、右脇からおそらく左脇上部にかけ
てそれぞれ巻き付けられて、右肩には結び目が見えている。
そして、左肩から右脇にかけて、大きな布を半身を覆う様に着けて
いる。左腕が動かしづらそうだが、これが彼流のおしゃれなのかもし
れない。
下半身は、二枚の布を短い腰巻きのようにつけている。腰の所で、
布が折られて内側に入り込んでいるので、何かで結んでからひっくり
返して垂らしているらしい。
頭には、ターバンのように細めの布を簡単にくるくる巻き付けてい
るが、どうやら本人もきっちり巻くつもりは無いらしく、巻いた間や
下部から黒い髪があちこちはみ出ていて、頭頂部はむき出しのままで
ある。
見た目年齢の割には少々たくましげな眉毛と、大きな眼とそれに対
して小さめの瞳が印象的な顔立ちは、全体的に小生意気さと不敵さを
足して2で割ったような表情に染まっている。
「おいおいおい、留守番ぐれぇオレにでもってのはどーいう意味だ
ってんだこら。
琥珀も琥珀だ。おめぇらオレに留守番一つさせんのがそんなに不
安かあ?」
ガラが悪いのか適当なのかよく分からないしゃべり方で、ホリンは
一刻堂にからむ様に話しかけた。
「...君の嫌いな事は、じっとしている事と退屈だろう。嫌がると思
った...というのはあるな。」
「けーっ、バカにすんない。んーなガキでも出来る一番簡単なお手
伝い〜なんざどーってこたねぇぜってんだ!」
くるんとうつぶせ姿勢になりながら、ホリンも続ける。
「知らない誰かが来たら?」
「ぶちのめす。」
「...やはり他の誰かを呼ぶとしよう。」
「だっ、待あーてって!!冗談だってのじょーだん!!」
「...あれ?ホリン君、御主人様は?」
いつのまにか一刻堂を追うのをやめて、柱に寄り掛かって廊下の隅
に座っていたホリンに、琥珀が問いかけた。
「...んああ、歌淋(かりん)のとこみてえだけど。」
「書庫に? 帰って早々? ...そんなにやっかいそうな相手なのか
な...。」
琥珀の顔が、不安の混じった色に染まりだす。
「...べっつっに大丈夫だろ?ハナから一人で行くつもりみてえだっ
たし...。
...しっかしあいつも、きっぱりしてんのかしてねえのか分っかん
ねえヤツだなあ。」
「うん...。でも...この前は、そういう計算とか関係無しに...お一人
で行かれちゃったでしょ...?」
「!! おいおい、こないだのあれは特別だろ?あれは自分一人に
課せられた問題だからって言ってたじゃねえか?
それに、勝負自体は圧倒的に有利だったみてえだし...。」
言いながら身を起こしたホリンは、さらに続けた。
「それにもしあれがうまくいってたら、それはそれでまずかったん
だろ?だったら本気でやんなくて正解だったじゃねえか。」
「あ......、そっか......!」
少しきまりの悪そうな顔をして、うつむいてしまった琥珀を見て、
ホリンは軽くため息をつくと、彼女に問いかけた。
「お前...まだ気にしてんのか?ぬらりひょんのヤツが入り込んで来
たのを気づかなかった事。」
ホリンの問いに、琥珀は目を見開かせた。
「別にあれはお前一人のミスじゃねえよ。あんときゃ誰一人気づか
なかったんだ。おっさん以外な。
それに、気づいてどうにかしようとしたって、あんにゃろは約束
がどうとか言って、うまい事逃げただろおよ。五百年も前の契約書
を盾にして。」
そう言って一息つくと、ホリンは頭の後ろで手を組んで、再び柱に
寄り掛かった。
「あんにゃろおにゃ、オレだってムカついてんだ。
五百年も前の約束なんざ突き付けて、言うこと聞かせようってん
だからな。
でも、だからって、あん時何か出来たんじゃないか、なんて、考
えててもしょうがねえだろ。別に実害は残らなかったんだから、い
い方だと思うぜ。オレは。」
「...ホリン君...。」
「それに、別にあいつぁ、お前を信頼してない訳じゃねぇぜ?んな
事ぐれえでどーこー言う奴だったら、オレぁとっくにぶちのめして
るぜ。」
「あ......。」
その言葉を聞いた琥珀は、ようやく表情を和らげた。
「...ま!深く考えねーこった!オレなんかも六百年以上生きてると
よ、いちいち昔の事なんざ気にしてらんなくなっちまうからな。そ
の方が気楽ってもんだぜ?経験的に、な。」
琥珀の様子を見て、ホリンもまた、いつもの軽口を取り戻した。
「うん...そうね...、ありがと。」
琥珀も、応える様に笑顔を見せる。
「んーじゃ、さっさとメシにしちまおーぜ!もう暗くなっちまうし
よ。」
「あ、駄目よ。御主人様がお戻りになるまでは...。」
「でえ!?マジかよお!?あいついっぺん書庫行ったら、い〜つ戻
ってくっか分かりゃしねーぜえ!?」
「...って、ホリン君、もの食べなくても平気じゃない。」
「食わなくてもへーきってだけで、別に食えねーって訳じゃねーよ
オレは。」
「...ガマンしなさい。」
「なんだよおー!!」
別にもう一度説得しようというつもりは無い。
だが、あのままにしておく...そう考えると、どうしても嫌な予感が
付きまとってくる。
商売柄か、因果な性分だと思いつつも、とりあえず、と言わざるを
えない行動を、一刻堂はとっていた。
もう一度、あの屋敷の近くまで来ているのは、別にそんな抽象的な
理由だけでは無かったが、屋敷に近づくにつれ、先に感じたものとは
また違う、奇妙で、漠然とした嫌な予感を感じるようになってくる。
出所の分からないそれに突き動かされるように、彼は少し足を早め
た。
間もなく、昨日通った門が見えてきた。
だが、それを見た瞬間、一刻堂は嫌な予感が強くなるのを感じた。
ーー門が、開け放たれているーー
門の前まで行き、中を確かめる。
庭は、特に変わった様子はなかったが、屋敷の入り口は閉ざされた
ままだった。
「・・・・・・?」
一刻堂は眉をひそめると、庭に足を踏み入れる。
閉じられた入り口を避け、庭を通って屋敷の奥へ向かおうと少し歩
いたあたりで、彼は地面に奇妙なものを見つけた。
赤茶けた、だいぶ薄れている、何かのこびりついた様な跡。
けして大きくはないそれは、元の形状もよく分からないが、頭を上
げて周囲を軽く見渡すと、それは奥の方から点々と続いていて、その
間隔から、どうやら足跡らしいという事が分かった。
それを辿っていくと、次第に足跡らしい、はっきりとした形状を持
ち始める。
どうやら草履か何かの跡らしい。おそらく成人男性のものだろう。
だがまだ分からないのは、この赤茶けた付着物である。
おそらく、”これ”に浸った履き物で歩いた結果だろう。
しかし、この足跡を辿るにつれ、一刻堂は、嫌な予感がどんどん現
実味を帯びていくのを感じていた。
間もなく、足跡は家屋の中へと戻っていく進路をとった。
一刻堂はそこで頭を上げたが、その瞬間、彼の中で漠然としていた
予感が確信に変わった。
すぐそこの障子戸の中から縁側にかけて、おびただしい鮮血が吹き
出されていた。
その大量の血痕の中に、先ほどから見ていたのと同じ大きさ・形の
足跡があった。
障子戸は、中の状態を覆い隠すように閉じられている。
この血が吹き出した時は開いていたのだろう。開けた時、内側から
見て隠れそうな部分の障子紙だけが、きれいに白いままである。
下部三分の一ほどが赤茶けた色に染まっている障子紙を見ると、一
刻堂は下駄のまま縁側に上がり、足跡と重ならないように立つと、障
子戸に手をかけた。
そのまま開けようとするが、滑りが悪いのか、なかなか開かない。
思い切って力を込めて引くと、戸はがらっと開いた。
次の瞬間、目の前に広がった光景を、彼の脳は一瞬受け入れる事を
拒否した。
商売柄、何度か人間の死体も見たことはあった。
だが、ここまで『生きているとは思えない』、いや、むしろ『生き
ていてほしくない』とすら思えてしまう様な死体は、今まで見た事が
ない。
普通『斬り殺そう』とする場合は、胸や腹、首など、急所で尚かつ
比較的斬り易そうな所を狙うと思っていた。
だが、目の前の死体達は、斬り方がまるで滅茶苦茶だった。
左肩から鎖骨を通って左脇の途中まで、また別の死体は、左大腿部
から右脇にかけてがスパッと斬り離されている。
肩口から顔の上半分ほどだけ、少し離れた所に落ちていたり、たく
さんの傷に囲まれて、腹部だけが抜け落ちてしまっていたりする。
何の印も模様もない、一枚の紙きれか何かを渡されて、これを何で
もいいからとにかく適当に切り刻んでくれ、と言われたら、おそらく
こんな感じになるかもしれない。
一つ一つの死体が、そんな感じの傷...というより切り放し跡を、数
えるのが嫌になるくらい無数に刻みつけられていた。
もしこれを警察が見て、鑑識か誰かが、遺体の状況を文章でも記録
しなければいけない事になっているなら、その人は相当苦労するだろ
う。
すぐ目の前に転がっているのは、どうやら九条の大部分らしい。
すぐ向こうには奥方らしい大体の形が見える。血溜まりの中には布
団らしい物が見える。ここは寝室だったようだ。
向こう側の襖が開けられ、その辺りに何人分かのパーツやかたまり
が見える。おそらく悲鳴を聞きつけてきた使用人や他の家族だろう。
今にも崩れ落ちそうになる意識をなんとか支えながら、おそらく生
存者はいないだろうという事はなんとか確認できた。もし誰か隠れて
いたなら、今の時間にはとっくに入り口を開け放して逃げ出していた
だろう。
とりあえず、庭に目線を移して一息つく。
すると、向かって右側のやや奥、木の影あたりに何かが転がってい
るのが見えた。
ーーあの刀を収めていた箱だ。
近寄って見てみると、蓋は開け放たれ、中敷きの布と、刀を縛って
いた縄だけが周囲に残されていた。
「・・・・・・?」
それを見た一刻堂は、頭を上げ、辺りを見回した。
すると、庭の隅に、庭師か誰かが使うのであろう、逆さに立てかけ
られた一台の台車を見つけた。
それは何故か、片方の車輪だけが、きれいにスパッと真っ二つにさ
れていた。斬られた部分は近くに落ちている。
庭は、他に変わった所も物も何一つ無い。
すると、一刻堂は急いで先ほどの部屋まで戻り、注意深く部屋の中
を観察し始めた。
部屋の中は、壁の下半分ほどまでが隙間無いほど赤茶色に染められ
ていて、部屋自体の様子を探るのは難しかったが、置いてある物も少
なく、特に変化らしい変化は見られない。
「...やはりそうか...。」
一刻堂は、それだけ呟くと、今度はゆっくりと障子を閉め、眼を閉
じて祈る様にしばらくそこに立ち尽くしていた。
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