鬼太郎小説vol.1
狂剣の記憶(2)
なんでこんなに人が多いんだろう。
今日は「平日」のはずなのに。
おかげで自慢の駿足もあんまり役に立たない。
時間に遅れちゃったのは自分の不注意だけど、こうも行く手を遮ら
れるとさすがにイライラしてくる。
人の流れの中をなんとかすり抜けながら、猫娘は必死に約束の場所
まで急いでいた。
もうすぐ、確かここまで来れば見えるはず...。
あれ?
背の高いスーツの男性の間から、目的の場所をようやく目で確かめ
ると、そこと思われる場所には、数人の若い男が輪を作って立ってい
る姿しか見受けられなかった。
...帰っちゃったのかな...?
そう思ったのとほぼ同時、輪の中からふいに「あ!」という若い女
性の声が響いた。
次の瞬間、その輪の隙間をするりと抜けて、身軽なファッションに
身を包んだ美しい女性が中から飛び出してきた。
「猫娘ちゃん!」
「あ...琥珀ちゃん!?」
遠巻きに見ているさっきの男達には見向きもせずにやってきた彼女
は、髪を纏める布こそ同じだったが、普段の清楚な和装とはまるで違
う、実に身軽で、即ち露出の高めな服装でばっちり決めていた。
上半身は白のブラトップに、薄手のスーツのような短めの白い上着
を羽織っただけで、下半身は黒の短い半ズボンという、実に必要最低
限だけといったいでたちである。彼女の和装姿しか見た事のない者の
目には、さぞかし刺激的な姿に写っただろう。
どうやら、猫娘もその一人だったらしい。
「...こ...琥珀ちゃん...どうしたの...?そのカッコ...」
「ん?ああ、そういえば見せるの初めてだっけ。私、本当は動き易い
格好の方が好きなんだ。だから個人的な様の時なんかはこんな格好な
の。和服じゃあどうにも窮屈って言うか、ちゃんとした時以外はあん
まり着る気しなくなっちゃって」
「...ふ〜ん...」
最初はちょっとびっくりしたが、よく考えてみれば、確かに自分の
知っている彼女には、こういうアクティブな服装の方が似合うかもし
れない。あ、でも和服の似合う美人だって言って喜んでた子泣き爺あ
たりはがっかりするかも。それとも別の意味で喜ぶかな?ーーなどと
考えながら、猫娘は歩き出そうと琥珀に促した。
「あ、そういえばさっきの人達は?知り合い?」
「ううん、全然。なんかさっきからあそこに立ってたら、知らない男
の人が何回も入れ代わり立ち代わり話しかけてきたの。一緒にどっか
に行こうとか、ちょっと話聞いて欲しいとか言って名刺渡されたりと
か...。面倒くさかったけど、待ち合わせ場所動く訳にはいかないし...
あ、別に猫娘ちゃんのせいじゃないからね!私もちょっと早く来過ぎ
てたし...」
「あ、ううん、気にしないで。...あ、そういえば遅れちゃってごめん
ね。ちょっと寝坊しちゃって...」
「ううん、大丈夫」
そう言って微笑んだ琥珀は、実に楽しそうに見えた。
確かに、彼女はめったに見ない美人である。それに、以前は和装だ
ったからよく分からなかったが、こういう露出の高い服を着ていられ
ると、抜群のプロポーションをしている事もはっきり見てとれた。
比較的背の高い身体は全体的に細身だが、出る所だけはちゃんと形
良く出ている。締まる所もきゅっとくびれて、全身が綺麗な曲線を描
いてるという感じだ。露出された肌も透ける様に白くて、眩しさすら
感じさせる。
猫娘は、なんだかため息が出てしまった。
「...琥珀ちゃんって...本当キレイよね...」
「...え!?どうしたの?急に?別にそんな...」
突然出された呟きに、琥珀は思わず面食らってしまった。
「あ...ううん...!ちょっと思っただけなんだけど...」
それだけ言うと、猫娘はすっと目を伏せた。
「...猫娘ちゃんも可愛いわよ?」
「...え!?そ、そんな事ないわよお!!琥珀ちゃんの方が全然...」
「あ、そうだ!可愛い服でも見に行かない?猫娘ちゃんきっと似合う
わよ!」
「え...ええ!?」
思わず困惑して立ち止まってしまった猫娘の顔色とは裏腹に、琥珀
は楽しそうに話を進める。
「女の子って、服装変えるだけでも随分変わるもんよ?元々可愛けれ
ばなおさら、ね。見るだけでも行ってみない?」
そう言ってにっこり笑いかける琥珀の顔を見ながら、猫娘は少しだ
け困った顔をしていたが、正直な気持ちとしては、なんとなく、でも
なんだかすごく興味を惹かれた。
「...似合う...と思う?そういう格好...ってさ...」
照れくさそうに猫娘がそれだけ言うと、琥珀は嬉しそうに微笑み返
した。
「ぜーんぜん大丈夫よ!可愛いコは何着ても似合うもの。たまに雰囲
気変えてみたら、みんな驚くわよ。いい意味で」
「あ...そう...かな...」
頬を赤らめながら呟く猫娘を見て、琥珀はそっと彼女の手をとって
再度声をかけた。
「ね、行こ?」
「あ...うん...!」
そのまま、二人は再度歩きだした。
「...う〜ん、と...どこがいいかなあ...」
ああは言ったものの、琥珀もさほど服の店に詳しい訳ではなく、結
局二人できょろきょろ歩き続ける状態になっていた。
「あ、ああいうデパートなんかどうかな。お店もいっぱいあるだろう
し...」
琥珀が先を指し示した時、ふいに前方から歩いてきた人影ととん、
と肩がぶつかった。
「あ、ごめんなさい...ん?」
「...あ〜〜、こちらこそ〜...」
男の声がそれだけ言うと、その相手はふらふらとそのまま振り向き
もせずに歩いていった。
「ん...何この臭い...」
顔を半分押さえた琥珀が呟くと、それに押される様に猫娘は相手の
方へと振り向いた。この臭いには覚えがあった。
「...ねずみ男?」
振り返った先には、確かに思った通りの小汚い黄色い後ろ姿があっ
た。
だが、その背中はやけにふらふらとしていて、足取りも妙に頼りな
さげだった。擦れ違おうと思ったら注意が必要そうだ。
最初はまた腹でも空かせているのかとも思ったが、猫娘はどうもい
つものふらつきとは感じが違う気がした。
いつもなら、場所もわきまえずにいきなり倒れ込みそうな位危うい
足取りなのに、その足を懸命に前へ前へと進めようとしている様に見
えた。
こんなにふらふらになってもなお、何かの目的のために必死になっ
ているのだとしたら、猫娘はねずみ男のそんな姿を見るのは初めてだ
ろう。
それに、琥珀の様な美人と擦れ違ったにも関わらず、関心のかけら
も示さなかったねずみ男というのも初めて見た。間違いなく。
ーー絶対、ただ事じゃない。
「琥珀ちゃん、ちょっとごめん」
そう言ってふっと琥珀の元から離れると、猫娘はねずみ男の背中に
声をかけた。
「ねずみ男?どうしたのよ、そんなふらふらして...」
猫娘の声が耳に入ったらしく、ねずみ男はふいに足を止めると、ゆ
っくりと、なんとか顔をそちらに向けた。
「...あ〜〜、ね...猫娘...かぁ?」
その顔を見た猫娘は、思わずぎょっとした。
ねずみ男の顔は、以前一週間断食状態だった時の数倍はやつれてい
る様に見えた。だが、猫娘の顔を見た時の目には、安堵にも似た光が
宿っていた。
「ちょっ...ど...どうしたのよ!?おととい見た時は全然元気だったじ
ゃない!その顔...!」
「それどころじゃねえんだよぉ...!大変な事になっちまってよぉ...!
は...早く鬼太郎に知らせねえと...!」
そう言いながら、ねずみ男は必死の表情で猫娘に歩み寄った。
「ちょっ...ちょっと待ってよ!何があったのよ!?」
思わず2、3歩後ずさりながら、猫娘は事情を聞き出そうとした。
追い付いた琥珀もそのつもりになっていた。
聞かれたねずみ男は、ぴたりと足を止めた。だが、まるでそれが何
かのスイッチになったかの様に、ねずみ男の顔からみるみる血の気が
引いていったのが、二人にもはっきり分かった。
「化けもんだ...あいつぁ...あいつぁおっそろしい化けもんだよぉ...!
あんな...あんな奴が目ェ覚ましちまうなんてよぉ...!!」
突如真っ青な顔で取り乱し始めたねずみ男を、猫娘は慌てて抑えよ
うとした。
「え...ちょっと、どうしたの?あいつって誰?」
「あ...あいつ...あいつは...う...っぷ...!!」
ねずみ男は突然口を押さえてうずくまってしまった。
「えっ、ちょっ、吐きそう!?だ、大丈夫なの!?」
「う...っく...だ...大丈夫だ...ちょっと...思いだしちまって...」
猫娘と琥珀も、背筋に冷たい汗が流れるのをふいに感じていた。
「あ...ねえ...目を覚ましたとか言ってたわよね?あんた...また何か変
なモノでも起こしちゃったの?」
「ば...馬ァ鹿言ってんじゃねえや!!いくらオレでも自分からあんな
モンに触ったりなんかしねえよ!!脅されてたんだよォ!!人質だっ
ていたし...!!」
「人質...!?」
猫娘の言葉に思わず激昂したねずみ男だったが、また彼女の言葉に
大事な事を思いだし、はっとなった。
「そう...!そうだよ人質だ...!大変なんだよぉ...オレがよく世話んな
ってる...二宮の旦那って人がよぉ...!」
「...ニノミヤ...!?」
今まで聞き手に回っていた琥珀が、ふいに顔色を変えた。
「は...早くなんとかしねえと...その人まで...!」
「ちょ、ちょっと待って!」
突如、琥珀が猫娘とねずみ男の間に割って入ってくると、真剣な顔
つきでねずみ男に問いかけた。
「その...ニノミヤって人...もしかして...『ニノミヤ シンヤ』って言
わない?」
「...へ...?お...おい猫娘ぇ...この姉ちゃんお前の知り合いかぁ...?」
突然の事に、ねずみ男も少しうろたえた。
「あ...うん。琥珀ちゃんて言って、ほら、あの一刻堂さんの...」
「ねえ!どうなの!?」
琥珀がずいと迫った。
「あ...へい!へい!...え〜〜とお...シンヤ...?...いやあ...確か二宮
の旦那は...もっと女っぽい名前だったと思ったけどなぁ...」
「...女っぽい...?」
琥珀は眉をひそめた。
「え〜と...確かこのへんに...前もらった名刺があったと...あ、あった
あった。え〜と...」
そう言って、ねずみ男は懐から、もう十年近くは前の物ではないか
と思うくらいくすんで汚れた名刺を取り出した。
「ああ...やっぱりそうだ。旦那は『マヤ』だか『マヨ』だかいう名前
だよぉ...あんたの言ってる人とは違うなぁ...」
「ちょっ...ちょっと見せて...?」
琥珀も、横から黒ずんだ名刺をのぞき込んだ。
そこには、真ん中に大きく明朝体で、『二宮 真夜』と書かれてい
た。
「...あのね...シンヤくんはこれで”しんや”って読むの...。ほら、こ
こに振り仮名ついてるでしょ?」
「へ...?」
微かなため息をついた琥珀が指さした箇所を見ると、名前の横に小
さく『Ninomiya Shinya』と書かれていた。
「へ?...ああこれ振り仮名だったのかあ...オレぁてっきりなんかの英
語かと思ってたよぉ...」
「知り合いなの?でも、よく分かったわね?『二宮』なんて特別珍し
い名前でもないのに」
無学なねずみ男は無視して、猫娘は琥珀に聞いた。
「ああ...真夜くんが前、生き倒れてた半妖怪を助けたって言ってたか
ら、もしかしてと思って...ってそんな事より!!」
琥珀はいきなりねずみ男の両肩をがっしと掴んだ。
「ねえ、どういう事!?どうして真夜くんが人質なんかに!?一体誰
がそんな事したのよ!?」
「おおお、落ち着けってえ!!ぬ、ぬらりひょんだよお!!全部ぬら
りひょんの奴の仕業なんだよお!」
琥珀の剣幕が、ふいにぴたりと治まった。
「...ぬらりひょん...?」
「そ...そうなんだよぉ...!あいつ...妖怪には危険だからって...半妖怪
のオレに化けもんの封印を解かせたんだ...人間の旦那はちょっとへば
っちまってし...でも...オレもあの封印に触ってから...なんか全然力出
なくなっちまって...」
「そっか...その封印の力にあてられちゃってたのね...それでも、そん
な体でなんとか逃げ出してきたの?」
今度は猫娘が問いかける。
「ああ...なんか妖力も使えなくなっちまったからな...なんとかオレが
自力で鬼太郎に伝えねえと...ほっといたらとんでもねえ事になっちま
うし...二宮の旦那だって...い...いててててて!?」
ねずみ男は突然悲鳴を上げた。ふいに両肩に激痛が走ったからだ。
見ると、その肩をしっかり捕まえている琥珀の指がぎりぎりと食い
込んできていた。当の琥珀は、顔を下げていて表情は分からなかった
が、持ち上がった本人の肩がふるふると震えていた。
「...あいつ...性懲りもなく今度は何するつもりよ...今度は真夜くんま
で巻き込んで...!」
「いていていてててて!!ぎぶぎぶぎぶだって!!はっ、はなしてく
れよぉお!!」
「...ちょっ、ちょっと琥珀ちゃん...。」
本気で叫びだすねずみ男を見兼ねて、猫娘は間に入ろうとした。だ
が琥珀の剣幕はそれでは収まらなかった。
「...どこなの!?連れてって!!」
ふいにすっと顔を上げると、琥珀は怒りの篭った顔でねずみ男にす
ごんだ。
「え...ええ!?ちょっ、ちょっと待ぁてってぇ...!!そんな危険過ぎ
るぜぇ!?まず鬼太郎に知らせねえと...」
「危険だってなら誰が行っても同じよ!!それに知らせに行ってたら
時間もかかるでしょ!!」
「こ...琥珀ちゃん!落ち着いて!」
あまりの勢いに、猫娘は琥珀の肩に手を伸ばして彼女を制そうとし
た。
猫娘の手が触れた瞬間、琥珀ははっと何かを思い出したような表情
に変わると、ゆっくりと乗り出していた身を引いた。
「...あ...ごめん...猫娘ちゃん...ちょっと興奮してたかも...」
「ううん...大丈夫?...あ...真夜...さんて、友達?」
「あ...うん...」
そう答えた琥珀の目に、またちらりと焦りの色が浮かんだのが見え
て、猫娘は少し考えた後、また口を開いた。
「鬼太郎には、猫を見つけて知らせてもらいましょ。今は急いだ方が
いいかもしれない」
猫娘の思わぬ言葉に、琥珀は目を見開かせた。
「...猫娘ちゃん...」
「おっ、おぉい!!なぁに言ってんだよ猫娘ぇ!!鬼太郎も一緒じゃ
ねえと危ねえっての!!おいこら!!」
「...あ...ごめんね...今日は...一緒に遊ぶはずだったのに...」
「ううん、非常事態だもん。しょうがないわよ。また今度、一緒に出
かけよ!」
そう言って、猫娘はにっこりと笑顔を見せた。
必死に叫ぶねずみ男を無視して、二人は無事に意見をまとめた。
「って、おいこらぁ!!」
「大丈夫!こっちは意見が一致したから!さ、どっち!?こっちだっ
たわよね!?」
そうまくしたてながら、琥珀は先ほどとは逆方向へ向かって、ねず
み男を引きずって走り出した。
猫娘も、やはり頭に血が登り気味の琥珀が少し心配になったので、
連絡は途中で出くわすであろうどこかの猫に任せて、自分もついて行
く事にした。
人の手もあまり加わっていないようなうっそうとした山の奥に、ど
ういう訳か、風情すら漂わせる古い日本家屋が建てられていた。
それもその筈、と言うべきかどうかはこの場合定かではないが、こ
の屋敷の持ち主は人間ではないのである。
その屋敷の敷地内、塀で囲われた庭の端の方に、ちょこんとあると
いう表現がぴったりの小さな物置小屋があった。
その中に、ある意味場違いとも言える、スーツ姿の男...二宮真夜が
転がっていた。
両腕を後ろ手に縛られた状態で、横向きに寝転がる姿勢のまま、彼
は動かなかった。いや、たまに寝返りをうつ事はあった。
彼はーー寝ていた。
最初ここに放りこまれた時は、まだ気を失っている状態だったのだ
が、気がついた時にはもう縛られていて、今までの経緯からして自分
の身に何が起こったのかを大体判断した後、一応縄をとく事は出来な
いか、ここから抜け出せないかと色々考えてはみたが、結局無駄だっ
た。
物置とはいえ、刃物類などは一切見あたらず、唯一の出口もつっか
えでもしてあるようで開かない。体あたりしてみた所で、この板戸が
壊れる前に音で向こうに気づかれてしまうだろう。
結局、そういう結論に達した彼は、今の自分にはできる事はないと
悟り、それは逆にいえばする事もないのだと察した。結果彼はーー、
寝ていた。
下は土が剥き出しになっているので、さぞや寝にくいのではないか
と思われるが、ぐっすりとよく寝ている。
ふいに、戸口のすぐ向こうから、がた、がた、と音がすると、直後
ぎしぎしと危うい音を立てながら戸が開いた。
「夕飯ですよ〜」
そう言いながらお膳を持って入って来たのは、真っ赤で非常に大き
な顔を持った妖怪ーー見るからにーーであった。
胴体よりも大きい真っ赤な頭には、てっぺんに一本の角まで生えて
いて、目玉もぎょろりと大きい。奇妙な笑顔のように耳の方へ裂けた
口からは、尖った牙が覗いている。
だが、今はその口からは鼻歌が漏れ、短い両腕で持ったお膳を準備
しているその姿には、愛敬すら感じられた。
「...ん...うん...?...あれ...?」
がたがたという音で目が覚めたのか、背中を向けていた戸口の方へ
寝返りをうつと、真夜はうっすらと目を開けた。
「あ、起こしちゃいました?よく寝てたみたいだったからどうしよう
かと思ったんですけどねえ。朝も昼も眠ってて何にも食べなかったか
ら、お腹空いてるんじゃないかなあと思って〜」
話を聞きながら、真夜はひょいと身体を起き上がらせた。
「あれ、ちゃんとご飯も食べさせてもらえるんだ?へ〜なんか悪いね
え、ただでなんて」
「あ、はい、ぬらりひょん様に、ちゃんと生かしておけって言われて
ますから〜」
「...あれ、さっき朝も昼も食べなかった、って言ってたよね?それじ
ゃもう夕方...?...あ〜、随分寝てたんだなあ。久しぶりだなあ、こん
なにゆっくり寝たの。最近仕事が立て込んでたからなあ」
そう言いながら、真夜は首を軽く鳴らした。
ふと明かり取りの窓の方を見てみると、空が赤く染まり出している
のが見てとれた。
「は〜、人間の生活って大変なんですねえ。まあゆっくり寝れて良か
ったですねえ」
まるで人質とその見張りとは思えないような会話をしながら、妖怪
は食事の支度を整えた。
「はい、どうぞ〜」
「へえ、ありがとう。やっぱ食べなかったからお腹減ってるなあ」
真夜もお膳の前に座した。
妖怪も、お膳を挟んで向き合うような位置で座っている。
「......」
しばし、そのままで沈黙が続いた。
「...あ〜、あのさあ」
「はい?」
「わざわざ用意してもらったうえに悪いんだけどさあ...食べる間だけ
でも、この縄解いてもらえないかなあ...?」
そう言ながら、真夜は縛られた両手をもぞもぞと動かした。
「え〜?駄目ですよう。ぬらりひょん様に、絶対に縄を外すなって言
われてるから〜。...あ〜、でもぬらりひょん様、ちゃんと生かしとけ
って言ってたしな〜。あ〜どうしよう〜」
そんな事を呟きながら、妖怪は大きな頭を抱えて考え込んでしまっ
た。
真夜は、そんな妖怪を黙って見守るしかなかった。
「あ〜、そうだ〜!」
そう言うと、妖怪は膳の上の真夜の目の前に置いてあった箸を手に
とって、空いた左手でご飯を持った。
「...?」
真夜も何をする気かと見ていると、妖怪はご飯を箸でとると、それ
を真夜の前にすっと差し出した。
「はい、どうぞ〜」
こうやって食べろという事らしかった。
「......」
少しの間沈黙していた真夜だったが、やがてゆっくり顔を近付ける
と、差し出されたご飯を口にした。
「おいしいですか〜?」
「あ、うん。ありがとう...」
「よかった〜」
妖怪は嬉しそうに微笑んだ。
真夜も、少し照れたように笑ってみせた。
「次は何食べます〜?」
「あ、それじゃその煮物を」
「はいはい〜」
なごやかな食事風景が続いていた。
そんな時だった。
「朱の盆!!」
突然、大声を上げながら屋敷の主ーーぬらりひょんが入ってきた。
「ぬらりひょん様、どうかなさいましたか〜?」
朱の盆と呼ばれた妖怪は、主の剣幕にも関わらずゆっくり振り向い
て答えた。
「どうかしたじゃない!ねずみ男のやつはどこへ行った!?」
「ねずみ男?いいえ、見てませんけど〜」
「...ねずみ男君...?」
ぬらりひょんの言葉を聞いた真夜は、少し目を丸くしてそちらの方
を見やった。
「馬鹿もん!!見とらんならいなくなったという事だ!!あいつめ...
逃げ出しおったな?」
「ええ〜!?大変だあ!鬼太郎にでも知らされたら〜!」
「馬鹿もん、奴さえおれば鬼太郎ごとき恐るるに足らんわ。まあ、先
手を取られでもしたら面倒なのは確かだがな。よし、早めに行動した
方がよさそうだ。ゆくぞ朱の盆!」
「あ、はい!あ、でも〜、あの札はねずみ男が持ってましたよ〜?そ
れであいつは言う事聞くんでしょうか〜?」
「ふん、言わねば分からんわ。第一、奴に嘘を見抜くような頭などあ
るまい。ゆくぞ!奴を連れてくるのだ!」
そう言われた瞬間、朱の盆の赤い顔からさあっと血の気が引いた。
「...え、ええ〜〜!!そんなあ、怖いですよう〜〜!!ぬらりひょん
様行ってくださいよう〜!!」
「ば、馬鹿もん!!大丈夫だと言っておるだろうが!!さっさと行っ
てこい!!」
「え〜、大丈夫だっていうんなら行ってきてくださいよう〜!私待っ
てますから〜」
「お、お前!!わしに指図する気か!!いいからさっさと連れてこん
か!!」
「ほ、ほわあ〜〜い!!」
ぬらりひょんの剣幕に押されて、朱の盆は泣く泣く小屋を飛び出し
ていった。
「ふん...ねずみ男のやつめ、あんな体で逃げ出すとはな。まあ人間一
匹の人質くらいでおとなしくしている奴などとは思ってはいなかった
がな。相変わらず薄情な奴だ...」
呟きながら、ぬらりひょんも物置を後にした。
「......」
真夜は、相変わらず目を丸くしたまま、何も言わなかった。
広く作られた庭の脇を、ぬらりひょんはすたすたと早足で歩いてい
た。
突然、その足がぴたりと止まると、ぬらりひょんは首は動かさずに
視線だけを僅かに巡らせた。
「......」
ほんの二、三秒程そうしていたかと思うと、またすたすたと歩き出
した。
そのまま行くと角に突き当たり、左に折れると門の正面に行く事が
できる。
ぬらりひょんはまっすぐ角まで向かい、道に従い左に折れた。
途端、静かになった。
微かに、風がそよぐ音だけが聞こえた。
突然、門の外、五メートル程先のあたりで、きいんと金属同士がぶ
つかり合うような鋭い音が響いた。
続けて、間をおかずにその音の発生したあたりから、影が二つ、正
反対の方向へ弾ける様に現れた。
二つの影は、音もたてずに着地すると、黒と白の二つの人影に姿を
現した。
一つは黒い羽織ーーぬらりひょん。
もう一つは透けるような白い肌に、白とも銀ともとれぬような長い
髪ーー琥珀である。
「ーー意外と敏感ね」
「ーー何者だ」
ぬらりひょんは、いつのまにか抜いていた杖の仕込み刀を琥珀に向
けるようにばっと振り向くと、威嚇する様に三歩分ほど離れた位置の
彼女を睨みつけた。
「心当たりが無いとは言わせないわよ。ーー真夜くんは何処?」
ゆっくり立ち上がりながら、振り返りざま琥珀もきっと睨み返す。
「ぬらりひょん!また性懲りもなく何するつもり!?」
琥珀の怒りの込もった瞳を見て、ぬらりひょんはようやくその視線
に見覚えがる事を思い出した。
「ああ、貴様はあの陰陽師の...。ふん、貴様ごときに何ができる」
鼻で笑う様に言い放つと、ぬらりひょんはちらりとだけ屋敷に視線
をやり、またすぐ琥珀を見据えた。
「いや、あの男とて同じ事だ」
「何だって?」
「人間ごときになめられたままでは終わらんと伝えておくがいい。わ
しを虚仮にした報いを思い知れとな」
ぬらりひょんの言葉に、琥珀はふん、とだけ返すと、右手に少しず
つ力を込めながらすっと一歩前へ歩み寄った。
「虚仮にしたも何も...自業自得じゃない。勝手に敵視されてもこっち
には関係ないわ。それに...どのみちあんたの企みなんて大した事じゃ
あないだろうし」
「...何だと?」
くっと目を細めながら、ぬらりひょんも刀を持った右手に力を入れ
た。
張り詰めたような静寂が辺りに訪れた。だが、それはほんの一瞬の
事だった。
先に仕掛けたのはぬらりひょんの方だった。踏み出して一気に間合
いを詰めると、横一文字に一閃斬りつけた。
だが、琥珀はその太刀を一瞬早く見切り、のけぞる様に剣先をかわ
すと、そのまま地面に手をつき、バック転するように勢いよく足先で
ぬらりひょんの顎の下を蹴りあげた。
「ぐ...っ!」
刀が空を斬った隙をつかれて、ぬらりひょんは一瞬うめき声をあげ
た。
だが、琥珀の動きはまだ止まってはいなかった。手元を軸に反対側
に着地した足で、今度は横向きに足元を蹴り、地面と水平に回転する
ように身をひねってぬらりひょんの脚を蹴りつけた。
思わぬ方向からの攻撃を受けて、抗う間もなくぬらりひょんはどっ
と倒れこんだ。
それを確認するかのように、ほぼ同時に琥珀はようやく動きを止め
て着地し、すっくと立ち上がってぬらりひょんを見下ろした。
「...す...すげえ...!!...すげ〜じゃんかよあのねーちゃん!!一体何
もんなんだあ!?」
「しっ!静かにしなさいって言われたでしょ!見つかるわよ!」
近くの茂みの中から、身を潜めていたねずみ男と猫娘が状況を伺っ
ていた。
少し前に、ようやくこの屋敷までたどり着いた一行だったが、誰か
の近づいてくる気配を感じた琥珀は、二人に隠れるように言い、自分
は塀のすぐ脇で様子を見ていた。だが相手ーーぬらりひょんにも感づ
かれてしまい、互いの隙をぬうようにぶつかり合った結果がああだっ
た。
「でも...あのねーちゃんがいれば...まじで二宮の旦那も助けられるか
もしれねえな...ぬらりひょんも敵じゃねえもんな...!」
「そうね...後はうまく隙を見て屋敷に忍び込みましょ」
二人が見守る先で、ぬらりひょんがゆっくり起き上がる様が見てと
れた。
「...っ...く...!」
「...貴様ごときに何ができる...だっけ?その「ごとき」に太刀打ち出
来ないあんたは何?...私たちを甘く見ない事ね」
ぬらりひょんは何も言わず、ただじっと琥珀を睨みつけていた。
琥珀も睨み返すと、構えるように軽く身を屈めた。斜め下に伸ばし
た右手に力が入る。
互いに出方を見計らっているのだろう。寸分も動かない。
ねずみ男と猫娘も、思わず息を詰めて身を固くしている。
今度は、先に動きがあったのは琥珀の方だった。ぴくりと右手が動
いたかと思うと、ふっと脚を踏み出す姿勢に入った。
次の瞬間だった。
突然、ぬらりひょんがばっと横飛びに倒れこんだ。
それとほぼ同時、琥珀の腹から斜め一文字に血が吹き出した。
「......!!?」
猫娘とねずみ男は、息が詰まるのと同時に目を疑った。直後、自分
達からも血の気がさあっと引くのが分かった。
真っ赤な血を流しながら、琥珀はバランスを崩すように後ろへ倒れ
こんだ。心なしか白い肌がますます青白くなっていくように見えた。
「ば、馬鹿もん!!わしまで真っ二つにするつもりか!!」
突然、ぬらりひょんが自分の後ろに向かって怒鳴りたてた。
その声を聞いて猫娘ははっとなると、思わず茂みを飛び出して琥珀
の元へと走り寄った。
「こ...琥珀ちゃん!!」
琥珀は、なおも血を流し続けている腹を押さえながら、ゆっくりと
立ち上がろうとしていた。その顔から苦痛の色を読み取るのは、誰の
目にも容易な事だった。
「...だ...駄目よ...!!...来ちゃ...!!」
声を出すのも辛そうだったが、それでも琥珀は猫娘に向かって訴え
かけるのをやめなかった。
「で...でも...!」
懸命な琥珀に手を差し伸べようとしたその時、猫娘は急に背筋がび
んと張り詰めるのを感じた。
「...何...?」
それは本能的に身体が危険を感じ、張り詰めたという状態である事
は猫娘自身にもすぐ分かった。
それとほぼ同時、先程ぬらりひょんが怒鳴りつけた方向ーー塀の角
の向こうから、なんだか異様な気配が漂ってくるのが感じられた。
殺気とはまた違う、だが妙に物騒な、明らかに危険で強烈な気配だ
った。
恐怖はあったものの、殆ど反射的に猫娘は振り返っていた。琥珀も
そちらに視線を注いでいた。
すると、塀の角の部分が、突然切り落とされたように斜めにずるり
とずれ落ち、ごおんと音をたてて地面に転がった。
すっぱりと斬られたようになくなった塀の角の向こうに、着流しの
男が立っていた。
猫娘は、その男の姿を見付けた瞬間、額に冷たい汗が伝ったのを感
じた。
ゆっくりと近づいてくるその男が、この異様な気配の元である事は
すぐに分かった。
くすんだような濃い茶色の着流しに身を包み、長い黒髪を後ろ頭で
一本にまとめたその男は、真っ直ぐにこちらを見据えながら、無表情
に塀を通り過ぎた。右手に一振りの刀だけを持っている。これで塀ご
と琥珀を斬ったというのだろうか。猫娘は少しだけ後ずさった。
だが、猫娘がもっと恐れを感じたのは、じっとこちらに向けられて
いる男の眼だった。
見ているといっても、睨んでいるとか獲物を品定めしているといっ
た感じではない。言ってしまえば、ただ見ているだけのようだった。
だが、男の視線はぴくりとも動く気配を見せなかった。ただじっと
こちらの姿を捕らえたまま、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。手に
した刀だけが、夕日をうけてぎらぎらと光を放っていた。
少しずつ近づいてくるにつれ、猫娘は男の眼にまた異様なものを感
じとった。
無表情な男の眼には、表情と同じく、感情の色と言えそうなものが
一切見受けられなかった。単に無感情というより、人形のような眼と
言った方が近そうだった。ただ物の姿を捕らえるだけのためについて
いるようなそれは、見ているというより、むしろ眼がこちらに向いて
いるだけのようにも感じられた。
それでも、視線のようななにかの気配が向けられているのは感じと
る事はできた。猫娘は急に気味が悪くなった。
「...ふん...!まあいい。さっさと片付けてしまえ!」
男の後ろに位置したぬらりひょんが男をけしかけた。だが当の男は
全く聞こえていないかの様に相変わらずゆったりと歩を進めるだけだ
った。
それでも、今の猫娘には、その一歩一歩がひどく速い動きに感じら
れた。またもう一歩後ずさった。
すると、ふいに猫娘の肩に、何物かの手がぐっと置かれた。思わず
びくんとして振り返ると、腹を押さえたまま立ち上がった琥珀の手だ
という事がすぐに分かった。
「下がって...あいつは私が引き受けるから...」
白い脚まで赤く染めた琥珀は、自分に刃を振るった相手をきっと睨
みつけていた。
「...!...そ...そんな...無茶よ...!そんな怪我で...!」
まだ収まらない緊張感の中、やっと絞り出した声で猫娘は琥珀に訴
えかけた。
「...大丈夫...もうちょっとぬらりひょんの眼の動きに気づくのが遅か
ったら真っ二つにされてた所だけどね...でも、私だってまだ本気じゃ
ないんだから...」
琥珀の言葉を聞いて、猫娘は琥珀の眼を見やった。彼女はそれなり
の手傷を負ってはいたが、その眼からは未だ闘志の失われる気配は無
かった。
「私があいつと戦ってる間に...真夜くんをお願い...。背が高くて、短
いくせっ毛の男の人だから...」
「あ...!そっか。ねずみ男...!」
琥珀の言葉に、自分の役目を見いだした猫娘は、当の真夜の居場所
を知っているであろうねずみ男の方を見やった。
だが、その時のねずみ男は、顔面が蒼白を通り越して真っ白にでも
なってしまうのではないかという位、血の気の抜けた顔をしていた。
触れると冷たさすら感じてしまいそうな位白い顔をしているのに、
その顔面からは絶える事なく汗が吹き出している。硬直して、ただ震
えるしか動きを持つ事ができなくなってしまった身体は、目線が眼前
の男の方にセットされたまま固まっている。
「...で...出てきちまった...出てきちまったよお...!」
うわ言のようにそれだけを繰り返すねずみ男の方に、猫娘はなんと
か身体を動かし、駆け寄った。男が動きを変える気配はなかった。
「...ちょ、ちょっとねずみ男...!しっかりしてよ、二宮さんて人を助
けるんでしょ?」
硬直したねずみ男の身体を揺さぶりながら、猫娘は言い聞かせ続け
た。だが当のねずみ男は、蛇に睨まれた蛙の様に、こちらを見もして
いない相手に対して完全に圧倒され、足腰も立たなくなっていた。
「...だ...駄目だぁ...オレぁ駄目だよぅ...身体が言うこと聞かねえんだ
よ...!」
頼りなさげに、ねずみ男はやっとそれだけ吐き出した。
「なに..?あいつが一体どうしたの?何かされたの?」
「い...いや...オレじゃねえ...けど...と...とんでもねえヤツなんだよあ
いつぁ...!に...人間を...あんな...!」
そこまで言うと、ねずみ男はばっと顔を伏せ、両手で顔を覆った。
「...ま...まるで...大根か人参みてえに...い...いや...!...それよりも
っとだ...!...い...生きた人間を...滅茶苦茶に...もうぼろぼろに崩れち
まうくれぇ...めった斬りによお...!」
震える口で繋がれたねずみ男の言葉を聞いて、猫娘も顔を青ざめさ
せた。思わず男の方へ視線を動かす。
同様にそっと顔を上げたねずみ男は、急に息を詰めた。
「ひ...っ!!」
いつの間にか琥珀に3m程の距離に近づいていた男が、先程までの歩
の進め方からは想像も出来ないような、瞬き一つでもすれば見逃して
しまうような速さで刀を振りかぶり、それとほぼ同時と思える位の間
に、一瞬で斬り込んだ。
つぎの瞬間、猫娘たちの方までぶわっと風が覆い被さった。
先程は、剣圧だけで遠くの琥珀まで斬った程である。切っ先がこち
らに向いていなかったからか、幸い風が飛んで来るだけで済んだ。
だが問題はーー。
一瞬腕で顔を覆った後、猫娘ははっとして琥珀の方を見やった。
琥珀の姿はそこには無かった。
一瞬だけ胸がざわりとした後、ついさっきまで彼女の立っていた足
元に、まだ影が小さく残っている事に気がついた。
猫娘はその上空へと視線を走らせた。
自身の背丈の三倍ほどの高さに、琥珀は跳躍していた。
くるんと身を一回転させ、また地面へと落下していく彼女の姿は、
夕方の赤い灯の中、上昇時とは逆に次第に大きくなる影を伴いながら
殆ど音も立てずにすとんと着地した。
琥珀の動きが止まってようやく、猫娘は、彼女が本当にーーと言っ
ても少しだけーー大きくなっている事に気がついた。
変化していたのは大きさだけではなかった。彼女の全身は、夕日の
中でもはっきり分かる程、真っ白な淡い輝きを放っていた。その白の
上に、幾重にも連なる様に黒い縞が走っている。
顔には、額に縦向きに数本走る程度だったが、そのかわり、彼女の
強い光を湛えた瞳は、きっと目前の敵を見据えた眼の中を縦長に走っ
ていた。
頭の横辺りからは、三角型をした耳のようなものが覗いている。ま
るで獣のそれだったが、下半身はまさに人間のものではなくなってい
た。
関節のように曲がった部分が、白い脚の中に二ヶ所見受けられ、大
腿部らしき部分の大きくなったその脚は、まさしく猫科の獣が直立し
ているかのようだった。よく見ると尻尾のようなものまで垂れ下がっ
て見える。
「...と...虎だったのか...!?あのね〜ちゃん...?」
思いもしなかった目の前の変化に、ねずみ男も思わず目を奪われて
いた。
「そう見えるけどね...猫よ。気づかなかった?琥珀ちゃんは化け猫だ
って」
猫娘が答える。
「ば、化け猫お!?なんてこったあ...。あ...んじゃああのねーちゃ
んは...」
「そう、一刻堂さんの式神のひとりなのよ」
「...へ...へえ...お前...なんでそんなのと一緒にいたんだ...?」
「ああ、あのーー一刻堂さんと戦った後、改めてお詫びを持って来た
のが琥珀ちゃんだったのよ。その時話したら気があって...ってそれ所
じゃないわよ!!」
思わず慌てて目線を戻すと、琥珀の指先から、手と同じ位の長さの
爪がしゅっと伸びた。爪といっても、遠目にもそれは刃のような鋭い
輝きを放って見えた。
その右手をすっと眼前に構えると、ちらりと視線を猫娘の方に送っ
た。
それを見て、猫娘ははっとした。
「あ...ほら、立てる?今のうちに二宮さん探しに行くわよ!」
猫娘は横のねずみ男をせかそうと、とんとんと背中を叩いた。
だが、ねずみ男はまた男の方に目をやると、思わずぶるっと頭を振
った。
「...だ...駄目だあ...!あ...あいつの脇を通ると思うと...腰がすくんじ
まうんだよお...!」
その様子を見た猫娘は、小さく息を吐くと、琥珀の方に視線を戻し
一度だけ頷いた。
それを横目で見た琥珀も頷き返す。
それを合図にしたかの様に、男が再び刀を振りかぶった。
突然飛んでくるような鋭い刃を、琥珀は左手の爪でとっさに受け止
める。ぎいんと重い音が響いた。
それを確認した後、猫娘は切り落とされた塀の角の方へと目をやっ
た。
ぬらりひょんはいつのまにか姿を消していたが、おそらくあの向こ
うへ行ったのだろうーーそう確信した猫娘は、ばっと茂みを飛びだし
自分もその塀の向こうへ走っていった。
ねずみ男は、なす術もなくその場にへたり込んでいた。
二宮真夜は、赤い光を放ち始めた明かり取りの窓をぼんやりと眺め
ていた。
遠くの方がなんだか騒がしい気がしたが、気にしてもしょうがない
と思い、気にしない事にした。
すると、突然すぐ表でがたがたと音がし、次の瞬間にはがらがらと
勢いよく木戸が開いた。間もなく、慌てた面持ちの朱の盆が駆け込ん
できた。
「ありゃ...どうしたの?」
肩ごと体を捻らせ、真夜が問いかけた。
「すいませ〜〜ん...ちょっと隠れさせてくださ〜〜い...」
息をきらせながら、朱の盆が答えた。
「ぬらりひょん様はああ言ってたけど〜...、やっぱり巻き込まれるか
もしれないから〜!」
「え?な、何?」
真夜の問いに答える間もなく、朱の盆が思い出したように急いで戸
を閉めようとすると、外から声が響いた。
「朱の盆!何をしている!」
「ぬ、ぬらりひょん様あ!は、早く隠れてくださ〜い!」
「馬鹿もん!!何でわしが隠れなければいかんのだ!!それより念の
ためその小屋の戸締まりを厳重にしておくんだ。奴の目的はその男な
んだからな」
「ほ...ほわあ〜〜い!」
主に言われて、朱の盆は渋々小屋を出た。真夜はまた目を丸くして
いた。
「奴...?え?何?誰?え、まさか彼が...?いや、まさかねえ...」
「安心しろ、あの陰陽師じゃあないわい。まあお前の言っていた通り
薄情な男らしいな。どうやって知ったのかは知らんがーー」
「悪かったな。薄情で」
突然、ぬらりひょんの背後から、聞き覚えのある声が響いた。
「...は...?」
一瞬ざわりと胸騒ぎを感じた後、ぬらりひょんはゆっくりと振り返
った。
そこには、夕日を背にして真っ黒な影に包まれた男が立っていた。
よく見ると、ぬらりひょん同様、黒羽織に黒い着流しを纏い、足袋
に下駄まで黒い。胸元から除くじゅばんと下駄の鼻緒だけが赤く、周
りの黒を引き立てて見えた。
「ぬああああっ!!」
ぬらりひょんは思わず後ずさった。
「あ...」
目の前に現れた黒ずくめの男が誰だか確認すると、真夜も思わず声
を漏らした。
「一刻堂...?」
「き...っ、貴様!な、何故ここに..!?」
なんとか体裁を取り繕おうと、ぬらりひょんは目の前の男ーー一刻
堂を睨みつけた。
「裏戸が開いていた」
「ち...わしが聞いているのはそういう事では...!!」
「真夜、そんな所で一体何をしている」
喚くぬらりひょんを無視して、一刻堂は後ろの小屋の中に座ってい
る真夜に面倒そうに声をかけた。
「いやあ...見ての通りなんだけどねえ...」
真夜は苦笑いしながら答えた。
「は...!ま...待て...!!」
そう言うと、ぬらりひょんはいきなり小屋の中に入り込み、中の真
夜の右頬に刀を突き付けた。
「な...何かおかしな真似をしてみろ!!こいつがどうなっても知らん
ぞ!!」
「...へ...?」
突然の事に、真夜はようやく面食らった顔を見せた。
だが、一刻堂はぴくりとも表情を動かさず、相変わらず静かにその
場に立って見据えていた。
「き...聞いているのか貴様あ!!はったりでは無いぞ!!」
「...ほらあ...言ったでしょ?彼はあ〜いう人なんだって...」
真夜がまた苦笑いを浮かべながら囁いた。
「い...いいか!!見ておれ!!」
言い終わるより先に、ぬらりひょんは真夜に向けてばっと刀を振り
かぶった。
「うわあっ!?」
思わず身を捻り、真夜はなんとか直撃をかわした。振り下ろされた
刀は後ろに回された腕を掠め、両手を縛っていた縄を斬り裂いた。
痛みに顔をしかめながらも、両手が自由になった事が分かると、真
夜は慌てて懐に右手を突っ込んだ。
だが、ぬらりひょんは真夜のネクタイを捕まえると、そのまま乱暴
に己の左脇に引き寄せた。
ちょうどその時、塀を乗り越え辺りを探っていた猫娘が三人の姿を
発見した。
「あ...!」
屋敷の角を折れようとした所で三人を発見した猫娘は、思わずその
角に身を潜めた。
見覚えのある黒ずくめの男の姿にまず驚いたが、その眼前で展開し
ている様に、猫娘は焦りを覚えた。
「あの人が...きっとそうだわ...大変...!」
人質を捕られて一刻堂が動けないのだと思った猫娘は、なんとか人
質に近づけないかと策を巡らせた。
だが、次の瞬間、猫娘は面食らう事になった。
突然、一刻堂はくるりとぬらりひょん達に背を向けると、一言だけ
呟いた。
「いつまで手間取っている。さっさと片付けてしまえ」
「...は...?」
ぬらりひょんと猫娘は、ほぼ同時に呟いていた。
「な...なに言ってんのよあの人...!」
「ふ...はははっ!言ったな?よおし、なら望み通り片付けてくれるわ
あつ!!」
叫びながら、またぬらりひょんはばっと刀を振りかざした。
「あ...!!」
思わず、猫娘も飛び出そうとした。
その時。
「ひどいなあ、別に遊んでた訳じゃあないのに」
そう言うと、真夜はぬらりひょんの背中にぽん、と触れた。
次の瞬間、腕を振りあげたぬらりひょんがぴたりと動きを止めた。
そのまま、ぬらりひょんはどさりと背中から倒れ込んだ。
「...え...!?」
あっけにとられている猫娘をよそに、真夜はすっくと立ち上がると
ズボンの土を払いながら一刻堂の方へ歩み寄った。
「僕だって両手縛られてちゃあどうにもなんないって。君だって口塞
がれでもしたらそうなるだろう?」
「なんで縛られるような事になったんだ。あんな相手に」
一刻堂がため息交じりに返すと、真夜はばつの悪そうな顔をした。
「いやあ...言っとくけどそれは僕のせいじゃないよ?あれは...」
「...あ...あの〜...」
二人が会話している所に、猫娘がタイミングの悪そうな顔で入って
いった。
「ん?」
「...君は...」
二人とも猫娘に視線を寄せる。
「え〜と...あなたが...二宮真夜さん...ですか?」
真夜を指さしながら、猫娘が呟いた。
「僕?ああ、そうだけど?君は?」
「あ...あたしは猫娘っていいます...。琥珀ちゃんの...友達なんですけ
ど...」
「え?琥珀ちゃん!?琥珀ちゃんも来てるのかい?」
「君は琥珀と約束していた筈だろう。琥珀はどうしたんだね」
二人に同時に聞かれて、猫娘は一瞬焦ったが、すぐに大事な事を思
いだし、はっと顔色を変えた。
「そう!!琥珀ちゃんが大変なのよ!!変な男と戦ってて、怪我もし
ちゃってるの!!あたしはあなたを探してきてって言われて...」
「...なんだって!?琥珀ちゃんが!?ひょっとして僕のために!?」
猫娘の話に、真夜は急に真顔になった。
「あ...ええ、そう...」
突然の変わり様に、猫娘も少々圧倒された。
「よし、分かった!すぐ助けに行くよ!どっちだい!?」
「え...ちょ、ちょっと待って!そんな、危険よ!」
さっきはどうやってぬらりひょんを倒したかは知らないが、なんと
言っても目の前にるのは生身の人間である。あの刀をうけて無事でい
れるとは思えない。猫娘は思わず真夜を止めた。
「大丈夫!琥珀ちゃんの為だったら何とだって戦うさ!さ!行こう!
どっちだい!?」
「あ...は...あっち...だけど...」
「よし!!待っててくれ琥珀ちゃん!!」
勢いよく飛び出した真夜の剣幕に押されて、猫娘もちらりと一刻堂
に視線を送った後、駆け出した。
正直な話、一刻堂に来てもらえた方が安心感があった。
だが、当の一刻堂は、一つ息を吐いた後、いさんで駆けていった真
夜の背中を見送っていた。
猫娘の視界からは、一刻堂の姿はそこで見えなくなった。
(3)へ続く
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